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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
 『薄桜鬼 碧血録』が始まって、週半ばに楽しみがひとつできました。

岩手
鋳物の里に歴史公園 奥州・水沢、幕末の名工顕彰
 奥州市の羽田地区振興会(佐藤建樹会長)が同市水沢区羽田町に整備していた水沢鋳物歴史公園の完成除幕式は14日、現地で行われた。公園は幕末の名工の屋敷跡に整備。歴史説明板などを設置し、鋳物産地をアピールする。

 関係者約40人が出席。鋳物で作った太鼓の音に合わせて、説明板が除幕された。

 公園は広さ約600平方メートル。仙台藩のお抱え鋳物師だった及川重右衛門の屋敷跡に整備した。説明板は水沢鋳物の歴史と重右衛門が製造した武器「坂本流大筒」を解説。公園整備中に発見された、江戸時代の鉄を溶かす溶銑炉「甑(こしき)」の貴重な断片も展示する。事業費は76万円。市が50万円補助した。

 公園整備は、4月に部分開通した県道工事がきっかけ。県道が及川家12代当主の宏也さん(73)の敷地内を通るため、分断された県道沿いの土地に重右衛門を顕彰する公園が計画された。土地を無償貸与する及川さんは「代々の土地を生かし、地域に恩返しがしたかった」と語る。

 公園には屋敷にあった樹齢約250年のイロハモミジなども残した。大筒の復元やあずまや整備も検討しており、佐藤会長は「先人の功績を伝え、鋳物の歴史や情報を発信する場にしたい」と語る。

【写真=鋳物の名工の屋敷跡に整備された水沢鋳物歴史公園】


企画展:幕末の長英と崋山 出会いから幕府弾圧 奥州で来月21日まで /岩手
 幕末を生きた奥州市出身の蘭学者・高野長英と三河国田原藩(現愛知県田原市)家老・渡辺崋山をテーマにした企画展「長英と崋山」が、奥州市水沢区の市立高野長英記念館で開かれている。両者の出会いから蛮社の獄による幕府の弾圧までを貴重な資料などで紹介している。11月21日まで。

 長英は洋学教師として田原藩に迎えられたことが縁で崋山と知り合った。その後、崋山らが結成した「尚歯会」に参加し、国内外の情勢を研究。ともに開港論を唱えたために幕府の弾圧を受けた。

 企画展では、崋山が挿絵を担当した長英の飢饉(ききん)対策書「救荒二物考」や、画家としても有名な崋山のスケッチ「囲碁の会」などが展示されている。佐藤玲子館長は「蛮社の獄後の2人の生き方は違うが、目指す所は同じだったことを知ってほしい」と話している。

 月曜休館。入館料は大学生以上200円。【湯浅聖一】



茨城
映画:『桜田門外ノ変』あす封切り ゆかりの地に観光客を 県などパンフ作製 /茨城
◇ロケセットに来訪続々
 幕末の水戸浪士による大老・井伊直弼暗殺事件をテーマにした映画「桜田門外ノ変」(佐藤純弥監督)が16日に全国300館の映画館で公開されるのに合わせ、県全域への観光客誘致の動きが高まっている。映画は地元の市民団体「『桜田門外ノ変』映画化支援の会」が主導し、県内17カ所で撮影。銀幕の中の風景を素材として広範囲で地域活性化を図る計画だ。

 JR東日本は、袋田の滝(大子町)などロケ地8カ所を巡るスタンプラリーの三つ折りパンフレットを6万部作製。首都圏の東京、水戸、大宮支社管内の駅に設置し、鉄道を使った観光を呼びかけている。秋の行楽シーズンと重なり、注目を集めているという。

 県観光物産協会と県は、ロケ地や水戸藩ゆかりの地に郷土料理を組み合わせたモデルコースを掲載した冊子(A5判32ページ)を6000部作り、県内の映画館などで配布する。

