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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
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 幕末ニュースクリップ、週一回のペースになってますが、細々とでも続けます。

北海道
奉行所駆ける赤ふん勇姿
2011はこだて冬フェスティバル行事の一つ「五稜郭ファミリーイベント」(同フェス実行委主催、えぞ共和国主管)が12日、五稜郭公園で始まった。大抽選会のほか恒例の赤ふんダービーも行われ、レースを見守る子どもから大人までの歓声が響いた。

 午前11時に市消防音楽隊の演奏で幕開け。箱館奉行所復元に伴い、イベント開催場所は変更され、赤ふんダービーは距離を短くして行われた。北大水産学部の寮生ら約20人が赤ふん姿で登場。同大の女子学生が乗ったタイヤチューブを、腰のベルトに付けたひもで引っ張り、約70㍍のコースで速さを競った。元気良く走る学生に「頑張れ」「負けるな」などと声援が飛んだ。

 和歌山県出身で、今回で4年目の“出走”という北大大学院2年、河内孝文さん(25)は「距離が短くなってレースは難しかった。函館ならではのイベントを楽しめ、学生生活の思い出ができた」と話していた。

 同ファミリーイベントは13日午前9時から、どさんこ馬の乗馬体験、クイズ大会などが開かれる。


「開港150周年」記念ソング 粗大ごみ収集車などで活用へ
一昨年の「函館開港150周年」の記念ソングとして市民から歌詞を公募し、作曲家の小林亜星さんが作曲した「あれから そして今」が新年度から市環境部のごみ収集業務などで活用される見通しだ。今年に入り函館市は著作権の問題もクリアし、これまでなじみの薄かった楽曲の市民への浸透を図っていく。

 開港150周年行事で実行委の中核を担った市港湾空港部が1月上旬、市民へ楽曲を広めようと、歌の著作権を持つ小林さん側と話し合い、使用許可を求めた。小林さん側も快諾し、日本音楽著作権協会(JASRAC)からも使用許可を得た。

 市議会でも市内を巡回するごみ収集車での活用策などの意見があり、市環境部も楽曲の使用許可を取得。楽曲は粗大ごみ収集車やパトロール車がごみの分別を呼び掛けて巡回するときなどに使用する予定で、現在テープを作成しているという。

 一方、ごみ収集車には現在使用している「はこだて賛歌」が市民の間で浸透していることから、不燃・可燃ごみなど家庭ごみの収集時には現行通りとする方針。市港湾空港部では「節目のイベントで生まれた楽曲。より広く市民の耳に届いて、親しみを感じてほしい」と市民への浸透に期待を寄せている。

 市では「あれから―」を市内の中学校などにCDで配布しているほか、市役所本庁舎の総務部の電話保留音として使っている。



福島
赤瓦の天守作業終盤に 会津若松・鶴ケ城
 福島県会津若松市のシンボル、若松城(鶴ケ城)の瓦を幕末当時の赤瓦にふき替える「往時の天守閣再現事業」が終盤を迎えた。現在は、城を覆っていた足場やシートが少なくなり、雪がなければ赤瓦が見える状態に。市などは3月27日の完工に合わせ、特別イベントを企画している。
 昨年3月からの工事では、黒い瓦を赤い瓦に交換する作業が終了し、壁の補修や塗装を進めている。
 市や市観光公社は3月27日、本丸内で完成記念式典を開く。全国の城郭でも数少ない赤瓦を多くの市民に見てもらうため、同日から31日までの5日間、天守閣の入場料(高校生以上400円)を無料にする。
 4月から9月まで4回に分けて有料入場者計5万人に、記念品として赤瓦と黒瓦が描かれた会津塗の箸を贈る。
 天守閣再現事業への市民の関心は高く、赤瓦に自分の名前を記入できるなどの特典がある寄付金は6642件、計約1700万円に上った。



茨城
「桜田門外ノ変」ロケセット公開1年延長 来年3月まで
水戸市・千波湖畔にある映画「桜田門外ノ変」のオープンロケセットについて、市は10日、公開を来年3月末まで1年間延長すると発表した。当初、来月末で打ち切り取り壊すことになっていたが、市民らの要望が高まり、市は「観光振興に寄与する」として支援を決めた。

公開延長を要望していた映画化支援の会事務局長の三上靖彦さんは「私たちの活動は映画づくりから始まる地域づくり。映画公開後のこれからが本番。ロケセットを拠点にさらに地域貢献に励みたい」とコメントした。

ロケセットは、市が管理する同市千波町の千波公園の一部約1・8ヘクタールに立地。映画では、幕末に大老井伊直弼が水戸浪士らに襲撃されるシーンの撮影場所となった。施設内にはメーキングビデオや撮影風景などを撮ったパネル、水戸藩の歴史などを紹介した記念展示館もある。建設費は約3億1千万円。県と水戸市がそれぞれ3千万円補助した。

映画化支援の会によると、ロケセットは昨年2月20日から有料で公開され、入場者は今年1月8日に20万人を達成した。昨年10月16日の上映後は特に入場者が増えた。今月20日に開幕する水戸の梅まつりにより、さらに入場者増が期待される。


東京
蝦夷地探検家の足跡紹介 東京・京橋で松浦武四郎展開催中
 幕末に蝦夷地(現在の北海道)の地形をアイヌ民族と協力して調べ、「北海道」と名付けた探検家、松浦武四郎の足跡を紹介する展覧会が、東京都中央区京橋のINAXギャラリー1で開かれている。

