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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
海外
戊辰戦争でプロイセンに提携持ちかけ 会津・庄内両藩
 戊辰戦争での薩摩・長州を中心とした新政府軍との対決を目前に、会津・庄内両藩がプロイセン(ドイツ)との提携を模索していたことが東京大史料編纂(へんさん)所の箱石大・准教授らの研究で明らかになった。ドイツの文書館で確認した資料は、両藩が北海道などの領地の譲渡を提案したが、宰相ビスマルクは戦争への中立などを理由に断ったことを伝えていた。

 ドイツの国立軍事文書館の資料で、10年ほど前にドイツ側の研究者が存在を紹介したが、詳細が不明だった。

 箱石さんらの調査で確認されたのは、1868年の文書3点。いずれも、ボン大のペーター・パンツァー名誉教授に依頼し解読、日本語に翻訳した。

 (1)7月31日付で駐日代理公使のフォン・ブラントがビスマルクへあてたもの。「会津・庄内の大名から北海道、または日本海側の領地を売却したいと内々の相談を受けた。ミカドの政府も財政が苦しく南の諸島を売却せざるをえない模様」として判断を仰いでいる。(2)10月8日付で宰相からフォン・ローン海相あて。「他国の不信、ねたみをかうことになる」と却下の考えを示し、海相の意向を尋ねている。(3)10月18日付で、海相から宰相への返事。

 この年は5月に江戸城が明け渡され、7月初めに上野で新政府軍と彰義隊との戦いが決着。戦争の舞台が東北へ移る緊迫した時期の交渉。両藩は武器入手のルートや資金の確保を目指したとみられるが、ブラントは「北日本が有利になれば、この申し出は大変重要な意味を帯びる」とも記しており、政治的な狙いも込められていたようだ。

 会津は京都を舞台に長州と激しく対立、庄内藩は江戸警備を担当して薩摩藩邸を襲撃したことがあり、両藩は同盟関係にあった。北海道の領地は北方警備強化のために1859年に幕府が東北の有力6藩に与えた。会津藩は根室や紋別を、庄内藩は留萌や天塩を領有していた。

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 箱石さんは「敗者の歴史は忘れ去られ、この交渉も日本にはまったく記録がない。会津と庄内は土地を提供することでプロイセンを味方につけようとしたのだろう。戦争が長引けば明治維新に違う展開があったかもしれない」。

 明治維新を研究する東京大の保谷徹教授は「会津・庄内両藩がよくぞここまで国際活動を展開させたなと驚いた。歴史にはまだまだ知らないことがたくさんあり、その答えが海外に眠っていることを示しているのだろう」と話している。(渡辺延志)

未発表「横浜写真」を一堂に 200枚、スイスで公開
 幕末100+ 件から明治時代にかけて、当時の日本の様子を写した白黒写真に絵付師が彩色した「横浜写真」約200枚の展覧会がスイス南部ルガノで開かれている。大半が未発表写真で、主催者によると、これほど多数の同写真の展示は海外では初めてという。

 写真は、欧州在住の収集家が1970年代から日本や英国、ドイツなどで集め所蔵している約7500枚から選ばれた。イタリア系英国人フェリーチェ・ベアトや日下部金兵衛ら当時の著名写真家による写真も多数含まれている。

 栃木県日光市や長崎市、宮島、富士山など日本各地の風景のほか着物姿で田植えをする人、人力車やかごに乗る人など、当時の日本人の生活ぶりが描かれている。

 同写真は横浜市が制作の中心だったことから横浜写真と呼ばれる。主に当時の外国人の滞在者や旅行者へのお土産用に販売されたもので、絵付師が手書きで彩色したことから、同じ写真でも一枚一枚微妙に色合いが異なるという。

 展覧会を企画したルガノ市文化美術館のパオロ・カンピオーネ館長は「お土産目的だったことなどから安っぽいとみなされることもあるが、19世紀の日本の様子を知る上で貴重な芸術作品だ」と話した。展覧会は27日まで。(ルガノ共同)


