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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
 昨日のNHKニューイヤーオペラコンサートの録画を見直しています。司会を入れたガラ形式ではなく、寺田農さんが歴史を超越した祭司のような格好で舞台を回すのですが……どうも凝りすぎというか、こなれていないというか、自分には馴染まない演出でした。
 ノルマ『清らかな女神よ』、吉田都さんのバレエ『ロミオとジュリエット』など、いい場面もいくつかありました。日本でトップクラスの歌手が集う一年一回のガラですから、やはり聴き応えがあります。

北海道
【北の龍馬たち 坂本家の人びと】
 連載ものです。

龍馬の夢が芽吹く大地
 「100年に一度の不況」「政権交代」――。いま世界や日本が揺れている。混迷、混乱が増す中、向き合ってみたい男がいる。坂本龍馬だ。龍馬は時代が大きく動いた幕末に、柔軟な発想と豊かな人脈を駆使して、「日本のせんたく」をしようとした。その龍馬が抱き続けた夢がある。蝦夷地(北海道)の開拓だ。佐幕派と倒幕派の若者たちの無用な争いを避け、そのエネルギーを新天地で活用しようとした。33歳で凶刃に倒れ、北の大地を踏むことはできなかったが、甥(おい)やその子たちが志を継いで北海道に渡った。龍馬の北への思いや子孫たちの人生をたどる旅をする。

■親族、一家で浦臼へ
■反戦・絵…信念の系譜

 いまから112年前の1898(明治31)年に高知で撮影された1枚の写真がある。元神戸市職員で龍馬研究家の土居晴夫さん(86)=神戸市=の亡父・勝清のアルバムに残されていた。
 龍馬の甥で、高知の自由民権家だった坂本直寛(1853~1911)一家6人が北海道・浦臼へ移住する前に一族と撮った記念写真である。
 前列には勝清の姿が見える。後列のひげの人物がその父の直寛だ。晴夫さんのおじいさんにあたる。
 若い頃の晴夫さんは、自分の一族についてほとんど知らなかった。1960年に歴史学者の家永三郎が「植木枝盛研究」を刊行した。自由民権家の枝盛は民主主義的な憲法私案をつくったが、家永は「枝盛に大きな影響を与えた坂本直寛に関する研究は全くなされていない」と書いていた。
 晴夫さんはその言葉に一念発起し、「祖父たちのことを調べよう」と決心した。各地を調査して資料を集め、68年に「坂本家系考」を初出版した。いまでは龍馬一族研究の基本図書になっている。
 一族を見ると、龍馬の精神を引き継いだのか、気骨ある生き方の子孫たちが目立つ。
 直寛の右で腕を組むのは兄の坂本直(1842~1898)だ。龍馬の姉・千鶴の長男で元の名は高松太郎。龍馬と共に海援隊で活動した。龍馬の死後、1871(明治4)年に朝廷の命を受けて龍馬の跡目を継ぎ、坂本直と名を変えた。
 直寛は少年期に龍馬の兄・権平(ごんぺい)の養子となった。自由民権運動で投獄され、獄中で自由な新天地の開拓を志した。97(明治30)年、キリスト教を基盤にした合資会社「北光社」の農場を北見に開いた。翌98年、一家を引き連れて浦臼に移住した。
 前列のぱっちりとした目の男の子は長男の直道(1892~1972)だ。東京帝大を卒業し、南満州鉄道欧州事務所長(在パリ)を務める。1941年1月、日米開戦に反対する意見書を当時の松岡洋右外相らに送り、憲兵や特高の「要注意人物」となる。
 中央にいる長女・直意はその後、婿養子の弥太郎との間に10人の子どもを授かる。次男は六花亭の包装紙の絵などで知られる山岳画家の坂本直行(1906~82)だ。直行は北海道の原野と山を愛し、描き続けた。

    *    *    *

◆坂本龍馬 平等思考、幕末のキーマン

 幕末期の倒幕運動をリードした。1835(天保6)年に裕福な郷士・坂本長兵衛(のち八平と改名)の次男として高知城下で誕生。江戸に遊学し、剣術修行をした。米国帰りのジョン万次郎の聞き書きをした土佐藩の役人で画家の河田小龍と高知で会い、海運の必要性を知り、世界への目を開いた。61(文久元)年、土佐勤王党に入り、翌年には脱藩し、師となる幕府軍艦奉行並の勝海舟に出会った。勝は龍馬に開国・開港と海軍の必要性を説いた。龍馬は65(慶応元)年、長崎で日本初の商社・亀山社中(のちの海援隊)を設立。一方、薩摩藩と長州藩を和解させ、翌年、薩長同盟を実現した。これを背景に土佐藩を動かし、大政奉還を建白させた。67(慶応3)年10月に徳川慶喜は政権を返上した。武力倒幕派の薩長の機先を制した平和志向の龍馬らしいやり方だった。同年11月、京都で同志の中岡慎太郎とともに刺客に襲われて死亡。数え年で33歳だった。
 幕末史研究会の小美濃清明会長(66)=東京都武蔵野市=は「龍馬は庶民と共に育ったので、人を見下す視線を持っていない。生まれついての平等思考を身につけている。高位高官に会っても気後れしなかった」と指摘する。

