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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
 だいぶためてしまいました。

宮城
復活の「仙台ガラス」特産品に ガラス工芸作家が展示会
 仙台を流れる広瀬川や名取川の砂を原料にした茶褐色の「仙台ガラス」。このグラスなどを新たな特産品にする狙いの展示即売会が18日、仙台市青葉区の設計事務所「あとりえ横山」の一角で始まった。幕末から明治にかけ、髪飾りなどを作っていたのが元祖だが、長く断絶。数年前、仙台市太白区のガラス工芸作家、村山耕二さんが試行錯誤の末、復活させたガラスだ。

 元祖は高級なべっこうの代用品として量産されたが、今では現物も少なく、製法も分からない。それに興味を持った村山さんが近所の名取川などの砂で試作。元祖に近い色合いを出し、現代の「仙台ガラス」として数年前から作品に採り入れていた。

 それを設計事務所の横山英子社長が知り、「新たな仙台名物にできないか」。だが、村山さんの作品は制作数も限られ、高価。そこでデザインの専門家らと商品化を目指すチームを結成。およそ1年で展示会にこぎ着けた。

 村山さんのゆったりしたデザインをもとに金型を作り、職人が手作りした。酒杯や小鉢など7種類で、税抜き1500~3800円。村山さんは「何十年後に『昔からあるよね』と言われるものに育ってほしい」と話す。

 展示会は26日までの午前10時~午後7時。問い合わせはあとりえ横山(022・222・3377)へ。(松本紗知)


茨城
龍馬カステイラを再現 茨城
 古河市東の看護栄養専門学校、晃陽学園で18日、来春の卒業生による制作発表会「雪華の大祭」が開かれ、NHK大河ドラマ「龍馬伝」にも登場した長崎のカステラが、当時のレシピを基に再現された。
 調理師を目指す生徒の作品展とともに、幕末の古河藩家老で蘭学者とも交流があった鷹見泉石(たかみ・せんせき)が残した日記を基に当時のオランダ料理を再現、展示した。
 “龍馬カステラ”のレシピは京都国立博物館所蔵の“海援隊日記”「雄魂(ゆうこん)姓名録」記載の「カステイラ」を基にしたもので、材料は卵、小麦粉、砂糖だけで、比率は1対0・7対1。当時は泡立て器がなく手で混ぜ合わせて鉄鍋に入れ、かまどで焼き上げていたが、再現ではオーブンを使用。
 指導した中村裕子教諭は「かなり堅く、口に入れるとむせ返る」という出来になるそうだが、そこは現代風にアレンジ。“龍馬カステラ”は砂糖の配分からかなり甘く「本来は特権階級のみの甘味」(中村教諭)という貴重品だったという。


茨城のイメージアップ大賞に映画「桜田門外ノ変」
大洗水族館など奨励賞
県のイメージを高める取り組みを表彰する本年度の「いばらきイメージアップ大賞」受賞者が16日までに決まり、地域発案で全国公開された映画「桜田門外ノ変」が大賞に選ばれた。奨励賞はアクアワールド県大洗水族館など3件。本年度創設された「いばらきロケ大賞」の大賞も映画「桜田門外ノ変」製作委員会が選ばれた。

「桜田門外ノ変」は水戸藩開藩400年を記念した地域発の映画として、作家吉村昭さんの原作を基に、幕末の水戸脱藩士による井伊直弼大老暗殺を描いた。主演の大沢たかおさんほか、県内出身の俳優が出演。水戸市や大子町など県内12市町17カ所で全体の約7割の撮影が行われた。

地域活性化を目指し市民レベルで映画化支援の会が組織され、千波湖畔(水戸市)のオープンロケセットに県内外から多数の来場者を集めたことなどが評価された。

奨励賞は、大洗水族館のほか、県立大洗高マーチングバンド部とかすみがうらマラソン兼国際盲人マラソンかすみがうら大会。

大洗水族館は年間来場者が100万人を超え、7月に1千万人を達成。2月には韓国・釜山のアクアリウムと姉妹館協定を結び、国際交流への貢献も期待される。

大洗高マーチングバンド部は1985年から26回連続で全国大会に出場し、金賞を13回受賞。県内外のイベントでセレモニーバンドを務め、地域に欠かせない存在となっていることが評価された。

かすみがうらマラソンは県内外から2万人以上の出場者があり、「環境と福祉」をテーマに掲げ、参加者へ意識啓発を行っていることなどが評価された。

ロケ大賞は映像部門の大賞ほか、奨励賞に「下妻物語」(2004年公開)、ロケ支援賞につくばみらい市エキストラの会と「桜田門外ノ変」映画化支援の会が選ばれた。

イメージアップ大賞は2006年度に始まり今回で5回目。表彰式は来年2月、東京都内で開かれる予定。


千葉
幕末の農村改革者を回顧
県立中央博で「大原幽学その生涯と功績」展

 江戸時代末期、香取郡東総地域で飢饉(ききん)や荒廃に苦しむ村を救うため農村改革運動を推進した大原幽学(1797~1858年)。ゆかりの資料を集めた「大原幽学-その生涯と功績-」展が11日、千葉市中央区青葉町の県立中央博物館で始まった。没後、国の重要文化財に指定された遺品や文書類などを通し、郷土の偉人を回顧する展示となっている。1月16日まで。

 幽学は、尾張徳川家の重臣の次男として生まれたとされるが、18歳のときに放浪の旅に出たという。28年間、各地をめぐった後、香取郡長部村(現旭市)にたどり着き、名主の依頼を受けて定住した。

 長部村では儒学の考え方を基にした「性学」を説き、農民の生活改善や先進的な農業経営を提唱。村の救済に活躍したものの、「性学」の急激な発展に嫌疑を抱いた幕府の追及を受け、62歳で自害した。

 同博物館は「子どもでも理解できるような展示にした。幽学が生涯を通して何をしたのか分かってほしい」と話している。

 13、20日と、27日~1月4、11日は休館。一般300円。電話043(265)3111。


東京
龍馬伝、坂の上の雲… 上野公園散策
 大河ドラマ『龍馬伝』が放映され、今年は、幕末が話題となった。NHKスペシャルドラマ『坂の上の雲』第2部放映開始にともない、引き続き、幕末・明治が注目を集める。
 幕末・明治を生きた人間たちの足跡をご紹介したい。

