新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
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寒波襲来でめっきり寒くなりました。酷暑の後は寒波が来るという知人の話、当たってます。
なかなか幕末ニュースをカバーできていないこの頃、少し拾い読みです。
北海道
「はこだて写真帳」発刊 函館の歴史 230枚の写真で紹介
東京
幕末・明治の名医、日記は貴重な史料 千住の神社で公開
江戸で種痘千住が先行か 安藤昌益の謎解明にも期待
神奈川
掘り出しニュース:村上もとかさんが漫画人生を語る--大和・歴史資料館
京都
駆け抜けた龍馬ブーム
にぎわい持続 知恵絞ろう
兵庫
激動 幕末の姫路紹介
勤王の志士弾圧「甲子の獄」 26日、市内で祭りや講演
山口
「小松陰」と師、絵馬に登場/萩
高知
龍馬ブーム 観光客に新資料 続々
鹿児島
篤姫像が鹿児島にお目見え、観光効果に期待
コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】(93)東大教授・山内昌之 伊藤博文(中)
なかなか幕末ニュースをカバーできていないこの頃、少し拾い読みです。
北海道
「はこだて写真帳」発刊 函館の歴史 230枚の写真で紹介
【函館】北海道新聞社は、函館の歴史を写真でたどる連載企画を一冊の本にまとめた「はこだて写真帳」を発刊した。
企画は2009年4月から10年11月まで、函館支社の地域情報版「みなみ風」に連載され、「箱館から函館へ」「海峡と鉄路」「昭和の街」など全5章。写真帳は連載に、新たな写真と資料を加えて再構成した。
開拓使函館支庁があった基坂(もといざか)から函館港を望んだ風景=1879年(明治12年)=や函館大火=1934年(昭和9年)=、洞爺丸台風(1954年)など、幕末14件、明治、大正、昭和のセピア色の写真約230枚を掲載している。
B5判、159ページ、1575円。問い合わせは北海道新聞出版局営業グループ(電)011・210・5744へ。
東京
幕末・明治の名医、日記は貴重な史料 千住の神社で公開
幕末から明治にかけて現在の足立区などで活動した医師で、幕府医学館にも勤めていた佐藤元萇(げんちょう=1818~1897年)の20年分の日記が見つかり、同区千住仲町の千住氷川神社で公開された。当時の医療の様子に加え、元萇の出身である会津藩や徳川幕府の要人との関わりも記載されており、歴史研究者は医学史などの貴重な資料になるのでは、と期待する。
日記は嘉永4(1851)年~明治4(1871)年の20年分で、全部で8冊。縦約8センチ、横約16センチの和紙に漢文で書かれている。
日記では、元萇が千住や会津で種痘法を広めるのに尽力したことが書かれている。松戸や取手など北関東へ往診に行く様子も出てくる。馬で利根川の岸まで行き、舟で川を渡っていた。
55年には千住に「藁園(わらえん)」という医院兼医塾が開設された。元萇が院長として診療にあたり、若い医師の教育もしていた。
戊辰戦争中は茨城県の弥柳(いよやなぎ=現つくばみらい市)に1年ほど身を潜めたが、その後は再び千住に移り、1週間かけて南千住で解剖を行うなど医療活動を続けていた。
日記は2009年4月、元萇のひ孫で静岡県に住む佐藤友哉さん(81)の家で見つかった。千住の歴史を研究している「安藤昌益と千住宿の関係を調べる会」事務局長の矢内信悟さん(61)が発見し、調べる会や足立区立郷土博物館などの10人が今年8月から解読を続けている。
矢内さんは「元萇は会津藩主の松平容保や15代将軍の徳川慶喜ら当時の要人と会い、密接に関わっていたとみられる。医学史だけでなく政治史の研究にも役立ちそうだ」と話す。いずれは日記の内容を本にまとめる予定という。
