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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
激動生きた人徳者に光 幕末の志士、伊東甲子太郎展
かすみがうら市出身で、幕末に新選組隊士として活躍した伊東甲子太郎(かしたろう)(1835-67年)を紹介する企画展「伊東甲子太郎と幕末の同志」が、同市坂の市歴史博物館で開かれている。今年が明治維新から150年を迎えるのに合わせ、激動の時代に生きた地元の名士に光を当てた。3月4日まで。

甲子太郎は志筑藩(現かすみがうら市)に生まれ、13歳で水戸藩で剣術や水戸学を学んだ。江戸に出て、水戸で栄えた北辰一刀流を伊東道場で身に付け、優れた技術と人格を評され塾頭に推挙された。1864年に新選組の隊士募集に応じて合流。京都で活躍するが、長州藩とつながりがあったため、幕府に忠誠を尽くす隊長の近藤勇との間で確執が生まれ、暗殺された。生前、大政奉還後に国家政策の建白書を朝廷に提出したことでも知られる。

企画展では、甲子太郎を支えた家族や剣術家、新選組の弟子らを紹介。甲子太郎の弟には新選組に一緒に入隊した鈴木三木三郎がおり、剣術は水戸で金子健四郎、江戸で伊東精一郎らに習った。新選組では甲子太郎の勤王思想に心酔する弟子が多く、新選組から分離し高台寺党になる人物もいた。

展示会場には甲子太郎の肖像画や位牌(いはい)、母に当てた手紙、歌集などを写真や資料とともに並べた。

甲子太郎が習得した水戸学や剣術、新選組入隊後の同志たちも紹介。かすみがうら出身で甲子太郎の薫陶を受けた明治の教育者、金澤鎗次郎(そうじろう)の功績も展示した。

同館の千葉隆司学芸員は「甲子太郎は総合学問である水戸学を学び、いろいろな人に慕われ大きくなっていった人徳者。暗殺されなければ、明治期にも活躍したのではないか。その人間性や、亡くなった後にも多くの人々に影響を及ぼしたことを感じ取ってもらえれば」と話した。

月曜休館(祝日の場合は翌日休館)、開館時間は午前9時~午後4時半。入館料は大人210円、小中学生100円。同館(電)029(896)0017。

(綿引正雄)

【東京】「浪士姓名簿」を一挙紹介 近藤勇、沖田総司、永倉新八の名も
 幕末の京都で徳川将軍の護衛に就き、新選組の前身となった「浪士組」隊士について幕臣が記録した文書を、歴史研究グループ「三十一人会」=会長・小島政孝さん(68)=の会誌が一挙紹介している。 (栗原淳)

 文書は「浪士姓名簿」。戦前に古書店の目録に掲載され、存在は知られていたが、世に出ることのない「幻の資料」とされていた。昨年一月、東京大法学部図書館が所蔵しているとの情報がネットに投稿されているのを、同会副会長あさくらゆうさん(48)=荒川区=が見つけ、同図書館で実物と確認した。

 同会によると、浪士組の隊士を知ることができる資料は、これまでも数点確認されているが、浪士姓名簿は名前だけでなく、家族構成や居住地まで記載した詳細さが特徴。隊士を募った江戸から京都まで一行を率いた幕臣による記録のため、内容の信頼性も高い。

 今の新書判より一回り大きいサイズで、百十九ページにわたり京都到着時の二百三十五人の名が並ぶ。近藤勇の項目は「三十歳」「父妻子三人」、居住地は「市ケ谷加賀屋敷山川磯太郎地借仕候(ちかりつかまつりそうろう)」と記載。のちに新選組幹部となった沖田総司や永倉新八らの項目は「近藤勇方ニ同居」と記している。あさくらさんは「近藤は主を務めた剣術道場『試衛館』のすぐ近くに住居があった。沖田らが住み込みの内弟子だったことは知られているが、当時の公的な記録にも近藤家の住人と登録されていた」と名簿を読み解く。

 小島さんは、旧小野路(おのじ)村(町田市小野路町)の名主を務めた小島家の二十四代当主。四代前の鹿之助は、近藤や沖田らを剣術稽古に招いたという。自宅に資料館を開き、新選組ゆかりの資料を公開している小島さんは「浪士姓名簿は、新選組隊士の江戸を出る直前の様子が分かる貴重な資料」と話した。

 会誌「幕末史研究」四十四号で名簿の全ページの複写画像を掲載している。購入は、〒195 0064町田市小野路町950「小島資料館」へ現金書留を送る。送料込み二千五百円。資料館は二月末まで休館。

