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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
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 大河ドラマ『八重の桜』、容保様がご上洛されて京都守護職に着任される今日の放送分、『組!』スキーな私はあのドラマを思い出しながら幕末史を振り返る時間になるでしょう。

福島
「八重のゆかり号」「戊辰の軌跡号」運行中 会津バス
会津バス・タクシーを運営している会津乗合自動車(福島県会津若松市)は、2013年内限定で企業再生と地域再生成就に向け、新島八重ゆかりの地を巡る、期間限定・特別仕立ての定期観光バスを運行する。コースは午前「八重のゆかり号」・午後「戊辰の軌跡号」の2コース、ガイド付き。会津若松駅や宿泊施設(東山温泉)から出発し、八重や戊辰戦争のゆかりの地を巡る。効果的に観光スポットを網羅している。運行は原則、各月の土日・祝日、8月のお盆も運行する。

 午前「八重のゆかり号」は、会津若松駅を出発、東山温泉駅を経て、大河ドラマ館、鶴ケ城、八重の生誕の地などを巡り、会津若松駅にもどる約3時間30分コース。料金は大人が3000円、小人2000円。午後「戊辰の軌跡号」は、会津若松駅を出発、日新館、飯盛山、武家屋敷などを巡り、会津若松駅にもどる4時間のコース。料金は大人が3500円、小人2500円(いずれも税、入館料など込み)。2コースとも昼食はつかない。

 2コースとも事前の申し込みは必要だが、現地発現地着のプランなので、会津若松に着いた後の午後、あるいは宿泊施設に宿泊の後の午前に観光を予定なら、会津バス若松営業所(電話0242-22-5555  9:00-18:00受付)に問い合わせるとよい。事前予約は、電話のほか、インターネットでも受け付けている。


福島・会津藩校日新館:大河ドラマ「八重の桜」効果 入場者が5割増
 大河ドラマ「八重の桜」放映開始以来、福島県会津若松市でロケに使われた歴史施設の入場者数が回復し、震災前を上回るところも出てきている。中でも「ならぬことはならぬものです」に象徴される藩士の教育拠点を再現した「会津藩校日新館」には昨年の3倍、震災前の5割増と多くの観光客が訪れ、再評価されている。【乾達】

 日新館は、会津藩が藩政改革の中心となる人材養成機関として、1803年に鶴ケ城の西隣に建設。10歳になった藩士の子息が通い、学問や武芸に加え、「什(じゅう)の掟(おきて)」など会津の武士道精神を学んだ。全国の藩校の中で随一とも言われ、ドラマの主人公・山本八重の兄覚馬や、白虎隊士も通った。しかし、戊辰戦争で焼失し、現在の建物は86年に同市北部の河東町に地元有志の手で再建された。

 2000平方メートル以上の敷地に、残っていた図面を基に弓道場や水練池まで再現。白虎隊士らが学ぶ様子や史料の展示に加え、宿泊可能な研修施設の機能も持つ。さらに同市では什の掟を基にした「あいづっこ宣言」を小学生が暗唱し、同館で小学4年生が講話や座禅を体験し、10歳の立志をする「半成人式」を行う学校も周辺地域を含め40校以上に上るなど地域の道徳教育の支柱的存在になっている。

 脚本家の山本むつみさんや主演の綾瀬はるかさんらドラマ関係者も見学に訪れ、ストーリーや役作りのヒントを得た。初回の放送では什の掟をはじめ会津の精神文化がクローズアップされ、日新館の名もセリフの中に何度も登場した。そのお陰で、週末を中心に大雪が降る悪条件にもかかわらず、関心を持った個人客が県内外から訪れ、春先の団体予約も次々に入っている。

 見学者の案内を務める観光事業部長の仮名則嗣(かりなのりつぐ)さんは「綾瀬さんは背筋が伸びる思いがすると感想を語ってくれた。ドラマを見て訪れる人もそういう空気を体感して、先人の生き方や歴史に思いをはせてほしい」と話した。

 この他、昨年度は原発事故の影響で約2割減の約49万人に入場者が落ち込んだ鶴ケ城天守閣も、“八重効果”で昨年11月以降は平年並みを回復、1月は隣接する大河ドラマ館オープンの相乗効果もあって15%上回った。2月も昨年の2倍のペースで、来年度は70万人超えを目指す。ドラマ館も2月15日に入場者が3万人に達した。関係者は「週末ごとに大雪が降る中で上々の滑り出し」と話す。

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大雪の中でも来館者が大幅に増えている会津藩校日新館
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 ◇歴史施設の1月入場者状況◇

鶴ケ城天守閣        震災前より15%増

御薬園(松平家庭園)    震災前並みを回復

会津藩校日新館       前年比3倍

会津武家屋敷(西郷頼母邸) 前年比5割増

大河ドラマ館        2月15日で3万人


栃木
黒羽藩主・大関増裕の死に関わり? 那須神社で洋式銃見つかる 栃木
■来月13日から与一伝承館で初公開

 黒羽藩主、大関氏の氏神として信仰を集めた那須神社(栃木県大田原市南金丸)で、同藩が幕末に装備していたとみられる洋式銃「エンフィールド銃」1丁が見つかった。近くの那須与一伝承館が同神社の調査を進める中で明らかになった。同館で開かれるテーマ展「大田原藩と戊辰戦争」(2月13日~3月24日)で初めて公開される。(伊沢利幸)