江戸で種痘千住が先行か 安藤昌益の謎解明にも期待
千住ゆかりの幕末の医師、佐藤元萇(げんちょう)(一八一八~九七)の日記の解読を、足立区・千住地域の市民グループが始めた。診療の様子や文化人らとの交流のほか、天然痘の予防接種・種痘を、いち早く元萇が千住で広めていたことをうかがわせる記述もあり、メンバーは「幕末から明治の、空白の医学史などが解明されるのでは」と話している。 (丹治早智子)
このグループは「安藤昌益と千住宿の関係を調べる会」。事務局長の矢内信悟さん(64)が昨年四月、日記を保管していた元萇のひ孫、佐藤友哉さん(81)=静岡県在住=宅に出向いて日記の解読を申し出て実現した。今年八月から二年間の予定で、同会と区立郷土博物館学芸員の多田文夫さん、昌益研究者らによる作業班が解読作業を進めている。
日記は漢文でつづられ、全八冊。一八五一(嘉永四)年二月~七一(明治四)年十一月のほぼ二十年間分。
矢内さんによると日記には、一八六八(慶応四)年の「上野戦争」の様子、明治期に千住のはずれの処刑場「小塚原」(現・荒川区南千住)で一週間にわたり「腑(ふ)分け」(解剖)を行ったことなどが記録されている。
同会が注目するのが種痘に関する記述。天然痘の予防・治療機関「種痘所」が日本で初めて長崎にできたのは一八四九(嘉永二)年だが、日記には翌々年の五一年二月、元萇が千住で、牛痘による種痘を村人に施したことを示す記述がある。
江戸で種痘が普及したのは五八(安政五)年「お玉ケ池種痘所」(東大医学部の前身)ができてからとされ、これより七年早く、元萇は千住で種痘を広めていたことになる。
矢内さんは「幕末から明治の激動期を、幕府医官の冷静な目で記録した一級の史料。日本医学史の種痘の稿を書き直す材料を提供できるかもしれない」と期待する。
同会は、江戸中期の医師で思想家、安藤昌益(一七〇三~六二)の主著「自然真営道」の草稿が千住で発見されたことから、昌益と千住とのかかわりを調査するため二〇〇四年に結成された。
元萇の嘉永年間の日記には、当時、昌益の書籍を書き写していたとの説がある千住の医師・橋本玄益を、元萇が足しげく訪ねた記述がみられる。同会会長の相川謹之助さん(74)は「元萇の日記を読み解くことで、昌益の謎も解明できるのでは」と期待を寄せる。
日記は所有者に返され、公開予定はない。解読後、成果をまとめた冊子を発刊予定。問い合わせは同会=電03(3887)8021、矢内さん=へ。
神奈川
掘り出しニュース:村上もとかさんが漫画人生を語る--大和・歴史資料館
【神奈川】「漫画家・村上もとかの世界」-村上作品の魅力を探る-を開催中の大和市つみき野の市つる舞の里歴史資料館に23日、村上もとかさん(59)が来館し、大勢のファンに囲まれながら、デビュー当時からの作品など約80点を振り返った。
村上さんは現代から幕末にタイムスリップした医師の物語「JIN-仁-」(集英社)のほか、「龍-RON-」(小学館)や「六三四の剣」(同)などドラマやアニメとしてテレビ放映された作品で知られる。
現在、都内に住む村上さんは6歳から20代半ばまで市内に在住、県立大和高校に通っていた。
同校は同館のそばにあり、約40年ぶりに母校近くを訪れたという村上さんは「漫画家になったきっかけは高校の同級生や後輩に漫画のうまい人がいて、その出会いがあったから。漫画家人生に(大和市での暮らしが)大きく影響している」と述べた。
デビュー当時の作品には「いま見ると、勢いがあったようだ」と懐かしみ「ふるさとが僕のことを忘れていなかったことが、うれしい」と喜んだ。
来年1月23日まで。問い合わせは同館(046・278・3633)。【長真一、写真も】
京都
駆け抜けた龍馬ブーム
