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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
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 今日は散歩を兼ねて梅園で梅見しました。メジロが梅のみつを求めて何羽もやって来ていました。土方さんの好きな梅はどんな梅だったんでしょうね。

北海道
古き函館の写真ネットに マスメディア推進協 8月から提供呼び掛け
【函館】情報技術の研究者や企業経営者でつくる函館マルチメディア推進協議会は函館開港百五十周年に合わせ、市民所有の古い写真に音声や文字の解説を付け、インターネット上で公開する「函館写真アーカイブ計画」の事業に乗り出す。四月に実行委をつくり、八月から写真提供を呼びかける。横浜市、那覇市とも記録システムの共通化などで連携し、運動を盛り上げる。
 函館や道南に暮らす人々が「語り部」になり、写真を中心とした地域史を編集するのが目的だ。
 計画では、市民が撮りためた戦前や戦後の写真をデータベースに蓄積し、写真の内容や時代背景も、持ち主の声や記事の形で記録する。産業や教育、交通などに分類し、ネット上で公開する。
 同協議会は四月に市内の大学や企業、市民らとともに実行委を設立して、システムの構築や取材スタッフの養成を始める。八月中旬に市内で開かれる「はこだて国際科学祭」から本格的に写真の提供を呼び掛ける。
 連携する横浜、那覇は函館と同様、いずれも幕末にペリー艦隊(米)が来航した地。共同で情報を蓄積し活用する方針だ。会長の川嶋稔夫(としお)・公立はこだて未来大教授は「市民の手で歴史を記録できる息の長い事業にしたい」と話す。


東京
下町の奇祭「雷の大般若」開催 アヤしい女装の男衆が駆け回る
 無病息災を願い、女装した男衆が町内を駆け回る奇祭「雷(いかずち)の大般若」が22日、東京都江戸川区東葛西の真蔵院(雷不動)周辺で行われた。22~55歳の地元の男性43人が参加、おしろいや真っ赤な口紅で化粧し、派手な色の長じゅばんを着て家々を回った。
 江戸時代末期、コレラが蔓延(まんえん)し、雷不動の和尚が600巻の大般若経を背負って回ったことが起源。女装の由来は、ある男が妹の代わりに長じゅばんを着て厄払いしたという説がある。一時期途絶えたが、地元の有志らによって約30年前に復活した。
 午前9時ごろ雷不動を出発した一行は、大般若経を納めた「おひょうご箱」などを担ぎ、町内隅々の路地を回った。それぞれの民家の玄関先でご祝儀を受け取り、厄除けの黄色い布やお札を手渡した。
 手を合わせて待っている高齢者もいて、午後3時半ごろまでに町内約500軒を訪ねた。
 雷の大般若保存会・雷友会の彦田良平会長(47)は「江戸末期から伝わる地元の行事。子供や孫の代まで伝えていきたい。また、行事は前夜の大般若経転読から3幕構成になっていることも知ってもらいたい」と話している。

 「幕末」というキーワードはありませんが「江戸時代末期、コレラが蔓延(まんえん)し、雷不動の和尚が600巻の大般若経を背負って回ったことが起源」という記述から、幕末のことと思われましたので。

神奈川
テニス発祥の地、山手公園など横浜3公園 近代化産業遺産に認定
 経済産業省が地域活性化のため、幕末から戦前にかけて日本の産業の発展に貢献した建造物や設備などを認定する「近代化産業遺産群」に、横浜市が所管する市内3公園が認定された。
 3公園は、日本で初めて野球の国際ゲームが行われた横浜公園、近代テニス発祥の地の山手公園、近代競馬場の発祥地の根岸森林公園。
 開港当時の旧居留地で始められ、国内の各地へと普及していった近代娯楽産業の“発祥の地”として価値が認められた。


横浜3公園が近代化産業遺産に
 経済産業省が地域活性化のため、幕末から戦前にかけて日本の産業の発展に貢献した建造物や設備などを認定する「近代化産業遺産群 続33」に、横浜市が所管する市内3公園が認定された。
 3公園は、日本で初めて野球の国際ゲームが行われた横浜公園、近代テニス発祥の地の山手公園、近代競馬場の発祥地の根岸森林公園。
 開港当時の旧居留地で始められ、国内の各地へと普及していった近代娯楽産業の“発祥の地”として価値が認められた。