【上野公園】
 上野公園(東京都台東区)に行くと、西郷隆盛像が、上野の山から東京を見下ろしている。薩摩藩の西郷隆盛と、長州藩の桂小五郎の間で密約された薩長同盟を、坂本龍馬が仲介したことは有名だ。

 西郷隆盛像の近くに、彰義隊の墓がある。大政奉還がなされたのち、徳川慶喜の一橋藩主時代からの家来たちが集まった。徳川政権を支持する藩士や、不満を持つ武士らを加え「彰義隊」を結成。上野山(寛永寺)を拠点として新政府軍と対峙した。しかし、上野戦争は、新政府軍の圧勝に終わった。

 彰義隊の墓の大墓石は、明治14年に造立されたが、新政府をはばかって「戦死之墓」と刻まれた。造られたのち地中に埋められ、現在は大墓石の前に置かれている小墓石には「彰義隊戦死之墓」と刻まれている。

【経王寺山門】
 上野公園から谷中霊園を越えた先にある経王寺(東京都荒川区)は、上野戦争のさい、敗走する彰義隊をかくまった。そのため、新政府軍から砲撃を受けた。経王寺山門には、その時につけられた弾痕が残っている。弾痕は大人の親指が通るほどの大きさだが、付近の住民の方に聞くと、昔はもっと小さくて、人々が触るうちに、現在の大きさになったという。

【旧岩崎邸庭園】
 上野公園から、谷中霊園とは反対側の湯島方面へ向かうと、旧岩崎家本邸があった場所に着く。現在は、旧岩崎邸庭園として、邸宅と庭園の一部が残されている。岩崎弥太郎は三菱財閥の創業者であり、海援隊の経理を担当するなど、坂本龍馬と交流があった。

 旧岩崎家本邸は、鹿鳴館を手がけたジョサイア・コンドルが設計した。旧岩崎邸庭園敷地内には、外光を取り入れた洋館と、洋館と連なる和館、そして、別棟として、撞球場(ビリヤード場)がある。撞球場は、当時の日本には珍しいスイスの山小屋ふうの造りだ。
 旧岩崎邸庭園サービスセンター担当者によると、『龍馬伝』の影響か、今年は例年に比べて来園者が増えているとのこと。

 上野公園も、旧岩崎邸庭園も、紅葉が色づいている。幕末・明治の足跡をたどって、上野近辺を散策してみてはいかがだろうか。(竹内みちまろ)


静岡
懐かしゆりの木通り 幕末から昭和の商店主秘蔵品を紹介
 浜松市中区のゆりの木通り商店街で、幕末から昭和にかけての、店主秘蔵の品を紹介する「ゆりの木でノスタルジー~なつかしい物がいっぱい」が開かれている。23日まで。 (柴田久美子)
 江戸時代や明治時代に開業した老舗が多い商店街ならではの企画で、20店舗が参加。初開催の昨年より期間を長くした。
 帽子店「フルサワ」のショーウインドーには、昭和17年に市内の竹細工職人が手掛けた魚釣り用の竹びくを展示。緻密(ちみつ)な編み込みが特徴で、店主の古沢正幸さん(67)の父が愛用していたものといい、古沢さんは「これだけ手の込んだ仕事ができる職人はもういないのでは」と語る。
昭和初期に市内の職人が手作りした竹びく=いずれも浜松市中区で

 ほかにも、江戸城の無血開城に貢献した山岡鉄舟の幕末期の書「亀鶴」(磯村書道教室)や、昭和初期の木炭アイロン(鍋屋)などが飾られている。
 実行委員も務める古沢さんは「こういう機会がないと日の目を見ない、古く懐かしい物がある。来る方にも楽しんでもらえたら」と呼び掛けている。午前10時から午後7時まで。


「駿河藩印」を発見、静岡で展示 徳川記念財団
 徳川記念財団(東京都渋谷区)の所蔵品からこのほど、幕末-明治初期に使われたとみられる「駿河藩印」が発見された。11日から静岡市美術館(静岡市葵区紺屋町)で開催される「家康と慶喜―徳川家と静岡展」に出品される。
 大政奉還翌年の1868年(慶応4年、明治元年)、徳川家は江戸から駿河に移封され駿河藩70万石が誕生。同藩は1869年(明治2年)の版籍奉還で静岡藩に改称した。このため、印章は約1年間だけ使用された。家臣などの通行証に押印例が確認されていたが、印章の所在は不明だった。
 印章は青銅製で高さ5・5センチ、幅6・8センチ、奥行き6・8センチ。ふたに「印判」と書かれたきり箱に収められていた。
 同財団の徳川恒孝理事長は「(通行を)取り締まる側だった江戸幕府の時代には必要がなかったもの。駿河移封にともない、急きょつくる必要があった」と説明した。



長野
木簡から新聞まで380点展示 千曲の県立歴史館で冬季展
 県立歴史館(千曲市屋代)は、文字にまつわる信州ゆかりの史料を集めた冬季展「文字のちから」を開いている。木簡や土器といった古代、識字率が高まった江戸時代の2コーナーに加え、明治以降に県内で発行された新聞の歴史を伝えるコーナーがあり、計約380点を展示。文字と人の関わりの変遷を紹介している。

 会場の中央には長野市松代町出身の幕末の思想家、佐久間象山(1811~64年)直筆の大のぼり2本が飾ってある。縦約10メートル、横約1・6メートルで、1854(嘉永7)年に桑原村(現千曲市)の村人の依頼で筆を振るったという。寄贈を受け、同館が所蔵している。春と秋の祭り用で「春祈膺介福」「秋報楽豊年」とそれぞれ力強い文字が並び、見応えがある。

 新聞の歴史のコーナーでは、県内で発行された新聞の系譜をパネルで説明。1872(明治5)年に松本市で創刊した県内初の「信飛新聞」、大正から昭和にかけて上田地域の市町村の多くで発行された「時報」と呼ばれる地域新聞のほか、日露戦争の戦況を伝える信濃毎日新聞の号外もある。