    ◇

■坂本龍馬とその一族をめぐる年表

1867年 3月 龍馬、蝦夷地開拓への思いを長府藩士・印藤聿(のぶる)あての手紙につづる
  67年11月 龍馬、京都で暗殺される
  68年 4月 沢辺琢磨、日本で最初にロシア正教の洗礼を受ける
  71年 8月 高松太郎、龍馬の跡目相続。坂本直と改名
  77年 6月 直寛、自由民権の言論活動開始
  87年12月 直寛、保安条例による退去命令を拒否し投獄(89年2月まで)
  96年秋   直寛、合資会社「北光社」の社長に
  97年 3月 北光社の開拓移民団、高知を出発、北見へ
  98年    直寛一家、浦臼へ移住。直、死去
  99年    直の妻・留、息子と浦臼に移住
1901年 3月 浜武弥太郎、直寛の長女直意の婿養子に
  02年11月 直寛、伝道師として旭川に赴任
  05年12月 弥太郎、釧路で「坂本商会」設立
  13年12月 釧路・大火、龍馬の遺品の一部が焼失
  29年    直道、満鉄のパリ駐在員に
  31年 1月 弥太郎、龍馬の遺品を恩賜京都博物館(現・京都国立博物館)へ寄贈
  34年10月 直道、パリで文化交流雑誌「フランス・ジャポン」創刊
  36年 1月 直行、十勝の広尾村に入植
  41年 1月 直道、日米開戦を避けるため関係改善などを訴える意見書を松岡洋右外相などに配る
  45年 8月 敗戦。直行、農民運動へ
  57年 3月 直行、札幌で初めての個展
  92年 4月 中札内に坂本直行記念館開館
2009年11月 函館に北海道坂本龍馬記念館開館


(1)肖像、出会いの結晶
 JR札幌駅から、普通列車を乗り継いで約2時間。樺戸連山と石狩川にはさまれた田園地帯にある空知支庁浦臼町に着いた。昨年12月上旬、前夜から降り出した雪で町はすっぽりと覆われていた。
 町で唯一の小学校・浦臼小(松田和男校長、児童数103人)にある「宝もの」を見に来た。
 それは、幕末の志士・坂本龍馬を油彩で描いた古い肖像画だ。縦約60センチ、横約40センチ。絵の傷みが進んでおり、描かれてから長い年月がたっていることを物語る。だが、決然とした龍馬の表情は、いまも生き生きとしている。
      ■

 同校の6年生は全員で15人。昨秋、担任の井上伸一教諭(43)から歴史の授業で龍馬について教えられた。
 「龍馬についてどう思う」と聞いてみた。佐々木優希君(12)は「長州藩と薩摩藩を結びつけ、幕府を倒したのが龍馬。説得力というか、すごいなと思います」と話した。「見習いたいですね」と言うのは、隣の席の高林諒君(12)。笹島知紗さん(12)は「まだ若かったのに死んだのは残念」とつぶやいた。
 肖像画は2008年秋から半年、龍馬の故郷・高知県に「里帰り」し、県立坂本龍馬記念館で展示された。高知の銀行のカレンダーに使われたこともある。
 北海道美術の黎明期を代表する画家、林竹治郎(1871~1941)が描いた。林は宮城県に生まれ、1898(明治31)年に来道し、札幌一中(現・札幌南高)などの図画教諭を長らく務めた。教え子の中から、彫刻家の中原悌二郎、画家の三岸好太郎ら有力作家が輩出した。
 でもなぜ、浦臼小に龍馬の肖像画があるのだろうか。