 4月から記念展示館に改装された千波湖畔(水戸市)のオープンロケセットへの来訪も封切り前に勢いを増し、今週末までに入場者が15万人を突破する見込みだ。4割が県外からで、福島県など近隣から大型バスを連ねてくる団体客もいる。観光客を案内する「歴史アドバイザー水戸」のメンバー、佐久間庸夫さん(77)は「事件は暴動であり、水戸の者にとってタブーだった。映画によって、当時の浪士たちの国を思う熱い気持ちを全国に伝えたい」と話す。

 国の補助金2500万円を元手に、県や水戸市など全県の支援を得て「支援の会」が発足したのは08年8月。市民向けの歴史や自然の勉強会、撮影に備えた料理教室を行う一方、09年から実際の撮影準備を開始。入場割引券などが付いた映画製作協力鑑賞券(2000円)を約5万セット販売した。

 「支援の会」の谷田部智章事務局次長(37)は、「映画は水戸が中心だが、県内のほかの地域でも勉強会などの自主的な動きが出てきた。上映期間中に多くの人にゆかりの場所に足を運んでもらいたい」と話している。【山崎明子】


群馬
高崎藩英学校 開校140年記念展 群馬
 尾崎行雄、内村鑑三らが学んだ高崎藩英学校が明治3(1870)年に開設されて今年で140年-。文明開化の新しい時代を切り開いた人々と教育の重要性を考える企画展「幕末維新の若者たち」が13日、高崎市上滝町の同市歴史民俗資料館で始まった。
 同校は、西洋の情勢を分析する語学力の習得を目指した当時22歳の知藩事、大河内輝聲(てるな)が創設。教科書として使われた図入り解説書など関連資料約45点を展示している。11月28日まで(月曜休館)、入場無料。問い合わせは同館(電)027・352・1261。



東京
[株式会社阪急阪神ホテルズ]
親子イベント 「古地図を持って、親子で江戸幕末・文明開化を知ろう!」 ~新橋編~

 第一ホテル東京(東京都港区新橋1-2-6 総支配人:西岡省造)では、阪急阪神ホールディングスグループで推進する社会貢献活動「阪急阪神 未来のゆめ・まちプロジェクト」の一環として、「親子イベント~古地図を持って、親子で江戸幕末・文明文化を知ろう~」を、2010年11月20日(土)において開催します。

 江戸から明治・大正・昭和へと歴史の変遷とともに大きく変貌した「新橋」地域について、江戸時代に作成された「古地図」を持って、地図に表記されている場所を探りながら、親子で歴史や史跡を巡ります。また、NPO法人江戸前21 理事長 清田和美さんによるガイド案内やレストランでのデザートをもご用意しております。

【イベント名】 「古地図を持って、親子で江戸幕末・文明開化を知ろう!」

【開催日時】  平成22年11月20日(土) 13:00~15:00

【料  金】  お1人様1,500円

【探索スケジュール】
 (1)虎ノ門御門跡
 (2)文部科学省内の掘割の復原場所
 (3)工部学校跡地
 (4)地図上の掘割を歩く
 (5)幸橋御門跡地
 (6)旧新橋停車場及びプラットホーム
 (7)旧新橋停車場鉄道歴史展示室(11/21まで日光道中-江戸の旅・近代の旅-展示中)
 (8)第一ホテルアネックス トラットリア「ラ・ハ゜ランツア」にて質疑応答など。

【ガ イ ド】  NPO法人江戸前21 理事長 清田和美様

【スケジュール】
  13:00 東京メトロ「虎ノ門」駅 虎の彫刻像前 集合 上記の探索コースをめぐる
  15:00 第一ホテル東京にて質疑応答-ティー・ケーキ提供 解 散

【対 象 者】  大人/小学校4年生~6年生のお子様

【募集人数】  15組30名 

【ご予約方法】 第一ホテル東京公式HPより


社告:葛飾北斎生誕250年記念 「富士と桜」展 長野・小布施の北斎館など /東京
◇長野・小布施の北斎館など3館
 江戸中期から幕末にかけて活躍した絵師、葛飾北斎の生誕250年を記念した特別展「『富士と桜』展-画狂人北斎と中島千波の世界」(北斎館主催、毎日新聞社など共催)が、長野県小布施町の北斎館など3館で11月23日まで開かれています。これを記念して、美術史家の永田生慈さんによる特別講演が16日に、日本画家の中島さんと小説家の高橋克彦さんによる特別対談が11月13日に、いずれも同町の北斎ホール(同町1491の2)で行われます。両日とも先着300人で無料。詳細は次の通りです。

