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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
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 ちょっと早めに目を覚ましました。仕事用のiPHONEに上司からのメールが沢山入ってて苦笑い。どこかで作業しないとな(^_^;)。
北海道 「坂本龍馬像」除幕式に600人
 北海道坂本龍馬記念館(函館市末広町8)の開館1周年を記念し、同館向かいに建立された「坂本龍馬像」の除幕式が14日、開かれた。関係者ら約600人が出席し、幕末志士の開拓精神が表現された銅像の完成を祝った。  坂本家9代目当主坂本登さん(73)が実行委員長を務める「函館に坂本龍馬像を建てる会」が建立計画を具体化。長崎市の龍馬像を手掛けた彫刻家の山崎和國さん(75)が製作した。1700万円の建設費用のすべては市民らからの募金でまかなわれた。  像の高さは台座部分が2・5メートル、銅像部分が3・5メートルの計6メートル。「たとえ一人でも開拓を…」という強い精神を天高く指す右手で表現し、左手には国際法律書「万国公法」を持ち、常に先を見据えて行動した龍馬を象徴するデザイン。  除幕式では、修拔(ばつ)式の後、来賓ら11人が像の除幕を行い、姿が現れると大きな拍手が起こった。制作と像を寄贈した山崎さんには、三輪貞治同館長らから感謝状が贈られた。函館青柳小、函館潮見中、函館西高校それぞれの吹奏学部が「龍馬伝のテーマ」などを披露し、式を盛り上げた。  坂本さんは「蝦夷地開拓は成し遂げられなかったが、龍馬の像がゆかりの地、函館に建立されたことはとてもうれしい。函館の新たなシンボルになってくれれば」と話していた。
福島 九州大に山川健次郎の胸像贈る/会津若松市
九州帝大として設立され来年創立100周年を迎える九州大に、会津若松市は会津藩出身で同大初代総長の山川健次郎の胸像を贈る。 同大と連携協力協定も結び、24日、市役所で胸像贈呈式と協定調印式が行われる。 胸像は健次郎生誕150周年の平成16年に山川健次郎顕彰会(高木厚保会長)が作った3体のうちの1体で市に寄贈された。 ブロンズ製の高さ70cm、肩幅65cm、重さ48kg。 ほかの2体は會津藩校日新館と会津高にある。 大学から胸像を譲り受けたいという要望が市に寄せられていた。 高木会長は「もろ手を挙げて賛成した。 九州大で会津の人材を育成してもらえればうれしい」と喜ぶ。 協定は教育活動や文化活動などでの連携を目指す。 市が大学と協定を結ぶのは会津大、福島大に次いで3校目。 贈呈・調印式には九州大の有川節夫総長が出席する。 健次郎は幕末の会津に生まれ、明治時代に米エール大に留学。 東京帝大や京都帝大の総長などを歴任した。
会津藩出身の物理学者 山川健次郎の胸像を九州大へ寄贈
 幕末の会津藩に生まれ、東京帝大総長などを歴任した物理学者山川健次郎(1854~1931年)の胸像が、福島県会津若松市から初代総長を務めた九州大に贈られることになった。来年、創立100周年を迎える九大のたっての希望で実現した。寄贈をきっかけに市と九大は今後、人材育成などで連携を強める。  胸像は生誕150年の2004年、山川健次郎顕彰会(高木厚保会長)が全国から寄付を募り、彫刻家小堤良一さんが制作した。ブロンズ製で、高さ70センチ、肩幅65センチ、重さ48キロ。3体が作られ、市内の「会津藩校・日新館」と会津高、市に贈られた。  市によると、今年7月、山川が1911~13年に総長を務めた九大から「大学の歴史の象徴として、初代総長の胸像を設置したい」と申し出があり、顕彰会などと協議して譲ることを決めた。胸像は来年5月13日、九大が移転統合を進めている伊都キャンパス(福岡市西区)に建てられる。  胸像贈呈を機に、会津若松市と九大は人材育成や文化、教育活動などで連携協力協定を結ぶ。24日に九大の有川節夫総長らが訪れ、胸像の贈呈と協定の調印式が行われる。  山川は会津藩士の家に生まれ、戊辰戦争(1868~69年)当時は白虎隊の隊士だった。明治に入って米国に留学し、エール大で物理学を学んだ。東京帝大理学部で後進の育成に力を尽くし、東京、京都両帝大の総長などを歴任した。  顕彰会の高木会長は「胸像がゆかりの地に行くのをきっかけに、会津若松市と九大が強いきずなで結ばれてほしい」と期待している。
滋賀 京極氏第7代の菩提寺か
米原・能仁寺遺跡 守護大名貴重な資料  県文化財保護協会は19日、米原市清滝の能仁寺(のうにんじ)遺跡で、室町時代の守護大名・京極氏の第7代高詮(たかのり)(1352~1401)の菩提(ぼだい)寺とみられる15世紀の寺院跡が見つかった、と発表した。中世に建てられた守護大名の菩提寺は少なく、同協会では「領地を強力に支配した守護大名と菩提寺とのかかわりがわかる資料」としている。  京極氏代々の墓がある清滝寺(きよたきでら)徳源院(とくげんいん)の南隣約3900平方メートルで、仏堂の基壇とみられる区画(南北12・5メートル、東西14メートル程度)や石垣(長さ14メートル)のほか、参道(同17メートル)、山門の跡とみられる礎石が確認された。  高詮の戒名に「能仁寺」が含まれることなどから、室町幕府の重鎮だった高詮の菩提寺だったとみられる。  鎌倉時代の守護が領地に根付いた、室町時代の守護大名の菩提寺は不明な部分が多かった。京都大大学院工学研究科の山岸常人准教授(建築史)は「中世寺院の実態や守護大名の墓所との関係がうかがえる」としている。  JR東海道線柏原(かしわばら)駅の西約1・3キロで、現地説明会は23日午後1時半。問い合わせは同協会(077・548・9780)。 <京極氏>  室町時代から江戸時代まで続いた数少ない守護大名。源氏の一派で平安後期から近江地方に勢力を持ち、鎌倉時代に京極、六角など4家に分裂。室町幕府成立に尽くし、高詮の代に幕府の重鎮となった。応仁の乱(1467~77)の後は家臣・浅井家の台頭などで衰退したが、その後も徳川家に仕えるなどして幕末まで続いた。

京都
【旬 People】花街文化の再興に挑み10年
★京都・島原「輪違屋」司太夫(つかさだゆう)

