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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
 年明けて最初の幕末ニュースです。このブログも8年超えます。更新頻度は以前ほど頻繁ではありませんが、今年もよろしくお願いします。

北海道
奉行所写真 田本研造が撮った 中央図書館に本人示す台紙
 函館市の五稜郭にある箱館奉行所の復元の決め手となった古写真の撮影者が、函館の写真文化を築いた一人、田本研造(1832~1912年)である可能性が強まった。函館市中央図書館で台紙付きの古写真が見つかり、専門機関でも確認。関係者は「撮影者を示す原物が出てきたのは初めてで今後の研究に弾みがつく。写真の価値や田本の功績が改めて見直されるのでは」と喜んでいる。来る2012年は田本没後100年―。

 箱館奉行所の復元は、1983年からの五稜郭跡復元整備の一環で同年に試掘調査が始まり、2006年に復元整備工事を開始。市はその際、フランスで見つかり、戦前に日本へ戻った古写真を外観設計の参考とした。撮影者を割り出す根拠がなく、フランス人説などとこれまで謎だった。

 一方、台紙付きの古写真は、横浜市の小森恵己子さん(81)が2009年7月、同図書館に寄贈した複数の写真から見つかった。明治初期に函館で商人をしていた先祖から受け継いだものという。

 2枚の写真は非常に似ており、デジタル画像解析の結果、撮影角度や陰影などを含め全く同じものであることが分かった。台紙は縦6・3㌢×横10㌢で「田本研造製」の朱印が読み取れる。写真はフランスで見つかったものより鮮明で両側が数㌢長い。

 五稜郭跡復元整備に初期から関わる、市立函館博物館の田原良信館長は「自然に考えて田本撮影でほぼ間違いない」とし、文献から1868(慶応4)年に撮影された可能性が高いとみる。雪が写っており、同年10月26日に榎本武揚(蝦夷地仮政権総裁)や土方歳三(新選組副長)らが五稜郭を占拠した後が有力で「田本が榎本や土方を撮影したという記録があり、出張撮影の際に頼まれて奉行所にカメラを向けた可能性もある。田本が函館で写真館を創業する前に当たることから、事実とすれば写真活動の初期の様子を見てとれる貴重なもの」と話す。

 同図書館では、新しく見つかった古写真を新年早々に一般公開する予定で、主任主事の奥野進さんは「田本没後100年に公開できることに縁を感じ、この写真の意味合い、函館にどう関係してきたかを考えてもらえるきっかけになれば」と期待する。

 また道立函館美術館でも東京都写真美術館などの協力で13年に、田本作品を目玉の一つとする展覧会を開催する予定で、主任学芸員の大下智一さんは「台紙が意味するのは田本がこの写真に深く関わっていたという事実。展覧会開催への心構えも変わってくる」と準備に余念がない。 田本直系の写真館「谷杉写真館」(美原3)の谷杉アキラさんは「台紙の話を聞いて、改めて写真の力を感じた。田本が残してくれた財産、功績に敬意を示したい」と声を張る。

 そして、田本の子孫に当たる市内の自営業、田本英司さん(53)は奉行所の写真撮影者について「先祖の生きた証しが今の函館の魅力づくりに役立っていることが何より」と話している。 ◆田本研造

 三重県熊野市生まれ。幕府の通訳として1859年に長崎から来函後、凍傷で片足を切断した。治療したロシア人医師ゼレンスキーから写真技術を学び、66(慶応2)年ごろから写真師として活動。69(明治2)年に道内初の写真館を函館に創設、明治政府の依頼で北海道開拓の記録写真など多くの映像資料を残した。


「箱館奉行所」防寒強化 じゅうたんやプラスチック板設置
 昨年7月、国の特別史跡・五稜郭跡に復元オープンした「箱館奉行所」(五稜郭町44)は、昨冬観光客からの「館内が寒い」といった苦情を受け、防寒対策を強化している。風の通り道を防いだり、通路にじゅうたんを敷くなど、より快適な見学ができるようになった。

 同所は幕末に建てられた当時の工法で忠実に再現しているため、構造上、外の気温に左右されやすい。「歴史発見ゾーン」や一部の通路などには床暖房が入っているが、当時の空間を忠実に復元した「再現ゾーン」の部屋には10度以下になるところもあった。

