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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
 月一回ペースになってしまいましたが、山内先生の連載が自分的にツボな人物を取り上げているのでまとめます。

岩手
新撰組ファン、宮古に集まれ 5、6日に全国サミット
 新撰組ファンが一堂に集う「第12回全国新選組サミットin宮古」は5、6の両日、宮古市内で開かれる。震災の影響で開催が危ぶまれたが、関係団体などの協力で復興支援事業として実現。チャンバラや土方歳三の子孫によるトークショーなど子どもから大人まで楽しめる。

 オープニングセレモニーは5日、同市宮町1丁目の宮古駅で行われる。女性パフォーマンス集団が、新撰組と敵軍に分かれてチャンバラを行う「殺陣(たて)パフォーマンス」や全日本刀道連盟の真剣を使った演武などが繰り広げられる。

 鍬ケ崎小体育館では、新撰組副長の土方歳三の子孫、土方愛さんと幕末好き歴史アイドル小日向えりさんによるトークショーを開催する。

 例年、新撰組と関わりのある地域で開かれ、県内での開催は初めて。宮古市では1869(明治2)年、旧幕府軍と明治新政府軍による宮古湾海戦が繰り広げられた。

【写真=5、6の両日開かれる新選組サミットのポスター。さまざまなイベントが予定されている】


あれっ?み~んな土方歳三 宮古で写真展
 新撰組の土方歳三に扮(ふん)した写真を応募する「土方歳三・写真コンテストin宮古」の作品展は6日まで、宮古市の宮古駅前総合観光案内所で開かれている。

 作品展は5、6の両日に同市で開催される「第12回全国新選組サミットin宮古」(実行委主催)関連のイベント。

 全国各地から応募のあった23点を展示。どの作品も、洋装姿の土方歳三へのなりきり具合が際立つ。土方は、明治初期の宮古湾海戦(1869年)に参戦しており宮古とも縁がある。

 先月開かれた審査会で、埼玉県の男性が最優秀賞を受賞した。受賞写真のモデルは、サミット初日に行われる「新選組パレード」の先頭を歩く予定だ。

 宮古観光協会の山口惣一事務局長は「応募者それぞれの本気度がよく出た作品と思う」と作品を見つめる。

【写真=土方歳三へのなりきりぶりがユニークな写真展】


静岡
幕末のパン 江川坦庵の製法書もとに再現…静岡
 日本で初めて兵糧用のパンを製造し、「パン祖」と呼ばれる幕末の韮山代官、江川坦庵(たんなん)(太郎左衛門英龍)が記したパンの製法書が新たに見つかり、静岡県函南町の製パン会社「石渡食品」が再現した。

 まだ試作段階だが、同社は、坦庵が1842年(天保13年)に兵糧用のパンを初めて試作したとされる日にちなんで「パンの日」と制定された、来年の「4月12日」の発売を目指して、改良を重ねている。

 新たに見つかった製法書は、「カーネルコックカステイラ」と名付けられたパンのもの。すでにポルトガルから伝わっていたカステラを意味する「カステイラ」に、当時アジア地域で活躍していたオランダの外交官「カーネルコック」の名前を付けたと思われる。

 製法書は昨年8月に発見され、日付などは入っていないが、坦庵の直筆。縦66ミリ、横55ミリの円形で、厚さ1センチほどにこんもりと盛り上がった完成イメージとともに、「麦粉百六十目 砂糖四十目 玉子(たまご)五ツ」(1目は3・75グラム、小麦粉600グラム、砂糖150グラム)という材料や、「右三味水にてこね、焼なべにて焼」「焼ナベに油を引(ひき) 狐(きつね)色に焼申候(やきもうしそうろう)」という作り方が墨で記されている。

 同社は、今年7月下旬に試作品を製作。8月1日からグランシップ(静岡市駿河区)で開催された展覧会「江川坦庵とゆかりの人々」(県など主催)で、来館者500人に配布した。

 江川家に伝わる史料を保管している「江川文庫」(伊豆の国市)の職員、橋本敬之さん(59)によると、坦庵の作ったパンの製法書としては、部下から坦庵に宛てられた書簡が以前から保管されていた。そこに書かれているパンは、小麦と塩を使用し、乾パンのような固さとさっぱりした塩味で1年以上日持ちするもので、これを兵糧用に作ったと見られている。

