新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
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今日の午後は志の輔らくご♪
北海道
【白老】元陣屋の立役者 三好監物の生涯が漫画に
雑記帳:戊辰戦争の縁「登別・白石カレンダー」
北海道坂本龍馬記念館15日に開館1年
山形
清河八郎生誕180年の節目に完成 庄内・清河神社、善意が支えた屋根改修
福島
会津っぽが温泉街ガイド「アルクべ東山」
茨城
シンポ:「桜田門外の変」映画化が縁 水戸浪士ら子孫14人100年ぶり集結 /茨城
栃木
カメラ8000台、東京へ 閉館した益子の博物館所蔵品
東京
社告:北斎生誕250年特別展 23日まで、長野・小布施で開催中 /東京
神奈川
「写真の開祖・上野彦馬」展:13・14日、産業能率大で /神奈川
新潟
新潟大神宮:会津藩士慰霊碑を修復 建立120年、関係者70人が除幕式 /新潟
京都
龍馬も通った花街、組合解散前に「石畳」整備
町の歴史資料館で幕末・維新激動期の大山崎紹介
京大、竜馬の手紙公開 薩長「両方の志」に配慮
兵庫
みみより情報:展覧会「幕末を翔けぬけた人々」 川西市で28日まで /兵庫
和田岬砲台の金具初公開 築造当時の工法知る貴重な資料 兵庫
幕末の動乱語る 和田岬砲台史料を初公開
岡山
新選組サミット初参加 県内の団体 岡山との縁アピール
福岡
上野彦馬賞フォトコンテスト:あすから作品展 九産大美術館で準備作業 /福岡
佐賀
偉人伝出版を「七賢人しおり」で応援=佐賀県書店組合
コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】(87)東大教授・山内昌之 水野忠徳
【次代への名言】非常の師弟編(30)
北海道
【白老】元陣屋の立役者 三好監物の生涯が漫画に
幕末の白老元陣屋ゆかりの仙台藩士三好監物の生涯が、漫画になった。仙台市で暮らす、やしゃごの三好彰さん(59)が監修した。白老発展の礎を築いた監物の横顔を分かりやすく紹介している。
白老元陣屋は、ロシアの南下政策に対抗する北の警備拠点。幕府の命で仙台藩士が派遣され、三好監物は2代目御備頭(おそなえがしら)を1857年から務めた。当初陣屋は、勇払(苫小牧市)に、との命令を、実地調査を行った監物らの進言で白老に変更された、というエピソードもある。
タイトルは「三好監物物語~仙台藩蝦夷地へ・激動の幕末史」。B6判、42ページ。監物が白老元陣屋に赴任するまでに始まり、前半は、藩士が寒さと食料不足に苦しみながら警護に当たった様子を描いている。後半は帰藩後の監物。信念を貫く言論で大老・井伊直弼の怒りを買い、藩内で少数派の尊皇攘夷論を唱えて命を狙われたこともあった。1868年、54年の生涯を閉じる。自害だった。
三好彰さんは、仙台市内で耳鼻咽喉科クリニックを営む。1988年から毎年、白老を訪れて子供たちの耳鼻科健診を行うなどまちとのかかわりを持ち続けている。「三好監物物語」は、2007年に白老元陣屋資料館に寄贈した医学漫画から抜粋し、編集した。
彰さんは「監物の生涯を多くの町民に知ってもらい、歴史的関係を共有する白老と仙台の友好発展につなげてほしい」と話している。漫画は150部ほど用意し、資料館で無料配布している。問い合わせは仙台藩白老元陣屋資料館 電話0144(85)2666。
雑記帳:戊辰戦争の縁「登別・白石カレンダー」
姉妹都市の宮城県白石市と北海道登別市は、初めて共同で2011年の「登別・白石カレンダー」を作製した。白石は「白石城」、登別は「登別温泉・地獄谷」など自慢の観光名所を紹介している。
戊辰(ぼしん)戦争(1868~69年)で敗北した白石城主が、新天地を求めて北海道に渡り開拓した土地が登別の基礎になったという。登別市が今年1月、「11年は合同で作製しよう」と、白石市に持ち掛けた。
カレンダーは1部1000円。付属のはがきを送ると、抽選で両市の協賛企業提供の特産品が当たるプレゼントも。両市は「歴史的なつながりを大事にし、1年といわず末永く協力したい」。【豊田英夫】
北海道坂本龍馬記念館15日に開館1年
