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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
 今日は大河ドラマ『龍馬伝』最終回。風邪気味なので軍鶏鍋を用意したいところですが、刺客亀次郎に襲われるのが怖い(爆)ので平目のあらとキノコをたっぷり入れた鍋にしました。針灸の先生によると、キノコは免疫力アップにいいそうです。

北海道
気合響かせ剣道に汗 新十津川中で公開授業
【新十津川】新十津川中(高瀬裕二校長)で26日、1年生32人が剣道の公開授業に汗を流した。幕末14件に京都御所の警備にも当たった郷士の出身地として知られる奈良・十津川郷の流れをくむ町だけに、剣道熱は盛んで、生徒たちは体育館の中に気合を響かせた。

 同校は昨年から冬季の体育に剣道を取り入れ、この日は町内の他校の教諭らが参加した公開研究会の公開授業。西谷広大教諭(29)=4段=らが1年B組の男女を指導した。

 3人ずつに分かれ、生徒は「三段打ち」を練習した。掛かり手の生徒が気合を込めて小手、面と連続技を繰り出すと、元立ちの生徒はしっかりと受け止め、上達ぶりを見せていた。

 西谷教諭は「竹刀で打っても打たれても、礼節を重んじる心を学んでほしい」と話していた。(塚田博)


宮城
石巻の映画館「岡田劇場」でぼや
 石巻の映画館「岡田劇場」でぼや 27日午後2時56分頃、石巻市中瀬の木造2階の映画館「岡田劇場」(オカダプランニング経営)で外壁の一部を焼いた。けが人はなかった。
 石巻署の発表によると、同劇場の火災報知器が作動したため、同社社員が確認したところ、北側のショーウインドー内に煙が充満していた。近くの国道で道路拡張工事をしており、同署は、工事の火が飛び火した可能性もあるとみている。
 同社によると、同劇場は幕末の芝居小屋が前身。約150年の歴史があるが、現在の建物は戦後に建て替えられたものという。


福島
「七福神の幸せ回廊」で観光誘客 若松
 大正ロマンの町並みで知られる会津若松市七日町通りで、身近な神社や寺院にスポットを当てた門前町構想が動きだす。
七日町通りまちなみ協議会が周辺の神社、仏閣をめぐる「七福神・幸せ回廊」を設定し、地図を作成する。
 阿弥陀寺にあった大仏の再建も視野に入れる。
 七福神は阿弥陀寺、長福寺御姥尊(おんばさま)、笠間稲荷神社、西蓮寺、七日町地蔵尊、常光寺、田中稲荷神社。
 阿弥陀寺には戊辰戦争で戦死した約1280体の東軍墓地や明治になって鶴ケ城から移築した御三階、新選組三番隊組長斎藤一の墓がある。
安産の守り本尊として知られる長福寺の「御姥尊」や、京都・宇治の茶作り商人が家出した息子と出会ったという言い伝えのある常光寺の「めぐりあい観音」もあり、観光客にとっても魅力的なスポット。

 某ゲーム&アニメの影響で、斎藤一の墓、賑わっているだろうなぁ……(汗)。

鶴ケ城:化粧直し中 シャチホコを天守閣に再設置--会津若松 /福島
 屋根瓦のふき替えなど化粧直ししている会津若松市の鶴ケ城で26日、工事のため取り外されていたシャチホコが天守閣に再設置された。工事は3月まで続くが、天守閣の上層部分を覆っているシートは12月中旬までに外され、シャチホコも半年ぶりに姿を見せる予定だ。
 工事は「往時の天守閣再現事業」として行われ、屋根瓦を黒から赤に替えるなどして江戸末期の城の姿に近付ける。シャチホコは1965年、現在の天守閣建設を請け負った準大手ゼネコンの社長から同市に寄贈され、今年6月に取り外されていた。幕末期の城にはなかったが、同市はふき替え後も据え続ける。
 工事の影響で、今年4月から10月の天守閣の入場者は前年同期比33%減の約39万人にとどまっており、年間入場者は過去最低だった02年度の約52万人を下回る見通しだ。同市観光公社は「リニューアル効果で、年末年始から盛り返したい」と話している。【太田穣】