 これに対し、「カーネルコックカステイラ」は、さくさくとした食感でパンというよりお菓子に近い味わい。試作した同社の石渡浩二社長(60)は「当時は砂糖が貴重品のうえ、砂糖を使うと日持ちしなくなるので、兵糧には向かない。日持ちして備蓄しやすい小麦と塩を使う製法が広まったのではないか」と見ている。

 石渡社長は「カーネルコックカステイラは、現代風に砂糖の量を増やすなどのアレンジを加えて作ろうと思う。地元の人に親しまれる商品に仕上げたい」と話している。

(2011年10月25日 読売新聞)

 江川英龍の功績のごくごく一部だと思いますが、話題になるのは嬉しいです。


京都
近藤勇 直筆の「英雄論」初公開 東山・霊山歴史館
 新選組局長として有名な幕末の剣豪、近藤勇が「英雄論」を記した直筆の漢詩が、京都市東山区の霊山歴史館で初公開され、注目を集めている。「まことに英雄の心中を理解できるならば、英雄ではないことが英雄である」との内容が達筆で書かれており、読書家でもあった近藤の実直な人柄が伝わる。

■京で発見 商家へ借金の返礼?

 縦136センチ、横60センチの紙に七言絶句の詩形で書かれ、掛け軸に仕立てられている。広島県の医師が京都市内の古美術店で見つけ、霊山歴史館に鑑定を依頼。木村幸比古学芸課長は、数点見つかっている近藤の他の漢詩と筆跡や落款が酷似することから真筆とした。

 漢詩は、前半で「人に知られず暮らすべき。議論するばかりの俗人と同じではいけない」と姿勢を論じ、後半は「英雄」の文字を3度繰り返している。詩の脇に添えられた「有感作」の言葉から本心を表現した詩とみられ、「剣客士 近藤書」と記されていた。

 木村学芸課長は「目立とうとせず、行動する生きざまの大切さを説くことで、議論に熱心だった当時の倒幕派の志士を皮肉ったのではないか」とみる。

 同館によると、近藤が文久3(1863)年に京都入りし、市中警備を担う新選組の拝命を受けるまでの間に、給金がなく、商家から軍資金を借りていた時期があり、今回の漢詩も借金の返礼として書かれた可能性があるという。

 特別展「龍馬と土佐の衝撃」(12月26日まで)に合わせて公開する。土佐勤王党盟主の武市半平太が切腹時に使った短刀や、その時の血痕が残る襦袢(じゅばん)など幕末の史料約100点も並んでいる。

 月曜休館。霊山歴史館TEL075(531)3773。


山口
奇兵隊祭:幕末の志士らを慰霊 吟詠や勇壮な剣舞も披露--下関・桜山神社 /山口
 幕末、長州など各地で起きた戦争や紛争で亡くなった奇兵隊士らを祭る下関市上新地町の桜山神社で4日、第29回奇兵隊祭が厳かに執り行われた。旧下関市の45歳以下の神職が集まる下関青年神職会(野村正和会長)が主催した。

 桜山神社は、長州藩が諸外国と戦った下関戦争(1863~64)の犠牲者を弔うため、長州藩士の高杉晋作(1839~67)が創建した。その後の倒幕運動で亡くなった志士をはじめ、幕末の思想家、吉田松陰(1830~59)ら396人を祭っている。

 神事では、西日本地区屈指の吟詠コンクールとして知られる毎日吟士権大会審査員で、湖舟流吟剣詩舞道江湖会宗家、一木湖舟さんが「おくれても おくれても また君たちに ちかひしことを あにわすれめや」と、晋作が亡き隊士らにささげた歌を高らかに朗詠。妻江舟さんも勇壮な剣舞を披露。明治維新を待たずに散っていった志士らの御霊(みたま)を慰めた。【尾垣和幸】


コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】
(133)東大教授・山内昌之 松平定敬(上)


政治家の連携と牽制

 民主党政権の二元外交の危険がささやかれている。前原誠司政調会長と玄葉光一郎外相との、アメリカや韓国での発言の微妙なズレを危惧する人も多い。

 しかし、子細に観察すれば、2人の間には外交理念や政策をめぐる齟齬(そご)というよりも、経験や知識の差からくる格の違いが二元外交めいた印象を与えていることがすぐ分かる。