函館西部地区の新観光名所「北海道坂本龍馬記念館」(末広町8)が、15日で開館1年を迎える。これまでの来場者数は6万人を突破。観光客だけでなく、市民にも愛される地域施設に成長した。同記念館の三輪貞治館長(46)は「今までは館の意義を知ってもらう期間。これからはステージアップさせて、社会教育事業や観光振興などにも寄与していきたい」と2年目に向けて力を込める。
現在放送中のNHK大河ドラマ「龍馬伝」の人気や昨今の幕末ブーム、箱館奉行所のオープンなどの相乗効果もあり、連日多くの人たちが詰めかける同記念館。これまでのボランティアスタッフに加え、今年10月からは林洋二理事(50)が札幌から函館へ転居。解説案内などを通して館の運営を支えるなど来場者の受け入れ態勢を手厚くした。さらに、展示品を増やすなど飽きさせない工夫も凝らしている。
三輪館長と林理事はこの1年を振り返り「たくさんの出会いに恵まれた年だった。地元の人たちの温かさにも触れることができた」と話す。今後は感謝の心と龍馬の遺志を伝えようと、子どもたちを対象にした龍馬塾を開き、社会教育や人材育成にも力を入れる。
14日には、開館1周年記念で同記念館向かいに製作された「坂本龍馬像」の除幕式を皮切りに、「龍馬祭」を年末まで開催。多数のイベントも企画中で、同祭を契機により地域に根ざした記念館を目指していく。
同館では、銅像基金賛同者を募集している。詳しくは同館電話0138-24-1115まで。
山形
清河八郎生誕180年の節目に完成 庄内・清河神社、善意が支えた屋根改修
清河神社(正木尚文宮司)=庄内町清川=の、老朽化に伴う屋根改修工事が無事完了した。地域住民が昨年10月に実行委員会(松田広委員長)を設立し、これまで募金活動を展開。神社に祭られている幕末の志士・清河八郎(1830~63年)の全国のファンらも善意を寄せた。7日に竣工(しゅんこう)式典が行われた。
式典には地元住民ら約140人が出席。清河八郎顕彰会の斎藤清会長や松田委員長が「清河生誕180周年の節目の年に屋根を改修することができ、この上ない喜びを感じている」とあいさつ。正木宮司は「神社を後世まで引き継ぐことができるようになった。県内外の協力者に感謝している」と述べた。
実行委によると、清川の住民や清河ファンら延べ618の個人・団体が賛同し、計1173万円の善意を寄せた。総工事費は1135万円。5月に工事に着工し、敷き詰められていた瓦をすべて取り除いて鉄製の鋼板にふき替え、8月に完成した。
地域住民らが出席した竣工式典
清川出身の八郎を祭る同神社は、地元小学生がみこ舞を披露する例大祭(5月)など、住民にとってなじみのイベントが開かれている。1933(昭和8)年の創建以降、改修したことがなく、屋根の腐食による雨漏りが年々悪化、改修が急務となっていた。
福島
会津っぽが温泉街ガイド「アルクべ東山」
「会津っぽと・そぞろ歩き・体感散策ウオーク・いにしえアルクベ東山」が7日、会津若松市東山地区で開かれた。
県内外から参加した約200人が地元のボランティアガイドの案内で歴史のまちを巡り、ウオーキングを楽しんだ。
東山温泉観光協会、いにしえ夢街道協議会、NPO法人会津地域連携センターなどが組織する実行委員会の主催で、県地域づくり総合支援事業の補助金を受けて実施した。
参加者は10班に分かれ、ボランティアガイドの先導で東山温泉旅館共同駐車場をスタート。
東山温泉街を抜けて会津藩主松平家墓所に向かい、新選組隊長近藤勇の墓がある天寧寺や会津藩祖保科正之公の菩提(ぼだい)寺である大龍寺などを訪ねた。
この日の会津若松市は朝方こそ冷え込んだものの、快晴に恵まれ、美しい紅葉が参加者を迎えた。
ボランティアガイドの説明も彩りを添え、歴史ファンや家族連れらは秋の東山路を満喫していた。
茨城
シンポ:「桜田門外の変」映画化が縁 水戸浪士ら子孫14人100年ぶり集結 /茨城
◇ルーツ再確認
幕末の大老暗殺事件「桜田門外の変」に加わった水戸浪士らの子孫14人が10日、水戸市三の丸の県立図書館でのシンポジウムで集結した。事件の映画化を通じ、縁を持った歴史愛好家が呼び掛けて実現。子孫らは自らのルーツを再確認するとともに、事件後途切れていた仲間意識をあたためた。
