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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
 昨日の夕方に体調を崩しましたが、早めに休息して一段落しました。

神奈川
「横浜開港の考古学」展を開催、開港当時の遺跡から発掘された食器やれんがなど展示/愛川町
 愛川町半原の愛川町郷土資料館(県立あいかわ公園内)で、「横浜開港の考古学」展が開催されている。同町教育委員会と県教育委員会の共催で、「かながわの遺跡展2009」巡回展の一環。日本の近代化を導いた横浜開港当時の遺跡から発掘された建築素材や生活用品、半原地区の縄文時代の遺跡から出土した土器や石器など計107点が展示されている。2月21日まで(月曜日休館)。入館料無料。
 「横浜開港の遺跡」では、2007年、08年にかけて山下居留地遺跡から発掘された食器、れんが、瓦などが展示されている。幕末から明治初めにかけて、横浜に生活していた外国人の生活がうかがわれて興味深い。
 また、清川村宮ケ瀬に外国人が避暑に訪れた様子の資料も展示されている。
 このほか、町内の遺跡から出土した縄文土器や石器、地域の数千年の歴史をほうふつとさせる資料もあり、訪れた人たちの目を楽しませている。30日と2月6日には展示解説も行われる。
 また、2月6日午後2時から、愛川町文化会館で「縄文文化研究の最先端」をテーマに、山本暉久昭和女子大学大学院教授の講演会が開かれる。定員100人。申し込みは、郷土資料館電話046(280)1050。


長野
華やか、昔のひな人形 箕輪の「箕沢屋」で展示
 箕輪町沢にある旧豪農の小原家住宅「箕沢屋(みさわや)」に、3月末までの予定でひな人形が飾られている。住宅を管理する町民有志の「信州箕沢屋の会」が、できるだけ多くの人に見てほしい-と毎年この時期に展示している。
 敷地内の蔵に保管されていたという江戸時代の「享保びな」をはじめ、押し絵びな、会員所有の昭和時代のひな人形など計約70体が並ぶ。27日に妹と訪れた伊那市高遠町東高遠の森良子さん(62)は「人形はとても良い状態で保存されている。昔の家の風格と立派な人形が相まって、趣がありますね」と話していた。
 箕沢屋は木造一部2階建て。幕末の1861(文久元)年に建てられて以降、ほとんど手が加えられておらず、幕末の地主の屋敷構えと当時の生活様式を現代に伝える。敷地内には水車小屋や蔵もある。
 所有者は神奈川県逗子市に居住。現在は建築士、新井暢(とおる)さん(47)が1室を事務所として借りている。見学希望者は事前に新井さん(電話0265・70・6067)へ。
(提供:信濃毎日新聞)



愛知
企画展:「江戸時代の刈谷藩 維新の真の魁・天誅組」--31日まで市美術館 /愛知
◇「偉業を後世に」
 今年のNHK大河ドラマ「龍馬伝」が象徴する幕末・維新ブームで、明治維新(1868年)の先駆けとされる尊王攘夷(じょうい)派の挙兵事件・天誅(てんちゅう)組の変(1863年)も注目されそうだ。天誅組総裁だった松本奎堂(けいどう)(1831~63年)らの出身地・刈谷市の美術館では、企画展「江戸時代の刈谷藩--維新の真の魁(さきがけ)・天誅組」が開かれている。戦場になった奈良県の五條市や東吉野村から村長らが会場を訪れ、刈谷市との交流を深めることになった。
 天誅組には当時の刈谷藩から脱藩した松本のほか、決死隊副隊長の宍戸弥四郎(1833~63年)、連絡役の伊藤三弥(1836~1917年)らが加わっていた。刈谷市には3人の墓や石碑、生家跡、遺品などがある。五條市には天誅組拠点の寺が残り、東吉野村には天誅組の記念碑や松本らの墓があって地元住民が毎年、法要を営んでいる。
 企画展は旧刈谷藩士の子孫で作る財団法人刈谷頌和(しょうわ)会(高野基弘会長)の主催で、毎日新聞社などの後援。東吉野村教育委員会所蔵の「和州騒動の図」や「天誅組河内国甲田村水郡邸出発之図」「大和国吉野郡鷲家口村天忠党古戦場略図」をはじめ、松本と宍戸の肖像画や掛け軸、書画帳、戦場の図。さらに徳川家康の生母・於大(刈谷藩主の娘)の肖像画や刈谷城絵図など数十点が並ぶ。31日まで。入場無料。
 高野会長は「時代変革の先駆けに郷土の先人がいたことは大きな誇りであり、今の刈谷市民に広めたい。五條市や東吉野村との交流も深め、先人らの偉業を後世に伝えていく」と話している。【安間教雄】