 玄葉氏は、10月に韓国を訪問し金星煥(キム・ソンファン)外交通商相と会談したときに「日韓は死活的利益を共有している」という不用意な発言をした。竹島問題や「従軍慰安婦」といった外交懸案をかかえている2国が同盟国でもないのに、「死活的利益を共有」するはずもない。

 それでいながら、8月に韓国の憲法裁判所による元慰安婦の個人補償請求権に関する判断を受けた韓国政府の対応に、「請求権問題は解決済み」という紋切り型の回答をした。これは“政治主導”を自負する政党の政治家らしくない。そこで韓国政府は慰安婦問題の国連提訴の準備を進め、問題の国際化を図ろうとしたわけだ。

 玄葉氏は訪韓してもこの問題を解決できなかった。そこで次に訪韓した前原政調会長は、「人道的な観点から考える余地がないか、お互い知恵を出し合い静かな環境で議論したい」と述べて外交的解決への道筋を示したのである。元外交官の佐藤優氏が述べるように、「静かな環境」とは慰安婦問題を国際化しないという意味なのだ。これこそ民主党が本来目指す外交の“政治主導”というべきであろう。こうした踏み込みは、どれほど優秀であっても職業外交官には越軌(えっき)になるからだ。

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見習うべき兄弟の相互補助

 佐藤氏は、両者の外交技能を兵隊の位に直せば、玄葉氏が下士官、前原氏が将官だと厳しく言い切っている。ただ玄葉氏の知性と闊達(かったつ)さを考えればもちろん士官は間違いなく、前線の部隊指揮官と帷幄(いあく)にある高級指揮官の感覚、大隊長と師団長の職位感覚の差くらいでもあろうか。

 この差は、謙虚さや経験の積み重ねの有無に起因するものだ。謙虚さというのは、同じ松下政経塾8期生としての意地やライバル心にこだわらず、外交では一日の長のある前原氏に兄事し、時にはその経験に頼るのも大事ということだ。この点で見習うべきは、幕末に京都の治安警護の任にあたった会津藩主松平容保(かたもり)と桑名藩主松平定敬の兄弟による連携と相互補助であろう。

 京都守護職の容保と京都所司代の定敬は、美濃国高須藩(岐阜県海津市)藩主松平義建(よしたつ)の実子であり、外に養子に出された。兄の尾張藩主徳川慶勝(よしかつ)、一橋家の養子となった茂栄(もちはる)とともに「高須四兄弟」と呼ばれる。いずれも“子柄”のいいという表現がぴったりくる、気品と才気にあふれた兄弟であった。

 定敬は、松平定信(老中、8代将軍吉宗の孫)で知られる白河・桑名松平家へ養子に入った後、元治元(1864)年に京都所司代に任命された。すでに実兄の松平容保(会津藩主)は文久2(1862)年に京都守護職になっており、元治元年には一橋慶喜(よしのぶ)も禁裏御守衛総督(きんりごしゅえいそうとく)に任じられていた。いずれも新設の職である。その直後、文久3年の将軍家茂(いえもち)の上洛以来、京都警固の任にあった定敬も京都所司代に任命された。

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 徳川幕府の草創期に設けられた京都所司代は、2代目の板倉勝重の治績で知られた重職であり、並の町奉行職ではない。京都の治安維持、朝廷・公家の監察、西国大名の監視、五畿内と近江、丹波、播磨8カ国の民政が当初の職務であった。

 とくに初期は家康、秀忠、家光がたびたび上洛したために、所司代は将軍の権威を上方にあまねく広げて朝廷に睨(にら)みをきかせる職でもあった。民生の権限が京都町奉行へ委譲された後、所司代は大坂城代を経て幕府老中に上りつめる譜代大名のキャリアパスの一部となる。

 しかし、この職掌の変化が京都所司代の治安維持機能を低下させた結果、所司代と町奉行の警察機能だけでは尊皇攘夷(じょうい)派浪士の跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)を取り締まれず、守護職が置かれたのである。