銀のしゃちほこおかえり 会津若松・鶴ケ城天守閣に設置
 瓦のふき替え工事が行われている福島県会津若松市の若松城(鶴ケ城)で、工事に伴って外されていた「銀のしゃちほこ」が26日、5カ月半ぶりに5層の天守閣の上に戻された。
 しゃちほこは1965年に天守閣が再建された際、工事を請け負った当時の建設会社の社長が寄贈した。雌雄一対で高さ1.5メートル、重さは各200キロあり、うろこには銀箔(ぎんぱく)が張られている。
 若松城ではこれまでの黒い瓦を幕末当時の赤瓦にふき替える「往時の天守閣再現事業」が進行中で、しゃちほこは今年6月10日にいったん取り外された。作業員は26日、大型クレーンを使って慎重にしゃちほこを上げ、地上約37メートルの天守閣の上に無事納めた。
 工事は来年3月下旬に完了する予定。天守閣全体を覆っている足場やシートは、年内に3層以上の部分が取り外される。




群馬
小栗上野介展12月4日から高崎で 米国から持ち帰ったねじ等出展
 「遺米使節150周年記念 小栗上野介展」(主催・小栗上野介展実行委員会)が12月4日から14日、群馬県高崎市の高崎シティギャラリー第一展示室で開催される。入場料は無料。
 高崎市にゆかりある幕末の偉人・小栗上野介忠順が遣米使節の一行として日米修好通商条約批准書交換等の任務を果たし帰国してから150周年となる。幕末の変動期に埋もれてしまった遣米使節の史実と日本の近代化の礎を築いた小栗上野介忠順の偉大なる功績をより多くの人々に紹介し、史実に基づいた正しい歴史認識と理解を深めようと、高崎市制施行110周年記念事業の一環として今回の催しが企画された。

 催しでは、遣米使節三船模型(ポウハタン号、ロアノウク号、ナイアガラ号)、アメリカから持ち帰った遺品(ねじ・釘、ピストル、望遠鏡、ハンドドリル)、東郷平八郎の書、関連写真パネルが展示される予定。

 問い合わせは、小栗上野介展実行委員会事務局(電話)027-378-3111(URL)高崎市ホームページ・http://www.city.takasaki.gunma.jp/shisho/kurabuchi/chiiki/oguriten.htm まで。

 ▽後援 群馬県・群馬県教育委員会・高崎市・高崎市教育委員会・朝日新聞前橋総局・産経新聞社前橋支局・上毛新聞社・東京新聞前橋支局・毎日新聞社前橋支局・読売新聞前橋支局・ラジオ高崎・小栗上野介顕彰会

 ▽協力 財団法人德川記念財団

 ▽協賛 東善寺 ※外部リンク

 なお、本紙では2008年11月に「小栗上野介忠順 幕末、米国から持ち帰ったねじ」と題した特集を展開しました。産業の塩と称される「ねじ」の進化、発展の布石を打ったとされる小栗公の歴史を振り返りながら「ねじ」の原点を振り返ってみました。関連記事はこちら


神奈川
27日(土)"龍馬"対談
 今年6月に発足した、「さがみ龍馬先生顕彰会」(溝渕誠之会長)主催による、第三回の勉強会が今週27日(土)、誠心第二幼稚園(南区相模台)で開催される。12時半開場、13時開演。入場は無料(先着100名)。

 今回のテーマは、「不世出の大偉人 坂本龍馬先生を生んだ『土佐』の風土とは」。会長を務める高知出身の溝渕氏と、同会の顧問である大正大学招聘教授の土屋侯保氏が対談形式で、幕末の偉人を当地の独特の風土から解き明かす。問事務局【電話】042・770・7358



