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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
 今日は夕方から志の輔らくごを聴きにいきます。

埼玉
文化審答申:「鴻巣の赤物製作技術」重文に 玩具作りで全国初 /埼玉
◇「職人技認められた」
 国の文化審議会(西原鈴子会長)は21日、本県を代表する縁起物の郷土玩具「鴻巣の赤物製作技術」を重要無形民俗文化財に指定するよう、文部科学相に答申した。県内の同文化財指定は7件目。玩具の製作技術では全国初の快挙に、関係者らは「子供の健康を願う優しい気持ちとすべて手作業の職人技が認められた」と、喜びをかみしめている。【清水隆明】

 ●疱瘡よけを願い

 「鴻巣の赤物」とは、鴻巣市人形地区に伝わる、ダルマや獅子頭など赤い色をした人形のこと。赤は、子供の命にもかかわる病気として恐れられた疱瘡(ほうそう)(天然痘)よけの色として使われた。

 かつては桐(きり)だんすの産地で材料のおがくずが入手しやすかったこと、中山道沿いの宿場町で多く販売できたことなどで、幕末から大正期にかけて発展した。最盛期には製作する店が約30あったといい、現在も3軒が赤物作りに携わっている。

 ●手間を惜しまず

 このうち、1834(天保5)年創業の人形製造卸販売「太刀屋」では、13代目の大塚文武さん(67)をはじめ家族4人で製作している。木枠に、おがくずと正麩糊(しょうふのり)(でんぷん)を混ぜた練り物を詰めて型抜きして乾燥させ、塗料を筆で塗る。1個作るのに半年もかかる。機械に頼らず、気の抜けない細かな仕事ばかりだが、大塚さんは「昔通りに手間を惜しまないことが素朴で温かみのある作品に仕上がる」と説明する。

 答申では、子供の成長を願う民間信仰が背景にあったこと、全工程で伝統的な作り方が継承されている点などが評価された。

 同文化財指定に「私というより、創業者から長年取り組んできた努力が報われてうれしい」とほほ笑む大塚さん。「亀金(カメに乗った金太郎)や犬金(犬にまたがった金太郎)など、今はなくなった作品を復活させたい」と、一層の創作意欲を見せている。


東京
140年前の江戸城を撮った男 江戸東京博物館で企画展
 幕末から明治にかけての激動期に歴史に残る数多くの貴重な写真を撮った日本人に焦点を当てた企画展「140年前の江戸城を撮った男――横山松三郎」が、墨田区の江戸東京博物館で開かれている。西洋から学んだ最先端技術を使って撮影に挑む当時の様子を伝える写真や初公開のガラス原板など約140点が展示されている。3月6日まで。

 横山は1838(天保9)年に千島列島の択捉島で生まれ、その後家族と移り住んだ箱館(函館)で写真を知ったという。努力して技術を習得し、68(慶応4)年に東京・両国で写真館を開業、間もなく現在の台東区池之端1丁目あたりに写真館「通天楼」を開業した。当時の写真は、ガラス板に感光乳剤を引き、それが乾かないうちに撮影、現像する「コロディオン湿技法」と呼ばれるものだった。

 企画展の主題にもなっている旧江戸城の撮影は71(明治4)年3月に、当時の政府の命を受けて行われた。そのとき撮影された写真に絵師の高橋由一が彩色した64枚からなる「旧江戸城写真帖(ちょう)」(東京国立博物館蔵、重要文化財)に付された文書からは、次第に荒廃していく旧江戸城の姿を写真で残そうとした意図が伝わる。壁が崩れ落ち、草が生い茂った場内に武士姿の人たちが写っている「本丸北詰橋(はねばし)門・岩岐多聞櫓(やぐら)」などがその代表例だ。

 企画を担当した岡塚章子学芸員は「来日した外国人も江戸城を撮っているが、多くがかっこいい姿を伝える写真になっている。横山の写真には、ありのまま当時の姿を社会的なまなざしでとらえ、変わりゆく時代を写そうという意図が感じられる」と話す。写真帖が修復作業中のため、彩色された写真と江戸東京博物館が所蔵するガラス原板を、一部間近で対比しながら鑑賞できるのも興味深い。

 「写真を使った文化財調査の最初期」(岡塚学芸員)として、72年に法隆寺や東大寺、京都御所などで行われた「社寺宝物調査」の写真も初出品されている。時代とともに髪形や服装が変わっていく横山自身の写真やスタジオ風景、15センチほどの大きさで1枚が1円という83年当時の写真価格表も展示されている。同館によると現在の価値で8万円ほどといい、写真が高価な貴重品だったことが分かる。

 開館時間は午前9時半~午後5時半(土は7時半)、月曜休館。常設展示観覧料(一般600円など)で入場できる。問い合わせは同館(03・3626・9974)。(小渕明洋)



幕末から明治を撮り続けた日本のダヴィンチ「140年前の江戸城を撮った男―横山松三郎展」江戸東京博物館
  140年前の江戸城を撮影した日本のダヴィンチ・横山松三郎