京都
坂本竜馬ら幕末の志士の埋葬記録、整理を開始──京都の霊明神社
 坂本竜馬や幕末の志士が埋葬された霊明神社(京都市)が、実際に遺体を墓地に葬ったことを示す埋葬記録や、書状など100点以上の古文書の整理作業を始めた。
 1809年の創建。62年の尊皇派長州藩士の埋葬を契機に、幕末までに約900人の志士が実葬されたが、埋葬記録書の存在はあまり知られていない上、志士の書状は未整理のままだった。
 2010年中の図録化を目指すという。村上繁樹神主(61)は「志士の生きざまや国の在り方を語り合える材料になれば」と期待している。(共同)


佐賀
多布施反射炉:発掘調査 砲身製造、鋳坪の遺構か 位置特定に期待 /佐賀
 佐賀市伊勢町で進められている幕末の遺産「多布施反射炉」の発掘調査で、溶かした鉄を流し込んで砲身を作るための「鋳坪(いつぼ)」の一部とみられる遺構が見つかった。鋳坪は反射炉に付随する設備。先に見つかった地下の基礎工事跡と合わせ、佐賀市教育委員会は「反射炉位置の特定につながる発見」と話している。
 多布施反射炉は、幕府発注の大砲50門を作るため、佐賀藩が1853年に起工した反射炉。幕末の文書によると、炉は東西に2基ずつあり、その間に鋳坪があったとされる。鋳坪は四角い穴で、反射炉で溶かした鉄を流し込む砲身の鋳型を立て、周囲を砂などで固めたという。
 遺構は鋳坪の壁の一部とみられ、計2カ所で見つかった。壁面の粘土に張ったとみられる板材も出土し、周辺から耐火レンガや鉄くずも見つかっている。
 佐賀藩が反射炉築造の参考にしたオランダの資料では、鋳坪は一辺約4メートル。今回の遺構は同3メートル以上と推測され、基礎工事跡との位置関係から、鋳坪の可能性が高いという。
 発掘現場は民間会社の敷地内にあるため、市教委は近日中にいったん調査を終え、埋め戻すことにしている。【姜弘修】


コラム
歴ドル小日向えりが行く 「三成ゆかりの史跡を訪ねて」
 好評発売中のAERAMook「幕末と戦国 このとき義を貫いた」には、いま大人気の歴史アイドル(「歴ドル」)小日向えりさんによる戦国武将・石田三成の足跡をたとどるレポートもあります。豊臣秀吉に見いだされ、豊臣政権の参謀として活躍した石田三成。歴史アイドルの小日向えりさんは、関ケ原で敗れたこの知将のことを想っていると「時々涙がこぼれます」といいいます。この三成ゆかりの史跡をめぐる小日向さんの「旅」の一部をどうぞお楽しみください。

◇    ◇

■三成公が大好き!史跡を訪ねてきました!

