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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
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業務繁忙期の山を抜けたので、幕末の話題をば。

京都
生き残り懸け将軍のカルテ入手 幕末の西本願寺
 浄土真宗本願寺派(本山・西本願寺、京都市下京区)の本願寺史料研究所が24日に発表した江戸時代末期の資料には、同寺が、江戸幕府のトップシークレットを収集していたことを示す内容もあった。中には「将軍のカルテ」まである。情報を迅速に入手することにより激動の時代の中で生き残りを懸けようとする同寺の姿が浮かぶ。

 西本願寺には現在20万点の文書が残る。研究所が幕末以降の歴史をまとめる「本願寺史」の編さん作業中に文書を確認し、今回は7点を発表した。

 その中に、幕末の第2次長州征伐で大坂城に入った14代将軍家茂の病状を探る手紙や「容体書」(カルテ)があった。

 慶応2(1866)年7月4日、朝廷は漢方医の高階経由らを大坂城に派遣し診察させた。西本願寺には経由の息子経徳からの手紙が残り、経由に情報を送るよう依頼したことをうかがわせる。それに対して7日に京都へ帰った経由の返信(8日付)は「せがれ(経徳)へのお手紙の内容、委細承知」「極御内々」と同寺の求めに応じ、家茂の容体書を同封してあった。

 容体書は7月5日付。家茂は6月下旬から体のむくみや発熱、嘔吐(おうと)、食欲不振、尿が出ないなどの症状があり、このままだと脚気(かっけ)になる恐れがあり、心臓機能の低下となれば「計り知れない」と記されていた。

 この内容は、1934年に発行された「新聞薈叢」(岩波書店)に掲載された翻刻と同じだった。孝明天皇の側近朝彦親王の日記には、経徳が家茂の容体書を親王に持参したと書かれている。容体書は複数出回っていたとみられるが、研究所の大喜直彦上級研究員は「当時の資料が残っているのは珍しいのではないか」とみる。

 西本願寺が情報収集に奔走していたことを示す資料について、海原亮住友史料館主席研究員(日本近世史)は「西本願寺が積極的に働きかけて家茂の様子を尋ねており、想像力がかき立てられる。容体書が実は広く流布していたことと、その背景の一端を示しており、貴重な史料であることは疑いない」とする。

 今回の資料は、来年2月20日に下京区の西本願寺聞法会館で行われる研究所の公開講座で展示される。問い合わせは同派075(371)5181。
徳川慶喜への贈り物「内々に」 西本願寺、幕末に生き残り図る
 1867(慶応3)年、大政奉還後に大坂城へ移った徳川慶喜へご機嫌伺いの贈り物をする際、西本願寺(京都市下京区)が「他人に知られぬように送れ」などと大坂の出先機関に指示した書状が見つかり、24日、本願寺史料研究所が発表した。

 大喜直彦上級研究員は「元将軍側と、朝廷や倒幕派のどちらに付けば生き残れるかを推し量っていた証拠」としている。

 書状は、西本願寺から大坂の津村別院に宛てた命令書の下書き。大政奉還直後で「とりあえず、このような事態なので内々に」品物を贈るよう指示しており、同封する手紙には「親しく交際する趣意が見えないよう心配りを」と注文していた。
「とりあえずカステラ」慶喜との付き合い悩んだ西本願寺
 150年前の大政奉還(1867年)の後、将軍を辞職した徳川慶喜(よしのぶ)とどう付き合うかに悩む西本願寺の様子を示す書状など、幕末・明治維新期の史料7点が浄土真宗本願寺派本願寺史料研究所(京都市下京区)の保管史料から新たに見つかった。研究所が24日、発表した。

 見つかった史料の一つは、西本願寺が大坂の津村御坊(現・本願寺津村別院、大阪市中央区)との往復書簡をまとめた「大坂諸記」。西本願寺から津村御坊に宛てた慶応3年12月14日(1868年1月)付の書状控えでは、それまで西本願寺と親交のあった慶喜らに「とりあえず」「内々に」見舞いの品を贈るよう命じ、見舞いの手紙は「従来のように親しく交際するような趣旨とならぬように」と注意を促している。

 大政奉還後、薩摩藩などの討幕派は新政府樹立を宣言。慶喜は京都・二条城から大坂城に下った。研究所によれば、西本願寺としては、慶喜と親しいと見られると立場を悪くする恐れがあった一方で、慶喜が勢力を回復する可能性もあり、友好的な関係を保つ必要もあった。「とりあえず」という表現には、元将軍となり立場が微妙になった慶喜を見る周囲の空気感が表れているという。

