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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
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 明けましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いします。
 今年の5月で本宅が開設9周年となります。活動の中心をブログに移してしまったので本宅はなかなか新しいコンテンツを用意できてませんが、細々と続けていきたいです。

 では、去年の年末からの幕末ニュース、ぼつぼつ拾ってご紹介します。

北海道
土方歳三がきっかけ はこだて検定に小学生が初合格
 函館の歴史や文化など幅広い知識を問う「函館歴史文化観光検定」(通称・はこだて検定)の初級に、函館市立あさひ小学校6年の渡部響(わたべ・きょう)君(11)が、小学生で初めて合格した。幕末の箱館戦争で活躍した土方歳三への興味をきっかけに「はこだて検定」のテキストをボロボロになるほど愛読して臨んだ。3度目の挑戦で勝ち得た栄誉に「言葉に表せないほどうれしい」と喜んでいる。

 はこだて検定は函館への理解を深めてもらおうと、函館商工会議所が2007年から始めた。出題分野は歴史、建築、美術工芸、文化芸能、風習、方言、料理など各方面にわたる。

 初級と上級があり、初級(100点満点)は70点以上で合格する。今年は11月14日に試験が行われ、初級は384人が受検して合格者は115人。合格率は29.9%(前年23.7%)だった。

 これまでは第1回で合格した14歳の中学生が最年少で、渡部君は一気に3歳更新した。今回、小学生の受検は渡部君だけだった。

 渡部君が使ったテキストは4年ほど前、母親の容子さん(36)が第1回の検定に向けて自分用に買った。渡部君は「最初は土方のページを目当てに読んでいたけど、だんだん他のページも見るようになり、別のことにも詳しくなっていった」。学校にも持って行き、休み時間などにも読んでいた。表紙は破れかけていてボロボロだ。

 容子さんは「どんどん知識を吸収していって、街を一緒に歩いていると私の知らないことも説明してくれるようになった」と話す。検定挑戦を薦めたのも容子さんだ。

 一昨年、昨年と惜しくも合格点に届かなかったが、過去に出た問題を解くなどして勉強を重ね、今年の合格を勝ち取った。

 渡部君は「函館には異国の文化があって歴史もある。そこが好きです。中学生になったら上級に挑戦したい」と意気込んでいる。(中沢滋人)


福島
郡山の石材店、市に安積艮斎の石像贈る
 郡山市の山好佐藤石材店は、江戸時代後期から幕末にかけて活躍した同市出身の儒学者・安積艮斎(ごんさい)の石像を作り、市に寄贈した。
 市は市歴史資料館の1階案内室に石像を展示、市民に公開している。
 28日、贈呈式が行われ、佐藤達好社長が原正夫市長に目録を手渡した。
 艮斎は今年のNHK大河ドラマ「龍馬伝」にも登場し、知名度がより高まった。
 佐藤社長は「郷土の偉人を子どもから大人まで広く市民に知ってもらいたい」との思いを込めて石像を作ったという。
 石像は台座部分を含めて高さ約80センチ、幅と奥行き約40センチ、重さ約120キロ。
 職人が熟練の技で1つの石から切り出し、約1カ月半をかけて完成させた。
 艮斎の門下生には岩崎弥太郎、吉田松陰、高杉晋作ら近代日本国家建設の功労者が多数いることで知られる。


神奈川
村上もとかさん 自身の企画展に
 「JIN―仁―」や「六三四の剣」などで知られる漫画家村上もとかさん(59)が23日、青春時代を過ごした大和市を訪れ、村上さんの原画などを展示している企画展会場「つる舞の里歴史資料館」を見学した=写真。
 村上さんは、モータースポーツの「燃えて走れ」で1972年にデビュー。山の世界の「岳人列伝」、昭和初期が舞台の長編大作「龍―RON―」などがある。現代の医師が幕末にタイムスリップする「JIN」は昨年、テレビドラマ化されて人気を集めた。企画展では原画やグッズの展示、仕事机を再現している。
 村上さんは、同市の小中学校、県立大和高校を卒業。「当時は何も無い所だったので、空想を膨らませていた。よく展示していただき、感動している」と話した。
 下鶴間ふるさと館では、江戸時代の建物に「JIN」の世界を再現し、台本などを展示している。両会場とも入館無料で、来年1月23日まで。