コラム
「最強の剣豪」は1位武蔵、2位上泉信綱
 「日本史なんでもランキング」第8回のテーマは「最強の剣豪は誰?」。ニッカンスポーツコムで実施したアンケートには計1477票が寄せられ、「巌流島の決闘」など数々の逸話が語り継がれる宮本武蔵が371票で1位となった。2位は、新陰流創始者で戦国時代に活躍した上泉信綱。3位は塚原ト伝、4位は柳生十兵衛、5位には新選組の斎藤一が入った。

 1位 宮本武蔵(371票) 生まれは播磨(兵庫)とも美作(岡山)ともいわれる。父の新免無二斎(養父説も)に剣の手ほどきを受け、二刀流の「二天一流」を編み出す。生涯で60を超える試合を行い、負けたことはなかったとされる。京の兵法家・吉岡一門との戦いや、佐々木小次郎との「巌流島の決闘」が有名。関ケ原の戦い、大坂夏の陣、島原の乱にも出陣した。

 一方で実像がはっきりしない部分も多い。吉川英治の小説などでは、吉岡一門との試合で兄清十郎、弟伝七郎らに勝ち、逆恨みした門弟たちと一乗寺下り松で決闘したとされる。しかし吉岡側の伝記では、武蔵と試合をしたのは憲法直綱で引き分けだったとされ、「下り松」の記述もない。司馬遼太郎氏はこちらの説を採っている。

 2位 上泉信綱(303票) 戦国時代の上州・上泉城主だったが、北条氏の攻撃を受けて城を明け渡す。箕輪城の長野氏に身を寄せるが、長野氏が武田信玄に滅ぼされると、高弟の疋田景兼らとともに全国を修業の旅に出る。柳生石州斎、宝蔵院胤栄、丸目蔵人らに試合で勝ち、彼らを弟子にしたとされる。盗賊が立てこもった村に通りかかり、これを撃退したという逸話が黒沢明監督「七人の侍」に使われたとも。自らが興した新陰流は柳生家などに受け継がれた。竹刀の原型である「袋竹刀」を考案。

 3位 塚原ト伝(104票) 鹿島の神職の家に生まれ、17歳で修業の旅に出る。19度にわたる真剣の試合を行い、生涯不敗だったとされる。鹿島新当流を創始。宮本武蔵が食事中のト伝に斬りかかり、ト伝が鍋のふたで刀を受け止めたという逸話があるが、これは後世のフィクション。

 4位 柳生十兵衛(97票) 柳生宗矩の嫡男で、剣の才能は、祖父石舟斎の「生まれ変わり」といわれた。徳川家光の小姓を務めていたが、家光の怒りを買い、修業の旅に出たとも。隻眼のイメージがあるが、これは後世の創作のようだ。

 5位 斎藤一(77票) 新選組三番隊組長。新選組に入るまでの経歴は不明な部分も多く、剣の流派もはっきり分からない。戊辰の会津戦争を戦い、藤田五郎と名を改めて警視庁に就職。西南戦争には抜刀隊の一員として従軍した。

 6位 沖田総司(75票) 白河藩の武士の家に生まれ、9歳で天然理心流道場「試衛館」に入門。すぐに頭角を現し、近藤勇の師範代を若くして務めた。新選組一番隊組長として、池田屋騒動などで主力を務める。20代で結核で死去。

 7位 伊東一刀斎(59票) 戦国時代の剣豪で、一刀流を創始した。生まれは伊豆大島など諸説ある。鐘捲自斎の門弟だったが、自斎を試合で下して、修業の旅に出たとも。一刀流は小野忠明らに引き継がれ、江戸の代表的流派の1つに。

8位 柳生石舟斎(55票) 上泉信綱の弟子として新陰流を学び、刀を使わず相手を倒す無刀取りの奥義をきわめた。徳川家康を相手に無刀取りを披露。家康に剣術指南役を要請されたが高齢を理由に固辞、息子の宗矩を推挙したとされる。