                   ◇

 「エンフィールド銃」はイギリスで開発された前装式小銃で、イギリス軍が制式小銃として使用したほか、アメリカ南北戦争でも使われた。日本には幕末に大量に輸入され、戊辰戦争で新政府軍の主力小銃となった。宇都宮藩や黒羽藩などでも装備された。

 同館ではテーマ展に向けて昨年から同神社の調査を進め、今年に入り本殿の祭壇下にあった銃を確認。黒羽藩が装備していた銃の一部とみられるが、その存在はこれまで知られていなかった。全長125センチ、重さ3・8キロ。さびが目立ち、「一時的に埋められた可能性もある」(同館)という。

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那須神社で見つかったエンフィールド銃

 同神社付近では幕末、陸海軍奉行を務めた15代黒羽藩主、大関増裕(1837~67年)が謎の死を遂げている。増裕の死には、所持していた洋式銃が暴発したという事故説や自殺説、また着用していたコートに残る弾痕の入射角度などから、銃弾を背中から受けたとみる暗殺説もある。

 同館の前川辰徳学芸員は「洋式銃をだれが神社に持ち込んだかなど不明で、謎が多い。増裕の死との関わりがある可能性もあり、今後、解明していきたい」と話す。

 テーマ展では戊辰戦争で激戦となった大田原城を取り上げ、書簡や古地図、最後の大田原藩主、大田原●丸(としまる)(1861~1930年)の写真、同藩士が戊辰戦争で付けていた袖印などが公開される。2月17日と3月3日、同17日にはギャラリートークを開催。問い合わせは同館(電)0287・20・0220。

 大関増裕(おおぜき・ますひろ) 西洋事情に精通し幕府の陸海軍奉行を務め、勝海舟も軍艦奉行として仕えた。西洋兵術による軍制改革に力を入れた。慶応3(1867)年12月9日、那須神社付近の林で狩猟中に急死した。

●=金へんに生


東京
豪華な岩倉具視邸、ネット競売で古写真発見
 幕末から明治初期に活躍した公家・政治家の岩倉具視(1825~83年)が東京・丸の内に住んでいた頃の邸宅を写したとみられる古写真が見つかった。
 門前にガス灯があり、馬車が止まっているなど、 豪奢
ごうしゃ
な暮らしがうかがえる。当時の政府有力者の自宅を写した写真は珍しく貴重な発見だ。
 倉持基・東大特任研究員(歴史写真学)らが昨春、ネットオークション上で発見した。縦5・8センチ、横10センチで、裏側に「岩倉公邸ノ内」とあり、写っている門や建物が、岩倉家旧蔵の絵図面や記録などと一致することから、1870年秋から84年頃まで岩倉邸だった建物の表門付近の写真とみられる。撮影者、写真の来歴などは不明。
 具視は71年に右大臣となり、同年から73年に特命全権大使として欧米を視察するなど、新政府の中心人物として活躍。邸宅はもと 忍
おし
藩(埼玉県)の藩邸で、具視の死後、一家は移転し、建物も壊されたとされる。岩倉家に関する図像資料を調査してきた 研谷
とぎや
紀夫・関西大准教授(文化資源情報学)は「旧岩倉邸は複数の絵図などに描かれているが、写真は極めて珍しい。旧大名屋敷を転用した厳かな門構えから、権勢の大きさを改めて認識できる」と話している。



神奈川
「黒船に乗り込んだ男」中島三郎助、記念イベント-浦賀ドック跡地で開催
 幕末に黒船に乗り込んで交渉役を務めた浦賀奉行所与力・中島三郎助をしのぶイベント「中島三郎助まつり」が1月20日、浦賀の住友重機・浦賀工場跡地(横須賀市浦賀4)で開催される。主催は「中島三郎助と遊ぶ会」。今年で6回目。

【画像】イベント会場は歴史遺産「浦賀ドック」の機関工場跡

 普段は入ることのできない旧浦賀ドック機関工場を開放して行う歴史イベント。工場内では、函館観光大使・浅岡勤さんによる講演「中島三郎助を語る」、歴史パネル展示、当時をしのぶ創作料理「黒船シチュー」などの飲食ブース、日本舞踊やカントリーダンスなどのステージショーも。

 幕末に浦賀奉行所与力だった中島三郎助は、ペリー来航時(1853年)に日本人として最初に黒船「サスケハナ」に乗り込み、幕府の交渉役を務めた。その後、日本初の洋式軍艦「鳳凰丸(ほうおうまる)」建造の中心人物として活躍。安政6(1859年)には日本最初のドライドックが造られ、太平洋横断直前の咸臨丸の修理も行われた。

 明治2(1879)年、函館・五稜郭で新政府軍との戦いに参加し、息子2人とともに49歳で戦死。業績をしのび、浦賀の愛宕山に「中島三郎助招魂碑」が建てられた。

 開催時間は10時~15時。問い合わせは同会(TEL 046-841-1509)まで。


静岡
戸田とロシア、絆の足跡巡る 大使館関係者ら歴史探訪
 日本とロシアの交流団体でつくる「日ロ友好フォーラム21」と駐日ロシア大使館の関係者が16日、沼津市戸田地区を訪れ、「歴史探訪の旅」として両国交流の足跡を巡った。
 戸田は、1854年の安政東海地震の津波で大破したロシア使節団を乗せた軍艦「ディアナ号」の代用船「ヘダ号」が建造された地。戸田の船大工や村人の献身的な協力で、大勢のロシア人が帰国を果たした。
 歴史探訪では、ロシア使節団を率いたプチャーチン提督が滞在した宝泉寺の一室や、ディアナ号の乗組員の墓、戸田造船郷土資料博物館などに足を運び、先人が育んだ両国間の友情に思いをはせた。
 一行は17日、幕末の外交の舞台となった下田市を訪れ、日ロ友好にゆかりのあるクロンシュタット広場などを訪ねるという。
 ロシア連邦交流庁駐日代表部のヴィノグラドフ・コンスタンチン部長は「日本の皆さんが当時のロシア人の記録を大切に残してくれていて感激した。将来にわたり、両国の良い関係を築いていきたい」と話した。