 ▽特別講演「北斎・風景版画の本質-冨嶽三十六景を中心として」10月16日(土)午後2~4時

 ▽特別対談「歴史小説家高橋克彦・日本画家中島千波が語る北斎-江戸と現在」11月13日(土)午後1~4時

 《問い合わせ》北斎館(電話026・247・5206)


神奈川
112年前の日米交友の手紙、ジョン万次郎のひ孫大磯の中濱さんが秘話披露/神奈川
 幕末64件に偶然にも米国に渡って近代文明を学び、帰国後は同郷、土佐藩(現在の高知県)の坂本竜馬や岩崎弥太郎ら英傑に多大な影響をもたらしたといわれるジョン(中濱)万次郎。波乱の生涯を通して日米友好を願い続けた一人だ。万次郎のひ孫で作家の中濱武彦さん(70)=大磯町在住=の手元には代々伝わる一通の手紙がある。送り主は遭難した万次郎を救った捕鯨船船長の息子。「それでは両家にまつわる秘話を教えましょう」―。

◆渡米した初の日本人

 ジョン万次郎の人生はまさに波瀾(はらん)万丈だ。土佐の漁師見習いだった14歳のとき、しけに遭い、太平洋の鳥島に流れ着く。たまたま通りかかった米国捕鯨船のホイットフィールド船長に救われた。家族同様に迎え入れられた万次郎はマサチューセッツ州の私立学校を首席で卒業したといわれる。恵まれた生活だったが、鎖国下にあった祖国を憂い帰国を決意。嘉永4(1851)年、ペリーが開国を迫る2年前、琉球を経て10年ぶりに故郷の地を踏んだ。その後、米国に渡った初の日本人として幕府や藩に登用され、開国や日米友好を訴え続けた。造船、測量、航海などの先進技術や国際情勢も伝え、人材を育て上げる。

 「そんな万次郎が終生忘れなかったのが、ホイットフィールド船長や家族への恩義なんです」。時は明治に移り、新政府の命で、万次郎は通訳として渡米。1870年、公務の合間に同船長が暮らす懐かしの街フェアヘーブンを訪ねた。21年ぶりの再会は万次郎43歳、船長は65歳だった。町民が次々と集まり、お祭り騒ぎになったという。

◆最晩年に託した思い

 そして本題の手紙である。万次郎と同じく海を愛した三男、慶三郎は海軍省経理局の主計大尉になっていた。1898年、米国に初めて出張する際、老父からホイットフィールド家への手紙を託される。最後の再会から28年が過ぎていた。だが、慶三郎が事前に送った手紙には返事がない。約3カ月の滞在も終わりかけたころ、一通の手紙が届く。ホイットフィールド船長の長男マーセラスからだった。そこには郵便の遅配があったこと、父母は亡くなったが生前は万次郎を常に誇りに話していたこと、これを機に両家の友好を深めていきたいことなどがつづられていた。慶三郎はすぐに時間をつくり、米海軍の協力でマーセラスと対面を果たす。

 「このときに私の祖父慶三郎が捜し当てなければ両家は永遠に関係が切れていたかもしれない」。膨大な資料を基に万次郎の生涯を本にまとめてきた中濱さんは、そう感じている。日米が戦火を交える冬の時代も経て、両家の交友は5代にわたり続く。それだけではない。万次郎の故郷土佐清水市とフェアヘーブンは姉妹都市となり、今では短期留学制度も設けられている。「若い世代の異文化交流を残したことが万次郎の一番の功績ではないでしょうか」。中濱さんは曾祖父の冒険譚(たん)を満足そうに語り終えた。