9位 千葉周作(42票) 幕末の剣豪で、北辰一刀流の創始者。上州などで流派を広めた後、江戸で開いた「玄武館」は江戸三大道場の1つとされる。北辰一刀流は、坂本龍馬や新選組の山南敬助、藤堂平助ら学んだ。

 10位 柳生宗矩(31票) 柳生石舟斎の五男で、徳川将軍家の剣術指南役を務める。関ケ原の戦い、大坂夏の陣にも出陣。徳川家光に信任され、大和柳生藩1万2500石の藩主となるなど、剣豪としては異例の出世をした

 新選組内では、斎藤の得票が沖田を上回ってます……これって『薄桜鬼』効果でしょうか(苦笑)。

福沢諭吉(上) 「変節」の与謝野氏と「瘠我慢の説」
◆経綸と執着のせめぎ合い

 武士は食わねど高楊枝(ようじ)という言葉があった。また、瘠我慢(やせがまん)を張るという表現もある。いずれも、かなり無理な境遇におかれても我慢して、さも平気そうに見せかけることを意味する。菅直人首相の招聘(しょうへい)に応じて経済財政担当大臣となった与謝野馨氏の出処進退には、自民党はじめ野党各党から厳しい批判が寄せられた。与謝野氏に好意的な人びとであっても言いたいのは、氏には瘠我慢の心がないという点なのだろう。

 もとより政界きっての政策通であり、政治家として安定感を発揮してきた与謝野氏が大臣病にかかって変節したという単純な解釈は成り立たない。政治のために残された時間に限りのある氏の心中では、年来の経綸(けいりん)と政策への執着との間でせめぎ合いが繰り広げられたはずだからである。

 与謝野氏の問題を考えるとき、福沢諭吉の「瘠我慢の説」をどうしても思い出してしまう。明治24(1891)年に脱稿しながら、明治34(1901)年元日の時事新報に初めて掲載された論説である。

 そこでは、旧幕府の重臣でありながら新政府に出仕した勝海舟と榎本武揚(たけあき)が手厳しく批判されている。「徳川家に終わりが近づいたときに、その家臣の一部がもはや大事が過ぎたことを知って、敵に対して抵抗しようとせず、ひたすら講和を結び、進んで徳川家を解散させたことは、いくさによる日本経済の破滅を避け一時的に利益を得たかもしれないが、数百年、千年も養ってきた日本の武士の気風を傷つけた不利は決して小さくない」と。

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 ◆「立国の大本」として推奨

 確かに瘠我慢は、個人の感情から出るものであり、「冷淡なる数理」から論じるものではない。しかし福沢によれば、古今の世界どこでも国家を維持し保存しようとする者は、瘠我慢に立脚せずにはいられない。

 すこし前の江戸時代でも各藩が互いに競争し士気を養ったのも瘠我慢によるものだ。また、封建制を廃して統一された大日本帝国となり、更に視野を広くして文明世界で独立国家の体面を保とうとするなら、瘠我慢に依拠しないわけにいかない。

 こう述べた福沢は、およそ人間社会の事物が現代のようである限り、外面の体裁に文明や粗野の移り変わりはあっても、百年千年後に至るまで瘠我慢を「立国の大本」として重んじ、ますます瘠我慢を培養して、その「原素の発達」を助けることが緊要だと、明治近代国家の基礎にも瘠我慢を置くべきだと強調するのである。

 瘠我慢の説には福沢によって歴史の事実が多くの教訓として並べられている。なかでも中国史で金に圧迫された南宋において、岳飛(がくひ)らの主戦派と秦檜(しんかい)らの和平派に分かれた故実をひっぱりだす。主戦論者はだいたい排斥され、なかには生命を失った者もいたが、後世の評論は和平派の「不義」を憎み主戦派の「孤忠」を憐(あわれ)んだというのだ。福沢は、弱い宋が百戦しても必敗は疑いなく、むしろ恥を忍んで王朝の存続をはかったほうが利益にかなうように見えてその実は違うと主戦派を弁護する。後世に国を治める者が経綸を重んじて士気を養うには、和平派の姑息(こそく)を斥(しりぞ)けて主戦派の瘠我慢を取らねばならないからだと強調する。

