新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
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昨日に続いて、今日の午前中も寒かったですね。暦の上では立春ということで、一陽来復を祈りました。
秋田
武家屋敷 黒板塀も雪化粧 秋田・角館(かくのだて)
宮城
「仙台藩の坂本竜馬」玉虫左太夫の業績知って 13日に催事
栃木
壬生剣士VS高杉晋作 6日から資料展 栃木
岡山
高梁川大洪水 幕末の絵図発見 被災、復興状況生々しく
山口
吉田松陰の書状発見 萩博物館で6日から公開
佐賀
7日に「近代との遭遇」記念講演会 県立美術館
多布施反射炉跡と「ほぼ断定」 佐賀市の試掘調査完了
大分
本堂内に竜馬コーナー ゆかりの徳応寺
長崎
出版:龍馬の功績や苦労、古文書読み解き 織田毅さん、「海援隊秘記」を /長崎
コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】(48)東大教授・山内昌之 井伊直弼(上)
IT
mixiアプリ「幕末英雄伝」、幕末志士とともに討幕を目指す
秋田
武家屋敷 黒板塀も雪化粧 秋田・角館(かくのだて)
幅の広い通りの両側に、黒い板塀がまっすぐに延びる。
しだれ桜の枝に降り積もった雪が、ぱあっと砕け散りながら落ちていく様は、満開の花のようだ。
前夜からの雪が黒いアスファルトを覆い隠した角館の冬景色は、江戸時代のそれと、たぶんほとんど変わらないだろう。
「道が広いので『最近広げたんですか』とよく聞かれますが、江戸時代に作られた幅のままなんです」
かくのだて歴史案内人組合の加畠(かばた)浩子さんは話す。江戸時代の初め、秋田藩主・佐竹義宣(よしのぶ)からこの土地を与えられた実弟の芦名義勝が、古城(ふるしろ)山の北にあった城下町を、現在の位置に移して一から作り直した。区画がすっきりと整理されているのはそのためだ。
「今の仙北市役所角館庁舎のあたりに『火除(ひよ)け』という防火帯を設け、北側を武家の『内町』、南側は職人や商人の『外町(とまち)』としたんです」と加畠さん。
内町には当時の面影が色濃く残る。一帯は伝統的建造物群保存地区に指定され、石黒家、青柳家など6軒の武家屋敷が公開されている。だが、冬場は残念ながら半数が閉鎖中。映画「たそがれ清兵衛」の撮影に用いられた松本家は、深い雪に覆われ、軒先に近づくこともできなかった。
ただし、冬の間の楽しみもある。通常は立ち入れない岩橋家の座敷で、歴史案内人による「冬がたり」が週末ごとに開かれる。囲炉裏で焼いた栗や、いぶりがっこ(薫製大根の漬物)をつまみながら、冬の生活ぶりや町の歴史についての話を聞いていると、屋敷の主人に招かれたような気分になってくる。
「冬は見学できないところもあるけれど、せっかく来ていただいた方に喜んでいただきたいですから」と案内人組合の鈴木重憲(じゅうけん)組合長は話す。
◎
町人が暮らした「外町」は、今ではごく普通の街並みになっている。そんな中で目をひくのが、通りに面したレンガ造りの蔵。幕末からみそ・しょうゆを造っている安藤醸造元の蔵座敷だ。外町が大火に見舞われた後、1891年(明治24年)に建てられ、婚礼会場に使われていた。
「このあたりは雪が多いので建物の屋根が板ぶき。そのため火事に弱かったんです」と大(おお)女将(おかみ)の安藤恭子(としこ)さん。蔵座敷は無料公開され、3月ごろまでは、ひな人形が飾られている。モノトーンの屋外とは対照的に、羽子板のような押し絵が華々しい。「角館の押し絵は、歌舞伎の場面を描いたものが多いのが特徴。江戸後期からありますが、角館で日本画が盛んになった明治・大正期に作られたものが多く残っている」と角館町観光協会の後藤悦朗(えつろう)副会長。
