新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
その2です。
青森
斗南藩士・廣澤安任:末えいが足跡、本に 八戸の安正さん、出版 /青森
福島
「オペラ白虎」制作へ 会津若松の市民グループ
白虎隊をテーマに新作オペラを制作へ
磐城・平城の本丸跡を歩く会/参加者を募集
郡山(福島) 明朗 開拓者精神 今も
栃木
先祖の恩返しに拝殿幕 那須塩原の渡部さん、那須・高久神社に寄贈
神奈川
かながわ遊ナビ:坂本龍馬の活躍描くミュージカルオペラ /神奈川
山形
出版:「なぜ西郷隆盛が祀られたか」 季刊誌「日本主義」で庄内藩特集 /山形
茨城
安政の大獄から150年 “因縁の歴史”雪解け加速
古式の火縄銃を披露 土浦
千葉
らんどまあく@千葉
富津岬沖の海堡
山梨
龍馬の姉・乙女の魅力伝える 15日、剣道大会でひ孫の岡上さん 前向きな生きざまを紹介
長野
上田藩主暗殺未遂事件などを紹介 上田で資料展示
「和田嶺合戦」の戦死者しのぶ
石川
火薬製造の遺構確認 加賀藩の土清水塩硝蔵 辰巳用水引く水路も存在
滋賀
井伊家子孫らが初の旧水戸藩士墓参りへ
彦根城300分の1模型が一新
京都
龍馬の酒続々発売 伏見に活気
来年の大河ドラマ当て込み
龍馬 恋愛成就 見守るぜよ NHK大河決定後カップル続々 京都・武信稲荷神社
高知
罪状無念…龍馬の盟友、武市瑞山の切腹直前の書状見つかる
佐賀
朝日新聞財団 鍋島家の人形修復助成
福岡
武家屋敷跡からスペンサー銃の弾46発…久留米
長崎
小﨑侃さん制作の龍馬像完成 長崎・丸山公園で15日除幕
対馬の資料館所蔵の2印章、旧藩主に朝鮮国王発給
IT
ケータイで龍馬を一人前の武士に育てよう! iモード『いつでも手のり龍馬』11月16日配信開始
なかなか面白そうですね。土方さん版があったらなぁ……土方さんを「手乗り」で育ててみたいじゃないですか(爆)。
史実も! 恋愛も! 幕末志士たちとの同居生活を楽しめる女性向けゲーム『幕末志士の恋愛事情』iモードにて配信開始
こっちは幕末の志士たちと同居できるんですね……土方さんとは同居できないようですが(笑)、まぁ女性は新選組に入れないですから同居はできませんね^_^;。
文化
寺田屋事件で龍馬が使用?米S&W製回転銃
コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】(36)東大教授・山内昌之 児玉源太郎
青森
斗南藩士・廣澤安任:末えいが足跡、本に 八戸の安正さん、出版 /青森
青森県の発足に尽力するなど県の成り立ちに大きく貢献した斗南(となみ)藩士、廣澤安任(やすとう)(1830~91)の足跡をたどった本「活人剱(かつじんけん)、活人農」を、安任の末えいにあたる八戸市の会社役員、廣澤安正さん(59)が出版した。
廣澤安任は会津藩に生まれ、戊申戦争で敗れた会津が、現在の青森県下北、上北、三戸郡付近に斗南藩を興すことを許された際、青森に移住した。
71年の廃藩置県では、農業基盤の安定した津軽地方と経済力の弱い県南地方の合併を提言し、現在の青森県の誕生に寄与した。また海外の肉食文化を取り入れようと、日本で初の洋式牧場を現在の三沢市に開設した。
本では、会津藩士として藩主に尽くし、斗南藩に移ってからは青森の発展に力を注いだ安任の苦労や功績が丁寧に書かれている。大久保利通ら新政府とのかかわりについては、家に残っていた資料や安任に関する書籍を読み解き、廣澤さんなりの解釈を記した。
廣澤さんは「安任は不器用だが、自分がこれと思うことを追求する情熱と信念を持っていた。明治維新のころの日本人には国をどうにかしたいという熱い思いがあった。(安任の生き方には)現代に訴えるものがあると思う」と話している。
本は税込み1890円で、県内の書店などで販売されている。【喜浦遊】
福島
「オペラ白虎」制作へ 会津若松の市民グループ
福島県会津若松市の市民グループが中心になって、白虎隊をテーマにした市民参加型の「オペラ白虎」が制作されることが決まった。
本年度から取り掛かり、2012年度に会津若松市と東京都での公演を計画。白虎隊を通して愛や平和を訴えるとともに、地域観光への貢献も目指している。
オペラ制作の中心になるのは同市の地域振興芸術委員会(宮沢洋一委員長)。11年度までに完成させるという。
制作スタッフはいずれもプロで、同市出身の指揮者佐藤正浩氏が芸術監督を務める。作曲家加藤昌則氏と声楽家宮本益光氏が、それぞれ作曲と台本を担当、演出家岩田達宗(たつじ)氏が演出担当になる。オペラに参加する合唱団約80人は市民から公募する。
佐藤氏は「地域発のオペラは初演だけで終わることが多いが、今回は繰り返し上演できるようにしたい。福島県は合唱が盛ん。オペラが豊かな音楽体験の場になるようにしたい」と話す。
地域振興芸術委は「観光型地域オペラ」を目指すという。そのためにオペラをハイライトで短く紹介したり、曲をコンサート形式で演奏したりして、上演回数を増やせるよう工夫する。
地元でIT関連のベンチャー企業を経営している宮沢委員長は「今の時代を反映した新しい作品にして、次世代に引き継ぎたい。会津若松市の活性化にも結び付けたい」と言う。
オペラ制作までの間、体験型講座やフォーラム、それらの成果を発表する演奏会なども開催する。本年度分の講座は来年1月から4回、小中学生を対象にオペラ「夕鶴」を取り上げる。
白虎隊をテーマに新作オペラを制作へ
会津若松市出身の世界的な指揮者佐藤正浩さんが芸術監督となり、白虎隊の悲劇をベースに愛や平和などをテーマとしたオペラ「白虎」が制作される。
平成24年度の初演に向け、地元会津でワークショップなどを催し、舞台への住民参加に結び付ける考えだ。
幕末の会津の歴史を題材にした日本を代表する歌劇を目指す。
磐城・平城の本丸跡を歩く会/参加者を募集
磐城平城の歴史を学ぶ体験学習会「本丸跡を歩く・見る・考える」は21日、いわき市平字旧城跡の本丸跡などで開かれる。
15日まで参加者を募っている。
市内の有志でつくる磐城平城跡公園の会が、城跡の保存と活用を目指して6月に開いたシンポジウムに続く活動。