 松浦は文化15(1818)年、現在の三重県松阪市で生まれた。17歳から旅を始め、27歳までに東北から九州までを踏破した。蝦夷地探検は28歳から41歳までに計6回実施。伊能忠敬と間宮林蔵が輪郭の実地測量を終えていたが、空白だった内陸部の原生林を、松浦は1人で巡り、270人以上のアイヌ人の協力を得て山や川の位置を歩測で地図にした。

 明治維新後では、開拓判官に登用され「北海道」と命名したが、明治3年、アイヌ民族への理解と保護をめぐって意見が異なり辞職。晩年も北海道の紹介に努め、調査の成果は地図、鳥(ちょう)瞰(かん)図(ず)、紀行文、アイヌ伝説、9800ものアイヌ語一覧、北海道を紹介するすごろくや、携行可能な案内など、生涯で150冊以上にのぼった。

 会場では、経緯度1度を1枚とする大きな切図「東西蝦夷山川地理取調図」全26枚のうち、十勝平野周辺、稚内・利尻島・礼文島周辺など7点の実物や、木版刷りが美しい動植物の画など計約30点を展示し、学者、探検家、編集者など多彩な側面を紹介している。

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 来場者の注目を集めているのは、松浦が晩年、東京・神田五軒町の自宅の一角に建てた書斎「一畳敷」(実物は東京都三鷹市の国際基督教大学内)。

 全国を旅して知り合った人々から贈られた京都・渡月橋の橋げたや伊勢神宮の遷宮で取り換えられた材木など91カ所の古材を用いており、旅を思い出すようなぜいたくな空間だという。明治の評論家、内田魯庵は「好事の絶頂」と評した。

 「幕末の探検家 松浦武四郎と一畳敷」展は19日まで。日曜祝日休館。無料。(電)03・5250・6530。


日本が封じ込められた1畳の書斎 東京・京橋で展覧会
 「立って半畳、寝て一畳」の言い回し通り、たった1畳のとある書斎を紹介する展覧会が、19日まで東京・京橋のINAXギャラリー1で開かれている(11、13日休み)。「幕末の探検家 松浦武四郎と一畳敷」展だ。同名の本もINAX出版から出ている。

 武四郎は6度の蝦夷地(北海道)探検をもとに、地形や地名が詳細な地図やアイヌ民族の習俗などを記した野帳を残した。

 晩年、東京・神田の自宅敷地内に建てた書斎が「一畳敷」。狭さだけでも驚きだが、柱や天井板などに宮城県から宮崎県まで各地から集めた約90もの古材を使ったという。それも、伊勢神宮の式年遷宮の際に出たものなど由緒あるものばかりだ。

 移築されて今は東京都三鷹市の国際基督教大の敷地内にある。公開は年に数日で、展覧会には写真パネルを使った実物大模型が登場。中に入ると、想像以上に左右からの圧迫感が強い。その狭さに、日本全体が封じ込められているという不思議。

 空間は小さく思いは広く。夢想育む、最高の書斎にして最高の隠れ家に違いない。(編集委員・大西若人)


静岡
北方領土の日・記念史跡めぐりマラソン:男女213人力走--下田 /静岡
 第31回北方領土の日・記念史跡めぐりマラソン大会(北方領土返還要求県民会議など主催)が7日、下田市で開かれ、一般男女、市内の中学生男女合わせて213人が参加した。最年長は77歳、最遠方は愛知県一宮市のともに男性。

 1855年の同日、北方四島が日本固有の領土であることを定めた日露通好条約が下田で締結されたのを記念する大会。午前10時に条約が結ばれた長楽寺前を一般と中学生に分かれてスタートした。

 中間のまどが浜、折り返しの玉泉寺など、幕末外交の舞台を巡る5・1キロは、往路は右、復路は左に海を見て走るフラットなコース。絶好のマラソン日和の中、参加者は潮風を浴びて力走した。

 レース後、北海道根室市から届いたサケの石狩鍋が、ランナーや市民に振る舞われた。【中村隆】


新潟
無料展示:古伊万里に漆器130点--佐渡・きょうまで /新潟
 佐渡に伝わる古伊万里や金彩の施された漆器などを集めた「佐渡に息づく古伊万里と漆器展」が13日まで佐渡市泉の「杜のひろば」で開かれている。
 直径70センチの大皿や角皿、とっくり、水つぎなど、江戸時代中期から幕末の伊万里焼が80点。皿を乗せる鉢台や野外で飲食を楽しんだ「のがけ重」など50点の漆器が並んだ。主催する佐渡の文化を守る会は人間国宝三人展などを毎年開いており今回が4回目。石原孝一会長(62)は「佐渡には大切な地域遺産が残っている。関心を持って伝えてもらいたい」と話した。午前10時~午後4時。無料。問い合わせは夢ハウス佐渡0259・61・1100。【磯野保】


山口
長州維新の道:倒幕へ続く赤間関街道紹介 福岡市の出版社発行 /山口
◇歴史、風景ふんだんに
 下関(赤間関)と萩を結ぶ旧赤間関街道沿いの歴史や風景を盛り込んだ「長州維新の道・上」を、福岡市中央区で出版社・のぶ工房を経営する遠藤薫さん(56)、順子さん(51)夫妻が発行した。幕末の動乱期、重要な歴史の舞台にもなった赤間関街道。「明治維新へとつながる街道の歴史を多くの人に知ってほしい」という。