京都の治安と外交は「会桑」

 とはいえ、いずれも会津藩と桑名藩という溜間(たまりのま)、すなわち江戸城内の将軍に近い高位席次、黒書院溜之間(くろしょいんたまりのま)に伺候(しこう)した代表的家門・譜代大名の精鋭部隊が直接京都に進駐し、その最高責任者が実の兄弟であったという重みは大きい。こうして幕末の京都の治安と外交は、江戸の将軍老中の手を離れて、京都で独自の勢力を形成する会津と桑名の両藩、略して「会桑」、一橋慶喜も加えて「一会桑(いちかいそう)」と呼ばれる権力によって担われることになった。

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 「会桑」や兄弟の連携は、時に藩の利害を伴う相互牽制(けんせい)で複雑さを帯びるが、それは同じキャリアパターン(松下政経塾)をもつ者同士が協力しながら時には反発する政治の宿命に共通するともいえよう。(やまうち まさゆき)

                   ◇

【プロフィル】松平定敬

 まつだいら・さだあき 弘化3(1847)年、美濃(岐阜県)高須藩主松平家の七男として生まれる。伊勢(三重県)桑名藩主松平家に養子に入り安政6(1859)年に家督相続。元治元(1864)年、京都所司代となり京都の治安維持にあたる。戊辰戦争では主戦論を説くが敗北。明治2(1869)年、伊勢の津藩に預けられ、5年に許された。41年死去。


【幕末から学ぶ現在(いま)】
(134)東大教授・山内昌之 松平定敬(下)


敗者復活戦の美学

 伊勢国(三重県)桑名藩主・松平定敬(さだあき)は、テロの跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)する京の都で所司代を務めた。兄の会津藩主松平容保(かたもり)が京都守護職を引き受けたのと同じく、天皇の座所と市街地を守る治安維持のためである。

 鳥羽伏見の戦いで敗れても、東国大名の兄、容保であれば、京都を引き揚げて会津という国元に下がればよい。しかし京に近い桑名となれば、そうもいかない。

柏崎に移り抵抗覚悟

 徳川慶喜(よしのぶ)の姦計(かんけい)にたばかられ無理やりに大坂城を捨て江戸表(えどおもて)に連れていかれた定敬は、この“敵前逃亡”を恥とした。戦闘意欲は衰えなくても、徹底抗戦を貫く力は桑名藩の留守方には残っておらず、定敬の帰国も困難であった。

 事実、新政府軍の来襲を恐れた桑名の国元は、先代当主の遺児・万之助(後の定教(さだのり))を跡目に立て恭順することを決める。そこで定敬は、桑名藩の分領である越後国(新潟県)柏崎に移って抵抗する覚悟を固めた。

 柏崎には、藩中興の祖たる松平定信が白河藩主だった時分から陣屋が置かれていた。桑名本領の石高は5万石なのに、柏崎領は6万石を誇っていた。しかも、米どころ越後の分領の実高は7万石以上だったという。そこで100名の藩士たちは定敬に従って、ロシア船コリヤ号に乗り柏崎を目指したのである。

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 横浜を出帆した船には、会津藩士100名、長岡藩士150名も乗っており、北越戦線でやがて活躍する長岡藩のガットリング機関砲2門はじめ、大量の武器弾薬を満載していたらしい。

 この時、ひとまず江戸に残留した藩士のなかには、やがて雷神隊を指揮して新政府軍をさんざんに打ち破る立見(たつみ)鑑三郎(尚文(なおふみ))もいた。

 24歳の立見が率いた75人の雷神隊はじめ、致人(ちじん)隊や神風隊など350人ほどの桑名勢は、佐川官兵衛の会津隊、旧幕府歩兵差図役頭取だった古屋佐久左衛門の衝鋒(しょうほう)隊と並んで奥羽越で精強をうたわれた兵力にほかならない。北越戦争では桑名勢の活躍によって「官賊」はしばしば潰走を余儀なくされた。主人定敬の面目躍如というべきであろう。

 定敬は北越と会津の2つの戦線で実兄、容保と一緒に新政府軍と戦ってきたが、ついに別れの時がきた。戦況思わしくなく、容保は自分を「阿兄(あけい)」(兄を親しんで呼ぶ敬称)と呼び慕ってきた実弟を会津籠城に付き合わせ桑名藩の社稷(しゃしょく)を危うくすることに忍びなかった。