 慶喜や幕府関係者への贈り物として選んだのは、鴨(かも)や「カステイラ(カステラ)」。カステラは当時の贈答品として珍しく高級品というだけでなく、慶喜らの好みに西本願寺側が配慮した選択だった可能性があると研究所はみる。

 慶喜はその後、大坂城から京都に進撃したが、鳥羽・伏見の戦いで新政府軍に敗れ、江戸に逃れた。

 江戸の築地本願寺と西本願寺の往復書簡をまとめた「江戸諸記」も発見。米国東インド艦隊司令長官ペリーの来航と幕府の対応について、西本願寺が精度の高い情報を得ていたことがわかる。

 嘉永6(1853)年6月24日付の書状によれば、西本願寺はペリー来航直後の6月8日ごろから来航の情報を集め、異国船が米国の4隻で蒸気船があること、米国からの国書の日本語訳を幕府が儒者と蘭学者にさせることなどをつかんでいた。

 研究所の大喜(だいき)直彦・上級研究員は「激動の時代に懸命に対応しようとした西本願寺の姿勢や情報収集能力の高さが伝わってくる貴重な史料だ」と話している。(大村治郎)
京都・西本願寺で幕末の“機密情報”記す新史料
 京都の西本願寺は、所蔵する史料から幕末のペリー来航時の様子や将軍の容体など当時の機密情報を克明に記した文書が見つかったと発表しました。

 「黒船」を示す、「異国船」の文字。東京の築地本願寺と西本願寺との間でやり取りされた書簡で、アメリカの提督・ペリーが4隻の船で来航したことなどを正確に伝えています。こちらは14代将軍・徳川家茂が21歳で亡くなる直前に記された文書。当時最大級の機密事項だった家茂の容体について「血流が滞っている状態で皮膚の調子も悪い」と書かれています。

 「どう考えても普通の人が知らないような情報・知るはずがない情報をかなり早い段階で入手している。西本願寺自体がかなりのネットワークを張って情報収集していることがわかる」(本願寺史料研究所 大喜直彦上級研究員)

 今回見つかった新史料は来年2月に京都で公開されます。
西本願寺幕末のそんたく? 「慶喜と親密」伏せる文書
 浄土真宗本願寺派本山・西本願寺が、1867年の大政奉還の際、将軍・徳川慶喜への対応に苦慮したことを示す記録が京都市下京区の同寺で見つかった。本願寺史料研究所が24日に発表した。権力が移った朝廷側をおもんぱかり、慶喜と親密と見られないよう指示した記述などがあり、専門家は「当時の政治状況を生々しく伝える貴重な資料だ」としている。

 研究所が資料整理中に複数の文書を発見。慶喜に関する記述は、西本願寺から大坂の直属寺院「津村御坊」(…
以下、有料。

 幕末の西本願寺がかなり情報機関化していることをうかがわせる記事ですね。新選組が無理矢理押しかけて屯所にして親長州の動きを牽制しようとしたのも、家茂公の病状まで入手できる西本願寺の情報力ゆえでしょう。
 甘い物好きで知られたのは家茂公ですが、「豚一公」の別名が残る慶喜公もカステラや鴨を食されたとしたらなかなかの美食家。

薩摩藩の恐るべき軍事力 「鳥羽伏見」150年…初公開の不発弾から見える幕末の緊迫
 平成29年は大政奉還から150年、30年は新政府軍が倒幕を果たした鳥羽伏見の戦いから150年という節目の年が続く。これを受け、旧幕府軍の拠点・伏見奉行所に着弾した大砲の不発弾が今月、京都市考古資料館(上京区)で初めて公開された。オランダから伝わった大砲から発射されたとみられ、史実通り奉行所が大火災を起こしたことを物語る焼け土とともに出土した生々しい〝物証〟だ。そこで約260年続いた徳川幕府を破る歴史の大転換となった戦いの一端を、この砲弾からひもといてみた。(園田和洋)

薩摩藩が撃った?

 砲弾は赤茶色のさびで全体が覆われているものの保存状態は比較的良好で、てっぺんには信管と思われる木製の栓が装着されているのが見て取れる。

 オランダから伝わった12ドイム臼砲(きゅうほう)の弾とみられる。臼(うす)のような形が名前の由来。ドイムは同国の長さの単位で、センチと同じ長さ。12は口径の大きさを示す。

 砲弾は直径11・8センチで口径とピッタリ。中空の半球を2個継ぎ合わせているので中は空洞だという。前田義明館長は「そこに火薬が詰められたはずで、まだ火薬は残っています」と説明する。