 同社は九州の唐津街道、長崎街道を紹介する「街道シリーズ」をこれまでに計7冊出版してきた。しかし長州維新の道は「ただの旅行本ではありません」という自信作だ。

 赤間関街道は、幕末の志士、高杉晋作が功山寺で決起後、諸隊を率いて藩都・萩に攻め上った際に使った道。諸隊は各地で長州藩の正規軍に勝利し、幕府に恭順を示していた藩も倒幕へと傾いていった。薫さんは「彼(晋作)の決起がなければ、明治維新はなかった」。さらに「赤間関街道は、まさに維新への“道”だったんです」と力を込める。

 晋作の墓がある下関市吉田の東行庵のほか激戦地となった絵堂宿、晋作の日記を基に晋作が眺めたであろう地蔵や山並みなども紹介。旧街道の地図も添え、ガイドブックとしても最適。地元の歴史研究家に執筆を依頼し、当時の長州の働きが時代に与えた影響も考察している。

 長州維新の道・上は「筑前維新の道」の続編の形となり、今春発行予定の「長州維新の道・下」と合わせ「維新シリーズ3部作」にする予定。全カラー128ページ。2415円(税込み)で、くまざわ書店(下関市竹崎町)、文榮堂(山口市内3店舗)などで販売。のぶ工房(092・531・6353)へ。【尾垣和幸】

〔山口版〕



高知
龍馬や中岡慎太郎の湿板写真公開 県立歴史民俗資料館
 坂本龍馬や龍馬ゆかりの幕末の偉人らの湿板写真13枚が、南国市岡豊町八幡の県立歴史民俗資料館で、20日までの限定で公開されている。
 幕末に日本に伝わった湿板写真は、感光材料などを塗ったガラス板に画像を写し込んだもので、複製の原板になる貴重な資料。13枚を一斉に公開するのは初めてという。
 会場にはショーケース内の湿板写真と、その拡大パネル13枚がずらり。龍馬や後藤象二郎のほか、昨年に見つかった笑顔の中岡慎太郎の湿板写真が一堂に会している。
 高知市の吉永晴香さん(23)は「当時の写真は貴重なはず。こんなに多く残っているとは思いませんでした」と話し、見入っていた。
 午前9時~午後5時開館。観覧料500円(高校生以下無料)。問い合わせは同館(088・862・2211)へ。(滝沢卓)


龍馬や家族、慎太郎 幕末の湿板写真原板13枚
 幕末の志士・坂本龍馬や中岡慎太郎らを撮影した湿板写真の原板を紹介する特別展が、南国市岡豊町八幡の県立歴史民俗資料館で開かれている。龍馬が右腕を懐に入れた有名な写真や兄権平と後妻仲らを撮影したものなど原板13枚を展示。同館は「あまり見られない龍馬の家族の写真もあり、幕末が身近に感じられる」としている。20日まで。(大舘司)

 龍馬らが所属した土佐勤王党が今年で結成150年の節目を迎えることに合わせ、3月5日から同館で始まる「勤王党志士たちの遺墨・遺品展」に先駆けて企画した。

 幕末の頃に使われたカメラはシャッターがなく、レンズのふたを外して数十秒間、露光して再びふたをかぶせた。撮影中は動けないため、こわばった表情で写った人物が多く、白い歯を見せて笑う慎太郎の写真は異色。原板は昨年、富山県で見つかり、「日本で初めて笑顔で写った」とも言われ、京都祇園で1866年(慶応2年)に撮影された。

 右膝に着物がかかっており、隣に女性がいたとみられる。原板が墨のようなもので塗りつぶされているのは維新後、顕彰された慎太郎の姿を伝える上で、ふさわしくないなどの理由で、隠されたという説があるという。

 宮内大臣を務めた田中光顕ら佐川町の勤王家3人を写したものは、光顕が和傘を差し、仲間の大橋慎三が上着をはだけているなど愉快。京都祇園の別のスタジオで67年(慶応3年)に撮影された。同館の野本亮学芸員は「祇園で酒を酌み交した勢いで撮ったのかもしれない。国事に奔走する中で気を許した年相応の表情が見て取れる」と話す。

 土佐藩主山内容堂や重臣後藤象二郎らの写真も並んでおり、高知市中久万、病院職員和田美知子さん(60)は「男性は包容力がありそうな表情で、女性もきれいな顔立ち。時代の雰囲気がよく分かる」と話していた。

<メモ>

 1851年に英国で発明された技法で、感光性のある溶液を平板なガラス板に塗り、湿った状態で撮影した。ガラス板を種板にして、鶏卵紙などに焼き増しすることもでき、坂本龍馬は長府藩士三吉慎蔵ら親しい同志に自身の写真を配っている。より簡単に撮影できる乾板写真が主流となる明治中期までこの技法が利用された。

(2011年2月13日 読売新聞)



