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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
 こんばんは、白牡丹です。『未完の多摩共和国』著者の佐藤文明さん(リンク先は拙ブログの感想記事)が亡くなったと聞き、力を落としています。多摩の歴史の中で新選組を位置づけ、明治維新から自由民権運動までの流れを書いた良作でしたので、続刊を期待していたものですから……。

北海道
 東奥日報のコラムです。
 2011選挙イヤーが明けた。県議選、知事選と続く決戦の前に、まずは今月10日投票の「箱館偉人選挙」に注目だ。函館市選挙管理委員会のホームページに載っている「選挙公報」を見て驚く。なんと超大物4人が立候補しているではないか。
 「明治維新党、坂本竜馬」「菜の花党、高田屋嘉兵衛」「新選組公認、土方歳三」「無所属、石川啄木」。同市ゆかりのオールスターそろい踏み選挙だ。盛り上がらないわけがない。大河ドラマ人気に乗る坂本候補が叫ぶ。「不景気の今こそ風雲児の出番。函館の夜明けは近いぜよ!」。
 財界のドン高田屋候補も「海運で景気回復」と強気だ。土方候補は軟弱な若者を武士道で鍛え直すと豪語し「若者よ、五稜郭に集え!」と呼び掛ける。石川候補は働いても働いても楽にならなかった過去を振り返り「文学に親しみ、豊かな心を育む街にしたい」と静かに語る。
 市選管が企画した成人の日架空選挙は楽しそうだ。成人を祝う式場に記載台と投票箱を持ち込み、新成人に実際に投票してもらう。模擬投票を通じて一票の大切さを知ってもらうイベントだ。著名人候補の熱い競り合いを演出し、投票率100%を目指す。
 誰に投票するか、大いに悩むところだ。乱世の竜馬か。ロシア外交に強い豪商高田屋か。治安を守る新選組土方か。蟹と戯れる文化人啄木か。魅力あふれる候補者が出ると、選挙はこんなにおもしろくなる。新成人が知っておいて損はない選挙の格言がある。「出たい人より出したい人」

 箱館偉人選挙のサイトはこちらです。自分に投票権があったら……やっぱり土方としぞうに入れちゃうんだろうなぁ(苦笑)。

青森
第9熱唱で会津若松と交流 斗南藩140年記念演奏会 むつ
 戊辰戦争に敗れ、移封された会津藩士らが現在の青森県むつ市を中心に「斗南藩」を築いて140年を迎えたのを記念し、むつ市の下北文化会館で26日、むつ市と会津若松市の市民合唱団員による「ベートーベン第九演奏会」が開かれた。
 むつ市の「むつ下北第九の会」の主催で、同会を中心に、会津若松市の「会津第九の会」の代表9人を加えた93人で合唱団を編成。青森市民交響楽団の演奏に合わせ、情感豊かに第4楽章を歌い上げた。
 姉妹都市のむつ、会津若松両市の市民合唱団が、むつ市で合同演奏会を開くのは、2007年に続き2回目。むつ下北第九の会の村中一文会長(57)は「節目の年に、二つの合唱団が声を合わせたことは意義深い。今後も歌を通じ交流を深めたい」と話した。


山形
「影法師」35年、思いつづる “ベスト盤”付き、記念の本出版
 長井市内のフォークグループ「影法師」(横沢芳一代表)が、結成35周年を記念した本「『現場歌手』35年『影法師』という生き方」を出版した。時代を見つめ、社会にメッセージを発信してきた音楽活動への思いをつづっている。
 影法師は1975(昭和50)年に結成された。国鉄長井線存続運動のテーマソング「今日もあの娘は長井線」、戊辰(ぼしん)戦争で官軍が東北地方を侮辱した言葉とされる「白河以北一山百文」をタイトルにした曲など、メッセージ性の強い歌を発表してきた。
 今回は節目の年に活動記録をまとめようと企画。知人で漫画家の魚戸おさむさんが表紙を手掛け、持ち歌から19曲を選び、当時のエピソードや写真を盛り込みながら16章に編集した。巻尾には19曲が入った“ベスト盤”CDが付いている。長井市の「長井まちづくり基金」を活用して出版した。メンバーの青木文雄さん(57)がメーンライターを務めた。
 長井線を書いた章では、孫に会いに行くおばあさんとの会話を回想し「人は速さ、便利さを追い求め、時間に追われて日々を過ごすようになった。このおばあちゃんに流れている時間、この長井線の時間のスピードが、本当は人間らしい時間なのかもしれない」と記述。
 「白河以北一山百文」の章では、87年の東北自動車道開通時、首都圏で発生する廃棄物が、東北各地に運び込まれて処分されていることに憤り、長井弁の歌を作ったことを紹介し「地方は日本の縮図。地方を歌うことは、この国のすぐそこにある明日を歌うことだと悟った」とつづっている。終章の「美しい村」では、バブル経済にわいた80年代の日本について、当時、記した文章を掲載。「必ずや終焉(しゅうえん)を迎える日がくる。その時この国の人々は虚妄の社会から離れ、命を癒やす共生の世界を目指すはずだ」と記している。
 メンバーの遠藤孝太郎さん(58)は「出版作業を通じ、活動の方向性が間違ってなかったと感じた。日本の経済成長が頭打ちになった今、歌を通じ、人とのつながりの大切さを訴えたい」と話している。本はA5判92ページで2000円。1000部を作った。長井市内の書店や物産館などで取り扱っている。問い合わせは遠藤さん0238(84)6445。