「いまにも消えそうな京の伝統の灯に、もういちど命を吹き込み通した。ウチらの時代に消してしもたら、あの寛永の名妓(2代目)吉野太夫に、申し訳のおす」
幕末には新選組も愛した、かつての京の花街・島原。時代の変遷で、現在、置き屋兼揚(あげ)屋としてただ1軒残る「輪違(わちがい)屋」の太夫。10年前、太夫の雅称にちなむ「こったいの会」を発足させ、手作りの新聞発行などを通じて花街文化を広く一般に紹介してきた。
節分の日に仮装で寺社参りをし、厄をはらう町衆の風俗「おばけ」や、年末の餅つき会(え)など、伝統行事の再興、復活に次々と挑んできた。餅つき会は今年12月23日、ホテル日航プリンセス京都での開催で復活10周年を迎える。
「試行錯誤の連続で、失敗して泣いたこともおしたけど、いろんなお方に支えられて、幸せどした」
浅田次郎の小説「輪違屋糸里」では、浅田氏の取材にも協力。作中に登場する主人公・糸里の親友、吉栄のモデルとされている。
1962年、京都市山科区生まれ。幼いころから日舞など芸事が好きで、中学卒業と同時に、つてを頼って祇園甲部に飛び込み、舞妓に。
多芸と持ち前の華やかさで人気を集めたが、6年間の年季明け後は芸妓にならず結婚の道を選んだ。しかし、たまたま同時期に輪違屋の太夫の1人が引退したことからスカウトを受け、以後は家庭生活を営みつつ、島原で活躍してきた。
島原太夫は、江戸・吉原の花魁(おいらん)がその様式を模倣したために混同されやすいが、多彩な芸事の腕や高い教養を持つ芸妓で、かつては正5位10万石の格式を誇った。
「先日、ごひいきさんが急逝しはったんどすが、生前の約束もあり、その方のお嬢さんの結婚式で、神戸で初めてとなる太夫道中を披露させていただきましたんどす。ご家族ぐるみで親しんでいただけて、ありがたいことどす」
12月の餅つき会では、1人娘の朱伽(あやか)さん(23)も、振り袖(見習い)太夫として道中などの行事を彩る。
「どうぞ京の島原の文化に触れてみておくれやす」
餅つき会の問い合わせは司太夫(電075・541・8898)へ。(吉村剛史)

孝明天皇愛用の品も 宝鏡寺で秋の人形展
 人形の寺で知られる宝鏡寺(京都市上京区)で「秋の人形展」が開かれている。皇室ゆかりの御所人形などが並び、観光客がみやびな雰囲気の中で鑑賞を楽しんでいる。  百々御所とも称される宝鏡寺は、歴代皇女が愛用した人形や品を多数所蔵しており、1957年から春と秋にテーマを設けた特別展を実施している。  今回は「幕末・宮廷女性の美」とし、孝明天皇が所有していた御所人形をはじめ、宮内庁が所有する能人形「松風」(20日まで)を紹介した。  エピソードとともに一般から公募した人形を紹介する「思い出の人形展」も初めて企画した。寺宝では、和宮が愛用した蒔絵(まきえ)を施した文箱などが注目を集めていた。幕末に記された寺の日記も閲覧できる。30日まで(午前10時~午後4時)。有料。
大阪府 国史跡に楠葉台場 京都護衛へ幕府築造
 国の文化審議会は19日、幕末当時の軍事施設の姿を残す楠葉(くずは)台場跡(枚方市)を、新たに国の史跡にするよう文部科学大臣に答申した。  府教委によると、楠葉台場は、江戸幕府が京都の護衛のために淀川左岸に築造した砲台場と関門施設。慶応元(1865)年に竣工(しゅんこう)した。  築造の背景には、尊王攘夷(じょうい)派や長州藩への対策として、京都への侵入を取り締まろうとする幕府側の意図があったとみられている。戊辰(ぼしん)戦争の舞台にもなった。  西洋式の要塞(ようさい)として砲座を設け、関門施設として京街道を台場の中に取り込んでいる構造が発掘調査で確認されており、京都を中心に展開した幕末の緊迫した状況を理解する上で重要とされる。府内にあったとみられる台場として唯一、土塁や堀などが当時の姿をとどめているという。  答申ではほかに、金剛寺境内(河内長野市)や安満遺跡(高槻市)など3件の府内の国指定史跡をめぐり、新たに指定の要件が整った部分などを追加指定するよう求めた。  府内の国指定史跡は、特別史跡2件、史跡67件になる。
なにわ人物伝 -光彩を放つ- 造幣局の人たち(2)