  140年前の江戸城の写真があるってご存じでしょうか?東京都墨田区の江戸東京博物館では、幕末から明治にかけて写真を中心に活躍した「日本のダビンチ」こと、横山松三郎の展覧会「140年前の江戸城を撮った男―横山松三郎展」を1月18日(火)から3月6日(日)まで開催中です。

  貴重な「140年前の江戸城」撮影したガラス原板をはじめ、幕末から明治、江戸から東京へと移り変わる激動の時代を写した、横山松三郎の全容をはじめて公開する展覧会です。

  重要文化財「旧江戸城写真ガラス原板」など貴重な資料を展示

  択捉島(えとろふ)出身の横山松三郎は、幕末期に到来した写真に興味を抱き、独力で技術を習得し、上野池之端に写真館「通天樓」を開き、多くの歴史的な写真を撮影します。また、石版や油彩画など西洋から伝来した芸術表現も積極的に取り入れるなど、現代の「メディア・アーティスト」にも通じる活動をしました。

  この展覧会では、140年前の江戸城を撮影したとされる重要文化財「旧江戸城写真ガラス原板」や、非常に珍しい「壬申検査関係ステレオ写真ガラス原板」など貴重な資料を展示。近代の幕開けを生きた「日本のダビンチ」のすべてに迫ります。

  「140年前の江戸城を撮った男―横山松三郎展」
江戸東京博物館 常設展示室5階
東京都墨田区横網1-4-1
03-3626-9974(代表)
開催期間/1月18日(火)~3月06日(日) 
開館時間/9:30~17:30(土曜日は19:30まで)
※入館は閉館の30分前まで
料金/600円(情報提供:大人の社会見学ニュース)


神奈川
坂本龍馬と過ごした女性たち
 幕末・維新の英雄、坂本龍馬。彼の周囲にいた元気で個性的な女性たちのことを学ぶ講座が海老名市役所7階会議室で開かれる。

 日時は2月19日(土)午前10時から正午まで(9時30分開場)。参加費無料で要申込み、定員は先着順に50人。講師は松蔭大学講師の伊東秀征氏が務める。

 日本初のハネムーンに出かけた龍馬の妻・お龍さんや、「男に出来て女に出来ないことはない」と言った龍馬の姉・乙女さん、北辰一刀流の千葉道場主の娘・佐那子さんなど、激動の時代を龍馬と共にした女性たちの生涯を知り、現代にも通じる彼女たちの魅力溢れる生き方を学ぶ。

 申込み・問合せは市広聴相談課【電話】046(235)4568まで。


守れ文化財、湘南地区でも消防訓練、茅ケ崎では旧和田家で実施/神奈川
 文化財防火デーの26日に合わせ、湘南地区の各消防本部でも管轄内の文化財を対象に消防訓練を実施する。20日には同地区のトップを切って、茅ケ崎市消防本部が市内の古民家で訓練を行った。

 訓練が行われたのは、同市堤にある古民家「市民俗資料館旧和田家」。江戸時代に萩園村の村役人を務めた和田家の住宅で、幕末65 件の大型民家の特徴を備えている。1982年7月に市の重要文化財に指定され、85年に現在の場所に移築・復元された。

 訓練は、火の付いたたばこで枯れ草が延焼。強風の影響で旧和田家にも飛び火したとの想定で行われ、市消防本部などから約30人が参加した。「火事だー」。火災に気付いた管理者が119番通報し、到着した消防隊が古民家に向かって一斉放水した。

 その他の消防本部は24日に平塚市、26日に藤沢市・寒川町・二宮町、30日に大磯町がそれぞれ訓練を実施する予定。



長野
レルヒ少佐からスキーを学び、日本に普及させた、堀内文治郎の顕彰板を出身地の松代に建てた
 日本にスキーが伝えられて今年でちょうど100年になるのに合わせ、長野市の観光誘客事業「松代イヤー」の実行委員会は17日、日本で初めてスキーを学び技術普及に貢献した松代出身の堀内文治郎(1863~1942)を顕彰する看板を、松代町御安町の生誕地に立てた。

 文治郎は旧陸軍で大本営陸軍部副官などを歴任。新潟県高田(現・上越市)で歩兵連隊長を務めた1911(明治44)年、オーストリアの交換将校として来日したレルヒ少佐からスキーを学び、このときが日本スキーの発祥とされる。文治郎はその後、スキー技術や道具の普及にも努めた。

 看板は木製で、高さ1・5㍍。文治郎の似顔絵入りで、略歴やスキー伝承の経緯を紹介している。各地で日本スキー発祥100年の記念行事が行われている折、同実行委は「今年こそ市民に文治郎を知ってもらうチャンス」と期待している。

 松代イヤー事業の一環で、実行委はこのほか、今年生誕200年を迎える幕末の思想家佐久間象山にゆかりの地など、地元が輩出した4人に関係する場所にも同日中に案内板を立てた。