いわき商工会議所の共催。
城跡は民間の所有地となっているため、普段はなかなか入れない本丸跡などが見学できる。
当日は午前10時から戊辰戦争後に旧藩主・安藤家が暮らした住宅で座学を行い、磐城平城の概要や歴史などについて理解を深める。
正午からは昼食を取りながら本丸跡を散策、周辺に伝統のいわき絵のぼりを掲げて雰囲気を盛り上げる。
午後1時半ごろから再び旧安藤家住宅でまとめの場を設ける。
定員100人。
保険代、資料代などを含み参加費1千円。
昼食、飲み物は各自持参する。
磐城平城は戊辰戦争で落城、城跡は明治初期に磐前県から民間に払い下げられた。
問い合わせは商工会議所電話0246(25)9152へ。
郡山(福島) 明朗 開拓者精神 今も
「今の自分たちがあるのは開拓のおかげ。疎水(水路の新設や通水)で水田が開けたのだから、米作りには思い入れがありますよ」。古川勝幸さん率いる「漢方無農薬研究会」の一員、安田潤一さん(46)が言う。会津藩士だった祖先が400年前にこの地に移り住み、安田さんで17代目という。「戊辰戦争で負けたから、水をもらうにも後回しにされて苦労したようです」と開拓の秘話を語る。
湖水東注――それがかつての寒村、安積地方の悲願だった。奥羽街道の宿場町だったが降雨量が少なく、たびたび干ばつに見舞われた。日本海に注ぐ広大な猪苗代湖から何とかして水を引きたいと人々は考えた。
「ちょうど廃藩置県で困窮する侍たちを救う開墾地が必要でした。内務卿だった大久保利通が、この場所に目を付けたんです」と鈴木剛之さん(72)。開拓の拠点で現在は資料館となっている「開成館」で案内ボランティアを務める。
果たして、奥羽山脈にトンネルを掘り、原野に水を通す大規模な疎水工事が行われることになった。わずか3年で延べ85万人の労力と、今の金額にして400億円相当の工費が投入され、130キロに及ぶ水路が1882年(明治15年)に完成した。人口5000人の村に、近隣の会津や二本松を始め、九州・久留米や四国・土佐など9藩から2000人が入植し、開墾に励んだ。明治政府の大規模開発事業の第1号だった。
張り子のトラの絵付けをする92歳の現役人形師、橋本ミヨシさん 「フロンティアスピリットっていうのかな、排他的じゃなくて明朗闊達(かったつ)、悪く言えばがさつ。そんな気質が郡山の人にはありますね」。鈴木さんが快活に笑う。
母なる湖を望もうと、車を走らせた。市の西端にある標高1000メートルの布引(ぬのびき)高原。ダイコン畑に高さ100メートルの風車33基が巨大な羽根を回す。現代の「開拓」の風景がそこにはあった。年間1億2500万キロ・ワット時の電力を作り出す、国内最大級の風力発電所。展望台からは青々と水をたたえた猪苗代湖と磐梯山、那須連山や安達太良山など、360度のパノラマが楽しめる。
貧しい時代に人々の心を慰めた郷土玩具も忘れてはならない。300年前から作られている高柴地域の張り子人形。大黒様や舞い姿。躍動感あるしぐさや目を細めて笑う表情など、見ているだけで楽しくなる。
工房集落「デコ屋敷」の一軒、大黒屋には92歳の現役人形師がいる。橋本ミヨシさん。21代目の当主、彰一さん(34)の祖母だ。20歳で嫁いで以来、人形を作り続けている。毎日工房にちんまり座り、観光客と会話を楽しみながら来年の干支(えと)、トラの張り子に注意深く絵筆を走らせる。「そんなにたくさんできないの。年だからね」。完成するトラは1日2、3個。素朴さが人気を集め、来年2月分まで予約でいっぱいだという。
「伝統って、いつまでも古びないフレッシュなものなんです」。彰一さんの言葉に共感した。
■アクセス
東北新幹線で東京から郡山まで1時間20分。
■開成山公園
市中心部にあり、安積開拓への布石となった最初の開墾地。大久保利通やオランダ人技術者ファン・ドールンら開拓の尽力者たちをテーマにした彫刻「開拓者の群像」=写真=が立つ。周辺には開拓ゆかりの開成館や安積歴史博物館もある。
■家庭用漢方農法商品
古川さんが使っている漢方活性剤や虫よけなどには家庭用シリーズ「Kampo Garden」もある=写真=。1000倍に薄めて使う活性剤(150cc)3200円、プランター栽培用の土(4リットル)1600円など。NPO法人「漢方環境安全対策普及協会」の製造で、発売元はアトリエ・ユキヤナギ((電)03・6325・0545)。
■問い合わせ
郡山市観光協会((電)024・924・2621)。古川農園((電)024・952・8854)。
(2009年11月4日 読売新聞)
栃木
先祖の恩返しに拝殿幕 那須塩原の渡部さん、那須・高久神社に寄贈
【那須】「先祖を助けてくれた神社に恩返ししたい」と、那須塩原市大黒町の無職渡部健助さん(78)はこのほど、高久甲の高久神社に拝殿幕を寄贈した。新装された幕は縦1・5メートル、横9メートルで、左三つどもえの紋がある。従来の幕は、同神社が合祀により建立された1915(大正4)年から使われており、全体が黒ずみ傷みも激しかった。26日の秋季大祭で披露される。
渡部さんによると、渡部さんの祖父らは明治時代中期、仕事探しのため福島・会津地方から上京。だが当時、戊辰戦争の影響で会津出身者は「賊軍」扱いされ職に就けなかった。失意の帰郷途中、衣食に困っていたところ、同神社宮司らの温かいもてなしを受けそのまま土着したという。
また、昨年5月に亡くなった妻の純子さんは同神社宮司家の出身。亡くなる直前に、同神社で桜の花見という思い出づくりもできたという。
渡部さんは「私たちが幸せに暮らして来られたのは神社や地元の人たちのおかげ。これからも地域の皆さんに神社を守っていただきたい」と述べた。
同神社宮司の清水寛治さん(59)は「幕は傷みが激しかったが、資金的な事情もあり新装できなかった。氏子の皆さんにも喜んでもらえると思う」と話していた。
神奈川
かながわ遊ナビ:坂本龍馬の活躍描くミュージカルオペラ /神奈川
◇25・26日、横浜・中区 来月1日、横須賀