日本初の西洋式建築造幣局 新政府の威信かけ建設 竣工した造幣寮(局)=造幣局提供 三善 貞司  明治2(1869)年4月、造幣頭(かみ)井上馨と同判事久世治作は、明治新政府の威信をかけて造幣局(大阪市北区天満1丁目)の建設工事に取り掛かった。  責任技師は煉瓦(れんが)建築のベテラン、ウオートルス(東京銀座の赤煉瓦街や大阪の泉布観(せんぷかん)を建造)で、彼はイギリスから煉瓦を取り寄せ、堺に炉を開いて製造させる。ところが人手が足らぬ。第一西洋建築に不慣れな左官や大工たちは、おろおろしてなかなかはかどらず、おまけに同年11月仮鍛冶場(かじば)から出火し、土木司(つかさ)・鉄山司など工事を指揮する大事な役所が全焼した。このとき猛火の中に飛び込み、重要な文書類を運び出したのが、幕末の三剣豪のひとり斎藤弥九郎(本連載356回参照)である。全身に大やけどを負い、これが原因で死亡した老剣豪の活躍がなかったら、造幣局建設は画餅(がべい)に帰していたかもしれない。  不運はまだ重なる。建築資材を失った馨はイギリスに援助を求め、なんとか買い付けたが、これを積んだ汽船が香港沖で沈没、さすがの馨も火事と合わせて責任を取り辞職、後任に井上勝(まさる)(野村弥吉)が選ばれた。勝は長州藩士だが脱藩して馨や伊藤博文らとロンドンに渡り、鉱山開削や鉄道敷設工事を研究した優秀な技術家である(後に大阪に汽車製造会社を設立した運輸・交通畑の恩人)。  勝は技師長に英国人キンドルを招き、大阪中の石工を集めて再開に着手。昼夜兼行の突貫工事で、同年2月、日本初の西洋式建築造幣局が竣工(しゅんこう)する。総工費55万両。同月15日の祝賀式には右大臣三条実美や大隈重信、イギリス、フランスの公使をはじめ、内外の高官三百数十人が並び、神戸や横浜から集めた外国人コックが腕を競い、1人前15円也もの超高価料理が卓にあふれ、久世治作お手製の花火がポンポン上がり、側(そば)を流れる大川を彩って、誰もが夢心地になったという。  治作といえば前回紹介したように、貨幣の形について正方形や矩形(くけい)がいいと議論百出するなか、円形に定めた技師だが、貨幣第1号の高級品20円金貨のデザインを担当したのが、天才彫金師(ちょうきんし)加納夏雄である。治作が異論を封じるため、「西洋の貨幣は全部円形で、元首や偉人の肖像が刻まれている。人の顔は丸い。円形ならぴったりだ」と主張したのが賛意を集める。しかし日本なら元首は天皇だ。明治天皇がいいと誰かが言うと、「このバカ、そんな恐れ多いことができるか」と再びもめだした。そのとき治作は「陛下のお顔を竜顔と申します。竜の図柄ならいかがでしょう」と知恵を出したから、たちまち拍手となる。  この竜のデザインを考案したのが夏雄だ。彼は文政11(28)年京都に生まれた。幼名治三郎。森田節斎に漢学を、丸山派の画人中島来章に絵画を学んで成育する。生来指先が器用で、来章からお前は絵より彫金に向いていると勧められ、大月派の池田孝寿に師事。25歳で早くも一家をなし、明治2年治作に造幣局技師にほしいと懇望された。少年期に教わった森田節斎は、勤皇攘夷(じょうい)思想の濃い学者だ。当然その影響はある。治作から「造幣局はすべて西洋人が牛耳っておる。科学ではかなわぬが、自分は優秀な日本の伝統芸術を貨幣製造に生かしたい。そのためにはキミが必要だ。な、外国人に負けてたまるものか」と口説かれて感激、入局した気骨のある男だ。ときに41歳。  治作の依頼を受けた夏雄はさっそく水垢離(みずごり)をとって心身を浄(きよ)め、数十枚のデッサンを作る。治作がみんなで相談するから候補の数枚を見せろと求めると、言下に断った。「気の散ることは嫌です。人の意見などぜったいに聞きません。1枚だけ作ります」  それからの彼は寝食忘れ、3カ月もぶっとおしで作業場に籠(こも)った。 (地域史研究者)
江戸・岸和田藩製の火縄銃発見
 江戸幕末期に当時の岸和田藩(大阪府岸和田市など)で作製されたとみられる火縄銃1丁が見つかり、大阪市の郷土史研究グループが18日、発表した。同藩製の火縄銃の発見は初めてという。  大阪市東成区で「堺鉄砲研究会」を主宰する澤田平さん(75)が昨年8月、同区内の男性の祖父が収集した骨(こっ)董(とう)品(ひん)を調査し、火縄銃を見つけた。  長さ105センチ、重さ約2キロ。形状などから江戸後期とみられ、銃身に「泉岸住 佐藤義定作」と職人の銘があった。「泉岸住」は和泉・岸和田藩の意味。  銃身の鉄は丁寧に鍛えられ、銃床には木目のそろった材木を使用。暴発を防ぐ機構も綿密に作られていた。当時、鉄砲鍛冶で日本一の生産量・品質を誇った堺の影響を受けているとみられる。  義定は明治元年、藩に納めた洋式銃が粗悪品だったとして鉄砲隊に殺害されたという説があり、澤田さんは「この火縄銃の質の高い仕上がりからみて、義定は何らかの誤解で殺されてしまったのではないか」と話している。