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 ◆曖昧さ許さぬ国民性

 結局、福沢諭吉のいう瘠我慢とは日本国民に固有のものであり、勝海舟のように勝敗に決着をつけずに降参する卑怯(ひきょう)を許さないのだ。福沢は、「瘠我慢の大主義を破り、国の士気をゆるめた罪は逃れがたい。江戸を戦災から一時的に救った点と、万世の士気を傷つけた点との功罪は相殺できるのだろうか」と、幕末に勝が江戸を明け渡した挙にも不満を隠さないのである。

 勝海舟にも理屈があったように、与謝野氏には自民党や「たちあがれ日本」に留(とど)まらず瘠我慢に背を向けた言い分も当然あるにちがいない。与謝野氏の肚(はら)の内は、勝と榎本による福沢への反論とも重なって見えてくる気がする。(やまうち まさゆき)



【プロフィル】福沢諭吉

 ふくざわ・ゆきち 天保5年12月(1835年1月)、豊前(大分県)中津藩士の家に生まれる。大阪の適塾(緒方洪庵が開いた蘭学塾)で学び、安政5(1858)年、江戸で蘭学塾を開く(後の慶応義塾)。英語を独習し、万延元(1860)年、咸臨丸で渡米。元治元(1864)年に幕臣となり、外国奉行翻訳方を務める。維新後は新政府への出仕を拒み、在野で教育や言論活動に注力。「学問のすゝめ」「文明論之概略」など多数の啓蒙(けいもう)書を著した。明治34年、66歳で死去。


(99)東大教授・山内昌之 福沢諭吉(下)
■「行蔵は我に存す」    

榎本の出世を批判

 「又、勝(海舟)氏と同時に榎本武揚(たけあき)なる人あり」という福沢諭吉の論調も厳しい。『瘠我慢(やせがまん)の説』のもう一人の主人公は、旧幕府海軍の提督にして蝦夷地政府の総裁だった榎本である。

 福沢は、榎本が新政府軍と一戦を試みた点で「武士の意気地、即(すなわ)ち瘠我慢」をもち、北の海や箱館(はこだて)で戦った「天晴(あっぱれ)の振舞」もあり、彼を勝海舟と同時に語るべきでないとする。利あらずして敵の軍門に降ったのは不運だが、「成敗(せいはい)は兵家の常」であり咎(とが)めるべきでない。しかし問題は、榎本が「放免の後に更に青雲の志を起し、新政府の朝(ちょう)に立つの一段」に至ったことなのである。

 福沢も敗者の新政府奉職をいたずらに否定するわけではない。しかし、榎本の場合には、この普通の例にはあてはまらないというのだ。榎本が立身して特命全権公使や大臣にまで出世したのは、かつて北海の地で彼を首領として仰いだ諸士が苦戦し戦死した悲劇に合わず、榎本の降参によって見捨てられた者たちの落胆や失望は語るまでもないと批判する。

 福沢は、「死者若(も)し霊あらば、必ず地下に大不平を鳴らすことならん」と叱る。五稜郭開城時にも、武門の習(ならい)によって徳川の恩顧に酬(むく)いるために榎本の降参に反対して父子ともに死を選んだ者もいたではないか、と。劉邦に敗れた項羽がもはや死者の肉親を見るにしのびずと故郷の江東に戻らず自刃した故事も引き合いに出す。

 福沢の厳しい追及はこれで終わらない。榎本は幕府海軍の咸臨丸(かんりんまる)の乗組員が清水港(しみずみなと)で新政府軍に殺された悲劇を悼んだ石碑に徳川のために死ななかった自分を恥じるかのような文章を書いたが、福沢は人情からも納得できなかったようだ。