主催したのは、同事変研究同好会(会長=中村康雄・那珂歴史同好会会長)。三上靖彦・「桜田門外ノ変」映画化支援の会事務局長らが機運作りに奔走していたのに刺激を受け、歴史資料や関係者の調査をする中で、子孫らと知り合った。中村会長によると、事件から50年目の1910年、靖国神社で約500人が参加して記念式典があり、浪士らの子孫も顔を合わせたが、これだけの人数の子孫が集まるのはそれ以来100年ぶり。
シンポジウムでは那珂市歴史民俗資料館の仲田昭一館長が「桜田門外の変と時代背景」という演題で基調講演。水戸藩は徳川家でありながら朝廷と幕府の君臣関係に基づき、朝幕対立の際には朝廷側につくことが光圀公の時代からの家訓だったこと、彦根藩は朝廷監視役としての自負があったこと、幕末は朝廷と幕府の力のバランスが変化していったことなどを説明した。
その後のパネルディスカッションでは三上氏や、井伊直弼公の首を切り落としたとされる薩摩藩浪士の有村次左衛門のひ孫、有村幸三さん(64)=神奈川県茅ケ崎市=も加わり、映画の感想などを語り合った。有村さんは「曽祖父の斬(き)り合いシーンは見ていてゾッとした」と話しながらも、子孫らが集まったことに「いきなり親類が増えたよう」と顔をほころばせていた。【山崎明子】
栃木
カメラ8000台、東京へ 閉館した益子の博物館所蔵品
昨年7月、惜しまれつつ閉館した益子町の「ペンタックスカメラ博物館」の所蔵品が、東京都千代田区の「日本カメラ博物館」に移されていたことが分かった。ファンから「今後どうなるのか」と心配された、貴重なコレクション。新たな場所で命脈を保つことになった。
東京に移されたのは、世界各国のカメラ約8千点と古写真などの蔵書だ。コレクションの中には1860年代に製造され、幕末から明治の写真店に置かれていた大型の木製カメラや、ドイツ・ライカ社の1920年代の貴重品「1(B)」などの名機も含まれる。
ペンタックスカメラ博物館は67年に東京で開館。93年には規模拡大のため、工場がある益子町に移された。運営するHOYAペンタックスは事業縮小にともなって昨年6月に閉鎖を発表し、所蔵品の引受先を探していた。同社や日本カメラ博物館によると、自社製の試作機など一部を除いて、所蔵品は5月までに日本カメラ博物館を運営する「日本カメラ財団」に売却されたという。
日本カメラ博物館は、古今東西のカメラ1万点以上を収蔵する国内最大級のカメラ博物館。ペンタックスコレクションの合流により一部に重複する機種もあるものの、展示内容はより充実することになる。現在、整理が進められており、30日からの特別展「ポラロイド・カメラ展」では一部が展示される予定だという。
日本カメラ博物館学芸員の山本一夫さん(40)は「これだけのコレクションはバラバラになるともう集まらない。絶対に散逸させてはいけない、という思いから引き受けることが決まった」と話している。明治期の木製カメラなどは常設展に組み込まれることが決まっているほか、将来的には「ペンタックス博物館展」として特別展を開くことを検討しているという。(矢吹孝文)
東京
社告:北斎生誕250年特別展 23日まで、長野・小布施で開催中 /東京
江戸中期から幕末にかけて活躍した絵師、葛飾北斎の生誕250年を記念した特別展「『富士と桜』展-画狂人北斎と中島千波の世界」(北斎館主催、毎日新聞社など共催)が、長野県小布施町の北斎館、高井鴻山記念館、おぶせミュージアム・中島千波館の3館で11月23日まで開かれています。「冨嶽三十六景」や「北斎漫画」で知られる北斎が晩年に滞在した小布施に、肉筆、版画、摺物(すりもの)、版本など280点余りが展示されています。
また、特別イベントとして、11月13日(土)午後1時から同町の北斎ホールで、「歴史小説家高橋克彦・日本画家中島千波が語る北斎-江戸と現在」をテーマにした特別対談もあります。
3館の開館時間は午前9時~午後5時。入館は閉館の30分前。入館料は北斎館=大人500円、高校生300円▽鴻山記念館=同300円、150円▽中島千波館=同500円、250円。3館とも中学生以下無料。3館共通の特別展入館券は大人1000円、高校生500円。問い合わせは、北斎館(電話026・247・5206)。
神奈川
「写真の開祖・上野彦馬」展:13・14日、産業能率大で /神奈川
◇坂本龍馬の立位像写真も