奈良
「城まつり」控え企画展 土佐勤王党と天誅組を解説 奈良・高取
 高取町で23日に開催される「たかとり城まつり」にちなんだ「土佐勤王党と天誅組(てんちゅうぐみ)」展が20日、同町の土佐街道にある「街の駅城跡」で始まった。23日まで。
尊皇攘夷を掲げて幕末の奈良で挙兵した天誅組の乱は高取城も重要な舞台。展示では、土佐藩士の武市半平太が結成した土佐勤王党との関係から天誅組について解説している。
天誅組三総裁の藤本鉄石自筆の山水画や高取城の復元CGのほか、司馬遼太郎の短編小説「おお、大砲」で知られる高取藩士が天誅組を迎え撃った大砲の複製品も展示している。
展示を担当した天誅組研究家の草村克彦さんは「攻められる側の高取城から見た天誅組を楽しんでほしい」と話している。

広島 三原の江戸末期「舩木氏庭園」 登録記念物に答申 文化審、県内第1号へ 広島
 国の文化審議会は19日、三原市西町の「舩木(ふなき)氏庭園」を登録記念物とするよう文部科学大臣に答申した。江戸時代末期に造られた豪商の庭園で、正式に登録されると、県内での登録記念物第1号となる。  庭園は、江戸時代末期~大正・昭和初期にかけて、酒造業などで財を成した川口氏の別邸で、昭和2年に現在の舩木氏の所有となった。  約1900平方メートルの敷地に、茶室のある数寄屋(すきや)建築の母屋、物見櫓(やぐら)など3棟の建物と、その背景に築山(つきやま)がある。庭には飛び石や石段、井戸、手水鉢(ちょうずばち)、燈籠(とうろう)などを複雑に配置。カシ、松、ツバキなど約50種類もの樹木が植えられ、景観は多彩で変化に富んでいる。  築山は背面を2段の石垣で積み上げ、高さは3メートルに及ぶ大規模なもの。また、飛び石の高さが10~13センチと高いのも特徴という。  5畳の茶室は、幕末~明治に竹原などで活躍した茶人・不二庵の遺作とされる。物見櫓は庭園を眺めるため造られたもので、床面には花文の敷瓦による装飾が施されている。  建物、庭とも江戸時代末期の安政年間(1855~60)に造られ、以降、順次改築されたとみられる。  所有者の不動産管理会社社長、舩木和子さん(80)は、雑草をピンセットで抜くなど60年近くにわたり、苦労して庭園の管理に努めてきたという。「先祖から受け継いできたものを一生懸命守ってきました。次の世代へ伝え、末永く続いてくれたら」と話した。
長州福山和平で23日に解説会
 広島県立歴史博物館(福山市西町)は23日、展示中の長州藩と福山藩の和平交渉の記録について特別解説会を開く。入館者の関心が高く、「幕末の動乱と瀬戸内海」(中国新聞備後本社共催)の最終日に急きょ企画した。  西村直城主任学芸員が午前11時と午後3時の2回行う。古文書は縦23・5センチ、長さ231・9センチ。1868年の鳥羽・伏見の戦いで圧勝した新政府軍の長州藩が譜代大名の福山藩を攻撃した際、両藩が交わしたやりとりを生々しく記している。  入館料が必要。20、21、23日は交渉記録の現代語訳を無料配布する。22日は休館。
山口 唐樋札場跡 国史跡に/萩市
◆萩往還 起点を追加指定   萩往還の萩側の起点となる萩市東田町の「唐樋札場跡(からひふだばあと)」(広さ約404平方メートル)が、すでに国史跡となっている萩往還分に追加指定されることになった。国の文化審議会が19日、文部科学大臣に答申した。 (井口勝夫)   唐樋札場跡は、萩三角州のほぼ中央に位置し、萩往還や赤間関(あかまがせき)街道、石州(せきしゅう)街道などの起点であり、防長両国の一里塚の基点でもあった。多くの人が集まることから、幕府や藩の掟(おきて)を記した高札(こうさつ)を掲げる高札場が設置されていた。その後、跡地に商業施設などができていたが、施設の老朽化に伴って萩市は2006年度から周辺の整備を始め、発掘調査で高札場の敷地や柱穴などの関連遺構を確認。今年4月には当時の高札場も復元した。   萩往還は、萩市から山口市を経て防府市三田尻に至る全長約53キロの街道。関ケ原の戦いに敗れて周防・長門の2カ国に減封された毛利氏が、1604(慶長9)年、萩の地に新たな居城を構え始め、これに伴って萩往還は萩と山陽道を結ぶ幹線道路として整備された。参勤交代路(お成り道)として使われ、幕末の志士たちも往来し、歴史上、重要な役割を果たした。   現在も石畳や一里塚などの遺構が残り、街道沿いに多くの歴史遺産や古い街並みの姿をとどめている。萩往還の古道約9・2キロと涙松跡や駕籠建場(かごたてば)跡、終点(防府側の起点)の「三田尻御茶屋(おちゃや)」など3市にまたがる総計約4万679平方メートルが、1989年に国史跡となり、ウオーキングや観光などに利用されている。
幕末長府ヒーローズ 龍馬や松陰役が決定
 幕末維新史の舞台となった下関市長府地区の魅力を、幕末の志士にふんしてPRする「幕末長府ヒーローズ」の坂本龍馬や吉田松陰役が決まった。20日に同市長府川端の功山寺で開かれるミュージカルでデビューし、様々な機会を通して長府の情報を発信していく。  20、21日に長府地区で開かれるまちおこしイベント「幕末長府・志士たちの夢祭」の一環として、実行委員会が一般公募。演出する下関市民ミュージカルの会の伊藤寿真男代表らが応募者からメンバーを選び、配役を決めた。  配役は、松陰が会社員大西猛さん(39)、中岡慎太郎が専門学校生児玉健志さん(24)、龍馬が会社員宮本真一さん(39)。市嘱託職員菊川裕美さん(29)と会社員山本裕子さん(21)は奇兵隊士を務める。  デビューする「幕末長府night in功山寺」では、市民ミュージカルのメンバーが高杉晋作、三吉慎蔵などとして加わり、計16人で奇兵隊決起、薩長同盟成立など激動の幕末史を歌や踊りで表現する。  「幕末長府・志士たちの夢祭」ではミュージカルのほか、21日午前10時半から、城下町長府を侍にふんした約50人が練り歩く「町中幕末維新」、20、21日の午後5時半から、功山寺、壇具川、長府庭園、長府毛利邸を3000本の竹灯籠(とうろう)で飾る催しがある。  問い合わせは、実行委事務局(083・222・3333)へ。 (2010年11月18日 読売新聞)
佐賀
「佐賀12賢人」知ってる?バッジを試験販売
 佐賀市や佐賀観光協会などは、佐賀ゆかりの賢人12人の似顔絵を描いた缶バッジを制作し、17日から販売を始めた。

 地元の偉人を題材にした手軽な土産品が、ほとんどなかったことから考案した。

 バッジの12人は、初代司法卿・江藤新平や日本赤十字社を創設した佐野常民ら「佐賀の七賢人」のほか、治水の神様と言われる成富兵庫茂安や煎茶の祖・売茶翁、佐賀に上陸した徐福ら5人。1個100円。当面、試験的に各100個限定で、JR佐賀駅の市観光案内所など6か所で販売する。

 制作を企画したのは、市や観光協会などでつくる観光振興組織の歴史プロジェクト班。テレビドラマの影響で、近年、幕末・維新期のブームが国内で続いていることから、同班は「佐賀の七賢人をもっとPRしよう」と考え、バッジづくりに着手。売茶翁の活動を紹介する肥前通仙亭、徐福長寿館など七賢人以外にも、佐賀ゆかりの偉人の関係施設が、市内にあることから、5人を加えることにした。

 また、受験生のお守り代わりになればと、法律家を目指す人は江藤新平、政治を志す人は大隈重信など、分野別にバッジを選べるようにして、販売している。

 バッジには、説明文も付いており、「佐賀の役で悲劇的な最期を遂げる」(江藤新平)、「後に天皇の侍従となり天皇に愛された」(島義勇)などと記載している。

 制作を担当した同協会の桜井篤さん(45)は「佐賀の賢人は清廉潔白で先見性のある人ばかり。お気に入りのヒーローを見つけてほしい」と話している。問い合わせは同協会(0952・20・2200)へ。(遠藤信葉)