30年ぶりに「名古屋叢書」 蓬左文庫、幕末の武士の記録解く
 名古屋市博物館の分館で、尾張徳川家の旧蔵書など約十一万点の史料を持つ蓬左(ほうさ)文庫(名古屋市東区)は、近世の尾張名古屋に関する古文書を解読した史料集「名古屋叢書(そうしょ)」の刊行を三十年ぶりに再開する。当時を知る上で欠かせない基本文献として重宝されてきたが、一九八八年に刊行事業がいったん終了していた。

 「名古屋叢書」は、名古屋市制七十周年を迎えた一九五九年から刊行。八八年までの三十年で、一編から三編(計六十五冊)と索引・総目録を出した。

 うち、二編で刊行された「金城温古録(きんじょうおんころく)」は「名古屋城の百科事典」として名高い。天守閣の木造化計画を進める河村たかし市長が、会見で「寸分たがわぬ復興ができる世界でただ一つの巨大な歴史的建造物」と説明した際も、計画を可能にする史料の一つに挙げている。

 また、映画や漫画で人気を呼んだ『元禄御畳奉行の日記』の基になった尾張藩士・朝日文左衛門の「鸚鵡籠中記(おうむろうちゅうき)」も二編で刊行している。

 一般にも販売され、主に歴史学者や郷土史家らが活用。二編までは完売するほど需要があったが、八九年以降は蓬左文庫が所蔵史料のデジタル化などに力を入れた上、予算の制約もあって刊行は途絶えていた。

 研究者らの再開を望む声に応じ、三十年ぶりに刊行される四編では、尾張藩家老に仕えた武士・水野正信(一八〇五~六八年)の私的な記録集「青窓紀聞(せいそうきぶん)」を取りあげる。水野は当時“記録魔”として知られ、自らの見聞や公文書、手紙から得た情報などを、全二百四巻の大著にまとめた。

 このうち当面は四十三巻分を新年度から年に一冊ずつ、数年がかりで出す方針。新年度当初予算案には、一冊目の初版二百五十部の印刷費と、編集に協力する研究者との会議費を盛り込んだ。

 刊行分に記録されているのは、江戸時代後期の一八一四年から米国のペリーの来航(五三年)前までの社会情勢。名古屋城下の祭りや寺社の開帳などの行事から、災害や疫病の流行まで多岐にわたる。

 原本は蓬左文庫の所蔵で一九九〇年ごろから解読を続け、九割超は終わっている。(谷村卓哉)
【茨城】<ひと物語 幕末~明治>日本の金融界の発展に貢献 川崎八右衛門(上)
 ちょうど百五十年前、長く続いた江戸幕府が倒れ、明治時代が始まった。激動の時代の端境期。新しい国の礎を築くのに活躍した県出身者をノンフィクションライターの岡村青さんに寄稿してもらった。シリーズ一回目は金融界の発展に貢献した川崎八右衛門から。今後、隔週で紹介していく。

 川崎八右衛門は一八三四(天保五)年十二月、現在の茨城町海老沢で生まれます。八右衛門は同家代々の襲名で、守安(もりやす)が本名です。生家は涸沼河岸で物資などを船で運ぶ回漕(かいそう)業を営むほか、水戸藩所有の山林管理をつとめる郷士の家柄でした。

 けれど、「生家は現在、解体して残っていません。当時をしのばせるものといえばこの二つの灯籠だけですね」と、分家にあたる川崎正則さんは庭に立つ灯籠を手で示します。

 十五歳で家業を継ぎ、十六歳で加倉井砂山(さざん)の「日新塾」に入門。塾は現在の水戸市成沢町にあり、文芸、兵学、武芸のほか、塾生が討論会を開いて議論を交わすなど個性尊重の私塾でした。そのため、三千名もの塾生を育成したともいわれ、天狗(てんぐ)党の筑波挙兵を果たした藤田小四郎なども学んでいました。

 川崎は入門間もなく、砂山の次女世舞子(せんこ)と結婚。砂山が、彼の商才を見込んだためともいいます。砂山は塾に三人の秀才がいるとして、「文章は即(すなわ)ち興野道甫(きゅうのどうほ)あり、義烈は即ち斎藤一徳(いっとく)あり、貨殖は即ち川崎守安あり」と評し、資産を蓄えるのに優れた川崎を認めています。