埼玉
越谷で「時代まつり」を・徳川家など歴史遺産PR
 越谷市で「時代まつり」を地元のシンボルイベントとして開催しようと、市民有志が昨年、「越谷時代まつりの実現をめざす会」を設立した。市内の会社員・広瀬知也さんと自営業・田中利昌さん(29)、中村重喜さん(71)の3人が呼びかけたもの。広瀬さんらは「日光街道の越ヶ谷宿、大沢宿を含む越谷には、日光参りの徳川家歴代将軍、参勤交代では伊達家、上杉家など41家の大名たちのほか、松尾芭蕉、近藤勇ら数多くの歴史上の人物が訪れているが、そのことはあまり認識されていない」とし、これらの越谷の歴史と文化を市民と一緒に再発見し、まちのPRと観光によるまちおこしを推進していく考えだ。
 広瀬さんらは、日光街道の宿場町として、最盛期には1000軒を超す商店・旅籠が軒を並べて賑わった歴史や徳川家康公の壮大な御殿があった跡地など、もったいない歴史・文化遺産が市内のあちこちにあるのに、新しい市民にはあまり知られていないという。
 そこで、愛郷心を市民に持ってもらおうと、越谷の歴史と伝統文化を市民に深く認識してもらい、越谷のシンボルとなるようなイベントを企画したいと「越谷時代まつり」の実現に向けて動き出した。千葉県佐倉市の「時代祭り」のように市民が時代衣装に扮した行列をするなどを考えている。
 広瀬さんは山口県下関市出身。16年前、下関市内の観光協会から依頼されて「晋作フォーラムin長府」を企画して開催したのをはじめ、都内の「滝野川新選組まつり」企画などに奔走。会社勤めの傍ら、主に幕末や明治維新に関係した人物に関連したイベント作りのエキスパートだ。
 「時代まつり」は今年実施することが目標。まずは「市民まつり」での仮装行列に参加したり、「日光街道サミット」の開催などを企画している。また越谷に来た人たちに配る「時代観光ガイドブック」の作成なども考えている。
 これまでにない新しい発想でのイベント企画は越谷の歴史を掘り起こし身近なものにするものになりそうだ。地元越谷市も支援する姿勢をしめしている。こうした市民パワーでぜひ実現して、観光都市越谷も夢ではないはずだ。

 高橋 努越谷市長の話「越ヶ谷・大沢宿は日光街道第三次の宿場として栄えました。わずかながら今も往時をしのぶたたずまいが残されています。徳川家康なども鷹狩りに越谷を訪れ、徳川家ゆかりの史跡もあります。こうした資源を観光に活用できたら楽しいですね。こうした事業は、市民サイドから盛り上げていくことが大切です。どのような仕掛けができるのか興味深く見守っていきたいと思います」。


近藤勇も越谷に来ていた?・富田屋伊左衛門方に一泊
 新選組局長、近藤勇も越谷と縁が深い。1868年(慶応4)4月4日、近藤勇は越谷から板橋へ連行される際、綾瀬川にかかる土橋・一の橋のたもとにある「よしずや」という茶店で休憩。その時、樹齢推定約350年といわれる藤の花と綾瀬川を見ながら一首。「綾なる流れに藤の花 にほう 吾が生涯に悔ひはなし」と最後の句を詠む。自分の人生を綾なす糸にたとえながら、藤の花が香るような、すがすがしい生涯に悔いはない、としている。
 新選組はこれより、3日前、下流の綾瀬から北上し、流山に向かっていた。現在の八潮市の潮止の渡しで、現在の三郷市戸ヶ崎へ。戸ヶ崎から中川左岸を谷口へ。谷口から大場川へ出て、大場川右岸を丹後まで行き、丹後の渡しで、現・流山市へ。
 流山到着後、新選組は陣容を整え、4月3日に演習中、留守だった本陣・長岡屋に急襲。近藤勇は拘束され、矢河原の渡しから現・吉川市を経由して、越谷市へ。越谷本町の名主・富田屋伊左衛門方で一泊。ここで、元新選組、伊藤甲子太郎一派の生き残り、加納道之助に、近藤勇であることを見破られる。
 4月4日、越谷から近藤勇は籠に乗せられ、浦和から田島を通り、笹目の渡しを経て板橋へ入ったと伝えられている。途中、越谷と草加の境近くにある「弁天藤」を見て、詠んだ。
 近藤勇と越谷の縁はあまり知られていない。自由の身から捕らわれの身になったのは実は越谷だった。越谷の地から見た綾瀬川の流れと弁天藤を眺めた近藤勇の心境はどのようなものだったのだろうか。越谷の新たなまちおこしの材料になるのかもしれない。