佐賀偉人伝・第一弾 は閑叟・鍋島直正
 幕末・明治期に活躍した佐賀人を取り上げるシリーズ「佐賀偉人伝」の第1回配本「鍋島直正」が20日、全国発売される。パソコン用の電子版と同時発売で、激動の時代を率いた第10代藩主鍋島直正(閑叟(かんそう)公)の人物像を浮かび上がらせている。   偉人伝は県教委が5年間で15冊を刊行する。第1回は佐賀の近代化を進め、佐賀藩が多くの人材を輩出する基盤を作った閑叟公を選んだ。  佐賀城本丸歴史館の杉谷昭館長(82)が執筆を担当。閑叟公にかかわった外国人らの言葉を豊富に引用する手法を用いて人物像に命を吹き込んだ。杉谷館長は「閑叟公が教育者だったことをあらためて認識した。限られた紙面だが、閑叟公を通じて、時代を見て取れるように工夫した」と話す。  同時発売(iPad版など一部は近日発売)の電子版は、掲載図版の拡大が可能。本文中の約30カ所で、参考図版へのリンクや人物・用語の検索機能などを追加した。パソコン版はオンライン書店「シナノブック」からダウンロードできる。  「鍋島直正」はA5判、112ページ。書籍は千円、電子版は800円。12月5日午後1時半からは同歴史館で、杉谷館長の記念講演会もある。今後は、早稲田大学の創始者で首相を務めた大隈重信(来年1月10日刊)、日本の近代洋画を築いた岡田三郎助(同3月10日刊)を予定。毎年3冊ずつ刊行する。    杉谷館長と、佐賀偉人伝編集委員会メンバーで佐賀大学の青木歳幸教授、佐野常民記念館の福岡博名誉館長が19日、県庁で古川知事に発刊を報告。古川知事はデモ用のiPad版で大砲を発射する動画を再生し「こんな音が飛び交っていたわけですね。興味を持って読ませてもらいます」と話した。 2010年11月20日更新
 

長崎 弥太郎展:三菱財閥の貴重な史料一堂に 妻あての手紙など、きょうから初公開 /長崎
 三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎(1835~85年)が、幕末に活躍した長崎での足跡や財閥の貴重な史料を一堂に集めた特別展「岩崎弥太郎・三菱の誕生と岩崎家ゆかりのコレクション」が19日、長崎市の長崎歴史文化博物館で始まる。18日、関係者向け内覧会があった。来年1月10日まで。  弥太郎は、土佐藩で身分の低い「地下(じげ)浪人」から登用され、1867年、同藩が長崎に設置していた商社「開成館長崎商会」、通称「土佐商会」の主任となり経営感覚を磨いた。明治維新後は海運業の他、高島炭鉱や長崎造船所といった長崎での事業などで三菱財閥を興した。  会場には史料約180点を展示。弥太郎が1865年に役人に登用されて作った「岩崎彌太郎」と染めたのぼりや、弥太郎が妻にあてた手紙などを初公開。岩崎家が収集した「東洋文庫」「静嘉堂文庫」の美術コレクションも展示するなど、弥太郎らが文化振興に貢献した側面も紹介する。【錦織祐一】 〔長崎版〕
パリ 薩摩焼本来の美の味わい、パリで 「歴代沈壽官展」
 幕末から明治にかけて世界を魅了した薩摩焼。140年余り前、世界の称賛を浴びたパリで、伝統の技を総覧する「歴代沈壽官(ちんじゅかん)展」(朝日新聞社主催)が開かれている。展示を支えるのは、“本物”を知ってほしいという名門窯の思いだ。  「みなさんが薩摩焼と呼んだやきものの核心がこの展覧会。400年余りにわたってつくってきた人々の魂がここに集っている」  「歴代」の展示にこだわった15代沈壽官は、パリの観客を前に、そう語った。  会場に並ぶのは、鹿児島県日置市で窯の火を守る沈家の、初代から15代までの作品約100点。素朴な茶陶、ほほえましい庶民の日常を切り取った人形や動物など大小の捻(ひね)り物、精巧な透かし彫りや浮き彫りを施した香炉、純白に輝く花瓶、豪華な金爛手(きんらんで)……。実に多彩だ。  「洗練されていて、すばらしい」。パリの観客たちは口々に漏らした。彼らの目には、かつて「SATSUMA」として欧州を席巻した薩摩焼とは似て非なるやきものが映っていたはずだ。  薩摩焼は16世紀末、豊臣秀吉の朝鮮出兵で連れてこられた陶工により生まれた。茶陶から庶民の日用品までつくられたが、なかでも薩摩藩主らに重用された「白薩摩」は、乳白色の生地と透明釉(ゆう)を覆う微細な貫入(かんにゅう)(ひび)が高貴な品格を醸し出すやきものとして知られる。  ところが、薩摩藩が参加した1867年のパリ万博で注目を集め、日本の近代化を支える輸出産業の柱となると、多くが横浜や京都でつくられるようになった。西洋趣味に迎合するあまり、金彩と絵付けで埋め尽くす華美さばかりが追求されて粗製乱造の傾向が強まる。中興の祖とされる12代沈壽官はそれを「模造品」と嘆いた。 page: 2  薩摩伝承館(鹿児島県指宿市)の深港恭子学芸員によると、本来の薩摩焼では、絵の具は素地に乗せた金泥の合間を埋めるように塗られる丁寧さがあったが、量産品は手間を省いて絵の具の上に金彩したために、退色を起こしやすくなったという。素地をほどよく残した絵付けから離れ、「本物」とは異なる姿となり、世界での評価をおとしめることになった。  まとわりついた否定的なイメージをぬぐい去り、薩摩焼本来の美を知ってもらうこと。それは、重い伝統を背負ってきた沈一族の願いだ。(編集委員・中村俊介)      ◇  パリの三越エトワールで12月11日まで。来年には帰国展が東京・日本橋三越本店(1月19~31日)、福岡三越(2月8~13日)、名古屋栄三越(3月23~28日)を巡る。  薩摩伝承館(鹿児島県指宿市)の深港恭子学芸員によると、本来の薩摩焼では、絵の具は素地に乗せた金泥の合間を埋めるように塗られる丁寧さがあったが、量産品は手間を省いて絵の具の上に金彩したために、退色を起こしやすくなったという。素地をほどよく残した絵付けから離れ、「本物」とは異なる姿となり、世界での評価をおとしめることになった。  まとわりついた否定的なイメージをぬぐい去り、薩摩焼本来の美を知ってもらうこと。それは、重い伝統を背負ってきた沈一族の願いだ。(編集委員・中村俊介)      ◇  パリの三越エトワールで12月11日まで。来年には帰国展が東京・日本橋三越本店(1月19~31日)、福岡三越(2月8~13日)、名古屋栄三越(3月23~28日)を巡る。
コラム
「歴史楽屋噺」パート1・水戸黄門は危険思想の持ち主!?
 テレビドラマで数字が取れる幕末の志士といえば、何といっても坂本龍馬。なぜか分からないが、「ベビーフェイス」のイメージが国民に浸透しているのと、“泣く子も黙る”新撰組との絡みもあるのが、その人気の秘訣だろうか。
しかし筆者は、幕末の様々な事件で一番ドラマチックだったのは、龍馬とは無縁の「桜田門外の変」であると考える。
「桜田門外の変」とは何か。長州藩の倒幕思想家である吉田松陰を大老(今でいう総理大臣にあたる)・井伊直弼が処刑し(安政の大獄)、これに対する「返し」として、何と水戸藩士たちが井伊直弼を暗殺して吉田松陰の敵を討った事件のことである。
では、なぜ水戸藩士たちが長州藩の敵を討ったのか。これは吉田松陰の尊皇思想が、水戸光圀の著した『大日本史』から多大な影響を受けていたからである。
水戸光圀(=水戸黄門)は行脚の旅などしておらず、彼の生涯は、徳川の将軍よりも、天皇を日本の中心とする「勤皇思想」と共にあったといっても過言ではない。
復讐した水戸藩士たちに言わせれば「吉田松陰先生に手をかけるのは、水戸光圀公のメンツを潰すのと同じ」といったところだろうか。とにかく「桜田門外の変」は動きが早かった。松陰の処刑後、すぐに「返し」た。
逆に普段から「吉田松陰先生に何かあったら、ワシが真っ先に飛んでいくけぇ」と言っていた高杉晋作らは何をやっていたのか。勿論江戸に向けてすっ飛んで行ったのだろうが、単純に情報や地理的な条件で、水戸→江戸の方が近かったともいえる。
(みんみん須藤)