 実際、川崎は六六年、財政再建のために江戸の水戸藩下屋敷に鋳銭座設置が認可されると責任者となって事業を軌道に乗せ、財政を好転させるなど商才を発揮します。

 水戸藩最後の藩主徳川昭武は六九年、北海道天塩(てしお)地方の開拓に乗り出し、川崎もこれに加わります。けれど、二年後の廃藩置県発布で事業は北海道開拓使に譲渡し、水戸藩は北海道から撤退します。

 川崎の経済界進出欲求は、国内の近代化とともにますます旺盛となり、東京・日本橋に川崎組(後の川崎銀行)を設立し、国内の銀行の草分けとなります。事業も順調に進みます。

 特に七七年二月、西郷隆盛らが起こした西南戦争を鎮圧するため、警視庁が派遣する警官隊の費用を調達したことで、さらに事業を拡大し、財界進出の足取りをいっそう速めます。

 けれど、川崎は私腹を肥やすことや名利を求める人ではなく、むしろ質素な人でした。そのため、利益は地域発展のために還元しています。 (ノンフィクションライター・岡村青)
【今こそ知りたい幕末明治】幻の薩摩藩京都「岡崎屋敷」発見
 慶応2(1866)年正月28日、京都に滞在していた薩摩藩家老の桂久武は、その上京日記に「此日岡崎御屋敷毎月例之通之一陳調練有之由」と、岡崎に設けられた屋敷(調練場)での月例調練について記した。

 岡崎屋敷についての記述は他にもあり、一昨年、鴨川以東の岡崎界隈(かいわい)に「薩州ヤシキ」と描かれている古地図の存在が話題になったが、正確な場所などは不明のままであった。

 今回、古地図研究第一人者で佛教大学非常勤講師の伊東宗裕氏と、西郷隆盛研究家の原田良子氏が、岡崎屋敷の正確な位置や規模、存続期間がわかる古地図を確認した。

 それは、京都女子大学所蔵の「鴨川沿革橋図」巻子(かんす)本(巻物)の中に収められていた。明治31年に京都の篤志家、熊谷直行(鳩居堂第8代当主)が、鴨川の橋についてまとめたものである。従来の古地図と異なり、道路の形状、屋敷の輪郭が比較的正確に描かれている。薩州屋敷の部分には「元治元年四月外柵成慶応四年取払其後此処ヲ分割シテ横須賀大聖寺秋田富山ノ邸ヲ設ク」「ヌエ塚、ヒメ塚、西天王寺(ツカ)」とある。鵺(ぬえ)塚、秘塚という古墳は昭和30年まで現・岡崎公園に存在(その後移設)。そこから場所が特定できた。

 面積も「凡 五万二千二百拾坪」と記載されている。おおよその形状から、岡崎公園から西にあるロームシアター京都、平安神宮のほとんどが岡崎屋敷内と推定できる。

 元治元(1864)年4月に外柵を成し、月日の記載を欠くが慶応4年に引き払い、分割して、横須賀・大聖寺・秋田・富山藩邸となったことは慶応4年の古地図からも確かめられる。隣接する越前、芸州(安芸)、加賀屋敷の坪数などが明記されている点も画期的である。

 元治元年4月、西郷隆盛は沖永良部島から赦免召喚され上洛していた。前月、国父島津久光は尽力した参与会議の解散を余儀なくされた。一橋慶喜が宸翰の草稿問題で久光を警戒し排除したことによる。同4月18日、久光は失意の中、大久保利通を同道して薩摩へ向けて出立し、京都は家老の小松帯刀と西郷隆盛に委ねられた。5月12日付の西郷から国元の大久保への書簡に、久光の意向である禁裏守護に徹していることが記されている。

 岡崎屋敷も、この禁裏守護の目的で設けられたと考えられる。屋敷を見下ろす高台にある黒谷・金戒光明寺は、文久2(1862)年、京都守護職として会津藩主、松平容保が本陣としている。翌文久3年、会津藩と薩摩藩は「八月十八日の政変」で力を合わせた。

 元治元年7月19日の禁門の変でも薩摩藩は禁裏守護を貫き、西郷が指揮した。その精兵、砲隊の調練は岡崎で間違いない。

 2年後の慶応2年正月21日、御花畑で薩長同盟は結ばれた。

 その後、桂久武は小松帯刀とともに、洛西衣笠山の麓(現・立命館大学周辺)に新たな調練場を設ける調査などをしている。小松原村の薩摩藩の調練場である。京都での薩摩藩の軍事的存在感は高まる一方であった。

 ところで、坂本龍馬が寺田屋で襲撃された際に押収された荷物の中に、薩長の談合に関する書面があった。その内容が、「京坂書通写」(鳥取県立博物館)に書かれており、薩長両藩が協力して会津藩を京都から追放する取り決めがあったことがわかった。