その後は途絶えていたものの、昨年から地元有志の手で角館押し絵の復活を目指す動きも始まったという。山桜の皮を張り付けて茶筒や印ろうを作る樺(かば)細工など、手仕事の伝統が豊かなのも、冬を雪に閉ざされる土地だからだろうか。
東京から新幹線で行けば、乗り換えなし。真冬でも凍らない田沢湖、秘湯として人気の高い乳頭温泉にも近い。冬の東北を味わうにはもってこいの町だ。(片山一弘、写真も)
●あし 東京から秋田新幹線で角館駅まで3時間20分。
●問い合わせ 角館町観光協会=(電)0187・54・2700。
宮城
「仙台藩の坂本竜馬」玉虫左太夫の業績知って 13日に催事
「仙台藩の坂本竜馬」とも称され、幕末に非業の死を遂げた仙台藩士、玉虫左太夫の業績を演劇や落語など3本立てで紹介する「玉虫左太夫の世界」が13日、仙台市若林区文化センターで開かれる。主催する郷土史愛好グループ「先人のはなを啓(ひら)く会」は「激動期に活躍した玉虫の存在を多くの人に知ってもらいたい」と張り切っている。
メーンの演劇「超サムライ 玉虫左太夫」は、渡米時の日記「航米日録」を基に、仙台市の劇作家石川裕人さんが脚本を担当。異文化と接するうちに開明的な考えを身に付けていく姿に焦点を当てる。
出演は「仙台の宝塚歌劇団」といわれる劇団ウインドカンパニーに所属する団員ら14人。米国本土をはじめ、ハワイ、香港に立ち寄った場面を再現、一部「宝塚調」を取り入れる。
演出を担当する元劇団員の鳳城りむさんは「平等主義という当時の日本では考えにくい価値観を少しずつ受け入れていく玉虫の変化に注目してほしい」と話す。
落語は、東北大落語研究部OBで「桂友楽」の高座名を持つ大友健弘さん(67)が創作落語「玉虫左太夫の生涯」を披露。「奥羽越列藩同盟締結に奔走した玉虫は、スタンスこそ違え、仙台藩の竜馬とも言うべき人物。同時代に生きた2人を対比させ、魅力を浮かび上がらせたい」と語る。
さらに郡山市の歴史作家星亮一さんが「幕末の日本における東北と仙台藩のとった行動を考える」と題して講演する。
啓く会は昨年2月に玉虫を再評価しようと結成された。劇にも出演する乳井昭道さん(65)は「国内外で活躍した知識人としての顔も知ってほしい」と来場を呼び掛ける。
開演は午後2時。第1部の星さんの講演が40分、第2部の落語30分、第3部の演劇は約1時間の予定。入場料は前売り一般1500円、中学・高校生1000円(当日はいずれも500円増)。小学生以下無料。連絡先は啓く会事務局022(399)8249。
[玉虫左太夫/初めてビール飲む] 1823年、仙台藩士の家に生まれた。24歳で江戸に赴き、幕府学問所を取り仕切った林復斎の門下となる。日米修好通商条約批准書の交換使節団の一員として渡米、見聞録「航米日録」を著した。戊辰戦争では藩の方針に沿って奥羽越列藩同盟の成立に奔走したが、仙台藩降伏後に責任を取らされ、69年に切腹した。初めてビールを飲んだ日本人としても知られる。
栃木
壬生剣士VS高杉晋作 6日から資料展 栃木
剣術が盛んだったといわれる壬生藩の剣客らの歴史をたどる企画展「壬生剣客伝」が6日から、栃木県壬生町の町立歴史民俗資料館で開かれる。幕末、壬生を訪れた長州藩の高杉晋作と手合わせした松本五郎兵衛らにスポットをあて、壬生剣士ともに高杉ゆかりの史料なども展示される。3月14日まで。