長野
生糸を通じた横浜港とつながり学ぶ
 上田飯沼史学会と上田歴史研究会は21日、1859(安政6)年6月に横浜港が開港し、当時の飯沼村(現上田市生田)の商人が大量の生糸を出荷していた歴史を学ぶ講演会を飯沼公民館で開いた。
 飯沼地区には幕末から明治時代にかけて商人が記した日記など大量の資料が残っている。阿部勇・元県立歴史館課長=上田市中丸子=が「少なくとも開港の2カ月後には、商人が横浜港へ向けて出荷する生糸を集めた記述が残っている」と紹介した。


京都
【もう一つの京都】御所も二条城も焼け落ちた~天明の大火の実像とは
 江戸時代、京都は火災や地震などの災害にたびたび見舞われ、大きな被害を受けた。中でも天明8(1788)年1月の大火は、市街地のほとんどを焼き尽くすものだった。焼失家屋は約3万7000戸にのぼったといい、木造家屋が密集して火災に弱いという当時の都市問題を浮かび上がらせた。
 「天明の大火」は、1月30日午前5時ごろ、鴨川東岸の宮川町団栗辻子(どんぐりのづし=京都市東山区)の民家から出火したことに始まる。折からの強風にあおられ、火は鴨川を越えて西に燃え広がり、洛中に拡大。2月2日未明まで燃え続けた。
 内裏(御所)や二条城、公家屋敷、東西の町奉行所なども炎上。光格天皇は下鴨神社をへて聖護院(左京区)に避難した。
 焼失地域は、南北は鞍馬口通から七条通までの約6キロ、東西は鴨川の東から千本通までの約4キロにおよび、約6万5000世帯が家を失ったともされている。

□   □

 この大火では、東本願寺(下京区)や相国寺(上京区)など多くの寺院も被災した。仙洞御所の近くに位置する清浄華院(しょうじょうけいん=同)には、犠牲者を供養する五輪塔と石碑が建つ。
 西本願寺(下京区)の御影堂前には樹齢が300年を超えるといわれる大きなイチョウ(京都市の天然記念物)があり、「逆さ銀杏(いちょう)」とも呼ばれているが、大火の際、御影堂に水を吹きかけて建物を守ったという伝説がある。
 京都市歴史資料館には、江戸時代の大火関係の資料が数多く保管されており、天明の大火の関係では、地図に焼失範囲を示した当時のかわら版や、火災が起こった状況などの記録が残っている。
 もともと京都は平安京の時代からたびたび大火に見舞われ、火災に弱い都市だった。室町時代の応仁の乱(1467~1477)など戦乱でも大きな被害を受けている。防火対策の一つとして、「享保の大火」(1730)後、建物の瓦ぶきが奨励されるようになったが、木造住宅が密集した地域の火災では決め手にはならなかった。
 また、近隣の大名によって内裏を守る大名火消も整備される。基本的に亀岡、膳所、淀、郡山の4藩がその役割を担い、交代で火消部隊を京都に常駐させ、火災に備えていた。だが、結果的に大火には対応できなかったようである。

□    □

 天明の大火直後、就任間もない老中・松平定信が京都に入り、天皇に謁見(えっけん)、関白らと対応策を協議した。松平は京都に約10日間滞在し、江戸に戻った後、苦しい財政の中から内裏再建などのために資金の拠出を決めた。
 篤姫の祖父にあたる島津斉宣(なりのぶ)が藩主を務める島津藩と、細川斉茲(なりしげ)の肥後熊本藩がそれぞれ20万両を負担し、5万石以上の大名にも資金の拠出を命じたという。
 内裏の造営工事は寛政元(1789)年に始まり、翌年11月に完成。紫宸殿や清涼殿などが平安時代の内裏を模して当時の様式で復元される。
 さらに幕府は火災直後、米や材木などの物資が高騰しないようにするための触れを出した。また復興のため、京都向けの材木の売買を積極的に行うように指示した。
 大火によって京都の経済は大幅に疲弊した。しかし、長く続いた都としての存在感、格式はまだ失われなかった。寺院には全国の信者からの支援が寄せられ、市街地の再整備も行われて街並みは再び復興・発展していくことになる。(野崎貴宮)



 京都の大火 江戸時代の京都では、天明の大火以外にも大きな火事が相次いだ。宝永5(1708)年3月8日午後には、「油小路姉小路下ル」(中京区)の民家から出火、強風にあおられて広がり、焼失家屋は約1万軒とされている。それから22年後の享保15(1730)年6月には西陣地域を中心に約3800軒が焼失し、西陣織が大きな打撃を受けたほか、元治元年(1864年)7月の蛤御門の変では、約2万7000世帯が被災。天明の大火に次ぐ火災で「どんどん焼け」「鉄砲焼け」ともいわれている。