山梨
甲府市役所建設地で遺構発掘 
江戸期 勤番役宅の可能性 
明治期の県庁舎礎石も

 甲府市役所新庁舎建設に伴って市教委が進めている埋蔵文化財発掘調査で、江戸時代の甲府勤番役宅の可能性がある遺構や、明治時代に建てられた県庁舎の基礎となる「礎石」が見つかった。絵図や文献で現地に甲府勤番の役宅があったことは分かっていたが、これまで遺構の存在は明らかになっておらず、市教委はさらに調査を進め、何の遺構かを特定する。
 市役所建設地は江戸期の柳沢時代に武家屋敷があった。その後、甲府勤番支配の時代(江戸中期-幕末期)には甲府勤番が居住し、業務を行う役宅があった。明治時代に入ると、役宅だった建物は県庁舎として活用。1877年には、藤村式建築の西洋風の県庁舎が役宅の跡地に新たに建設された。
 県庁舎は1930年に、現在地に移転。跡地には甲府市役所が61年に建てられ、新庁舎建設に伴って今年、解体された。
 発掘調査は11月から来年3月までの予定で、敷地北側約1800平方メートルの範囲で実施。礎石を安定させるために敷く「根石」や栗石くりいし(小石)、地下排水路とみられる石列が見つかった。甲府勤番の役宅絵図では、出土地点には「栗石」と記された場所や来庁者の待機室とみられる部屋があり、役宅の遺構の可能性が高いという。
 また、南北に3石、東西に4石延びる礎石が見つかった。出土地点から、藤村式建築の県庁舎東側の柱を支えていた礎石と推察されている。
 市教委の伊藤正彦文化財主事は「役宅の遺構だとすれば、初めての発見となる。県庁舎ともども、山梨の統治拠点となっていた施設の遺構で価値がある」と話している。
 市教委は、1月16日午前10時半と午後1時半からの2回、現地説明会を開く。


大阪
龍馬の365日たどる暦 枚方の愛好家グループ作成 大阪
 「テレビドラマの影響で火がついた坂本龍馬ブームの勢いを新年以降も継続させたい」。そんな思いを強く抱いた龍馬愛好家でつくる「大阪龍馬会」(枚方市)が、龍馬の行動を1日単位で記したカレンダー「龍馬暦(ごよみ)」を作成した。
 同会は創立23年を迎える全国で3番目に結成された龍馬会。会員は150人。龍馬暦は10年ほど前に初めて作られ、今回が2作目。
 「慶応3年(1867年)1月12日 溝淵広之丞らの斡旋(あっせん)で長崎清風亭にて後藤象二郎と会見する」「慶応2年(1866年)1月23日 寺田屋事件 三吉慎蔵と寺田屋を脱出する」-など「坂本龍馬関係文書(もんじょ)」に基づいた龍馬の行動を1日単位で記載している。林慎吾・事務局長は「資料としての価値も十分にあります。幕末の歴史に興味を持つきっかけとなれば」と話している。
 3千部発行。1部1500円。送料500円。問い合わせは大阪龍馬会((電)072・853・9669)。


天誅組研究のバイブル 40年ぶり復刊
 幕末に討幕を目的に最初に武装蜂起した「天誅(てんちゅう)組」について、アマチュア歴史家の故・樋口三郎さんがまとめた著書「実記 天誅組始末」が約40年ぶりに復刊された。樋口さんの遺族とともに尽力した藤井寺市の郷土史家、草村克彦さん(54)は「天誅組研究にとってはバイブル。少しでも多くの人の目に触れれば」と話している。