山梨
たんすから江戸期古文書
都留・円通院 研究者ら発見
当時の土地利用記す

 学習院大大学院生らでつくる研究グループが都留・円通院で行った収蔵品調査で、江戸時代に下谷村(現都留市谷村地区)の名主が代々引き継いできた検地帳などがこのほど見つかった。同グループによると、当時の土地所有や利用状況を知ることができる史料で、今後、解明を進めていく。
 円通院は谷村藩主・秋元氏ゆかりの寺として知られる。今月下旬から改築工事を行うため、佐々木俊道住職の親せきで遊行寺宝物館(神奈川)の遠山元浩学芸員が調査を提案。同大学院生や歴史研究者と、蔵や庫裏の収蔵品を調査した。
 検地帳は、庫裏に保管されていたたんす(御水帳箱)の中から見つかった。村の領主が名主にあてた、村に年貢の納入を命じる「年貢割付状」や領収書「年貢皆済目録」などもあった。明治以降の文書が確認されなかったことから、幕末期か明治維新後間もなく名主が寺に預けたとみられる。
 こうした古文書は、江戸時代に名主など村役人を務めた家や市町村が保管している事例が多いが、所有者の自宅の改築などに伴って処分されたり、売却されたりしてしまうケースもあるという。
 このほか表紙に「小前(一般村民のこと)連印帳」と書かれた帳簿もあった。村民が何らかの取り決めごとをして連印したとみられる。いずれも「都留市史」編さん時には未確認だった史料で、今後、目録を作成して本格的な調査を行う。
 同大大学院の安藤正人教授(アーカイブズ学)は「保存状態が良く、歴代の名主が大切に引き継いできた様子も分かる。地域の歴史を研究する上で重要な史料で、解明を進めたい」と話している。


静岡
“竜馬暗殺の男”を訪ねて ゆかりの碑、じわり関心
 幕末最大のミステリーといわれる坂本竜馬暗殺。真相は明らかではないが、28日放送のNHK大河ドラマ「龍馬伝」最終回で、実行役として登場するのが京都見廻(みまわり)組の今井信郎(のぶお)(1841~1918年)だ。後半生を過ごした静岡県島田市の初倉地区で、足跡を訪ねる歴史愛好家が増えている。
 今井信郎は直心影流免許皆伝、講武所師範代の剣豪。京都の治安を担う見廻組与力頭となり、大政奉還後は幕府軍として戊辰(ぼしん)戦争を戦い、函館で明治政府軍に降伏。その取り調べで竜馬暗殺の関与を証言した。
 恩赦で出所後、静岡県吏として八丈島で勤務し、30代半ばで当時の初倉村に入植。牧之原台地の茶業振興に尽力し、初倉村長も務め、76歳で亡くなった。
 ゆかりの地の筆頭はかつて墓があり、碑が残る島田市阪本の種月院と屋敷跡。住職の浅倉則安さん(54)は「今は遺骨はないが、檀家(だんか)の記録に法名も残っている。以前よりお参りに来る人が多い」と話す。
 屋敷跡(阪本色尾西)には7年前、幕臣の子孫や茶業者、信郎のひ孫の今井晴彦さん(66)=東京都新宿区=が碑を建てた。「鶴ケ谷」といわれた三方を小高い丘に囲まれたくぼ地にあり分かりにくい。竜馬暗殺を祖父(信郎の三男健彦)から聞いた晴彦さんは「刺客から隠れて住んでいたらしい」と話す。
 問い合わせは、島田市博物館文化財係=電0547(35)3008=へ。

【坂本竜馬暗殺】 1867(慶応3)年11月15日夜、現在の京都市中京区の近江屋2階で、中岡慎太郎と会談中、複数の刺客に襲われた。竜馬はほぼ即死。中岡は2日後に死亡し、「近江屋事件」といわれる。実行犯は京都見廻組が有力だが、新選組、薩摩藩、土佐藩など諸説ある。


石川
映画:加賀藩舞台「武士の家計簿」県内6館で先行上映 仲間さんら舞台でPR /石川
◇家族のつながりを描く
 幕末の加賀藩を舞台に下級武士「御算用者(ごさんようもの)」の暮らしを描いた映画「武士の家計簿」の先行上映が27日、県内6映画館で始まった。野々市町御経塚の映画館「ワーナー・マイカル・シネマズ御経塚」には、森田芳光監督や主人公・猪山直之役の堺雅人さん、直之の妻駒役の仲間由紀恵さんが駆けつけ、舞台あいさつをした。
 映画は加賀藩の会計の専門家としてそろばんを手に働く武士の生活と、質素倹約の暮らしを一丸となって支える家族のつながりを描いた。
 あでやかな加賀友禅で登場した仲間さんは「現場の和やかな雰囲気が映画に表れている。心に残ったことを友達や恋人にも伝えてほしい」とPR。堺さんは「末永く愛していただける映画になった。御礼あいさつでまた石川に来たい」と話した。
 映画は12月4日から全国でも上映される。【宮嶋梓帆】