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 「古来の習慣に従へば、凡(およ)そ此種の人は、遁世(とんせい)出家して死者の菩提(ぼだい)を弔(とむら)ふの例」にならうべきだと難詰するのである。出家できないというなら、せめて身を「社会の暗処に隠して其生活を質素にし、一切万事、控目にして、世間の耳目に触れざるの覚悟こそ本意なれ」、すなわち栄達から身を遠ざけるべきではないか、と。

皮肉に富んだ勝の返事

 ここで福沢は独特なリーダーシップ論を展開するのだ。およそ指導者たるものは、成功と失敗の双方に責任があり、成功すれば栄誉を専らにし失敗すれば苦難を甘受する主義を明白にすることが徳行の点で大事だと強調する。これこそ、「国家百年の謀(はかりごと)」において武士の気風を盛んにするために軽視できないと主張したのである。

 勝海舟も、和議のためとはいえ徳川家を滅ぼした因縁が効いて幕府瓦解(がかい)を自分の富貴獲得の方便として使ったように言われては、立つ瀬がなかっただろう。ほぼ同じく富貴を望んだと非難された榎本にしても不愉快極まりなかったはずだ。2人とも手法は違っても徳川のために働いたことに自負と誇りをもっていたからである。

 榎本は五稜郭戦争で徹底抗戦を貫き、下獄後は武人としての自分の過去に訣別(けつべつ)した。新政府に仕えても文官として人生の再出発を切るという覚悟であった。勝は多くの批判を受けても、旧主慶喜(よしのぶ)の雪冤(せつえん)や旗本御家人の生活のたつきを得るために人知れず苦労をしたのである。変節漢や裏切者呼ばわりされながら、借金をして旧幕臣の面倒を見た勝の侠気(きょうき)心は、福沢には縁遠いものだったかもしれない。2人からすれば、幕末にうまく立ち回って、幕府の好意で海外にも出かけ恩顧を蒙(こうむ)った陪臣の福沢こそ、徳川のために何をしたのかと鼻じろむ思いもしたことだろう。

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 「瘠我慢の説」の草稿を2人に送った福沢は、明治25(1892)年2月5日に手紙を送って意見を求めた。2人の反応は早い。同じ日付の榎本の返書は、多忙につきいずれ感想を述べるとにべもないものだった。勝の返事は江戸っ子らしく皮肉と機知に富んでいる。「行蔵(こうぞう)は我に存す、毀誉(きよ)は他人の主張、我に与(あず)からず我に関せずと存候(ぞんじそうろう)。各人え御示御座候(おしめしござそうろう)とも毛頭異存無之候(これなくそうろう)」。行動は私の判断によるもので、けなしたり誉(ほ)めたりの評論は他人様の仕事です。どうぞどうぞ、どなたにでも勝手に御説を公開しても一向に異存ございませんよ。

寡黙も政治家に必要

 菅政権の大臣として“変節”を日々なじられている与謝野馨氏は、勝と同じ江戸っ子らしく「行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張」と啖呵(たんか)を切りたいはずだ。瘠我慢を主張する人物ならずとも、政治家なら誰でも「行蔵は我に存す」と言い切りたいだろう。「瘠我慢の説」には勝も榎本も驚くほど寡黙であった。口数が少ないのも、時には政治家に必要な資質である。福沢の多弁さは政治家でなく評論家の質なのだ。

 それでも福沢は聡(さと)い人間である。「瘠我慢の説」を10年後に発表したのは、どこか忸怩(じくじ)たる思いがあったせいでもあろうか。公表は福沢の死の1カ月前であり、勝はその2年前に逝去していた。そして、すでに政界から引退していた榎本は、7年後の静かな死を向島で待つだけの身であった。(やまうち まさゆき)



エンターテインメント
永井大:最期の地・函館で「土方の魂に背中押された」
 4月新設のNHK衛星放送チャンネル「BSプレミアム」で放送される連続時代劇「新選組血風録」で主役を務める永井大さんら出演者が27日、緑山スタジオ(横浜市青葉区)で報道陣の取材に応じ、劇中の扮装で登場した。時代劇初主演で土方歳三を演じる永井さんは、演じる前に土方最期の地・函館にあいさつに行ったといい、「自分の中で抱えていた不安がなくなった。土方さんの魂に背中を押された気がしました」とすっきりとした笑顔を見せた。 