三重
写真・パネル展:土方歳三を撮影、写真師の企画展−−熊野 /三重
県立熊野古道センターの企画展「幕末の写真師 田本研造〜土方歳三を撮った男」が2日、熊野市井戸町の市文化交流センターで始まった。幕末の函館で戦死した元新選組副長の土方歳三や明治15年の函館の開拓風景など計120枚の写真、パネルが並ぶ。24日まで。入場無料。

 田本は熊野市神川町の生まれ。長崎で医学と写真を学び北海道に渡った。開拓写真を多く手掛けたことから「ドキュメンタリー写真の祖」と呼ばれる。

 写真展は函館市中央図書館、北海道大、旧田本写真館を引き継ぐ谷杉アキラ氏の協力を得て、ガラス製のネガから現像された。

 3月16日〜5月19日には、尾鷲市の県立熊野古道センターに会場を移す。半分以上の写真を入れ替えて展示するという。【汐崎信之】

〔三重版〕


「朝敵」桑名藩読み解き本に 桑名の水谷さん出版
 幕末の戊辰戦争で幕府側につき「朝敵」とされた桑名藩の歴史を県立博物館臨時職員の水谷憲二さん(37)=桑名市多度町=がまとめ、「『朝敵』から見た戊辰戦争 桑名藩・会津藩の選択」(洋泉社)を出版した。
 戊辰戦争の初戦の鳥羽伏見の戦いで敗れた桑名藩は、会津藩らとともに朝敵とされた。その後も徹底抗戦した会津藩は戦争に至ったのに対し、桑名藩は城を明け渡し戦争を回避した。著書では盟友だった二つの藩の選択が分かれた理由や、桑名藩の開城に尽力した酒井孫八郎の功績などを記している。
 今回の著書は、水谷さんが以前に出した研究書を一般向けにまとめ直した。幕末期に多くの犠牲者を出した会津藩と比べ、桑名藩の当時の歴史は研究が進んでおらず、このような視点からまとめた本は数少ないという。
 水谷さんは「地元でも知られていない桑名藩の歴史を知ってもらえれば」と話している。
 新書判の二百三十八ページ、八百九十円(税別)。問い合わせは、水谷さん=電090(7697)6976=へ。
 (渡辺聖子)




奈良
郡山藩支えた柳沢家当主紹介 大和郡山で「ふるさと歴史塾」 奈良
 徳川幕府の要職を担いながら、江戸時代中期から幕末までの郡山藩主などを務めた柳沢家7代の当主を紹介する講演会「柳沢文庫ふるさと歴史塾」が16日、大和郡山市の市中央公民館で開かれ、歴史愛好家らが熱心に耳を傾けた。

 地方史誌の専門図書館「柳沢文庫」(同市)が開催。同館の平出真宣学芸員が講師を務めた。

 会場では歴史資料などをもとに徳川綱吉に重用された柳沢吉保(よしやす)から、幕末に京都守護を任された保申(やすのぶ)までの当主を紹介。桜田門外の変などで軍事的緊張が高まり、軍役の負担が増す中、当主や家中の力で苦境を切り開いた歴史を伝えた。

 図書館では3月17日まで、関連資料を紹介する常設展を開催しており、平出さんは「歴代当主の文化的な側面を示す花鳥画なども展示しているので楽しんでほしい」と話していた。


滋賀
湖国の人たち:「新選組 試衛館の青春」を出版した、松本匡代さん /滋賀
◇一途な若者の群像劇 史実踏まえ生き生きと−−松本匡代さん(55)=大津市

 土方歳三、山南敬助、沖田総司、藤堂平助、斎藤一(はじめ)−−。後に新選組の中核を担う若者らがいた江戸の道場、試衛館時代を取り上げた小説「新選組 試衛館の青春」(上下巻、サンライズ出版)。家族のような温かい交流を軸に、京都に上るまでの全40話からなる青春群像劇だ。大津市在住の著者、松本匡代(まさよ)さん(55)に執筆の思いなどを尋ねた。【姜弘修】

 ◆小説を書くようになった経緯は。

 古い話ですが、大学進学の時、好きな物理がしたかった。志望校に受からず、薬学部に入学しましたが、数学や物理は好きでも、化学や生物はそうでもない人間にとって薬学部の勉強は面白くない。うつうつとした日々を過ごしていた時、ふと立ち寄った本屋で手にとったのが司馬遼太郎先生の「花神」。面白くて、それから司馬先生の作品をむさぼるように読みました。やがて「燃えよ剣」に行き当たり、(主人公の)土方歳三にほれてしまいました。現実逃避で頭の中で妄想するように物語を作り、就職する時に記念に自主出版したのが1冊目の「夕焼け 土方歳三はゆく」でした。