約40年ぶりに復刊した「実記 天誅組始末」を手にする郷土史家の草村さん
 「天誅組」は文久3(1863)年、土佐脱藩浪士、吉村虎太郎らが討幕の先兵として結成した尊皇攘夷(じょうい)派の集団。幕府の天領だった奈良の五条代官所を襲撃し「御政府」を設立させた。しかし、政変で攘夷派が失脚したことで「暴徒」とされ、討伐された。

 樋口さん(1915~2001年)は人事院の職員などをしながら「天誅組」について調査。約10年にわたり吉野など現地を取材し、1973年に同書を出版した。研究家の間では基礎的な著作として知られていたが、絶版となっていた。

 復刊はことし2月、「天誅組」のイベントを開いていた草村さんの元を、樋口さんの遺族が訪れたことがきっかけ。版はすでになく、原本をコピーしたものから印刷していく手法を取り、9月に復刊にこぎ着けた。

 奈良県の歴史民族資料館などで販売を始めたが、初版の300部はすぐに完売。11月には増刷した。復刊後「天誅組」の子孫からも問い合わせがあったという。

 草村さんは「樋口さんの本は時系列にまとめられていてとても分かりやすい。天誅組については最近注目されるようになり、吉村虎太郎の故郷、高知では特別展なども予定されている。この本などをきっかけに盛り上がれば」と期待している。

 本は282ページ、1200円。購入、問い合わせは電話、ファクス0747(22)0450、「維新の魁(さきがけ)・天誅組」保存伝承・顕彰推進協議会へ。


和歌山
「小梅日記にみる紀州の幕末」、井上さんが冊子に
 和歌山市中之島の井上泰夫さん(80)がこのほど、 「 『小梅日記』 にみる紀州の幕末」 を冊子にまとめた。もともと歴史好きで幕末に興味がある井上さんは、 「日記からは一般庶民の感情や見方が分かるので面白い。歴史というのは一方的な見方だけではいかんと分かってきました」 と話している。
冊子は、1823年の紀州の百姓一揆から、大塩平八郎の乱、開国、安政の大獄、池田屋騒動、大政奉還、坂本龍馬暗殺そして1877年の西南戦争まで、日本の流れと紀州藩内事情を記述し、それらについて紀州藩校の校長の妻、川合小梅が日記に書いた部分を載せた。
「小梅日記を楽しむ会」の発足メンバーである井上さんは、「幕末はいろんな人生模様が表れた時代。人が生きていく道しるべに興味がある」と話す。作業を進める中で感じたのは、見方が違えば歴史は違ってくるということ。 「龍馬の船と紀州藩の船が衝突した事件は 『いろは丸事件』 と言われますが、紀州から見たら 『明光丸事件』 ですから」 と笑う。
小梅の初孫の死因について、知り合いの医師に貴重な意見をもらったともいい、「何かやることで人の輪がつながっていくのがうれしい」と笑みをこぼした。
一番興味があるのは、自宅近くに住んでいた人物で、藩政改革を行い明治新政府の廃藩置県と徴兵令に影響を与えた津田出。西郷隆盛に 「あなたは総理大臣になるべきだ。私はついていく」 と言わせた逸材だという。
井上さんは、 「小梅日記をもう少し深く掘り下げたい。それから津田出についての勉強を完成させたい。津田が藩政改革をした時の小梅日記が見つかってほしいですね」 と話している。
問い合わせは井上さん (TEL073・422・6953)。