 歴史は勝者によって書かれるといいます。関ケ原の戦いで敗者となった石田三成公は、徳川幕府によってその人物像をゆがめられ、史料も破棄され、長らく虐げられてきました。
 それが近年になって、正当な評価を受けるようになりました。いまや三成公は「歴女」が選ぶ好きな戦国武将ランキング上位の常連さん。モテモテなんです!
 旅のスタートはやっぱり三成公生誕の地、滋賀県長浜市。三成公はこの地で、当時は織田信長家臣で長浜城主だった羽柴秀吉と出会いました。
 出会いの舞台は、JR長浜駅から車で30分ほどのところに立つ観音寺でした。観音寺で寺小姓をしていた三成公は、鷹狩りの途中で寺に立ち寄った秀吉にお茶を出します。いわゆる「三献茶」のエピソードがここで展開されたんですね。
 現在の観音寺には、門を入ってすぐ左手に進んだ辺りに、お茶を出す際に三成公が水をくんだとされる「石田三成 水汲みの井戸」が残っています。ちなみにJR長浜駅前には、この時の様子を再現した「秀吉公と石田三成公 出逢いの像」もあります。子どものころの三成公の像が、かわいいんです。
 観音寺からJR長浜駅方面に25分ほど歩くと、今度は「石田三成公出生屋敷跡」があります。住所が石田町ということで、あちこちに「石田」という文字が!
 屋敷跡に着いて真っ先に目に入るのは三成公の銅像です。軽くほほ笑んでいるような、とても優しいお顏をしていました。すぐそばにある石田会館では、三成公グッズや資料も販売しています。私も、地図と花押を購入しました。周辺には石田家の氏神だった八幡神社などもあり、三成ファンにとっては「聖地」といってもいい町です。この地で生まれ、育った三成公は、秀吉が天下人への階段を上るのにあわせて出世していきます。

     ◇    ◇

■「過ぎたる城」を実感し丸墓山からの風景で知る

 ところで三成公は時々、「治部」と呼ばれていますよね。この通称は天正13(1585)年、秀吉が関白に就任したのに伴い、三成公も従五位下治部少輔に叙任されたことに由来します。そしてこの後、三成公は近江の佐和山城主になります。
「三成に過ぎたるもの二つあり、島の左近と佐和山の城」
 といわしめた佐和山城です!
 まずは正面玄関からお邪魔します、というわけで大手門跡へ行ってみました。ススキ原の真ん中を、くっつき虫をつけながら勢いよく前へ前へと進む私。しかし、ふもとの辺りで道がなくなり行き止まり! 実は佐和山城跡に登るハイキングコースはちょうど真裏にあたる龍潭寺側から始まっているのです。
 龍潭寺へ回ると、ここにも「石田三成公像」が。こちらはどこか厳しい表情をしているように感じました。ごあいさつをしてから、今度こそ佐和山城へいざ!
 登り始めると、規模の大きさに驚かされます。曲がりくねった険しい道が続き、ところどころ絶壁になっています。これはハイキングでなく、登山ですね。塩硝櫓跡や西の丸跡などをチェック。秋だというのに汗をかきながら登ること30分あまり、やっと本丸跡に着きました。
 本丸跡からの眺めは絶景です。国宝・彦根城を眼下に望み、その先には琵琶湖が水をたたえています。苦労して登ったかいがあろうというもの。所々に石垣も残されていて、それを見つけるのが楽しかったりもします。
 登ってみて、本当に強固な城だったことを実感しました。19万石程度の大名が持つには「過ぎたる城」といわれたのもうなずけます。でもこの佐和山城も、関ケ原の戦いのわずか2日後、東軍によって攻め落とされてしまいます。
 「女郎谷」はその悲劇をいまに伝えています。落城時、多くの女中がここから身を投げたといわれています。それから三日三晩、女性たちのうめき声が聞こえていたそうです。そばの紅葉は「血染めの紅葉」と呼ばれています。ほかの紅葉と比べて一段と赤いという話を聞いていたのですが、本当に真っ赤で驚きました。
 この後、「旅」は、三成公が駆け抜けた戦跡へ。「関東七名城」のひとつで、水攻めをした忍城(おしじょう、埼玉県行田市)、そして、いざ関ケ原!