にぎわい持続 知恵絞ろう
大政奉還を成し遂げた幕末の志士・坂本龍馬に沸いた1年が過ぎようとしている。生誕地の高知にも負けないほど、多くのゆかりの地がある京都では、訪れた観光客が周辺の商店街を潤すなど、経済効果も上がった。だが、今月に入り、ブームは衰えを見せつつある。来年以降も観光客をつなぎ留め、一過性に終わらせないためには何が必要なのか。(横田加奈)
12月中旬、龍馬などを紹介する「幕末維新ミュージアム 霊山歴史館」(東山区)。学芸員の木村武仁さんは、人影がまばらな館内を見渡し、「1か月ほど前までは身動きが取れないくらいだったんですよ」。
NHK大河ドラマ「龍馬伝」の終了後、来場者数は減少傾向に転じてはいるが、龍馬ブームの効果は絶大だった。来場者数は先月末までに、昨年1年間の4倍近い30万人に達し、同「新選組!」が放映された2004年の21万人を大きく上回る過去最多を記録した。
同歴史館の東隣にあり、龍馬の墓がある京都霊山護国神社。11月15日の命日祭に訪れるファンらは、以前は多くても1000人ほどだったが、ブームが起こり始めた昨年は約3000人に増加。今年も昨年と同じ約3000人だったが、昨年が日曜日で、今年が平日だったことからみれば、龍馬人気がこの1年で、尻上がりに高まったことがうかがえる。
命日に合わせては、同神社などで、大学生らが2年前から「龍馬よさこい」というイベントを開催しており、木村隆比古宮司は「龍馬に興味を持つ若い参拝者が増え、イベントの盛り上がりに貢献できたのでは」と相乗効果を振り返る。
■ □
「龍馬人気も来春が限界だろう。商店街全体で誘致策を考えなければいけない」
龍馬襲撃で知られる寺田屋に近い竜馬通り商店街(伏見区)にある土産店「龍馬館」では今年、関連グッズの種類を2倍に増やし、売り上げは昨年の3倍に上ったが、南条良夫館長は、表情を引き締める。
行政も同じ課題を抱える。京都市は昨年6月から、ツアーに組み込んでもらうよう龍馬関連の観光地を紹介する写真データを旅行会社に配ったり、同10月には、ゆかりの地79か所を写真と説明文で紹介し、ウオーキングコースを掲載した散策マップ30万部を作成したりするなど精力的に観光客誘致に取り組んできた。
市観光振興課は「普段は行く機会の少ない場所も訪れてもらい、観光の幅は広がった」とし、龍馬の後は、来年スタートのNHK大河ドラマ「江(ごう)~姫たちの戦国~」や再来年の同「平清盛」にちなんだ事業を検討。ただ、龍馬に比べ、ゆかりの地が圧倒的に少ない点がネックという。
京都嵯峨芸術大の桑田政美教授(観光学)は「龍馬の魅力に触れながら、京都固有の景観や街並みも楽しめるよう、地域や行政の関係者が協力して集客を図る必要がある」と指摘する。
□ ■
龍馬ブームを背景に生まれたものもある。京都大などが来年1月に実施を予定している、その名も「RYOMAベンチャー検定」。龍馬に関する知識を問うのではなく、日本初の商社「亀山社中」を興した龍馬にちなみ、起業家精神を育んでもらうのが目的だ。
新しいことに果敢に挑む――。今年の龍馬ブームは昨年夏の政権交代と無縁ではないだろう。歴史的エポックという共通点だけでなく、政権奪取後の民主党の迷走、日常生活の閉塞感がまた、龍馬という人物像や精神への期待となって表れたのかもしれない。折しも生まれた観光面のにぎわいを継続させるためにも、関係者それぞれが<龍馬>となり、新たな取り組みに向けた努力が求められる。
兵庫
激動 幕末の姫路紹介
勤王の志士弾圧「甲子の獄」 26日、市内で祭りや講演