(提供:長野市民新聞)

岐阜
企画展:芝居浮世絵版画、27点展示--瑞浪 /岐阜
 瑞浪市明世町のミュージアム中仙道で、美濃歌舞伎復興40周年と芝居小屋「相生座」の再建35周年を記念した企画展「芝居浮世絵版画展」が開かれている。3月27日まで。

 同館収蔵の豊斎の「絵本太功記二段目 本能寺」や芳兼・芳嘉の「碁太平記白石噺」、国周の「歌舞伎十八番勧進帳」など27点を展示。今も演じられている舞台の名場面を描いた作品が大半で、市川家のお家芸である“にらみ”を利かせた芝居絵が目を引いている。江戸中村座の顔見世の様子など、当時の風俗を生き生きと描いた作品もある。いずれも幕末から明治中期ごろに制作された版画。横長に3枚つながれた作品は、版元が違うにもかかわらず、サイズも絵柄もピタリと合い、規格が設けられていたことをうかがわせる。

 入館料300円、中学生以下無料。月曜休館。今月25日は臨時休館。【小林哲夫】


大阪
花嫁のれん展 関西で初開催 2月3日か
 旧加賀藩(石川県)の商家などに伝わる風習「花嫁のれん」を紹介する「花嫁のれん展in関西」が2月3日から、大阪府豊中市の国登録文化財「奥野家住宅」内のギャラリーで開かれる。同展は石川県七尾市の旧市街にある商店街「一本杉通り」で2004年から開かれ、人気を集めている。東京や名古屋でも開催しており、関西では初開催となる。
 花嫁のれんは加賀藩の領地だった能登・加賀・越中地方の一部に今も伝わる婚礼の風習で、加賀友禅を基調に松竹梅や鶴、ボタンなどおめでたい意匠をあしらったのれん(縦横約2メートル)を、花嫁が嫁入りの時に持参。婚家の仏間の入り口に飾ってくぐり、先祖の仏前でお参りをしてから結婚式を始める。幕末から明治初期のころに始まったとされる。
 七尾市の「一本杉通り」で04年、商店街のおかみさん5人がたんすに眠っていたのれんを店先に飾る「のれん展」を初めて開催。翌年からは地元のカップルが風習にのっとった結婚式を挙げる「花嫁道中」も始めた。10年4~5月に開いた「のれん展」は約8万2千人が訪れる人気ぶりで、名古屋、東京でも展示会を開いた。昨秋には「花嫁のれん」を題名にした連続ドラマが全国放映された。
 関西初の展示会は、商店街の店主らでつくる「一本杉通り振興会」などが豊中市中桜塚2丁目の国登録文化財・奥野家住宅内の「ギャラリー桜の庄兵衛」で開く。江戸後期と推定される伝統的農家建築の会場では、一本杉通りでしょうゆ店を営む鳥居正子さん(56)ら17人が、持参したのれん10本を掛け、来場者に花嫁のれんの風習や思い出、自然あふれた七尾の魅力などを語る。
 鳥井さんは娘(33)の着物の生地で手作りしたのれんを持参する予定。「のれんは母が娘に託すもので、それぞれに物語がある。のれんをきっかけにした出会いを楽しみにしたい」と話した。
 2月3~7日の午前10時半~午後4時。入場無料。問い合わせは七尾市観光協会(0767・53・8424)へ。


大阪
「京の匠たち・美の系譜」を開催
 ウェーブ産経の文化サロン「京の匠たち・美の系譜」の第1回が1月20日、大阪市北区の産経新聞梅田オフィスで開かれ、会員約60人が参加しました。京都観光の企画プロデュース会社「らくたび」代表の山村純也さんが「日本の絵画史上最高のエリート集団〝狩野派〟」と題し、室町後期から江戸時代にかけ栄華を極めた狩野派を解説しました。

 最初に、密教の教えを伝える曼荼羅図が登場したのが800年ごろ、狩野派の〝始祖〟の正信が室町幕府の御用絵師になったのが1500年ごろ、その700年の間に、明兆、如拙、周文などがいたと説明しました。

 山村さんは「室町~江戸の400年間、狩野派は御用絵師として活躍したが、世界史上でもこれほど長期の例はない。優れた作品はもちろん、時の権力者への政治力を備えていた」と指摘しました。

 〝始祖〟の正信は、水墨画にとどまらず、肖像画、仏画なども手がけ、万人を喜ばせたいわれ、正信の子、元信はさらに支持者を広げ、狩野派の「型」を創造したといわれいます。

 そして、元信の孫、永徳は10歳で将軍、足利義輝に謁見を許されるなど、その才能は早くから注目されました。勇壮でスケール感あふれる表現は、戦国時代という時代性もあり、織田信長、豊臣秀吉など武将に好まれたといわれています。

 江戸時代になると、永徳の孫、探幽が頭角をあらわします。永徳の再来、早熟の天才といわれ、余白を単なる余りではなく、情感を伝える空間まで高めた「余白の美」が特徴とされています。