    ◇    ◇

■最後は京都を訪ねました

 関ケ原から落ち延びた三成公でしたが、東軍の追撃隊に捕縛されます。そして10月1日、京都の六条河原で斬首されてしまうのです。
 三成公のお墓は大徳寺三玄院にあります。通常はお参りすることはできません。今回、長谷川大眞住職のご厚意で特別に、お墓参りをさせていただきました。
 緊張しながら長谷川住職について行くと、三成公のお墓は境内の最も奥まったところ、歴代住職のお墓と同じ一角にひっそりとありました。お墓のそばで、長谷川住職が三玄院に伝えられているお話を聞かせてくれました。
 三玄院の開祖の弟子数人がある日の夜中、六条河原で斬首され、さらされていた三成公の首と胴体を引き取りに行ったのだそうです。運ぶ際、首は弟子のひとりが衣の袖に抱えて持ってきたと伝わっているとのことでした。
 三成公のお墓ですが、元々は戦国武将で茶人の古田織部正重然のお墓の隣にあったそうです。ところがそばに生えていた木の根が張りだし、そのために墓石が倒れてしまい、明治40(1907)年にそこから10メートルほど離れた現在の場所に改葬されました。改葬にあたり、お骨を納めた石室には大量の炭を一緒に詰めたそうです。墓石には、倒れた衝撃でついたという傷がいまも残っていました。
 ところでこの墓石には戒名も年号も彫られていません。お墓が三成公のものだと特定できたのは、三玄院に残っていた言い伝えと、首と胴体を引き繋いでいた小柄が出てきたからです。それにしてもここに三成公が眠っているんだと思うと、言葉にできない想いが込み上げてきて、涙が止まらなくなってしまいました。
 三玄院には、関ケ原で東軍につき、後に美作津山藩主となった森忠政のお墓もあり、それがまたひときわ巨大で立派なんです。それに比べると敗者となった三成公の墓石は本当に小さく見えます。
 関ケ原で負けてしまったのは悔しいし、その最期はとてもとても悲しい。でも最後まであきらめなかった不屈の精神は本当に格好いい。三成公はいまたくさんの人に敬愛されている……。悲しさやうれしさや、色んな想いで胸がいっぱいになりました。お寺を後にしても涙が止まらず、しばらく嗚咽するほど泣き続けてしまいました。
 今回の旅は、六条河原で締めくくることにしました。六条河原のほとりでしばらく三成公に想いをはせ、そっと辞世の句をそらんじました。


筑摩江や 蘆間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我身なりけり


◇石田三成プロフィール◇

1560年生まれ、1600年没。

長浜城主時代の羽柴(豊臣)秀吉に見いだされ、一貫して豊臣政権を支えた。近江佐和山19万4千石の大名となり、賤ケ岳の戦いから文禄・慶長の役まで、秀吉による主だった戦のすべてに関与した。兵站面を中心に功績をあげる。また太閤検地や諸大名との交渉などに手腕を発揮して、高い行政能力を見せた。一方で武断派の福島正則、加藤清正らからは嫌われ、対立を深めてゆく。秀吉の死後、天下への野望を見せる徳川家康に対して挙兵。慶長5(1600)年の関ケ原の戦いで西軍を率いて大敗し、斬首となった。


【幕末から学ぶ現在(いま)】(47)東大教授・山内昌之 井上馨
■「政治家とカネ」の源流

 民主党の小沢一郎幹事長の資金管理団体による土地購入事件は、政治とカネにまつわる問題が日本政治の宿痾(しゅくあ)であることを見せつけている。政権交代を実現した政府与党の中核で起きた事件だけに、その衝撃ははかりしれない。