兵庫
幕末の志士に思い 姫路で「維新祭り」
 幕末の姫路藩で起きた尊王攘夷(じょう・い)派に対する弾圧事件「甲子(かっ・し)の獄」で処刑された志士たちを追悼する「姫路幕末維新祭り」が命日の26日、姫路市塩町の大蔵前公園で開かれた。市内の歴史愛好家ら約30人が獄舎があったとされる同公園に建てられた「姫路藩勤王志士終焉(しゅう・えん)之地碑」の前で手を合わせ、志半ばで倒れた志士に思いを寄せた。
 甲子の獄は元治元(1864)年12月26日に起きた。多くの尊王攘夷派の藩士が捕らえられ、リーダーだった河合惣兵衛ら8人が処刑された。
 祭りは、市内の会社員や自営業者ら歴史愛好家約20人でつくる「姫路幕末ファンクラブ」が主催。メンバーは日本刀を腰に差し、陣羽織姿で参加して、志士たちの冥福を祈り、志士たちが詠んだ辞世の句を吟じたり、甲子の獄をわかりやすく解説した手作りの漫画などを大蔵前公園を訪れた市民らに配ったりしていた。
 同クラブ会長の不動産会社長、大谷充さん(63)=同市五軒邸2丁目=は、「今の日本は政治や景気が閉塞し、幕末と似ている。こんな時代だからこそ、国の将来を案じた志士たちの働きを顕彰することが必要」と話した。


勤王派の志士しのぶ 姫路で法要と講演会
 約150年前、幕末の姫路藩による、尊王攘夷派(勤王派)の藩士に対する弾圧事件「甲子の獄」が起きた26日、処刑された志士を追悼する法要や講演が姫路市内で催された。(大島光貴)
 姫路の歴史愛好家でつくる「姫路幕末・維新を語る会」準備会の主催。
 法要は勤王派リーダー河合惣兵衛、伝十郎親子をしのび、河合家の菩提寺、善導寺(坂田町)で営まれた。甲子の獄で、惣兵衛は自刃、伝十郎は斬首刑になっており、子孫や市民ら約30人が焼香し、手を合わせた。
 続いて市民会館(総社本町)で、播磨学研究所の藤原龍雄事務局長が甲子の獄後の姫路藩について講演。明治政府に降伏した国元に対し、江戸藩邸は最後まで徳川幕府に従ったことに触れ、「藩主酒井家は徳川家と先祖同士が異母兄弟。その出自が幕末の動きまでつながっている」とした。
 甲子の獄で自刃させられた萩原虎六の子孫、雅さん(53)=五軒邸=も参加。「先祖ら幕末の志士たちに思いをはせた」と話していた。
 大蔵前公園(塩町)でも「姫路幕末維新祭り」があり、多くの人でにぎわった。




高知
一の巻 中岡慎太郎――ユズ栽培
原点は民の救済にあり

 幕末の志士、中岡慎太郎は、土佐で最初にユズ栽培を勧め、ユズの村・北川の礎を築いたとされる。

 村民を救ったという逸話に事欠かない。安政4年(1857年)、19歳の慎太郎は、北川郷の大庄屋見習いとなった。今で言えば北川村長代理。まもなく飢饉(ききん)が襲った。慎太郎は村民にサツマイモを買い与えたが足りず、藩の貯蔵庫を開けて米を出すよう直訴するため、高知城下の家老・桐間蔵人(くらんど)宅へ出向いた。

 もう夕刻のことで、桐間家の取次(とりつぎ)役は「明日まで待て」ととりつごうとしません。慎太郎は一日を争う村民の難儀だと主張して門前を去らず、夜を明かしました。蔵人は早朝、邸内を一巡して来ますと、門前に見知らぬ青年が姿勢を正してすわっています。必死の陳情を聞いた蔵人はその場で、官倉を開くことを許可したそうです。(前田年雄著「中岡慎太郎読本」、一部中略)

 かつて郷土史家が村民から聞いた話だ。実直さと行動力がうかがえる。土佐勤王党への加盟は4年後、坂本龍馬らと国事に奔走し、薩長同盟を成し遂げたのは9年後。志士としての原点は、民の救済に意を砕いたこの頃にあった。



 昨年12月上旬の村は、収穫が終わったばかり。陽光の下、搾りたてのユズの芳香に満ちていた。復元された慎太郎の生家(北川村柏木)周辺では、種から育った実生(みしょう)のユズの木数十本が、実をぶら下げていた。幕末頃の古木もある。