 山村さんは「軽く感じる人もいるようだが、描かなければならないもの、描かなくてもよいものを、峻別しているのではないか」と感想を語りました。

 江戸幕府の成立にともない、狩野派も江戸に移るが、永徳の養子の山楽は京都にとどまり、のち京狩野として幕末まで続く。京都という土地柄、豊臣家から仕事を請け負っていたため、山楽は大坂の陣をきっかけに一時、徳川から敵方とみなされました。

 江戸に移った狩野派は、江戸後期になると、生まれつきの天性の質を備えた「画質」より、学習して学んだ「学画」を重視するようになります。徹底して「型」(粉本)を覚え込ませるため、狩野派画塾の最大の特徴として「粉本教育」といわれています。

 例えば、14、15歳で入門すると、卒業までに11、12年かかったといわれてます。

 しかし、斬新な画法が生まれないなど、マイナスの面もあり、最大の発注者の江戸幕府が倒幕されると、狩野派も衰退に向かいました。

 第2回は2月10日。「斬新な美しさの構築を成し遂げた〝琳派〟」を取り上げます。


和歌山
江戸時代の番所記録 串本の潮崎さん保管
 和歌山県串本町潮岬の潮崎洋さん(69)は、江戸時代に紀州藩が潮岬沖を航行する船を見張っていた様子などをかいた文書や絵を自宅に保管している。このほど記録を解読した古座古文書研究会代表の谷口哲夫さん(79)=同町神野川=は「潮岬が国防の第一線だったことを示す貴重な資料」と話している。

 潮崎さんの先祖の潮崎利右衛門という人が江戸時代、海防組織の遠見番所に勤務していた。潮崎さんが保管している「旧紀州藩遠見番所記録」と書かれた箱には、潮岬沖を通る船を描いた絵や外国船を見掛けた時の対処法などについて書いた書物が入っている。1929年、昭和天皇が行幸で潮岬を訪れた時、潮崎さんの祖父が昭和天皇に見せたという。

 書物に記録されている年代は寛永20(1643)年から慶応4(1868)年まで幅広いが、谷口さんによると、筆跡が似ていることから同時期に書かれたものではないかという。

 文化5(1808)年の「御用状控帳」には、ロシア船が日本に来た時の対処の仕方について、紀州藩からの通達で「蝦夷の島々で狼藉(ろうぜき)に及んだロシア船を見掛けたら厳重に打ち払え。遭難漂着に紛れている場合もあるので注意するように」と書かれている。

 嘉永3(1850)年の「御用状留帳」には、紀州藩からの通達で「大筒(大砲)やのろし場を決められた場所に置き、土地の侍と訓練するなど準備を怠らないこと。ただし、決まり事にこだわらず、臨機応変に」などと書かれている。

 慶応4年の「御用船之控」には、一年を通して軍用船が通った日や時間、本数が記されている。この年は明治に変わった年で、戊辰戦争で軍用船の動きが激化していたことから、船の動きを克明に記録している。

 外国船を判別するための絵図もあり、ロシア、オランダ、中国、琉球の船と国旗がカラーで描かれている。

 遠見番所の記録は串本町史にも掲載されているが、谷口さんが遠見番所記録の現物を元に、昨年12月から自宅で1カ月ほどかけて解読し直した。

 谷口さんは「当時の人は外国が攻めて来た時の備えを真剣に考えていた。串本には現在、自衛隊の駐屯基地があり、歴史のつながりを感じる」と話している。



兵庫
貴重な江戸時代の寄付状発見 香美町・長楽寺
 但馬大仏で知られている兵庫県香美町村岡区川会の長楽寺(五十嵐啓道住職)から江戸時代の村岡・山名藩の歴代藩主が同寺に土地などを寄進していたことを示す貴重な「寄付状」が発見された。山名藩が代々、同寺を重要な存在と考えていたことを裏付ける内容。山名藩の歴代藩主の直筆のまとまった寄付状が見つかったことについて歴史研究家や同寺檀家、山名藩の関係者らから「歴史的に価値がある」と注目されている。

長楽寺で発見された山名藩主代々の貴重な「寄付状」(写真は9代・義蕃公のもの)=5日、香美町村岡区川会、長楽寺
 同寺は、歴史的な史料を総合的に調査しようと昨年から倉庫に収めてある古文書などの調査に着手しており、殿様の寄付状は倉庫にあった古い桐の箱の中から発見された。これまで同寺では、1912(明治45)年12月の地元川会地区の大火災によってご本尊と過去帳以外はすべて焼失したとされていた。

 発見された寄付状は、実質江戸に住み、村岡藩に帰らなかった初代(豊国)と2代(豊政)を除き、3代・矩豊公から11代・義済公までのうちの7人分。年代的には江戸時代前期の1689年(元禄2)から幕末の1860年(万延元)までの間で、約170年の歴史の厚みを感じさせている。