 ◆新選組のどこにひかれますか。

 一生懸命に武士でありたい、という一途(いちず)な思いですね。そもそも私の場合、小説を書くことは新選組から始まっていて、本になった時はものすごくうれしかった。

 ◆新選組結成前の試衛館時代を取り上げた理由は。

 就職後は時間も余裕もなく、小説を全く書いていなかった。45歳で勤めを辞め、また書きたくなり、小説の勉強会に入れてもらいました。そこの最初のテーマが独白で「斎藤一〜明治二年五月・越後高田謹慎所にて」を書き、シリーズ化もしましたが、話が暗く、切ないんです。今度はぱあっと明るいものが書きたくなって、今回の作品になりました。

 ◆史実を踏まえた上で、各登場人物が生き生きと描かれています。人物の造形や挿話の発想は。

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 書き始めたのは第2話で、最初は推理小説にしようと思ったんです。でも、登場人物を付け狙う人物がいつの間にか「いい人」になったりと、知らないうちに趣の違った話になって、斎藤一を試衛館の一員にしようと第1話を入れて。メーンの5人だけでなく、原田左之助や永倉新八、井上源三郎の話も入れたり、近藤勇も1話ぐらい入れないとまずいかなと第16話を書いたりと、まあ、ええかげんなものです(笑)。9人の人物像は今までいろんな本や映画、ドラマで見たものを私好みにブレンドしました。

 ◆理系出身は小説を書く上で役立っていますか。

 文系出身ではないので、修飾語の多い長い文章って読むのも苦手で、読みやすい簡潔な文章を心がけたつもりです。そこは理系かな。でも学生時代、書いた論文が「小説じゃないんだ」と先生に怒られたこともあります。子どものころから文章を書くのは好きで、先天性脳性まひで言語障害もあるので、書くことで自分を表現していたのかもしれません。

 ◆今作の読みどころと次回作の構想を。

 読みどころは優しさ、思いやり、一途さかな。良い人ばかりの中で(登場する)「お栄」の“ちょい悪”の哀(かな)しさも。次回作の構想はいろいろあります。独白シリーズで書いた土方と山南の関係を皆さんに広く読んでもらいたい。県文学祭で特選をもらった小説「和算入門」のシリーズ化や、最近知った幕末志士の赤松小三郎という人、母方の先祖にあたる江戸時代の医師で紀行文を残した橘南谿のことも調べたい。あと科学小説も書いてみたいですね。

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 ■人物略歴

 ◇まつもと・まさよ

 1957年、三重県伊勢市生まれ。名城大薬学部を卒業して薬剤師の資格を取得。奈良女子大理学部物理学科に入り直し、同大学院理学研究科を修了後、日本IBMでシステムエンジニアとして勤務。2002年退社。著書に「夕焼け 土方歳三はゆく」がある。「新選組 試衛館の青春」は全国の主な書店で販売中。


京都
岩倉具視旧宅を京都市に寄贈 幕末に隠棲、歴史の裏舞台
 明治政府の重鎮、岩倉具視が隠棲(いんせい)生活を送った京都市左京区岩倉の国史跡「岩倉具視幽棲旧宅」を管理する岩倉公旧蹟保存会が、旧宅を京都市へ寄贈することを決めた。保存会が高齢化などを理由に解散するため、収蔵する多数の重要文化財とともに引き継ぐ。市は一般公開を続ける方針で、積極的にPRしていく。

 幽棲旧宅は、徳川家への皇女和宮降嫁の推進などで尊皇攘夷派から命を狙われた具視が1862年から5年間隠れ住んだ。ここで薩摩藩士らとの協議や政策提言が行われ、大政奉還(1867年)の裏舞台となった。

 旧宅の敷地内(約1500平方メートル)には洋館の対岳(たいがく)文庫(1928年建築)もあり、薩摩藩を討幕へ促した具視の著作「叢裡鳴虫(そうりめいちゅう)」を始めとする重文約千点のほか、明治維新前後の文書や愛用品などの収蔵品とともに市に寄贈する。

 保存会は1925年に設立。入館料収入で旧宅を維持してきたが、近年の見学者は3、4千人にとどまっていた。加えて、役員の高齢化や財団法人から公益財団法人への移行にかかる費用の確保が難しく、解散を決めた。

 具視から5代目にあたる京都大名誉教授の岩倉具忠会長(79)は「手放すことに申し訳ない思いもあるが、安心できる市に譲れてよかった。多くの人に知ってもらえるように活用してほしい」と話した。解散後も具視の命日(7月20日)に行ってきた慰霊祭は継続する方針という。

 市文化財保護課は「幕末の激動期に関わる計画がなされた建物がそのまま残り、当時をしのばせる貴重な場所。保存会の思いを引き継ぎ、一般公開を続けていきたい」としている。


八重の署名発見 京都府立図書館蔵書から
 同志社を創立した新島襄の妻で、NHK大河ドラマ「八重の桜」の主人公、八重の直筆署名が京都府立図書館(京都市左京区)の蔵書から見つかった。府に寄贈されてから30年以上を経ての発見に関係者は驚いている。

 平石弁蔵著「会津戊辰戦争」改訂増補第4版の裏見返し部分に「昭和四年四月」「新島八重子」「八十五歳」と墨書されていた。今月3日に本を閲覧した利用者が署名に気付いた。

 本は、京都市長を務めた高山義三の長男で元府議の寛さんが1979年に府立総合資料館に寄贈、2000年に図書館に移管されていた。1928(昭和3)年12月発行の第4版から八重への聞き取りが追加されており、八重が同志社の職員だった義三の父、中村栄助に贈ったとみられる。