 これらのことからも薩長同盟は、場合によって「決戦やむなし」の決意を持った軍事同盟と考えられる。

 薩摩藩の調練場では、英国式兵学者の上田藩士赤松小三郎を招き、英国式歩兵への練兵も行われた。鳥羽伏見の戦いでは、その英国式歩兵も錦の御旗とともに最大限に生かされた。

 桂久武は、慶応2年2月12日に「幸神口橋普請見物として参候」と御幸橋の普請を見学している。

 今回の古地図は御幸橋(現・荒神橋)の解説に付したものであった。その内容は史料の「御幸橋(中略)慶応二年二月、工を興し八箇月にして成るを告く(ぐ)」とも一致する。

 久武は、京都見物をしながら反物や清水焼などを買い求めた。前年末にパリ万博の契約がベルギー商社との間で成されており、その準備とも考えられる。

 富国強兵は島津斉彬の遺志であった。今回発見された地図は、薩摩藩が軍事力と政治力を発揮し、幕末の難局を乗り越え、明治維新を迎えたことを、再認識させる貴重な史料である。
戊辰戦争150年機に地域振興、東北各地で催し 北海道・東北
 江戸から明治への転換期に起きた戊辰(ぼしん)戦争から150年の節目を、ふるさとの振興につなげるイベントが東北で相次ぐ。国が掲げる「明治150年」とは違う角度から情報発信し、住民が地元を見つめ直す機会をつくりながら、観光客も呼び込む企画が目立つ。敵味方を超えた催しを開く動きもある。

鶴ケ城に立つのぼり旗には「戊辰150周年」に並んで「SAMURAI CITY AIZU」の文字も(25日、福島県会津若松市)
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鶴ケ城に立つのぼり旗には「戊辰150周年」に並んで「SAMURAI CITY AIZU」の文字も(25日、福島県会津若松市)

 旧幕府軍の中心的存在だった会津藩ゆかりの福島県会津若松市は28日に「オープニング講演会」を開く。会津を舞台にした著作も多い作家の中村彰彦氏が、市民ら400人以上を前に戊辰戦争の歴史的意義を語る。7月下旬を予定する白虎隊の悲劇を題材にした「オペラ白虎」公演には、市民コーラスも参加する。

 市は5千万円の予算を投じて内外に会津をPRする特別映像も制作中。5月以降、衛星放送やネットを通じて発信する。「逆賊の汚名を受けながらも戦った先人の心に、市民や観光客が思いをはせる年にしたい」(市観光課)という。

 仙台藩、米沢藩など東北諸藩の代表が集まった「白石会議」の舞台、宮城県白石市は「しろいし慕心(ぼしん)プロジェクト」を展開。「戊辰の面影」などをテーマに当時の足跡が残る場所など市内で撮影した写真を募集し、3月にコンテストや展示会を実施する。白石会議は「奥羽越列藩同盟」につながったことから、加盟藩再集結の場を設ける構想もある。

 敵味方を超えた企画もある。新政府軍を何度も跳ね返した庄内藩の一部だった山形県酒田市は、処分に寛大だった西郷隆盛との関係にスポットを当てた企画展を今夏に開く予定。同町には西郷をまつる南洲(なんしゅう)神社もあり、NHK大河ドラマ「西郷どん」との相乗効果も期待する。

 領民が両軍の戦死者を分け隔てなく弔ったことで知られる福島県白河市のキャッチフレーズは「甦(よみがえ)る『仁』のこころ」。「先人の功績から学び、多くの地域と交流を深めたい」(市文化振興課)とし、7月14日には山口県萩市や鹿児島市など新政府軍側の自治体トップらも招いて合同慰霊祭を開く。