加賀藩のDNAを継承 金沢工大市民公開講座
 金沢工大市民公開講座「科学立国加賀藩のDNA」(同大、北國新聞社主催)は27日 、金沢市の北國新聞20階ホールで開かれた。同大の研究者2氏がロボットと寺院建築の 分野で藩政期から受け継がれる科学技術を紹介し、現代にも通じる課題や時代背景などを 解説した。
 「大野弁吉は現代のロボットを作るだろうか」と題して講演したロボティクス学科の佐 藤隆一教授は、幕末の科学者大野弁吉の功績が現代に生かされていないのは、技術のシス テム化を重視しない日本の風潮が背景にあると指摘。生物に共通する関節と筋肉の動きを 取り入れたロボット研究を紹介しながら「技術を理論化、システム化することが、今後の 発展につながる」と強調した。

 学生と寺院の図面化に取り組む建築都市デザイン学科の山崎幹泰准教授は、江戸時代に 寺院群が整備され、檀(だん)家(か)の寄進が寺院建築を支えてきたことを紹介。武家 の檀家が多い城下町では、明治維新を機に武士が困窮したため寺院が衰退したと語り、明 治初期に近代技術を凝らして建築された尾山神社神門について「武家が最後の意地を込め たシンボル的な存在だった」と解説した。


滋賀
おりょうの再婚相手、近江八幡の商人だった
 幕末の志士・坂本龍馬の妻おりょうは近江八幡出身の男性と再婚した-。近江八幡市立資料館が、市民にあまり知られていない「おりょうの再婚相手」について史実の発信に力を入れている。冊子にまとめたり時代行列で夫妻役を登場させたりして「意外な歴史を知って」と話している。
 おりょうは京生まれで1864(元治元)年ごろ、龍馬と内々で祝言を挙げた。67年の龍馬暗殺後も「龍馬の妻だった」と思い出を新聞記者に語り、1906(明治39)年に60代後半で没した。
 市立資料館などによると、おりょうは1875年、蒲生郡金田村(現・近江八幡市西庄町)の商人、西村松兵衛と再婚し、横須賀で暮らした。2人の墓も神奈川県横須賀市の信楽寺にかつてあった。
 資料館の河内美代子館長が5年前、松兵衛が近江八幡出身と知り、調べ始めた。西庄町の西村家跡の位置や、跡地に近い円光寺が西村家の菩提(ぼだい)寺である事実を確認した。なれそめは、おりょうの母が八日市(現・東近江市)出身という説や、伏見の寺田屋で知り合ったという説があったが、はっきりしなかった。
 西村家は1894年ごろに金田村から京都に移った。さらに「おりょうは龍馬の妻」の印象が強いことから、再婚の史実は地元・近江八幡市でもほとんど知られていなかった。
 このため、市立資料館は調べた結果をまとめた小冊子「近江八幡四方山(よもやま)話」を今年3月に刊行、実費で配っている。9月に市内で行った時代仮装行列「八幡今昔」では市民がおりょうと松兵衛を演じた。来館者からは「再婚していたとは」と反響があるという。
 河内館長は「松兵衛は、前夫の龍馬について語ることをおりょうに許していた。おおらかで、妻への大きな愛を持った人物だったのでは」と話している。


京都
龍馬の肖像画、向日で発見 「幕末」展で展示
 向日市内でこのほど、明治から昭和の終戦期まで活躍した四条派の日本画家、公文菊僊(くもんきくせん)が描いた坂本龍馬の肖像画が見つかった。公文による同じ構図の肖像画は全国で多数確認されているが、乙訓地域では初めて。市文化資料館は「希少性は高くないものの、龍馬のイメージを後々に定着させた絵」とし、一般公開を始めた。

 公文は高知出身。坂本龍馬をはじめ、武市半平太や中岡慎太郎ら同郷の維新の志士を多く描いた。中でも龍馬の絵は、昭和初期に高知に銅像が建てられたのを機に龍馬ブームが起き、肖像画を求める人が多かったことで描き始めた、とされる。