 同志社社史資料センターによると、名前に子を付けるのは当時の流行で、肖像写真の裏書きにも八重子の記載があるという。

 14日から3月27日まで図書館1階で展示する。


岡山
山田方谷:幕末の備中松山藩で財政再建、大河ドラマ化目指す 16万人が賛同署名 知事、NHKに直訴へ /岡山
 幕末に備中松山藩(高梁市)の財政を再建した山田方谷(ほうこく)(1805〜77)のNHK大河ドラマ化を目指す運動が展開されている。高梁市や県経済界が主導し、観光客誘致などを狙う。100万人を目標にした署名は既に16万人分集まり、24日には伊原木隆太知事が東京のNHKを訪問しドラマ化を直訴する。関係者は「岡山初の大河を」と意気込んでいる。

 実行委によると、方谷は備中松山藩の藩政改革で、現在の200〜300億円に当たる10万両の借金を返済。備中ぐわや葉たばこの特産品販売にも成功、「経営者の鏡」と尊敬される人物だ。

 大河ドラマ化は、同市の近藤隆則市長が11年に「郷土の偉人を知ってもらいたい」と発案。同市出身の大橋洋治全日空会長らが「財政再建は今の時代が求めるテーマ」と賛同。県商議所連合会なども加わり、昨年10月に署名運動を始めた。

 少しでも知名度を上げようと放映中の大河ドラマ「八重の桜」で主人公の夫・新島襄が倉敷市の玉島港に立ち寄った史実に着目。昨年12月には近藤市長らがNHKの松本正之会長に「ドラマ中で玉島で方谷と新島襄が会ったという設定を作ってほしい」と要望した。

 経済界出身の伊原木知事は松本会長に直接売り込む。実行委世話人の藤井義和さん(63)は「方谷は産業振興に加え、私塾を開いて後進の育成にもあたった。勤勉な岡山の県民性も全国にアピールできる」と話している。【井上元宏】


新島八重、岡山で講演の記録 1909年、山陽高等女学校で
 NHK大河ドラマ「八重の桜」のヒロインとして注目を集める新島八重(1845〜1932年)が山陽高等女学校(山陽女子中・高の前身、岡山市中区徳吉町)で09年に行った講演の記録が広報誌に残っている。会津藩の教えを守り、“ハンサムウーマン(美しい行いをする人)”とたたえられた八重。20世紀を迎えたばかりの講演では、女子生徒に学問で将来を切り開くよう訴えている。

 八重は戊辰(ぼしん)戦争(1868〜69年)でスペンサー銃を手に、男装して戦闘に加わるも藩は降伏。同志社大(京都市)を創立した新島襄(43〜90年)の妻となり、日清・日露戦争の際は看護婦として活動するなど波乱の人生を歩み、皇族以外の女性として初めて叙勲を受けた。

 講演は、広報誌「みさを 第42号」(A5判84ページ)に2ページ半にわたって掲載されている。山陽学園大(同平井)の図書館書庫に収められていた。

 タイトルは「白虎隊」で、自らが砲術を教えた隊士が所属していた白虎隊の戦いや自決の様子などを語りながら「ならぬことはならぬ」などの教えで知られる会津藩の教育が大きな影響を与えていたことを説明。「君につかへ、親につかふる道を知らせてゐました」と述べた。

 また、「女子は国の栄の基礎となるものです。故に意志を強く忍耐力に富んでゐなければならぬ、堅い決心をもつて學びの道を辿(たど)られんことを希望します」と強調している。




鹿児島
幕末薩摩のちびっこ教育がものすごかったという話
「日本を取り戻す!」って総理大臣も叫ぶけど、実際、過去の何を取り戻したらいいのだろうか。だいたい、そんな簡単に「昔のいいトコ」だけ取り戻せるものなんだろうか。映画化もされたベストセラー歴史本『武士の家計簿』の著者でもある磯田道史先生は、明治維新をリードした薩摩(さつま)藩出身者たちが“ちびっこ”時代に学んだ教育システムには、今の日本にとってさまざまなヒントがあるという。

■それは戦国時代の知恵の生き残り

磯田 幕末から日露戦争にかけ、かなりの確率で勝てる政治判断を下した人材を、薩摩藩は多く生み出しました。そんな薩摩藩では、武士の子供たちに「郷中(ごじゅう)教育」という独特の教育が行なわれていたんです。「郷中教育」とは、方限(ほうぎり:地域のこと)ごとに6歳から15歳くらいの少年が集まり、そこに15歳以上の先輩がついて行なう自習システム。今の教育はもちろん、幕末に日本中に広まっていた「藩校」ともまったく異なる制度でした。

―そこでちびっこたちは何を学んでいたんですか?