 このために定敬は、会津を去って仙台に向かい榎本武揚の幕府艦隊に身を投じて箱館へ渡った。

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 ところが、本藩では家督の継承も無事に済ませ本領も安堵(あんど)されたのに、前藩主がいつまでも弓を引いていると聞こえも悪いどころでない。“朝敵”として藩全体に累が及ぶかもしれない。そこで桑名藩家老の酒井孫八郎はひそかに横浜から箱館に渡り、主君、定敬を説き帰順を勧めた。この結果、定敬はアメリカの蒸気船に坐乗(ざじょう)して箱館を去り、榎本軍降伏の当日に横浜に入った。まもなく尾張藩を通して新政府に帰順の意を伝えたのである。

卑怯未練、少しもなく

 定敬は、将軍慶喜の恭順後も戦い続けたのだから、徳川恩顧の義理を十二分に尽くしたつもりであった。また、幕末以来ずっと戦い抜いてきた薩長への意地も貫いた気分だったに違いない。定敬の姿勢や覚悟には、どこを捜しても卑怯(ひきょう)未練な点は少しもない。また、明治10(1877)年に起こった西南戦争では、旧桑名藩士を率いて出征し薩摩人と思う存分に戦うこともできた。会津人ひいては実兄の容保と同じく、“戊辰の復讐(ふくしゅう)”を果たしたともいえる。さしずめ“朝敵回り持ち”ともいうべき不思議な縁を感じたはずである。

 作家の中村彰彦氏は、『闘将伝』(文春文庫)のなかで、「前譴(ぜんけん)を償い報効を表わさんとする旧桑名藩士は、旧臣立見尚文に従ってすべからく義勇奉公すべし」という趣旨の定敬の一文を紹介している。

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 定敬の許可を得て三重県に出張した立見は、450人の募集者を得たが、そのうち桑名人の応募は304人であった。

 また、会津藩領を含む福島県からは1136人が応募している。桑名と会津の両藩出身者で全国の応募者1万3千人の1割以上を占めたのである。“賊徒”や“朝敵”と名指しをされた者たちの深い恨みは、貴種の松平定敬と容保の兄弟にも共通していたに違いない。

 定敬は兄の後を継いで日光東照宮宮司の職を襲い、やがて従二位に叙せられて死没するのだから、まずまず以(もっ)て瞑(めい)すべしともいうべき生涯であった。立見は西南戦争終盤の城山攻略戦の最前線で最大の功労者となり、桑名人の名声を高からしめた。

 このように“敗者復活戦”がそれなりに機能していたのが日本人の隠れた歴史的美徳である。

尊敬されるリーダーは

 さて、政権交代を余儀なくされた自民党には浪々の日々が続く。果たして自民党は敗者復活を果たせるのだろうか。定敬や容保のように部下や民から慕われ尊敬されるリーダーを試練のうちに育てられるのだろうか。野党としての精彩の欠如が気になるところだ。(やまうち まさゆき)


【幕末から学ぶ現在(いま)】
(135)東大教授・山内昌之 市川三左衛門

「政治のねじれ」の厳しさ

 「ねじれ」とはもともと、数学で空間内の2本の直線が平行でなく、交わっていない状態を指すようだ。つまり同一平面に2直線が乗れない場合の互いの位置関係を意味した。この用語は、いまの政界では衆議院の多数派たる政権与党が参議院では少数派になり、野党が多数派を占める不規則な状態をもっぱら指す。「ねじれ国会」においては、与党の法案が参議院を通らず政権運営が袋小路に陥ることが多い。

 平成19年の参議院選挙以後に常態化した「ねじれ国会」は、自民党の安倍晋三元首相や福田康夫元首相の退陣につながることになった。二院制の議会がこうした状態をまったく想定していなかったとは言いきれない。

 そもそも、離合集散が習いの政治では与野党間に外交安全保障や財政金融政策などをめぐってねじれが生じることが珍しくない。綱領をもたない民主党内部では日米同盟すら否定しかねない首相も出るありさまであり、かえって与野党の一部が政策面で近づくねじれが現れている。

党争が恒常化した水戸藩

 幕末で政治的なねじれが恒常化していたのは、水戸藩であろう。その藩主徳川斉昭(なりあき)は宗家の社稷(しゃしょく)を守るべき御三家の一員でありながら、尊皇攘夷(じょうい)派の首魁(しゅかい)としてことごとに幕府の開国外交の足を引っ張る異様さであった。そもそも天皇中心の国家をつくるということは、政権を委任された幕府の威信と地位を相対的に低めることになるのだが、この矛盾をついに解決しきれず、幕末の水戸藩は凄惨(せいさん)な内部党争の末に自壊してしまった。