 この砲弾は平成元年、京都市伏見区内の市営住宅建設に伴い行われた発掘調査で見つかった。奉行所跡を示す石碑が立つ近くで、当時の奉行所西端の石垣あたりに該当するという。

 調査を担当した関西文化財調査会の吉川義彦代表は「普通なら地面にたたきつけられた瞬間に爆発を起こすはずなのに、地中に30センチほどめり込んだ状態で止まっていた。どうして爆発しなかったのかは分からない」と首をひねる。

 めり込み具合などから、奉行所の北東から飛んできたことも判明した。その先には薩摩藩ら新政府軍が本営を置いた御香宮(ごこうのみや)神社がある。このため、新政府軍が旧幕府軍の拠点をめがけて放った弾の一つの可能性が高い。

森から現れる砲弾

 鳥羽伏見の戦いは慶応4(1868)年1月3日に戦端が切られた。激しい攻防の末、新政府軍が放った大砲の弾が奉行所内の弾薬庫に着弾し大火災を起こしたと伝えられ、調査地一帯では火災を裏付ける焼け土が出土している。

 ただ、御香宮神社と伏見奉行所との間の距離は約300メートルで、大砲より銃を使った方が効果的な距離だ。実際、当時の記録をみると、臼砲の弾は御香宮神社からではなく、その先の高台から放たれたと書かれている。

 幕末史に詳しい霊山資料館(京都市東山区)の木村幸比古(さちひこ)副館長は「神社のさらに北東の山側にある現在の龍雲寺が建つ付近から撃った可能性が高い」と推測する。

 龍雲寺は現在、御香宮神社から国道を挟んだ桃山丘陵地にあり、同神社から約300メートル離れている。ここからは奉行所の一帯が手に取るように見渡せたのだろう。しかも射程圏が700メートルという臼砲には絶好の距離。臼砲の仰角は45度に固定されていたため、ほどよい射撃場所があれば、奉行所を狙うぐらいなら相当な命中率が考えられる。

 特に薩摩藩は、文久3(1863)年に英国相手の戦いで惨敗を喫したことを教訓に、軍隊の近代化を唱えた第11代藩主の島津斉彬(1809-58年)が砲兵を鍛え上げており、練度が高かったという。

 木村副館長は「当時あの辺りは桃の木々でうっそうとしていたはず。奉行所側からみれば、木がおい茂る中から放物線を描いた砲弾が特有の音を立てて、次々と落ちてきたような感覚ではなかっただろうか」と旧幕府軍側の驚きぶりを想像する。

練度と物量が雌雄決す

 臼砲の弾道は高い弧を描くことから命中率は比較的低いが、壁を破壊する程度ならば問題なく、要塞攻略戦で多用された。日本では江戸時代初頭の島原の乱を機に導入され、試し撃ちをした記録も残る。幕末にはオランダから12ドイム、20ドイム型が輸入され、幕府のほか有力諸藩が所持していた。

 風雲急を告げる幕末は、輸入だけに頼っていては数が足りなかった。そこで鉄の精錬所を自前で建設していた有力藩のうち、薩摩藩や佐賀藩が大砲の国産化を始めた。木村副館長は「鳥羽伏見で使われたドイム砲は、薩摩藩が製造した可能性が高い。薩摩藩の高い生産能力と大砲を正確に撃つ技術力が、新政府軍を勝利に導いた要因の一つといえる」と評価する。

 京都市考古資料館では、同市上京区の同志社大今出川キャンパス内で行われた発掘調査で、幕末期の薩摩藩邸跡から出土したイギリス製エンフィールド銃の銃弾数発も同時に展示されていた。

 「最新式の銃を試し撃ちしたか、射撃訓練をしたものだろう」と前田館長。当時、欧米ではライフル銃が出始めていたが、この銃は旧式の先込め式で、「米の南北戦争が終わり銃が余ったため、日本に売られてきたのだろう」と話す。

 そして、この銃を薩摩藩に売りつけたのが、坂本龍馬もよく知るイギリス商人のトーマス・ブレーク・グラバーだった。展示された銃弾のうち1点は御香宮神社から見つかったものなので、実戦配備されていたのかもしれない。

 木村副館長は「幕府との熾烈(しれつ)な戦いを予想し、薩摩藩は手に入る武器ならどんなものでもほしかったのだろう」と当時の緊迫する情勢に思いをめぐらせた。
 伏見の戦いにおける薩摩藩側の圧倒的な火力を推測させる砲弾ですね。

福島
「会津藩に正義あった」 義尽くし汚名、戊辰戦争を語り合う
 戊辰戦争をテーマにした歴史文化講演会「会津藩と徳川幕府」が23日、会津若松市の会津若松ワシントンホテルで開かれた。「会津の視点から見た、明治維新を再考」をテーマに、徳川家や松平家の当主ら会津藩関係者が参加した討論では、義を尽くしながら汚名を着せられ、故郷を追われた敗者にも「正義」があったことを語り合った。