      ■

 浦臼小から西へ約2キロにある墓地に「坂本龍馬家の墓」という表示板がある。脇には、二つの古い墓が並ぶ。
 「龍馬の甥で跡目を継いだ坂本直(なお)の妻・留とその子直衛(なおえ)の墓です」。案内してくれた同町郷土史料館員の三原浩さん(66)が説明してくれた。留は夫が死去した翌年の1899(明治32)年、息子の直衛と高知から浦臼に移住した。前年に移住した義弟の直寛(なおひろ)一家を頼った。留は石狩川の渡し場のほとりで駄菓子屋などを営んでいたが、1915(大正4)年に69歳で亡くなった。直衛は17年に34歳で死亡した。
 町教育委員会編集・発行の「浦臼ゆかりの人びと」では、留から依頼された林が肖像画を描いた。制作年は1904(明治37)年と推定している。
 林の末娘で眼科医の横田百合子さん(88)=岡山市=は「小学生の頃、父のアトリエで龍馬の肖像画を見た。父は『坂本さんに頼まれた』と話していた」と言う。絵は少なくとも、75年以上前に描かれたようだ。
 道内に移住した坂本家の人たちのほとんどはキリスト教徒で、浦臼の聖園教会の教会員だった。また林も敬虔(けいけん)なキリスト教徒で札幌の北辰教会(現・札幌北一条教会)に所属した。キリスト教徒同士のつながりで絵が生まれ、坂本一族から浦臼小の前身の聖園小に寄贈された。
 「私が小学生の頃から学校にあった。よく残っていてくれたものだ」。76歳になる岸泰夫町長も感慨深げだ。
 浦臼小の隣には、町郷土史料館がある。同館には坂本家ゆかりの品が所蔵されている。坂本直が使った袖章、直寛の眼鏡、土佐の坂本家で使った銀のはかりなどだ。いまは冬季休業中だが、4月1日から開館予定だ。
 町役場近くの前田寿子さん(81)宅には、龍馬が姉の乙女にあてた手紙が保存されている。坂本直寛家と前田家は付き合いがあったというが、なぜ、手紙があるのかはわからない。坂本一族は移住の際、高知から龍馬の遺品などを北海道に運んだ。その一つだったのは間違いない。
 小さな北の町に、龍馬やその一族たちの思い出がいまも息づいている。
 (この連載は植村隆が担当します)


北の龍馬たち 坂本家の人びと(2)
■「一人でも」 開拓の志

 京都大学の付属図書館に、蝦夷地(北海道)開拓を夢見た坂本龍馬の手紙が残されている。
 龍馬の手紙に詳しい京都国立博物館考古室長の宮川禎一さん(50)と一緒に手紙を特別に閲覧させてもらった。
 友人の長府藩士・印藤聿(のぶる)にあてた4通の手紙が一本の巻物になっている。明治時代に寄贈を受けたものだ。
 宮川さんは「優しい、とてもいい字ですね」と話した。

   □ □

 1867(慶応3)年3月6日の手紙の第四段に「北への思い」がつづられていた。
 「小弟ハヱゾに渡らんとせし頃より、新国を開き候ハ積年の思ひ一世の思ひ出ニ候間、何卒一人でなりともやり付申べくと存居申候」
 高知県立坂本龍馬記念館の現代語訳では、「私は蝦夷に渡ろうとしていた頃より、新しい国を開くことは以前からずっと思っていたことで、一生を懸ける思いです。何としても、一人でもやり遂げるつもりです」となる。
 龍馬は北海道行きの計画を何度か立てた。
 龍馬の妻・お龍(りょう)は晩年、語っている。
 「北海道ですか、アレはずつと前から海援隊で開拓すると言つて居りました。私も行く積もりで、北海道の言葉を一々手帳へ書き付けて毎日稽古(けいこ)して居りました」(回想録「千里駒後日譚」)
 北海道へ行く固めの宴会をしたり、仲間の望月亀弥太が陣幕を準備したりした。

   □ □

 なぜ龍馬は北海道開拓を目指したのだろうか。
 龍馬研究で有名な作家の宮地佐一郎は「坂本龍馬 幕末風雲の夢」の中で、佐幕や勤王など日本人同士の内戦を避け、人材を北方開拓に送り込みたいとの考えがあったと指摘している。南下するロシアに対抗する考えもあったとも。さらに宮地は、土佐人の心の中にある北方への憧憬(しょうけい)なども理由に挙げた。
 実際、龍馬の仲間たちは、北海道を視察している。
 土佐の尊皇攘夷(じょうい)派の北添佶磨は1863(文久3)年、能勢達太郎、小松小太郎、安岡斧太郎の土佐の仲間4人で、敦賀から函館に渡り、調査を行った。船中で病気になった小松は函館で死んだ。
 「小松は住吉墓地に埋葬されたと考えられます」
 函館の郷土史家で浄土宗称名寺住職の須藤隆仙さん(80)は言う。住吉墓地は函館山の麓(ふもと)にあり、津軽海峡に面している。石川啄木一族の墓がある場所だ。2万基の墓があると言われ、小松の墓がどこにあるかは不明だという。
 龍馬の師・勝海舟は1864(元治元)年6月17日の日記に、龍馬が尊皇攘夷の若者たちを幕府の船で北海道に渡航させようとしていることに触れ、「志気甚盛なり」と書いている。
 だが、この月に起きた池田屋事件で、龍馬の計画は中止となる。京都守護職指揮下にあった新撰組が長州・土佐藩などの尊攘派の志士たちを襲撃、一緒に北海道行きを準備した望月や北添ら同志が死んだからだ。
 龍馬はこの事件から約3年後に冒頭の手紙を書く。「一人でもやり遂げる」という言葉が強い信念を感じさせる。
 しかし、龍馬も手紙から約8カ月後の67(慶応3)年11月、京都・近江屋で凶刃に倒れることになる。