大分
“竜馬時代の銃”発見 三重町の筑波さん方
 豊後大野市三重町百枝の医師筑波(ちくば)貞男さん(81)方で、古い拳銃2丁が見つかった。1丁は米国スミス・アンド・ウェッソン社製で、弾倉部分の刻印から江戸末期に製造された可能性があるという。幕末に活躍した坂本竜馬も同社製の拳銃を持っていたことで知られており、「竜馬と同じ時期の銃が家にあったとは」と筑波さん。拳銃は史料として、県立先哲史料館へ寄贈した。
 見つかった銃はいずれも米国製とみられ、スミス・アンド・ウェッソン社製の銃には「1856・April13」の刻印が残されている。
 筑波さん方は旧岡藩の藩医だった家系で、妻まつよさん(78)の曽祖父筑波玄仲(げんちゅう)さんが購入したという。
 記録によると1886年当時、同市大野町の筑波家に強盗が侵入したことから、護身用として所持した。第2次大戦後、銃を壊して保管していたらしい。
 筑波さんによると昨年、竜馬ブームにより、新聞報道などで「竜馬の銃」が話題になったことから銃の存在を思い出した。届け出を受けた豊後大野署が調べ、発射能力、殺傷能力のいずれもないことが判明している。
 筑波さん方は過去にも、玄仲さんの史料などを同史料館へ寄託、寄贈しており、まつよさんは「銃が史料に加わり玄仲も喜んでいるのでは」と話している。
 同史料館は、当時の社会情勢を知る貴重な史料として新年度、展示することを検討している。


佐賀
恒例の蔵開きにぎわう 佐世保市の梅ケ枝酒造
 佐世保市城間町の梅ケ枝酒造で11日、恒例の蔵開きが始まった。多くの来場者が訪れ、期間中しか手に入らない日本酒や焼酎を試飲するなどしていた。13日まで。
 同酒造は1780年ごろ創業。幕末から大正期にかけて建てられた和風の建物群は、国の登録有形文化財となっている。この日、同市の長崎国際大茶道部の学生約15人が、日本家屋に茶席を設け、着物姿でお点前を披露した。
 期間中、新酒のたる酒や甘酒、お汁粉を振る舞うほか、伝統的な酒造り工程の見学会もある。JRハウステンボス駅から無料のシャトルバスを運行。同酒造=0956(59)2311。


鹿児島
薩摩切子復刻 雅号受け活動
 幕末の薩摩藩主島津斉彬が江戸のガラス職人四本(よつ・もと)亀次郎に生み出させた薩摩切子=キーマーク。明治期に一度途絶えたが、約100年後の復興にかかわったカット職人、中根総子(ふさ・こ)さん(49)は島津家から「櫻龜(おう・き)」の雅号を拝命し、精力的に活動している。鹿児島のシンボル桜島と、亀次郎にあやかった名だ。拝命から1年。九州新幹線の全線開業の時期に合わせ、鹿児島市の山形屋で「中根櫻龜」作品の常設販売も決まった。
(三輪千尋)
 兵庫県尼崎市出身。小学生の時、デパートで見たガラス職人の実演に魅せられた。「水あめのようなガラスがあれよあれよという間に動物の形になった。不思議で、やってみたくなった」
 短大で金属工芸を学び、ガラス工芸の専門学校「東京ガラス工芸研究所」に再入学。当時の所長でガラス工芸史研究家の由水常雄氏に勧められ、鹿児島市の島津興業で1984年からの薩摩切子復刻プロジェクトにかかわることになった。
 薩摩切子は透明なクリスタルガラスに色ガラスを被(き)せる。表面をカットし文様を作り出すのがカット職人の仕事。復刻作業は残された薩摩切子を実測し、図面に書き起こすことから始めた。どんな道具を使えばカットできるか検討を続けた。
 1985年に復刻を成功させてからは、そのまま切子づくりに励んだ。色ガラスを二色被せる「二色被せ」の技法を確立させたほか、2008年に放送された大河ドラマ「篤姫」にちなんだシリーズ作品も作った。「いつも新しいことに取り組んできたから、常に刺激があった」。この27年を、あっという間だったと振り返る。
 約5年前から個展も開く。作品には直線の切子文様だけでなく、曲線をデザインに採り入れた。女性らしい柔らかい作品が多い。「錦江湾を眺めると波がきらきら光っている。桜島も、毎日色が変わる」。鹿児島の風土が作品づくりの原点になっている。
 雅号を受けたのは昨年2月。技術を認められ、復刻25周年を機に島津家第32代当主修久(のぶ・ひさ)氏から与えられた。
 個展でのギャラリートークでは薩摩切子が生まれた目的を来場者に話す。カットガラスという単なる工芸品ではなく、その背景を知ってほしいという思いがあるからだ。
 「鹿児島の工芸品の枠に収まっていては駄目」と中根さん。「日本の伝統工芸品は危機的な状況。薩摩切子は100年のブランクがあってこそ、良い形でよみがえった。斉彬の思い同様、世界に胸を張れる工芸品に育てたい」
 工場横のギャラリーには、3月末までほとんどが中根さん作の薩摩切子で作られたひな壇飾りが展示されている。篤姫をイメージして作った作品を多く並べた。
 5月には山口県下関市で個展を開く。「新しいことに、どんどん取り組んでいきたい」。島津家からもらった雅号に恥じない活動をしていく決意だ。
■キーマーク 薩摩切子
 1851(嘉永4)年、薩摩藩主に就いた島津斉彬が西欧列強に対抗し近代化を推し進める「集成館事業」の一つとして始めた。透明なクリスタルガラスに色ガラスを被(き)せ、カットすることで「ぼかし」の美しさを堪能できる。斉彬の死後、1863(文久3)年の薩英戦争で集成館が焼失。1877(明治10)年の西南戦争前後に技術は途絶えたが、1985年に復刻された。