 向日市内で見つかった肖像画は絹本着色の掛け軸で、絵の大きさは縦約120センチ、横約50センチ。黒の紋付き羽織と縞(しま)の入った袴(はかま)をまとい、左手に刀を持った立ち姿が描かれている。

 上部には、日露戦争(1904~05)の開戦に当たり、昭憲皇太后(明治天皇の皇后)の夢枕に龍馬が立ち勝利宣言した、との内容の漢詩が書かれている。公文作の龍馬の肖像画にある漢詩の多くは、漢学者・中島気崢(きそう)の筆だが、今回は公文が自らが書いている。

 市文化資料館の特別展「幕末・維新の乙訓をゆく」の開催を知った向日市内の男性(58)が、所蔵する龍馬の絵に記された漢詩の意味を知りたいと同館を訪れ、公文の作と判明。その後、同館が、公文作の龍馬の肖像画を所蔵する京都市の霊山歴史館に鑑定を依頼し、本物と確認された。

 特別展は28日で終わるが、肖像画は12月5日まで延長して展示(ただし、11月29、30日休館)する。また、特別展に関連し、28日に同館が開く「日曜談話会」で肖像画の話題も。問い合わせは、同資料館TEL(931)1182。



幕末の暗号を解け 三条小橋商店街28日からイベント
 幕末の志士ゆかりの地、三条小橋商店街(京都市中京区)を巡り、暗号解読を楽しむイベント「龍馬からの暗号~5人の末裔(まつえい)に残したメッセージ」が28日から始まる。主催する同商店街振興組合の小森一宏理事長(56)は「志士のように三条通を駆け巡り、イベントを楽しんで」と話している。

 商店街のある三条通(三条大橋-河原町)には、かつて新選組で知られる池田屋騒動跡の石碑があり、商店街周辺には坂本龍馬や海援隊士をかくまった酢屋もある。ドラマでブームとなった龍馬にちなむイベントを開催し、にぎわいを生み出そうと考えた。

 イベントに参加するには、組合の加盟店で配っている「龍馬の暗号キット」が必要。暗号を解く手がかりはすべて商店街の中にあり、頭と足を使って隠された解答を導き出す。解答を商店街内の応募箱に投函(とうかん)すると抽選で会席料理など加盟店の商品が当たる。

 企画はフリーペーパー発行や参加者体感型イベントを企画する会社「SCRAP」(中京区)に依頼した。期間は12月5日まで。参加費は無料。問い合わせはSCRAPTEL075(334)5999。


奈良
「天誅組」志士が主役の歌舞伎 生駒の歴史研究家が脚本
 五條・吉野地方を舞台にした幕末の倒幕運動「天誅組の変」(1863年)を題材に、生駒市の歴史研究家、舟久保藍さん(37)が、農村歌舞伎のオリジナル脚本「虎太郎魁大和錦(とらたろうさきがけやまとにしき)」を書き下ろした。天誅組の3総裁の一人、吉村虎(寅)太郎(1837~63)が主人公。舟久保さんは「幕末の志士、虎太郎の行動力と理念を貫く姿を訴えたかった」と話す。

 3幕で構成され、第1幕「津野山桜樹(おうじゅ)の段」は、虎太郎が、土佐勤王党をつくった武市瑞山(半平太)と意見が合わず、土佐を脱藩する場面。第2幕「伊吹屋の段」は、京都の旅宿で倒幕派の公家、中山忠光卿と倒幕を計画し、恋人と別れて出陣する場面。第3幕「吉野山紅葉の段」は、五條代官所への襲撃に成功したが、京都の朝廷から倒幕派の公家が追放された「政変」の知らせが入り、吉野の山中を敗走。幕府方の隊士に銃撃され、命を落とす場面。上演時間は約1時間だ。

 執筆のきっかけは、今年の「龍馬ブーム」を受けた虎太郎の故郷、高知県津野町からの依頼だった。

 龍馬らとともに「土佐の四天王」と呼ばれる虎太郎を「地元として何とか目立たせたい」という思いで、町は、本来は4年に1回の農村歌舞伎を1年繰り上げて上演することを計画。町の川上一郎教育長が「虎太郎を語るに右に出る者はいない」と3月、脚本は初めてという舟久保さんに依頼した。