 司馬遼太郎さん原作の「新選組血風録」は、幕末に剣の腕ひとつで郷士や農民から武士に成り上がり、武士であることに異様ともいえる情熱を傾けた新選組隊士たちの激しく切ない人生を、1話完結型で描く新選組外伝で、痛快な殺陣と心に響く人間ドラマが魅力の時代劇。新選組は永井さんのほか、近藤勇役を宅間孝行さん、沖田総司役を辻本祐樹さん、芹沢鴨役を豊島功補さんが務める。また、芹沢鴨に無理やり情婦にされたお梅役を井上和香さん、長州藩士が出入りする京の料亭の一人娘・美代役を前田亜季さんが演じ、ドラマに花を添える。

 永井さんは、新選組の局中法度にちなんで現場での“決まりごと”を作ったといい、「まず、現場に『近藤さん』がいっぱいいるので、近藤さん(宅間さん)のことは『局長』と呼ぼう。あと、局長の言うことは絶対で。局長がお昼を食べると言ったらついていって、チームワークを作っていこう。守れなかったら罰金を取って、差し入れを作ろうと話しています」と説明したが、宅間さんは「さっき僕一人だけ残っていて『お昼、待っています』って言ってたのに、みんな先に食べてた。……切腹です」とぼやき、報道陣を笑わせた。

 放送は、4月3日から毎週日曜午後6時45分~7時30分の連続12回。初回のみ73分版。(毎日新聞デジタル)


ブックレビュー
【書評】『カション幕末を走る』高杜一榮・著
■幕末の親日家外交官の姿活写

 メルメ・カションは、1828年生まれのフランス人で、はじめは宣教師として来日し、日本語に堪能となった。58年に日仏修好通商条約の使節の通辞として来日したときは、条約の訳文をカタカナで作成し、幕府に提出している。

 日本と日本文化をこよなく愛したカションはその後も来日を続け、数年後、浅草の料亭で働いていたお梶を見初めて妻にするところから物語が始まる。

 幕末の日本を舞台に、フランスによる日本の近代化支援の先鋒(せんぽう)となって活躍した外交官カションと、日仏文化のはざまに身を置く形になって、病弱ながらも夫への愛を貫いたその妻・お梶の暮らしぶりを、両者の視点から繊細に描いた感動の歴史ドラマ。(1500円、文芸春秋)


「竜馬がゆく」「天皇の世紀」 歴女おすすめ幕末モノ
「歴女」は市民権を得たようですが、「幕女」はどうでしょうか。幕末好きの女子、のことだそうです。この言葉、昨秋刊行された「萌えよ 幕末女子~蛤御門でつかまえて~」なる本で発見しました。思わず赤面したのは、タイトルのせいばかりではありません。先日、京都御所の蛤御門の弾痕を激写してきた自分の行動を思い出したからでもあります。

 大河ドラマで人気俳優が演じ、ゲームやマンガでイケメンに描かれる幕末の人物は、今や完全に“キャラクター”化された感があります。情勢が刻々と変化し、多数の人物が入り乱れる、この複雑な時代を知るとっかかりとして、“お気に入りのキャラ”から入るのは決して悪いことではないと思います。上野の西郷さんくらいしか知らなかった私も、ゲーム「維新の嵐 幕末志士伝」と小説「竜馬がゆく」で、陸奥陽之助ファンになったのがきっかけで、その後、「峠」、「花神」、「燃えよ剣」、「世に棲む日日」等々、司馬遼太郎作品を読み進め、時代そのものの面白さを知っていきました。