日本初の営業写真館を開いた上野彦馬(1838~1904年)のおいが創立した産業能率大の湘南キャンパス(伊勢原市上粕屋)で、館撮影の坂本龍馬らの写真展「産業能率大学と写真の開祖・上野彦馬」が13、14日に開かれる。同大は「激動の時代に思いをはせ、彦馬から続く進取の精神を感じ取ってほしい」と来場を呼びかけている。【井崎憲】
絵師の家に生まれた彦馬はほぼ独学で撮影術を学んだ。幕末の志士やニコライ2世ら外国要人、当時の風俗などを撮影し、横浜の下岡蓮杖(れんじょう)と並んで日本ではカメラマンの祖とされる。1862(文久2)年、長崎に写真館「上野撮影局」を開設。龍馬の肖像写真で最も有名な、懐手に立つポーズの「立位像」もここで撮影された。
彦馬の養育も受けたおいの故・上野陽一氏は東京帝国大を卒業後、米国の科学的管理法を「能率学」と邦訳したマネジメント思想の先駆者で、大学前身の産業能率短大を1950年に設立した。
今年はNHK大河ドラマ「龍馬伝」が放映されており、大学祭のある両日、立位像(複写)の他、当時来日した外国人や風景など大学で収蔵していた彦馬ゆかりの写真約50点を同キャンパス図書館で展示することが決まった。
14日の同キャンパスでは、陽一氏の長男で古写真にも造詣が深い産能大最高顧問・一郎氏が大学と彦馬について講演、彦馬撮影の写真スライドを交えて当時の風俗も解説する。
◇所蔵の50点を展示
同大図書館の関郁夫館長は「ビジネスのイメージが強い大学だが、新しいモノを目指すDNAが受け継がれていることを内外の人に知ってほしい」と話している。
写真展は13日が午前10時半~午後4時、14日は午後5時まで。一郎氏の講演は午後2時半から1号館205号教室で。同教室では、龍馬伝を執筆した脚本家、福田靖さんの講演(14日午後1~2時)もある。いずれも入場無料。問い合わせは同大図書館(0463・92・2218)。
新潟
新潟大神宮:会津藩士慰霊碑を修復 建立120年、関係者70人が除幕式 /新潟
戊辰(ぼしん)戦争(1868~69年)で戦場になった新潟で戦死した会津藩士を弔うため、明治時代に新潟大神宮(新潟市中央区西大畑町)に建てられた慰霊碑が修復され、3日、除幕式が行われた。碑建立から今年は120年の節目に当たり、新潟、福島県会津若松市の関係者約70人が出席し、歴史を語り継いでいくことを誓い合った。
戊辰戦争では東北、越後の諸藩が奥羽越列藩同盟を結び、薩長などと戦い敗れた。慰霊碑は1890(明治23)年、墓も作ることを許されなかった会津藩戦死者を慰霊するため、新潟に移り住んだ会津藩の生き残りが地元の人の協力を得て建立した。「殉節之碑」と名が付けられたが、明治政府の目をおそれ、神社片隅の目立たない場所に建てられた。
長い歳月がたち、碑にひびが入り、碑文の字も見えにくくなったため、新潟市内の有志が寄付を募り、修復事業に取り組んだ。一新された碑は高さ2・2メートルで、境内の見やすい場所に移された。碑文には会津藩が賊軍の汚名を着せられ、明治後も苦難の道を歩んだことが刻まれている。
除幕式には、碑の伝承活動に取り組んでいる新潟市民のほか、菅家一郎・会津若松市長らが出席。120年前の碑建立に尽くした旧会津藩士の子孫という斎藤兵市郎さん(79)=新潟市東区=は「碑は新潟と会津のきずなの象徴。これを機会に市民に広く知ってもらい、交流を深めていきたい」と感慨深げに話した。【小川直樹】
京都
龍馬も通った花街、組合解散前に「石畳」整備
かつて花街として栄えた京都市下京区の島原で、石畳風に舗装された道路が完成した。
坂本龍馬ら幕末の志士が通い、太夫らも華やかに行き交ったが、戦後は衰退。近く解散する「島原貸席お茶屋業組合」が、「風情と文化の薫りを石畳にとどめ、多くの人に散策してほしい」と整備した。
島原は江戸時代初期、遊郭としてでき、中期には与謝蕪村ら文化人による「島原俳壇」が多くの作品を生み出した。幕末には龍馬や新撰組を率いた近藤勇らも訪れ、にぎわったという。
しかし、終戦後に約100軒あったお茶屋は激減し、今では1軒だけになった。解散を決めた組合は、閉鎖した歌舞練場の跡地の売却収入を使って、これまでに「島原大門」の修復や文芸碑の建立などを行ってきた。今回、清算事業の最後に約4500万円で道路を整備することにした。