鳥居家3万石の壬生藩は歴代藩主が武芸を奨励。剣術が盛んで、江戸後期には神道無念流の四天王といわれた野原正一郎、聖徳太子流の使い手で高杉との立ち合いで知られる松本五郎兵衛ら多くの剣客を輩出している。
背景には、江戸剣術の3流派で、尊皇攘夷派の志士に人気のあった神道無念流の流祖、福井兵右衛門が壬生出身だったことなどがある。また同流派の基本となったともいわれる「一円流」も壬生周辺が発祥とされ、福井もこの剣を学んでいる。
柳生新陰流の免許皆伝の高杉は、幕末に北関東、信州などをめぐる剣術修行の旅(試撃行)で壬生に立ち寄った際、松本と立ち合った。松本の子孫に伝わる話では「高杉は剣で勝つことできず、1本もとれなかった」という。
同展では、「幕末の風雲児、高杉に挑む」をサブタイトルに、壬生の剣客、松本と高杉に関する史料などを中心に展示。松本や高杉の肖像、高杉が剣術修行で立ち合った相手に記入してもらったという「他流試合士名帳」、修行の旅の記録「試撃行日譜」、野原正一郎の門人らの名前が記された神社の奉納額などが公開される。
21日には「高杉晋作と壬生」と題して、作家で萩博物館(山口県)の特別学芸員、一坂太郎さんによる講演会も開かれる。問い合わせは同歴史民俗資料館(電)0282・82・8544。
岡山
高梁川大洪水 幕末の絵図発見 被災、復興状況生々しく
幕末の嘉永3(1850)年、備中国一帯を襲った豪雨で高梁川の堤防が決壊。現在の倉敷市中心部から岡山市域まで浸水する大洪水が発生した。その被災状況と復旧作業を描いた絵図2点が3日までに、倉敷市の郷土史研究家によって見つかった。災害記録としてはもちろん、復興に当たる人々の声も聞こえそうな躍動感があり、未曾有の水害を生々しく伝える歴史の語り部にもなりそうだ。
絵図は、郷土史研究グループ「帯高の歴史編纂(へんさん)委員会」の中山道夫さん(65)=倉敷市帯高=が競売を経て入手。決壊個所や浸水範囲を描いた被災状況図(1辺110センチ)と、堤防修復の復旧作業図(縦50センチ、横75センチ)がセットであり、詞(ことば)書ききから備前国・大供村(岡山市北区大供本町一帯)の村役人級の人物が作成したらしい。
山口
吉田松陰の書状発見 萩博物館で6日から公開
幕末の志士、吉田松陰が安政の大獄(1858~59年)で江戸に送られる直前、長州の獄中から主宰する松下村塾の門下生に送った書状の一部が山口県の民家でこのほど見つかり、萩博物館(同県萩市)に寄託された。6日から一般公開される。
「諸藩の情勢を書き残す時間がない」などとする内容で、萩博物館は「松陰の無念さがうかがえる史料で、書状が確認された意義は大きい」としている。
萩博物館によると、書状は門下生入江九一あてで、安政6(1859)年5月15日付。数枚のうち最後の1枚が掛け軸に仕立てられ、民家に受け継がれていた。
「諸藩ノ風聞等ヲ真仮字ニテ録シメ一著トセント思フ。遂ニ暇ナシ」などと記し、幕末の動乱期の様子を後世に伝えられない悔しさを吐露。信頼する入江にその実現を託すとしている。文末には「江戸に送られても幕府には屈しない」との決意を込めた自作の漢詩が添えられていた。
松陰の著作を集めた「吉田松陰全集」には、この時期に書状が出されたとの記述があるが、書状そのものはこれまで確認されていなかった。
佐賀
7日に「近代との遭遇」記念講演会 県立美術館
佐賀市城内の県立美術館で開催中の特別展「近代との遭遇─世界を見る・日本を創る─」の記念講演会が7日、午後1時半から同美術館ホールで開かれる。元九州産業大学柿右衛門陶芸研究センター教授の高辻知義氏が、久米邦武の功績や魅力を語る。
高辻氏は東京大名誉教授でもあり、ドイツ文化、文学、音楽などの研究に従事。ドイツの作曲家ワーグナー研究の第一人者としても知られる。