福井
忠直没後350年でシンポ、浮かぶ新人物像 【2000年10月14日】
 暴君のイメージで語られがちな越前二代藩主・松平忠直の没後三百五十年を機に、忠直の復権を図ろうと「松平忠直卿の人間性に光をあてる」と題したシンポジウム(福井新聞社後援)が十四日、福井県福井市のフェニックス・プラザで開かれた。郷土史家らのパネル討論や脚本家・ジェームス三木さんの講演があり、忠直の藩主としての功績や、庶民に慕われた配流先の生活などを紹介、信仰心があつい人情家との人物像を浮かび上がらせた。

 シンポジウムは、同市内の歴史愛好家でつくる「松平忠直卿に光をあてる会」(山本照英会長)と同市歴史ボランティアグループ語り部(河合昭一会長)の主催。山本会長が「忠直の名誉回復を図り、後世に事実を伝えていきたい」とあいさつした。

 パネリストは忠直の配流地、大分市の郷土史家、柴田義弘さん、忠直の供養塔がある鯖江市の長久寺住職、橘照泰さん、同市立郷土歴史博物館学芸員の印牧信明さん、河合会長の四人。福井新聞社の岩永裕介取締役編集・論説担当がコーディネーターを務めた。

 河合会長は「忠直の”乱行”を記した資料は、うわさ話として書かれていることが多く、真相を伝えていない。忠直の家臣にあてた書状は優しさ、いたわりにあふれた文章で、こういう人物が暴虐な振る舞いをするはずがない」と強調。

 柴田さんは、大分では今でも「一伯さま」と慕われているとし、「茶道など文化に通じた教養高い人で、社寺への寄進を繰り返すなど信仰もあつかった。蟄居(ちっきょ)先が一度変えられたのは、幕府の監視人らが忠直の健康を気遣ったから」と話した。

 橘さんは「北陸道の難所だった鯖江市の旧鳥羽野を開拓し、宅地、耕地の無償提供や免税など善政を敷いた」と治績を訴え、印牧さんは大坂の陣の武勲や、幕末40件の福井藩主松平春嶽らによる赦免運動などを紹介した。

 パネル討論に先立ち講演したジェームス三木さんは「歴史をさかのぼることは新たな歴史づくりにつながる。忠直について地元で話し合うのは大切なこと」と話した。



京都
ここで龍馬の葬儀が… 東山霊明神社参道に石碑建立 京都
 坂本龍馬や中岡慎太郎などの葬儀が行われたとされる京都市東山区の霊明神社を広く知ってもらおうと、NPO法人「京都龍馬会」(同市中京区)が同神社の参道に石碑「幕末志士葬送の道」を建立し、13日、除幕式を行った。
 同会は約2年前から、龍馬ゆかりの地に石碑を建てる活動に取り組んでいる。これまでに龍馬の妻、お龍の実家跡(中京区)、龍馬とお龍が挙式した会場跡(東山区)などに建立し、今回が4カ所目。
 除幕式には約30人が参加した。石碑の文面を考えたNPO法人「京都歴史地理同考会」の中村武生理事長があいさつ。龍馬らの葬儀が霊明社(現霊明神社)で行われ、龍馬らの墓が東山招魂社(現京都霊山護国神社)で管理されるようになる前には霊明社所有地にあったとされることに触れ、「多くの龍馬ファンに、葬送の行われた参道や霊明神社を知ってほしい」などと話した。
 石碑は高さ約1メートル。龍馬らの墓が霊明神社から京都霊山護国神社に移された経緯などが書かれている。
 「京都龍馬会」の赤尾博章理事長(58)は「石碑を建てることで、正しい史実をより広く認知してもらえれば」と話している。


和歌山
たいまつで高める防災意識 16日に稲むらの火祭り
 わらに火を放って津波の襲来を住民に知らせたと伝えられる幕末から明治時代初めの実業家・政治家、浜口梧陵をたたえる「稲むらの火祭り」が16日夕、浜口の出身地の広川町で催される。町などでつくる実行委員会は、たいまつを持って町内1.7キロを歩く参加者を募っている。

 安政南海地震(1854年)が発生したとき、暗闇の中で津波に気づいた浜口は、たいまつでわらの束に火をつけて住民たちを高台へ導いたとされる。その後に大規模な堤防の築造を手がけた浜口の志を受け継ぎ、防災意識を高める催し。