「角屋もてなしの文化美術館」付近の延長910メートルの路上に、乳白色の加工セメントを薄く塗り、表面を削って四角の切れ込みを入れ、御影石を敷き詰めたような風合いに仕上げた。7日は記念式典を開き、太夫らが通り初めを行う。
(2010年11月13日10時16分 読売新聞)
町の歴史資料館で幕末・維新激動期の大山崎紹介
「幕末・維新期の大山崎」と題した企画展が、京都府大山崎町大山崎の町歴史資料館で開かれている。1864年の「禁門の変」で敗れた長州藩の志士たちが天王山で自決する姿を描いた絵や、町や社寺の被災ぶりを記した文書など約60点が並ぶ。
激動期の大山崎の様子を伝えようと資料館が催した。家々が燃え、兵馬が駆け回り、町人が逃げまどうなど、禁門の変で戦場となった京都の騒乱を克明に書いた絵が展示されている。薩摩、会津両藩と戦った長州藩の真木和泉の肖像画や、真木ら17人の志士が使ったとされる弁当箱、敗走後に17人が天王山で自刃する姿を描いた絵も並んでいる。
さらに、会津藩が大山崎を砲撃した際、観音寺(山崎聖天)の僧が本堂の仏像を池に入れて隠し、柳谷(現長岡京市)を経て逃げる様子を記録した史料や、戦火を逃れて避難した住民に、同藩が戦闘終了後、帰還を呼び掛けた木製の高札も展示されている。
このほか、維新後の廃仏棄釈の影響で、現在の大阪府島本町山崎にあった「西観音寺」が、神社への変更を余儀なくされたという史実も写真などで紹介している。訪れた人々は、激動期の大山崎の様子を思い浮かべながら展示品を眺めていた。28日まで。大人300円、小中生は無料。
京大、竜馬の手紙公開 薩長「両方の志」に配慮
「急成ハかへりて両方の志通しかね候へハ」(急ぐとかえって両方の志が通じかねる)。薩長同盟の橋渡しをした坂本竜馬が関係者にあてた手紙が13日、京都大総合博物館(京都市)の特別展で公開された。21日まで。
同盟成立の約3カ月前に当たる慶応元(1865)年10月に書かれており、同博物館の岩崎奈緒子教授は「大詰めの協議を慎重に進めようとする竜馬の意向がうかがえる」と話している。
手紙は竜馬と長州藩のパイプ役を務めた長府藩(長州の支藩)の藩士印藤聿にあてたもの。「両方より道也義也と論を吹合候よふニなれハ、かへりてがいを生し」(両方が道理だ義だと言い合うようでは障害が生まれる)、「談笑中ニともに宜を求め候よふでなけれハ、とても大成ハなりかたく」(談笑の中で互いに友好を求めるようでなければ大きな成功はない)などとつづっている。
手紙は明治時代の政治家品川弥二郎が、幕末1605件期に活躍した志士らを追悼するため京都につくった「尊攘堂」に収蔵された後、京都大に寄贈された。
兵庫
みみより情報:展覧会「幕末を翔けぬけた人々」 川西市で28日まで /兵庫
◇所蔵資料50点を展示--大阪青山歴史文学博物館
◇幕府の軍艦「開陽丸」の絵や横井小楠自筆「国是十二条」
NHK大河ドラマ「龍馬伝」の舞台にもなっている幕末の動乱の時代に活躍した人々の軌跡を追う展覧会「幕末を翔(か)けぬけた人々」が、川西市長尾町の大阪青山歴史文学博物館で開かれている。
展覧会では、同館が所蔵する資料約50点が展示されている。幕末に徳川幕府の軍艦であった「開陽丸」の絵のほか、坂本龍馬が新しい時代の日本の方針を提案した「船中八策」に大きな影響を与えたと言われる横井小楠の「国是十二条」の自筆原本など、幕末に活躍した人々の肉筆が多数、出展されている。
同館の外観はかつて付近にあった山下城の復元をイメージした城郭建築で、ひときわ異彩を放っている。また、最上階には展望室が作られており、能勢妙見山などの山並みが一望できるという(雨天時は閉室)。
28日まで。入館時間は午前10時から午後4時半まで。月曜は休館。入館料は一般600円、65歳以上500円、大学生400円、高校生300円、中学生以下無料。問い合わせは同館(072・790・3535)。
和田岬砲台の金具初公開 築造当時の工法知る貴重な資料 兵庫
昭和初期以来、約80年ぶりの“平成の大修理”が進む和田岬砲台(神戸市兵庫区)で、内部の木造部分の解体に伴い取り外された建築部材や金具が12月18日、同区の兵庫公会堂で初めて公開される。木造の柱や梁(はり)の結合などに使用された金具類は、築造当時の建築工法を知る貴重な資料。修理後の組み立て工事で再び使用されるため“最初で最後”の公開になる。