 「幕末」という記述はありませんが末尾にある「蛤御門の変」による「どんどん焼け」「鉄砲焼け」は幕末のことなので。

徳島
徳島城博物館:蜂須賀家の「桜図」は形見分け、尾張徳川の兄から--展示中 /徳島
徳島城博物館:蜂須賀家の「桜図」は形見分け、尾張徳川の兄から--展示中 /徳島
◇箱の記述で謎解ける
 徳島城博物館(徳島市徳島町城内)で開催中の特別展「源氏物語と宮廷文化へのあこがれ」に、3幅対の掛け軸「桜図」(愛知県瀬戸市の陶磁資料館蔵)が紹介されている。徳島では従来、藩主蜂須賀家ゆかりの宝とされてきた掛け軸。しかし名古屋では「尾張徳川家ゆかりの宝物」と考えられてきた。これは一体どうしたことだろう? 謎は解明された。【深尾昭寛】
 掛け軸は絹本着色でいずれも縦89・5センチ、横33・7センチ。南画家・山本梅逸の作品だ。右からシダレザクラ、ヤエザクラ、ヤマザクラを描き、中幅にはおぼろ月が姿をのぞかせる。月影に浮かび上がるサクラを見事に描き出した名品といえる。
 明治維新後の蜂須賀家は富豪で知られたがやがて窮乏。1933年に「桜図」を含めた先祖伝来の宝物を競売にかけ、売り払った。
 それから半世紀以上たった98年、名古屋市立博物館の展覧会で「桜図」が「尾張徳川家の用命により描かれたもの」と紹介されているのを、徳島城博物館の小川裕久学芸員(39)が発見。今回の特別展で取り寄せ、箱に「弘化二巳年 尾州様(尾張藩主)より御遺物(形見分け)ニ被(以下、欠損)」の記載があるのを確認した。
 弘化2(1845)年は、尾張藩主・徳川斉荘(なりたか)が亡くなった年。斉荘は当時の徳島藩主で幕末に活躍した斉裕の兄にあたる。2人の父親の11代将軍・家斉は50人を超える子をなし、息子たちの多くを大名家に養子に出していた。
 当時、徳島藩は財政悪化と異国船対策に頭を悩ませていた時期。形見分けの翌年には、藩士の知行を3割カットする非常手段にも手をつけた。斉裕もさぞ心労が絶えなかったことだろう。小川学芸員は「形見の絵と推理すれば、伝来をめぐる疑問も解決する。兄の形見の絵を眺めながら斉裕が幕末の多難な時代をどう生きたか、思いをはせていただければ」と話している。
 特別展は3月15日まで。午前9時半~午後5時(入館は午後4時半まで)。大人500円、高大生300円、中学生以下無料。問い合わせは同館(088・656・2525)。


福岡
ひな人形展:麻生大浦荘と旧松喜醤油屋で華やかに--飯塚 /福岡
 飯塚市立岩の「麻生大浦荘」と同市勢田の商家「旧松喜醤油屋」で21日、ひな人形の展示が始まった。同市で開催中の「筑前いいづか雛のまつり」の関連イベント。麻生大浦荘は源氏物語をテーマにした華やかなひな人形▽旧松喜醤油屋は地元の人たちが集めたひな人形がそれぞれ訪れた人の目を楽しませていた。いずれも入場無料で3月3日まで。
 麻生大浦荘は、炭鉱経営で財を成した麻生一族の邸宅で、現在は麻生グループ各社が会合などに利用している。邸内には源氏物語の紫の上、末摘花、明石の君などの場面をひな人形や牛車などを並べて再現。源氏物語を書く紫式部の後ろ姿をイメージして、十二単(ひとえ)を着た等身大の女性の人形も飾られている。
 旧松喜醤油屋は、幕末から明治初期に建てられたとされる木造2階建ての商家で、漆塗りの「箱階段」や舟を逆さにした形の「舟天井」などがある。地元の文化財を生かそうと、地域の自治会有志が初めてひな人形を展示した。有志の一人、明星マサ子さん(70)は「好評なら来年も続けたい」と話している。
 開館時間は、麻生大浦荘が午前10~午後4時半で、問い合わせは飯塚観光協会(0948・22・3511)▽旧松喜醤油屋が午前9時半~午後4時半で、問い合わせは市歴史資料館(0948・25・2930)。【井上元宏】