 ◆尾去沢銅山事件の貪欲

 ところで、政権交代で成立した明治新政府のカネにまつわる醜聞といえば、すぐに井上馨の関係した尾去沢(おさりざわ)銅山事件を思いだす人も多いだろう。もともと井上は、幕末に英国へ密航しながら、四国艦隊の長州攻撃の急を聞くと帰国し、藩論を攘夷(じょうい)回避に変えようとする情熱や使命感をもっていた。
 しかし、公私のカネを区別する感覚が希薄な井上は一時、実業界に出て、三井系企業に関係したせいもあり、西郷隆盛に「三井の番頭さん」と揶揄(やゆ)されるほど金銭感覚が発達していた。
 事件は、南部藩の御用商人だった村井茂兵衛(もへい)(鍵屋)の採掘する現秋田県鹿角(かづの)市にあった尾去沢銅山を、明治4(1871)年に大蔵大輔(たいふ)の井上が旧藩時代の証文をたてに政府に公収したところから生じた。没収した鉱山を井上が腹心の政商・岡田平蔵に競売で払い下げたから、村井はおさまらない。官権の不当行使として司法卿の江藤新平に訴えたのである。
 しかも、一説には、後に井上は尾去沢銅山に「従四位井上馨所有」という立札を立てさせたというから図太(ずぶと)いものだ。
 佐賀閥の江藤は、井上の胡乱(うろん)な行為に不正を嗅(か)ぎつけ、厳重に処分しようとしたが、長州閥の木戸孝允(たかよし)の妨害にあってうまくいかなかった。司法卿が大木喬任(たかとう)に代わると、取り調べは俄然(がぜん)、厳しくなった。大木も佐賀人だったので、井上はかねてから懇意の佐賀人、大隈重信にとりなしを頼み、岡田にも鉱山の工部省返上を願い出させた。

◆藩閥間の暗闘に発展

 しかし、井上の日頃(ひごろ)の貪欲(どんよく)ぶりを快く思わない政府高官も多かった。まず参議の土佐人、板垣退助はもっとも強硬であり、あくまで井上の厳重処分を主張して譲らない。困り果てた木戸は、渋沢栄一や陸奥宗光(むつ・むねみつ)を司法省の河野敏鎌(とがま)のもとに送って穏便な処置を懇願させたらしいが、峻厳(しゅんげん)な土佐人の河野ははねつけてしまった。事態は、藩閥間の暗闘にも発展したのである。それにしても、関係者の顔ぶれが何ともいえず“豪華”なのが上昇期の明治らしい。
 結局、事態を収拾したのは、“清濁併せのむ”か“なあなあ”の大風呂敷だった大蔵卿の大隈である。いかにも大雑把(ざっぱ)な大隈らしく、井上も廃藩置県の際に、混乱を極めた各藩財政を中央政府にまとめ、苦労して1年半ぐらいで整理したのだから、多少の不備や過誤があったはずだと曖昧(あいまい)な判断を下したのだった。
 大蔵省は、村井茂兵衛に2万5千円の還付金を支払い、明治8年12月に裁判所も「情を知らない」という摩訶(まか)不思議な理屈で井上に30円の罰金支払いを命じて、3年越しの事件を片付けたのである。

 ◆辛うじて政治生命保つ

 しかも、井上は判決の後に元老院議官となり、明治9年に特命副全権大使として朝鮮問題の処理にあたった。こうして井上は辛うじて政治生命を保ち、のちに明治の元老として重きをなすのであった。
 銅山は、明治20年に東京の長谷川芳之助に所有権が移るまで岡田平蔵が経営していたというから呆(あき)れるといえば呆れてしまう。
 政権交代を達成した明治新政府の要人らの間には、幕末の志士とは思えぬほど貪欲な政治家に変貌(へんぼう)した者も少なくない。一部では、金に恬淡(てんたん)とした幕臣や徳川幕府のほうがましだという声さえ聞かれたのだ。こうした汚濁の政権交代を実現するために、純粋無垢(むく)の志士たちは非業の最期を遂げたのかと、西郷が絶望感に襲われたことはよく知られている。
 尾去沢銅山事件は、旧南部藩つまり岩手県にまつわる事案である。政治的にはそれなりの人物だった井上はついに宰相の地位に手が届かなかった。小沢幹事長に「井上馨をどう評価するのか」と尋ねてみたい有権者もさぞかし多いことだろう。(やまうち まさゆき)