 行列は午後6時にたいまつに点火し、町役場前の「稲むらの火広場」から1.7キロ離れた広八幡神社まで40分かけて歩く。たいまつは主催者が用意する。先着順。小学生以下(保護者同伴)は、たいまつの代わりに懐中電灯を持つ。申し込みは町民会館(0737・63・2295)へ。



広島
幕末の歴史ドラマ絵画で紹介<動画あり>
 広島県立歴史博物館の秋の企画展「幕末の動乱と瀬戸内海」(中国新聞備後本社共催)が15日、福山市西町の同館で始まった。明治維新へつながる幕末の歴史ドラマを広島、福山両藩の視点でたどる。11月23日まで。

 111点の文書や絵画を紹介する。1868年の鳥羽・伏見の戦いの直後、徳川幕府の譜代大名だった福山藩を倒幕派の長州藩が攻撃した際の和平交渉の記録は初公開となる。

 第2次長州征討で紀州藩が広島城から江波まで行軍する光景を伝える絵巻、坂本竜馬が最後に土佐へ帰郷した際に乗った広島藩船・震天丸の絵図などもあり、軍備を増強した幕末の緊張感を伝える。

 一般700円、高校、大学生520円、小中学生350円。月曜日休館。


幕末の和平交渉記した古文書
 幕末の鳥羽・伏見の戦いで圧勝した新政府軍の長州藩が、徳川幕府の譜代大名だった福山藩を攻めた1868(慶応4)年1月の戦いで、両藩の和平交渉のやりとりを記した古文書が見つかった。交渉での発言内容を詳しく伝える記録が確認されたのは初めて。

 古文書は和紙7枚をつなぎ、縦23・5センチ、長さ231・9センチ。両藩の発言を「福山言」「長人言」と台本のように記し、やりとりを生々しく伝える。

 福山藩が「徳川が朝廷の敵になったとは聞いていない」と訴えると、長州藩は「朝敵同然の徳川譜代の家へは通達がなかったのだ」と応じ、正当性を互いに主張。福山藩は「戦う力はない。戦いはお断り」とし、長州藩も「天皇は無益な戦いをしないのが国のためと申されており、長州藩と福山藩は国を思う心で同じ」と収拾する。署名はない。

 鳥羽・伏見の戦いから3日後、長州藩が福山城の北側から攻め入り、現在の備後護国神社一帯で銃撃戦となった。福山藩が朝廷への恭順を示したため、当日終結した。

 福山藩士の子孫の男性が5年前に福山市の実家で古文書を発見。同市の広島県立歴史博物館が鑑定した。15日から始まる企画展で初めて公開する。西村直城主任学芸員は「時代の波に翻弄(ほんろう)された福山藩の苦悩が読み取れる。幕末の郷土史に光を当てる貴重な史料だ」と話している。

【写真説明】和平交渉の内容を記録した古文書を解説する西村主任学芸員(撮影・増田智彦)



長崎
大浦慶所有の龍馬ら写真を初公開 17日まで長崎歴文博
 幕末の長崎で活躍した女性商人・大浦慶が持っていたとされる坂本龍馬の写真が15日、長崎歴史文化博物館(長崎市立山1丁目)で開催中の「実録・坂本龍馬展」(長崎新聞社、NHK長崎放送局主催)で公開された。公開は17日までの3日間限定。
 この写真は、大浦慶の縁者に当たる長崎市在住の個人が保管。昨年存在が明らかになり、県はことし8月、同時期に撮影されたとみられる洋装の男性の写真と合わせて250万円で購入。今回初めて公開した。
 2枚はいずれも名刺サイズ。龍馬の写真は、長府藩士三吉慎蔵が龍馬から譲り受けた写真と同じ構図で、体を左に向けて座っている。三吉家所蔵の写真に比べ画像がややぼやけており、長崎歴文博は龍馬暗殺翌年の1868年ごろに複写されたものとみている。洋装の男性は、類似の格好をした写真が残されている海援隊士沢村惣之丞の可能性があるという。
 観覧した山口県下関市の会社員、植杉祐哉さん(31)は「長崎で新たに龍馬の写真が見つかったとは知らなかった。龍馬ファンなので本物の写真を見て感動した」と話した。