 そのため、同所は「可能な限り、観光客の要望に応えよう」と、今月上旬に床暖房の入っていない主な通路に厚さ約1㌢のじゅうたんを敷いた。これにより、足元の寒さを軽減した。

 先月には、寒風の通り道だった同ゾーンの天井開口部に透明なプラスチックの「ポリカーボネート」材質の板を設置した。同所の沼崎孝男館長代行は「苦情は昨年度と比べて、格段に少なくなった」と手ごたえを口にする。

 また「暗い」という苦情にも対応。冬期間、再現ゾーンの外側通路は雨戸を閉めなければならず日光が遮られていたが、プラスチック板を2カ所はめ込むことで光を取り込んだ。

 沼崎館長代行は「再現ゾーンなどは床暖房を入れることができないため、寒い季節は厚めの靴下をはいて来館を」と呼び掛ける。

 市教委は「再現ゾーンの通路にはプラスチック板をもう1カ所設置する予定。今後も施設のコンセプトを守りつつ、来館者が満足できるよう工夫していきたい」としている。

 12月に来訪した時には、前より随分と過ごしやすくなってました。

「高龍寺」国登録有形文化財に
 函館市船見町21にある市内最古の曹洞宗寺院「高龍寺」所有の建造物10件が9日、国の文化審議会で文部科学大臣に答申され、登録有形文化財への登録が決まった。函館では6年ぶりの登録で、市内の登録件数は合わせて17件に。永井正人住職は「登録は昨年4月に亡くなった先代(永井康人前住職)の思いでもあった。先代も喜んでいると思う」と話している。

 登録は建設後50年が経過し、①国土の歴史的景観に寄与している②造形の規範となっている③再現することが容易でない―ことが基準。市は7月に登録へ向けた書類を文化庁に提出し、その後文化庁から文化審議会に諮問し、同日答申された。

 高龍寺は1899年ごろに建築された本堂や、1907年の火災後に新しく建てられた山門、金毘羅堂などで構成。道有形文化財の「釈迦涅槃図(しゃかねはんず)」を所蔵しているほか、毎年10月に開催する「金毘羅尊天例大祭」など、年間を通して多彩な行事が行われている。見学は無料。

 登録されたうち、「本堂」は良質なケヤキを使用した太い柱と梁(はり)で支え、力強い内部空間をつくる。周囲に下屋と縁をめぐらせ、東西に回廊を付属させる。堂内は9室あり、正面の向拝などには立体的で精巧な彫刻を飾るなど、大規模かつ装飾豊かな点が評価された。

 「山門及び袖塀」は境内正面に建つ木造八脚門で、門の左右には桟瓦葺の袖塀を延ばしている。東北以北最大の山門で、雲龍や獅子、花鳥などの彫刻が施されるなど、意匠をこらした外観が特徴だ。

 また、市内に現存する煉瓦造建築として代表的な「開山堂」や、延焼を防止するために設けられ、大火が頻発していた近代函館を象徴する「防火塀」、境内で最も装飾豊かな「金毘羅堂」などのほか、「水盤舎」「鐘楼」「宝蔵」「位牌堂」「土塀」が登録となった。

 正式登録は数カ月後の登録原簿登載を経て決まる。市教委文化財課は「函館の歴史を物語るお寺が国に認められてうれしい。これからも後世に引き継がれてほしい」と祝福。永井住職は「これまでと同じように地域に密着したお寺であり続けたい」と話している。


「箱館奉行所」が道赤レンガ建築賞
 国の特別史跡「五稜郭跡」に復元され昨年7月にオープンした「箱館奉行所」が、地域の発展に貢献する創造性豊かな建築物を対象とする北海道赤レンガ建築賞を受賞した。道南では2001年度の公立はこだて未来大学以来、10年ぶり。同館の沼崎孝男館長代行は「建築関係者もひと目見ようと訪れるほど。道を代表する建築物として認めてもらいとてもうれしい」と話している。