 村の山林面積は95%。貧しかったが、慎太郎は田畑の開墾を奨励し、優良な作物品種を無償で配った。ユズを勧めたのは、高価な塩に代え、魚にかけたり酢飯を作ったりできるからだという。生家に近い中岡慎太郎館の豊田満広学芸員(38)は「家の周りから植え、村民に見本を示したのではないか。『民なくして国はない』と言った慎太郎の愛情が感じられる」と話す。

 今や県のユズ生産量は全国の半分。その中で村の生産面積は県内の7分の1を占め、村の農家の9割がユズを栽培する。1970年代、転作のために山間で本格化した。

 家族への愛情から生まれたユズの物語もある。

 今や定番となったユズジュースは1978年、有機栽培にこだわる池田鉛平(しょうへい)さん(67)(同村柏木)の妻本子さん(67)が初めて考案した。ユズの木にはとげがあり、収穫は見かけ以上につらい。傷付いた鉛平さんの手が膿(う)むのを見てきた本子さんは「手塩にかけた作物。色や形が悪い実でも捨てずに、多くの人に味わってほしい」と思い立ち、砂糖と湯で試作した。

 当時のユズは、あくまで調味料。「気持ち悪い」という声もあったが、自信があった本子さんは高知大丸(高知市)で販売。さわやかな風味が受け、関西の物産展でも評判で、たちまちヒットした。「池田柚華園(ゆうがえん)」のブランドで生産を本格化。5年後には鉛平さんが村役場を辞め、家族総出で手伝った。果汁1斗(約18リットル)を搾るのに一家で徹夜も珍しくなかったが、本子さんは「家族が協力するのは楽しくて、苦労は感じなかった」と笑顔で振り返る。

 同園の加工品は今、ドレッシングやゼリーなど7種類。「村の恵みが全国に届くようになった。慎太郎の思いが何代も後で花開いた」。本子さんは感慨を深める。



 「先祖が飢え死にしていたら、私は生まれなかった」。慎太郎の顕彰会3代目会長の大工、大西学さん(60)(同村加茂)は、慎太郎が飢饉から救った和田地区出身。「偉業を全国に発信し、ご恩に報いたい」とかみしめる。会員は全国に183人。遺髪が埋葬された松林寺で命日の毎年11月17日に墓前祭を営み、観光ガイドも務める。99年、生家に近い高台に銅像を建てた。

 顕彰会理事でJA土佐あき柚子(ゆず)部北川支部長の和田拓司さん(64)は昨年11月、村立北川小学校で、ユズ栽培の歴史について初めて授業をした。「慎太郎先生には時代の先を読む知恵があった。先生の古里への思いを、子どもたちが受け継いでほしい」



 「桃栗三年柿八年、柚子の大馬鹿(おおばか)十八年」。成長の遅いユズを評したことわざだ。百年先の村人の暮らしを案じた慎太郎の優しさは、今も木々とともに根付く。(森本健裕)

中岡慎太郎

(なかおか・しんたろう)

 1838~67年。北川郷柏木の大庄屋の長男として生まれる。55年、藩校の田野学館で武市半平太と出会い、剣術を学ぶ。61年、土佐勤王党血盟文に署名し、当時の中央政界・京都で情報収集にあたった。党が弾圧を受けた63年に脱藩し、倒幕のために薩摩と長州を和解させようと坂本龍馬と奔走し、66年に薩長同盟を実現させた。翌年、京都・近江屋で龍馬とともに暗殺される。

 龍馬、慎太郎、武市半平太……。幕末史に名を刻む志士たちが、土佐勤王党を結成して今年で150年となる。彼らは、時に過激な行動で知られる一方、地域を思うリーダーとして東奔西走し、世の改革に努めた。各地に刻まれた彼らの〈遺産〉は、産業、文化、まちおこし、といった場面で、微(かす)かだが、確かに受け継がれている。ゆかりの地を訪ねた。

(2011年1月1日 読売新聞)