 古代のコーナーには、品物や労力の調達を命じる奈良時代の木簡や墨書が施された平安時代の土器などが並ぶ。江戸時代では、中山道と北国街道の道中案内書や黒船来航図などを展示した。

 同館の伊藤友久・専門主事は「文字は歴史を知る手掛かり。先人が書き残した物を通して文字の役割を感じてほしい」と話している。

 来年2月27日まで。入館料は一般300円、高校・大学生150円、小中学生70円。問い合わせは同館(電話026・274・2000)へ。

(提供:信濃毎日新聞)


京都
同大に薩摩藩邸の証し、島津の家紋入り磁器片
 幕末に薩摩藩邸があった同志社大今出川校地(京都市上京区)で行われている発掘調査でこのほど、「丸に十の字」で知られる島津家の家紋入りの磁器片が見つかった。同校地内で薩摩藩邸に関する遺物が見つかったのは初めて。

 磁器片は高さ5センチほどの湯のみ様の器の一部で、白地に紺色で島津家の家紋が描かれている。8月に掘り出した破片を洗浄した結果、薩摩藩主・島津家ゆかりの遺物と判明した。調査区域東側の穴から見つかり、割れた器を廃棄したと考えられる。

 発掘場所は相国寺旧境内で、1863(文久3)年から73(明治6)年まで薩摩藩邸が置かれたが、これまでの調査で藩邸に関する建物跡などは見つかっていない。

 同大学歴史資料館は「この地に藩邸があったことを示す確かな証拠といえる」としている。磁器片は同校地ハリス理化学館で開催中の企画展「幕末と同志社」で来年1月末まで展示予定。

 まさしく「丸に十字」。

高知
江戸から手紙届いた気分 古文書教室 南国
歴史の表裏探る醍醐味

一文字ずつを追いながら、講義に聴き入る教室生(南国市久礼田で)
 一度は読んでみたいけれど、取っ付きにくい。いや、さっぱり分からない。「古文書」と聞けばそう思っていた。たまたま文化財や幕末史にかかわる取材が相次ぎ、少しは歴史アレルギーを拭わねばと、南国市の住民らが学ぶ古文書教室におじゃました。使い込んだ字典を手に文字に見入る人たちは、みんな夢中。何が面白いんだろう、と理解できなかったが、「約束事」が分かってくると、難解さがだんだん溶けて、まるで歴史上の人物から手紙をもらったような気分になってきた。ひょっとして、私もはまってる?(畑矢今日子)

 南国市の久礼田公民館で2年前に開講し、「久礼田史談会」のメンバーを中心に、52~85歳の16人が集まる。読みやすく翻刻した活字を読むのを卒業し、本格的な筆書きの原典に当たる講座にレベルアップした。講師は佐川町立青山文庫前館長で歴史家の松岡司さん(67)。

 教材は、幕末の1862年(文久2年)、孝明天皇が公家の三条実万(さねつむ)に右大臣の位を追贈すると伝えた文書の写し。実万は、攘夷(じょうい)派で知られる実美(さねとみ)の父で、正妻は十代土佐藩主山内豊策(とよかず)の娘。実万は天皇の力を回復しようと尽力しただけに、孝明天皇が厚く信頼していた、といったことが書かれているらしい。

          □  ■

 この資料、土佐勤王党の幹部、弘瀬健太(1836~63)の子孫にあたる弘瀬健吾さん(67)(高知市上町)の所蔵品。妻の倍子(ますこ)さん(61)が教室生なのだ。健太は、攘夷実行の勅命を幕府に伝えた公家の護衛として江戸に同行したこともあり、三条家にまつわる資料を持っていたのだろう。

 松岡さんが「このように天皇の命令を伝える文書のことを『宣命(せんみょう)』といいます」と言いながら、文書のコピーを配った。すべて漢字。仮名の草書のような「ミミズ文字」ではないとはいえ、案の定、さっぱり分からない。

 「『宇禮志美』は何と読みますか」。さっそく指名された。「美」だけ小さいので、送り仮名か。「うれしみ……ですか」と答えて正解。クイズのようで、何とか楽しめそう。

 宣命は、読み聞かせるために特殊な「和文体」で書かれている、という。小さな漢字は付属語といって、仮名のように発音を借りているだけで、意味はない。例えば「人民乃(くにたみの)欲憂(うれい)乎痛美寤毛寐毛(をいたみさめてもねても)」では、「乃・乎・美・毛」が付属語。「毛」は、平仮名の「も」に変化したという訳だ。思わず「なるほど」と、教室生たちとうなずき合った。

 持ち主の倍子さんも、かつては歴史には興味がなかったが、「我が家や地元に関係のある資料を読んでみたい」と始めたそうだ。古文書解読を始めた今では、「みんなで考えるのが楽しい」と笑顔だ。

          ■  □

 ほかの住民たちも意欲たっぷり。下田豊さん(82)は「学生時代は戦中で、勉強できる環境になかった。学べてうれしい」。農業沢村茂さん(68)は「観光地にある碑文の漢文が読めるようになった」とうれしそう。

 今後は、田畑の取引につかった文書なども解読するという。「国の大きな動きから、庶民の暮らしまで、歴史の表裏を自分の目で探れるのが醍醐(だいご)味」と松岡さんは話す。

 そう言われると、150年前の舞台に降り立ったかのような感覚を覚えた。まだまだ眠っているであろう「過去からの手紙」を、もっと読みたくなった。

(2010年12月19日 読売新聞)


愛媛
伊予市の旧商家で発見 古文書約500点
 江戸時代などの古い商家建築が残る伊予市湊町地区でこのほど、旧しょうゆ店のふすまの裏張りから幕末から明治にかけての古文書が大量に見つかった。伊予史談会関係者は「あまり知られていない当時の湊町の庶民の暮らしぶりなどが分かるようになるかもしれない」と喜んでいる。
 伊予農高教諭で伊予史談会員の作道茂さん(58)によると、古文書が発見された商家はもともと呉服店で1868(明治元)年の建築という。10月に老朽化に伴い解体された際、近くの美容院経営正岡典子さん(61)らが譲り受けたふすまの裏張りに古文書を発見。作道さんに解読を依頼した。
 文書は約500点あり、これまでに江戸時代後期の1820年代~1893(明治26)年の文書が確認されている。