 舟久保さんは半年かけて、フィクションを交えながら脚本を仕上げ、高知市の浄瑠璃の太夫、竹本美園さんが歌舞伎の言い回しに脚色した。

 舟久保さんが、虎太郎の研究に本格的に取り組み始めたのは約12年前。「虎太郎は、土佐の脱藩第1号で、何事にも先駆けてやる実行力が魅力。庄屋の家督を12歳で継ぎ、当時、土佐山間部の庄屋の間で交わされていた『庄屋は、百姓を朝廷から預かっている。常に百姓の味方をすべきだ』という理念を貫き通す姿を脚本に込めた」と言う。

 歌舞伎は10月23日、町の国指定重要有形民俗文化財「高野の廻(まわ)り舞台」で、地元の農村歌舞伎保存会が上演。来年1月11日~3月末には、高知市の県立坂本龍馬記念館が開催する「龍馬の先を駆けた男 吉村虎太郎展」でも上演される予定という。

 川上教育長は「脚本は予想以上の内容で感銘を受けた。役者と裏方を合わせて40人以上が必要でお金もかかるが、天誅組が活動した奈良県での上演もぜひ実現させたい」と話している。(神野武美)


鳥取
海舟や隆盛ら直筆20点 鳥取初公開ギャラリー展示
大政奉還 思いを書に
勝海舟が書いた漢詩
西郷隆盛が晩年、鹿児島で書いた漢詩
 勝海舟や西郷隆盛ら、幕末から明治初期の激動の時代を生きた偉人たちの直筆の手紙や書など約20点を集めた展覧会が、鳥取市本町のギャラリーあんどうで開かれている。市出身の画商久米沢喜一郎さん(71)(神奈川県厚木市)が約40年間かけて集めたもので、県内では初公開。勝の弟子・坂本龍馬を主人公にしたNHK大河ドラマ「龍馬伝」の人気も手伝い、歴史ファンらでにぎわっている。29日まで。(家城健太)

 注目は、勝と西郷が掛け軸に書いた漢詩。勝は「隠士一床の書に対し酒、己身外の事を損つ(酒と床の間の書があれば十分、の意)」とつづった。東京で隠居生活をしていた70歳頃の作で、久米沢さんは「一線を退き、一歩離れて浮世を眺める当時の勝らしい作品」と分析。西郷の作は、坂本龍馬らと大政奉還に向けて駆け回った京都に思いをはせている。下野後、故郷の鹿児島で書いたものらしく、ダイナミックな筆致と対照的に、郷愁あふれる内容という。

 漢詩はこのほか、「忠義を尽くすとは心を尽くすこと」との自説を託した木戸孝允、「過去の偉人の言葉から多くを学ぶべきだ」と記した初代首相の伊藤博文の作品が並ぶ。西郷が後藤象二郎あてに「大政奉還について話したいことがある」としたためた手紙も展示している。いずれも、久米沢さんが関東地方を中心に、先祖が武士だった家を訪ねるなどして収集。書家で二松学舎大教授だった寺山葛常(かつじょう)さんが本物と鑑定したという。久米沢さんは「プロの書家と違い、我流で書いているところが面白い。書き手の人柄を読み取りながら、乱世を生き抜いた人々の息遣いを感じて」と話す。