建築部材が取り外されたのは築造以来初めて。同砲台は西洋の築城技術を参考に、伝統的な日本の建築工法を駆使して建てられており、当時の最先端の技術が垣間見える。取り外された部材はボルトやナット、釘(くぎ)など数百点で、このうち約50点が公開される。
公開に合わせ、神戸市教委などが12月18日午後1時半から4時まで、兵庫公会堂で歴史講演会を開く。公開後、東京都品川区立品川歴史館学芸員の冨川武史氏による講演がある。
同砲台は幕末に、外国艦船の来襲に備えて、軍艦奉行の勝海舟が築造した。三菱重工業神戸造船所の敷地内にあり、同社が所有している。大正10年に県下の第1号史跡に指定された。今回の大がかりな解体修理は平成24年度末に終了する予定。
講演会、公開(午後1時~2時半)とも無料だが、講演会は往復はがきによる申し込みが必要。申し込み締め切りは11月19日。定員は200人で超えた場合は抽選する。問い合わせは兵庫区まちづくり課((電)078・511・2111)。
幕末の動乱語る 和田岬砲台史料を初公開
外国船が日本沖に姿を現し始めた幕末期、勝海舟の提言を受けて江戸幕府が造った要塞(よう・さい)「和田岬砲台」(神戸市兵庫区)の建築部材や金具類が12月18日、神戸市兵庫区の兵庫公会堂で初公開される。最新の西洋技術を模倣して苦労しながら造った跡がうかがえる貴重な史料だ。(日比野容子)
和田岬砲台は、大阪湾岸の警備のため築造された四つの要塞のうちの一つ。夙川の河口にある西宮砲台も現存しているが、砲台内部が当時の姿のまま残っているのは和田岬砲台だけで、県第1号の国史跡に指定されている。
勝海舟が「神戸海軍操練所」を創設した1864年に完成。市教委文化財課は「海舟の弟子だった坂本龍馬も足を踏み入れたに違いない」と推測する。函館・五稜郭のような星形土塁に囲まれた円筒形の砲台外郭部は、花崗岩(か・こう・がん)製。2階建ての2階部分に大砲発射用の11の窓を備えるが、4年後の神戸開港で必要性が薄れ、使われることはなかった。
砲台の解体修理事業は、所有者の三菱重工が文化庁、県、神戸市の補助金を受けて2007年度から始まった。砲台内の柱や梁(はり)がシロアリや浸水によって腐食が進んだためで、来年度から老朽化した部材を入れ替えて組み立て直す。総事業費は約5億6千万円で、2013年3月に終わる予定だ。
今回展示するのは約50点。中でも興味深いのは、築造以来外されたことのないクギ、ネジ、ボルトなど、木と木を組み合わせて固定するのに使った金具類だ。神戸大大学院工学研究科の足立裕司教授(近代建築史)は「日本古来の木組み技術で建造することが可能だったにもかかわらず、当時最新と考えられていた西洋技術を何とか採り入れようとした跡が読み取れる重要な史料」と指摘する。
当日は午後1時~同2時半の公開に合わせて午後1時半~同4時、修理工事についての報告と東京都品川区立品川歴史館学芸員の冨川武史さんが砲台築造の歴史的背景に迫る講演「江戸湾防備から摂海防備へ~品川御台場から見た和田岬砲台~」をする。
講演の聴講には申し込みが必要。往復はがきに住所、氏名、電話番号を書き、今月19日必着で、〒652・8570 兵庫区まちづくり課「砲台講演会」係まで申し込む。詳しくは同課(078・511・2111内線214)、または市教委文化財課(078・322・5799)へ。
岡山
新選組サミット初参加 県内の団体 岡山との縁アピール
県内の新選組ファン、隊士の子孫らでつくる「岡山新選組準備会」が13、14日に京都市で開催される「第11回全国新選組サミット」に初めて参加する。隊士にふんした参加者が京の町を練り歩くパレードにも加わる予定で、会員は「岡山が新選組との縁が深いことをPRしたい」と楽しみにしている。
同準備会は、今年4月に発足。現在、会員は10~80代の男女28人で、定期的に会合を持つなど新選組について学んでいる。
サミットは、新選組にちなんだまちづくりを進めようと、京都市、福島県会津若松市などゆかりの地で毎年開催。今回は全国の愛好者グループなどから100人以上が参加。パレードのほか、各団体の活動発表、史跡見学、専門家の講演などが予定されている。