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 水戸藩のねじれは政治構造だけでなく、藩士の人間関係にも悲劇をもたらした。なかでも、天狗(てんぐ)党などの尊攘派から保守派門閥と忌み嫌われた市川三左衛門の立ち位置は、ねじれの矛盾の中心にいた故の悲劇で特徴づけられる。

 彼は小納戸頭、小姓頭、馬廻(うままわり)頭、大寄合(おおよりあい)頭などの要職を歴任し、門閥の諸生(しょせい)党のリーダーとして天狗党はじめ尊攘過激派と対立する宿命にあった。尊攘派による改革を牽引(けんいん)した徳川斉昭の死去後、藩主慶篤(よしあつ)は藩論の分裂を抑えきれず、いまや伝説の域に入った藩内抗争は激しさを増す一方であった。

 政治のねじれは、筑波山を占拠する天狗党など過激派の動きを鎮静化しながら水戸藩の一体性を回復しようとした藩主名代の常陸宍戸藩主、松平頼徳の奇妙な役割にも象徴されている。本来なら頼徳は、水戸城にいちはやく入り市川らを謹慎蟄居(ちっきょ)させる慶篤の意向を伝えて挙藩一致の姿勢を固めるべきなのに、武田耕雲斎(こううんさい)ら激派の供(とも)を許し藤田小四郎ら天狗党が軍列に従う既成事実をやむなく追認してしまった。

 討伐すべき対象の天狗党と一緒になって水戸城の国家老たちを罷免する動きを示し藩兵とも戦うはめになったのだから、これ以上の政治のねじれはないだろう。市川はこのねじれを幸いに、支藩の藩主たる頼徳が天狗党に通牒(つうちょう)しているとして、幕府に強い処分を要求する。この結果、頼徳は切腹を命じられた。頼徳は何の因果で名代でありながら死を賜(たま)わったのか、自分の運命を呪うような気分であったろう。

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「忠が不忠になるぞ悲しき」

 市川は幕府の援助を受けて天狗党を敗走させた後、執政として藩の最大実力者となったが、よいことばかりではない。天狗党の家族まで処刑した市川は、大政奉還から鳥羽伏見の戦いにいたる政治情勢の急展開と、水戸藩出身の将軍慶喜の水戸謹慎による政治構造の逆転で、思いがけず野党の立場に落とされた。これもねじれなのである。

 市川に言わせるなら、諸生党対天狗党の対立といっても藩内の主権をめぐる争いであり、自分たちは京都の朝廷や官軍に弓引くものでないという気分があった。しかし、政治の全国性を見ない屁理屈というものである。このあたりの市川の心理状態は、穂積忠氏の最新作『忠が不忠になるぞ悲しき』(日新報道)にもよく描かれている。

 京都では天狗党の別動隊ともいうべき本圀寺(ほんこくじ)党が慶喜を一貫して警護していたが、鳥羽伏見の敗戦以後は官軍としての旗幟(きし)を鮮明にし、故郷の水戸に迫る勢いを示した。水戸に来る官軍が薩長や他藩の部隊なら市川も恭順していたかもしれない。しかし、凄惨な血の復讐(ふくしゅう)が待っている運命を甘受する気は更々なかった。

 市川は、諸生党を率いて水戸を脱出、奥羽と越後の各地を転戦して新政府軍と戦う。諸生党の勇敢な戦いは戊辰戦争の隠れたクライマックスである。会津落城後の落魄(らくはく)ぶりと悲惨な境遇には驚きを禁じえない。

 行き場のない市川らはまたしても水戸へ帰還し、藩校弘道館に拠(よ)りながら水戸城の本圀寺党らと「弘道館戦争」を展開した。市川は2人の息子を失いながら下総方面へ敗走して、勢力としての諸生党は壊滅した。

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 この後、江戸に潜伏した市川は、藩の捕吏に縛されて水戸へ移送され逆磔(さかばっつけ)の極刑に処された。血が逆流して意識を失うまで逆さ吊りにし、また正常位に戻して意識を回復させるサイクルを繰り返す残酷な刑である。市川三左衛門の辞世は、政治が本当にねじれた場合の厳しさを現代人にも教えるかのようだ。