エンターテインメント
[かわぐちかいじ]「ジパング」作者の新作は幕末・戊辰戦争 「兵馬の旗」連載開始
「ジパング」や「沈黙の艦隊」など多くのヒット作を送り出してきたかわぐちかいじさんの新作で、幕末と戊辰(ぼしん)戦争を舞台にした「兵馬(ひょうま)の旗」の連載が、10日発売の「ビッグコミック」(小学館)4号から始まった。広島県尾道市出身のかわぐちさんの同郷というジャーナリストの恵谷治さんが資料協力として名を連ねている。
 「兵馬の旗」は、幕末を舞台した大河ストーリーで、海外留学を経験した旗本の宇津木兵馬の掲げた理想を描く。1話「幕府伝習隊」では、幕府伝習隊でフランス式調練を学んだ兵馬が戊辰戦争の初戦・鳥羽伏見の戦いで、留学中に知り合った薩摩藩士の村田新八郎と敵同士になって対決する。
 同誌では10年の大河ドラマ「龍馬伝」で勝海舟を演じた武田鉄矢さんとかわぐちさんの対談が掲載されており、「『敗者の美学』は要らない。低迷する日本の入り口を見つけたい」などと語りながら、グローバリズムの対立軸としてナショナリズムでなく、地方主義(ローカリズム)を挙げ、「地方主義をこの作品では忘れないで描こうと思っています」と新作への思いを語っている。(毎日新聞デジタル)

 大河ドラマ『獅子の時代』を彷彿とさせる設定だなぁ……でも、この時代を描く非作品は少ないので楽しみ。伝習隊ってことは大鳥圭介も出てくるかなぁと嬉しくなり、「ビッグコミック」買って第一回読みました。今後の展開が楽しみです。

コラム
「歴史楽屋噺」パート5・流刑地で神になった博徒、小金井小次郎
 幕末の侠客で最も有名なのは清水次郎長だろうか。いやいや、「赤城の山も今宵限り」でお馴染みの国定忠治だって、知名度では負けていないだろう。
 両者に共通するのは、「浪曲」の主人公として魅力的に描かれたという点である。
 しかし「浪曲」云々を抜きにして、幕末の侠客でもう一人忘れてはならない人物がいる。小金井小次郎である。現在の東京都小金井市出身。武士の家に生まれるも、思いきりドロップアウトして博徒となり、若い頃からメキメキと頭角を現したという。
 そんな小金井の小次郎だったが、アウトローの宿命か、ある時ついに「御用」となって三宅島に流されてしまう。三宅島で小次郎が見たのは、慢性的な水不足に苦しむ島の人たちの姿であった。
 小次郎は三宅島の人たちを不憫に思ったのか、一肌脱いで掛け替えのないプレゼントをした。大きな井戸を掘ったのである。これによって島の人たちは、乾季が続いても水源を確保できるようになった。井戸を掘ったのは小次郎および、小次郎の三宅島の若い衆たちで、何年もかけて立派な井戸を完成させたのだ。
 その結果、水不足の問題は解決し、井戸は「小次郎井戸」という名で島民に親しまれた。同時に小次郎自身も神様か仏様のように崇められたのであ る。江戸の町では「やくざ者」の小次郎だったが、三宅島では「神様」として有り難がられたのだった。
 三宅島を救った「小次郎井戸」だが、島に近代的な水道システムが確立する昭和の中頃まで普通に使われていたというのだから驚きだ。
 三宅島の人たちは、小次郎が島にいた時は勿論、江戸の町に戻ってからも感謝の念を忘れなかった。ちなみに今でも三宅島の年配者は皆、「小次郎井戸」を知っているという。
 蛇足だが、「江戸の町は水路の発達した世界有数の近代都市だった」という新説が最近発表された。
 「小次郎井戸」はおそらく江戸の町の井戸をモデルに造っており、小次郎が幕末の三宅島に持ち込んだのは、江戸の町が世界に誇る水源確保の技術だったのかもしれない。それなら「神」と呼ばれてもおかしな話ではない。
(みんみん須藤)



【幕末から学ぶ現在(いま)】(100)東大教授・山内昌之 川路聖謨
■ユーモアと機知の外交

露を驚嘆させた交渉術

 昨秋のメドベージェフ露大統領の国後訪問以来、北方領土にひきもきらずロシアの高官が押しかけている。緊張感をもって慎重に扱ってきた外交案件も油断すればどうなるかという見本を見せつけられている。やりきれない気持ちの日本人も多いはずだ。そもそも一国の首相が「日本列島は日本人だけのものではない」といった国家観ゼロの発言をするから、ロシアは得たりやおうとばかりに挑発してきたのではないか。一部の政治家は、まだこの簡単な理屈が分からないらしい。その外交感覚の鈍さに呆(あき)れ果てるばかりでなく、空恐ろしさすら感じてしまう。