 土地によっては戦争のわだかまりは根強い。会津若松市は降伏の日と同じ9月22日に式典を開くが「西軍(新政府軍)を呼ぶことは考えていない」(市観光課)という。
開戦の日、残る傷痕 戊辰150年・鳥羽・伏見の戦い
 1868(慶応4)年1月27日(旧暦1月3日)、戊辰戦争が始まった。緒戦の「鳥羽・伏見の戦い」から1869(明治2)年6月の箱館戦争までの1年余にわたり、東軍(旧幕府軍)と西軍(新政府軍)が戦火を交えた。国の未来を切り開く-。立場は違えど、志を胸に戦った日本人の足跡は、多くの教訓を伝える。150年を経た今もなお、先人が情熱を注いだ国造りへの思いを伝え続けている人々を訪ねる。
 京都市南東部に位置する伏見区。多くの寺社が連なる静かな街並みの一角に妙教寺はある。本堂のほぼ中央に立つ、直径30センチほどの太い柱にある大穴が目を引く。
 「壁を突き破った砲弾は柱を貫き、壁にめり込んで、ようやく止まったと伝え聞いています。恐ろしいまでの破壊力です」。住職の松井遠妙[おんみょう]さん(68)は、150年前に繰り広げられた鳥羽・伏見の戦いの激しさを物語る痕跡に視線を向けた。
 鳥羽・伏見の戦いは、現在の京都市南部に当たる鳥羽や伏見、淀が主戦場になった。特に伏見と淀は、淀川や鳥羽街道などを介して大阪に通じる要衝だった。当時、大阪を本拠地としていた東軍は京都に向かう途中で、入京を妨げる西軍と、この地で激突した。
 妙教寺は淀川の上流の桂川と鳥羽街道沿いにあり、戦局の鍵となった淀城に近い。境内周辺では激しい砲戦、銃撃戦が繰り広げられた。
 大穴は普段、板でふさがれている。裏側には当時の住職日祥が記した戦いの模様を伝える一文が残る。
 「明治元年正月4日幕兵は官軍を小橋の畔[あぜ]に拒[ふせ]ぐ。銃丸雨の如くことごとくこの寺に集まる。(中略)猫犬驚き走り身の置くところなし。中に巨砲[おおづつ]ありて勢迅雷[いきおいじんらい]の如く、天地に響動[きょうどう]す。(中略)誤ってこの柱をつらぬき、玄関の屋隅[やすみ]をおかしやぶって止む」
 砲弾、銃弾が雨あられのように降り注ぎ、その音は雷鳴のように天地に響いた。猫や犬でさえも恐れおののき、逃げ惑った-。混乱を極めた様子は想像に難くない。
 日祥は、こう締めくくっている。
 「しかる後此の柱は新造を加えず、全く其の跡を存し、以って後世伝説の証とする。嗚呼[ああ]危うかりし哉[や]」
 あえて柱を新たに造らず、修繕して残した。悲惨で過酷な戦乱の証拠として後世に語り継ぐ-。
 地域の平穏と、民の安寧を祈る一人の僧侶のメッセージが、平和とは何かを問い掛ける。

( 2018/01/27 09:01 カテゴリー:主要 )
靖国神社宮司、退任へ 明治維新、歴史認識めぐる発言で波紋 戊辰戦争「幕府軍も日本のこと考えていた」
 靖国神社の徳川康久宮司(69)が退任する意向を関係者に伝えていたことが23日分かった。同神社関係者が明らかにした。定年前の退任は異例。徳川氏は「一身上の都合」と周囲に説明している。徳川幕府十五代将軍慶喜を曽祖父に持つ徳川氏が2016年の共同通信のインタビューで示した明治維新に関する歴史認識について、同神社元総務部長が「会津藩士や西郷隆盛ら『賊軍』の合祀(ごうし)の動きを誘発した」と著書などで徳川氏を批判、波紋が広がっていた。

 明治維新のため幕府と戦って亡くなった人々の顕彰という創立の理念に絡んで発言した徳川氏が退任すれば、…
 以後は有料記事サービスにて。

半藤一利「明治維新150周年、何がめでたい」「賊軍地域」出身作家が祝賀ムードにモノ申す
1月1日、安倍晋三首相は年頭所感で「本年は、明治維新から、150年目の年です」と切り出し、明治維新を賞賛した。政府は「明治維新150年」記念事業に積極的で、菅義偉官房長官は「大きな節目で、明治の精神に学び、日本の強みを再認識することは重要だ」と述べている。
明治維新を主導した薩摩(鹿児島)、長州(山口)などではすでに記念イベントが始まっているが、今年は国家レベルでもさまざまな祝賀事業が行われる見通しだ。
だが、こうした動きに対し、異議を申し立てる論者も多い。『日本のいちばん長い日』『昭和史』などの名著で知られ、幕末維新史にも詳しい半藤一利氏もその1人である。『賊軍の昭和史』(保阪正康と共著)の著者でもある半藤氏に話を聞いた。
(聞き手:加納則章)

「明治維新」という言葉は使われていなかった
――そもそも「明治維新」という言葉が使われたのは、明治時代が始まってからずいぶん後のようですね。

私は、夏目漱石や永井荷風が好きで、2人に関する本も出しています。彼らの作品を読むと、面白いことに著作の中で「維新」という言葉は使っていません。特に永井荷風はまったく使っていないのです。