 君がため捨つる命は惜しまねど忠が不忠になるぞ悲しき(やまうち まさゆき)



【プロフィル】市川三左衛門

 いちかわ・さんざえもん 文化13(1816)年、水戸藩士の家に生まれる。大寄合頭、家老など藩の要職を歴任。元治元(1864)年の天狗党の乱では、佐幕派の諸生党を率いて天狗党関係者を徹底的に弾圧し、自ら執政となり藩の実権を握る。戊辰戦争では各地を転戦した末、国外逃亡を図るが捕らえられ、明治2(1869)年に処刑された。


【幕末から学ぶ現在(136)】
吉田松陰・番外編(上) 東大教授・山内昌之

教えながら学ぶ人

 
 晩秋の10月も押し迫ってから長州萩に出かけてきた。萩博物館で「世界史のなかの吉田松陰」と題して講演するためである。

 萩は現在でも、古地図さながらに由緒ある街並みと武家屋敷のたたずまいを残している。この静かで穏やかな住人に接すると、幕末に狂気をはらむエネルギーを発散させた長州人と共通するものがないかに見える。萩市役所や博物館の皆さんはどこまでも物静かで親切このうえもない人たちだからである。

 しかし、講演が終わって質疑に移ると、穏健な萩人の内面にひそむ歴史への誇りと先人への奥ゆかしい尊敬心がにじみ出てくる。こと歴史となると、人びとは熱く過去を語り現在に及ぶのである。なかでも「松陰先生」と必ず敬称をつけるのがならいの地では、松陰への敬愛の念が自然ににじみ出てくる人も多く、職業柄歴史上の人物を呼び捨てにする私などはいかにも“異邦人”めいた存在というほかない。それでも、外から来た人間、それもイスラムや中東を本来の専門とする学者の松陰論を虚心坦懐(きょしんたんかい)に聞いてくれるあたりに萩人の懐の深さがあるといえよう。

 松陰の生きた時代は、環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)への加盟交渉への参加すら逡巡(しゅんじゅん)し、円高・金融不安に揺れながら、まかりまちがえば沖縄県民の離反を招きかねない日米関係の歪(ゆが)みが進行する現在と共通する点も少なくない。

 松陰は、外国人の圧迫で日本が消滅しかねない危機の深化のなかで、日本史と世界史が人びとの日常生活から外交安全保障に至る多領域で切迫した危機を最初に意識した日本人の一人である。

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明治維新の精神的指導者、吉田松陰の肖像 (国立国会図書館蔵)

焦りにも似た義務感

 浦賀にペリーの黒船到来と聞くと、松陰は矢も盾もたまらず夜に船を出したが船脚は遅く、風も潮も思わしくなく翌朝10時にやっと品川に着いた。すぐに上陸し陸路で目的地に向かい、夜10時にたどり着いた。

 この行動力こそ現代人が松陰から学ぶべき点である。船の方が理屈では早く着き、身体にも疲れが残らないはずだ。しかし自分だけの楽や、わがままを求めないのが松陰なのだ。

 風も潮流も順調でなく思いや気だけはせく一方である。それでも、浦賀に寸秒も遅れずに見るべきものがあると信じるからこそ、自分の目で見届けたいのだ。何をおいても気迫が理屈に勝るのが松陰なのである。

 自分の見聞が一秒でも遅れるなら、国の滅びもそれだけ早まると考えるのが松陰の発想であった。この焦りにも似た義務感が松陰に陸路をとらせ昼夜兼行の強行軍となった原因である。松陰も初めて見た蒸気船の威容に度肝を抜かれた。

 松陰は、日本の台場(砲台)にある大砲の数もすこぶる少ないと地団太(じだんだ)を踏んでくやしがる。こうした混乱状況で松陰の師筋たる佐久間象山と塾生たちも多数集まってきたが、「議論紛々に御座候」と師たちも周章狼狽(しゅうしょうろうばい)するありさまが手にとるように分かる。松陰が幕府の老中など門閥大名はもとより象山とも違うのは、国際情勢など冷静に分析し、何故に日本がかかる事態に陥ったのかを学び、何をなすべきかを検討するあたりであろう。松陰といえば熱情をすぐに連想するが、緻密な冷静さでも際立っていたのである。

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明治維新の精神的指導者、吉田松陰の肖像 (国立国会図書館蔵)