幕末に奔走した坂本龍馬の活躍を歌と踊りで描くミュージカルオペラ「龍馬」が11月25、26日に横浜市中区の横浜関内ホールで、12月1日に横須賀市本町3のよこすか芸術劇場で、それぞれ上演される。各回先着30組をペアで招待する。
龍馬をバリトン歌手の平良交一さん、勝海舟を野口五郎さんが演じるなど豪華で多彩なキャストがそろう。脚本はジェームス三木さん、演出を江守徹さんが手掛けるなどスタッフも充実。振り付けは、龍馬の出身地・高知県の「よさこい鳴子踊り」を現代風にアレンジし全国に広めた國友須賀さんが担当する。
舞台は幕末の黒船来航で始まる。当時19歳の龍馬が、黒船と大砲のごう音に衝撃を受け、世界に目を向ける勝海舟とのかかわりや大政奉還などに尽力した姿を描く。広報担当者は「幕末の英雄の姿を通して、子供たちに何を残せるのかを伝えたい」と話している。
いずれも午後6時開演。チケットは全席指定でSS席1万2000円、S席1万円、A席7000円。問い合わせ先は龍馬東京オフィス(03・5284・8440)。【中島和哉】
山形
出版:「なぜ西郷隆盛が祀られたか」 季刊誌「日本主義」で庄内藩特集 /山形
◇精神文化を再考
季刊誌「日本主義」(東京・白陽社)の庄内藩特集が出版され、庄内地方を中心に話題になっている。
「庄内藩の秘密 庄内の地になぜ西郷隆盛が祀(まつ)られたか」と題した特集。戊辰戦争で賊軍とされた庄内藩だが、西郷隆盛から極めて寛大な措置を受けた。庄内藩は西郷隆盛を敬慕し全国的に有名な「南洲翁遺訓」を刊行。また76年には酒田に南洲神社が創建された。
特集はこれら庄内人の精神文化を再考する形で構成。鶴岡市の到道博物館館長で庄内藩主酒井家18代当主の酒井忠久さんらの座談会▽戊辰戦争の実相、酒田・本間家のマンパワー▽鶴岡市出身の作家藤沢周平の文学--など地元の著名人を交え多彩に展開している。
「日本主義」は日本文化の価値を見直そうと幕末・明治維新にスポットをあて2年前に発刊。長岡藩(新潟)や会津藩(福島)などを扱ってきた。「庄内藩」の今号は酒田の書店や南洲神社、山居倉庫、鶴岡の到道博物館などで扱っている。1050円。【佐藤伸】
茨城
安政の大獄から150年 “因縁の歴史”雪解け加速
幕末の「安政の大獄」で尊王攘夷(じょうい)派の志士らを弾圧し、水戸浪士らによる「桜田門外の変」で暗殺された江戸幕府大老・井伊直弼の地元、滋賀県彦根市の獅山向洋市長ら一行が二十一日、水戸市を訪れ、大獄で刑死した水戸藩家老の安島帯刀ら三人の墓参りをすることが分かった。水戸市と親善都市を結ぶ彦根市の市長らが水戸藩士の墓参りをするのは初めてという。来年は「桜田門外の変」から百五十年。今回の墓参りを機に、“因縁の歴史”の雪解けがより一層進むものとして期待されている。 (吉原康和)
安政の大獄は、一八五八(安政五)~五九年、井伊直弼が、勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印し、十三代将軍の後継者に紀州藩主徳川慶福(後の十四代将軍徳川家茂)を決定したことに反発した大名、公家、志士ら百人以上を大量弾圧した事件。五九年、水戸藩の安島帯刀や長州藩士の吉田松陰、福井藩士の橋本左内ら計八人が死罪となり、翌年三月に起きた「桜田門外の変」の一因とされる。
墓参りに訪れるのは獅山市長のほか、井伊家十八代当主・井伊直岳さんら。二十一日に予定されている水戸藩開藩四百年記念シンポジウムなどに参加後、安島帯刀の墓のある酒門共有墓地、同藩京都留守居役鵜飼吉左衛門ら二人の墓のある常磐共有墓地を訪れる。
彦根市では、安政の大獄から百五十年に当たる今年八月以降、獅山市長ら一行が、大獄で死罪となった吉田松陰や橋本左内の地元の山口県萩市、福井市などを相次いで訪れ、歴史的な和解を果たした。今回の水戸藩士の墓参りはこれに続く第三弾といえる。
水戸市と彦根市は、安政の大獄や桜田門外の変以来の歴史的わだかまりを超え、明治維新から百周年に当たる一九六八年、親善都市を締結。以来、さまざまな交流を続けている。
水戸市の加藤浩一市長は「(大獄や桜田門外の変で殉職した双方の関係者は)立場の違いこそあれ、国を思う気持ちは同じだった。今回の水戸藩士への墓参りは大変ありがたいこと。私自身もしかるべき時期に井伊直弼公のお墓参りなどをしたい」と話している。
古式の火縄銃を披露 土浦
土浦藩に伝わった関流古式炮(ほう)術(火縄銃)の公開演武が、中央一の土浦城址本丸内で開かれた=写真。市、市観光協会などが主催。昨年は雨で中止になったが、毎年行われ今回が第十五回。
関流宗家の初代誕生は慶長元(一五九六)年といわれ、土浦藩土屋家の炮術指南として伝授され、幕末まで続いた。撃ち手が一人ずつ、立放ちや片ひざ立ちに構えて火縄銃を次々に発射。それを十一代宗家の関正信さんが解説した。連射による豪快な釣瓶(つるべ)撃ちも披露。大勢の観客の中には外国人グループもいて、伝統の妙技に見入っていた。 (塙幸雄)
千葉
らんどまあく@千葉
富津岬沖の海堡
「ひどく崩れている。これでは100年後には海に戻ってしまう」。10月下旬、富津岬の先端の東京湾口に浮かぶ第一海堡(かい・ほう)を一緒に海から見た東京湾海堡ファンクラブの小坂一夫会長(62)が顔を曇らせた。海堡南側に、以前にはなかった大きな崩れを見つけたのだ。
島全体が薄茶色だった。台風の大波が打ち寄せたのだろう。「大南(強い南風)で海堡全体が潮をかぶったに違いない」
岬の西方、富津市域の東京湾にある二つの島が海堡だ。往来する船に、そこが湾口であることを告げるランドマークだ。
海堡はもともと、明治国家が首都・東京を防御する砲台を据えるために築いた人工島だ。深い海、潮流も速い。ろくに土木機械もない時代、軍に雇われた富津の漁師や農民が石や土砂を運び、作業に携わった。
同市千種新田に住む雨笠正昭さん(68)の祖父も現場で働いた一人だ。「おじいさんの首の後ろに大きなコブがあった。モッコを担いで石や土砂を運び、タコになったと言っていた」
第一海堡の近くまでノリ養殖の網が広がっていた。岬の外湾側は新富津漁協の漁場だ。沖合約3キロ、岬に沿って6キロほどの海に179区画。漁場というより水を張った田んぼのようだ。