 会場では、家族連れや若者らが熱心に鑑賞。夫婦で訪れた鳥取市国府町の会社員亀川明郎さん(51)は「動乱の時代を生き抜いた人たちの力強さを感じます」と話していた。

 入場無料。作品(一部を除く)の販売もある。午前10時~午後5時(29日は午後4時)。問い合わせはギャラリーあんどう(0857・21・6155)。



山口
攘夷→開国 見届ける 【下関最発見!】
◆勝山御殿 西日本最後の「城」
  大河ドラマ「龍馬伝」も28日で最終回を迎える。何人もの印象深い人物が登場したが、筧利夫さんが好演した三吉慎蔵もその一人。寺田屋で槍(やり)を振るって坂本龍馬を救った三吉は長府藩士だった。下関市田倉には、彼も出入りしていた長府藩主の居館、勝山御殿の石垣が残る。大政奉還の4年前、1863(文久3)年に建造され、西日本では江戸時代最後の城郭建築とされる。
  最後の城、というのは様々な見方があり、御殿や陣屋を城に含めるかどうかも議論が分かれる。勝山御殿は幕府が認めた城ではないが、総面積4万3千平方メートル、本丸、二の丸、三の丸を備え、その防衛機能を総合的に考えると実質的な城とみる研究者もいる。
  築城のきっかけは、攘夷(じょうい)を目指す長州が関門海峡の外国船を砲撃した下関戦争だ。長府藩主の居館は当時、海岸近くのいまの豊浦高校辺りにあったため、敵の艦砲射撃に備え、三方を山に囲まれた内陸部に移した。それが勝山御殿だ。
 藩主毛利元周が住む本丸から2キロ圏内に造られた土塁や砲台、関門は、大砲の砲弾が本丸に届かないように配置したと考えられている。市文化財保護課の中原周一さんは「海岸線での攻防の後、陸戦も想定していたのでは」とみる。
  御殿はわずか5カ月の突貫工事で完成した。「築城のために村から50人の男を提供したが、ほかの村も同じだった」。宇賀村(現下関市豊浦町宇賀)の医師古谷道庵(どうあん)は日記にこう書き残した。外国との戦に備える藩内の緊張感がうかがえる。領民がこぞって作業に加わったというから、下関市民の祖先のなかにも工事に携わった人は多いかもしれない。
  長府藩はここを本拠に、幕末から明治にかけての荒波を乗り越えていく。三吉慎蔵の日記には、勝山御殿で藩主や重役に薩長同盟の締結や京都の様子を伝えたことが記されている。
  下関戦争で欧米列強の力を見せつけられた長州は、攘夷から開国に舵(かじ)を切り、御殿は攻撃されることもなく役割を終えた。建物は明治に入って取り壊され、本丸の部屋の一部や玄関は長府毛利家の菩提(ぼだい)寺・覚苑(かくおん)寺(長府安養寺3丁目)の庫裏(くり)になった。住職の浜田光明さん(79)は「小さいころは広いなあと思いながら拭(ふ)き掃除しとったよ」と振り返る。本丸の表門は了圓(りょうえん)寺(大平町)の山門に移築された。
  御殿跡にはいまも石垣が残っている。長さは合わせて820メートル。一番高いところで8メートルに達し、往時の威容をしのばせる。
  その遺構は今年、市の公園に生まれ変わった。地元の人たちでつくる「勝山三山を守る会」は荒れ放題だった跡地を草刈りしたり、祭りや運動会を開いたりして、御殿跡の保存やPRに努めてきた。28日午前10時には現地見学会を開く。「勝山御殿は下関の宝。何としても守らなければ」。岡崎義三会長は力を込めた。
(白井伸洋)


高知
米国時代の万次郎が触った?ドアノブ、県に寄贈
 通訳として幕末の日米関係構築に奔走した県出身の「ジョン万次郎」こと中浜万次郎(1827~98)が、米国マサチューセッツ州の港町フェアヘーブンで暮らした家のドアノブや肖像画が26日、県に寄贈された。高知市の会社社長山崎啓輔さん(69)が約20年前、現地で当時の住人から譲り受けたという。山崎さんは「万次郎の功績を広めるために役立てて欲しい」と話している。

 山崎さんが寄贈したのは、万次郎が暮らしたフェアヘーブンの家の鉄製ドアノブ(重さ約1.25キロ)、鉛筆で描いたとみられる万次郎と、万次郎を助けたホイットフィールド船長の肖像デッサン各1枚(ともに縦約40センチ、横約30センチ)。

 この日、山崎さんが尾崎正直知事を訪ねて手渡し、「私が譲り受けた時はノブは不用となっていたが、万次郎も触ったはずです」と説明した。知事は「興味が尽きないですね」などと応じていた。

 県はこれらを万次郎の生まれ故郷、土佐清水市に貸与。同市は来年4月に改装オープン予定のジョン万次郎資料館(仮称)で展示・保管することにしている。

 万次郎は14歳のころ、宇佐港(土佐市)から出漁して遭難。救助された米国の捕鯨船のホイットフィールド船長に気に入られ、フェアヘーブンの船長宅で数年間暮らしながら学校教育を受けた。約10年後に帰国し、幕府の遣米使節団の通訳として咸臨丸で米国を再訪するなど、初期の日米関係の発展に貢献した。