石川
よみがえる「本陣」の姿 宝達志水・県文化財の岡部家
 加賀藩十村役の豪農の家屋の形態を残す宝達志水町荻谷、県指定文化財「岡部家」の保 存修理工事が7日までに終わり、1853(嘉永6)年に加賀藩13代藩主斉泰(なりや す)が能登巡見の際に泊まった本陣の姿が復元された。便所や湯殿は板の間とし、改修で 隠れていた柱を露出させるなど、約160年前のたたずまいを見ることができる。
 岡部家は1736(元文元)年築の茅葺(かやぶ)き入母屋(いりもや)造りで、十村 役所であったほか、能登巡見の際には本陣になった。約270年間に修理や改築が繰り返 されており、町は修復に際し、文化財指定の理由の一つである本陣となった状況を再現す ることにした。
 その際、基にしたのは羽咋市に残された当時の郡奉行加藤儀左衛門家が所蔵した絵図。 藩は本陣とするに当たって岡部家に改修を指示しており、当時の建物の平面図が残ってい た。
 当時、藩主が使った便所は板の間に桶(おけ)を置いていたとされ、保存修理では便器 などは設けなかった。湯殿も板の間で、ここでも風呂桶などは置かなかった。
 岡部家の建造物10棟や土地、古文書などは2004(平成16)年8月、18代当主 から旧志雄町に寄付された。中には3代藩主利常の正室珠姫の愛用品と伝えられる雛御膳 (ひなごぜん)や斉泰の写真など多くの貴重な資料が含まれており、町では4月に予定す る一般公開に向け、展示内容などを詰めている。
 修復工事は県教委や文化庁の指導を受けながら総費用約2億円、4年をかけて行われた 。同町教委生涯学習課の村井伸行課長補佐は「本陣が可能な限り再現された。多くの人に 見てもらい当時の様子を思い浮かべてほしい」と話した。


三重
立見尚文:紹介する資料展--桑名で31日まで /三重
 日清・日露戦争などで活躍した桑名出身の陸軍大将、立見尚文(1845~1907年)を紹介する資料展が桑名市中央町の市中央図書館で開かれている。中には1897(明治30)年に桑名の写真館で撮影したとされる家族写真や、日露戦争で出征の際に受け取った陣中見舞いの礼状はがきなど、珍しい資料を展示している。展示は31日まで。
 立見は旧桑名藩士で、戊辰(ぼしん)戦争では幕府軍の雷神隊隊長として善戦するも降伏。明治になって一時司法省に勤めたが、西郷隆盛らが起こした西南戦争では陸軍少佐として鎮圧に向かい、新撰旅団一個大隊を指揮した。日露戦争では第8師団を率い、激戦の黒溝台(こっこうだい)会戦で殊勲を挙げた。
 家族写真は3年前、立見の親族から同図書館に寄贈され、一昨年「1枚の写真から」と題して公開したところ、出版社や新聞社から「ぜひ引用させて」と依頼が来たという貴重なもの。他に、戊辰戦争や日清・日露戦争における立見のエピソードを紹介するパネルや立見も登場する司馬遼太郎の著作「坂の上の雲」などの本を展示している。司書の飛石真理子さん(58)は「昨年暮れにNHKで放映されたドラマ『坂の上の雲』には立見は出てこなかった。今年はぜひ登場し、名前が全国に広がってほしい」と期待していた。【沢木繁夫】
〔三重版〕


京都
「京北の文化と小学校」展:歴史や教育紹介--下京 /京都
 05年に京都市に編入合併された京北地域(現・右京区)の歴史や文化、学校教育を紹介する企画展「林業のまち 京北の文化と小学校」が3月14日まで、下京区の市学校歴史博物館で開かれている。
 1868(慶応4)年、鳥羽伏見の戦いが始まり、京北の山国から志願した農兵隊「山国隊」が鳥取藩の一隊として戊辰戦争で戦績をあげた。同隊の藤野斎が設けた私塾など、京北の教育の歴史は幕末維新期の寺子屋や塾にはじまる。府の小学校設立奨励の告示により、1873(明治6)年には分校を含め小学校9校が設置されていた。
 同展では校名を揮毫(きごう)した額や、高等小学校卒業記念に生徒らが書いた書道作品、手習いの手本として学校で保存していた政府の禁止令を記した高札など明治時代の資料のほか、戦前の養蚕や農業指導など、地域性を生かした教育の様子を記録した写真や資料を展示。
 さらに、時代祭の「維新勤王隊」のモデルとしても知られる「山国隊」が出征中に学び、今も継承されている鼓笛軍楽の資料や林業の歴史なども紹介。京北地域の特色ある文化を知ることができる。会期中展示替えがある。
 午前9時~午後5時。水曜は休館。入場料は大人200円、小・中・高校生100円(市内の小中学生は土日無料)。【野宮珠里】