山口
手紙:志士の妻から晋作の愛人へ 山口市の山野さん、2カ月かけ解読 /山口
◇2通の内容判明 伊藤博文、山県有朋両夫人からおうのへ 晋作死後も続いた交流
 山口市の獣医師、山野洋一さん(70)が所有する古い書簡2通が、明治時代に伊藤博文と山県有朋の両夫人から幕末の志士・高杉晋作(1839~1867)の愛人おうの(後に梅処尼(ばいしょに))に宛てた手紙とみられることが分かった。内容は病気見舞いや旅行の誘いなどで、晋作の死去後も続いた梅処尼と志士仲間の妻らの親しい交流ぶりがうかがわれる。【中尾祐児】

 山野さんによると、書簡は和紙に毛筆で書かれた巻物。2通は文末に「(博文夫人の)梅子より 梅処様」「(有朋夫人の)貞子 梅処様」と書かれていた。山野さんが防府市で古美術店を営んでいた亡父から受け継いだもので、今年8月から専門家の助言を受けながら解読した。

 2通とも日露戦争前年の1903(明治36)年ごろ、両夫人の別邸があった神奈川県の大磯から、梅処尼が晋作の墓を守る下関市の東行庵へ送られた。

 梅子の手紙には「この度は伊藤も馬関(下関)に御前様にも面会に相成り候」と博文が梅処尼を訪問したことを記載。貞子の手紙には「(大阪での)博覧会見物におでかけあそばされたく候」と旅行に誘っていた。

 山野さんは「辞典を引きながら約2カ月かけて解読した。大切に保管したい」という。手紙を読んだ萩市特別学芸員の一坂太郎さん(44)は「梅処尼と、晋作の同志の奥さんたちとの交流を示す史料として貴重だ」と話している。

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 ◇おうの
 下関の芸者として高杉晋作と出会い、身請けされる。晋作の没後、出家して梅処尼と改名し、1909(明治42)年没。東行庵主の生活は伊藤や山県、井上馨ら旧長州藩士が経済的にも支援した。


大分
志士の信念を掛け軸に見る/弥生のムラ
 坂本龍馬や西郷隆盛など近代日本の激動期を生きた志士の信念や心情を詠んだ掛け軸を展示する「幕末・明治の志士 遺墨展」が、国東市国東町の市歴史体験学習館(弥生のムラ)で開かれている=写真。来年2月20日まで。学習館は「当時の世相を知る貴重な歴史資料。ぜひご覧下さい」と話している。
 吉田松陰や木戸孝允、山内容堂、勝海舟、頼山陽、伊藤博文など37人の書が並ぶ。いずれも同市出身の竹工芸家綾部経雲斎さんが1974年に当時の国東町に寄贈した。4町が合併して国東市が誕生してからは初開催という。
 入館料は高校生以上200円、小中学生100円。休館日は月曜(祝日の場合はその翌日)と12月29日~1月4日。問い合わせは学習館(0978・72・2677)。



佐賀
郷土の偉人 足跡暦に
 あと2週間で2010年も終わり。来年のカレンダーの準備はお済みですか。スケジュール管理には不向きですが、こんな変わり種はいかがでしょう。1月1日から12月31日までの佐賀にまつわる出来事をたどる逸品で、「きょうは何の日?」の疑問にお答えします。(谷川季実子)
 今日、12月18日に佐賀観光協会の桜井篤さん(45)の講演に行くとすると――。
 「今日は139年前の明治4年、江藤新平が華士族の職業選択の自由を認めた記念すべき日ですね」
 桜井さんはこう切り出し、「佐賀の方なら、当然ご存じとは思いますが」と続けるはずだ。聴衆は、一瞬ぽかん。そして「そんなこと知るわけないでしょう」と爆笑。それから納得した顔になる。これまでの講演での反応はこんな感じだったそうだ。
 桜井さんの肩書は「魅力発掘プロデューサー」。佐賀には「坂本龍馬のような、ず抜けたカリスマはいないが、近代国家の礎を築いた人々がいる」と注目。幕末~明治維新期の出来事を中心に調べ上げ、カレンダーにした。
 半世紀ほど前にも、同じことを試みた人がいる。現在の唐津市浜玉町出身の葉隠研究家、栗原荒野(あらの)(1886~1976)だ。「われらの郷土 昔の今日」を著し、桜井さんもカレンダーを製作する際に多くを頼ったという。
 荒野の著作は、葉隠の「武士道といふは、死ぬ事と見附(つ)けたり」の一節がもてはやされた戦中にかけて売れたが、戦後は「民主主義の敵」と焼き捨てられもした。一家が赤貧を強いられても書斎にこもる荒野に、一人息子の耕吾さん(78)=佐賀市=は「母の苦労を思うと、怒りすら感じました」と苦笑いする。
 その荒野が1日だけ、「これという材料が見当らない」と記した日がある。それが12月18日だ。桜井さんは様々な文献にあたり、冒頭の江藤新平のエピソードを見つけた。
 季節感にこだわる荒野が陰暦を陽暦に置き換えたのに対し、桜井さんは「記念日は日付が大切」と、陰暦をそのまま記した。すると、また新たに二つのことが分かった。
 一つは、陽暦にはない「2月30日」の出来事。江藤が1871(明治4)年、政府の役職「制度取調専務」に任命され、国家制度の整備に着手したという。
 もう一つは、陽暦にしかない31日(月により30日も)の出来事の記録が極端に少ないことだ。最後まで空いていたのは5月30、31日。1917(大正6)年、大隈重信が「3度目の里帰りの途中、大阪に滞在」した翌日、「神戸に日帰り視察旅行」に出かけたことが、大隈の講演集から分かった。全654件で「1年367日」が埋まった。
 その大隈こそ、1872(明治5)年、日本に陽暦を導入した中心人物だった。「カレンダー作りから、こんな話もできるほどの人材が輩出した。佐賀って、すごいところでしょう」と桜井さん。問い合わせは佐賀観光協会(0952・20・2200)へ。