熊本
時代行列祭り計画 甲冑武者ら新幹線~熊本城へ
 3月12日の九州新幹線鹿児島ルート全線開業に合わせ、県内経営者や市民らの有志グループが熊本市中心部で、甲冑[かっちゅう]武者などにふんした千人規模の「時代行列」祭りを計画していることが31日、分かった。旅行客らが乗降する熊本駅や、観光地として知名度が高い熊本城の界わいをパレード形式で練り歩く。城下町一帯の魅力アップと、全線開業後の地域づくりにつなげるのが狙い。来年以降の定期開催も検討している。

 計画では、鹿児島ルート全線開業から1週間後の3月19日に開催。パレードは戦国期から近現代までを想定し、戦国期では加藤清正や細川幽斎ら武将、幕末や近代では思想家・横井小楠ら県ゆかりの偉人にふんする。コースは熊本駅を出発点とし、熊本城を目指す。

 甲冑や人力車など時代風俗の道具を用い、コース途中では伝統芸能の愛好家らに和装姿で唄や踊りなどを披露してもらう考え。

 地場企業を軸に検討しており、1月中に企業や県、熊本市、地域住民などで実行委員会を発足させる。詳しいルート設定や祭りの内容は、県警や道路管理者などの関係機関と協議して詰める。

 企業や行政などと開催に向け調整を進めている県新幹線元年委員会の石原靖也委員長(東光石油会長)は「熊本城築城400年の歴史と、城下町の雰囲気を体感してもらうとともに、県民参加型にして、春恒例の祭りに定着させたい」と話している。(中原功一朗)