 幕末以来の日本とロシアとの長い交渉史では、現在と違ってロシアをたじろがせた政治家や外交官も少なくない。川路聖謨はその代表格である。ゴンチャロフの『日本渡航記』には川路の洗練された横顔がよく描かれている。嘉永6(1853)年7月、開国通商を求めてロシアのプチャーチンが長崎に来ると、勘定奉行の川路聖謨は西丸留守居役の筒井政憲と一緒に現地に出張し、ロシアの開国要求を断固退けた。この提督に随行してきたゴンチャロフによる川路の描写は次のようなものだ。

 「この川路を私達は皆好いていた。(中略)川路は非常に聡明(そうめい)であった。彼は私達自身を反駁(はんばく)する巧妙な論法をもって、その知力を示すのであったが、それでもこの人を尊敬しない訳(わけ)には行かなかった。その一語一語が、眼差(まなざし)の一つ一つが、そして身振りまでが、すべて常識と、ウィットと、烱敏(けいびん)と、練達を示していた。明智はどこへ行っても同じである。民族、服装、言語、宗教が違い、人生観までも違っていても、聡明な人々の間には共通の特徴がある」(井上満訳、岩波文庫)

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 巧みな弁舌と論理にユーモアや機知をからませた川路の外交交渉は、プチャーチンをも驚嘆させた。彼は帰国後に、川路こそ「ヨーロッパでも珍しいほどのウィットと知性を備えた人物」だと称賛している。

 しかし、どれほど川路が練達の外務官僚であっても幕閣のリーダーに揺らぎがあれば折角(せっかく)の外交成果もだいなしになってしまう。川路は幕命を忠実に奉じて開国開港を遅らせたのに、帰路に同じ幕府がペリーの開国要求に屈した恥辱の報をいかなる気分で聞いたのであろうか。

幕府に殉じた律義さ

 川路聖謨は官歴だけを見ればエリート役人に違いなかった。しかし、その出自は三河以来の直参旗本や御家人というわけでない。甲州出身の父は、ゆえあって豊後(大分県)の日田(ひた)にたどりつき天領の郡代の下役となった。そこで同役の娘と結婚して聖謨が生まれたのである。父は日田で蓄えた金を原資に江戸の御家人株を買って青雲の志を果たそうとした。これが子の聖謨にとっても、出世の糸口になったのである。

 本来の才能と勤勉と人格力があいまって、遠国奉行や勘定奉行そして外国奉行のキャリアを重ねた聖謨には、他人と違って幕府に格別の恩を感じる律義さがあった。これこそ、幕府瓦解(がかい)に際して聖謨が自決した悲劇の遠因となる。その一端は、辞世にもうかがわれる。

 天津神に背くもよかり蕨(わらび)つみ飢し昔の人をおもえば

 高天原(たかまがはら)から降臨した神の子孫、天皇の世が来ようとしている。しかし、徳川の臣として新時代に背を向けてもよかろう。周の武王を諫(いさ)めた伯夷(はくい)と叔斉(しゅくせい)の兄弟が周の粟を拒否し蕨だけを食べて餓死した例もあるではないか、と徳川幕府への忠誠心に殉じて自決したのであった。

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オブローモフ反面教師に

 川路聖謨を聡明と常識とウィットの人と呼んだゴンチャロフは、知性をもちながら怠惰な生活で無為に明け暮れる人物を描いた小説『オブローモフ』の著者として知られる。川路がオブローモフでないことは確かだろう。しかし、ここまで日露関係で後れをとり北方領土問題の解決を不透明にした「現代のオブローモフ」たちがどこかにいることは間違いない。それは誰かと問う前に、政権交代に酔いしれて外交の骨格にひびを入れた元政府首脳などは川路聖謨の事績を改めて学び、せめてオブローモフにならない心構えが大事ではないだろうか。(やまうち まさゆき)

                   ◇

【プロフィル】川路聖謨

 かわじ・としあきら 享和元(1801)年、豊後国(大分県)に生まれる。幕府の勘定所に出仕し頭角を現す。佐渡奉行などを経て嘉永5(1852)年、勘定奉行兼海防掛。長崎、下田でロシア使節と交渉し、安政元(1854)年に日露和親条約を締結する。5年、日米修好通商条約の勅許を得るため奔走するが失敗。安政の大獄(1858~59年)に連座し失脚した。慶応4(1868)年、病床で江戸城開城の話を聞き、切腹の作法を取った上で拳銃で自決した。


ブックレビュー
小説へのいざない:2月 幕末・維新の人々 激動期の肖像鮮やかに
 幕末・維新の時代が繰り返し小説に描かれるのは、権力構造が複雑に乱れ、社会が激しく揺れる中で、一人一人の人間が生き方を問われ、その輪郭がくっきりと見えるということもあるのだろう。読者は彼我を比べて、人生を問い直したり、社会を動かしているものの正体に思いをめぐらしたりすることになる。

 この時期を描いた2人の女性作家の長編小説を楽しむことができた。いずれも、変わりゆく江戸・東京を主舞台に、視点を低くしながら、幕府側に同情しながら、この時代の人間模様を映し出している。

 杉本章子さんの書き下ろし『東京影同心』(講談社、1680円)は、南町奉行所の定町回り同心(警察機能などを担い、江戸市中を巡回する役人)が主人公。まじめな性格で義理堅く、剣の腕も立つが、心が優しく、少し不器用なところもある。父親の後を継ぎ、若くして出世したが、歴史の大きなうねりにのみ込まれていく。