漁場の6地点で、漁協の観測船「拓南」が海水温や透明度などを調べている。平野裕巳船長(62)は「海は毎日、表情が違う。海中も浅瀬ができたりなくなったり日々変わる」と話す。
海堡から砲弾が発射されることはなかった。「しかし」と安室真弓・同クラブ幹事(76)は強調する。「日露戦争ではロシアのウラジオストク艦隊が房総沖に現れたが、海堡が抑止力になった。海堡がなかったらロシア艦が湾内に入り、東京は艦砲射撃されたに違いない」
第一海堡は岬と陸続きで自由に遊びに行けた時代もあった。今は海が遮り、財務省も不発弾存在の可能性を理由に立ち入り禁止を続ける。海上保安庁が管理する第二海堡も上陸禁止だ。
幕末、黒船の砲艦外交から江戸を守った品川沖の台場は国史跡で都立公園になっている。明治期の緊迫した国際情勢と海洋土木技術の高さを象徴する歴史遺産である二つの海堡は、荒れ果てたままだ。(高山修一)
山梨
龍馬の姉・乙女の魅力伝える 15日、剣道大会でひ孫の岡上さん 前向きな生きざまを紹介
幕末の志士・坂本龍馬の姉・乙女のひ孫にあたる岡上汎告さん(69)=南アルプス市西野=が15日、山梨市民総合体育館で開かれる千葉さな子杯剣道大会(山梨龍馬会、甲斐援隊主催)で曾祖母の乙女を語る。当日は、女性剣士の参加児童らを前に祖母や家族から語り継がれる乙女の人間像や生きざまを紹介。子孫だからこそ知る魅力を披露する。岡上さんは「剣術などにたけた乙女だが、常に前進していく強い精神面を中心に伝えていきたい」と話している。
岡上さんなどによると、坂本乙女(1832-79年)は剣術や馬術、弓術にたけ、剣術を龍馬に教えたことでも知られる。岡上さんは幼少時代、高知県内に住み、小学1年時の7カ月間は乙女の娘で自身の祖母にあたる菊栄と過ごした。
「口の人になりな 心の人になりよ」-。菊栄の「口先だけでなく、心豊かな人になりなさい」という意味の言葉が一番印象に残り、「乙女から菊栄、そして子孫へと語り継がれた思い」と説明する。菊栄などから聞いた話で、乙女の人間像が浮かび上がるといい「型破りな女性で、自立心が強く、前向きな人だった」と話す。
岡上さんが語る剣道大会は今年で5回目を迎え、龍馬のいいなずけとされる女性剣士千葉さな子を偲しのぼうと始まった。大会を含めて乙女を大勢の前で語るのは初めてという。岡上さんは「曾祖母の話から龍馬やさな子への興味を深めてもらうとともに、礼儀や心の大切さを知ってもらいたい」と話している。
剣道大会は15日午前9時半スタート。岡上さんの話は閉会式内で午後1時ごろの予定。
長野
上田藩主暗殺未遂事件などを紹介 上田で資料展示
上田市立上田図書館で10日、幕末に起きたとされる上田藩主暗殺未遂事件などを記した「上田縞絲之筋書(じまいとのすじがき)」や関連資料を並べた「貴重資料紹介展 幕末藩主暗殺疑獄」が始まった。
絲之筋書は、1868(明治元)年に上田藩士が書き残した文書を同市出身の飯島花月が1913(大正2)年に書き写して加筆。上田藩最後の藩主松平忠礼(ただなり)が稲荷山(千曲市)の宿で普段と異なる雰囲気を感じ、食事を取らなかったことや、飯島が稲荷山の老人から、家老の一人が忠礼の弟を藩主にするため、忠礼暗殺を企て食事に毒を盛ったと聞いた話が記されている。
上田市の主婦らでつくる古文書学習会「山なみ」(宮島かつ子会長、25人)が読み下した粗筋や藩士の経歴などを冊子にまとめ、館内で500円で販売。登場する藩士の屋敷を記した地図や松平氏の系譜なども展示している。
宮島会長は、絲之筋書について、忠礼暗殺を企てたとのうわさがあった家老と対立した別の家老側の視点で書かれているとし、「史実としてでなく、小説として読んでほしい」と話していた。(提供:信濃毎日新聞)
「和田嶺合戦」の戦死者しのぶ
下諏訪町の青木悟町長など役場関係者や住民ら約30人は10日、145年前の幕末に同町と長和町境の和田峠で起きた「和田嶺(れい)合戦」で戦死した水戸浪士をまつる浪人塚(下諏訪町樋橋)と松本藩士の墓(同町東町中)を訪ねて冥福を祈った。水戸市からも浪士の子孫をはじめ、浪士をまつった回天神社の役員ら5人が訪れ、交流している地元住民との再会を喜んだ。
石川
火薬製造の遺構確認 加賀藩の土清水塩硝蔵 辰巳用水引く水路も存在
加賀藩の黒色火薬製造施設だった土清水(つっちょうず)塩硝蔵(えんしょうぐら)跡(金沢市涌波町)で進められている同市の発掘調査で、火薬の原料を粉末に加工していた「搗蔵(つきぐら)」の遺構が12日までに確認された。同塩硝蔵で製造施設の存在が明らかになるのは初めて。辰巳用水から水を引き込む水路跡も確認され、市は国史跡指定を申請している同用水の文化的価値がさらに高まるとみている。
市は、幕末から明治初期にかけての土清水塩硝蔵の配置を記した「土清水製薬所絵図」などを参考に発掘調査を行った。広さ約8万平方メートルに及んだとされる塩硝蔵敷地で、搗蔵が存在したとみられる東側の1カ所で東西方向に11メートル、南北方向に2メートル掘削したところ、直径約50センチの円を囲むように石が並べられた遺構が見つかった。
市はこの円形の集石遺構が搗臼(つきうす)の痕跡とみている。黒色火薬の原料となる塩硝、硫黄、木炭を搗臼の中に入れて粉末にしていた可能性が大きい。
集石遺構から約2メートル離れた場所には石が2列に並べられていた。幅約1メートルの水路跡で、敷地東側を流れる辰巳用水から水を引き込んでいたとみられる。水流で水車を回し、杵(きね)を上下に動かしていたと想定され、土清水塩硝蔵と同用水との密接なかかわり合いがあらためて浮き彫りとなった。
塩硝蔵は軍事施設の性格上、史料が極めて少なく、実態は解明されていない点が多い。市は2007年度から発掘調査に乗り出し、これまでに塩硝を保存していたとされる硝石御土蔵(しょうせきおんどぞう)の遺構が見つかっている。
市は搗蔵の痕跡と内部構造の一部を確認したことで「製造過程に直結する主要施設の構造を理解することが可能となった」(市埋蔵文化財センター)としている。調査では、搗蔵の築造時に旧地形を掘り込んだ上に土を盛り、地盤改良していたことも分かったという。