 箱館奉行所は道内最大級の木造建築物で、総工費約28億円をかけ、4年間の工事を経て完成した。幕末当時、約2700平方メートルあった同奉行所のうち、約1000平方メートルを復元した。建物は発掘調査結果などを基に、スギやヒノキなどの材質をはじめ、細部まで忠実に復元することにこだわった。

 入館者数はオープン後から今年11月末現在までで、44万3313人。生涯学習施設として道内外から修学旅行生も多く訪れ、函館観光を下支えしている。

 本年度は23の応募作品があり、10月下旬から11月上旬まで行った第二次審査の現地審査などを経て受賞が決まった。現代技術を駆使した伝統的工法によって復元された点や、北海道の建築創造活動の促進に寄与したこと、函館の文化振興に貢献したことなどが選考理由となった。

 市教委の山本真也教育長は「復元工事に携わった全国の職人に感謝の気持ちでいっぱい。入館者数も予想以上で、函館を代表する建築物をもっと多くの人に知ってほしい」と祝福する。

 沼崎館長代行は「これまで以上に全国から観光客が来てくれるよう、魅力をさらに発信していきたい」と意気込んでいる。


三重
「ええじゃないか」と社会の不安を跳ね返そうと江戸幕末の伊勢参り再現
 国会の空転、景気の停滞、東日本大震災、原発事故など今の世の人々の不安な気持ちを吹き飛ばそうと1月8日、「伊勢ええじゃない会」(石川雄一郎会長)が「ええじゃないか、ええじゃないか」と明るく騒ぎながら伊勢神宮外宮から内宮までの約3キロの距離を練り歩いた。

 同会は、幕末に「ええじゃないか」「ええじゃないか」と明るく騒ぎ、社会不安を吹き飛ばそうと民衆の間から巻き起こった社会現象を再現し、明るく楽しい世にしていこうと毎年仮装による伊勢参りを実施、今回で8回を数える。

 傾奇(かぶき)者や女装、忍者などに仮装し「ええじゃないか」と連呼しながら歩く集団が、内宮の門前町として栄え今も大勢の参拝客が行き交うおはらい町通りに差し掛かると、一般人も巻き込みながら楽しく「ええじゃないか、ええじゃないか」と盛り上がった。成人式を終えた新成人を見つけると取り囲み、「新成人、新成人」と掛け声で祝った。

 同集団に捕まった同市出身の新成人は「社会不安だらけのニッポンだけど、社会のために何か貢献し、私たち新成人が明るい社会を作っていかなければいけないと思った。捕まってビックリしたけど、とっても良い事が起こりそう」と感想を漏らした。


ええじゃないか!華のお伊勢参り:きょう再現、和装の参加者募集 /三重
 幕末に流行した熱狂的な踊り「ええじゃないか」を再現して、法被や着物の和装で伊勢神宮へにぎやかに参拝する催し「ええじゃないか!華のお伊勢参り」が8日、JR伊勢市駅前から伊勢神宮まで行われる。市民有志でつくる「伊勢ええじゃない会」(石川雄一郎会長)が参加者を募っている。

 伊勢ならではの初詣スタイルを再現し、景気の停滞ムードも吹き飛ばそうと、05年から続けている。

 当日は旅装束や侍姿などに仮装した人たちが午前11時にJR伊勢市駅前を出発。伊勢神宮外宮、古市街道を経て猿田彦神社、同神宮内宮までの約5キロを練り歩く。また、おはらい町通りの五十鈴塾左王舎前に午後1時ごろに集合し、成人式を済ませた若者たちにも呼び掛けて「着物でお伊勢参り」を繰り広げる。参加希望者は着物や法被など自前の和装で出発地に集合。予約不要で参加無料。問い合わせは石川会長(080・5103・0989)へ。【木村文彦】