 テレビドラマにも、幕末を扱った作品は多数あります。今回は、キャラ好き幕末女子から、幕末史を極めた男子も納得の、ドラマ作品をご紹介します。

 「JIN-仁-」。2009年にドラマ化され、大ヒットしたSF時代劇です。原作がマンガなだけに、主人公・南方仁(大沢たかお)をはじめとする各キャラクターとストーリー展開にぐいぐい引っ張られます。幕末への興味というのとは少しずれるかもしれませんが、面白いので良しとしましょう。4月からは第2シリーズの放送が始まるので、予習・復習にもおすすめです。

 「篤姫」は、「幕末モノはあたらない」というジンクスを見事破った、2008年放送の大河ドラマ。“激動の時代を生きた女の一生”という図式と、大奥という華麗なる舞台、そして瑛太と堺雅人が演じた篤姫を巡る2人の男性像に、多くの女性が釘付けになりました。個人的には和宮を演じた堀北真希が印象に残ります。

 幕末好きも極まったという方には「天皇の世紀」をおすすめします。原作は作家大佛次郎が、朝日新聞に1967年から73年まで連載した長編史伝で、明治天皇の誕生から江戸城明け渡しまでの動乱の時代を克明に描き、1971年にスペシャルドラマとしてテレビ放映されました。その映像が、40年の時を経て、昨年末、DVDとしてよみがえったのです。この作品に主人公となる登場人物は存在せず、「歴史そのものが主人公である」という視点で制作されています。その意味では“キャラ萌え”の要素はないのですが、時代の動きそのものに興味がある幕末ファン必携の作品といえます。「幕女」にも、いつかは見ていただきたい作品です。

 →今回ご紹介した作品は「朝日イベント・プラス」日本のドラマ特集で。


『幕末のロビンソン 開国前後の太平洋漂流』  岩尾龍太郎著  (弦書房・2310円)
●未来の漂流者たちへ 田村元彦 西南学院大准教授

 帰還することが叶(かな)わぬ、過酷な状況に投げ込まれた何者かが、必死で生き抜こうとする--。運よく生還しえたとしても、願っていたような「帰還」は果たせない。故郷はその者をまるごと受け入れてくれるような甘美なものではもはやなくなっているからである。

 本書は著者の遺作である。登場人物が「死んだこどもたち」として設定されていたという「ひょっこりひょうたん島」の影響を受けて育ち、シベリア抑留などにも強い関心を示していた自称「ロビンソン学者(おたく)」の岩尾は、病魔に冒され生還すること叶わぬ我(わ)が身をクールに見定めながら、前作『江戸時代のロビンソン』と同様に、一次文献に執拗(しつよう)なまでに肉薄していく。汲々としてアカデミックな体裁を整えることや、奔放な空想に惑溺(わくでき)することなどに、彼は一瞥(いちべつ)もくれない。ひたすらテキスト自体と物質的身体的に格闘することで、歴史や国家に翻弄(ほんろう)され、想像の埒外(らちがい)に放逐されてしまった漂流者(ロビンソン)たちの「つぶやき」に耳をすまし、その奥にあるコンテキストを読み解こうとしている。

 著者によって示された知の海図によって、本書を読む者は思いもよらぬ場所へと漂着することになるだろう。例えば、職場を共にした私は、亡くなる少し前の著者に、「『あしたのジョー』の矢吹丈の名前は、新島襄に由来するのではないか?」と質問された。本書においても言及されているが、吉田松陰と寅さんという二人の「寅次郎」を山田洋次が意識的に重ね合わせていたように、熊本バンドの影響下に育ち同志社で学んだ祖父をもつ高森朝雄(=梶原一騎)が、「ジョー」という名前にそうした意味を込めていたとしても何の不思議もない。ところが、提出期限が過ぎた課題レポートを出そうとする劣等生の心持ちで、遅ればせながら原作マンガを再読し関連文献を調べてみても、証拠めいたものさえ見出(みいだ)せず、途方に暮れていた--。

 何たることか。答えはすで著者によって示されていた。「志士的」とも評すべき新島襄の最後の詩が、私に向けて投げ出されるかのように本書に引かれていたのである。《いしかねも透(とお)れかしとてひと筋に射る矢にこむる大丈夫(ますらお)の意地》