幕末の姫路藩で起きた尊王攘夷(じょうい)派の弾圧事件「甲子(かっし)の獄」を伝え、処刑された勤王の志士らをしのぶ催しが、志士らの命日にあたる26日に姫路市内で開かれる。歴史ファンらが勤王派のリーダーだった河合惣兵衛らの法要や記念講演を行うほか、今回は3年ぶりに大規模な祭りを企画した。主催者の一人で姫路独協大播磨学研究所の藤原龍雄事務局長は「幕末の研究は道半ば。城下町の人間ドラマを多くの人に知ってほしい」と話している。
姫路藩主の酒井家は、徳川家とのつながりが深く、佐幕派が占めていた。八代藩主・忠績(ただしげ)が京都所司代代理となったことから、警護のために京に滞在した姫路藩の志士たちが尊皇攘夷の考えに影響を受け、佐幕派の忠績に対し、志士が反発を強めたとされる。
河合惣兵衛の息子・伝十郎や江坂栄次郎が脱藩。脱藩の経緯を調べる中で、京で佐幕派の商人らを暗殺した志士がいることが分かり、危機感を募らせた藩主が1864年12月26日に志士らを処刑した。
市内には、惣兵衛を祭る善導寺(坂田町)のほか、大蔵前公園(塩町)には「姫路藩勤王志士終焉之地碑」と記された石碑が残り、河合家の子孫が2004年に伝十郎を惣兵衛と同じ寺に祭ったことをきっかけに法要を毎年開催。今年も26日午後1時から行う。
また、姫路幕末ファンクラブ(大谷充会長)が午前10時30分から、大蔵前公園で「姫路幕末維新祭り」を行い、石碑への献花のほか、坂本龍馬や新撰組などにふんするコスプレパフォーマンスや、甲子の獄をテーマにした漫画の冊子50部を無料配布する。
総社本町の市民会館で午後2時から、藤原事務局長が「酒井家の出自と姫路藩の誇り 勤王派と佐幕派の忠義」と題して講演する。
藤原事務局長は「悲劇に終わるが、新しい時代を切り開こうと理想に燃えた人が姫路にいたことを知ってほしい」と話している。
祭りの問い合わせは同ファンクラブ(079・223・5555)。法要や講演の問い合わせは播磨学研究所(079・223・2301)へ。
山口
「小松陰」と師、絵馬に登場/萩
幕末の思想家、吉田松陰をまつる萩市椿東の松陰神社に24日、来年のえとのうさぎに、松陰と卯年(うどし)生まれの松下村塾生、品川弥二郎を描いた特大絵馬(縦2・55メートル、横3・64メートル)が登場した=写真。
品川は1843(天保14)年生まれ。15歳で松下村塾に入った。苦学して俊才といわれるまでになり、後に小松陰と称された。明治政府で内務大臣を務め、産業組合設立に大きな功績を残した。
上田俊成宮司は「うさぎは愛くるしいだけでなく、生命力が強いとされる。それにあやかって来年はみな元気に飛躍する1年であってほしい」と話した。
(井口勝夫)
高知
龍馬ブーム 観光客に新資料 続々
観光客数はざっと昨年の1・3倍。施設によっては3、4倍。今年の県内は〈坂本龍馬ブーム〉に沸いた。
3月頃から、NHK大河ドラマ「龍馬伝」の終わった11月まで、特に県外からの団体客が急増した。龍馬の生家跡や武市半平太の道場跡、高知城など、高知市街の幕末の史跡を案内する土佐観光ガイドボランティア協会の「土佐っ歩(ぽ)」は、すっかり人気ツアーとして定着。通常の3、4人のガイドでは手が足りず、応援をやりくりし、連日10人前後が出ることもあった。
「大忙し。次々と団体客が訪れ、時間を気にしながら案内した。ドラマを見て疑問に思ったことを聞く人が多くて、トークも鍛えられた」。ガイドを務める浜田英子さん(69)は充実した表情で笑う。
土佐っ歩の利用者は、始まった2009年10月は月377人だったが、今年1月以降は平均約1300人と激増。ピークの5月は2508人だった。
1月、土佐・龍馬であい博が開幕し、県内4会場には目標を20万人も上回る85万人がこれまでに訪れた。4会場以外の観光施設56か所でも、県観光政策課によると、入場者数は09年同期比1・3倍の315万人(11月末現在)。中でも龍馬関連施設は群を抜き、県立坂本龍馬記念館(高知市)には同2・82倍の46万人、北川村の中岡慎太郎館は同4・25倍の2万6700人が押し寄せた。