                   ◇

【プロフィル】井上馨

 いのうえ・かおる 天保6(1835)年生まれ。周防(山口)出身。萩の藩校明倫館に学び、江戸に出て蘭学や砲術を習得。文久2(1862)年、イギリス公使館を焼き打ちするなど攘夷派だったが、翌年には伊藤博文らと渡英留学し、開国派に転ずる。明治新政府では参与となり、外国事務局判事などを歴任。銀行制度の創設に尽力し、三井などの政商と深くかかわる。明治12年には外務卿に就任。第1次伊藤内閣では外相となり、不平等条約改正のため鹿鳴館を中心に欧化政策を進めるが、失敗。その後、農商務相、蔵相などをへて元老、侯爵。大正4(1915)年、81歳で死去。


ビジネス
お~い!竜馬:近ツー国内旅行パッケージにイラスト起用で参加者が増加
 近畿日本ツーリストは、3日に放送が始まった福山雅治さん主演のNHK大河ドラマ「龍馬伝」にちなんだ国内のパッケージツアーを09年夏から発売。「幕末のジャパニーズ・ヒーロー 竜馬の道 坂本龍馬ゆかりの地を訪ねる」で、武田鉄矢さん原作のマンガ「お~い!竜馬」の作画を担当した小山ゆうさんの描き下ろしイラストをパンフレットの表紙などに掲載したところ、問い合わせが急増した。首都圏発の四国方面へのツアー参加数は09年の1~3月期と比べて15%増加したという。
 「お~い!竜馬」は、「少年ビッグコミック」や「週刊ヤングサンデー」(小学館)で86~96年に連載していたマンガ。司馬遼太郎さんの「竜馬がゆく」を基に武田さんが原作を書き、92年にはNHKでアニメ化され、全39話が放送された。05、06年には舞台化もされている。
 パンフレットなどに使われた小山さんのイラストについて担当者は「龍馬関連の文書は小説などいろいろありますが、文字ばかりだと手に取りにくい人もいるはず。アニメは老若男女問わずとっつきやすいと思い、09年6月に小山さんにイメージキャラクターをと打診しました。社員もマンガを読んで、龍馬を知り、(客に)よりよい説明ができればPRにもつながる。募集は今年いっぱい続くので大河ドラマの内容や現地の盛り上がりとの相乗効果でツアーの参加者が増えればいい」と話している。
 ツアーパンフレットは、龍馬が生まれた高知市の「才谷屋」などを回る「立志編」、世界を船で巡ろうと夢をはせた地、長崎県にスポットを当てた「青雲編」、龍馬の活動拠点であり、最期の地となった京都を中心にした「回天編」の3種類。ほかに、京都フリープラン、九州エスコートプランなどさまざまな企画を用意している。また龍馬が天保6年11月15日生まれということから、毎月15日を「龍馬の日」とし、15日に出発するプランの価格を1人500~1000円割り引くサービスもある。また、申込者を対象に毎月5人に抽選で「お~い!竜馬」の新装版コミックス全12巻をプレゼントする。出発日は2月1日~9月30日。【西村綾乃】


IT
【リリース】スパイク,「喧嘩番長3」「侍道2ポータブル」をダウンロード販売
PSP『喧嘩番長3~全国制覇~』
PSP『侍道2ポータブル』
PlayStation Storeにてダウンロード版の販売を開始!