磯田 薩摩の子供は、まず早朝にひとりで先生(主に近所のインテリ武士)の家に行って儒学や書道などの教えを受けるのですが、誰を先生に選び、何を学ぶかは、子供が自分で勝手に決めていいんです。そして次は子供だけで集まって、車座(くるまざ)になり「今日は何を学んだか」を各自が口頭で発表します。決まった校舎や教室はなくて、毎日、子供が順番で、地域の家に「今日はこの家を教室に貸してください」と交渉します。社会性も身につきますよね。

何より大事なのは、皆の先生がバラバラなことです。思想が統一されないし、話す本人は復習になるし、口伝え・耳聞きによって、知識を皆で効率よく共有できる。ちゃんと理解してるか、親よりも厳しく仲間同士でチェックし合います。とにかく先輩は怖い。

―ものすごい会話コミュニケーション重視の学習なんですね。

磯田 対話重視という意味で、郷中教育の中で特に重視されたのが「詮議(せんぎ)」というメソッドでした。今でいう「ケーススタディ」で、起こり得るけど簡単には答えが出ないような状況をいろいろ“仮想”し、その解決策を皆で考え合う訓練です。

例えば「殿様の用事で急いでいるが、早駕籠(はやかご)でも間に合わない。どうするか」とか、「殿様と一緒に乗っていた船が難破した。向こうから一艘(そう)の助け船が来たが、乗っているのは自分の親の敵(かたき)だった。どうするか」とか、「道で侮辱された。どうするか」といったリアルな設問を次々と挙げ、各自が自分だったらどうするかを述べ、皆で議論する。「ハーバード白熱教室」みたいですよね。あの番組は日本でも大人気でしたが、日本人のDNAに、アメリカより先にこれをやってきた記憶があるとさえ思えます。

―あれ? これって薩摩藩だけの教育システムだったのでは?

磯田 実は「詮議教育」は、戦国時代くらいまでは日本中で行なわれていたようです。江戸時代になるまでは、公家や荘官や守護大名のようなごく一部のエリート以外は字を読めなかったので、一般的に武士は、戦(いくさ)の成功・失敗事例を文字でなく耳で学び、皆で議論し、実践的スキルを向上させる学習会を行なっていた。

江戸時代に入ると、藩校のようにテキスト重視の教育が普及していきますが、文字は使わないけど、極めて非常に実践的な中世式の教育スタイルが、九州の端っこにだけ「子供版」として残っていたわけです。実際、当時の薩摩は、国内で最も識字率の低い土地でした。しかし、「明治国家をつくり出した判断力」が、文字でなく口伝えの教育で育まれたのが面白いところで。

―道徳教育はあったんですか?

磯田 これも文字でなく、「日新公(じっしんこう)いろは歌」(日新公は島津の殿様)というのを毎日毎日、それこそ大人になるまでに何万回も唱えました。ちなみに最初の「い」は「いにしえの道を聞きても唱えても わが行ないにせずばかいなし」といって、「どんな昔の教えを聞いても自分で実践しなければなんの意味もない」という意味。やはりすごく実践的な教えですね。

―それをひたすら暗記する?

磯田 文字が読めなくてもリズムで暗唱できるようになっていますが、郷中教育では、例えば「『義』とは何か」といったテーマで議論を繰り返したりして、そうした日常生活の規範を、それぞれが内面化していくんです。
■西郷隆盛が抜擢された理由

―薩摩式教育で、子供たちは何を得られたと思います?

磯田 判断力、決断力、実行力を伴った、まさに「知恵」ですね。定まった知識をテキストで身につけるのでなく、(1)あらゆる事態を仮想し、(2)それに対処するアイデアを考え出し、(3)その中から正しいものを選択し、(4)実行する“度胸”を持つという。「野村ID野球」なんか、ちょっとそれに近かったんじゃないかな。野村監督は古田たちに「野球とは何か」まで質問して。予算はなくても当時のヤクルトは強くなりましたよね。

―ただ、講義やテキストではなく、主に対話だけで学ぶ学習って、グループリーダーの力量にすごく左右されそうですよね。

磯田 それはあります。郷中教育におけるグループリーダーを「二才頭(にせがしら)」と呼んだのですが(二才[にせ]は薩摩で若者の意)、例えば薩摩の城下町で「名二才頭」と噂になっていたのが、下級武士だった西郷隆盛でした。西郷の地元では、子供たちも行儀よく、顔つきも違うと評判だった。西郷は島津斉彬(なりあきら)に抜擢されますが、つまり、天才的な殿様にいきなり召し出されたわけではなく、6歳から20歳ぐらいの間でちゃんと、あいつは指導力があると自然に現場で証明されてたわけです。

だから薩摩藩は校舎も教師もなかったけど、郷中教育で「名二才頭」と呼ばれる若者を採用すれば、後に明治の国家をつくるような人材を効率的に選べた。話が飛ぶけど、今の日本で良い政治家がいないとよくいわれますが、やはり草の根の根っこのところでお互いがお互いを選び合うようなシステムがないと、それは難しいものです。あと、もし今、本当のエリート官僚を選びたいなら、やはり数回のペーパーテストと面接では無理でしょう。選挙もテストも一見公平な方法ですが、リーダーの選び方において今の日本社会は怠けてると僕は思う。もっとしっかり長い時間をかけ、実際の行動のなかから指導者を選んでいくシステムを復活させないと。
―人材を育てるだけでなく、人材発掘の面でも、今の日本にとってヒントがあると。

磯田 あと、今の日本に特に必要という意味では、さっきも話した、あらゆる事態を想定しておく「仮想力」です。明治以降の日本は欧米へのキャッチアップが目標だったから、生きる知識も学校で注入できました。しかし今は、記憶だけでは生きていけない事態を前提とした教育が求められています。それに日本人は、起きたら困るようなことは考えないようにしがちですから。まさに原発事故が、その象徴でした。

―ただ、さすがの薩摩武士たちにとっても、生麦(なまむぎ)事件(1862年、島津久光(ひさみつ)の行列を横切ったイギリス人をその場で斬り殺し、薩摩藩がイギリス軍と戦争する原因となった事件)なんかは想定外だったんじゃないですか?