市は14日、金沢歴史遺産探訪月間の一環として搗蔵の遺構跡で説明会を実施する。今年度は搗蔵に至る道路の遺構を確認するための発掘調査も実施し、土清水塩硝蔵の全容解明を目指す。
土清水塩硝蔵 もともと金沢城内に設けられていたが、火事が相次いだため1658(万治元)年に土清水に移転し、1870(明治3)年以降に廃止されたとみられる。加賀藩の塩硝は国産最良品質で生産量も最大とされた。五箇山の山間部で生産、湯涌などを経由する「塩硝の道」を通じて金沢に運び込まれた。
滋賀
井伊家子孫らが初の旧水戸藩士墓参りへ
幕末の「安政の大獄」で尊王攘夷派の志士らを弾圧し、水戸浪士らによって暗殺された江戸幕府大老・井伊直弼の地元、彦根市の獅山向洋市長らが21日、水戸市を訪れ、大獄で刑死した同藩家老の安島帯刀ら3人の墓参りをする。水戸市と親善都市を結ぶ彦根市の市長らが旧水戸藩士の墓参りをするのは初めて。来年は井伊直弼が暗殺された「桜田門外の変」から150年。今回の墓参りを機に、“因縁の歴史”の雪解けがより一層進むものとして期待されている。
安政の大獄は、1858(安政5)~59年、井伊直弼が、勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印し、13代将軍の継嗣に紀州藩主徳川慶福(後に14代将軍徳川家茂)に決定したことに反発した大名、公家、志士ら100人以上を大量弾圧した事件。59年、長州藩士の吉田松陰や福井藩士の橋本左内、水戸藩の安島帯刀ら計8人が死罪となり、翌年3月に起きた「桜田門外の変」の一因とされる。
墓参りをするのは獅山市長をはじめ、井伊家18代当主・井伊直岳さんら。21日に予定されている水戸藩開藩400年記念シンポジウムなどに参列後、安島帯刀の墓のある酒門共有墓地、同藩京都留守居役鵜飼吉左衛門ら2人の墓のある常磐共有墓地を訪れる。
彦根市では、安政の大獄から150年にあたる今年8月以降、獅山市長ら一行が、大獄で死罪となった吉田松陰や橋本左内の地元の山口県萩市、福井市などを相次いで訪れ、歴史的な和解を果たした。今回の水戸藩士らの墓参りはこれに続く第3弾。
彦根市と水戸市は、安政の大獄や桜田門外の変以来の歴史的わだかまりを超え、明治維新から100周年にあたる1968年、親善都市を締結。彦根市から白鳥、水戸市から黒鳥が贈られ、さまざまな交流を続けている。
水戸市の加藤浩一市長は「(大獄や桜田門外の変で殉職した双方の関係者は)立場の違いこそあれ、国を思う気持ちは同じ。今回の水戸藩士の墓参りは大変ありがたいこと。私自身も機会をとらえて、しかるべき時期に井伊直弼公の菩提(ぼだい)寺などにお墓参りをしたい」と話している。
(水戸支局・吉原康和)
彦根城300分の1模型が一新
国宝・彦根城を300分の1にした模型が一新され、城内の佐和口多聞櫓(たもんやぐら)で展示されている。幕末の大老・井伊直弼が青年期を過ごした「埋木舎(うもれぎのや)」や家老を務めた木俣家の屋敷など城の内堀と中堀の間の部分が新たに作られた。
元になった模型は、1971(昭和46)年に故・藤島亥治郎東大名誉教授の監修の下、城中心部に限って作製。今回は絵図など最新の史料を踏まえ、リニューアルした。寸法は縦2・6メートル、横3・4メートル、高さ1・7メートル。さらに模型の周りの床には、同じ縮尺で武家の屋敷を赤色に、町人の屋敷を黄色に色分けした平面図を描き、すべての町名を表記した。
事業費は約2800万円。歴史まちづくり法に基づき3分の1が国からの補助金の対象となる。
(伊藤弘喜)
京都
龍馬の酒続々発売 伏見に活気
来年の大河ドラマ当て込み
京都・伏見の酒造会社が、来年のNHK大河ドラマの主人公、坂本龍馬にちなんだ商品を相次いで発売している。京都市内の百貨店も龍馬フェアを催すなど、消費低迷の中で早々と龍馬人気を当て込んでいる。
齊藤酒造は11月から、純米吟醸酒「疾風の煌(きらめき)」の先行販売を大丸各店で始めた。切れがある辛口で、幕末の動乱期を駆け抜けた龍馬をイメージした。ドラマ開始の来年1月から本格販売する予定で、「京都を訪れる観光客にも土産として買ってほしい」(営業課)と期待する。
「京の龍馬」と名付けた純米酒を発売したのは老舗の山本本家。すっきりとした辛口で瓶ラベルに龍馬の写真を使った。黄桜は、生産休止していた純米酒銘柄「竜馬の恋」の販売をこのほど再開。約20年前から販売している吟醸酒「伏見の竜馬」にも180ミリリットル入りを投入した。
伏見の酒業界は、若者らの日本酒離れと不況で清酒出荷量が前年割れしており、寺田屋事件など伏見に縁が深く、若い世代のファンも多い龍馬人気を起爆剤にと期待を寄せる。焼酎でも北川本家が龍馬ゆかりの高知、長崎両県の酒造会社と共同で「龍馬伝」シリーズを商品化し、龍馬の誕生日と命日の11月15日に発売する。
販売低迷に悩む百貨店業界でも、大丸京都店(下京区)が龍馬をテーマに食品フェアを開いており、17日まで高知の地酒や長崎県のカステラなどを販売する。「龍馬は性別や年齢を問わず人気が高く、歳末前の商戦を活性化させたい」(広報)。地元商店街も動きだした。京都三条会商店街(中京区)は14日に「龍馬まつり」を初めて開く。近くの武信稲荷神社で仲尾宗泰宮司が龍馬と神社のゆかりを紹介する。
龍馬 恋愛成就 見守るぜよ NHK大河決定後カップル続々 京都・武信稲荷神社
幕末の志士、坂本龍馬と、妻のお龍(りょう)のロマンス伝説が残る「武信稲荷神社」(京都市中京区)が、来年からNHK大河ドラマで「龍馬伝」が放送されることもあって、「縁結び」の人気スポットとなっている。龍馬の命日とされている15日には、恋愛成就を祈願するカップルでにぎわいそうだ。
同神社の境内には古くから「縁(えん)の木」として、縁結びに御利益があるといわれている樹齢約800年のご神木・エノキ(高さ約30メートル)がある。江戸時代末期、龍馬とお龍はこのご神木に登り、神社の近くの獄舎に捕らえられていたお龍の父親の様子をうかがったとされる。
その後、命を狙われるようになった龍馬は音信不通になったが、しばらくしてご神木に「龍」の文字が刻んであったことから、お龍は龍馬が京にいると確信。龍馬の知人宅を訪ね歩き、再会を果たしたという。