(3)名継ぎ、十字架負い
 函館市の五稜郭タワー展望台から、幕末に幕府がつくった洋式城郭の五稜郭を眺めた。中央部分に大きな和風建築物が見える。
 「箱館奉行所です。函館市が復元工事中で、(今年の)夏には公開されます」。函館の郷土史家の近江幸雄さん(73)が説明してくれた。
   □ □

 坂本龍馬は平和的な倒幕を目指し、日本人同士の戦いを避けるために奔走していたが、京都で1867(慶応3)年11月に暗殺された。翌68(明治元)年1月、戊辰戦争が起きる。その最後が五稜郭をめぐる箱館戦争だった。
 箱館戦争には、龍馬に関係の深い、2人の男が新政府軍、旧幕府軍に分かれて従軍した。
 その一人は、龍馬の甥(おい)で海援隊の隊士だった高松太郎(1842~98)だ。
 当時、小野淳輔と名乗っていた高松は、新政府が箱館奉行所庁舎に設置した箱館府の権判事に任命された。北海道の名付け親として知られる松浦武四郎らが判事になった。
 高松は蝦夷地経営の建白書を書くなど、「龍馬の夢」だった蝦夷地開拓に向けて動き出そうとしていた。
 だが、1868(明治元)年10月、榎本武揚率いる旧幕府軍の攻撃で、高松ら新政府軍は箱館から青森へ撤退を余儀なくされる。榎本軍は翌69年5月18日の降伏まで五稜郭を占拠した。
 郷土史家の近江さんがあるエピソードを話してくれた。
 「5月11日の新政府軍の総攻撃でほぼ勝敗が決まりました。翌12日、新政府軍の旗艦・甲鉄の艦砲が奉行所庁舎に当たり、中で別れの宴をしていた衝鋒(しょうほう)隊に死傷者が出ました。しかし、副長の今井信郎は入浴のため席を外しており、命拾いをしました」
 この今井信郎(のぶお)(1841~1918)は龍馬を暗殺したとされる幕末の治安維持組織・京都見廻組の実行メンバーの一人だった。今井の孫・幸彦の著書「坂本龍馬を斬(き)った男 幕臣今井信郎の証言」によると、今井は明治末、新聞の取材に「暗殺に非(あら)ず。幕府の命令に依(よ)り、職務を以(もっ)て捕縛に向(むか)い、格闘したるなり」と回答している。
 その後、今井はキリスト教徒になった。
 一方、再び函館府に勤務した高松太郎だが、69(明治2)年12月に権判事を免職となり、高知へ戻った。71(明治4)年8月、朝廷の命で実子のいなかった龍馬の家督を相続することになり、名前を坂本直(なお)と改めた。東京で宮内省の職員などを務めたが、89(明治22)年に免職になり、再び高知に戻った。
 「キリスト教を信仰したというのが宮内省免職の理由とされていますが、処世術が下手だったのではないでしょうか」と龍馬研究家の土居晴夫さん(86)は推測する。
   □ □

 龍馬を斬ったとされる男も、龍馬の跡目を継いだ男も、キリスト教徒になった。
 1985年に発行された日本基督(キリスト)教団高知教会の「百年史」に直の名が出ている。1898(明治31)年夏、高知の海辺で開かれた県内のキリスト教徒懇談会の趣意書に委員として名前を連ねていた。直は同年11月に57歳で死亡する。
 妻の留は翌99(明治32)年、龍馬の遺品を持って息子の直衛(なおえ)と北海道に渡った。龍馬家は浦臼に移った。