磯田 そういう事態すら彼らの念頭にあったのではと僕は思うんです。「刀はめったなことでは抜くな。抜いたらただでは収めるな」というのが薩摩武士の道徳教育だったから、とどめは刺した。けど、その直後、島津久光の駕籠をとにかく内陸へ向け必死に走らせるわけ。実際、イギリス陸戦隊は即座に上陸し、島津久光の身柄を拘束しようとしていたんですから。

―では、絶対に負けるとわかっていた、イギリス軍との戦争にはどう対処したんでしょうか。

磯田 薩摩藩はすごいリアリストたちですから。彼らはイギリス軍の大将が乗った旗艦へ向けて砲弾を集中させ、相手の艦長を戦死させるんです。確かに薩摩はあちこち焼き払われ、とても勝ったとはいえないけど、イギリスにその実力は認めさせた。結果的には、「これは簡単に占領できる相手ではない。日本に親イギリス政権を樹立するために組む相手だ」って信用されたんですね。

―最後に、郷中教育は、なんらかの形で、今の日本でも復活させるべきだと思いますか。

磯田 そこには多くのヒントがあります。ただ、薩摩の郷中教育はあくまで忠孝(ちゅうこう)思想なんです。君に忠義、親に孝行。下の者に対し「慈悲をかけよ」という部分も少しはあるけど、根本は上に対する責任を持たせるのが目的の教育です。

でも、これからの日本に必要なのは、そうした身分制社会の教育ではなく、社会的弱者をどう救済するかとか横の関係とかですよね。さらに、郷中教育はやはり戦士の教育なんです。討ち死にしてでもとにかく敵を打ち負かす、チームとして戦に勝つための合理性を追求した教育であり、そこは情報化社会における合理性とは異なる。そこは組み替えないといけません。しかしこの教育が、当時の「人づくり」に大きな成果を挙げたことは間違いありません。

(撮影/本田雄士)

■磯田道史(いそだ・みちふみ)
1970年、岡山県生まれ。静岡文化芸術大学准教授。古文書を読み解き、当時の人々の生活や感情までをも生き生きと描きだす日本史の達人。近年は歴史地震学にも興味を持つ


ブックレビュー
幕末鼓笛隊 奥中康人著 隊列束ねる音楽 源流探る
 江戸時代のおわりごろから、西洋のいわゆる列強は日本に姿を見せだした。あちらの文化を、日本へつたえるようにもなっている。もちろん、音楽も。じじつ、この時期、日本各地で鼓笛隊とよばれるマーチング・バンドが、できている。

 西洋の軍楽には、軍隊の行進をたばねる力がある。隊列のうごきをととのえる効果が、期待できる。幕末期の諸藩が、これをとりいれようとしたのも、そのためである。

 そのころに演奏された鼓笛隊の音楽は、ならばどのようなものであったのか。著者は、日本各地にのこる演奏から、幕末の源流へさかのぼる。フォークロアとして保存されてきた芸能から、舶来の姿をうかびあがらせようとする。俗耳になじんだ「宮さん宮さん……」があやしいことも、おぼろげながら見えてきた。

 もちろん、140年をこえる伝言ゲームのせいで、もとの形はわかりにくくなっている。伝統芸能だという思いこみで、邦楽味をつけすぎた保存例も、なくはない。そうした限界もわきまえつつ、著者は遡及の旅にでる。伝承された芸能と、われわれはどうむきあえばよいのかを、深く考えさせられた。

★★★★★

(風俗史家 井上章一)

[日本経済新聞夕刊2013年2月6日付]

★★★★★ これを読まなくては損をする
★★★★☆ 読みごたえたっぷり、お薦め
★★★☆☆ 読みごたえあり
★★☆☆☆ 価格の価値はあり
★☆☆☆☆ 話題作だが、ピンとこなかった

エンターテインメント
大河ドラマ「八重の桜」を彩る華やかなイケメン俳優陣に注目!!
女性ヒロインを意識した演出で脚光を浴びたNHK総合で放送中の大河ドラマ「八重の桜」だが、綾瀬はるかなど女優陣に注目が集まる一方、イケメン俳優陣たちの出演が話題を呼んでいる。

西島秀俊は山本八重(綾瀬はるか)の兄である山本覚馬を演じるが、第3回「蹴散らして前へ」の回では、「腰抜け武士」と罵られた覚馬が、道場で槍の試合を行うシーンにおいて会津藩士としての誇りを堂々と見せ付け、その男気が注目を集めた。また、第6回「会津の決意」から登場している工藤阿須加は、元プロ野球選手・工藤公康氏の息子で、本作が本格的な俳優デビュー作となる。

八重の最初の夫となる川崎尚之助を演じる長谷川博己や、第9代会津藩主の松平容保を演じる綾野剛をはじめ、第5回「松蔭の遺言」で自身の信念を貫き、安政の大獄で処刑された吉田松陰を演じた小栗旬、容保率いる会津藩の家臣として外交官として活躍する神保修理を斎藤工、人情にも厚く武勇に秀でている武士・佐川官兵衛を中村獅童、抜群の政治手腕を持つ梶原平馬を池内博之などの若手俳優人が会津を支えていく人物を演じる。

さらに、幕府政策を擁護する佐幕派には徳川家最後の将軍の座につく徳川慶喜を小泉孝太郎、新撰組副長として市中の警護にあたる土方歳三を村上淳、新撰組三番隊隊長の斎藤一を降谷建志が、対する倒幕派には長州藩のリーダー・木戸孝允を及川光博、西郷隆盛を吉川晃司など幕府を取り巻くイケメン俳優たちの演技にも期待が集まる。

2月17日(日)放送の第7回「将軍の首」では、京都守護職に就任した容保に追随して、覚馬も都へ旅立つことになる。京都への上洛を控えた覚馬が八重や尚之助、三郎とともに出立前の時を家族と過ごすため東山温泉へと向かうシーンに注目だ!