 来年の戊辰150年に合わせて開催。約500人が来場した。討論には、徳川宗家18代当主の徳川恒孝(つねなり)徳川記念財団理事長、松平保久(もりひさ)松平家14代当主、会津会会長の柳沢秀夫NHK解説主幹、室井照平市長、近藤真佐夫市教委文化課主幹が登壇。漢字文化振興協会の白石宗靖(むねはる)常務理事・事務局長が司会を務めた。

 松平氏は「会津は『義』を大切にしていた。愚直さから京都守護職を引き受け、恭順の意思を示していたのに戦いに巻き込まれた」と指摘。柳沢氏は「義を貫いた会津の生きざまは誇りだ」と語った。

 討論に先立ち、徳川氏と漢字文化振興協会長の石川忠久氏が基調講演した。文化講演会は、漢字文化振興協会、徳川記念財団、福島民友新聞社の主催、戊辰150周年記念事業実行委員会の共催、会津若松ワシントンホテル、会津商工信用組合の協賛。

 『戊辰』見直す契機に

 基調講演では徳川宗家18代当主で徳川記念財団理事長の徳川恒孝氏、元二松学舎大学長・理事長で漢字文化振興協会長の石川忠久氏がそれぞれの立場から江戸時代の文化などを紹介した。

 徳川氏は「江戸時代に築かれた日本の基礎」を演題に、平和で豊かな江戸時代を解説、現代に江戸の精神を生かすべきだと提言。石川氏は「戊辰戦争の漢詩」と題し、会津藩主・松平容保(かたもり)や会津藩士らが詠んだ漢詩を紹介し、作者の気持ちを想像してほしいとした。

 会場には約500人の歴史ファンが詰め掛け、基調講演や討論に聞き入った。前会津若松商工会議所会頭の宮森泰弘さんは「会津にも江戸時代の文化が色濃く残る。来年の戊辰150年を会津の文化を見直すきっかけにしたい」と語る。

 冒頭、主催者代表の五阿弥宏安福島民友新聞社社長が「近代史では勝者の視点から歴史が語られるが、敗れた側に正義はなかったのか、改めて戊辰戦争と明治維新を考えてみたい」とあいさつした。
会津藩ゆかりの地で先人慰霊 新潟で会津若松市長ら献花
 来年の戊辰150年の節目を前に、会津若松市の室井照平市長と目黒章三郎市議会議長は24日までに、新潟県上越市にある会津藩士の墓地「会津墓地」を墓参し、新潟県内にある会津藩ゆかりの地を訪ねた。

 室井市長は「先人への慰霊、地元へのお礼ができた」と語った。

 戊辰戦争で敗れた会津藩士の一部約1700人は越後高田藩(現在の上越市)で謹慎した。越後高田藩は財政窮乏の中でも待遇に手を尽くしたが67人が病没した。

 会津墓地は無縁仏が多いため地元住民が手入れを行っている。現地で生涯を過ごした会津藩士もおり、今も子孫が残っている。

 長岡藩(長岡市が本拠)周辺で起きた「北越戦争」。激戦だった小千谷市での「朝日山の攻防戦」で亡くなった会津藩士ら22人の慰霊碑が戦場近くの浦柄神社に整備されている。

 地元住民でつくる保存会が守っており、室井市長と目黒議長が碑前で献花した。

 この日は会津藩と関係が深い長岡藩の本拠だった長岡市の磯田達伸市長らも表敬訪問し、さらに親善交流を深めることで一致した。

静岡
悲しすぎる…ハリスを世話した幕末の下田芸者「唐人お吉」の波乱万丈な人生:前編
幕末という名の風雲は、その時代を生きた多くの人間を呑み込み、彼らの人生を変えました。時代が違えば名もなき寺子屋の先生で終わったような人物が攘夷志士になり、泰平の世であれば良い政治家だった人物が難局を乗り越えられずに暗殺や失脚に追い込まれました。下田の芸者、斎藤きちの場合もそうでした。彼女は幕末に生まれたがために時代の波に巻き込まれ、人々からこう呼ばれるようになります。「唐人お吉」と。

きちの人生については多くの小説や映画などが発表されていますが、真偽が混同されて伝わり、いまだ真相は分かりません。今回は「唐人お吉」について記述した最初期の文献、昭和5年出版の村松春水「実話 唐人お吉」に沿い、彼女の数奇で哀切な一生を紐解きます。