 株式会社スパイク(本社 東京都渋谷区 代表取締役 櫻井 光俊)は、PSPRソフト『喧嘩番長3~全国制覇~』及び『侍道2ポータブル』のPlayStationRStoreでのダウンロード販売を、希望小売価格『喧嘩番長3~全国制覇~』を2,000円(税込)、『侍道2ポータブル』を3,000円(税込)にて開始したことをお知らせします。

『喧嘩番長3~一年戦争~』とは

本作は、2005年に発売されたPlayStation 2『喧嘩番長』を皮切りに展開するアクションアドベンチャー「喧嘩番長」シリーズの第3作目となります。本作では、全国の47都道府県を代表する番長たちが、修学旅行先である郷都(きょうと)に集結し、全国制覇をかけた戦いを繰り広げます。プレイヤーは自分で選べる任意の県の番長代表として全国制覇を目指します。メンチビームや豊富なカスタマイズ要素、男の器システムなど、本シリーズに受け継がれる数々のシステムは、本作でももちろん健在!全国47都道府県中、最強の番長を目指し、熱い戦いを繰り広げる本作を、お手持ちのPSPにダウンロードしプレイが可能です。

(中略)

『侍道2ポータブル』とは

2003年にPlayStation 2で発売しユーザーの皆様から熱い支持をいただいた『侍道2』が、PSPダウンロード版『侍道2ポータブル』として登場します。本作は黒船の襲来に国が揺れる幕末を舞台に、江戸から遠く離れた“天原”の地で物語が語られるアクション・アドベンチャーです。プレイヤーはこの地に訪れた流浪の侍となり、一人の侍としての生き様を体現していきます。天原には、それぞれ思惑が異なる3つの勢力が存在します。この地でどのように振る舞うか、どの勢力に荷担するか。どのような侍になるかは全てプレイヤー自身の選択に委ねられます。プレイヤーの起こす行動が、天原の各勢力のパワーバランスや信頼度に如実に反映され、行動次第で、異なる物語を味わうことができます。PSP版での登場となる本作は、ユーザーに人気のキャラクターを使用したステージバトル「武士の挑戦状」を新たに搭載。本編で鍛えた刀を使いバトルを楽しむことが可能です。とにかくバトルを楽しみたい、とことん刀を鍛えて腕を試したい!そんなプレイヤーの要望に応える新モードです。
また、本作ではアドホックモードを使用し好きなキャラクターで対戦プレイが可能です。対戦専用ステージは、全12種用意。友だち同士でバリエーションたっぷりに楽しむことができます。


科学的に再現!坂本龍馬の“肉声”が着ボイスに
 NHK大河ドラマ「龍馬伝」がスタートし、ますます盛り上がりを見せる幕末の英雄“坂本龍馬”。なんと、その龍馬の肉声が着ボイスとなって現代によみがえったという。GIGAッchサイト内「坂本龍馬特集」で配信中の“龍馬ボイス”だ。
 これは、日本着信メロディ研究所で“モンタージュボイステクノロジー”という技術を用い、科学的に検証された坂本龍馬の肉声を再現したもの。“モンタージュボイステクノロジー”とは声紋・音響解析のほかに、生体の発声器官を解剖学的に分析し、シミュレートすることで歴史上の人物などの肉声を再現する技術。それを駆使して、ついに龍馬の肉声が現代に復活したのだ。
 今回登場の着ボイスは、「坂本龍馬です」「時代を変えなあかんぜよ」の2種類。GIGAッchサイトで着ボイスを配信している“着ネタ”コーナーランキングでは、人気芸人のオードリーやU字工事を抑えて、龍馬ボイスが1位、2位を独占する人気ぶりだ。
 「この度、坂本龍馬の肉声が着ボイスでよみがえりました。まさに、日本の夜明けです!『坂本龍馬特集』ではほかにも、アニメからデコメまで龍馬に関するコンテンツが目白押し。このサイトを見るだけで龍馬マニアになれること間違いナシです!」と話すのは企画編成部の藤田さん。
 前出の大河ドラマオープニング曲の着メロや「お~い!竜馬」の表紙待受画像などもそろうので、気になった人はチェックしてみて。【東京ウォーカー】

 懐かしいなぁ、土方さんの着ボイス、いまだに保存しておりますのよ(苦笑)。







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