高知
龍馬ゆかり「いろは丸」絵図
高知で展示

 幕末の志士・坂本龍馬が結成した海援隊が乗り込んだ蒸気船「いろは丸」を描いたとみられる絵図が、高知市浦戸の県立坂本龍馬記念館で開かれている企画展で展示されている。10日まで。
 いろは丸はイギリスで建造され、1863年(文久3年)に薩摩藩が購入。3年後に大洲藩(愛媛県中南部)が、龍馬らの仲介で買い取った。その後、海援隊が大洲藩から船を借り、初仕事で長崎~大坂間を航行していたが、67年(慶応3年)に瀬戸内海で紀州藩船と衝突し、沈没した。
 絵図は昨年7月、長崎市歴史民俗資料館が展覧会の準備中に見つけた。船印に大洲藩主・加藤家の家紋である「蛇の目紋」が描かれているほか、添え書きされた「十月二十四日」は、佐賀・鍋島藩士が長崎港を出入りする船を記録した「白帆注進外国船出注進」にある、いろは丸の長崎出港日と一致するという。
 坂本龍馬記念館の前田由紀枝・学芸主任は「これまでいろは丸を描いた絵などは見つかっておらず、貴重な資料。海援隊を象徴する船なので、ぜひ見に来てほしい」と話している。
(2011年1月5日 読売新聞)


山口
【都道府県 伝統の教え】山口県 「明倫館」から受け継いだもの
 幕末、維新に活躍した志士たちや、岸信介、佐藤栄作ら戦後の著名な政治家らを輩出した山口県。誠実、剛健の人材を育ててきたイメージがあり、古くから教育に熱心な土地柄で知られる。
 江戸期の長州藩の藩校、明倫(めいりん)館は、水戸藩の弘道館、岡山藩の閑谷(しずたに)学校と並ぶ3大藩校の一つ。幕末の志士たちが師と仰いだ吉田松陰も明倫館で学んだ。
 明倫館は1718年に5代藩主、毛利吉元(よしもと)が萩城内につくり、13代の敬親(たかちか)が藩主時代に萩城下の広大な敷地に移転した。学問だけでなく武芸の稽古も熱心に行われた。
 萩の明倫館は、現在の山口県萩市立明倫小学校の敷地に国史跡の建物が残っている。伝統を受け継ぐ明倫小では毎朝、吉田松陰の言葉を朗唱しているという。学年、学期ごとに朗唱文は変わり、同小のホームページで見ることができる。1年生の1学期は「今日よりぞ幼心を打ち捨てて人と成りにし道を踏めかし」と甘える気持ちを戒める。
 6年生3学期は「天地には大徳(たいとく)あり君父(くんぷ)には至恩(しおん)あり/徳に報ゆるに心をもってし恩を復(かえ)すに身をもってす/此の日再びし難く此の生復(ふたた)びし難し/此の事終えざれば此の身息(や)まず」。天地の徳や人々の恩に言及、少しの時間も無駄にせず一生懸命に、と励ます言葉だ。子供たちは毎日、声に出しているとだんだん意味が分かってくるという。


吉田松陰:処刑前年、悲嘆の書状 同志追悼「此道の一欠事」 山口の学芸員が購入
◇山口の学芸員、骨董店で購入
 長州藩(山口県)出身の幕末の思想家、吉田松陰が自宅軟禁中の1858(安政5)年に、長州藩士の国学者を追悼した書状が見つかった。2人は志士仲間で、松陰は「一人の聚書家(しゅうしょか)(蔵書家)を失い、また此(この)道の一欠事と申すなり」と嘆いている。山口県萩市の萩博物館特別学芸員の一坂太郎さん(44)は「松陰が幕府に処刑される前年に書かれたもの。同志を亡くした悲痛な思いが読み取れる貴重な史料だ」と話している。

 松陰がその死を悼んだのは岸御園(みその)。一坂さんによると、同県防府市在住の岸は私費で書籍を集め、図書館のような役割を果たした篤志家。1857(安政4)年から萩市の松陰の私塾・松下村塾に出入りした。2人は日本史の書籍を貸し借りするなど親交を深めたが、岸は翌58年に病没した。

 書状(縦14センチ、横12センチ)は毛筆で書かれた短い追悼文。岸の学問上の師匠で防府市の防府天満宮の神職、鈴木高鞆(たかとも)に宛てられた。尊皇思想家の鈴木は松陰とも親しかった。書状には1868(明治元)年、旧長州藩士の天野謙吉の書き付けが添えられ「(岸と鈴木は松陰)先生の勤王の親友なり」と記している。