福島
新年企画 姿三四郎を追って
 これも連載ものですね。幕末維新からずっと下って明治時代の柔術家ですが、会津藩最後の家老西郷頼母との関係が書かれるので、ずっと拾ってみました。
1 大技一本時代に挑む 西郷四郎席巻
 「三四郎の払われた右の足裏は半助の右の足首にぴったり着いて、飛び込んだ肩に23貫の肉塊を担ぐと、相手の足首を力の限り払い飛ばした。
 小兵な三四郎の頭上で、半助の足ははるかの空をけると、体は三四郎を中心に車輪のような半円を描いて、ずしんと畳に落ちた。
 山嵐の大業である。」
 富田常雄の小説「姿三四郎」にある一文だ。1882(明治15)年に嘉納治五郎が創設した講道館柔道をモデルにし、柔道対旧来の柔術との新旧対決、主人公の苦悩と成長を描いた。山嵐とは「高い山の頂から吹き下ろす嵐に相手が飲み込まれるような技」として、嘉納が命名した実在の技だ。
 三四郎にも同様に実在のモデルがいた。小説と同じ山嵐を得意技にし、「講道館四天王」の一人だった現在の会津若松市生まれの西郷四郎だ。
 恐らく、講道館入門直後と思われる若き日の画像が残っている。短髪に紋付き、はかま姿。足を開いて力強く腰掛ける。真一文字に結んだ唇、鋭い視線。気が強そうだ。利き手の左手には分厚い書物。文武両道を説いた嘉納の教えを一途に守る心意気か。廃藩置県を経て文明開化が進む時代の荒波に挑む熱気まで伝わってくる。
 東京都文京区にある柔道の総本山・講道館で、四郎の足跡を探した。資料館には、使用した柔道着と1882年の日付で血判を押した入門の誓文帖があった。書庫からは、1931(昭和6)年の講道館の機関誌「柔道」に、「山嵐と西郷」と題した文章を見つけた。寄稿したのは、四天王の一人で「姿三四郎」の作者の父である富田常次郎だ。
 それによると、冒頭の「姿三四郎」に描かれた場面の基になったのは警察官への武術指導をかけて柔道と柔術が対決した警視庁武術大会。「明治18(1885)年の5月、場所は丸の内の警視庁」で行われ、相手は楊心流の戸塚彦九郎の高弟・照島太郎。山嵐が決まった場面を、常次郎は「敵の体は西郷の頭を越えてその足下に名誉の屍を横たえていた。嗚呼、かくして山嵐は猛烈に場内を吹き去った」と書き残している。
 四郎の身長は5尺前後(約151センチ)だったらしい。スピード、切れが重視され、小柄な方が向いているとされる山嵐をかけるには好都合だったろう。四郎はもう一つ、有利な条件を持っていた。「蛸」と呼ばれ、熊手のように自在に曲がる足の指だ。払い上げる時に、相手の足に吸い付いて逃がさなかったという訳だ。こうして山嵐は、四郎の代名詞となった。
 実は警視庁武術大会自体も公式記録がない上、様々な日時の資料があり、相手が照島ではないとの記述もある。だが、四郎が他流試合で名をはせたことは間違いないようで、常次郎は「虎と加藤清正とは離すことが出来ても、山嵐と西郷君とは分離して説明は出来ない。これすなわち西郷の前に山嵐なく、西郷の後にまた山嵐なき今日の有り様である」とたたえている。
 現講道館の村田直樹・図書資料部長は言う。「資料が少なく謎は多い。それだけに夢もロマンも広がる。彼は間違いなく、創生期に柔道を盛り上げた最大のヒーローだ」
 性格は負けず嫌い。だが、試合ではどこまでも正攻法だったという。戊辰戦争で敗れて、最終的に藩もなくなった中で会津出身者の多くが夢を求めて上京した。移住した当時の会津藩領だった津川(現新潟県阿賀町)から16歳で東京に出た四郎もその中の一人だったに違いない。この大会から数年後、恩師嘉納の外遊中にこつぜんと講道館から姿を消す。その理由もベールに包まれ、伝説をいっそう謎めいたものにしている。
 東京都台東区の永昌寺で産声を上げた柔道は現在、199カ国・地域に普及するスポーツに成長した。今も境内には「講道館柔道発祥之地」の碑が残る。その初めの1ページを刻んだ男は、揺れる時代の激流とも戦っていた。

                       ◇

 福島が生んだ柔道界の伝説・西郷四郎とはどんな人物だったのか。「姿三四郎」で知られる活躍ぶり、ふるさとやゆかりの地での人間模様を通して激動の時代を己の意志で生き抜いた武道家の足跡を紹介します。閉塞感が漂う今、新しい年へのメッセージとして。
 (この連載は竹園隆浩、川口敦子が担当します)

                       ◇
 次回は「謎の失踪」です。
 10回の連載中に毎回、「四郎クイズ」を実施し、全問正解者20人に四郎ゆかりの地の特産品をプレゼントします。正解は今後の連載の中に出てきます。正解多数の場合は抽選。ご応募は、連載終了後に全問題の解答をはがき1枚にまとめ、〒960・8103 福島市舟場町1の28 朝日新聞福島総局「四郎クイズ」係にお送りください。締め切りは改めてお知らせします。
 第1問 「蛸足」の四郎にはもう一つ、身のこなしから付いた動物名のあだ名がありました。その動物は何でしょう。
 アサヒ・コムでは新年企画「姿三四郎を追って」の関連、番外編の動画を公開しています。動画へのリンクはPR情報の下です。


