新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
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偉人ゆかりの地巡る幕末の宇和島、歩いて体感 明治150年で記念イベント
古賀穀堂と直正
【神奈川】市が1999年設置「六道の辻通り」の石碑 なぜ違う通りにあるの?
松前藩からアイヌ有力者宛てに出された文書 ロシアで発見
戊辰150年
明治150年にあたり、幕末明治に活躍した宇和島の偉人を知ってもらおうと、愛媛県の宇和島市観光物産協会が企画している「四国・宇和島の幕末の偉人めぐり」に合わせ、ゆかりの場所を巡るイベントが7日、同市内であった。
古賀穀堂と直正
「お父さんもすごいけど、この人も傑物」。佐賀県立図書館近世資料編さん室の伊香賀隆さん(45)は、感心することしきりだ。江戸後期、佐賀藩10代藩主鍋島直正の教育係、相談役を務めた儒者、古賀穀堂である◆「寛政の三博士」の一人、古賀精里の長男。遺稿が東京国立博物館に収蔵されており、伊香賀さんら10人ほどの手で解読が進められている。難解な漢文なので埋もれたままだった。句読点を入れ、重要なものは書き下し文にする。ゆくゆくは『佐賀県近世史料』として本にまとめられる予定◆原文を読み解くうち、穀堂が若き日から気宇壮大な志を持ち、ひいては直正を通し政治の正しいあり方を実践していったさまが見えるそうだ。例えば幕末の佐賀藩が、蝦夷地など北方に強い関心を寄せていたことにも、「起点は穀堂にあった」と伊香賀さんはみる◆江戸遊学中の東北見聞を記した資料があり、経験に基づいた直正への進言が、説得力を増したことがうかがえる。幕末期の基礎資料の解読は鹿児島、山口県と比べ、遅れをとっている佐賀。読みやすくすることで小説の下地となり、いつか大河ドラマにもつながろうというものだ◆直正が考えたことの多くの源が、穀堂にあるとすれば、今回の読み解きが果たす役割は大きい。お宝からどんな新史実が飛び出すか、楽しみだ。(章)
【神奈川】市が1999年設置「六道の辻通り」の石碑 なぜ違う通りにあるの?
横浜市中区常盤町5の市道に「六道(ろくどう)の辻通り」と刻印された石碑がある。明治初期から関東大震災(1923年)まで交通の要衝として多くの人が行き交った六差路「六道の辻」にちなんで建てられたにもかかわらず、実際とは違う通りに立っている。いったい何があったのか-。 (志村彰太)
六道の辻は幕末から明治初期にかけて関内地区を埋め立てる過程でできた。横浜開港資料館の伊藤泉美・主任調査研究員は「この場所には、埋め立て地の排水のために設けた川が街区を斜めに横切るように走っていた。明治初期に川を埋め立て、六差路になったようだ」と解説する。
「中区史」は六道の辻を「にぎわいの中心的存在」である吉田橋などとつながる交通の要衝だったと記述。関東大震災後の区画整理で、現在のような交差点になった。
石碑は一九九九年、馬車道から北西に一本入った、本来の六道の辻から五十メートルほど離れた場所に市が設置した。市中土木事務所の岡哲郎副所長は「馬車道商店街から要望があったようだが、文書が残っていないため詳細は不明」と説明。歴史的に正しい場所か検証した形跡はないという。
場所が違うのは、地元商店主らでつくる「関内を愛する会」(解散)がそもそもの原因をつくったとみられる。同会は九二年三月、関内地区の市道の愛称を公募。半年後、有識者、市幹部らと共に、後に石碑が設置される通りを「六道の辻通り」とする案を採用した。馬車道商店街協同組合の山口和昭副理事長は「多数の応募から選んだと思うが、資料が残っておらず、どの程度史料を検討したかは分からない」と話す。
市のまちづくりの歴史に詳しい市都市デザイン室の担当者は「石碑は六道の辻につながる斜めの道路の跡地に近く、完全に誤っているわけではない」と唱えるものの、史料の確認が不十分だったのが真相のよう。山口副理事長は「この謎めいたところも、馬車道周辺の魅力を引き立てているのでは」とプラスに評価している。
松前藩からアイヌ有力者宛てに出された文書 ロシアで発見
今から240年前の江戸時代に松前藩からアイヌの有力者に宛てて出された公式文書がロシアで見つかり、調査に参加した専門家は「公式文書の原本としては、最も古いものと見られ、貴重な発見だ」と話しています。
この文書は、東京大学史料編纂所がロシアのサンクトペテルブルクで行った調査で見つかりました。
文書は240年前の1778年、安永7年7月に松前藩の「蝦夷地奉行」から現在の根室市にあった「ノッカマップ」というアイヌの集落の有力者、「ションコ」に宛てて出されました。
文書ではションコに対して、アイヌの人と和人が交易などを行う拠点施設の「運上小家」の管理を徹底することや、和人が海で遭難したときは手当てをしたうえで、周辺のアイヌの集落と協力して松前藩まで送り届けることなどを求めています。
北海道博物館によりますと、松前藩の文書は幕末の混乱などで多くが失われていて、今回の文書は、松前藩からアイヌの有力者に宛てて出された公式文書の原本としては、最も古いものと考えられるということです。
調査に参加した北海道博物館の東俊佑学芸主査は「松前藩が、北海道東部へ支配を及ぼした時期を解明するうえで貴重な資料で、なぜロシアに残されていたのかなどについても、今後調べていきたい」と話しています。
戊辰150年
仙台藩祖伊達政宗の生誕450年だった昨年、連載企画などで政宗とその時代を多角的に取り上げた。
その中で印象に残ったのは、東北の独特な戦国事情だ。大名同士が政略結婚や養子縁組で縁戚関係となり、紛争が起きてもほどほどの戦闘でとどめ、徹底的に滅ぼすことはない。
「冬が厳しく助け合わないと生きていけない事情もあるのだろう。白河関を境に国家観が違っていたのではないか」。政宗の一代記「鳳雛(ほうすう)の夢」を書いた作家上田秀人さんは、こう語っていた。東北には共生、共助の精神を育む風土性があるのかもしれない。
今年は「戊辰戦争150年」だ。東北が苦難の道を歩んだ戦い。あの時代と今をつなぐ多くの記事が紙面をにぎわせるだろう。
仙台市の作家熊谷達也さんは現在、幕末期の仙台藩をテーマとした小説の準備を進めている。奥羽越列藩同盟を巡る動きなどは、物語の中心になっていくに違いない。
列藩同盟が会津藩を救済しようと立ち上がったことも、共助の精神の表れだろうか。「戊辰」を足掛かりに東北人の世界観を探る一年になりそうだ。(生活文化部次長 加藤健一)
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