 書状は、防府天満宮歴史館顧問も務める一坂さんが09年、大分県内の骨董(こっとう)店で購入した。松陰から鈴木への書状は珍しく「菅原道真を信奉していた松陰と、(道真を祭る)防府天満宮との交流も裏付ける」という。3月6日、防府天満宮で展示される予定。【中尾祐児】

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 ◇吉田松陰(1830~59)
 長州藩の武士の家に生まれる。1854(安政元)年、下田沖に停泊中のペリーの米軍艦(黒船)に乗り込んで海外渡航を試みたが失敗し、幕府に自首。山口県萩市で自宅軟禁中、松下村塾で高杉晋作や伊藤博文らを教育した。59(安政6)年、幕府が尊皇攘夷派を弾圧した「安政の大獄」で江戸に送られ、老中暗殺計画を企てたことなどで処刑された。


佐賀
偉人伝第2弾「大隈重信」10日発売 著者講演会も
 幕末・明治期に活躍した佐賀人を取り上げるシリーズ「佐賀偉人伝」の第2回配本「大隈重信」が10日、大隈の90回忌に合わせて全国発売される。パソコン用の電子版と同時発売で、執筆した島善高早稲田大学教授の記念講演も同日、佐賀市である。
 昨年11月発行の「鍋島直正」に続く第2弾。大隈は内閣総理大臣を二度務め、早稲田大学を創立。近代国民国家を生みだすために、内政・外政の両面で広く活躍した。本書では大隈の生涯を政治と教育、文明運動の三つの側面から描いている。
 大隈の伝記は1926年以来の刊行。執筆した島教授(58)=佐賀市出身=は「最新の研究成果を盛り込み、新しい大隈像を示せたのではないか」と話す。A5判、112ページ、4千部作成した。千円。
 同時発売の電子版は使用する端末によって機能が異なるが、図版の拡大や人物名・用語の検索機能などを追加。大隈がレコードに吹き込んだ演説の一部を1分半ほど収録している。
 電子版はパソコン、iPad、iPhoneに対応。パソコン版はオンライン書店「シナノブック」、iPad、iPhone版は「APPストア」で購入できる。価格は800円。
 島教授の講演は10日午後1時半から県立美術館ホールで行う。テーマは「大隈重信と近代日本」。入場無料。
 偉人伝シリーズ第3弾は、日本の近代洋画を築いた「岡田三郎助」を3月10日に刊行予定。


熊本
小楠「絶筆」見つかる 明治政府登用の喜び表す
 熊本出身の幕末維新期の思想家、横井小楠(1809~1869年)が、暗殺される直前に書いた「絶筆」とみられる漢詩が京都市の古美術店で見つかった。士籍を剥奪されて5年に及ぶ熊本・沼山津での蟄居[ちっきょ]生活から一転、小楠が明治新政府の参与に登用された翌年で、再び中央政治の表舞台に立った喜びがうかがえる。
 漢詩は「元旦偶作」と題して、「萬里祥雲旭日晴 忽聞黄鳥報春聲 南山清気深無限 都傍高堂盃酒生」と書かれている。昨年、小楠研究家の徳永洋さん(60)=熊本市=が古美術店から連絡を受け、「小楠堂主」という印や書体から小楠直筆と判断した。
 徳永さんによると、「都傍」とは、「(都の)御所のそばで」の意味。小楠は参与登用後の68(明治元)年4月から、暗殺される69年正月5日まで京都に住んでおり、「元旦」とあることから、書かれた時期を69年の正月と判断した。
 漢詩の意味は「遠方にめでたい雲がたなびき、朝日が昇って晴れわたっている。ふと、ウグイスが春を知らせる声を聞いた。南山の清気の深さは限りない。御所のそばで杯に酒を注いでいる」。
 小楠に詳しい猪飼隆明・大阪大名誉教授は「小楠の直筆、絶筆と見て間違いないだろう。上京後は病気がちだったが体調が戻り、すがすがしい新年を迎えたことをうたったのだろう」と話している。(藤本英行)


ドイツ
幕末から昭和、1千点超す写真発見…ボン大学
 幕末から昭和初期の日本の風物を写した1000点超に及ぶ古写真が、ドイツのボン大学で見つかった。
 これほど大量の日本の古写真が海外で確認されるのは極めて珍しい。
 日本文化研究者のフリードリヒ・トラウツ(1877~1952年)が収集した日本関連の書籍や文献などの資料群から、馬場章・東京大教授(歴史情報論)が発見した。今後、日独の研究者で撮影の具体的時期や場所の特定が進めば、往時の日本の姿がどう海外に伝わったかを知る、貴重な資料になりそうだ。
 明治初期のドイツ人外交官が収集し、後にトラウツに渡ったとみられる写真の中には、京都・金閣寺など名所の風景が多く含まれていた。ドイツの出版社が注文に応じて販売していた写真の見本とみられるものもあり、神社を出御するみこしや靖国神社(東京・九段)への参拝、農作業、花魁道中など、昭和初期以前の風物が紹介された写真も確認された。
(2011年1月8日17時41分 読売新聞)