漱石や荷風など江戸の人たちは、明治維新ではなく「瓦解(がかい)」という言葉を使っています。徳川幕府や江戸文化が瓦解したという意味でしょう。「御一新(ごいっしん)」という言葉もよく使っています。

明治初期の詔勅(しょうちょく)や太政官布告(だじょうかんふこく)などを見ても大概は「御一新」で、維新という言葉は用いられていません。少なくても明治10年代までほとんど見当たりません。

そんなことから、「当時の人たちは御一新と呼んでいたのか。そもそも維新という言葉なんかなかったんじゃないか」と思ったことから、明治維新に疑問を持つようになりました。

調べてみると、確かに「明治維新」という言葉が使われだしたのは、明治13(1880)年か14年でした。
明治14年というのは、「明治14年の政変」があり、薩長(薩摩・長州)政府というよりは長州政府が、肥前(佐賀)の大隈重信らを追い出し政権を奪取した年です。このあたりから「明治維新」を使い出したことがわかりました。


半藤一利(はんどう かずとし)/作家。昭和5(1930)年、東京生まれ。東京大学文学部卒業後、文藝春秋入社。『週刊文春』『文藝春秋』編集長、専務取締役などを経て作家。「歴史探偵」を自称。『漱石先生ぞな、もし』(正・続、新田次郎文学賞)、『ノモンハンの夏』(山本七平賞)、『日本のいちばん長い日』、『昭和史1926-1945』『昭和史 戦後篇』(毎日出版文化賞特別賞)、『幕末史』、『山本五十六』、『日露戦争史』(全3巻)、『「昭和天皇実録」の謎を解く』(共著)など著書多数。保阪正康との共著に『そして、メディアは日本を戦争に導いた』(対談)などがある(撮影:風間 仁一郎)
薩長が革命を起こし、徳川政府を瓦解させ権力を握ったわけですが、それが歴史的にも正当性があることを主張するために使った“うまい言葉”が「明治維新」であることがわかったのです。

確かに「維新」と「一新」は、「いしん」と「いっしん」で語呂は似ていますが、意味は異なります。「維新」は、中国最古の詩集『詩経』に出てくる言葉だそうで、そう聞けば何やら重々しい感じがします。

薩長政府は、自分たちを正当化するためにも、権謀術数と暴力で勝ち取った政権を、「維新」の美名で飾りたかったのではないでしょうか。自分たちのやった革命が間違ったものではなかったとする、薩長政府のプロパガンダの1つだといっていいでしょう。

歴史というのは、勝った側が自分たちのことを正当化するために改ざんするということを、取材などを通してずいぶん見てきました。その後、いろいろ調べて、明治維新という名称だけではなく、歴史的な事実も自分たちに都合のいいように解釈して、いわゆる「薩長史観」というものをつくりあげてきたことがわかりました。

「薩長史観」はなぜ国民に広まったのか
――どのようにして薩長史観が広まったのでしょうか。

そもそも幕末維新の史料、それも活字になった文献として残っているものの多くは、明治政府側のもの、つまり薩長史観によるものです。勝者側が史料を取捨選択しています。そして、その「勝った側の歴史」を全国民は教え込まれてきました。

困ったことに、明治以降の日本人は、活字になったものしか読めません。ほとんどの人が古い文書を読みこなせません。昔の人が筆を使い崩し字や草書体で書いた日記や手紙を、専門家ではない私たちは読めません。読めないですから、敗者側にいい史料があったとしても、なかなか広まりません。どうしても薩長側の活字史料に頼るしかないのです。

そこでは、薩長が正義の改革者であり、江戸幕府は頑迷固陋(ころう)な圧制者として描かれています。学校では、「薩長土肥の若き勤皇の志士たちが天皇を推戴して、守旧派の幕府を打ち倒し新しい国をつくった」「幕末から明治にかけての大革命は、すばらしい人格によってリードされた正義の戦いである」という薩長史観が教えられるわけです。

さすがに最近は、こうしたことに異議を申し立てる反「薩長史観」的な本がずいぶん出ているようですが……。

――子どもの頃、半藤さんのルーツである長岡で「薩長史観」の誤りを感じられたそうですね。

私の父の郷里である新潟県の長岡の在に行くと、祖母から教科書とはまったく逆の歴史を聞かされました。学校で薩長史観を仕込まれていた私が、明治維新とか志士とか薩長とかを褒めるようなことを言うと、祖母は「ウソなんだぞ」と言っていました。