天保12年、きちは下田・坂下町の船大工の家に生まれました。7歳から養母に芸を仕込まれたきちは声が良く、特に十八番の新内節「明烏」を唄わせれば下田で右に出るものはなし。安政元年、14歳になる頃には「新内お吉」「明烏のお吉」と呼ばれる有名芸妓になっていました。

同年3月、日本がアメリカと日米和親条約を結び、きちの暮らす下田が開港されると、彼女の怒涛の人生が幕を開きます。

同年11月、開港されたばかりの町に大地震と津波が襲来。下田は壊滅状態、きちは家も家族も失い、絶望の淵に追いやられます。そんな時、彼女に光を投げかけたのは幼なじみの少年、鶴松でした。彼は立派な船大工になっており、自腹できちに急ごしらえの家を作り、お金も貸してくれたのです。きちは鶴松に救われ、なんとか生命を繋ぐ事ができました。

しかし不幸は続き、翌安政2年には養母が病死。きちは15歳で天涯孤独になり、ふたたび芸妓になります。深い悲しみを抱えつつも、気丈に働くきち。玉のような美しさと健気さで、下田の役人の宴席には必ず呼ばれる人気芸妓に成長します。そして一方では、幼なじみの鶴松に恩金の借りを完済。2人は互いの想いを打ち明け、恋仲になりました。

安政3年7月、アメリカ駐日総領事・タウンゼント=ハリスが日米修好通商条約を締結すべく、下田に着任。一介の芸妓には関係がないように思えるこの事が、きちの人生を大きく変えました。

翌安政4年、下田で一番の芸妓だったきちは、17歳にしてアメリカ駐日総領事・タウンゼント=ハリスの相手に抜擢されます。ハリスが用意したのは支度金25両、1年の給金120両の大金。顔なじみの下田の役人たちに「国難を救うと思って、身を捧げてくれ」と頼み込まれ、きちは泣く泣く「参ります・・・」と了承しました。

お吉自筆の給金請書 出典:村松春水「実話 唐人お吉」国会図書館蔵

こうしてきちは、恋人鶴松に別れを告げ、ハリスの待つ米国領事館・玉泉寺に向かったのです。下田から少し離れた柿崎村の玉泉寺は、コウモリやネズミの棲む、それはひどい寺でした。当時は流行歌の替え歌が流行っており、お吉が作ったとされる歌がこちら。

「行こか柿崎 帰ろか下田 思い惑うよ間戸が浜」

間戸が浜とは、柿崎領事館と下田のちょうど中間の地名。決して喜んでハリスの元に行った訳ではないお吉は、領事館へ向かう道中に悲しげにこの歌を歌ったのでした。(後編へ続く)

北海道
「咸臨丸」どこに 木古内沖 来年度は潜水も 東京海洋大とオランダ文化庁が調査
 【木古内】幕末に勝海舟らを乗せて日本船として初めて太平洋を横断し、1871年(明治4年)に渡島管内木古内町のサラキ岬沖で沈んだオランダ製軍艦「咸臨丸(かんりんまる)」の調査に、東京海洋大教授とオランダ文化庁の調査官が乗り出した。21日まで3日間、町内で聞き取りなどを行った。来年度以降、潜水による探索も行う。明治時代から謎とされていた詳しい沈没場所の解明につなげたい考えだ。

 調査を行うのは、東京海洋大の岩淵聡文教授(56)=人類学、考古学=と、オランダ文化庁から委託を受けた調査官のレオン・デルクセンさん(30)=同国在住=。オランダは世界各地のオランダ製の沈没船のリスト化と調査を進めており、咸臨丸については、沈没船などの「水中文化遺産」が専門の岩淵教授と共同調査を行うことになった。

 2人は19~21日に木古内町を訪問。ナマコ漁などの潜水漁師の間では、10年ほど前に約1キロ沖合で沈没船を見たとの情報もあるといい、漁業者らに沈没船を見たことがあるかどうか聞いたほか、海底の地形などについても聞き取った。19日には木古内町郷土資料館「いかりん館」(町鶴岡)で、町民有志の「咸臨丸とサラキ岬に夢みる会」(久保義則会長)メンバーらと面会し、情報提供などの協力を取り付けた。

 岩淵教授は「咸臨丸はオランダでも知名度が高いが、その歴史は不明点が多い。船体調査により沈没原因も分かるかもしれない」と期待する。

 来年度は専門ダイバーによる潜水調査を検討している。木造の沈没船を発見した場合は、船体の一部をサンプルとして採集した上で木の年代、産地を特定し、咸臨丸かどうかを確かめる。(木古内支局 高野渡)



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