東アジアの国際戦略

 松陰は、遅れた軍事力を抱えたまま国際政治のパワーポリティクスに対面した日本が外国軍艦の襲来に対処できる道筋を考えた。第一は西洋兵学の採用による軍事的近代化と貿易勧業による富国強兵への道である。第二は、「帝国主義の時代」が近づく19世紀半ばの東アジアで国際戦略を作りあげることだった。

 松陰は、養家の吉田家が山鹿流兵学を教える師範であり、軍事戦略にも関心を示したのも当然である。吉田寅次郎こと松陰は、わずか10歳で藩校明倫館で兵学を講義し、11歳で御前講義をした神童の誉れ高い少年であった。それでいて才に溺れ傲慢になることもない。西洋式の大砲や軍艦の購入や製造から洋式訓練や陣立の導入、外国語教育の実施など説く方向は多岐に渡っていた。

 松陰は人に向かって説教するだけでなく、自らも西洋兵法を学ぶことを決意した。懸案があれば、教師でありながら生徒として新たに学ぼうとするのだ。松陰の底知れぬ謙虚さはいつも向学心に結びつくのである。TPPの問題などに直面して狼狽する政治家に必要なのは、松陰のように「教えながら学ぶ」「学びながら教える」といった柔軟な姿勢であろう。(やまうち まさゆき)

                   ◇

【プロフィル】吉田松陰

 よしだ・しょういん 文政13(1830)年、長州(山口県)藩士の家に生まれる。藩校明倫館を経て、諸国を遊学。佐久間象山に蘭学や砲術を学ぶ。安政元(1854)年、停泊中のペリー艦隊に乗り込み密航を訴えるが、拒絶され投獄。出獄後、萩で「松下村塾」を開き、高杉晋作ら明治維新で活躍する人材を多く育てた。安政6(1859)年、安政の大獄により江戸で処刑された。


エンターテインメント
ミュージカル「薄桜鬼 斎藤一編」 来春、美少年たちが乱舞
 美少女たちの躍動が見られる映画があれば、美少年たちの熱い戦いを見られる舞台もある。エンターテインメント企業のマーベラスAQL(東京都品川区)が来年春に開催予定の「ミュージカル 薄桜鬼(はくおうき) 斎藤一編」は、人気の恋愛シミュレーションゲームで、テレビアニメーション化もされた作品の舞台版。原作では新選組の隊士たちが闇の存在を相手に戦うストーリーのなかに、隊士たちの過去や、互いの関係が描かれ、女性ファンを引きつけた。

 ミュージカルは、殺陣のシーンが評判の劇団「30-DELUX」とのコラボレーションで展開。斎藤一役に松田凌(りょう)、沖田総司役に廣瀬大介と、ともに20歳の若手俳優を起用して、アクションもあれば歌もダンスもある情熱のステージを繰り広げる。

 「斎藤一役をやらせていただけると聞いたとき、頭の中で整理がつかないくらいうれしかった」と松田。「うれしい気持ちだけでは演じられない。責任を果たせるように頑張りたい」と、大役への強い意欲を見せた。廣瀬は「課題は殺陣。歌もダンスも演技も未熟だが、殺陣は初めての挑戦になるので、沖田総司と思ってもらえるよう頑張る」と、沖田役に向かう決意を示した。

 (谷口隆一、写真も/SANKEI EXPRESS)

 美少年といわれるとちょっと引きます……『薄桜鬼』斎藤一は青年だと思うので(笑)。

”薄桜鬼”がアクションゲームとなって登場!PSP「薄桜鬼 幕末無双録」2012年2月23日発売
ばったばったとなぎ倒す、爽快アクションここに開幕。

アイデアファクトリーより、PSP専用ソフト「薄桜鬼 幕末無双録」が2012年2月23日に発売される。
 
同作品は、アドベンチャーゲーム「薄桜鬼 新選組奇譚」をモチーフにした爽快アクションゲーム。プレイヤーは、薄桜鬼に登場する新選組の隊士となって、新選組を勝利に導く事になる。

また、公式webサイトでゲーム画面のスクリーンショットも公開されている。

なお、「薄桜鬼 幕末無双録」」の価格は通常版6,090円(税込)、限定版8,190円(税込)。

【記事:フェイトちゃん】




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