好きな司馬遼太郎作品1位は「坂の上の雲」
好きな司馬作品の1位は「坂の上の雲」-。隔週木曜日に日刊スポーツ(東京本社版)に掲載している「日本史なんでもランキング」第3回のテーマは「好きな司馬遼太郎作品」。ニッカンスポーツコムで実施したアンケートには計1023票が寄せられ、日清、日露戦争を中心に明治という時代を描いた「坂の上の雲」が190票を獲得してトップとなった。2位は坂本龍馬を主人公にした「竜馬がゆく」、新選組土方歳三の生涯を描いた「燃えよ剣」が3位に入った。

1位 坂の上の雲(190票)

「このながい物語は、その日本史上類のない幸福な楽天家たちの物語である。(中略)楽天家たちは、そのような時代人としての体質で、前をのみ見つめながらあるく。のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶(いちだ)の白い雲がかがやいているとすれば、それをのみみつめて坂をのぼってゆくであろう」。単行本第1巻の、有名なあとがきの一節だ。

2位 竜馬がゆく(181票)

産経新聞で62~66年に連載。土佐の郷士の子として生まれた坂本龍馬が維新の大仕事を成し遂げ、33歳で暗殺されるまでを描く。

3位 燃えよ剣(143票)

62~64年、週刊文春に連載。多摩の薬売りだった土方歳三が新選組副長となり、戊辰(ぼしん)の箱館戦争で戦死するまでを描く。

4位以下の作品(4)峠 (5)国盗り物語 (6)関ケ原 (7)世に棲む日日 (8)花神 (9)菜の花の沖 (10)播磨灘物語

次回は12月2日発売の日刊スポーツで「好きな新撰組隊士」の特集です。


ブックレビュー

[読書日和]磯田道史さん 等身大の生と死から幕末を物語る
<龍馬史 文芸春秋(1400円)>
◇「武士の壁」を乗り越えた男

11月15日は坂本龍馬の命日。大政奉還が成った直後の慶応3(1867)年のこの日、龍馬は京都・近江屋で何者かに襲われ殺害された。諸説ある暗殺の背後関係に、虚心坦懐(たんかい)に迫るとともに、虚像が広がる龍馬を等身大に近づけようと試みたのが本書である。
「龍馬は、勝海舟、西郷隆盛、岩倉具視らキーマンに必ず会いにいった。その足取りを追うことで幕末史がおのずと理解できます」
王朝の過去を記すときに用いる「史」をあえて書名に選び、龍馬をもって歴史を語る意味を込めた。
NHK教育テレビで今春放送された「古地図で巡る龍馬の旅」の講師を務め、そのテキストに加筆した。平易な記述に、読みどころがちりばめられている。
そもそも、なぜ龍馬のような人物が出てきたのか。旧来の龍馬像は貧しく虐げられた郷士だが、実家は高知城下屈指の豪商だった。坂本家は近江国(滋賀県)坂本の出身で、明智光秀の関係者ともいわれる。
「忠孝の世界に生きれば明智系の祖先を否定することになるため、武士道徳から自由になりやすかった。豪商の出だったので、商売を卑しむ武士の発想にとらわれませんでした」
江戸の剣術修行の人脈も大きい。千葉道場のつてをたどって松平春嶽や海舟の知遇を得た。龍馬の事績といえば薩長同盟や大政奉還だが、強大な経済力と軍事力を有する海軍を創設し、「武士の壁」を乗り越えたことを高く評価する。
他方で、戦争と平和を両てんびんにかけた幕府とのしたたかな交渉からは単純な平和論者とも言えないと強調した。「日本を今一度せんたくいたし申し候、の前段には、幕府の役人を打ち殺しと書かれています」
経済の状態や社会の様子を政治史に加味した、著者独自の史観が光る。
そして、物語は日本史上最大のミステリーとされる暗殺の論証へ。新撰組黒幕説、紀州藩黒幕説、土佐藩黒幕説、薩摩藩黒幕説。史料を一つ一つ検証し、襲撃犯が証言した逃走ルートを歩いて得た答えとは――。
「龍馬は他の志士に比べると警戒心を持たない。誰にでもすぐ会うから人脈が広がり大仕事はできたのですが、暗殺には弱かった」
複雑な政治も、お龍との新婚旅行も、龍馬は隠さずに姉や友人に書き送った。現代人に近い素顔を伝える直筆の手紙は、実に楽しいものだという。【岸俊光】

……………………………………………………………………………………

■人物略歴

◇いそだ・みちふみ

1970年、岡山県生まれ。慶応大大学院博士課程修了。茨城大准教授。近世史が専門。中学から古文書に親しむ。新潮ドキュメント賞受賞の著書「武士の家計簿」を原作とする同名の映画が12月4日全国公開される。