明治政府の米欧遣外使節団に随行した佐賀出身の久米が編さんした「米欧回覧実記」や、佐賀にゆかりのあるドイツ・マイセンなどの都市について語る。
聴講は無料で定員は480人。問い合わせは佐賀新聞社事業部、電話0952(28)2151へ。
多布施反射炉跡と「ほぼ断定」 佐賀市の試掘調査完了
佐賀市教委は、幕末期に佐賀藩が鉄製大砲を鋳造するために築いた「多布施反射炉」跡とみられる民有地の試掘調査を終えた。大規模な土木基礎工事跡や鋳型関連の跡などを確認し「反射炉の遺構とほぼ断定できる」とする。日本の近代化をリードした佐賀藩の〝象徴〟となる2つの反射炉の遺構は未確認だったが、ついに形が現れ始めた。
市は世界遺産登録を目指す「九州・山口の近代化産業遺産群」の構成資産に市内4カ所を加えるよう取り組んでおり、これまで三重津海軍所跡が資産入りしている。多布施反射炉跡の追加も視野に、今回の調査結果を近代化産業遺産群の価値を検討する専門家委員会に報告する。
多布施反射炉(伊勢町)は、佐賀藩が1853年ごろに建造した。ペリーの黒船来航に危機感を持った幕府が、江戸湾防備のために品川台場を新設し、大砲50門を佐賀藩に注文したため整備された。1850年に築いた日本初の洋式実用反射炉「築地反射炉」(長瀬町)に次ぐ施設となる。
反射炉は壁や天井で熱を反射させ、炉内の温度を上げて鉄を溶かす施設。佐賀藩は大砲鋳造を記した蘭書を基に刀工や陶工、鋳物師らの在来技術を応用して築いた。多布施反射炉跡は1926年の発掘調査で基礎工事部分が発見されたが、その後は事務所や民家が立ち、正確な場所が分からなくなっていた。
市教委は1月18日から試掘調査を実施。2×5メートル、深さ2メートルの単位で2カ所を掘り、1カ所で石や木、砂、粘土が交互に積み重なった大規模な基礎工事跡を確認した。高さ16メートルとされる反射炉本体が傾かないよう整地したとみられる。
もう1カ所からは大砲の砲身をかたどる鋳型を地中で支えた「鋳坪(いつぼ)」とみられる跡も確認した。市教委は(1)当時、大規模基礎工事が必要だったのは反射炉以外にあり得ない(2)反射炉に欠かせない鋳坪とみられる跡もある(3)反射炉の精錬時の鉄のかたまりや耐火れんがなども同一地点で見つかった-ことなどを根拠に「反射炉跡と考えて矛盾はない」と結論づけた。
確認した遺構を蘭書と照らし合わせ、東西に2基4炉あった反射炉本体の配置を推定する。市教委世界遺産調査室の前田達男室長は「幕府をはじめ全国から高く評価された佐賀藩の反射炉とみられる遺構が、ついに見つかった意義は大きい」とする。ただ、反射炉本体は見つからず「今は状況証拠の積み重ね。疑問点を突かれる可能性は残る」とも話す。
近代化産業遺産群の構成資産に入るには、遺構の〝立証〟が前提条件。本格的な発掘調査による全容解明も求められるが、民有地で調査が難しい面もあり、今後対応を検討する。
【写真】試掘調査で確認された土木基礎工事跡。反射炉本体が傾かないために強固にした構造になっている=佐賀市伊勢町
大分
本堂内に竜馬コーナー ゆかりの徳応寺
大分市佐賀関は幕末の志士坂本竜馬が神戸海軍塾頭時代に九州初上陸を果たした地。竜馬が宿泊した佐賀関の徳応寺(東光爾英住職)は、ゆかりの地を訪ねる竜馬ファンのため、本堂内に竜馬コーナーを設けた。パネル写真と実際に着用して記念写真も撮れる着物とはかま、模造刀も用意している。
東光住職は「新聞報道やインターネットなどで知った熱心なファンが訪れるため、当寺の資料や、わたしの父の着物を一部加工して展示した。芳名帳も置いてあるので感じたことを書き残してほしい」と話している。