 それぞれの寄付状には、寄付の理由について、長楽寺に安置されている薬師如来を修理・保全するためなどと説明しているほか、寄付する石高なども明記。藩主が自ら書いたことを示す花押が記されている。

 箱の中には寄付状のほかに、当時の家老が記した「田畑所付」も九つ見つかっており、寄進された土地や畑の場所名、収穫見込みの石高などの明細が詳しく記帳されている。

 調査に当たった郷土歴史研究家で、同寺総代の同区長板、古川哲男さんは「山名藩の代々の殿様のお墨付きの寄付状が残されているのは珍しい。貴重な歴史の史料で長楽寺の大切な宝物だ」と話している。

 また五十嵐住職は「これまでご本尊と過去帳以外はすべて焼失したと伝えられていたので、寄付状の発見にはびっくりしている。長楽寺の宝として大切に保存し、機会を見て檀家や一般にも公開したい」と話している。




高知
龍馬ふるさと博:9観光施設、偉人伝ミュージアム承認--推進協議会 /高知
 3月5日に開幕する観光イベント「志国高知 龍馬ふるさと博」の第1回推進協議会が19日、高知市内のホテルであり、県立坂本龍馬記念館など9観光施設を「ふるさと博偉人伝ミュージアム」とすることを承認した。

 会長の尾崎正直知事や、県内市町村長ら約150人が出席した。事務局が「こうち旅広場」と命名されたJR高知駅前のメーン会場について説明。現存の観光情報発信館「とさてらす」に加え、大河ドラマで使われた坂本龍馬の生家セットを展示する「『龍馬伝』幕末志士社中」と、イベント広場の総称となる。セットは車椅子を使う観光客のためにスロープを設置するなど、若干手を加えるという。

 同ミュージアムは、その土地ゆかりの偉人を紹介する企画展などを実施する施設。7市町村の9カ所が選ばれた。また、地域の花を生かした「ふるさと博花絵巻」の会場に、四万十市トンボ自然公園など3市村の3観光施設を選定。いずれも「1次候補」の位置付けで、今後追加される可能性もある。

 会終了後は、ふるさと博のラッピングバスがお披露目された。高知-東京の「ブルーメッツ号」(1日1往復)と、高知-大阪の「よさこい号」(1日10往復、ラッピングバスは1日1往復)で既に運行している。【千脇康平】


佐賀
三重津海軍所跡で発掘調査公開 200人が見学
 世界遺産登録を目指して佐賀市が調査を進めている佐賀藩の洋式船基地、三重津海軍所跡(佐賀市川副町)で22日、発掘調査の一般公開があった。市民約200人が、船を入れたドックの木製護岸などを見学。幕末に蒸気船を手掛けた佐賀藩の近代技術に思いをはせた。
 
 発掘現場は早津江川のほとりで、これまでの調査で約30メートルの直線的な木製護岸が確認された。
 
 大きな穴が掘られた現場には丸太や板を打ち込んだ護岸が姿を見せており、発掘担当者が遺構を示して「絵図などからドックは当初、袋状と予想されていたが、実際は直線で蒸気船の修理に適した形状だったことが分かった」と発掘成果を説明。護岸の一部は強固な構造で「木を使う日本の伝統技法を、西洋技術の導入に役立てた点は興味深い」などと話した。
 
 熱心に説明を聞いていた佐賀市の男性(57)は「技術の高さに感心し、佐賀藩の先進性を感じた」、川副町の女性(60)は「ドックの存在が証明されたわけで、世界遺産への大きな一歩」と目を輝かせた。
 
 ドックの発掘は今回で終了する予定で、説明会は遺構を埋め戻す前に広く見てもらおうと市教委が開いた。


長崎
演劇:「上野彦馬」市民劇 県が役者、スタッフ募集 3月13日に長崎で上演 /長崎
 県は、3月13日にメルカつきまち(長崎市築町)で上演する市民劇「ホトガラフィー~写真師彦馬撮影控」に出演する役者やスタッフを募集している。

 県は08年から、諫早市出身の脚本家、市川森一さん(69)らを講師に招き、プロの役者や戯曲家を養成する「長崎座」に取り組んでいる。この中で、長崎を題材とした戯曲を創る「戯曲工房」の受講生らが、上野彦馬(1838~1904年)が長崎に開いた日本初の写真館「上野撮影局」を舞台に、街の人々との交流を描いた。

 上演には、市民劇団「しっぽくパラダイス」が協力。出演者のうち、幕末の長崎で日本初の西洋料理店「良林亭」を開いた草野丈吉(1840~86年)役の30~40代の男性がまだ決まっていないという。合わせて衣装、舞台美術や楽屋整理などのスタッフも求めている。申し込みは、制作事務局(090・4993・3594)。【錦織祐一】


グラバー没後100年、記念イベント4月から本格化
 幕末から明治にかけ、日本の近代化に貢献した貿易商トーマス・グラバー(1838~1911年)が亡くなってから、今年で100年を迎える。長崎市のグラバー園では4月から、軌跡をたどるパネル展示や記念パレードなどのイベントを本格化させる。関係者は「観光地としては有名でも、人物像はあまり知られていない。功績が市民に浸透するきっかけにしたい」と話している。