この伝説は、もともと地元住民に語り継がれていたが、「龍馬伝」の放映が決まった昨夏以降、ネットなどで紹介され、同神社ではカップルがご神木に手を合わせる光景が目立つようになったという。
同神社の仲尾宗泰宮司は「口伝とはいえ、今も2人の人気は根強く、龍馬とお龍にあやかりたいという人たちが訪れています」と話している。
高知
罪状無念…龍馬の盟友、武市瑞山の切腹直前の書状見つかる
幕末の志士・坂本龍馬の盟友として知られ、土佐勤王党を主宰した武市(たけち)瑞山(半平太、1829~65)が、切腹直前に獄中から仲間に送ったとみられる書状が、高知市の土佐山内家宝物資料館で見つかった。反論の機会すら与えられず、罪状を言い渡されたことに対し「実に(以下3回)絶言語申候(げんごにぜっしもうしそうろう)(言語道断だ)」と、「実に」を4度繰り返しており、同館は「志を遂げられなかった悔しさが生々しく伝わる」としている。13日から同館の特別展で公開される。
同館が、志士らの書状約20通をまとめた巻物を所蔵資料から見つけた。武市の書状は複数あり、あて先は不明だが、いずれも藩に捕らえられた1863年から切腹までの1年半の間に記されたらしい。
「実に」と書かれた書状は、1865年の罪状言い渡しの直後のもの。病床から無理やり連れて行かれた取り調べの様子などを筆記。「皆々…所置(切腹)スル事」になるだろうとの覚悟を記して結んでいる。
明治時代の歴史書「維新土佐勤王史」には同様の内容は記されていたが、書状の所在は不明だった。
藤田雅子・同館学芸員は「武市の普段の字よりも小さいが、『実に』の字だけは大きく、無念さがわかる」と話している。
(2009年11月13日 読売新聞)
佐賀
朝日新聞財団 鍋島家の人形修復助成
佐賀市の財団法人「鍋島報效会(ほうこうかい)徴古館」が保存している佐賀藩鍋島家伝来の「ひな人形 左大臣・右大臣」と「葵御紋付御所人形」などの修復事業が、朝日新聞文化財団の「文化財保護に関する助成」(09年、10年度)の対象事業に選ばれた。同財団による助成は今年から始まり、選考の結果、全国の30件に総額約6千万円が助成される。
今回修復される「左大臣・右大臣」は江戸後期の作。鍋島家の「ひな人形」は、江戸時代は佐賀藩江戸藩邸、明治時代以降は東京の侯爵鍋島家に伝わったが、「左大臣・右大臣」だけは当初から佐賀の地に伝わり、1874(明治7)年の「佐賀の乱」による焼失を唯一免れたものとされる。経年劣化により、絹糸で作られた頭髪が抜け落ちたり、衣装の傷みが激しくなっていたりしているという。
また、「葵御紋付御所人形」は金糸の葵の御紋をつけており、徳川家ゆかりの品と推測されている。幕末の佐賀10代藩主鍋島直正の妻盛姫か継室筆姫の愛用品と考えられる。江戸時代の末、人形の目にガラスの目が入るようになった早い時期の作。人形の表現の変遷を研究するうえで貴重な資料だが、この人形も傷みが激しく、鼻部分が欠け、髪の毛もほつれている。
徴古館によると、修復作業は10年1月に開始。文化財としての価値を失わないよう、髪の毛や衣装などがこれ以上劣化しないように現状を維持する方法で修復をするという。徴古館の野口朋子学芸員は「年春の佐賀城下ひなまつりには一般公開出来ると思うので、楽しみにしてほしい」と話している。
福岡
武家屋敷跡からスペンサー銃の弾46発…久留米
福岡県久留米市は12日、京町の京隈侍屋敷遺跡で江戸時代の武家屋敷や道路の跡、スペンサー銃の弾などが見つかったと発表した。
市文化財保護課は「武士の居住区の様子と、久留米藩でも当時、最新鋭とされた武器を使っていたことがわかった」としている。
同藩では、上級武士は久留米城内に屋敷を与えられたが、中級、下級の武士は城周辺の京隈(京町、城南町)や櫛原(櫛原町)に住んでいたとされる。
今回の発掘調査は、九州新幹線開通に向けたJR久留米駅周辺整備の一環。約2000平方メートルを調べ、武家屋敷数軒と屋敷を区切る道路が見つかった。道路と屋敷の間には側溝跡や漆喰(しっくい)を塗った壁の跡があった。
藩士の可児(かに)家跡からは、茶わんなどの陶器のほか、子どもたちがままごとに使ったとみられる数センチのかまどや花瓶も出土。貯蔵用の穴倉や、ごみ捨て穴も見つかった。
同家跡からは、スペンサー銃の未使用弾46発も出土。スペンサー銃は、米国の南北戦争時に使用され、江戸末期に佐賀藩によって輸入されたもので、戊辰(ぼしん)戦争では最新鋭の銃として活躍した。これまで久留米藩での使用を示す文献はなかったが、同藩でも使われていたことがわかったという。
久留米藩は戊辰戦争で政府軍として東北に追討軍を派兵し、可児家は隊の幹部として参加していた。同課は「後の西南戦争前に政府は武器を回収しているが、使用しなかったものを隠していたのではないか」と推測している。
同課は15日午前10時から、現地で説明会を開く。(沢井友宏)
長崎
小﨑侃さん制作の龍馬像完成 長崎・丸山公園で15日除幕
来年のNHK大河ドラマ「龍馬伝」放映を前に、長崎で活躍した幕末の志士坂本龍馬の銅像が長崎市の丸山公園に完成した。15日午前10時から除幕式があり、その雄姿がいよいよ披露される。銅像を制作した長崎市風頭町の版画家、小崎侃さん(67)が龍馬像に込めた思いなどを語った。
郷土色豊かな版画で知られる小崎さんだが、もともとは彫刻家を目指していた。彫刻は上山公園(諫早市)の野呂文学碑レリーフや肥前夢街道(佐賀県嬉野市)の不動明王像などを手掛けている。だが、武士など時代物の人物像は今回が初めて。「思わぬ依頼で緊張した」という。
龍馬像といえば、高知市の桂浜や長崎市の風頭公園が有名。全国に10カ所ほどある像を調べ「少しでも違うものを作りたい」と取り組んだ。
人物像で注目されるのは、やはり顔。現存する龍馬の写真は6種類あるが、「すべて顔が違う」と戸惑った。見比べた結果、長崎の上野撮影局で撮った座像の顔が「一番きりっとしている」と気に入った。「いまの若者の顔も加味した」と「若さ」を意識した。