竜馬は幕府軍艦奉行勝海舟に同行し、豊後街道で佐賀関と長崎を往復。同寺の第10代龍潭(りゅうたん)住職は1864年春に宿泊した海舟や竜馬らの宿泊者名や一行が乗った船を絵入りで記録していた。
見学は事前の連絡(徳応寺=TEL097・575・0085、午前8時~午後5時)が必要。
長崎
出版:龍馬の功績や苦労、古文書読み解き 織田毅さん、「海援隊秘記」を /長崎
◇シーボルト記念館係長・織田毅さん
長崎市シーボルト記念館係長で「現代龍馬学会」会員の織田毅(おりたたけし)さん(48)=同市=が、幕末の志士・坂本龍馬の長崎での活動をまとめた「海援隊秘記」(戎光祥出版)を出版した。龍馬の足跡は虚実入り乱れるが、長崎に残る古文書を読み解くなど史実に即し「長崎での龍馬の功績が、すなわち坂本龍馬の功績。長崎なくして龍馬の活躍はありませんでした」と結論付けた。【錦織祐一】
織田さんは五島市出身。10代で司馬遼太郎さんの「竜馬がゆく」を読み龍馬ファンに。熊本大卒業後、長崎市役所に入った後も業務の合間に、高知、山口、鹿児島各県を訪ねて古文書に当たるなど研究を重ね、市民団体「亀山社中ば活かす会」の幹事も務める。90年には海援隊士・沢村惣之丞の墓を本蓮寺(長崎市)で発見した。
長崎に残る元隊士や豪商が書き残した龍馬らの古文書も読み解き、当時の長崎について「長州や薩摩に近く、龍馬らが持つ蒸気船や西洋帆船の航海技術は貴重だった。国際情勢の中で日本の現状と将来を見通すことができる唯一の場所だった」と確信。龍馬自身についても「『竜馬がゆく』の強いイメージと違い、順風満帆ではなかった。迷ったり失敗を繰り返していた」とみる。
昨年、出版社から依頼を受け、書きためていた記録を3カ月かけてまとめた。織田さんは「龍馬が長崎に来たのはまったくの偶然。だが、その偶然が日本を動かした。長崎という地が、龍馬を通じて日本の歴史に影響を与えた」と話す。B6判239ページ、1575円。
コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】(48)東大教授・山内昌之 井伊直弼(上)
■国学者の開国政策
どの政治家においても、目的の理想性と手段の現実性がぴたっと調和するのは幸せなことである。
しかし、この幸運に恵まれた政治家は存外に少ない。現代でも政治改革といえば、誰もが否定できず、理想の甘い匂(にお)いがする一方、それを実現する手法や基盤ともなれば時に金権という腐臭あふれる利益誘導と結びつく例もある。
これはいま、政権交代に酔った有権者に、嫌悪感をもたせる政治とカネにまつわる現象を見ればよく分かることだろう。
◆正反対の見方が併存
幕末の危機において、真実の目的と皮相の目的が乖離(かいり)した例といえば、幕府の大老として難局に当たった井伊直弼をすぐに思いだす。なにしろ直弼は、溜間(たまりのま)に詰める徳川の譜代門閥大名の筆頭として本質的に保守固陋(ころう)の思想をもちながら、開国という最も尖端(せんたん)的な政治決断に踏み切り、反対派を一掃した人物なのだ。
まさに当世流の政治的表現を借りるなら、剛腕や辣腕(らつわん)の名にふさわしい。桜田門外の変で、水戸の攘夷(じょうい)浪士らに斬(き)られた直弼は、眺めるプリズムの角度が違えば幾重にも像が変容する政治家である。消え去った徳川幕府の立場からさえ正反対の見方が併存していた。
明治になって『東京日日新聞』の主筆となる旧幕臣の福地桜痴(おうち)は直弼について「おのれが信ずる所を行い、おのれが是とする所をなしたり」と指摘しながら、2つの異なる見方を示している。直弼は時勢に逆行して世論に背反し、安政の大獄などで「不測の禍害」を徳川政権に与えて衰亡の命脈を促したという結論を受けても仕方がないというのだ。
