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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
 『八重の桜』、毎回、覚馬お兄ちゃんと殿にときめいております。

千葉
ちばみなと研究所:房総半島を探求する 幕末 下総の博徒たち 治安維持任され…「警察役」も /千葉

 「博徒(ばくと)」と聞くと、賭博(とばく)やかつての任〓(にんきょう)映画を思い浮かべる人もいるだろうか。江戸時代に名をはせた博徒たちの出身地といえば、国定忠治の上野(こうずけ)(いまの群馬県)や、清水次郎長の駿河(静岡県の一部)が講談や映画などでなじみ深いが、千葉県北部を中心に茨城県南西部にも広がる下総(しもうさ)も負けず劣らず有名だった。こうした力を持つ博徒の中には、幕府から地域の治安維持を任され、警察的な役割を果たしたケースもあるという。バクチ打ちが警察官? 現代なら大不祥事になりそうな話だが、一体どういうことなのか。江戸時代末期を中心に県内の治安状況を調べてみた。【研究員・小林祥晃】

 ■〓客人気ランクの3割

 一般に、博徒は賭博行為を日常的にする人々を指す。現在は法律で禁じられている賭博だが、江戸時代などかつては、飢饉(ききん)などで農村社会から離れてしまったような「無宿者(むしゅくもの)」の生きる糧になっていた。

 無宿者は、江戸時代には戸籍や住民登録のような役割もあった各寺にある信徒の名簿「宗門改帳(しゅうもんあらためちょう)」に記載のない人々で、いわば「住所不定」。安定した生活は営めず、賭博の世界に足を踏み入れ、似たような無職者たちと支え合うように博徒の集団を形成した。強きをくじき、弱きを助ける任〓の道を説く場合が多いが、現代の暴力団のように、任〓を暴力行為の正当化のキーワードにしてしまうアウトローもいた。

 単なる賭博好きではないこうした博徒が下総にいかに多かったかをうかがわせる資料がある。幕末に世間を闊歩(かっぽ)した〓客の人気ランキングをまとめた「近世〓客有名鏡(きんせいきょうきゃくゆうめいかがみ)」だ。幕末の博徒が浪曲や講談などで広く紹介されるようになった1890(明治23)年に発行されたもので、相撲の番付表のように「大関」「小結」「前頭」などの順で、東日本の博徒149人の名前が連なっている。

 前述の「国定忠治」「清水次郎長」の名前も見えるが、県内ではなじみ深い「飯岡助五郎」やその親分の「銚子ノ五郎蔵」、助五郎と抗争を繰り広げた「岩瀬ノ繁蔵」(笹川繁蔵)「勢力(せいりき)富五郎」(勢力佐助)などの名前も関脇や前頭などの上位にランクイン。そして驚くのは、下総を拠点としている者の人数が149人中、なんと40人にも上り、地域別人数では1位だということだ。
 ちなみに国定忠治の上野は2位(31人)、3位武蔵(22人)、4位甲斐(11人)、5位江戸(10人)と続く。現在の千葉県中南部にあたる上総・安房は計4人で、やはり下総の突出ぶりが際立つ。

 ■相次ぐ凶悪事件

 なぜ千葉に博徒が多かったのかは後述するとして、これだけ博徒が多いと、しばしば社会を震撼(しんかん)させる事件も起きた。

 下総の博徒が起こした有名な二つの事件がある。

 ひとつは喜代松(きよまつ)という無宿者のグループが村の娘を数カ月連れ回すという1810(文化7)年の「無宿喜代松一件」で、本格的な誘拐・拉致事件。もうひとつは1849(嘉永2)年の「勢力佐助一件」。博徒の勢力争いに端を発する銃撃・抗争事件で、かかわった博徒たちは、浪曲や映画で有名な「天保水滸伝(てんぽうすいこでん)」にも描かれている。

 銚子市文化財審議委員で近世史が専門の米谷博さんは、両事件を題材に当時の下総の自警組織について考察し、論文「近世東下総における悪党の捕縛と組合村」(千葉県史研究第11号別冊)にまとめている。それらによると−−

 ◇その一 無宿喜代松一件

 喜代松は当時、寺社の祭礼で「けがをした」などと言いがかりをつけ、薬代を村からせしめるなど、今で言う恐喝などでしのぐ「チンピラ」。この喜代松とそのグループ4、5人が3月の岩井村不動尊のご開帳の場で、母親と一緒に参詣していた幾世村の娘、せきを襲う。一味は脇差しをちらつかせ、母親とせきを引き離し、連れ去った。