コラム
 四国新聞のコラムです。
1月7日付・ちくわつながり
 遠隔地ながら、なぜか同じ文化を持つ地域がある。例えば長野県には、辛み大根の汁をつゆに混ぜる「高遠そば」や、衣付きの「まんじゅうの天ぷら」という名物があるが、これらは福島県の名物でもある。
 こんなユニークな食べ物が、なぜ500キロも離れて同じように名物になっているのか。信州の高遠藩主・保科正之が、会津藩に領地替えになった際に持ってきたためだという。「藩と県」(草思社)に教わった。
 同様に、戊辰戦争で官軍を率いた西郷隆盛をまつる神社が、なぜか幕府側の旧庄内藩(山形県)に存在する。戦後処理での西郷の温情に心打たれた人々が、降伏後も西郷を慕ったためで、その後も両地で交流が続いたそうだ。
 讃岐もそんな逸話と無縁ではない。塩飽諸島の名物「茶がゆ」で使われているのは、土佐藩の特産・碁石茶。これは土佐藩が参勤交代の際、仁尾港を発着港にしていたことに由来する。
 愛知県豊橋市とも意外なつながりがあると知った。そこの名物はちくわだが、江戸時代に魚問屋が金毘羅参りに行き、そこで見たちくわをまねたとされる。今も香川には練り物業者がたくさんあるが、さてどこのをまねたのか、なんて想像したくなる話だ。
 領地替えや人の交流から、ゆっくりと文化が共有されていく時代があった。今はメディアやインターネットを通じ、ただちに取り入れることも不可能ではない。便利には違いないが、そうして共有するようになったものも文化と呼ぶべきか、分からない。(G)


【幕末から学ぶ現在(いま)】(95)東大教授・山内昌之 寺島宗則(上)
条約改正と政治家主導
 幕末の若者はどの藩に生まれるかで将来の明暗が分かれた。薩摩藩の郷士(ごうし)の子に生まれた寺島宗則は、後に外務卿(きょう)になるなど、幾重にも幸運に恵まれて才を発揮することができた人物である。医師の家に養子に入り、蘭学を究めて幕府の蕃書調所(ばんしょしらべしょ)教授手伝になったのも恵まれていた。幕府の遣欧使節の随員として欧州を実地に眺めただけでなく、薩英戦争では英国艦隊の捕虜となり和戦いずれも経験した西洋通となる。
不平等条約改正交渉に功労
 やがて藩留学生とともに再度渡欧し、帰国後に薩英友好と倒幕に藩論をまとめた功労者の一人である。その真骨頂は、明治6(1873)年の征韓論をめぐる変動期に就任した参議兼外務卿として着手した不平等条約改正交渉でも遺憾なく発揮された。確かに寺島は、条約改正には成功しなかったが、その交渉は官僚(外交官)に対する政治主導、政治家の目標達成までに経験する忍耐と挫折などの点でも、現在の日本政治に対して多くを教えてくれる。
 不平等条約の改正とは、大きく言えば行政権の回復を意味する。それは、日本国内の条約相手国の市民に適用される行政規則を政府が自由に制定し、違反者を処分する権利の回復にほかならない。表向きの旗印が税権回復であれ法権回復であれ、行政権の回復こそ日本政府による条約改正要求の中心に置かれたのだ。
 初期の明治政府の内部には、外国人を日本の法律に服させるために領事裁判権の廃止を求める法権重視の立場と、貿易収支の悪化や正貨流出を危惧して関税自主権の回復を求める税権強調の立場の2潮流があった。条約以上に不平等な日常の生活状況は政治家なら誰でも解決したくなる政治課題であった。
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 “外人の言い草はなんでみんな通るのか”とか“西洋人が人力車夫を殴っても巡査は手を出せず外人は得なものだ”といった怨嗟(えんさ)の声が巷(ちまた)に充ちあふれていた(五百旗頭薫『条約改正史』有斐閣)。とはいえ、国の現状で待ったなしに深刻なのは、地方の金融を停滞させた輸入超過や正貨流出の被害のほうである。
貿易上の不利撤廃目指す
 寺島宗則は、この解決のために関税自主権と貿易規則制定権の回復を目指した。貿易規則とは、貿易への取り締まりや課税に関する規則を広く意味する。
 最初に反応したのは米国政府と駐米公使の吉田清成であった。吉田は寺島に対して、他国からの輸入品よりも高い関税を米国に課さないことを条件に関税自主権回復の条約締結を提案した。
 寺島は、他の条約国の心証を害することを危惧し、米国からは正式な合意でなく言質をとるだけでよいと指示した。結果として寺島は、吉田の提案に同意するが、興味深いのは大蔵少輔から特命全権公使に転出した吉田が大臣の指示に公然と異を唱えたことである。
 これはやがて、欧州でも英仏独駐在の公使たちが寺島に反抗することで、大臣対現地駐在外交官の対立構図にも発展した。吉田も薩摩人であり、後世のように官僚と政治家との間に明白な職分の違いがなかったにせよ、交渉を総攬(そうらん)する大臣の意図をしばしば現地から覆されたのだからたまったものではない。
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大きかった在外公使裁量権
 寺島外務卿が出先を統制できなかったのは、文字通り当時の大公使らが「特命全権」だったからである。五百旗頭氏も指摘するように、その時分の電報は高価であり、船便での通信は日欧で1カ月半、日米で1カ月ほども要した。いまのように、本省からの訓令が暗号デジタル通信で瞬時に届く御時世ではないのである。日本国がまだ小さく大使でなく公使の交換しか許されなかった時代の権力外交でも、在外公使の裁量権は驚くほど大きかった。逆に、東京在住の外国公使たちの権力も大きく、しばしば本国との間に懸隔を生んだものである。(やまうち まさゆき)