同時に桜痴は、幕権を維持して異論を抑え、開国といった強硬な政略を断固として実施した点で決して普通の政治家が及ばない才気をもっていたとも指摘する(『幕末政治家』)。
◆尊攘派ばりの信念
直弼は本質的にいえば、茶道や和歌に才を発揮した国学者であった以上、アメリカとの条約調印を世界情勢に照らして前向きに確信した革新進歩の徒だったはずがない。彼は条約調印を一時はやむをえないとの「権道」に立ち、兵備を充実して将来に攘夷を実現しようと考えたらしい。政権の要路として欧米列強の実力による撃退を難しいと考える点では現実感覚に立脚していたが、力がつけば外国とも戦えると尊攘派ばりの信念もあったようだ。
もし直弼にマキャヴェリズムよろしく、開国策をとった幕府が孝明天皇はじめ朝廷に攘夷政策があたかも可能だと欺く意図でもあれば、幕末の進路はまた違っていたかもしれない。
◆政治主導と官僚統治
桜痴のいうように、彼の心中に抱いた開国の国是を政策として実現しながら、尊攘の雰囲気を利用して人びとを籠絡(ろうらく)する権謀術策でもあれば、「天晴(あっぱ)れなる政治家と称せられるべきの価値」もあるが、そこまでの「識見智略を具せる宰相」というわけでもなかったと冷淡な評価をする。
もし井伊大老にまことの開国の「卓識」があり、自ら上京して開国と鎖国の得失を天皇の前で堂々と弁じていたなら「不世出の聡明(そうめい)」とうたわれていたかもしれないというのだ。
それは浮雲を披(ひら)いて天日を見るような壮快さであるが、叶(かな)わなかった。大老に開国の確固たる識見がなかったからだと手厳しい。しかし、この説はおそらく正しい。
それでは、何故に直弼は開国に舵(かじ)を切り、一橋慶喜(よしのぶ)を排して紀州慶福(よしとみ)(14代将軍、家茂)を将軍家定の継嗣(けいし)としたのだろうか。その答えは、直弼における政治主導と官僚統治にかかわる独特な理解に求められるだろう。(やまうち まさゆき)
◇
【プロフィル】井伊直弼
いい・なおすけ 文化12(1815)年、近江(滋賀県)彦根藩主、直中(なおなか)の14男として生まれる。藩主を継いだ後、老中をへて安政5年に大老となる。病弱だった13代将軍、徳川家定の継嗣問題や、開国・攘夷をめぐって前水戸藩主の徳川斉昭らと対立。日米修好通商条約を勅許を得ずに調印し、将軍継嗣を紀州藩主、徳川慶福(家茂)に決める。一橋慶喜を推していた斉昭ら一橋派や尊攘派を弾圧したため、万延元(1860)年、桜田門外で暗殺された。享年46。
IT
mixiアプリ「幕末英雄伝」、幕末志士とともに討幕を目指す
株式会社gumiが提供するmixiアプリ「幕末英雄伝~もう一つの龍馬伝説~」。幕末に生きる志士とともに討幕を目指すシミュレーションゲームだ。
新しい時代を切り開け!
プレイヤーは「坂本龍馬」「高杉晋作」「西郷隆盛」の中から一人を選び、ストーリーを進めていく。キャラごとに違ったストーリーが用意されており、様々な試練を乗り越えて物語は進んでいく。
試練を乗り越え、経験値を貯めながらストーリーを進めて、討幕を目指そう。
また、マイミクと同士を結成したり、マイミクと勝負したりといったソーシャルアプリならではの機能も。マイミクと競い合い、協力しながらキャラを育てていく楽しみが味わえる。
ちなみにこのアプリはモバイル専用。mixiモバイルからアクセスして楽しむことができる。
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