 グラバーは英国スコットランド出身。21歳の時、貿易商社員として長崎に移り、3年後に「グラバー商会」を設立。西南雄藩などに武器や船を供給し、薩長藩士の英国留学を支援した。一方で、故郷から専門家を招き、長崎市小菅町に日本初の修船所を開設し、炭鉱の技術発展に貢献。ビール業界にも目を付け、「キリンラガービール」のラベルの原型を提案したことでも知られる。

 グラバーらの研究を続けるブライアン・バークガフニ長崎総合科学大教授(60)によると、1918年2月21日付の英字新聞「ザ・ナガサキ・プレス」には、艦長も水兵も分け隔て無く接する一面やパーティーで客に飲み物を配る細やかさなどの人柄が記されているという。

 邸宅が残るグラバー園では4月以降、年間イベントを企画。花のフェスティバルの時期に園周辺でパレードを行うほか、日本の近代化に果たした役割を顕彰するパネル展示などを計画している。

 同園の指定管理者「長崎歴史の街 共生グループ」のウォーカー・ジェームス正良さん(36)は「観光客が園に抱くイメージは、異国情緒あふれるという漠然としたもの。没後100年を迎える12月に向け、グラバーという人物そのものをPRしたい」と張り切る。

 バークガフニ教授は「日記などの資料が乏しく、グラバー研究者は少ない。その行動力や人脈の豊かさを見直せば、停滞する現代の日本社会が学ぶことも多いのでは」と話している。


エンターテインメント
[宝塚歌劇団]史上初OG17人が「次郎長三國志」に挑戦 榛名由梨ら往年のトップスターが勢ぞろい
 宝塚歌劇団OG総勢17人が出演する舞台「勢揃い、清水港 次郎長三國志」が21日、博品館劇場(東京都中央区)で開幕した。主役の清水次郎長を演じた元月組トップの榛名由梨さんは「宝塚の長い歴史の中でも任侠ものは初めて。精いっぱい汗水たらして頑張ります」と意気込んだ。次郎長シリーズをやることは「夢のような話がやっと実現した。やり始めたらさすがに男役の元トップスター。さまになってきていると思う。次郎長役は背伸びが必要だけれど、人間的に成長できたと思う」と自信をにじませていた。

 「清水次郎長」は、幕末に活躍した侠客・清水次郎長こと山本長五郎の半生を描いた村上元三の長編小説シリーズで、舞台は森の石松を加えて次郎長一家がそろう「勢揃い清水港」をアレンジ。駿河国清水港に一家を構え、渡世に知られるようになった清水の次郎長。一宿一飯の恩で次郎長の命を狙った森の石松は、次郎長から受けた情けにほれ込み、逆に子分になる。都田一家の間柄はますます険悪になる中、けんかっ早い石松の扱いに手を焼く次郎長は、自らの愛刀「五字忠吉」を讃岐金比羅宮に奉納するように、修行を兼ねて旅の間は酒を飲まず、けんかもしないと約束させて使いに出す……という物語。

 「ベルサイユのばら」で初代オスカルを演じた榛名さんをはじめ、江尻の大熊役は元雪組トップの郷ちぐささん、森の石松を同じく元雪組トップスター汀夏子さん、石松の親友・小松村七五郎を元花組トップスターの高汐巴さんと豪華なキャストで、宝塚OG17人が出演する舞台は初めて。また、大衆演劇界のスター・竜小太郎さんも、謎の女お竜をはじめとする3役で出演する。

 郷さんは「長年休んでいましたが久々に出てまいりました。同期の榛名さんに守られてやっています」と話した。汀さんは「いろんな組でいろんな時期にやめた人々が集まって芝居をやれて幸せ」と喜び、高汐さんも「年始からにぎにぎしい舞台。華やかで凛と潔く演じさせていただきます」とうなずいた。関東綱五郎を演じたえまおゆうさんは「私が子供のころにあこがれたトップさんと演じられて感激。上級生の方々を突き飛ばして、偉そうに頑張りたいと思います」と緊張気味で、元星組トップスターの瀬戸内美八さんは「上下の規律を守りながら、和気あいあいとやっています」と話し、初の殺陣は「切られてくださる方がお上手なのでともかく楽しいチャンバラです」と笑顔で話していた。

 舞台は30日まで約3時間の上演となる。(毎日新聞デジタル)



コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】
(97)東大教授・山内昌之 玉蟲左太夫

治にも乱を忘れざる者   

 大学新卒者の就職難には関係者の一人としても胸が痛む。民主党政権もいろいろ尽力しているが、日本企業の海外シフトと関連する必要な人材と新卒者の大企業志向とのミスマッチも大きい。また、学生気質も変化しており、外国に出かける積極性が希薄な者も当世多いようだ。欧米やアジアはまだまだ多くの刺激に充(み)ち溢(あふ)れているというのに、狭い国内だけで充足してしまうのは日本の若者くらいではないか。