宿泊施設や飲食業など観光産業も活況を呈した。日銀高知支店の今年4月の試算では、経済効果は409億円。09年10月は234億円としていたが、大幅に上方修正した。
◇
龍馬へ関心が高まるとともに、新資料の発見が相次いだ。今年6月、いの町の男性が県立坂本龍馬記念館に持ち込んだ資料は、龍馬が大政奉還を訴える直筆の手紙草案だった。土佐藩重臣の後藤象二郎へ宛てた手紙そのものは残っておらず、「龍馬が時代を動かした瞬間を記録した」とも言える一級資料だった。
7月には京都市で龍馬の現存最古とみられる手紙が見つかった。遠く岩手県でも手紙を発見。龍馬の資料は「出尽くした」とさえ言われていただけに、各地へ確認に走った同館の三浦夏樹学芸員(38)は「鑑定の依頼が急増し、結果的に歴史が掘り起こされた」と振り返る。龍馬が使ったとされるのと同型の拳銃も館に寄贈され、そうした新資料は展示の目玉となっている。
◇
「龍馬伝」終了で、高知観光そのものが「ブーム」に終わるとの危機感はある。日銀高知支店は「06年の大河ドラマ後も観光客が減っており、来年は減るだろう」と指摘する。
すでに、先を見据えた取り組みはある。高知市のホテル城西館は「龍馬だけにとどまらない魅力を売り出す」と、早朝の市中央卸売市場を見学して鮮魚の味を楽しむツアーなどを企画し、好評を得ている。また、土佐っ歩は、12月に入っても好調で、高知市観光振興課は「予想以上の人気。来年も観光の目玉として続けたい」と話す。
県は11年3月から後継イベント「志国高知龍馬ふるさと博」を開き、集客を図る。ただ、施設の整備だけで「二匹目のドジョウ」を狙うのは難しい。
11年は、武市半平太が率いた土佐勤王党が結成されて150年の節目の年。県内各地にその歴史の息吹が残っているだけに、箱物だけに頼らず、次につなげる魅力を発掘することが鍵を握りそうだ。(大舘司)
鹿児島
篤姫像が鹿児島にお目見え、観光効果に期待
激動の幕末期を生き抜き、江戸城無血開城などに尽力した天璋院
てんしょういん
篤姫の銅像が19日、鹿児島市の県歴史資料センター黎明
れいめい
館前庭にお目見えした。完成除幕式には徳川家、島津家、近衛家の当主や、篤姫ファンら約400人が出席した。
篤姫は薩摩藩・島津家の分家に生まれ、近衛家の養女となって、第13代将軍・徳川家定の正室となった。その生涯を描いたNHK大河ドラマ「篤姫」が2008年に放送された。
式では森博幸・鹿児島市長が「九州新幹線の全線開通を控え、銅像のお姿で故郷に帰ってこられた。観光の魅力アップにつながると期待している」とあいさつ。大河ドラマの音楽を担当した同市出身の作曲家・吉俣良さん(51)と地元の中高生がテーマ曲を演奏し、花を添えた。
銅像は高さ約3・1メートル(像約1・8メートル、台座約1・3メートル)。ドラマの放送に合わせて設置されていた「篤姫館」の収益から約4000万円を支出。明治初期の篤姫の写真をもとに、文化勲章受章者で市在住の彫刻家・中村晋也さん(84)が制作した。
制作にあたり、篤姫が眠る東京・上野の寛永寺で墓参りをしたという中村さんは「激動の時代をたくましく生きた薩摩おごじょのりんとした生き様を感じ取っていただきたい。ご本人は鹿児島へ帰ることはなかったが、本当は帰ってきたかったと思う。鹿児島で多くの人に迎えてもらってよかった」と笑顔で語った。
霧島市隼人町神宮、主婦野間祥子さん(50)は「大河ドラマで篤姫が好きになり見に来た。銅像はきりっとしていて写真の雰囲気よりもいいと思う」と話していた。
コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】(93)東大教授・山内昌之 伊藤博文(中)
■立憲カリスマの本領
◆漸進主義の立憲政治論