〔三重版〕


京都
観光振興で相互交流 京都市と会津若松市 3月に「宣言」
 東日本大震災で落ち込む観光の振興を目指し、京都市と福島県会津若松市が「相互交流宣言」を3月にする。両市が舞台となるNHK大河ドラマ「八重の桜」の2013年放映が決まったことを受け、両市共同の観光PRのほか、小学校間の文化・教育交流も予定している。
■学校連携も
 福島県西部の会津若松市には猪苗代湖や鶴ケ城など県内有数の観光地がある。大震災による大きな被害はなく、福島第1原発からも100キロ近く離れているが、訪れる修学旅行生が9割も減少するなど観光客が大きく減っているという。
 放映が決まった「八重の桜」は同志社大(京都市上京区)を創設した新島襄の妻・八重の生涯を描く作品で、八重は現在の会津若松市に生まれた。新島夫妻でつながる京都、会津若松両市が震災復興や原発災害の克服に力を合わせようと、相互交流を進めることにした。
 今年3月に京都で催される「東山花灯路」に合わせて会津若松市の室井照平市長が京都を訪れ、相互交流宣言した後に特産品を展示即売する。また「八重の桜」放映にちなんだ共同観光PRを首都圏で展開する。幕末に京都守護職を務めた会津藩主・松平容保が本陣を置いた金戒光明寺(左京区)など京都市内の会津ゆかりの地を巡るツアーも企画。両市の学校をインターネット回線でつないで歴史や文化を学び合う学校間連携も行うことにしている。
 会津若松市総務課は「京都市とのつながりを生かし、息の長い交流を続けたい」。京都市政策調査課も「行政間だけでなく、幅広い市民の交流につなげて復興支援にとどまらない両市の発展を目指したい」としている。

香川
「幕末志士」倉庫で語ろう
香川のファン 「志持つ人 集まって」

坂本龍馬らの複製写真を展示した多目的スペース(香川県善通寺市で)
 坂本龍馬ら幕末の志士らの写真を展示した倉庫が、香川県善通寺市で話題を集めている。龍馬の大ファンという同市善通寺町、屋根工事業長田謙司さん(65)が会社倉庫を多目的スペースとして改装したもの。懇談会や同窓会などの会場として開放しており、「志を持った人たちの集まりに利用してもらえれば」と話している。

 長田さんは中学3年の頃、司馬遼太郎の「竜馬がゆく」を読んで龍馬の生き様に感動。その後も関係書物を読み続け、高知市の桂浜や資料館などに何度も足を運び、「異色でこんな大きな人はほかにはいない」と、魅力に取り付かれたという。

 龍馬らについて語り合える場がほしいと、会社敷地内の木造2階建て倉庫1階(約100平方メートル)を一人で改装。仕事で利用しなくなった木材などを使い、約1年かけて昨年1月に完成させた。

 畳敷きで壁は板張り。龍馬のほか、高杉晋作、中岡慎太郎、桂小五郎ら6人の複製写真(縦約60センチ、横約40センチ)を壁に飾り、高知市内の美術愛好家から購入した龍馬を模した陶製の像(高さ約60センチ)も配置。写真が浮かび上がるよう、照明も工夫している。

 龍馬好きの知人らを集めた懇親会や同窓会などを開催してきた長田さんは「龍馬だけでなく、幕末の歴史に興味がある人たちが自由に議論してほしい」と話している。

 最大約20人で利用でき、調理場も完備。使用料は相談に応じる。見学は無料。問い合わせは長田さん(090・1008・3455)。

(2012年1月8日 読売新聞)


龍馬伝・幕末志士社中:来館者10万人に 群馬の白波瀬さん夫妻に記念品 /高知
 JR高知駅前の「龍馬伝」幕末志士社中の来館者が5日、10万人に達し、群馬県渋川市から訪れた会社員、白波瀬雄一さん(44)と里香さん(41)夫妻に記念品が贈られた。

 白波瀬さん夫妻は、坂本龍馬の古里を見てみたいと、3日から3泊4日の予定で来県。雄一さんは「いきなり10万人目と言われてびっくりした。良い思い出になります」と笑顔。里香さんは「社中に展示されている龍馬生家のセットがリアルで感動しました」と話し、10万人目の認定証やカツオのたたきなどを受け取った。

 志士社中は、県観光イベント「志国高知 龍馬ふるさと博」の目玉施設として昨年7月に開館。県龍馬ふるさと博推進協議会事務局によると、181日目の10万人達成は、当初見込みより13日遅いという。事務局は3月末までに来館者15万人を目指してPRを続けている。【倉沢仁志】