 鎖国を引きずった幕末でも若者は何とかして欧米に渡って未知の文物を見たいと熱望した。勝海舟は咸臨(かんりん)丸を操船して米国に渡り、福沢諭吉も欧米を広く見聞して帰国後に有為の人材を育てたのだ。

幕末の変動で悲劇の最期

 なかには、吉田松陰が渡航の夢を果たせず獄死したように、せっかく米国に出かけながら幕末の変動で悲劇の最期を迎えた人物もいた。仙台藩の内部抗争で死んだ玉蟲左太夫もその一人である。

 左太夫は、万延元(1860)年に修好通商条約批准書交換のために米国に出かけた正使新見豊前守(しんみぶぜんのかみ)の従者であり、その見聞記を『航米日録』に残した。『日本思想大系66・西洋見聞集』(岩波書店)に収められた日録は、因習にとらわれない好奇心旺盛な若者がひたむきに異国の世界に接して感動し、時に失望もする心の内面を率直に吐露している点でも現在の大学生に是非読んでもらいたい書物である。幸いに昨年、左太夫の子孫の山本三郎氏によって現代語訳されたので誰にも分かりやすく読みこなせるようになった(『仙台藩士幕末世界一周』荒蝦夷(あらえみし)発行・2205円)。

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 玉蟲左太夫の素晴らしいのは、言葉も通ぜず慣習の違う世界でも米国人の善意や美徳を理解できる素直さがあったことだ。水兵が死ぬと艦長まで葬送に参加して涙を流すあたりにも、初めは封建の世に育った武士らしく違和感をもったのに、まもなく人を分け隔てしない米国人の善意や人情に感心するようになる。

 また、米国発展の原動力として学校や病院などを見たいと希望するのに、万事に保守的な使節たちは土産などの購入に熱心で、市民との交遊に関心を示さない有り様に不満を漏らしもする。大統領や国務長官はじめ政府首脳が気取りもなく市民と面談するのを見て、日本の上下関係との違いにも驚いた。米国の礼儀のなさと日本の「礼法」のみの厳しさを比較して、礼法のみ厳しいよりも礼法薄くとも情の交わりが厚いほうがよいのではと米国流を評価するのも面白い(巻2、3月17日)。

米国の長所見逃さず

 かまびすしい議会を日本橋の魚市場みたいなものだと形容する比較の妙も興味深いが、玉蟲左太夫は民主国家の米国が封建国家の日本より勝っている点もしっかりと見逃さない。まずサンフランシスコからパナマに向かう折、左太夫は改めて米艦の士官も水兵も怠けずに「治乱一般」に平常心を維持することに感動した。この鍛錬があればこそ「大風波」や「風難」があっても互いに力を尽くして事態を平然と処理できるというのだ。

 これに比べて日本は200年以上も平和が続いたので何事も古い慣習にこだわり、積極的な業に励む者はいないと左太夫は手厳しい(巻8、3月28日)。まさに、何か起きれば「人皆狼狽(ろうばい)して其処置を失ふに至る」とは、まるで現代の日本政治にもあてはまりそうだ。

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 折角菅直人首相が、消費税や武器輸出三原則の見直しを打ち出しても、理解を示さず連立政権の足を引っ張る一部の政党人などは平時慣れするあまり、左太夫のいう「閑ができても昼寝するか酒を飲んで怠ける」と言われても仕方ないかもしれない。志のある者が後世のことを考えていろいろな策を建白しても、「愚人」と誹謗(ひぼう)されて志を実現できないのは、いまも同じであろう。

 内閣を改造した菅首相には、是非に左太夫のいう「治にも乱を忘れざる者」として危機感を広く国民に訴えてほしい。また未来を担う若者にも、かつて左太夫が相互に助け励ましあう米国人の美徳や「精勤」を見て、日本人として恥ずかしいと述べた素志を謙虚に学んでほしいのである。(やまうち まさゆき)

                   ◇

【プロフィル】玉蟲左太夫

 たまむし・さだゆう 文政6(1823)年、仙台藩士の家に生まれる。藩校「養賢堂」に学び、江戸に上る。箱館奉行の堀利煕(としひろ)に仕え、ともに蝦夷地を視察し、克明な記録を残す。万延元(1860)年、幕府遣米使節に加わり渡米。帰国後は仙台藩に戻り、戊辰戦争では奥羽越列藩同盟の成立に奔走したが、藩の降伏により投獄。明治2(1869)年、切腹させられた。


文化
 『新選組 幕末の青嵐』でデビューした木内昇氏が直木賞を受賞しましたね。
<芥川賞・直木賞>受賞者4人が会見 芥川賞はサラブレッドとフリーター 直木賞2人は自然体
 第144回芥川龍之介賞(以下芥川賞)・直木三十五賞(以下直木賞)の発表が17日、東京都内であり、それぞれの受賞者4人が個性あふれる会見を行った。