師走の城下に「ドーン!」 カノン砲が「祝砲」
 師走も半ばの佐賀市の中心街で12日、砲声がとどろいた。幕末に国内最高水準を誇った佐賀藩の科学技術と先覚者たちの業績をたたえる「反射炉まつり」の恒例行事で、復元されたカノン砲が7発のごう音を響かせた。
 
 12月12日は160年前の嘉永3(1850)年、佐賀藩が日本で初めて洋式反射炉に火を入れたその日。佐賀県機械金属工業会連合会(中村敏郎会長)が1977年に復元した24ポンドカノン砲を、保管場所の日新小学校から佐嘉神社駐車場に運び、祝砲を放った。
 
 堀端や歩道橋の上では見物の人たちが、耳を手でふさぎながら、火薬に火縄で点火する作業を見守っていた。


師走の空にカノン砲 佐賀で「反射炉まつり」
 幕末の佐賀藩が、日本で初めて洋式鋳鉄製大砲を製造する反射炉を開発したことを記念した「第36回反射炉まつり」が12日、佐賀市松原2丁目の佐嘉神社外苑駐車場であり、復元されたカノン砲が師走の空にごう音を響かせた。

 同まつりは、1850(嘉永3)年12月12日、佐賀藩が築地(ついじ)(同市長瀬町)に設けた実用反射炉に火が入ったことを記念する行事。「県機械金属工業会連合会」(中村敏郎会長、加盟約200社)が、先人の遺業を後世に伝えようと毎年この日に開催している。

 カノン砲は全長約3メートル、口径約15メートル、重さ約3トン。築地反射炉があったとされる日新小学校敷地内に、記念碑として置かれている復元砲を使用した。関係者が導火線に点火すると、耳をつんざくような「ドドーン」という爆発音が響き、7発の祝砲が佐賀城跡の堀の水面を揺らした。

 点火に先立つ開会式で、中村会長は「最近は世の中が思わしくない。来年は明るい年であることを祈ります」とあいさつした。

 同会の創立50周年を記念した式典も佐嘉神社記念館であり、関係者ら約200人が参加した。


蝦夷地など鍋島家伝来古地図で判明 佐賀藩 北方にも目光らせ
 佐賀藩鍋島家から伝わる財団法人鍋島報效(ほうこう)会(佐賀市)所蔵の蝦夷地(えぞち)や樺太、得撫(うるっぷ)島を描いた古地図全8枚の検証を、北海道開拓記念館(札幌市)と松浦武四郎記念館(三重県松阪市)の専門家が行った。検証の結果、幕末のロシア南進に対する北方の緊張や明治新政府の北海道開拓という国内外の動きに、佐賀藩がいち早く対応した「雄藩」としての存在感を示す貴重な史料であることが分かった。

 8枚は、幕末に蝦夷地を探検した松浦武四郎や、海防の重要性を唱えて「海国兵談」を著した林子平などが作製。検証は、北海道開拓記念館の三浦泰之さん(36)ら学芸員3人が8日、報效会が運営する博物館「徴古(ちょうこ)館」(佐賀市松原2丁目)で行った。

 このうち、北海道や樺太を記した松浦作の「三航蝦夷全図」(1854年)には地図情報に、詳細な航路や船着き場が独自に書き込まれていた。

 54年は日米和親条約が結ばれ、江戸幕府の鎖国体制が崩れた年(55年に日露和親条約締結)。これに先立ち、ロシアは極東進出の動きを見せ、1792年にラクスマンが、1804年にはレザノフが相次ぎ来航。53年はプチャーチンが幕府に開国を迫った。

 三航蝦夷全図からはこうした北方の緊張を受け、長崎港警備を担当していた佐賀藩が国内外の情報収集に熱心に取り組む姿が浮かび上がるという。鍋島報效会によると、55年には後の北海道開拓で活躍する「佐賀の七賢人」の1人、島義勇が蝦夷地探検に派遣された。

 また、同じく松浦作で明治初期に活用された「蝦夷地之図」(59年)は、明治新政府の下で進められた北海道開拓で、佐賀藩関係者が開拓した厚岸(あっけし)など3郡が朱塗りで示され、活用されていたことをうかがい知ることができるという。

 北海道開拓をめぐっては69年、鍋島直正(10代藩主)が初代北海道開拓使長官に当たる蝦夷開拓督務に着任。札幌市街建設を進めた島義勇ら、多くの佐賀関係者が北海道開拓に従事した。

 三浦学芸員は「佐賀藩が、松浦の製作を中心とした蝦夷地図をベースにさまざまな情報を加味して、実用していたことを示す貴重な史料」と評価。鍋島報效会は「古地図から、佐賀藩が長崎警備だけでなく北方にも目を向けていたことが判明した。国内外の政治・社会情勢に俊敏に対応し、雄藩として日本の近代化を支えた一端を知ることができる」としている。


長崎
大浦慶、維新後も活躍 鎌倉の田川さんが伝記出版
 幕末に日本茶を外国へ輸出し成功した長崎の女性商人、大浦慶(1828~84年)が、明治維新後に中央へ出て実業界で活躍する姿を描いた伝記小説「女丈夫(じょじょうふ)大浦慶伝」(文芸社)を、神奈川県鎌倉市の翻訳会社経営、田川永吉さん(74)がこのほど出版した。

 慶は1871(明治4)年、熊本藩士の詐欺事件に巻き込まれ、多額の借金を背負い没落したといわれる。同書は、維新後の慶が、横浜製鉄所の経営や海軍蒸気船の払い下げに関与したことを示す新資料を多数紹介。通説を覆し、晩年まで実業家として活動した新たな一面を明らかにした。

 田川さんは佐賀出身の実業家・松尾儀助のひ孫。昨年出版した儀助の伝記小説に慶を登場させた関係で、慶について調査。早稲田大図書館、国立国会図書館、国立公文書館などで新資料を見いだした。