 フェアヘーブン時代の家屋は現在、日本側の寄付で改修保存され、「ホイットフィールド・万次郎友好記念館」になっている。(亀岡龍太)


長崎
掘り出しニュース:「玉川亭」写真見つかる 龍馬ら大政奉還や倒幕議論の舞台/長崎
【長崎】坂本龍馬ら幕末の志士が大政奉還や倒幕を議論した舞台とされる長崎市の料亭「玉川亭」の当時の古写真が、横浜開港資料館(横浜市)所蔵写真から見つかった。判定した長崎大学環境科学部の姫野順一教授(62)が26日、長崎市役所で発表した。姫野教授によると、玉川亭が写った写真が確認されたのは初めて。【蒲原明佳】

 玉川亭は幕末、中島川上流の大井手橋付近(現在の同市八幡町)にあったことが、建物の基礎や塀の遺構から分かっていた。写真は英国の写真家、フェリックス・ベアトが1864~66年、大井手橋より上流にある桃渓(ももたに)橋から下流に向かって撮影したもので、姫野教授は、対岸にあった「出来大工町不動堂」が写真の上方に写っていることから、玉川亭を確認した。

 1867年9月17日、玉川亭で龍馬は土佐藩士・佐々木高行に長州藩士・木戸孝允(桂小五郎)や伊藤俊輔(博文)を紹介し、大政奉還や倒幕について意志を確認。木戸から長州藩船の修理費用の不足を相談され、龍馬らは「土佐商会」の岩崎弥太郎に掛け合い、1000両を調達したとされる。

 姫野教授は「大政奉還の流れの中で重要な会議が行われた幕末の料亭の趣が分かる貴重な資料」と話している。

 複製パネルが27日から、長崎まちなか龍馬館(同市浜町)で展示される。


江戸創業の造り酒屋 往時の趣、幕末期の2棟改修
 江戸時代に創業した造り酒屋・梅ヶ枝酒造(佐世保市城間町)の「旧むろ」と「旧仕込蔵」(いずれも国登録有形文化財)の改修工事が終わり、25日、報道陣に公開された。同酒造は来年2月の蔵開きに一般公開し、往時の趣を楽しんでもらう予定。将来的には、コンサート会場などとしても活用する方針だ。

 1787年(天明7年)の創業。1860年(安政7年)頃の建築とされる建物7棟は2002年度、国の有形文化財に登録された。このうち、旧むろと旧仕込蔵は約30年前まで糀
こうじ
を作り、発酵させる場所だったが、現在は倉庫などとして使われている。

 いずれも木造で、延べ床面積は計418平方メートル。老朽化で柱の亀裂や雨漏りなどが目立つようになったため、文化庁などの指導を受け、09年度から2か年で改修した。総事業費は、国などの補助金を含め、約5000万円。

 旧仕込蔵は全体を35センチかさ上げしたが、江戸時代のカシの柱は取り除かず、新たに杉を接ぐなどした。旧むろの天井の内側は、建設当時の竹で覆う技術を生かし、新しい竹に張り替えた。トタンだった外観は、大正時代の写真などを参考に板壁に戻した。

 長野哲也社長は「100年後も雰囲気が残るようにしたかった。安定感もあり、本来の姿に戻った」と話していた。



熊本
幕末に活躍した高木元右衛門の銅像が完成
今の菊池市出身で幕末の郷土の偉人と言われる髙木元右衛門の銅像が完成しました。今日は菊池市の福村三男市長や御所通り景観形成協議会の会員などが出席して像の除幕式がありました。髙木元右衛門は細川家に仕え、剣術や槍術で名をはせ、元治元年・1864年6月京都の池田屋で近藤勇と戦うなどした人物です。銅像は高さ約4メートルで2520万円をかけて作られ、菊池市は観光の目玉にしたいと話しています。

 「池田屋で近藤勇と戦った」ってことは……古高俊太郎捕縛の報に集まった浪士側の方ですか(汗)。









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