長崎日米協会:会長に上田氏 鈴木氏は顧問に /長崎
 長崎日米協会の通常総会が12日、長崎市であり、NBC長崎放送の上田良樹社長を新会長などとする役員人事が了承された。前会長の鈴木一郎・鈴木商店社長は顧問となった。

 この日の総会では、今年度の事業計画案なども提案され、長崎出身で幕末に通訳として活躍した森山栄之助の記念碑建立に向け、長崎南ロータリークラブと連携する方針などが確認された。

 上田会長は「日米関係の安定が非常に大切だと思っている。私のできる限りの努力をしたい」などと語った。


熊本
屏風が変色 熊本市現代美術館で
 熊本市現代美術館は10月12日、屏風5点の変色について報告書をまとめた。変色したのは幕末の絵師金蔵(通称絵金)の屏風で、展示施設「絵金蔵」(高知県香南市)から借り受けたもの。
館は、防虫処理用薬剤について同美術館側の知識不足が原因だったとしている。



文化芸能
正面から幕末を描く気概 佐藤純弥監督「桜田門外ノ変」
 近頃の大河ドラマは随分ヤワになった。権力闘争より愛と友情に、主人公の強さより格好良さに重点を置くようになった。俳優のいでたちは現代的になり、偉人が今どきのイケメンにしか見えない。

 その点、佐藤純弥監督の新作は、幕末の大事件を正面から見据えている。まだオヤジのものであった往年の大河ドラマをほうふつとさせる。

 1860年、大老井伊直弼が江戸城桜田門外で水戸藩士らに襲われて絶命する。井伊の開国政策に対し、水戸藩主だった攘夷(じょうい)派の徳川斉昭の一派が弾圧を受けたためだ。映画は、襲撃に参加した関鉄之介(大沢たかお)を中心に、彼らが井伊殺害を決意する経緯から、次々捕縛されて刑に処せられていくまでを描く。

 しかしまあ古色蒼然(そうぜん)としている。侍はあくまで武骨に。女はあくまで控えめに。一種のアナクロニズムだが、現代的な発想や美意識を排する姿勢には共感を覚える。

 井伊暗殺に呼応して、薩摩藩が3千の兵を京都に送り込む手はずになっていた。ところが薩摩はいくら待っても挙兵しない。その間に暗殺実行者は追いつめられていく。このあたり、歴史のダイナミズムに満ちている。これは時代劇というより歴史劇である。

 ただし、大河ではありえないことをこの映画はやっている。襲撃場面で一面の雪景色におびただしい血が流れる。そして井伊の生首が掲げられる。テレビでは出来ない、映画ならではの場面である。

 茨城県の地域振興を図るための映画だという。確かに水戸藩士の純粋な心は痛いほど伝わる。しかし襲撃現場の鮮血と生首が、事の本質がテロリズムに他ならないことを無言で教える。そこには、地域振興を離れ、正義とテロの密接な関係を問いただす作り手の気概がある。(石飛徳樹)