 同書によると、慶は75(明治8)年8月、官営の横浜製鉄所の払い下げを目指し、長崎の実業家・杉山徳三郎と連名で「長崎に住むわれわれは外国商法・取り引きと製鉄所の運用に通じています」などとアピールする意見書を作成。同年11月には杉山らと連名で、同製鉄所の拝借願を政府へ提出した。

 拝借願は翌年認められ、慶は杉山や長崎出身の実業家・平野富二、元佐賀藩士・神代直宝らと共同経営したとみられる。同製鉄所は77(明治10)年の西南戦争にちなむ特需で利益を挙げ、78(明治11)年に神代が政府に返納した。

 80(明治13)年1月には、福岡出身の実業家・佐野弥平と連名で、海軍省の英国製蒸気船「高雄丸」の払い下げ願を提出。同年3月31日付の読売新聞は「有名な長崎油屋町の大浦おけいは、今度お払い下げになる海軍省の高雄丸を四万七千三百円にて買い請け、去る二十五日品川沖にて海軍省より同人へお渡しになった」と報じていた。

 また「京橋区南鍋町二丁目四番地(現中央区銀座付近)」と住所を書き入れた慶の名刺も見つかり、一時東京に出ていたことも裏付けられた。

 慶は幕末の長崎で、大隈重信や陸奥宗光ら明治政府の要人になった志士の面倒を見たといわれる。田川さんは「慶は九州の実業家と強固なネットワークを持っていた。彼らと手を組み、大隈らを頼って詐欺事件の損害を取り戻そうと奮闘した」と推測。「事件後は中央に出て活動したので、長崎では晩年の活躍が伝わらなかったのだろう」と話している。

 同書は222ページ。価格は1470円。


コラム
【龍馬を慕(おも)う】(38)越前 福井 新政府の財政責任者を発掘
 左手に足羽(あすわ)山のこんもりとした緑をあおぎながら、足羽川に沿った堤の上を歩きはじめた。川は福井市の中心部をくねくねと蛇行して流れている。
 桜の古木がびっしりとしげっていた。春になると、ピンク色の桜の花々がうねるように咲き乱れるのであろう。
 幸橋(さいわいばし)という橋をすぎ、しばらく行くと、堤の下の民家わきに、
 「横井小楠先生寄留宅跡」
 と書かれた石碑が立っていた。熊本藩士であり、先進的な政治思想の持ち主であった横井は越前藩主の松平春嶽(しゅんがく)に招かれ、4度も越前を訪れ、滞在した。越前の富国化をすすめるために、貿易だけではなく、新技術の導入、新紙幣の発行などをうながした。
 勝海舟も、なんどか横井に会っている。『氷川清話』には、こんなくだりがある。
 「おれは、今までに天下で恐ろしいものを二人見た。それは、横井小楠と西郷南洲(隆盛)とだ」
 続けて、「おれなどは、とても梯子(はしご)を掛けても、及ばぬと思つた事がしばしばあつたヨ」と書く。西郷はわかるが、横井の思想をここまで見抜いた勝の眼識はさすがである。
 春嶽は幕末の四賢侯のひとりといわれる。司馬遼太郎の『竜馬がゆく』でも、
 「旧習を屁(へ)ともおもっていない豪儀さと、いい案は多少の弊害があってもどんどんとりあげてゆく度胸が、うまれついてそなわっている」
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 と評価している。春嶽も勝と同じく横井の才能を見抜き、わざわざ熊本からなんども招聘(しょうへい)した。その横井の越前での教え子の優等生が三岡(みつおか)八郎(由利公正(ゆり・きみまさ))であった。
 ●春嶽公を懸命に説得
 慶応3(1867)年10月15日、大政奉還がなると、坂本龍馬は24日には京をたち、近江路を急ぎ足で越前に向かった。新政府の財政政策の責任者として、三岡をオルグするためだった。
 幸橋の下流に架かる桜橋を経て、九十九(つくも)橋から北にのぼった。左手の細い道をしばらく行くと、喫茶店があった。その横手は駐車場で、わきには、
 「莨(たばこ)屋旅館跡」
 という石碑が立っていた。龍馬がこの旅館にワラジをといたのは28日であった。ところが三岡はその過激な思想が春嶽の逆鱗(げきりん)に触れ、蟄居(ちっきょ)閉門中だった。
 龍馬はさっそく春嶽のもとを訪れ、三岡は藩の罪人ではあっても、新政府の罪人ではない、と言って春嶽を説得した。
 30日の朝8時、三岡が監視の役人付きでやってきた。コタツに入って、ふたりは夜9時まで話しつづけた。三岡の後年の回顧によれば、「金札を御作りになつて、天下の経済をお起こしにならねば、財政は廻(まわ)りはせぬと云ふ事を申したのでありました」と話したという。
 金札とは兌換(だかん)紙幣のことである。鳥羽・伏見の戦い以降、大坂入りした三岡は、京や大坂の富豪を集め、かれらを勧進元にしてこの通りの施策を行い、300万両もの軍資金をかき集めた。
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 三岡は維新後には、龍馬の「船中八策」と似た部分もある「五箇条の御誓文」の原案を起案した。三岡を見いだした龍馬の眼識も鋭いが、三岡自身も龍馬を敬愛していた。
 龍馬は11月1日、あわただしく越前を立った。三岡には、記念に自分の写真を与えた。その後、藩の家老に招かれた三岡はその帰途、足羽川をわたっていると、一陣の風が吹き、龍馬の写真の入った懐中物を川に落としてしまった。
 それが11月15日、すなわち龍馬暗殺の日の夜、と三岡は後日譚(たん)として語った。だがこれは記憶違いで、2日ほどの誤差があったらしい。
 三岡は「誠に千秋の遺憾」となげいたが、写真が残っていたら、いまも龍馬の最晩年のブロマイドとして人気を集めていたはずである。
 ●「無かりし花」は見えず
 莨屋旅館跡から、さらに北にのぼると、さくら通りという広い道に出た。現在は「福井市照手」という地名だが、この頃は「三ツ橋」と呼ばれていた。
 寺と民家が1軒ずつしかない荒れ野だった。ここにアバラ屋同然の「藁屋(わらのや)」という寺子屋があった。住んでいたのは、正岡子規をして、源実朝いらいの歌人だと絶賛せしめた橘曙覧(たちばなのあけみ)である。
 龍馬は和歌が好きで、橘を知っていたはずだが、莨屋からの帰りに立ちよった気配はない。京の政情を考えると、それどころではなかった。橘にはこんな歌がある。
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 「たのしみは朝おきいでて昨日(きのふ)まで無かりし花の咲ける見る時」
 平成6(1994)年、天皇、皇后両陛下が訪米されたさい、クリントン大統領が歓迎スピーチで引用したことで知られる。橘の名前すら知らなかった日本人記者はびっくりしたらしい。
 橘は維新成就による天皇親政を心から喜んだ。だが龍馬は「昨日まで無かりし花」が咲くのを、ついに見ることはできなかった。(文・福嶋敏雄)
                   ◇
 ≪メモ≫
 福井は戦国時代、「北ノ庄」と呼ばれ、柴田勝家が治めた。関ケ原合戦のあと徳川家康の次男、結城秀康が入城し以後、その子孫の越前松平氏が統治した。松平春嶽(慶永、よしなが)は第16代藩主で、藩政改革を行い、坂本龍馬らを援助した名君として知られる。福井へは東京からだと、羽田-小松空港間が約1時間。小松空港から市内までバスで約1時間。大阪からだと、北陸線特急で約2時間で到着する。
                   ◇
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龍馬が色鮮やかに!150年前の写真カラー化に成功
 写真製版、印刷を手がけるサンメディア社(本社・神戸市兵庫区)の横山稔社長(68)が、特許を取得した独自の技術で、「フルベッキ写真」と呼ばれる1860年代に撮られた写真のカラー化に成功した。