2 師の留守 謎の失踪
 足の指が内側に曲がっていることから「蛸足」の異名を持っていた西郷四郎には、もう一つのあだ名があった。
 「猫」
 軽妙な身のこなしと、相手に投げられた際に空中で体をひねって見事に立つ技術からそう呼ばれていた。
 四天王として四郎とともに講道館を支えた富田常次郎の書にはこうある。「抱き上げられて、畳にたたき付けられることがあっても、彼はめったに背中を下につけなかった。猫のように、ヒラリと体をかわして平然としていた」
 攻めては「山嵐」の必殺技を持ち、守りも「猫」として万全。まさにスーパーヒーローだ。当時の子どもらが「オレは講道館の西郷だ」と言って遊んだ話もうなずける。
 そんな四郎を柔道の創始者・嘉納治五郎も特別可愛がっていたという。東京都文京区にある講道館で、現在の最高位である10段を持つ醍醐敏郎さんが話してくれた。
 「今も伝わる腰技は嘉納師範と四郎の研究成果、と言われます。師範が浮腰をかけると四郎が飛んで逃げた。すると師範は、飛び上がったところを足で払って払い腰を編み出した。今度は四郎が上体を反らせてこらえると、師範は腰を低く落として後ろ向きになり、腰で持ち上げて投げる釣り込み腰を完成させた」
 夜中に治五郎が四郎を道場に呼び出し、新しい技を試す。創世記の講道館で度々見られた光景だったようだ。
 だが、そんな師弟関係が突然、崩れた。1890(明治23)年6月、四郎は講道館からこつぜんといなくなる。前年9月、治五郎は1年の予定で欧州外遊に出ていた。四郎は留守中の責任者に任命されながら恩師の帰国を待たずに失跡した。まだ24歳だった。
 理由について、様々なうわさが乱れ飛んだようだ。「預かった資金を飲み金で使い切った」「羽目を外してけんかざんまいした」「浅草で力士ともめた」など。いずれにしても慢心か酒と言われた。
 その汚名を晴らす文書が残っている。四郎の養子で、治五郎、南郷次郎、嘉納履正と3代の講道館長に仕えた西郷孝之氏が、1953(昭和28)年に「父西郷四郎を語る」と題し、雑誌に寄稿したものだ。
 それによると、「四郎は大陸への野望を抑えることが出来ず、師範お留守宅に一書を呈して講道館を去るに至った。師範の深高なる恩顧に対する不義をわびているが、已むに止まれぬ胸懐を陳述していた」とある。明治政府に登用されなかった旧会津藩士らは当時、中国、朝鮮半島での活躍を夢見た。四郎もまた、その夢を追ったというのだ。
 失跡前、四郎は義父の西郷頼母から、現在の合気道の源流、会津藩の秘伝・大東流合気柔術の後継者に指名されていたという。このため、「恩師と義父、柔道と大東流の間で揺れ動き、その両方を捨てた」との説もある。
 いずれにしても真実は明らかではない。そして、この失跡時から、四郎の謎の人生は霧が濃くなる。

                       ◇
 次回は「義父頼母」です。
 アサヒ・コムでは新年企画「姿三四郎を追って」の関連、番外編の動画を公開しています。動画へのリンクはPR情報の下です。



姿三四郎を追って:家老が求め養子縁組
 西郷四郎の人生で義父頼母の存在は極めて大きい。戊辰戦争では白河口総督だった元会津藩家老。彼が四郎を養子に迎えたことが、「謎の始まり」と指摘する声もある。
 四郎の旧姓は志田という。実父は会津藩の下級武士だった。上京して嘉納治五郎に師事する際になまりが強かった四郎は「スナスロウ」と繰り返したが、応対に出た者は意味が分からず、最終的に筆談でそれが名前だと分かった、という逸話が残っている。
 記録によると四郎が当時保科近悳と名乗っていた頼母と養子縁組し「保科四郎」となったのは1884(明治17)年。4年後、22歳で「西郷」を継ぐ。警視庁武術大会で照島太郎を投げた2年後、嘉納が外遊に出る1年前、そして講道館からこつぜんと消える2年前のことだ。
 四郎と頼母の関係を追って会津若松市を調べた。1975(昭和50)年にオープンした会津武家屋敷は、頼母の屋敷跡を再現するとともに会津藩の歴史資料館などを展示。そこに山嵐を描いた四郎の記念碑も立っている。
 同屋敷の初代館長だった高木厚保・会津藩校日新館名誉顧問に会った。2人の関係を尋ねると、「藩きっての名家と下級武士の三男。廃藩後とはいえ、普通ならありえない縁組。だが、そこには、藩伝統の大東流の後継者を探していた頼母の事情があった」という。
 大東流合気柔術は、清和天皇末孫の新羅三郎源義光を始祖とし、甲斐の武田家を経て会津藩に伝わった秘伝の護身武芸だ。現在の合気道の源流と言われる。頼母は一子相伝での継承者だった。
 西郷家は元々、武田信玄ゆかりの保科家と同族。戊辰戦争の際に一族21人自害の悲劇を背負っていた頼母には2人の男子がいたが、次男は早く死に、長男も22歳で病死した。当時、日光東照宮で宮司などを補佐する役目をしていた頼母が講道館で柔道に打ち込む四郎を知り、縁組を持ちかけた、というのがおおかたの見方だ。
 実は2人の間には実子説がある。四郎の身長は約151センチで小柄だったことが分かっているが、「三尺ダルマ」と呼ばれていた頼母は、さらに小さく145センチ程度だったという。また、頼母が自らの「近悳」から1字とって四郎に「悳武」の名も贈って西郷を再興させている。これも実子だから、というわけだ。
 だが、高木名誉顧問はきっぱりとそれを否定した。「それは後から周りが騒いで言い出したこと。養子はもらいたくてもらったわけではない。実子を裏付ける記録もないし、ありえない」
 結果的に大東流には四郎の足跡はない。上京するまで暮らした津川(現新潟県阿賀町)では、「山嵐の絶妙のタイミングは大東流のもの」として、幼い頃にすでに大東流の手ほどきを受けたのではないか、との伝承もあるが、確認できるすべはない。
 若くして、旧会津藩を代表する名門西郷家の当主となった四郎。講道館から去る運命はその時に歯車が動き出したのかも知れない。