【写真特集】芥川賞・直木賞 受賞者4人の会見の様子

 芥川賞は朝吹真理子さん(26)の「きことわ」と西村賢太さん(43)の「苦役列車」が受賞。直木賞は木内昇(きうち・のぼり)さん(43)の「漂砂のうたう」と道尾秀介さん(35)の「月と蟹」の2作が受賞した。芥川賞、直木賞ともにダブル受賞となったのは、芥川賞に金原ひとみさんの「蛇にピアス」と綿矢りささんの「蹴りたい背中」、直木賞に江國香織さんの「号泣する準備はできていた」と京極夏彦さんの「後巷説百物語」が受賞した03年後期の第130回以来7年ぶり。

 現在、慶応大大学院に在籍中の朝吹さんは、初候補作での受賞。父は詩人で仏文学者の朝吹亮二さん、大叔母はフランソワーズ・サガンの「悲しみよこんにちは」などの翻訳で知られる朝吹登水子さん、シャンソン歌手の石井好子さんも大叔母にあたるという“サラブレッド”だ。スレンダーな体に黒のカットソーとスカートというシックな装いで、つめには赤いマニキュアを施して登場し、時折気品のある笑顔を見せながら質問に答えた。「常に、そっと読者であるあなたという人に届ける手紙のような気持ちで作品を書いている」といい、受賞作を「うそを完遂するということを一番の目的にした」と説明。小説の面白さを「うそがうそとして機能して、うそから生まれたうその世界を読み手が受け取ったときにうそが反転して真(まこと)として返ってくるところ」とコメントした。受賞によって作品が多くの人の目に触れることについて、「うれしく思います。(作品が)実際に読者であるあなたに届いて、作品を介してのやりとりを、もっと緊密にできると思うとワクワクします」と喜んだ。大江健三郎さん、町田康さんの作品を愛読しているという。

 一方、大きな体にブルーのネルシャツと革ジャン姿で登場した西村さんは、公立の中学を卒業後、これまでにフリーターなどで生計を立て、03年7月から同人雑誌「煉瓦」に参加して小説を書き始めたという経歴の持ち主。今回が3度目の候補作だった。「私小説にずっと救われてきた」といい、自身も私小説を執筆。創作中の様子を「ダメなヤツだなと思いながら書いていて、これは俺のことなんだと思ってがくっと落ち込んで、お酒に逃げて……。その繰り返しです」と振り返った。今後、仕事の依頼が増えるのでは?と聞かれると、「それはないと思います。あちこちから干されていますから。(受賞作が掲載された)『新潮』にも意固地になって(担当の編集者に)ゲラを持たせないというふざけたことをした」とジョーク混じりに話し、友人がおらず、父親との確執もあって受賞についても誰にも知らせていないと明かすなど、独特のユーモアを交えて赤裸々に語った。現在は「藤澤清造全集」を個人編集し刊行準備中で「汚い話なんですけど、今回の賞金プラスアルファで(本が)出せる」と喜んでいた。

 初の候補作で直木賞を受賞した木内さんは、出版社勤務、フリー編集者を経て、04年「新選組 幕末の青嵐」でデビューした。選考結果を「銀座で編集者と待っていた」といい、黒のパンツに白いスニーカーという自身の服装について「今日はまさか(賞を)とるとは思わなかったので編集者の方と二次会を予定していて、新年会気分で銀座にいたので……。(服装には)絶対触れないでください。場違いで失礼しました。失敗したと思っています」と恥ずかしそうにコメント。受賞については「まだ実感がない。とれたこと自体びっくりしている」と驚きを隠さず、「選考委員の方が(これから)なんとかやっていけるだろうと背中を押してくださったのでは。これから今まで思いもしなかったことを経験すると思う。そこからはい上がったときに自分なりに(自分を)作家といえる気がします」と控えめに語っていた。

 04年に「背の眼」で第5回ホラーサスペンス大賞特別賞を受賞して小説家となった道尾さんは、第140回から2年半にわたって5回連続で直木賞候補となり、「月と蟹」で初受賞した。受賞までの道のりを「5回といっても2年半なので、小説家をやっていく上で一瞬ですからね」とあっさりと語り、受賞について「候補になったときにうれしさは味わい尽くしている。これだけたくさん小説が出ている中で(候補に)選ばれることがすごいことだと思う。落選より受賞の方がもちろんいいですけど」と語るなど淡々とした様子を見せた。ファッションもジーンズにウオレットチェーンとハードなブーツを合わせたカジュアルスタイルで、自分へのご褒美や、受賞作の舞台になった鎌倉への再訪も「ないです」と答えるなど、あくまでも自然体だったが、今後の創作については「今までずっとやってきた通り、こんな本があったらいいなというものを素直に自分で書く。そのスタンスは崩さない。読者を意識しないことを続けていきたい」と静かな闘志を見せていた。(毎日新聞デジタル)







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