 「フルベッキ写真」とは、1859年(安政5年)に来日したオランダ人宣教師のフルベッキとその子どもが中心に写ったもの。この写真は1970年代、肖像画家の島田隆資氏(故人)が、写真が残っていない西郷隆盛の肖像画を分析し、この写真に写っていると断定。さらに坂本龍馬、高杉晋作、陸奥宗光、大久保利通ら22人を独自に特定したことで注目を集めた。

 横山社長は、知人が米国から入手したこの写真を、特許を取得した独自の技術でカラー化。同時に「島田説」に興味を持ち、警察でも使われる「スーパーインポーズ方式(画像合致法)」を取り入れた。幕末の英雄の別の写真の顔を透明化して重ね合わせ、同一人物かどうか探り、龍馬らのほか伊藤博文、井上馨、江藤新平など明治政府の要職に就いた人物を含め44人を独自に特定した。

 「手に取った人が研究者になったつもりで、それぞれ楽しんでもらえれば」と横山社長。このほど、カラー化された額入り写真に「スーパー―」のCDをセットにして売り出すことに。カラー化により、歴史的ロマンが広がったことは確かだ。

 ◇この写真に関する詳しい情報は、株式会社サンメディアHP(http://www.sun-media.info/)へ。また、販売に関する問い合わせは、報知PRセンター(TEL03・5479・1300)へ。


藤原竜也が“最後の仇討”に命を懸ける青年を熱演!
 テレビ朝日系では、明治十三年に起きた日本で公的に記録されている“最後の仇討”を描いたドラマ「ドラマスペシャル 遺恨あり-」を来春放送することが決定。藤原竜也が暗殺された父母の敵討ちに命を懸けた旧秋月藩士の青年・臼井六郎を熱演する。藤原以外のキャストには、六郎を支え続けた侍女・なか役に松下奈緒、六郎を裁く判事・中江正嗣役に吉岡秀隆、幕末の剣豪・山岡鉄舟役に北大路欣也と、実力派の豪華俳優陣が脇を固める。
明治という新時代を目前にした慶応4年に、九州の山間にある小藩“秋月藩”で、藩の執政・臼井亘理とその妻・清が暗殺される事件が発生。両親を襲った惨劇を目の当たりにした息子・六郎(藤原)の心の中には、誰も消すことのできない怒りの火が芽生えていく。だが、鎌倉以来700年の長きにわたり“武士の美徳”とされてきた敵討ちが、明治に入り“殺人罪”という犯罪に変わる。そして明治十三年に六郎が果たした敵討ちという名の“明確な殺意ある殺人”は、大論争を巻き起こしてしまう。
主演を務めた藤原は「六郎は、生きる目的はただ1つ、敵討ちしかないという思いを抱く、孤独な青年。非常に深いテーマですが、1つの思いのためだけにとてつもない人生を歩む六郎は、役者ならば誰でも絶対にやりたいと思う役。北大路さんにも『六郎は、やりがいのある役。自分も演じたい』とおっしゃっていただきました。その北大路さんとの立ち回りシーンは、とても怖かったです。何かを超えた格好よさ、すごみに圧倒されて、大量に汗が出ました(笑)。キャストの方々も個性豊かで全員が全員、役柄にピッタリ。今までにないどっしりした素晴らしい作品になると思います」とコメントした。