今週の本棚・本と人:『熱い夜明け』 著者・塩田潮さん
(講談社・1890円)
◇政権交代の起源を求めて--塩田潮(しおた・うしお)さん
民主党の研究で知られるノンフィクション作家が、日本の議会政治誕生のドラマを初の小説として描いた。中江兆民、植木枝盛(えもり)、馬場辰猪(たつい)という土佐出身の民権思想家たちが同郷の作家の手で新たな命を吹き込まれ、政権交代の起源が明かされる。
「2007年参院選で民主党が大勝して、次の総選挙で政権交代が起きるのではという空気になった。前々から資料は集めていたのですが、そのころから本気で書きたくなりました」
第1回衆議院選挙は1890年(明治23)7月。この年11月に帝国議会が召集され、大日本帝国憲法が施行された。それに先立って福沢諭吉は、長くても5年以内の政権交代を唱えた。
だが本格的な政権交代が実現したのは119年後の昨年夏。総選挙で民主党が一気に過半数を獲得し、直前まで単独過半数を握っていた自民党が負けて与野党が入れ替わったのは、憲政史上初の出来事だった。
幕末維新は雄藩による一種の国盗(くにと)り物語として語られることも多い。その背後で政治文化はどのように導入されたのか、中でも立法機関がどう具体化したのかに、関心があったという。
「維新後のキーワードのうち自由は兆民、議会は辰猪、憲法は枝盛、と僕は位置づけます。三人は思想家であり、運動家であり、政治家でもありました」
土佐藩江戸上屋敷での出会いを経て兆民はフランス、辰猪は英国へ。板垣退助の演説を聞いた枝盛は政治を志す。それぞれの人生が交差し、物語は初の総選挙、第1回議会に終着する。
『高知新聞』の連載記事を基に、加筆・修正を加えた。架空の人物などは登場しないが、会話の中身には想像を膨らませたという。ディープな土佐弁が人間臭さを増し、ふるさとに寄せる作家の愛着まで伝わってくるようだ。
「書いていて楽しかったですね。三人は政治の現実に屈しました。しかし彼らの思想は、やがて大正デモクラシーや新憲法の中によみがえったのです」<文・岸俊光/写真・佐々木順一>
エンターテインメント ドラマ初、ゴールデン枠の再放送決定!幕末タイムスリップ時代劇『JIN-仁-』
年末のゴールデンタイム枠に  大沢たかお、綾瀬はるか、中谷美紀らが出演する、2009年10~12月のTBS系連続ドラマ『JIN-仁-』が、年末のゴールデン枠にて計9時間分を一挙再放送する事が17日、判明した。 連続ドラがゴールデンタイム枠で再放送されるのはドラマ史上初めてであるという。 今月までに同局では過去最多となる国内外の各種テレビ賞計30冠を獲得しており、人気ドラマの再放送で更なる成功を図る格好だ。続編製作の企画も進んでおり、今回の再放送は物語の振り返りの意味もある。  漫画原作、幕末にタイムスリップした脳外科医・仁先生の物語は12月27日午後7時、28日午後7時、ディレクターズカット版を4時間半ずつ放送予定。
コラム 【幕末から学ぶ現在(いま)】(88)東大教授・山内昌之 村橋久成、“吏道”を捨てた正義感
 平成17年9月に、北海道知事公館の前庭で或(あ)る胸像の除幕式がおこなわれた。その人物、村橋久成は、北海道開拓使に出仕し麦酒醸造所(サッポロビールの前身)を造った薩摩人である。彼は、道内各地に勧業試験場、製糸所、葡萄(ぶどう)酒醸造所、鶏卵孵化(ふか)場、牧羊場などを創設し、開拓と産業の基礎を築いた北海道の恩人にほかならない。  かつて藩の御小姓組番頭(ばんがしら)だった23歳の村橋は、英国留学生に選抜された毛並みの良さを誇り、維新後も薩摩閥の黒田清隆の引きを受けていたのだから、他の英国留学組のように末は大臣や顕官(けんかん)になってもおかしくなかった。しかし、明治14(1881)年に開拓使を辞めた後に行方不明となり、明治25年に神戸で行路病者(行き倒れ)として保護され3日後に死亡した。村橋の生き方を見ると、つらつら職業への誇りや使命感、それに男の意地といった点でも、いま話題の海上保安官の姿と重なる部分も見えてくる。 黒田と違う理想家の悲劇  村橋の運命は、明治5年に始まった開拓使が10年の計画を終えて廃止された点に関係する。首相になるくらいのリアリストだった黒田と、新日本のモデルを北海道に創(つく)ろうとした理想家肌の村橋の違いが悲劇を呼んだ。黒田は、開拓使事業の効果的な延長を図るために、工場など官有物を破格の安値で薩摩出身の事業家・五代友厚(ともあつ)に払い下げようとした。 page: 2  何しろ1400万円の費用の投資対象を38万円(無利息30年賦)で民間に払い下げるという破天荒なものであり、これが醜聞にならないはずがなかった。これが有名な北海道開拓使官有物払い下げ事件になる。  五代は関西財界をつくった大物として、やがて東京の渋沢栄一と並び称される企業人に成長していく。黒田の理屈は何であれ、薩摩閥の官と民の癒着であり、同郷人への利益誘導ととられても仕方がなかった。  興味深いのは五代も29歳の時に外交使節として村橋ら英国留学生と行をともにした事実である。村橋が突然辞表を出し、黒田らの慰留をふりきって開拓使を去ったのは、払い下げ事件が起きる前年のことである。  官途に見切りをつけた村橋の生き方で真似ができないのは、このあと彼が開拓使や薩摩藩の友人先輩や同僚とも音信不通となり、完全に自ら消息を絶った点にある。  そして11年後の明治25年9月、神戸で身許不明の行路病者が死んだ。その着衣は、木綿シャツ1枚と白木綿三尺帯1本だけでほとんど裸に近かったという。最後に吐いた言葉は、「鹿児島県士族、村橋久成」だったと伝えられる。村橋の心奥(しんおう)を今となっては知る由もない。しかし、同藩同郷の先輩たる五代のあざとさに加え、現実感覚一辺倒の黒田の政治性に鼻じろむ思いがしたことは間違いない。維新の理想と政治の現実との間に横たわる深淵(しんえん)を覗(のぞ)いた官吏村橋は、“吏道”に忠実に生きる可能性を自ら捨てたのである。 page: 3 職への使命感が国を救う  村橋は官途をいさぎよく捨て、海上保安官は懲戒以上の刑事罰を覚悟で情報提供に踏み切った。日夜海上で危険な海防の任にあたる海上保安官が、外国人による不法行為を取り締まる職務遂行を制限され、公開すべき記録を国民の目から隠すよう政府に命じられるなら、国益のために身を粉(こ)にする公務員の尽くすべき国家や政府とは何かという重い問題も提起されている。  