同準備会は、20人以上の隊士を送り出したという岡山と新選組のかかわりをアピールするとともに、他地域のファンと交流を深めようと参加を決めた。
同準備会は会員を募集中。問い合わせは、同準備会ホームページ(http://okayamashinsengumi.web.fc2.com)。
福岡
上野彦馬賞フォトコンテスト:あすから作品展 九産大美術館で準備作業 /福岡
第11回上野彦馬賞九州産業大学フォトコンテスト(同大、毎日新聞社主催)の作品展が13日から東区の同大美術館で始まるのを前に、搬入作業が11日から始まった。作品展は28日まで。入場無料。
計2574点の応募作から選ばれた一般部門29点、高校生・中学生部門75点の入賞作を展示。最高賞の上野彦馬賞を受賞した九州産業大1年、知念愛佑美さん=福岡市=の「祖母の日課」(カラー5枚組み)や、ジュニア大賞の八代白百合学園高3年、中西彩さん=熊本県八代市=の「猛暑日」など、若手写真家たちの感性が光る作品がそろった。
また、企画展として、上野彦馬が活躍した幕末~明治期に撮影された写真展も同時開催。萩博物館(山口県萩市)が所蔵する高杉晋作や伊藤博文の肖像写真など50点が展示される。【徳野仁子】
〔福岡都市圏版〕
佐賀
偉人伝出版を「七賢人しおり」で応援=佐賀県書店組合
佐賀県教育委員会が「佐賀偉人伝」シリーズを11月から順次出版することを受け、佐賀県書店商業組合が「佐賀七賢人しおり」を作成し た。幕末・明治期の県出身者7人、1枚で1人ずつ紹介するもので、偉人伝をPR。県内の書店で無料でもらえる。
しおりは計7万枚作成。大隈重信や佐野常民ら「佐賀の七賢人」それぞれの写真が載っているほか、経歴や功績などを簡単に紹介してい る。組合に加盟している約60店舗で希望者に無料配布される。
同組合は「ふるさとの偉人は名前は知っていても中身は忘れがち。幕末明治の偉人に改めて関心を持ってもらいたい」(岩永藤房理事長) と説明。「今年は国民読書年ということもあり企画した」という。
佐賀偉人伝は、幕末・明治期に活躍した県出身者を紹介するシリーズ。「鍋島直正」が11月に出版されるのを皮切りに、5年間で七賢人を含 む15人程度を対 象に15冊程度が出版される。郷土教育や観光に活用されるほか、「九州・山口の近代化産業遺産群」の世界遺産登録に向け県民意識の高揚を 図る目的もある。【もぎたて便】
(2010/11/10-09:00)
コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】(87)東大教授・山内昌之 水野忠徳
■「屏風外相」の見識と胆力
いつの時代でも閣老や首相には、肝心の政策について関係者の質問にきちんと答えられない者がいる。
幕末の老中でいえば、米国公使ハリスの金銀貨幣の品位量目に関する問いに窮した間部詮勝(まなべ・あきかつ)の例が想い起こされる。返答につまった間部は、日本では大名たる者、金銀の事情に通じる必要もなく、幕府では勘定奉行、藩には家老がいて処理するので、ここにいる勘定奉行に聞いてくれと珍答を返した。さしものハリスも、日本では財政金融の根本原理を知らないで総理が務まるのかと絶句したというのだ。
折から出張中のオマーンで菅直人首相の表情をNHKで観たが、その生気の無さに愕然(がくぜん)とした。菅首相を間部と比較するのは、平成の日本人にとって辛(つら)いことである。
しかし、首相が国会答弁や記者会見で見せる自信なげな表情に接すると切なくなる。予算委員会で答弁する仙谷由人官房長官の迫力と存在感が増すのも致し方ない。首相の発言が不安な今日、政権維持のために官房長官が前面に出る機会も増えるのは仕方がないからだ。
◆最後まで戦い抜いた生涯
幕末でも閣老が外国公使と交渉する時には、とても素人の老中に任せられないので、「屏風(びょうぶ)」の後に隠れて談判の要領をふきこむ黒衣(くろこ)めいた顧問格もいた。「屏風水野」の異名で知られる水野忠徳こと痴雲(ちうん)である。水野は、鎖国の不可を悟った最初の幕府官僚であるが、改革を唱えながらも軽挙妄動を排した穏健慎重な面をもっていた。
しかし、その保守的合理主義は剛直な胆力に支えられている。修好通商条約で神奈川開港を約しながら横浜を選定して外国から抗議を受けた時も、居留民の安全や貿易の利便から横浜が勝るとかわしたのも水野である。また、金銀貨の同種同量交換を公平に解決しようと苦労したのも彼にほかならない。しかも時に屏風の後から表へ姿を現す水野の凄(すご)みは胆力や度胸も並でない点にあった。