 村の若者でつくる自警団が、近隣の村々の若者と連携して捜索し、喜代松は3日後に現場近くをうろついていたところを捕まる。しかし、せきは仲間の長次郎に連れられて利根川を渡り、いまの茨城県にあたる隣国・常陸に連れ込まれていた。喜代松はせきの居場所を供述せず、事件は迷宮入りかと思われたが、5月、江戸にまで連れ去られていたせきが当局に逃げ込む形で発見され、ようやく関係者は検挙された。

 ◇その二 勢力佐助一件

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 幕末の博徒として有名な九十九里沿岸の飯岡(いまの旭市飯岡地区)を拠点とする飯岡助五郎と、利根川沿いの笹川(東庄町)を拠点とするライバル笹川繁蔵の抗争が発端。1844(天保15)年、以前から対立していた両勢力は利根川で大乱闘。この時は助五郎が事実上敗北したが、3年後、助五郎の子分が繁蔵を殺害する事件が起き、対立は頂点に。そして1849年3月8日、助五郎側は、笹川一派を継いだ勢力佐助(勢力富五郎)の掃討作戦を始めた。

 この際、助五郎側は関東地方の治安維持をはかる幕府の役人まで味方につけ、約500人以上の軍勢で佐助を追い込むが、佐助側も負けてはいない。鉄砲を使って銃撃戦を繰り広げた。佐助側は少なくとも10丁の鉄砲を持っていたといい、当時の博徒は立派な武装集団だったことがうかがえる。

 とはいえ、佐助も力尽き、ついに4月28日に小南村(東庄町南部)の金毘羅山で自殺。親分が死亡したことで事態は収束し、約50日間にわたる抗争事件は幕を閉じた。

 ◇関東、幕府の統治力弱く

 ■実働部隊の「道案内」

 なんとも物騒な話だが、しかし、当時の下総にはなぜそんなに荒くれ者が集まっていたのか。これについて、県文書館の田島新・副主幹は次のような背景を挙げる。

 まず、地引き網漁や肥料となる干鰯(ほしか)作りが盛んな九十九里浜があり、地域外からの労働力が必要とされていたこと。もうひとつは利根川が重要な物資輸送路で、人、モノの行き来が盛んだったことだ。

 前者は助五郎の拠点、飯岡。後者は、繁蔵の陣取った笹川にあてはまる。田島さんは「無宿者や博徒らにとって、下総は『食べていける土地』だった。それだけ経済活動が活発でもあったと言えるでしょう」と話す。

 さらに当時の関東地方は、幕府による統治力が弱かったことも事態を悪化させた。

 当時、犯人を捕らえることができるのは、領地を治める領主だけ。自分の領地で悪事を働いた容疑者が他の領地に逃げ込んだ場合、その場所の領主に許可を得る必要があったが、当時の関東地方には幕府領や藩領、旗本領などが混在。「隣の家は別の領主、その隣はまた別の領主」というケースも珍しくなかった。

 これでは容疑者の迅速な「逮捕」はできず、取り逃がすことにもなりかねない。

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 そこで幕府は1805(文化2)年、幕府直轄領や旗本領、寺社領などにかかわらず、逮捕権限を持つ「関東取締出役(かんとうとりしまりしゅつやく)」を設置。治安の強化を試みた。アメリカのFBI(連邦捜査局)のようだが、発足当初の関東取締出役はわずか8人。このため、実働部隊として国ごとに4、5人の「道案内」が置かれた。

 道案内とは、関東取締出役が村を視察する時に、文字通り道案内などの手助けをするのが任務。十手を持たされ、犯罪者の逮捕や担当区域内の治安状況の報告・情報収集なども任された。現代社会なら警察署長か、それ以上の権限を持つ警察幹部に当たるだろうか。

 驚くのは前述の博徒、飯岡助五郎も、実は道案内だったということだ。助五郎側が約500人もの軍勢で佐助を追い込んだ際、「味方」となった幕府の役人はこの関東取締出役なのだ。

 助五郎は一連の抗争で、関東取締出役から「繁蔵や佐助を逮捕するように」との命令を受けており、地域社会に彼らをかくまう仲間がいれば、幕府の威光で厳しく取り締まれた。事件後処罰された佐助の子分や協力者らは50人以上いたが、およそ半数は佐助らに金銭や食事を与えたり、宿を提供したりした者だった。

 ■社会との微妙な関係

 しかし、なぜ博徒が治安維持の最前線を担う道案内になることができたのだろうか?