「明治新政府だの、勲一等だのと威張っているヤツが東京にたくさんいるけど、あんなのはドロボウだ。7万4000石の長岡藩に無理やりケンカを仕掛けて、5万石を奪い取ってしまった。連中の言う尊皇だなんて、ドロボウの理屈さ」

いまでは司馬遼太郎さんの『峠』の影響もあり、河井継之助が率いる長岡藩が新政府軍相手に徹底抗戦した話は有名ですが、当時はまったく知りませんでした。明治維新とはすばらしいものだったと教えられていた私は、「へー、そんなことがあるのか」と驚いたものです。

また祖母は、薩長など新政府軍のことを「官軍」と呼ばず「西軍」と言っていました。長岡藩はじめ奥羽越列藩同盟軍側を「東軍」と言うわけです。いまでも長岡ではそうだと思います。これは、会津はじめほかの同盟軍側の地域でも同様ではないでしょうか。

そもそも「賊軍」は、いわれのない差別的な言葉です。「官軍」も「勝てば官軍、負ければ賊軍」程度のものでしかありません。正直言って私も、使うのに抵抗があります。

「明治維新」の美化はいかがなものか
――幼少期の長岡でのご経験もあり、「明治維新150年」記念事業には違和感があるのでしょうか。

「明治維新150年」をわが日本国が国を挙げてお祝いするということに対しては、「何を抜かすか」という気持ちがあります。

「東北や北越の人たちの苦労というものを、この150年間の苦労というものをお前たちは知っているのか」と言いたくなります。

司馬遼太郎さんの言葉を借りれば、戊辰戦争は、幕府側からみれば「売られたケンカ」なんです。「あのときの薩長は暴力集団」にほかならない。これも司馬さんの言葉です。

本来は官軍も賊軍もないのです。とにかく薩長が無理無体に会津藩と庄内藩に戦争を仕掛けたわけです。いまの言葉で言えば侵略戦争です。

そして、ほかの東北諸藩は、何も悪いことをしていない会津と庄内を裏切って両藩を攻めろ、法外なカネを支払え、と高圧的に要求されました。つまり薩長に隷属しろと言われたのです。これでは武士の面目が立たないでしょうし、各藩のいろんな事情があり、薩長に抵抗することにしたのが奥羽越列藩同盟だったわけです。

私は、戊辰戦争はしなくてもいい戦争だったと考えています。西軍の側が手を差し伸べていれば、やらなくていい戦争ではないかと。
にもかかわらず、会津はじめ東軍の側は「賊軍」とされ、戊辰戦争の後もさまざまに差別されてきました。

そうした暴力的な政権簒奪(さんだつ)や差別で苦しめられた側に配慮せず、単に明治維新を厳(おごそ)かな美名で飾り立てようという動きに対しては何をかいわんやです。

――賊軍となった側は、具体的にはどのような差別を受けたのでしょうか。

宮武外骨の『府藩県制史』を見ると、「賊軍」差別の様子がはっきりわかります。

これによると、県名と県庁所在地名の違う県が17あるのですが、そのうち賊軍とされた藩が14もあり、残りの3つは小藩連合県です。つまり、廃藩置県で県ができるとき、県庁所在地を旧藩の中心都市から別にされたり、わざわざ県名を変えさせられたりして、賊軍ばかりが差別を受けたと、宮武外骨は言っているわけです。

たとえば、埼玉県は岩槻藩が中心ですが、ここは官軍、賊軍の区別があいまいな藩だった。「さいたま」という名前がどこから出たのかと調べると、「埼玉(さきたま)」という場所があった。こんな世間でよく知られていない地名を県の名にするなんて、恣意的な悪意が感じられます。

新潟県は県庁所在地が新潟市なので名は一致していますが、長岡が中心にありますし、戊辰戦争がなければ長岡県になっていたのではないでしょうか。

県名や県庁所在地だけ見ても、明治政府は賊軍というものを規定して、できるだけ粗末に扱おうとしていることがわかります。

また、公共投資で差別された面もあります。だから、賊軍と呼ばれ朝敵藩になった県は、どこも開発が遅れたのだと思います。

いまも原子力発電所が賊軍地域だけに集中しているなどといわれますが、関係あるかもしれません。

立身出世を閉ざされた「賊軍」藩出身者
――中央での人材登用でも、賊軍の出身者はかなり厳しく制限されたようですね。

賊軍藩の出身だと、官僚として出世できないんですよ。歴史事実を見ればわかりますが、官途に就いて名を成した人はほとんどいません。歴代の一覧を見れば明らかですが、総理大臣なんて岩手県の原敬が出るまで、賊軍出身者は1人もいない。ほとんど長州と薩摩出身者で占められています。