「制度の政治家」といわれる伊藤博文を特徴づけるのは、漸進(ぜんしん)主義の立憲政治論ではないだろうか。この点は、英国流の議院内閣制を主張した大隈重信を明治14(1881)年の政変で政府から追放した翌年に、「憲法取調」の名目で出かけウィーン大学のローレンツ・フォン・シュタイン教授に学んだ後に明白な姿を現すことになる。
伊藤は学者でなかった以上、憲法の条文に書かれる具体的な文章でなく、立憲国家の全体像と憲法施行後の国家運営の指針に大きな関心を払ったのは当然であろう。その中心に位置したのは、いかに議会と政府が共同して円滑に政治を運営していけるかという点であり、憲政(議会制)は行政の行為なくして無内容に終わり、行政も憲政なくしては無力だというシュタインの考えであった。
内閣制度の導入や行政機構の改革は、それを担う官僚を育てる大学を必要とする。こうして伊藤は、帝国大学(東京大学)を国家の行政を担うエリート官僚の養魚池として位置づけたのだ。新たな国制に見合った新たな知の制度化を図った伊藤を「知の政治家」と呼んだのは法制史家の瀧井一博氏である(『伊藤博文』中公新書)。
◆脅威は慶應義塾出身者
知と制度に立脚する伊藤にとっての脅威は、慶應義塾で学び大隈の斡旋(あっせん)で政府に奉職した若き知識人たちであった。そこには、犬養毅(つよし)や中上川(なかみがわ)彦次郎や尾崎行雄といった後年名を挙げる錚々(そうそう)たる若者が入っていた。しかし、かれらはともすれば急進的な自然法を信奉する抽象の議論に終始するきらいがあり、伊藤は明治新国家の安定をかれらに託することに不安を感じたのである。
大隈の懐刀といわれた小野梓などは、新たにつくられた東京専門学校(早稲田大学)で公然と政府批判を強める。大隈や小野は私立学校で在野精神をもつ政治的人材を育成し、それを政党にリクルートすることを狙った。小野の講義は、まるで政治演説まがいであり、学生に学問の原理を教えるのをそっちのけに自ら信じる弁論にふけったというから壮観だったに違いない。私に限らず、その熱弁を実際に聞いてみたかった人も多いだろう。全校生徒200人はすべて「年少気鋭の政治家」になったと『早稲田大学百年史』は巧(うま)いことを述べている。
◆大学は堅固な政体の基礎
伊藤は、大隈や小野のような「政談的知識人」を嫌い、「科学的知識人」の育成を目指した。かといって伊藤は、有能な官僚がしばしば自分を敬遠して“使いやすい”岩倉具視(ともみ)や井上馨(かおる)に取り入る姿を見ていた。これは官僚としての分を超え“吏道(りどう)”に反すると映ったはずである。しばしば伊藤の分身と見なされる井上毅(こわし)はその典型であった。
井上毅は、プロイセン型の立憲君主制をほぼそのまま日本に導入することに腐心し、国民中心の政治を日本に確立させようとした伊藤としばしば対立することもあったからだ。
官僚が職分を越えた振る舞いをすることに伊藤は決して寛容ではなかった。制度と知の政治家たる伊藤は、立憲制を支える知の機関の必要性を痛感し、大学を政治エリート供給のための国家機関として整備することを考えたのである。
伊藤にとって許されないのは、政府に潜り込んで英国モデルの急進的実現を図り立憲国家の安定的基盤を損ねかねない書生だけでなかった。井上毅のようにプロイセン・モデルの導入を譲らない政府部内の相当に有能な「官僚知識人」の存在も危険に映ったことであろう。
大隈と井上という2人の異質な挑戦者を斥(しりぞ)けるために、大学を「堅固な政体の基礎」と位置づけた伊藤の着眼は非凡であった。瀧井氏が伊藤のことを「立憲カリスマ」と呼ぶのは決して誇張とはいえないのである。(やまうち まさゆき)
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