【幕末から学ぶ現在(いま)】(92)東大教授・山内昌之 伊藤博文(上)
政治家のイメージ
   
 政治家に大事なのは今も昔もイメージである。この点でいえば伊藤博文は随分と損をしている。大日本帝国憲法(明治憲法)を制定し、議会を開設しただけではない。初代の首相、最初の政友会総裁として日本政治の制度設計に大きな足跡を残したのに、その功績と比べて評価は必ずしも芳しくない。
 ◆歴史学での評価は散々
 これは彼の本領と関係のないイメージの所産といってもよい。まず一般的なイメージが固定している。この点では、師の吉田松陰が伊藤のことを才が劣り学問も浅く、性質はまっすぐながら華がないと評したことが大きい。農民から中間(ちゅうげん)の養子に入った伊藤は世間ではとかく成り上がりと見られ、その遊興好きとあいまって、生来の楽観主義からくる現実への柔軟な対応力もともすればオポチュニズムと冷笑されがちであった。ことにアカデミズムの歴史学における伊藤の評価は散々である。帝国憲法の制定にしても、功労者は『憲法義解(ぎげ)』の執筆者、井上毅(こわし)であり、伊藤の役割は派手な表面性にとどまるというイメージが強いのだ。
 現代の政治家の間でも伊藤博文の功績を認める人は少ない。2009年は伊藤の没後100周年であり、彼が貢献した帝国憲法発布から120年にも当たっていたのに、目立った行事が国会や政党の内外で催されたとは寡聞にして知らない。おそらく、帝国憲法は統帥権の不可侵性などによってミリタリズムの台頭を招き、伊藤も韓国併合に道を開いたこともあって、その再評価は韓国はじめ国際世論を刺激し有権者の否定的反応を招くと危惧(きぐ)したのだろう。政治はイメージで決まるところが大きいにせよ、単純なイメージ型歴史観に左右されるのも困ったものだ。
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 伊藤には、法制史家の瀧井一博氏が語るように、藩閥政府、政党、枢密院、宮中と意の赴くままに「政界の随所を遊泳する勝手気儘(きまま)さ」や、大隈重信や陸奥宗光や星亨(とおる)といった昨日の敵とこだわりなく「結託する変わり身の早さ」もあった(『伊藤博文』中公新書)。しかし、伊藤をカメレオンもどきの寝業師といった党人政治家として片付ける人もいない。何しろ伊藤は、国会だけでも議事堂中央玄関から入った先の中央広間の一角と、参議院前庭の2カ所に像が立っているのだ。その上、瀧井氏は議事堂の設計者が尖塔(せんとう)の頂に伊藤の像を仮想したという興味深い逸話を紹介している。伊藤を“議会の父”と呼んでも完全に誤りとは言えない。
 「議会の子」という言葉はよく使われるが、そう呼ばれた政治家たちは実績よりもイメージが先行して得をしている。そして、伊藤博文が“議会の父”と呼称されないのは“悪い”イメージが固定しているからだ。これは歴史を虚心に見ない専門家にも責任があるが、伊藤を偉大な先達として見ようとしない現在の政治家も責めを負うべきであろう。
 ◆学ぶべき迫力と自信
 しかし、伊藤には西洋文明を尊敬しながら恐れるに足らずという気迫があり、師の松陰の権威にも屈せず批判する率直さがあった。この迫力と自信こそ外交で失敗を繰り返す民主党政権に学んでほしい点なのである。彼は、松陰が理念として過激でさえあればよく、攘夷(じょうい)論も精神でなく政略から出たと手厳しい。
 その半面、かつて幕末に暗殺を企てた長井雅楽(うた)については、冷静に日本の行方を熟考し外国に対抗する政略を重んじ日本の一致を図ろうとした点を讃(たた)えるようになった。松陰は理想主義に走りすぎ、長井こそ政治リアリズムの徒として教えられる点が多いというのだろう。
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 伊藤は、政治目標を実現するのに政策的思考を積み重ねるタイプであり、理念や精神の思い込みで政治を進める人物ではない。政治の世界は人と組織にそれぞれの思惑があり、なかなかに利害の調整が巧(うま)くいかない。もつれを解きほぐし対立や利害関係を調整する作業に得意だったのが伊藤である。彼の事績には、自民党との大連立から公明党との協力、社民党との連立など多くの組み合わせに腐心する民主党政権も学ぶべき教訓が多いはずだ。誤ったイメージで伊藤の実像から目をそむけるのはまさに食わず嫌いというものだろう。(やまうち まさゆき)
                   ◇
【プロフィル】伊藤博文
 いとう・ひろぶみ 天保12(1841)年、周防(山口県)の農民の子として生まれる。松下村塾に学び、尊皇攘夷派となるが文久3(1863)年、英国留学を機に開国派に転じ、倒幕運動に尽力。明治4(1871)年、岩倉遣欧使節団の全権副使となる。11年内務卿となり、14年の政変で政府の中心人物となる。18年初代首相に就任。4度にわたる組閣を通じ、憲法制定、不平等条約改正など近代日本の礎を築いた。日露戦争後の38年、韓国統監。42(1909)年、清国ハルビン駅頭で韓国人独立運動家に暗殺された。


「歴史楽屋噺」パート2・江戸城無血開城…一触即発の裏事情
 幕末ブームが続いているようだが、平和裏に行われた「江戸城無血開城」にこそ、和の国、日本の美学を感じずにはいられない。

 「江戸城無血開城」とは何か。江戸幕府が倒れることを前提に行われた勝海舟と西郷隆盛の話し合いで、江戸が誰の血も流さずに明治新政府に受け渡された事を言う。

 勝海舟は自他共に認める「江戸城、徳川慶喜最後の子分」。今で言う高級官僚にあたる。一方の西郷どんは倒幕の旗手。薩長同盟のトップである。

 勝海舟と西郷隆盛の話し合いは長時間に及んだ。この話し合い、実は「無血開城」を前提に行われていた訳ではない。江戸の下町には、勝海舟の子分筋にあたる火消しの親方・新門辰五郎とその後輩の博徒・小金井小次郎の一統が数千人待機していた。「勝海舟の身に何かあったら江戸中を火の海にして しまえ」という命令が下っていたのだ。

 一方で江戸城近辺には、西郷隆盛と共に上京してきた薩摩藩士の猛者達が控え、「もしも西郷どんに何かあったら、構わないから江戸城に殴り込んでしまえ」という命令があったという。

 一歩間違えれば「無血開城」どころか、大勢の死者が出たかもしれないこの場面。平和に解決した勝と西郷はやはり「人物」だったということだろう。勝海舟に関しては、地方の藩士が勝を殺すつもりで会いに行ったはいいが、話しているうちに、最後は子分になってしまったというエピソードもあるぐらいだから、人心掌握に長けていたのかもしれない。

 それにしても、火消しに対して放火命令が出ていたとは、洒落にならない馬鹿げた話ではないか。

(みんみん須藤)








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