【プロフィル】寺島宗則
 てらしま・むねのり 天保3(1832)年、薩摩(鹿児島)生まれ。別名は松木弘安。江戸で蘭学を学び、幕府の蕃書調所教授手伝となる。文久元(1861)年、幕府遣欧使節に参加。翌年の帰国後鹿児島に戻る。維新後、駐英公使を経て明治6(1873)年に参議兼外務卿となり、不平等条約の改正交渉に取り組む。のち元老院議長、枢密院副議長を歴任し、明治26年に死去した。


【ダン吉 南海に駆けた男】将口泰浩(5)差別を受ける土佐郷士
 上士と郷士(ごうし)を含む下士。幕末から自由民権運動までに至る土佐の爆発的エネルギーと複雑怪奇さはこの独特の身分制度に端を発する。
 上士は家老、中老、馬廻、小姓組、留守居組から成り、下士は徒士(かち)、足軽、奉公人などで、その最上位に郷士が位置した。関ヶ原の戦いで東軍についた山内一豊(やまのうち・かずとよ)は「一領具足(いちりょうぐそく)」と呼ばれた長宗我部元親(ちょうそかべ・もとちか)の旧臣を懐柔するため、郷士に取り立てた。新田開発の功績などでも郷士になることができ、一六六四年には上士の三倍に当たる千二十七人に膨らみ、土佐藩は山内家臣団の上士と旧長宗我部家臣団の郷士の二重構造だった。
 その後も生活が困窮した郷士が郷士株を売買するなどして、豪農や豪商が「譲り受け郷士」になり、武道や学問に精通した知識階級を作り上げ、武市半平太を中心にした土佐勤王党の中心メンバーとなり、坂本龍馬を生み、自由民権運動の担い手になった。
 郷士らの下士は上士の差別下にあり常に対立していた。その上、下士の中にも細かい身分制度が敷かれ、幕末に多くの脱藩者を出し、「脱藩」と「暗殺」は土佐の専売特許といわれた。脱藩者は伊予との国境を越えると「これからはおらとおまんでいこう」と言った。
 同じような身分制度があった薩摩藩は脱藩者はほとんど出していない。薩摩は薩摩だけで一つの思考が完結する。親分の西郷隆盛が「行く」と言ったら理由など必要がない。身分の上下を問わず行くだけである。「死ぬ」といえば死ぬだけである。だからこそ身分にとらわれずに接した西郷は下級武士から信頼を得た。これに対し、土佐人には「義」がいる。行くにも、死ぬにも「義」がないと動かない。
 厳しい身分制度から抜け、新世界を求める意欲と太平洋をおらが池と唄った地形が「世界の自由人」である土佐人を作り上げたといえる。
 森家の祖先は土佐東部の田野の開墾を認められ、郷士に取り立てられ、森保助の三男として生まれた可造(かぞう)は船奉行所で勤務していた。しかし、明治元(一八六八)年に版籍奉還。武士階級は路頭に迷うことになった。
 --寄席を出そうか 高利を貸すか やっぱり士族の商法だんべ オヤマカチャンリン
 可造も生活に困窮した一人だった。明治二(一八六九)年十月十五日、可造と加奈の次男として、男児が生まれた。職を失った可造は仁井田から城下の北新町に越していた。
 男児の名前は小弁(こべん)。旧字で弁は小辨と書く。珍しい名である。●は二人並んで誓約することを示し、原告と被告とに争う意味があり、中の刀はものを両断するときに使う。このため、原告と被告双方の主張を聞き、訴訟を裁くという意味になる。
 可造が船奉行所に勤めていた自らを投影した名付けだった。この時代、成長につれ名を変えていくのが通例であるが、森小弁は死ぬまで幼名を通し、「辨」の字源通りの生涯を送ることになる。
●=辛を横に二つ並べる