ちなみに明治維新150年目の今年は長州出身の安倍氏が総理ですが、彼が誇るように明治維新50年も(寺内正毅)、100年も(佐藤栄作)も総理は長州出身者でした。

また、明治年間に爵位が与えられて華族になったのも、公家や殿様を除けば、薩長出身者が突出して多いのです。特に最も高い位の公爵と侯爵を見ると、全部が長州と薩摩なんです。

政官界では昭和の戦争が終わるまで、賊軍出身の人は差別されていたと思われるのです。明治以降、賊軍の出身者は出世できないから苦労したのです。

――2013年放映のNHK大河ドラマ「八重の桜」では会津藩出身者の苦労が描かれていましたが、それ以外の負けた側の藩の出身者も差別されたわけですね。

例を1つ挙げれば、神田の古本屋はほとんどが長岡の人が創業しています。長岡出身で博文館を創業した大橋佐平という人がいちばん初めに古本屋を開いて成功したのですが、当時、いちばん大きい店でした。その後、大橋が中心となって、長岡の困っている人たちをどんどんと呼んで、神田に古本屋がたくさんできていったんです。

こんな具合に、賊軍藩の出身者たちは、自分たちの力で生きるしかなかったのです。
――『賊軍の昭和史』でもおっしゃっていますが、軍人になった人も多かったようですね。

前途がなかなか開けない賊軍の士族たちの多くは、軍人になりました。

いちばん典型的なのは松山藩です。司馬遼太郎さんの『坂の上の雲』で有名な秋山兄弟の出身地です。松山藩というのは四国ですが賊軍藩です。ただ、弱い賊軍で、わずか200人足らずの土佐藩兵にあっという間に負けて降伏しました。

その松山藩の旧士族の子弟は苦労したんです。秋山兄弟の兄の好古(よしふる)さんは家にカネがないから陸軍士官学校へ行った。士官学校はタダですからね。あの頃、タダだった教育機関は軍学校と師範学校、鉄道教習所の3つでした。

弟の真之(さねゆき)さんは、お兄さんから言われて海軍兵学校へ入り直していますが、兵学校ももちろんタダでした。

この兄弟の生き方を見ると、出世面でも賊軍出身の苦労がよくわかります。好古さんは大将まで上り詰めますが、ものすごく苦労しているんです。真之さんも苦労していて、途中で宗教に走り、少将で終わっています。

賊軍藩は、明治になってから経済的に貧窮していた。だから、旧士族の子弟の多くは学費の要らない軍学校や師範学校へ行った。

その軍学校を出て軍人になってからも、秋山兄弟と同様に賊軍出身者は、立身出世の面で非常に苦労しなければなりませんでした。

『賊軍の昭和史』で詳しく触れましたが、日本を終戦に導いた鈴木貫太郎首相も賊軍出身であったため、海軍時代は薩摩出身者と出世で差をつけられ、海軍を辞めようとしたこともありました。

敗者は簡単には水に流せない
――負けた側の地域は、差別された意識をなかなか忘れられないでしょうね。

私は、昭和5(1930)年に東京向島に生まれましたが、疎開で昭和20(1965)年から旧制長岡中学校(現長岡高校)に通いました。有名な『米百俵』の逸話とも関係する、長岡藩ゆかりの学校です。


『賊軍の昭和史』(書影をクリックすると、アマゾンのサイトにジャンプします)
長岡中では、薩長と戦った家老・河井継之助を是とするか、恭順して戦争を避けるべきであったのかを友人たちと盛んに議論しました。先ほども言いましたように、明治に入っても官僚になった長岡人はほとんどおらず、学者や軍人になって自身で道を切り開いていくしかなかった現実があり、私の世代にも影響していました。

私よりかなり先輩になりますが、真珠湾攻撃を指揮した山本五十六海軍大将も、海軍で大変苦労しているのです。

「賊軍」地域は、戊辰戦争の敗者というだけでは済まなかったということです。賊軍派として規定されてしまった長岡にとっては「恨み骨髄に徹す」という心情が横たわるわけです。

いまも長岡高校で歌い継がれているようですが、長岡中学校の応援歌の1つ『出塞賦(しゅっさいふ)』に次のような一節がありました。

「かの蒼竜(そうりゅう:河井継之助の号)が志(し)を受けて 忍苦まさに幾星霜~」
勝者は歴史を水に流せるが、敗者はなかなかそうはいかないということでしょう。



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