 米谷さんによると、「道案内」は地域の隅々にまで精通していることが必要だが、そのほかにも、けんかや争いごとの仲裁、緊急時には危険な現場に踏み込む度胸や機動性も要求されたという。米谷さんは「表の世界だけでなく、裏社会にも顔の利く人物でなければ務まらない。そういった事情から、道案内には地域の名士など身元のしっかりした者だけでなく、博徒なども任されるようになったのでしょう」と解説する。

 道案内は地域社会で「親分さん」と呼ばれていたという。事件の解決や犯罪の防止には、昔も今も地域住民からの情報提供が不可欠なだけに、博徒であろうとなかろうと、村人から頼りにされる人物が治安維持の最前線に立っていたということかもしれない。

 当時の博徒は「やくざ」とも呼ばれたが、「やくざ」のあて字として「厄座」や「役座」という表記があるそうだ。「厄」となるか「役」となるか。社会とアウトローの微妙な関係について、考えさせられた。

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 ◇研究所長の感想

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 時間のつながりを感じずにはいられない。博徒同士の抗争やかどわかしなど、現代の裏社会の事件簿を読んでいるようだ。そこから私たちは、得てして「人の世はいつも同じ」などと情緒的にとらえがちだが、注意が必要だ。暴力も権力者との癒着も、決して今に引きずってはいけない歴史だろう。【清水忠彦】


神奈川
開国期に活躍した江戸幕臣、中島三郎助の功績しのびイベント/横須賀
 開国期から維新にかけて活躍した江戸幕臣、中島三郎助(1821~69年)の功績をしのぶイベント「中島三郎助まつり」が20日、ゆかりの地の横須賀市浦賀で開かれた。地元住民でつくる「中島三郎助と遊ぶ会」が主催する恒例行事で、今回は設立20周年の記念を兼ねた。

 中島三郎助は浦賀奉行与力の家に生まれ、自らも与力となった。1853年に米海軍ペリー提督が浦賀に来航した際、「黒船」の旗艦に乗船して対応する役を務め、日本初の洋式軍艦の建造にも関わった。

 戊辰戦争が始まると江戸を脱出し、箱館(函館)で新政府軍と戦い、戦死している。

 会場となった住友重機械工業の旧・機関工場内では、中島の足跡をたどるパネル展示や、来航時のペリー艦隊に由来するシチューの試食など、さまざまなイベントが催され、大勢の来客でにぎわった。

 「中島三郎助と遊ぶ会」は中島が最期を遂げた函館とも交流しながら、功績を広める活動を続けている。三浦一幸事務局長は「日本の開国と近代化に関わった人物だが、同世代の土方歳三に比べるとうずもれており、多くの人に知ってほしい」と話していた。


貴重な文化財守れ、箱根関跡で防火訓練/神奈川
 26日の文化財防火デーを前に、箱根町箱根の国指定史跡「箱根関跡」で25日、防火訓練が行われた。

 文化財防火デーは、1949年1月26日に法隆寺金堂壁画が焼損したことなどから定められた。箱根関所は、戊辰戦争時に火を付けられたことがあるという。

 消防や関所関係者約20人が参加。関所内の大番所から出火したとの想定で、初期消火を行い、観光客への避難の呼び掛けも実施。駆け付けた消防隊員が雪の残る関所の建物に向かって放水した。

 小林恭一教育長は「訓練を契機に防災の気構えをしっかり持ってほしい」と話していた。


静岡
展示:幕末維新の志士の書、下田で /静岡
 幕末・明治期に活躍した人物の書を展示した「幕末三舟名墨展」と「幕末維新の志士名墨展」が下田市の下田市民文化会館で開かれている。

 「幕末の三舟」こと幕臣の勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟はそれぞれ能書家として知られ、多くの書を残している。風待ち港の下田は江戸と京都の海上交通の要所で、三舟や維新の志士らも滞在したといい、関係者の書が多く残っている。

 徳川家康の遺訓を書いた海舟の「東照公御遺訓」や、鉄舟の菊の花の墨絵に詩を添えた「菊花自画讃」、泥舟の富士山の絵と詩の「富士画賛」など、詩書画に通じた文人ぶりが伺える。