【ダン吉 南海に駆けた男】将口泰浩(6)板垣死すとも自由は
 小弁(こべん)が誕生した時、可造(かぞう)にはすでに長男の正教、長女の仲、次女の美代がいた。鳥羽伏見の戦いで兄が戦死したため、可造は横目付に昇格したが、それでも版籍奉還後は職がなく、生活は貧窮を極めていた。このころ、特権を失い路頭に迷った不平士族が煽動した反新政府運動が全国で頻発、物々しい雰囲気であった。
 高知でも明治四(一八七一)年、「膏(あぶら)取り一揆」が起きた。
 五台山に建設された吸江(ぎゅうこう)病院では外国人医師が治療に当たっていた。それがなぜか西洋人の滋養強壮のために日本人から膏を取っているというデマとなり、痛くもかゆくもないうちに笑いながら膏を取られ、青くなって死んでいくという。県庁を攻撃目標にし、竹槍や鍬を手にした農民千人が集結する騒ぎになった。
 攘夷攘夷に明け暮れていた幕末から御一新の世になったとたん、異人びいきに変わった新政府に庶民の感覚はついて行けなかったのだ。
 高知には元士族、農民ともに新政府に対する不平不満がたまり、自由民権運動の卸問屋になる素地は十分であった。
 明治五年、可造の就職が大坂裁判所に決まった。役職は解部(ときべ)で、現在の判事に当たる。大阪の土佐堀二丁目に居を構えた。
 さらに十一年には奈良裁判長に出世。小弁も中筋小学校に転校し、小学校に通う傍ら、「おまんは(※)わりことしいや」という理由で、厳格な教育で知られた佐々木漢学塾に通わされ、漢学の素養を身に付けた。順調であれば、中学校に進学し、官僚や軍人になっていたに違いない。しかし十三年十月、可造が急死。小弁は仁井田に舞い戻り、隠居していた祖父である保助の養子となった。祖父の資産を孫が受け継ぐ「嫡孫(ちゃくそん)制度」といわれる。
 小学校を終えると、藩主だった山内(やまのうち)家が軍人養成のために設立した九反田の海南私塾に入学する。学生の多くは陸軍士官学校や海軍兵学校への進学を目指していた。しかし、塾内には軍人とは正反対である自由民権運動に共鳴する雰囲気が濃厚に漂っていた。
 自由民権運動を常にリードしたのは土佐藩の上士出身の板垣退助である。明治六年、征韓論に敗れ、後藤象二郎らとともに下野。高知に戻り、「人民ハ国ノ本ナリ」とする政治結社「立志社」を創立。立志社は立志学舎という学校も設立した。海南私塾の学舎が明治十三年に廃校になった立志学舎の学舎を使用し、その卒業生がそのまま通っていたことも理由に挙げられる。
 小弁は仁井田から塾まで、五台山を抜け鏡川を渡る道のりを毎日、歩いた。佐々木漢学塾とは違うベンサムやミル、ギゾーなどの著書を教科書に使用した西洋思想の講義も新鮮で、片道二時間も苦にならなかった。
 明治十五年四月六日、自由党新聞の号外が高知の街に舞った。
 --板垣、死ストモ自由ハ死セズ


徳川将軍コーヒー:「18代」から、こだわりの味を継承
「徳川18代将軍」がこだわり続けたコーヒー焙煎(ばいせん)の世界から去った。徳川慶朝(よしとも)さん(60)=茨城県ひたちなか市=が追究してきたのは、曽祖父で最後の将軍、徳川慶喜公(1837~1913年)が日本で記録に残る限り最初に宴席でふるまったとされるコーヒーの味や香り。自ら再現した「徳川将軍コーヒー」は、同市を中心に展開するコーヒー専門店の専務ら若手に引き継ぐ。
 慶喜公は1867年の大政奉還が目前に迫った時期、大坂城に欧米の公使を招いて宴席でコーヒーを出したことが他の料理と共に幕末期の外交史料に残されている。しかし、豆の種類や輸入経路は分かっていない。そこで徳川さんは、当時の生産量の多さや交易ルートから豆はインドネシア・ジャワ島産、宴会にはフランス人コックを雇っていたことから味は苦めのフレンチロースト。燃料は炭やコークス……などと推測。江戸幕府成立400年の03年に世に出したのが、「徳川将軍コーヒー」だった。
 このコーヒーの商品化を持ち掛けたのは、「サザコーヒー」専務の鈴木太郎さん(41)だった。鈴木さんは「包装に葵(あおい)の御紋を付ければ売れる」程度の考えだったが、無類のコーヒー好きで写真家の徳川さんが「本物志向の商品開発をしよう」と逆提案、こだわりの味を生み出した。
 その後も、徳川さんは週1回程度、同市内の店に出向いて、小型の直火釜を使っては焙煎。コーヒー豆のはぜる音とタイミングを見計らい、自分の手で深煎りの味に仕上げることにこだわった。
 しかし、昨年12月25日で引退。これからは、趣味の海外旅行を存分に楽しむつもりだ。
 「自分の好きな味の商品を多くの人に買ってもらって良かった」 自ら煎った最後の豆を前に徳川さんは満足そうに8年間を振り返った。【山崎明子】






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