 時代はコレラの流行から、桜田門外の変、そして大政奉還、彰義隊の結成と敗亡、藩閥政治の横行、旧武士たちの反乱へと、めまぐるしく変転する。そんな中、主人公も職を失い、料理茶屋の居候になったり、中外新聞(日本における新聞の先駆的な存在。佐幕派の論調だった)の記者になったりしながら、荒波にもまれて生きていくことになる。

 全体は3章から成り、それぞれにミステリー的な謎解きの趣向も楽しめる。商家から武家に嫁いだ主人公の妻の苦しみ、彰義隊に身を投じる主人公の弟、先見の明があって貿易で成功する主人公の義父、新政府が抱える矛盾にさまざまに光をあてようとする中外新聞の人たち。登場人物は絶えず、生活や社会のあり方を自問することになる。

 文章はすみずみまで血が通っていて、密度が濃い。物語の進行も男女の成り行きも、決して性急にならずに、徐々に時代の空気が伝わってくる。作家が本来の持ち味を出した優品だ。

 諸田玲子さんの大作『お順』(上・下、毎日新聞社、各1680円)=は、副題が「勝海舟の妹と五人の男」。勝の妹お順を主人公に、その父、兄、初恋の相手、夫の佐久間象山、恋に陥る剣客の5人の男たちとの関係を描いている。

 この作品の一番の魅力は、女主人公の肖像だろう。自らの意思をはっきりと持ち、いつも本音で生きようとする。活発で、気が強い。一方、内省的で、少し人見知りなところがあって、繊細な神経も持っている。心が複雑に動く彼女の姿を追ううちに、どんどん読み進んでしまう。

 諸田さんはこのところ、しきりに女性の側から歴史を読み直す仕事をしている。本紙連載中の『四十八人目の忠臣』もその一つだ。

 読者にとって、ヒロインは過去に送り出された探査機といえるのではないか。彼女が送ってくる映像や音声を楽しみながら、これまで気づかなかった歴史の意外な側面を見ることができるのだ。

 今回も、お順の視点から、男たちの表情を楽しめる。父親の勝小吉は不遇をまぎらせるために遊蕩(ゆうとう)ざんまいの日々を送った後、執筆に打ち込むようになる。自負心が強い象山は、そのために時代から取り残されていく。勝海舟の現実的思考の魅力は、全編を通して明らかにされていく。

 頭の中で考えてしまう象山と、敏感に社会の動きを察知する海舟の対比は、この作品の読みどころの一つだろう。

 坂本龍馬や吉田松陰、高杉晋作、土方歳三らも印象的に登場する。女性が相手なので、つわものの彼らも思わぬ素顔を見せる。読者はそんな光景の一つ一つを楽しみながら、女主人公の人生に付き合うことになる。【重里徹也】


サンデーらいぶらりぃ:細谷正充・評『東京影同心』杉本章子・著
◇『東京影同心』杉本章子・著(講談社/講談社税込み1680円)

◆痛快であればこその「哀しさ」

 歴史・時代小説は、室町物や戦国物など、舞台となっている時代で表現されることがある。その伝でいえば本書は、幕末物と明治物の合体といえよう。

 物語は、全三章で構成されている。第一章は、幕末篇だ。主人公は、二十五歳の若さで南町奉行所定回り同心に抜擢された金子弥一郎。父母を亡くし、商家から迎えた妻も妊娠中に死去。肉親といえるのは、他家に養子に行った弟くらいである。徳川幕府が崩壊していく状況の中で、寂しさから逃れるように職務に打ち込む弥一郎。だが彰義隊に加わった弟も死亡。役目を致仕した弥一郎は、配下の岡っ引・常五郎が経営する料理茶屋にやっかいになるのだった。

 作者は冒頭から弥一郎の家族が、しだいに失われていく様子を描き出しながら、一方で彼の同心としての優秀さを表現する。それが、通い番頭の女房が殺された事件だ。死体の爪の間にあった酒粕を手がかりに、きびきびと犯人に迫り、さらには単純に見えた事件の裏まで暴く弥一郎は、まさに有能な同心である。対照的な公私の描写から浮かび上がる、血肉を持った主人公像に、早くも読者は魅了されることだろう。

 続く第二章・第三章は、明治篇である。刑部省に勤務する元同心の成尾小平太から、一緒に働こうと誘われた弥一郎だが、いまひとつ煮え切らない。ひょんなことから中外新聞の記者と知り合い、社主の人柄に惹かれ、こちらに勤めることにする。美人芸者の米八とも出会い、男女の関係になった。

 やっと新時代に居場所を作ったかに見えた弥一郎。しかし、ある事情で新聞社の先行きに暗雲が立ち込める。さらに同心時代の上役の内藤惣太夫から、長州の大楽源太郎絡みの、やっかいな命を受け、同心魂を甦らせるのであった。

 常五郎の世話になり、日々の暮らしの心配はない。米八という恋人もできた。傍から見れば、ありえないほど恵まれた生活である。でも、弥一郎の心は鬱屈している。新たな時代と、うまく折り合いをつけられないからだ。だからこそ彼は、内藤から命を受けるや、同心時代に立ち戻る。そしてこの一件で殺された者のために、犯人を斬り倒すのだ。・南町奉行所同心・の名乗りを上げ、犯人に剣を向ける、弥一郎の姿が痛快である。