                        ◇
 次回は「津川」です。
 第3問 四郎が育った津川にあり、阿賀野川が一望できる名峰は何でしょう。同名の辛口の日本酒もあります。
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長野
小林一茶の未知の句 小布施で発見
 「猫の子が 手でおとす也(なり) 耳の雪」。上水内郡信濃町出身の俳人小林一茶(1763~1827年)が、これまで知られていなかった句を記した晩年の書状が2日までに、上高井郡小布施町の民家で見つかった。一茶を研究している矢羽勝幸・二松学舎大教授(上田市)は「子猫のかわいらしさが伝わる。動物をよく観察する猫好きな一茶らしい句だ」と話している。
 書状を鑑定した信濃町立一茶記念館の中村敦子学芸員によると、一茶は当時、信濃町に住み、北信地方の門人を訪ねて俳句を教えていた。書状は小布施地区の豪農の息子あてで、晩年の一茶の暮らしぶりがうかがえる貴重な史料としている。
 書状は縦15センチ、横37・8センチ。2双ある銀びょうぶの一角に張られていた。日付は11月12日。現在の暦で12月半ばに相当する。滞在していた現在の小布施町六川地区から、翌13日に長野市長沼地区の門人を訪ねるため、千曲川を渡る船の用意を依頼する内容だ。
 年号は記されていないが、一茶が俳句と一緒に日々の出来事や天気をつづった句日記「文政句帖」と照合、1823(文政6)年と特定した。句帖には、11月9日に3寸(約9センチ)の降雪があり、10日に六川地区、13日に長沼地区をそれぞれ訪ねたとある。
 びょうぶは、小布施町でかつて質屋を営み、一帯の地主だった人の子孫宅の土蔵で家人が昨年8月に見つけた。書状に「一茶」とあったため一茶記念館に連絡。3句書かれたうちの一つが「猫の子が-」だった。びょうぶが残っていた詳しい経緯は不明という。
 ほかにも、小布施の豪商で文化人の高井鴻山(こうざん)(1806~83年)が描いた妖怪画の短冊、「幕末三筆」と呼ばれる書家の巻(まき)菱湖(りょうこ)(1777~1843年)が書いたとみられる手紙など計約40枚が一緒に張られていた。
 一茶記念館などによると、一茶は1809(文化6)年ごろから六川地区などの門人と交流を重ね、現在の小布施町は頻繁に訪れていた地域の一つという。


石川
加賀藩「軍拡」の要 金沢・鈴見鋳造所の規模判明
 藩政末期に大砲や小銃を生産していた「鈴見鋳造所(場)」(現在の金沢市もりの里3丁目周辺)の詳細な生産体制や敷地面積の変遷が3日までに、板垣英治金大名誉教授の調査で明らかとなった。鈴見鋳造所は、発掘調査が進められている土清水塩硝(えんしょう)蔵とともに加賀藩の軍事機関「壮猶(そうゆう)館」の付属施設であり、それぞれの敷地拡大の時期が一致していることも判明した。関係者は幕末の加賀藩の軍備増強を伝える重要な発見としている。
 鈴見鋳造所は、加賀藩が1853(嘉永(かえい)6)年に河北郡旧鈴見村に置いた大砲と小銃の生産施設。その存在は知られていたものの、詳しい施設規模や生産体制などは明らかでなかった。
 調査は、石川県立歴史博物館が所蔵する「万延元年絵図」(1860年)と、1865(慶応元)年ごろのものとみられる絵図、鈴見鋳造所で働いた鋳物師の釜屋(武村)弥吉の記録などを基に進められた。
 万延元年絵図によると、鋳造所の当時の敷地面積は約1万平方メートルで、役所、鋳造場、砲身に穴を開ける錐(きり)台所、倉庫が置かれていた。その後に描かれた慶応元年ごろの絵図を見ると、鋳造所は増築、敷地が約2倍となり、小筒細工所、小筒火炉場(小銃の製作所)が完成したことが分かる。
 同博物館の本康宏史学芸課長によると、当時、度重なる外国船の来航を背景に、加賀藩は沿岸防衛に力を入れていた。鈴見鋳造所と同時期に金沢市涌波町の土清水塩硝蔵でも洋式火薬生産のため、施設の改築と規模拡大が行われているという。
 今回の調査では、錐台所の動力源である水車を回すために使われた「いぞうば川」と同一のものとみられる水路が、もりの里3丁目に現存することも確認された。板垣名誉教授は「当時の加賀藩の様子はいわば『戦時体制』だ。藩がいかに外国に対して危機感を持っていたかうかがえる」と話した。