文久3(1863)年の老中小笠原長行(ながみち)の率兵入京の戦略を描いたのは水野忠徳らしく、この武力クーデターによって一挙に尊皇攘夷(じょうい)派を朝廷や京から一掃しようとした。ひょっとして念頭には、北条義時が後鳥羽上皇らを廃した承久の変の先例もあったのかもしれない。将軍家茂(いえもち)の命によって水野らの野心的な計画は挫折し、幕威の衰微はますます明らかになるが、謹慎処分を受けた彼はこれで屈しなかった。鳥羽伏見の戦いに負けても、水野は江戸城の評定(ひょうじょう)で徹底抗戦を主張した。将軍慶喜(よしのぶ)の恭順を機に隠居し武蔵布田宿(ふだしゅく)に移住した水野は、まもなく慶応4(1868)年7月に絶命した。まさしく、憤死したというべきであろう。
◆苦しい中でも国土守る
水野は日本の政治外交の基礎になる多くの仕事を果たした。長崎奉行としてオランダから軍艦を購入し、海軍伝習所の開設など日本海軍の礎をつくったのも水野である。特筆すべきは、ペリー来航で米英2国が領有の野心を抱いた小笠原諸島への侵略を阻止するために、島へわざわざ渡航し日本の領土権を宣言したのだ。
幕府が苦しい時世でも、琉球(沖縄)や蝦夷地(北海道)の国境を守るべきだという水野の主張について、属僚として働いた福地源一郎(桜痴(おうち))はこう語る。「これを忽(ゆるが)せに附し去るべからずと切論し外国のために我国の版図を侵略せらるるの恐れありと痛議したるは、数回に止(とどま)らざりけり」(『幕末政治家』)
すでに屏風の後から姿を現して政権の主役となった感のある仙谷官房長官には、小笠原について「日本の版図たる事を分明に定めたり」と評価された水野の見識に倣(なら)いながら、中国に過剰な敬語を使わず豪胆に尖閣問題などの難局を打開してほしいものだ。(やまうち まさゆき)
◇
【プロフィル】水野忠徳
みずの・ただのり 文化7(1810)年または12年生まれ。禄高500石の旗本だったが、老中阿部正弘の抜擢(ばってき)を受けて嘉永5(1852)年に浦賀奉行。長崎奉行、外国奉行なども歴任し、各国との条約交渉など外交の一線に立った。公武合体策に反対したが容(い)れられず、文久2(1862)年に隠居し、痴雲と号した。その後も、尊皇攘夷派の打倒と幕府の権威回復に奔走したが挫折。慶応4(1868)年、幕府崩壊後ほどなく没した。
【次代への名言】非常の師弟編(30)
■「思想が時代に先立つ者は、守旧派から阻害されることになる。しかし、先立つ者がいなければ、後生はどうして覚醒(かくせい)できるのか」(勝海舟)
幕末・維新期における幕臣の雄、勝海舟は、洋学者・佐久間象山の門弟の一人である。また、勝の妹、順子が象山の正妻に迎えられたから、干支(えと)でひと回り年下ながら、勝は象山の義兄にあたる。
「いかにもおれは天下の師だというように、厳然と構えこんで、漢学者が来ると洋学をもって威(おど)しつけ、洋学者が来ると漢学をもって威しつけ、ちょっと書生が訪ねて来ても、じきに叱(しか)り飛ばすという風でどうも始末にいけなかったよ」
勝の象山評だ。身内をほめることに対する江戸っ子特有の“照れ”があると思う。というのも、象山の遭難を「国家のため、痛憤胸間に満つ」と嘆き、象山の主著『省●録(せいけんろく)』が明治になって出版されたとき、費用を工面し、冒頭の序文をつづって追悼したのが勝だったからだ。
「自分は人の知りえないことを知り、人のできないことができる。この天恵を自分のためだけに用い、天下のために用いなければ、天に背くその罪は重い」
『省●録』の一節。確かに自信家である。しかし、報いられることが少なかったにもかかわらず、彼が一心に、その非常の才のすべてを危機にあった国を救うためにささげたことも事実である。
まな弟子の吉田松陰が至誠の人なら、象山は覇気の人だった。そしてこの師弟はともに、時代にさきがけたがために、ついに維新を目にすることはなかった。(文化部編集委員 関厚夫)
●=侃の下に言
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