 しかしだ。痛快であればあるほど、そこに一抹の哀しさも現れてくる。なぜなら弥一郎の輝きは、江戸の残光だからだ。やがて消え去ることを約束された輝きは、それゆえに美しく、切ないのである。

 また、明治初期の時代の混乱が、しっかりと描写されている点も、本書の美質であろう。明治四年に司法省が誕生するまで、刑部省と弾正台というふたつの警察組織が併存していたなど、興味深い事実が盛りだくさん。実在した元長州藩士・大楽源太郎を巡る騒動を、巧みに取り入れたストーリーも面白い。ひとりの男の曲折に満ちた人生を通じて、新時代の光と影を際立たせた、読みごたえのある作品なのだ。

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すぎもと・あきこ:1979年「男の軌跡」で第4回歴史文学賞に佳作入選。89年『東京新大橋雨中図』で、第100回直木賞を受賞した。歴史への深い造詣には定評がある。

<サンデー毎日 2011年2月20日号より>


史実
維新期の会津・庄内藩、外交に活路 ドイツの文書館で確認
 東大史料編纂(へんさん)所の箱石大准教授らが、会津、庄内両藩が戊辰戦争を前にプロイセン(ドイツ)との提携を模索したことを物語る文書をドイツの文書館で確認した。日本にはまったく記録がないが、薩摩、長州を中心とした新政府軍に追いつめられた両藩が、外交に活路を求めていたことが明らかになった。

 ドイツの国立軍事文書館に関連文書が3通あった。1868年7月31日、プロイセン駐日代理公使フォン・ブラントは「会津、庄内両藩から北海道などの領地売却の打診があった」として、本国に判断を仰ぐ手紙を出した。両藩は当時、北方警備のため、幕府から根室や留萌などに領地を得ていた。手紙には「交渉は長引かせることができる。どの当事者も困窮した状況で、優位な条件を引き出せる」と記されていた。

 船便なので届くのに2カ月ほどかかったようだ。「軍港の候補になるが、断るつもりだ」と宰相ビスマルクは10月8日に海相に通知。この日は、新政府軍が会津若松の城下に突入した日に当たる。ほぼ1カ月後に会津、庄内は降伏。戦争がこれほど早く展開するとは、プロイセン側は予想していなかったのだろう。

◆顧みなかったビスマルク

 ビスマルクは欧米列強間の協調と戦争への中立という視点から、両藩の提案を退けた。それに対して海相は「日本が引き続き混迷の一途をたどった場合は、他の強力な海軍国と同様に領地の確保を考慮すべきだ」と10月18日に返信していた。

 箱石さんらは当時の政治状況や人間関係も調査、研究した。新政府の背後には英国がいて、新式の武器や弾薬は英国商人が供給していた。幕府が頼りにしてきた仏国は中立に転じていた。

 「会津、庄内両藩は新政府軍の最大の標的であり、懸命に活路を見いだそうとしてブラントの意向と合致したのだろう」と箱石さんは見る。

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 ドイツの公文書と同時に東大には貴重な資料がもたらされた。スイス在住のユリコ・ビルト・カワラさん(86)が長年調査したシュネル兄弟の記録だ。会津藩の奉行で戊辰戦争で戦死したカワラさんの曽祖父と親交があった。

 国学院大栃木短大の田中正弘教授によると、新潟港を拠点に東北諸藩に武器をあっせんしたシュネル兄弟は会津藩の軍事顧問をつとめたが、国籍不明で謎の人物とされてきた。兄が政治面を、弟がビジネス面を、分担したという。

 カワラさんの調査で兄弟の出自が判明。プロイセンの生まれで、父の仕事の都合でオランダの植民地だったインドネシアで育ち、開港直後に横浜にやってきていた。

 オランダ語ができたことが兄弟の強みだったようだ。プロイセンの外交文書は、ドイツ語の原文をオランダ語に訳し、2通そろえて幕府に出した。そうした文書が東大史料編纂所に残っており、ボン大のペーター・パンツァー名誉教授が調べて、オランダ語への翻訳に兄のサインを見つけた。武器商人に転じるまで兄はプロイセン外交団の一員だったことが確認された。「会津、庄内両藩とプロイセンを結びつけたのはシュネル兄弟でしょう」と田中さん。

 一連の研究は明治維新に新たな視点をもたらした。「英―仏の対抗図式に目を奪われるあまり、維新や戊辰戦争をより広い世界の中に位置づけることや、東北諸藩が武器、弾薬をどのように調達したのか分析する視点が不足していた」と東大の保谷徹教授は話している。(渡辺延志)

    ◇

■1868年の動き(●は確認された文書。日付は新暦)

1月27日 鳥羽・伏見の戦い

5月3日 江戸城開城

6月22日 奥羽越列藩同盟発足

7月4日 新政府軍、上野の彰義隊攻撃

 31日 ●駐日代理公使がプロイセン宰相に書簡。「会津、庄内両藩から北海道の領地を売却したいとの相談を受けた」

10月8日 新政府軍、会津若松城の攻撃開始

 ●宰相が海相に通知。「軍港の候補になるが断るつもりだ」

 18日 ●海相が宰相に返信。「日本の混迷が続けば領地獲得を考慮すべきだ」

11月6日 会津藩降伏

 10日 庄内藩降伏

 とても興味深い記事です。ガルトネル一件と同様のことがあり得たかも知れないのですね。


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