コラム
【龍馬を慕(おも)う】最終回 京都・霊山 「非命の魂」やさしく包む
 
京都の市街地が一望に見わたせた。薄青い空の下で、「八坂の塔」がすぐ真下に見える。遠く東本願寺の甍(いらか)や京都タワーがかすんでいた。
 振り向くと、小さな鳥居の下に、坂本龍馬と中岡慎太郎の墓がならんで立っている。手前には、四季の花々がうずたかく供えられていた。
 2つの墓に寄りそうように、左手にあるやや小さめの墓は、2人とともに殺された近江屋下僕の藤吉をまつったものだ。
 ●千柱超す志士まつる
 東山の山腹にある霊山(りょうぜん)護国神社には、茶褐色に朽ちた墓の群れが、はいあがるようにびっしりと建てられている。そんな墓ばかりを見てのぼってきたので、供えられた花々の赤や黄が目に染みた。
 平日の午後だというのに、参拝客が境内の入り口から列をなして、石段を上ってきた。途中で、土佐の吉村寅太郎ら天誅組(てんちゅうぐみ)事件で憤死した志士たちの墓も参拝したが、訪れる人もいなかった。
 幕末維新の志士だけでも、1356柱がまつられているという。龍馬のような横死(おうし)者だけでなく、刑死した志士や自害した志士たちもふくまれている。
 かれらの死は、維新激動の「歴史」という大いなる物語のなかに、やさしくつつまれているようにも思えた。維新以降も、その死が「歴史」となった非命の死者はおびただしく出た。
 だが三島由紀夫の晩年の口吻(こうふん)をかりれば、ここに眠る志士たちが飢(かつ)えたように尊仰した「日本」という国は、すでになくなってしまったのかもしれない。
 慶応3(1867)年11月15日に死んだ龍馬と、その2日後に死んだ慎太郎の葬式が、いつ営まれたかについては2つの説がある。17日夜8時説と、18日午後2時説である。
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 2人の遭難を知った海援隊と陸援隊の志士が中心となり、在京の土佐、薩摩両藩の藩士がつきそった。志士たちは周囲を警戒し、拳銃まで持って、そろそろと霊山に向かった。襲撃犯は新選組と信じられていたから、葬送中の再襲撃をおそれていたのである。
 犯人が新選組ではなく、佐々木唯三郎がひきいる京都見廻組(みまわりぐみ)の武士7人であることが判明したのは、明治3(1870)年になってからである。函館・五稜郭(ごりょうかく)落城のさい、捕縛された元見廻組員で、襲撃にも加わった旗本の息子、今井信郎(のぶお)が証言したからである。
 見廻組は浪人や農民出身の新選組とは異なり、京都守護職に任じられた会津藩の指揮のもとに、旗本の子弟たちで組織されていた。信郎は7人による襲撃を認め、「土州坂本龍馬、不当の筋」があったため、捕縛を命じられたと供述した。問題はこれに続く、次の証言である。
 「万一、手に余り候(そうら)へば討取り候様(よう)、御差図(おさしず)これあるにつき--」
 捕縛などではなく、最初から「殺してしまえ」という「御差図」だったのである。では「御差図」したのは、だれか。今井は「承知仕(つかまつ)らず」と供述したが、常識的にいえば会津藩の上層部が「御差図」したはずである。
 問題はもうひとつある。海援隊や陸援隊員をのぞくと、土佐や薩摩の一部の藩士しか知らなかった龍馬らの居場所を、どうして知ったのか、である。
 龍馬は大政奉還による無血革命を目指していた。武力倒幕に向け、着々と準備を進めていた薩長にとって、すでに目の上のタンコブのような存在になっていた。
 「いろは丸」事件で、莫大(ばくだい)な賠償金を請求された紀州藩にも恨まれていた。
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 当の土佐藩の郷士の一部からも、武市半平太を切腹させた参政、後藤象二郎と急接近したことに対する不満の声もくすぶっていた。
 いったいだれが、会津側にタレこんだのか。諸説あるが、裏づけるものはなにもない。
 ●昭憲皇太后の夢枕に
 龍馬の墓の横手に、大きな石碑が立っている。「贈正四位坂本龍馬君忠魂碑」というタイトルは判読できたが、刻まれた文字がかすんでいるため、とても読み取れない。
 明治37(1904)年2月、日露戦争が勃発した。「時事新報」はこの月、皇后(昭憲(しょうけん)皇太后)が葉山御用邸に滞在中、奇妙な夢を見た、と報じた。白無垢(しろむく)姿の武士が夢に出て、こう語ったという。
 「臣は維新前、国事の為に身を致したる坂本龍馬と申す者にて候。海軍の事は当時より熱心に心掛けたる所に候へば……」
 日本海軍は龍馬が育てたから、ロシアなどには負けない、と夢告したわけである。龍馬を知らない皇后は、側近が取りよせた龍馬の写真を見たところ、「この写真に寸分違ひなしと仰せられた」という。
 大きな石碑は、この「瑞夢」をもとに、刻まれた。このときの宮内大臣は土佐勤王党出身で、龍馬とも顔見知りの田中光顕(みつあき)である。ちょっとできすぎた逸話である。
 事実なら、龍馬は幕府だけでなく、バルチック艦隊も壊滅させたのである。(おわり)
 (文・福嶋敏雄)



エンターテインメント
全国で85万人突破 映画「武士の家計簿」
 加賀藩に実在した御(ご)算用者(さんようもの)(経理担当の武士)の奮闘を描く映 画「武士の家計簿」(北國新聞社、アスミック・エース、松竹製作)の観客動員数が25 日、全国で85万人を超えた。石川県内の上映6館の合計は6万人を突破。根強い人気に 地元の映画館関係者は「家族愛をテーマとした作品であり、家族客が増える年末年始の動 員が楽しみ」と期待を寄せている。
 堺雅人さんが主演、仲間由紀恵さんがヒロインを務める映画は、御算用者として、代々 加賀藩の財政に携わってきた猪山家3代の物語。幕末から明治にかけて激動の時代を前向 きに生きる下級武士とその家族の日常を描く。11月27日に県内先行上映が始まり、4 日から全国公開された。

 冬休みが始まった25日、シネマサンシャインかほく(かほく市)では、荒天にもかか わらず家族連れの来場が相次ぎ、そろばんでつながる家族の絆や、ほほ笑ましいコメディ に見入っていた。

 県内ではほかに、ユナイテッド・シネマ金沢、ワーナー・マイカル・シネマズ金沢、イ オンシネマ金沢フォーラス、金沢コロナシネマワールド、ワーナー・マイカル・シネマズ 御経塚で上映している。









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