 16日から全国公開。


コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】(83)東大教授・山内昌之 高杉晋作(下) 主権損なう譲歩許さず
 高杉晋作は彦島を租借地に望んだ外国人の講和要求を断固斥(しりぞ)けたという説がある。司馬遼太郎の『世に棲(す)む日日』で有名になった逸話だ。英国のキューパー提督が賠償に加えて彦島の租借を要求した時、高杉はイザナギとイザナミの2神が日本国を創り、その子たる天照大神(あまてらすおおみかみ)こそ高天原(たかまがはら)を治め、天孫降臨によって世々その子孫が国を統治してきたと歴史神話を説いた。彦島の移譲などもってのほかというわけだ。
 キューパーを煙に巻いた話は、交渉の通訳を務めた伊藤俊輔(のちの博文)の回顧によっている(『伊藤博文伝』上巻、原書房)。高杉の拒絶にあった外国人が租借地要求に固執しなかったのは、どの国が彦島を管理するのかについて、足並みが乱れたからだという。しかし、伊藤の証言する事実は他の史料に見当たらず信憑(しんぴょう)性に疑問符も付ける人も多い。
租借地要求拒絶の信憑性
 とはいえ、彦島の担保(保障)占領という考えが4国の外交代表団にあったのは事実である。下関遠征の賠償金を長州藩に完済させるまで、そして海峡沿岸地が徳川将軍か代理人の所有に帰すまで、担保として占領するという構想にほかならない。公使団が各指揮官に交付した覚書(訓令)には、担保占領を要請する条項が入っていた。
 ところで史上有名な担保占領は、1923年にフランスとベルギーによるドイツの賠償支払い遅滞を理由としたルールの占領であろう。これは24年のドーズ案実施により解除されたが、もし彦島が占領されていれば、期間はルールの場合よりも長期化した可能性が高い。
 キューパーは日本にとって幸いなことに、ともすれば長州藩の完全屈服を狙ったオールコックと違い、手持ちの兵力では長州藩領を「永久には」占領できないと考えるリアリストであった。彼が彦島の担保占領に消極的だった点はサトウの日記や回想録からも知られる。キューパー自身も現有兵力での占領は得策でないと海軍省に報告を送っていた。それでも彼は、4国の一部艦船を残して関門海峡を監視する案を温めており、砲台建設の断念や講和の実現に向けて圧力を慎重にかける強硬策までを断念したわけでない。
香港、上海の現実見通す
 いずれにせよ、高杉晋作が宍戸刑馬と名乗り華々しくキューパーの領土割譲要求を斥(しりぞ)けたという事実は、キューパーやサトウらの証言からは確認されない。かといって、伊藤博文の言説が全否定されるべきだとは言えない。「不都合なこと」を外交記録に留(とど)めない場合もあるのだし、非公式な打診や威嚇を高杉が断乎(だんこ)拒絶した可能性も否定できない。
 高杉は、彦島を譲れば香港島のように英国の植民地になる危険性をよく察知し、下関が九龍のように外国や買弁の商人が跋扈(ばっこ)し独立主権を限りなく奪われることを見通せたからだ。
 なぜなら、高杉は文久2(1862)年に、阿片(あへん)戦争の南京条約で開港した上海の悲惨な現実をつぶさに見る機会があったからだ。彼は、上海が英仏の「属地」のようになり、中国人が頤使(いし)される現実に衝撃を受けていた。「支那人は尽(ことごと)く外国人の便役となり、英法(イギリスとフランス)の人街市を歩行すれば、清人皆避けて傍(かたわら)に道を譲る、実に上海の地は支那に属すと雖(いえど)も、英仏の属地と謂(い)ふもまた可なり」(「遊清五録」より)。日本人も中国を見舞った悲運に陥らないとも限らない。事件の本質は「支那の事にあらざるなり」というのである。
 高杉が第3回談判で強硬策を貫いたのは、あからさまな割譲要求でなくても、藩の主権を損なう領土への野心をキューパーらに感じたからかもしれない。そこで高杉は、藩士のなかには身命を賭(と)すことを意に介さぬ者も多く、士気も衰えていないと逆に4国艦隊の指揮官たちを恫喝(どうかつ)した。
 確かに、要求があまりにも法外ならば長州が屈服するよりも戦うという見立てはサトウの分析でもあった(萩原延壽『遠い崖2 薩英戦争』)。
 中国が今度の尖閣事案で日本を脅迫した手口は、パーマストン首相やオールコック公使の幕末砲艦外交の手口に酷似している。パーマストンは外相として阿片戦争を仕切り、日本を離れたオールコックは中国公使として“活躍”した。中国は自らを植民地化した英国の手口を外交史からよく学び、日本は高杉の勇気ある経験を生きた教訓とする意欲を失って久しい。
 菅直人首相は高杉贔屓(ひいき)を自負しながら、歴史哲学を政治外交の血肉としていない点で、歴史をいつも武器とする中国の攻勢にやすやすと屈してしまったのである。(やまうち まさゆき)






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幕末、特に新選組や旧幕府関係者の歴史を追っかけています。連絡先はmariachi*dream.com(*印を@に置き換えてください)にて。
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