 また、山県有朋や有栖川宮、大久保利通などの書も展示され、珍しい平賀源内の書画もある。14日まで。入場料500円。【扇沢秀明】


岡山
山田方谷:幕末の備中松山藩で財政再建、大河ドラマに 16万人が賛同署名 知事、NHKに直訴へ  /岡山
 幕末に備中松山藩(高梁市)の財政を再建した山田方谷(ほうこく)(1805〜77)のNHK大河ドラマ化を目指す運動が展開されている。高梁市や県経済界が主導し、観光客誘致などを狙う。100万人を目標にした署名は既に16万人分集まり、24日には伊原木隆太知事が東京のNHKを訪問しドラマ化を直訴する。関係者は「岡山初の大河を」と意気込んでいる。

 実行委によると、方谷は備中松山藩の藩政改革で、現在の200〜300億円に当たる10万両の借金を返済。備中ぐわや葉たばこの特産品販売にも成功、「経営者の鏡」と尊敬される人物だ。

 大河ドラマ化は、同市の近藤隆則市長が11年に「郷土の偉人を知ってもらいたい」と発案。同市出身の大橋洋治全日空会長らが「財政再建は今の時代が求めるテーマ」と賛同。県商議所連合会なども加わり、昨年10月に署名運動を始めた。

 少しでも知名度を上げようと放映中の大河ドラマ「八重の桜」で主人公の夫・新島襄が倉敷市の玉島港に立ち寄った史実に着目。昨年12月には近藤市長らがNHKの松本正之会長に「ドラマ中で玉島で方谷と新島襄が会ったという設定を作ってほしい」と要望した。

 経済界出身の伊原木知事は松本会長に直接売り込む。実行委世話人の藤井義和さん(63)は「方谷は産業振興に加え、私塾を開いて後進の育成にもあたった。勤勉な岡山の県民性も全国にアピールできる」と話している。【井上元宏】


コラム
幕末の美貌尼・太田垣蓮月 言い寄る男を拒むため歯を抜いた
 利己主義、個人主義の蔓延は、血縁や地縁の絆が強かった時代に比べて社会の弱体化を招いている。しかし、これは日本人本来の姿ではない、と日本史家の磯田道史氏はいう。江戸時代に生きた人々の「無私の精神」は、とかく利益や我欲に傾きがちな現代日本人の人生観に深い余韻を与えるはずだ。焼き物で稼いだ金で橋を架け、書画を人に与えた美貌の尼・太田垣蓮月の生き様を、磯田氏が紹介する。
 * * *
 太田垣蓮月(1791~1875)は幕末の乱世に京都で生き、無私を実践し尽くしました。蓮月は大変な美貌のうえ、詩作から陶芸、書画と幅広く手を染めています。ただ、彼女の作品が一流かというと、首を傾げたくなる。各界の達人の逸品と並べると、どうしても見劣りします。でも、彼女の人生と無私を希求した姿勢は間違いなく超一流。高潔で清廉、誰にも真似のできないオリジナリティに満ちています。
 中でも、二度の不本意な結婚に破れ、得度(出家)してからの後半生が凄まじい。陋屋(ろうおく)に住まい、言い寄る男どもを排するために、歯を抜いて美しい顔を台無しにしてまで、無私の境地へと疾走していくんです。
 彼女は、世俗的には汚く無価値である泥をこね、焼き物という価値あるものを作り出すことに力を注ぎます。ことに彼女の埴細工は安政の頃、結構な値で取引されました。その金を使わずに貯め、京都の鴨川に今もある丸太町橋を架けます。
 本人は家財道具を持たず、来客があると木の葉の上に飯を盛っていた。しかも、埴細工や書画を人にくれてやる。挙句の果てには、贋作にまで自分の作だと保証を与えて他人を儲けさせました。蓮月の無私が際だったのは、江戸無血開城への提言です。彼女は西郷隆盛に和歌を送りました。
「あだ味方 勝つも負くるも 哀れなり 同じ御国の人と思へば」
 この一首が西郷を感動させ、江戸を無益な殺戮と破壊から守りました。かような芸当ができたのも、彼女が無私に生きていたからにほかなりません。蓮月こそ、泥の池に咲いた美しき蓮といっていいでしょう
※週刊ポスト2013年1月25日号
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