鹿児島
益満休之助の戦傷死
■斥候中の負傷で破傷風

 幕末5 件維新期の薩摩藩で、隠密活動家として伊牟田いむた尚平しょうへいとともに異彩を放っているのが益満ますみつ休之助きゅうのすけ(行武ゆきたけ、一八四一~一八六八)である。
 益満といえば、直木なおき三十五さんじゅうごの「南国太平記」で縦横無尽の活躍をすることで知られる。しかし、小説の舞台は高崎崩れ(いわゆるお由羅ゆら騒動)のころで、益満はまだ少年であり、明らかに時代が違うから、直木が創作したフィクションである。
 益満は鹿児島城下高麗町の生まれ。父行充と母ヨシの二男である。益満家は小番こばん
の家格で御小姓組おこしょうぐみだった西郷隆盛や大久保利通などより少し上である。
 慶応三(一八六七)年十二月、幕府軍により江戸の薩摩藩邸(芝本邸)が焼き打ちにあったとき、浪士隊の江戸かく乱工作を指揮していた益満は捕虜となったが、勝安芳やすよし
(のち海舟)に保護され、九死に一生を得た。
 翌四年三月、東征軍が江戸に迫っているとき、益満は勝の計らいにより釈放され、旧幕府側の使者・山岡鉄太郎を駿府に先導して西郷吉之助との会見を実現、江戸開城の露払いの大役を果たしたことでも知られる。
 江戸開城後の五月十五日、上野に立てこもった彰義隊しょうぎたいとの戦いが始まる。薩摩藩は西郷みずから指揮し、苦戦が予想される正面の黒門口を担当した。益満は隊外斥候せっこう役となり、自由な立場での戦況偵察の任にあたった。
 早朝から始まった戦闘は激烈をきわめたが、夕刻に彰義隊の敗北で終わった。薩摩藩は彰義隊の抵抗に苦しみ、戦死者八名、負傷者四十名を出した。これは戦闘に参加した諸藩兵のなかで最多の死傷者数だった。
 この負傷者四十名のうち、八名がのちに死亡したが、そのなかに益満も含まれていた。政府軍の軍医・関寛斎の日記に益満の死亡記事がある(「奥羽出張病院日記」)。「右脚下部貫通創脛骨けいこつ挫傷、テタニユスにて廿六日死す、 益満休之助」
 益満は右脚のスネあたりに銃弾を受けた。テタニユスとは破傷風のことである。益満の負傷は致命傷ではなかったが、不運にも傷口から破傷風菌が入って死亡したのである(二十六日死亡は間違い)。当時、破傷風の治療法はまだなかった。不忍池しのばずのいけ近くの加賀藩邸(現・東京大学)周辺は破傷風菌が多いことで知られていたという(高山坦三「伝説史話の詮議誌」)。
 負傷した益満は関が病院長をつとめる神田小川町の野戦病院(旧幕府の講武所跡)に収容された。西郷は翌十六日、負傷者を横浜の軍陣病院に搬送するよう指示するとともに、益満の負傷を知って大変心配し、配下の小荷駄こにだ方(物資・兵糧係)にその収容先を探すよう命じ、「益満だけは別にお手当下さるべく候」と書いている。西郷は益満を特別待遇で治療させようとした(「西郷隆盛全集」二)。
 益満が横浜に移送されたのは二十日だったが、すでに手の施しようがなく、二日後の二十二日夕方七時に息を引き取った(「横浜軍陣病院日記」)。享年二十八歳。
 戦闘中、益満がどのような行動をとり、どこで負傷したのか、信頼できる史料には記されておらず不明である。本郷の切通きりとおし坂周辺で負傷したとか、千駄木から谷中やなか
に向かう団子坂で負傷したとか諸説ある。戦闘は正面の黒門口と長州藩などの本郷方面で同時に開戦する手はずになっていたが、西郷は本郷方面がなかなか開戦しないのを気にしていた(「慶明雑録」)。もしかしたら、益満は西郷の命で本郷方面に長州藩との連絡に出かけて銃撃され、負傷したのかもしれない。
(歴史作家・桐野作人)
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