愛知
名古屋市博物館:「幕末の名古屋城下図集」を発行 1868年と現在を重ねる /愛知 
◇特別展「400年のあゆみ」で販売
 名古屋市博物館は、慶応4(1868)年の名古屋城下図と、現代の地図を重ねて印刷した「幕末の名古屋城下図集」を発行する。3図セットで500円。9日から始まる開府400年記念特別展「名古屋400年のあゆみ」(市博物館、毎日新聞社主催)で販売する。
 城下図は、尾張藩士が著した4種の図面を基に博物館が編集。名古屋城を中心とする「西部」、東区の建中寺周辺の「東部」、本町通から現在の古渡交差点に至る周辺の「南部」の3図からなっており、それぞれA2判。武家の屋敷には、居住者の名前が刻まれ、寺院は現存するもの、移設したもの、廃寺となったものを色分けして描いている。
 さらに今回の特徴は、現代の街路を透明な光沢のある線で書いたこと。屋外で地図を広げた時、自分が立っている場所が、江戸末期からある道なのか、その後に屋敷などを取り壊して造られた道路なのかが一目で分かるようになっている。現代の地下鉄新栄駅かいわいでは、寺町の細い道筋が、現代にも同じ形状でそのまま残っている場所もあり、往事の街並みをしのびながらの散策が楽しめそうだ。
 担当した博物館学芸課の松村冬樹さんは「身近なところから、名古屋400年の歴史に関心を持つきっかけにしてほしい」と話している。【山田一晶】


広島
竜馬にちなむ麦焼酎を一新
 酒類など製造のアシードブリュー(福山市箕島町)は、本格麦焼酎「いろは丸」をリニューアル発売した。幕末の志士坂本竜馬ゆかりのネーミングを生かし、全国の量販店や酒販店に売り込む。
 長崎県産の二条大麦「にしのほし」の使用量を従来より増やし、こくとまろやかさを出した。アルコール度数は25度。九州酒類工場(福岡県朝倉市)で減圧蒸留し、古処山の伏流水で割る。赤を基調にした新ラベルで、竜馬の情熱を表現した。
 竜馬の乗った蒸気船が鞆沖で沈没した「いろは丸事件」は、大河ドラマ「龍馬伝」にも盛り込まれる。酒類について「いろは丸」を商標登録している同社は「全国に通用するブランドとして育てたい」と意気込む。720ミリリットル入り1050円。

【写真説明】アシードブリューが発売した本格麦焼酎「いろは丸」


長崎
龍馬と弥太郎の巨大像除幕 長崎歴文博で“感激の再会”
 幕末の志士坂本龍馬の生涯を描くNHK大河ドラマ「龍馬伝」にちなみ、龍馬と三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎の巨大な像が3日、長崎歴史文化博物館(長崎市立山1丁目)の玄関ホールに設置された。
 同館の2階奉行所展示ゾーンには9日、ドラマの世界を再現する「長崎奉行所・龍馬伝館」がオープン。ことしの同館は龍馬や弥太郎関連の展覧会や行事がめじろ押しで、来館者を出迎えようと両雄の像を設置した。約1年間展示する。
 龍馬像は高さ3メートル、弥太郎像は同3・4メートル。制作者は長崎市の彫刻家山崎和國さん(75)。同市の風頭公園と高島町に立つ銅像を鋳造する際に使用した樹脂製原型に着色したもので、本物の像とまったく同じ姿を楽しめる。
 除幕式には210人が出席。金子原二郎知事ら関係者が除幕して勇壮な2体の像が姿を現すと、会場は大きな拍手に包まれた。山崎さんは「龍馬と弥太郎が感激の『再会』をした。2人の像が長崎の活性化の起爆剤になれば」と話した。

 【編注】山崎和國さんの崎は、大が立の下の横棒なし


文化芸能
NHK大河ドラマ『龍馬伝』、初回視聴率23.2%でスタート
 1月3日よりスタートしたNHK大河ドラマ『龍馬伝』の初回視聴率が23.2%(関東地区・番組平均)だったことが4日、ビデオリサーチの調べでわかった。昨年の『天地人』の初回視聴率24.7%にはおよばないものの20.0%を超える好スタートを切った。なお、昨年末まで放送され、同じく幕末を舞台に坂本龍馬が登場したTBS系ドラマ『JIN-仁-』の最終回は、25.3%を獲得していた。





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