保安官も村橋のように、職務に賭ける理想と政治が強いる現実との間で幾度となく苦悶(くもん)したかもしれない。保安官の未来に待ち構える運命はまだ分からない。しかし、忘れ去られていた郷土の恩人を北海道人が復権させたように、政治家の思惑は一時的に効果を顕(あらわ)しても、歴史の永久性には勝てない。開拓使の長官だった黒田の政治力と、勧業課長や勧業試験場長で辞めた村橋の使命感のいずれを重視すべきか、確かに歴史の大局観にはむずかしいところもある。とはいえ、職への使命感や正義感をもつ人材を欠いては、国家や政府の基盤は成り立たない。  歴史は、村橋や海上保安官のような挙を生まずに済む“吏道”をつくる責任が、日常不断に政治家たる大臣にもあることを教訓として教えてくれる。(やまうち まさゆき) 【プロフィル】村橋久成  むらはし・ひさなり 天保13(1842)年(天保11年生まれの説も)、薩摩生まれ。通称、直衛(なおえ)。薩英戦争後の慶応元(1865)年、藩命でイギリスに留学。翌年に帰国し、戊辰戦争に参加。 page: 4  明治4(1871)年北海道開拓使に出仕し、勧業課長などを務めるが、14(1881)年辞職。雲水となり諸国を放浪し、25(1892)年神戸で没した。 何しろ1400万円の費用の投資対象を38万円(無利息30年賦)で民間に払い下げるという破天荒なものであり、これが醜聞にならないはずがなかった。これが有名な北海道開拓使官有物払い下げ事件になる。  五代は関西財界をつくった大物として、やがて東京の渋沢栄一と並び称される企業人に成長していく。黒田の理屈は何であれ、薩摩閥の官と民の癒着であり、同郷人への利益誘導ととられても仕方がなかった。  興味深いのは五代も29歳の時に外交使節として村橋ら英国留学生と行をともにした事実である。村橋が突然辞表を出し、黒田らの慰留をふりきって開拓使を去ったのは、払い下げ事件が起きる前年のことである。  官途に見切りをつけた村橋の生き方で真似ができないのは、このあと彼が開拓使や薩摩藩の友人先輩や同僚とも音信不通となり、完全に自ら消息を絶った点にある。  そして11年後の明治25年9月、神戸で身許不明の行路病者が死んだ。その着衣は、木綿シャツ1枚と白木綿三尺帯1本だけでほとんど裸に近かったという。最後に吐いた言葉は、「鹿児島県士族、村橋久成」だったと伝えられる。村橋の心奥(しんおう)を今となっては知る由もない。しかし、同藩同郷の先輩たる五代のあざとさに加え、現実感覚一辺倒の黒田の政治性に鼻じろむ思いがしたことは間違いない。維新の理想と政治の現実との間に横たわる深淵(しんえん)を覗(のぞ)いた官吏村橋は、“吏道”に忠実に生きる可能性を自ら捨てたのである。 page: 2 職への使命感が国を救う  村橋は官途をいさぎよく捨て、海上保安官は懲戒以上の刑事罰を覚悟で情報提供に踏み切った。日夜海上で危険な海防の任にあたる海上保安官が、外国人による不法行為を取り締まる職務遂行を制限され、公開すべき記録を国民の目から隠すよう政府に命じられるなら、国益のために身を粉(こ)にする公務員の尽くすべき国家や政府とは何かという重い問題も提起されている。  保安官も村橋のように、職務に賭ける理想と政治が強いる現実との間で幾度となく苦悶(くもん)したかもしれない。保安官の未来に待ち構える運命はまだ分からない。しかし、忘れ去られていた郷土の恩人を北海道人が復権させたように、政治家の思惑は一時的に効果を顕(あらわ)しても、歴史の永久性には勝てない。開拓使の長官だった黒田の政治力と、勧業課長や勧業試験場長で辞めた村橋の使命感のいずれを重視すべきか、確かに歴史の大局観にはむずかしいところもある。とはいえ、職への使命感や正義感をもつ人材を欠いては、国家や政府の基盤は成り立たない。  歴史は、村橋や海上保安官のような挙を生まずに済む“吏道”をつくる責任が、日常不断に政治家たる大臣にもあることを教訓として教えてくれる。(やまうち まさゆき) 【プロフィル】村橋久成  むらはし・ひさなり 天保13(1842)年(天保11年生まれの説も)、薩摩生まれ。通称、直衛(なおえ)。薩英戦争後の慶応元(1865)年、藩命でイギリスに留学。翌年に帰国し、戊辰戦争に参加。 page: 3  明治4(1871)年北海道開拓使に出仕し、勧業課長などを務めるが、14(1881)年辞職。雲水となり諸国を放浪し、25(1892)年神戸で没した。 職への使命感が国を救う  村橋は官途をいさぎよく捨て、海上保安官は懲戒以上の刑事罰を覚悟で情報提供に踏み切った。日夜海上で危険な海防の任にあたる海上保安官が、外国人による不法行為を取り締まる職務遂行を制限され、公開すべき記録を国民の目から隠すよう政府に命じられるなら、国益のために身を粉(こ)にする公務員の尽くすべき国家や政府とは何かという重い問題も提起されている。  保安官も村橋のように、職務に賭ける理想と政治が強いる現実との間で幾度となく苦悶(くもん)したかもしれない。保安官の未来に待ち構える運命はまだ分からない。しかし、忘れ去られていた郷土の恩人を北海道人が復権させたように、政治家の思惑は一時的に効果を顕(あらわ)しても、歴史の永久性には勝てない。開拓使の長官だった黒田の政治力と、勧業課長や勧業試験場長で辞めた村橋の使命感のいずれを重視すべきか、確かに歴史の大局観にはむずかしいところもある。とはいえ、職への使命感や正義感をもつ人材を欠いては、国家や政府の基盤は成り立たない。  歴史は、村橋や海上保安官のような挙を生まずに済む“吏道”をつくる責任が、日常不断に政治家たる大臣にもあることを教訓として教えてくれる。(やまうち まさゆき) 【プロフィル】村橋久成  むらはし・ひさなり 天保13(1842)年(天保11年生まれの説も)、薩摩生まれ。通称、直衛(なおえ)。薩英戦争後の慶応元(1865)年、藩命でイギリスに留学。翌年に帰国し、戊辰戦争に参加。 page: 2  明治4(1871)年北海道開拓使に出仕し、勧業課長などを務めるが、14(1881)年辞職。雲水となり諸国を放浪し、25(1892)年神戸で没した。
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