イメージしたのは「花街丸山の風を浴び闊歩(かっぽ)する姿」。はかまは「定説」のよれよれではなく、折り目の付いた新品に。髪形は長髪を後ろで束ねたポニーテール。「小崎版龍馬」は、大河ドラマ「龍馬伝」で福山雅治さんが演じるような好男子だ。
「今回の像は龍馬の等身大で、横に並び記念撮影ができる。現代の若者のような親しみやすさも考えた」
もちろん、外面の表現だけではない。デッサンを描きながら心の中で龍馬を探求するうちに、わが道を歩み続けた龍馬の強さをひしひしと感じた。像の中には「人間は自立する」という思いが込められている。
「龍馬像を作りながら、もっと自分に自信を持ってやっていかなければ、と励まされた。龍馬の人生は33年と短かったが、見事に生きて死にきった。僕も、作者が死んでからも生きるものを作らないといけない」
今なお龍馬の生きざまに影響を受ける人は多い。小崎さんも例外ではなかった。
【編注】小崎侃さんの崎は、大が立の下の横棒なし
対馬の資料館所蔵の2印章、旧藩主に朝鮮国王発給
県立対馬歴史民俗資料館(対馬市厳原町、阿比留徳生館長)が所蔵している銅製の印章2個が、朝鮮国王から対馬藩主に発給され、対馬藩と朝鮮国との外交文書などに押された「図書(としょ)」であることが分かった。
図書は江戸時代、朝鮮国王が、朝鮮との外交や貿易を担っていた対馬藩に出したもの。同藩は朝鮮国との外交文書や渡航証明書に用い、藩主が死亡したら返還し、新しい藩主に発給されるというしきたりだったとされる。
印面は、2個とも1辺が6・7センチの正方形で、高さは約7・8センチ。取っ手が付いたピラミッド形。13代藩主・宗義章(よしあや)(在位1839~42年)と14代藩主・宗義和(よしより)(同42~62年)の名前が彫られている。
この印章は、同資料館収蔵庫で保管されていたが、詳しい調査は行われていなかった。県教委が今年度から3年計画で藩政史料「宗家文書」のうち、未整理だった絵図類や器具類を調べており、慶応義塾大の田代和生(かずい)教授(近世日朝交流史)が、図書と認めた。
同資料館によると、近世の図書は、第15代藩主・宗義達(よしあき)(同62~72年)のものが韓国国立中央博物館(ソウル市)に残っており、今回確認された2個と形や大きさがほぼ同じという。
同資料館の山口華代学芸員は「なぜ返還されなかったのかなど、今後の研究が待たれるが、幕末混乱期の対馬藩や朝鮮通交の実態を解き明かす鍵になるのでは」と話している。
(2009年11月11日 読売新聞)
IT
ケータイで龍馬を一人前の武士に育てよう! iモード『いつでも手のり龍馬』11月16日配信開始
ビービーエムエフは、iモード向けゲームサイト「iゲーム大好き!」にて、新作アプリ『いつでも手のり龍馬』の配信を11月16日(月)より開始することを発表しました。
本作は、産まれたばかりの「龍馬」のお世話をし、一人前の立派な武士に育てあげるという「幕末育成歴史シミュレーションゲーム」です。
ゲームをスタートさせると、以降の起動の有無に関わらず、龍馬が1日で1歳成長します。お世話の仕方により性格や体型、プレイヤーへの愛情度が変化。毎日コツコツ龍馬のお世話をし、ときには釣りと狩猟が楽しめるミニゲームで汗を流し、ときどき会話や指でつつくなどのコミュニケーションを図りながら、彼の日々を見届けましょう。
なお、しばらくの日数お世話をしないと龍馬はやせ細り、最悪の場合、お世話係を解任されてゲームオーバーになってしまいます。逆に、龍馬の人生を最期まで見届けることができたときには、今までのお世話に対する評価と感謝をつづったメッセージが届くとのこと。「お世話係に任命してよかった!」と龍馬が思えるよう、せっせとお世話してください。
『いつでも手のり龍馬』は2009年11月16日配信開始。プレイには「iゲーム大好き!」への登録が必要で、情報料は月額315円(税込)です。「メニューリスト→ゲーム→ミニゲーム→iゲーム大好き!」の順にアクセスしてください。
なかなか面白そうですね。土方さん版があったらなぁ……土方さんを「手乗り」で育ててみたいじゃないですか(爆)。
史実も! 恋愛も! 幕末志士たちとの同居生活を楽しめる女性向けゲーム『幕末志士の恋愛事情』iモードにて配信開始
スタイルウォーカーは、iモード公式サービスとして、女性向け恋愛ゲーム『幕末志士の恋愛事情』の配信を開始したことを発表しました。
本作は、幕末に活躍した維新志士たちとの、ピュアで熱い恋愛を楽しむことのできる女性向け恋愛ゲームです。2008年10月に配信開始された第一作目『執事たちの恋愛事情』から始まった「恋愛事情シリーズ」の第4弾タイトルとなります。
現代を生きるごく普通の女の子がふとしたきっかけで幕末の京都に迷い込んでしまい、幕末の維新志士たちと出会うところからストーリーは始まります。彼らとの同居生活の中で、「大政奉還」「薩長同盟」「寺田屋事件」などさまざまな歴史的事件を垣間見ながら、維新志士たちとの恋心を深めてゆきます。
攻略キャラクターには坂本龍馬、高杉晋作、武市半平太をはじめ、岡田以蔵、桂小五郎、中岡慎太郎など多彩な志士が続々登場する予定とのこと。他にも大久保利通や土方歳三、沖田総司などの幕末ならではの豪華で本格的な布陣となっています。
ゲームは、物語を読みながら主人公の行動を選択するだけで、ストーリーや結末が変化していきます。1話10分程度で満足できる内容になっており、電車の中や空いた時間などに簡単にプレイできるとのことです。また、プレイが終了するたびに志士からメールが届いたり、イベント画像のダウンロード、時代を反映したかわいい着物のアバターアイテムなど、本編以外にも楽しめる要素が用意されています。
『幕末志士の恋愛事情』は2009年11月9日より配信中。情報料は315円からとなっています。「メニューリスト→ゲーム→恋愛ゲーム」の順でアクセスしてください。
こっちは幕末の志士たちと同居できるんですね……土方さんとは同居できないようですが(笑)、まぁ女性は新選組に入れないですから同居はできませんね^_^;。
文化
寺田屋事件で龍馬が使用?米S&W製回転銃