幕末奇譚 SHINSEN5~剣豪降臨~
チェック:『スイッチを押すとき』などの中島良がメガホンを取り、激動の幕末を舞台に描くスタイリッシュな時代劇アクション。幕府崩壊をたくらむ藩士や陰陽師相手に、固いきずなで結ばれた新撰組メンバーたちが戦いを挑む姿を描く。剣客たちを演じるのは、ミュージカル「テニスの王子様」の馬場徹、神永圭祐、馬場良馬、八神蓮、広瀬友祐ら若手注目俳優たち。フレッシュなメンバーたちによる高度な殺陣や驚きのストーリー展開に熱中する。

ストーリー:新撰組八番隊組長の藤堂平助(八神蓮)は、幕府の目付役の護衛中に何者かの襲撃を受ける。何とその正体は、幕府転覆を狙う長州藩の吉田稔麿(高崎翔太)と陰陽師である土御門源春(佐々木喜英)に操られた柳生十兵衛だった。仲間の危機を救うため、新撰組三番隊組長斎藤一(馬場良馬)をはじめ、副長の土方歳三(馬場徹)らが立ち上がる。


三谷幸喜、憧れの天才・野田秀樹への複雑な感情を告白
三谷幸喜と野田秀樹という日本演劇界のトップに立つ2人が初めて舞台でタッグを組む「おのれナポレオン」の制作会見が1月23日(水)、東京芸術劇場にて行われ、作・演出の三谷さん、主演の野田さんを始め、天海祐希、内野聖陽、山本耕史が出席した。

セントヘレナ島に島流しになったナポレオンと彼を取り巻く人々を描いた作品で、自身の作・演出による芝居以外に役者として出演するのは、今回がほぼ初めてとなる野田さんがナポレオンを演じる。そのほか今井朋彦、浅利陽介が出演する。

三谷さんが脚本を執筆したNHK大河ドラマ「新選組!」で三谷さんたっての希望で野田さんが勝海舟役を演じたが、三谷さんは「そのときから役者・野田秀樹に魅力を感じ、舞台で僕が書いたセリフを言ってほしいと思ってました」と語る。三谷さんが考える野田さんの俳優としての魅力を尋ねると「『新選組!』で見て、ビジュアル的にカッコいいなと思いました。セリフの一つ一つは大河的でも、TV的でもないし、何を言ってるか分からないところがあるんだけど(笑)、気持ちが入ってた」と語った。

劇団「夢の遊眠社」を率い、その後も「NODA MAP」で数多のプロデュース公演を行ない“天才”と称されてきた野田さんを、三谷さんはどのように見ていたのか? 三谷さんは「“二大○○”などという言われ方をしてますが、とんでもないです。僕にとっては学生のころから憧れていた大先輩」と尊敬の念を込めて語る。一方で「僕の周りでみんなが『野田だ!』、『遊眠社だ!』って言ってたので、絶対に見に行かないようにしてました。僕は知人が出てないと芝居は見ないんだけど、別れた奥さん(小林聡美)が出てた作品(2003年の『オイル』)を見に行きました。そう言いつつDVDはちょっと見たり…でも、僕の中でそれはOKで劇場に行ったら負けで…(笑)」と憧れと対抗心がない混ぜになった心の内を明かした。

野田さんは3分の1ほど脚本を読んで「三谷さんが私をどう見ていたのかしみじみと実感しています。『申し訳なかったな』、『イヤな思いをさせてたんだな』と感じるようなイヤな奴に描かれてます。『偉くなり過ぎて、言ってくれる奴が周りにいない』というセリフがあって、(自分は)そういう奴なのかな? と反省する部分が多いです(苦笑)」と脚本を通して三谷さんからのメッセージ(?)を受け止めた様子だ。

野田さんの方は三谷さんをどう見ていたのか? について、1992年から93年のロンドン留学から帰国後すぐに「面白いと勧められて『ショウ・マスト・ゴー・オン~幕をおろすな』を見に行った」と明かし、「自分では作れないテイストの違いがあり、尊敬して見てました。つかこうへいさんも『いま、面白い作家は三谷幸喜』と仰っていたのを覚えています」と語った。

今回、三谷さんの演出を受けることになるが「いままで知らなかった役者の気持ちを思い知るんだろうと思います。稽古場にいると、役者が背後でしゃべってるけど、あの楽しい雰囲気に入っていけるんだと楽しみです」と期待を語った。

稽古場でどんなやりとりが繰り広げられるのか楽しみだが、内野さんは「ケンカになったら嫌だなと思ってます(笑)」と心配そうに語るが、三谷さんは「ぶつかることはないと思いますよ」。一方の野田さんは「お望みなら1日くらい、ネチネチと台本のこととか言ってもいいですよ(笑)」と闘志満々だった。

天海さんは「こうやって顔を合わせると、客席で見てみたかったと思います」とワクワクした様子で語り、山本さんも「客席で見られないのが悔しくなるような芝居にしたい」と意気込みを明かした。

「おのれナポレオン」は4月9日(火)より5月12日(日)まで東京芸術劇場プレイハウスにて上演。
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