佐賀
市民ら300人「世界遺産候補への追加を」…近代化産業遺産群
佐賀藩の4件検証シンポ

 文化庁が昨年、世界文化遺産の国内候補地リストに入れた「九州・山口の近代化産業遺産群」(6県、22件)に、幕末佐賀藩の歴史遺産4件を加えられないか検証するシンポジウムが21日、佐賀市の佐賀大であった。市民ら約300人が出席。日本の近代化に貢献した地元遺産の価値を再認識し、追加実現に向けた努力を誓い合った。
 追加されるよう求めて活動している市民団体「佐賀伝承遺産研究会」や佐賀市などが企画した。
 同研究会などが追加を目指しているのは、〈1〉日本で初めて鉄製大砲の鋳造に成功した「築地反射炉」(佐賀市長瀬町)〈2〉江戸幕府の依頼を受け大砲を鋳造した「多布施反射炉」(同市伊勢町)〈3〉蒸気車のひな型作りに成功した佐賀藩の理化学研究所「精煉(れん)方」(同市多布施)〈4〉日本初の蒸気船をつくった「三重津海軍所」(同市川副町~諸富町)の各跡地。
 「九州・山口の近代化産業遺産群」に県内から入ったのは唐津市の国指定重要文化財「旧高取邸」のみだが、文化庁は県などに佐賀・長崎両県にある造船、製鉄に関した遺産を含める検討をするよう求めている。
 選ばれるには文化的価値が高いほか、考古学調査がきちんと行われていることなどが条件だが、4件のうち詳細な調査が実施されているのは三重津海軍所跡のみ。
 この日は講演などがあり、三重津海軍所跡の価値を評価しているという国際産業遺産保存委員会のスチュアート・スミス事務局長が「小さな島国の日本が短期間で大国になった端緒は九州、山口にある」と佐賀藩の功績などをたたえた。


「世界に伝えるべき遺産」 反射炉、精煉方、三重津海軍所跡 佐賀大でシンポジウム
 日本の近代化をリードした幕末佐賀藩の製鉄・造船施設跡について、世界遺産登録の可能性を探るシンポジウムが21日、佐賀市本庄町の佐賀大であった。国際産業遺産保存委員会のスチュアート・スミス事務局長らが産業遺産の価値について講演。市民約300人が熱心に耳を傾けた。
 九州・山口6県が共同で世界遺産登録を目指す「近代化産業遺産群」に、築地(ついじ)反射炉跡(佐賀市長瀬町)▽精煉方跡(同市多布施)▽三重津(みえつ)海軍所跡(同市川副町、諸富町)‐などの史跡の追加を目指す市民団体「佐賀伝承遺産研究会」や佐賀市など官民4団体が主催した。
 スミス氏は「日本の近代化産業遺産群は九州・山口で語り尽くされる」とした上で「佐賀の遺産は世界に伝えなければならない」と主張。世界遺産で、自ら保存活動に携わった英国南西部の鉱山景観を紹介しながら「いろいろな関連する要素が一緒になり、文化的景観の中で近代化や産業化を説明することが世界遺産には必要」と述べた。
 佐賀大の長野暹(すすむ)名誉教授は、史跡の概要と歴史的意義について講演。築地反射炉(1850年操業)はアヘン戦争への危機意識から、オランダの技術書を基に約1年半で築かれたことや、近代科学技術の原理取得や実用化のために精煉方(1852年設置)が設けられたことを説明した。
 パネル討論では「世界遺産とは、その国の世界へのメッセージ」「官民連携した街づくりを」などの意見が交わされた。


世界遺産:築地反射炉や三重津海軍所など4遺跡の登録目指し、佐賀でシンポ /佐賀
世界遺産:築地反射炉や三重津海軍所など4遺跡の登録目指し、佐賀でシンポ /佐賀
◇関心高く280人参加
 幕末に造られた佐賀市の築地反射炉や三重津海軍所など4遺跡の世界遺産化を目指すシンポジウムが21日、佐賀市で開かれた。遺産選定関係者の講演もあり、予定を80人ほど上回る約280人が参加。佐賀が歴史の表舞台に登場した明治維新期への県民の関心の高さをうかがわせた。
 基調講演で、国際産業遺産保存委員会のスチュアート・スミス事務局長が「日本が短期間に大国になった基盤は九州・山口にあり、中でも佐賀の遺産は世界に伝えないといけない」と訴えた。
 その後のパネルディスカッションでは、当時の佐賀藩が日本の科学技術の先端を走っていたことや、そのころの政治情勢などが紹介された。
 世界遺産化を巡っては、08年9月に文化庁が「九州・山口の近代化産業遺産群」の暫定リスト入りを発表。しかし、佐賀藩の施設は遺産群から漏れた。このため市民らが声を上げ、市なども四つの遺跡の追加登録を目指した調査実施を決めている。【上田泰嗣】







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