幕末の志士・坂本龍馬が、寺田屋事件で難を逃れるため、使用したとされる米国スミス・アンド・ウエッソン(S&W)社製の回転式拳銃と同型の拳銃が高知県内で見つかり、佐川町立青山文庫(同町奥の土居)が11日、公表した。
史料研究に役立てるため、地検から移管されたもので、20~29日(24日は休館)に一般公開される。松下司・名誉館長(66)は、「同型の拳銃を間近で見られるのは全国でもおそらくここだけ。ぜひ多くの人に町を訪れてほしい」としている。
見つかったのは、同社が、南北戦争を機に製造した軍用の回転式拳銃「モデル2アーミー」(32口径、6連発、27・8センチ)。一部銀メッキ加工され、全体に唐草模様が施されており、銃身上部に社名が入り、県の管理番号「明治22年 八五七四 高知県」が記載されている。同型の拳銃は、1861年~74年に約7万7000丁製造されたが、製造番号「55280」から後期のものとみられる。
同館によると、龍馬の遺品として、同社製の別型の拳銃が伝わっているほか、1866年の寺田屋騒動直後に龍馬が書いた書状に「高杉晋作からもらった6連発の拳銃で撃った」との表現があることから、龍馬が同型の拳銃を所持していた可能性が高いという。
拳銃は2008年9月に県内の民家で発見。所有者が不明のまま地検で保管していたが、今年4月、「押収した古い銃刀類は貴重な史料として残すべき」と、地検に働きかけをしてきた同館に移管された。
公開時間は、午前9時~午後5時。入館料400円(中学生200円、小学生100円)。問い合わせは同館(0889・22・0348)。
(2009年11月12日15時16分 読売新聞)
コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】(36)東大教授・山内昌之 児玉源太郎
■政略の総合プロデューサー
◆望んで降格受け入れ
昇進すごろくを生きがいにする政治家や役人にとって、降格や降任などは想像もできない人事であろう。しかし、幕末明治以来の日本政治史で望んで降格人事を受け入れた稀有(けう)の例がある。それも陸軍の歴史の中にあった。
驚きは、大山巌(いわお)参謀総長を次長として補佐した田村怡与造(いよぞう)が日露戦を控えて急死する突発事件の後に起きた。これが有名な児玉源太郎の降格人事にほかならない。
内務大臣と台湾総督の職にあり、陸軍大将への昇進を控えた児玉にとって、参謀次長は各省の次官か局長くらいのポストであり、はるかに格下であった。しかし、川上操六(そうろく)や田村といった優秀な作戦家を相次いで亡くした陸軍で対露戦を仕切れるのは児玉以外にいなかった。ここで大臣や総督といった栄職を捨て、国家の危機に当たろう、と自然に決意したのが児玉の偉さなのである。
誰も児玉に能力がないから降格されたとは思わない。それどころか参謀次長というのは、それほど重要ポストなのかと世人に認識させたのだ。よく地位が人をつくるというが、人が地位をつくり直すということもあるのだ。
現代の政治家でも官房長官や大臣だった人で副長官や副大臣になった人もいる。民主党新政権で大臣になってもおかしくない人で副大臣や政務官になった人がいるかもしれない。こういう人は、児玉と自分の才を虚心に比べてみることだ。すると、国と国民のために働ける大事さやありがたみが改めて分かってくるだろう。
◆政治のバランス熟知
児玉は、奉天会戦で日露戦争を終わらせた立役者であるだけでなく、ぎりぎりの決断で戦に踏み切りながら、落としどころのタイミングをわきまえていた政治家である。政治に必要な理想・信念とリアリズムのバランスを彼ほど知っていた明治の軍人政治家もいない。児玉のバランス感覚は長州人といっても支藩の徳山藩の出身であり、軍隊でも乃木希典のように少佐からでなく、藩閥外の武士と同じく下士官から出発する苦労を重ねた点と無縁ではない。軍人の能力は試験の成績でなく、天性の資質に負う点が多い。
五稜郭戦争でも敵の夜襲などに冷静沈着に対応し、熊本で神風連(しんぷうれん)の乱が起きて、鎮台司令官や参謀長らが殺されても落ち着いて指揮をとっただけでない。西南戦争でも熊本城で参謀副長として、西郷軍の猛攻をしのいだあたりは、後年の日露戦争の満州軍総参謀長の才を彷彿(ほうふつ)させる。
陸軍大学校の創設と参謀教育にあたったドイツのメッケルも児玉の天才ぶりを評価し、「コダマ将軍がいる限り日露戦争で日本は負けない」と語ったほどだ。
◆人情家で友人思い
合理主義者児玉には、別の側面もある。それは人情家であり、友誼(ゆうぎ)にも篤(あつ)いことであった。旅順攻略に乃木将軍がてこずっているとき、友人の児玉が出かけて指揮権を一時的に委譲させ、二〇三高地を落とした話は、司馬遼太郎著『坂の上の雲』で美しく描かれた。この友情物語の厳密な真偽はおくにしても、児玉は旅順戦での手柄を一言も吹聴せず、すべてを乃木の功績に帰したのは事実である。
児玉が死んだとき、篠つく雨のなか、柩(ひつぎ)に連れ添う乃木の姿が目立ったのは偶然でない。これは、つい100年ほど前の日本にあった光景である。児玉は日露戦争が終わって1年後、わずか55歳の若さで急死した。児玉は50代で国運を賭けた日露戦争の政略と作戦を演出した総合プロデューサーだったのである。
児玉だけでなく、川上といい田村といい、何という若さで亡くなったのだろう。国が滅ぶかもしれない心労で命を縮めた児玉らは、その年齢を越える現在の指導者の姿をいま見るなら何と言うのだろうか。(やまうち まさゆき)
◇
【プロフィル】児玉源太郎
こだま・げんたろう 幕末の武士、明治の陸軍軍人。嘉永5(1852)年、周防(山口県)徳山藩生まれ。17歳で戊辰戦争に参加。維新後兵学寮を卒業し、佐賀の乱、神風連の乱で軍功を認められる。西南戦争では熊本鎮台参謀副長として政府軍の勝利に大きく貢献。明治20年に陸軍大学校の初代校長となり、軍隊の近代化を推進する。陸軍次官、台湾総督、陸相、内相、文相などを歴任し、日露戦争では満州軍総参謀長を務め、卓越した手腕を発揮する。同39(1906)年に参謀総長となるが、ほどなく死去。享年55。
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