 本書は純粋な贈与のごとく届けられた、未来の漂流者(ロビンソン)たらざるをえない現在を生きる者への決然たる問いである。


【書評】『プチャーチン』白石仁章・著
■外交史料が語る日本への愛情

 幕末、黒船で来航して恫喝(どうかつ)的態度で開国を迫ったアメリカのペリーは有名だが、「対話」で友好の道を開いたロシアのプチャーチンを知る人は少ない。

 礼儀正しく玄関(長崎)を訪れ、外交交渉を通じて親日家となり、明治天皇から旭日大綬章が贈られ、幕末から明治期の北方領土問題を解決したロシア軍人である。著者は、勤務する外務省外交史料館で発掘した記録から、その実像に迫る。帰国後も、日本人留学生を厚遇し、ロシア駐在日本人外交官に便宜を図った。死後も遺言で長女のオーリガが来日してディアナ号ゆかりの静岡県・旧戸田(へだ)村に遺産を寄贈するなど終生、日本への愛情を持ち続けたことを本書は明らかにしている。(1470円、新人物往来社)


老剣士が問う、生死の意味 新選組3部作完結、浅田次郎さん
 作家・浅田次郎さん(59)の新選組3部作が『一刀斎夢録』(文芸春秋)で完結した。明治から大正に時代が変わるなか、70歳近くなった元新選組三番隊長の斎藤一(はじめ)が、若き剣士に幕末から西南戦争に至る自らの体験を伝える。多くの命を奪い、戦場では悪鬼のようであった剣士が語る物語でありながら、成長小説の味わいを持ち、生死の意味を問いかけていく。

    ◇

 老剣士は坂本龍馬を殺害した記憶から語り始める。居合の達人である斎藤が龍馬の額を横なぎに斬り、その後、見廻(みまわり)組がとどめを刺した……。「龍馬暗殺の実行犯は京都見廻組という説が有力ですが、こうであっても不思議ではないだろうという仮説です。諸説がいまだにあるのは事実が隠されているからではないでしょうか」

 斎藤一はマンガ『るろうに剣心』の敵役として若い世代に人気があるが、小説ではあまり描かれてこなかった。「沖田総司や土方歳三のように固まったイメージがなく、『壬生義士伝』や『輪違屋糸里』を書いたときからこの無口で偏屈な斎藤を主人公にしたいと思っていました。ニヒルな剣豪というだけではなく、剣にも表れているように合理的なものの考え方をする人だったと思います」

 その合理的な目には、西南戦争は日本の近代化に備えた軍隊の大演習をした芝居と映る。「自衛隊にいたとき何度も聞かされた行進曲『抜刀隊』の歌詞を知ったときには驚きました。西郷隆盛を朝敵ながら古今無双の英雄とうたっているのです。同時代でもその歌詞に込められた意味を見抜く人はいたはずです」

 武士の世の価値観を貫いて生きた斎藤の話を聞く近衛師団の梶原中尉は、明治から大正という時代の変化に戸惑っている。歴史を単純化せず、そこで生きる人々の姿からこまやかに描くスタイルは、昨年のベストセラー『終わらざる夏』にも通じる。「ここ数作、自衛隊にいた経験が生きる小説が続きました。軍隊もまた究極の合理性を求める場で、そこからは政治や社会の非合理性が見えてきます」

 そんな浅田史観が存分に展開されながら、昔ながらのチャンバラ小説好きもうならせる。「最近はゲームのように人がばたばた死ぬ小説が多い。斎藤が100人を斬り殺すのを描くにしても、そこに死生観や哲学を込めて描きたかった」

 斎藤はお気に入りの日本酒を飲みながら、7夜にわたり梶原に語り続ける。酒の味が伝わってきそうな語り芸になっているが、実は浅田さんは一滴も飲まない。「飲まないからこそ観察する時間がたっぷりあって、酔っぱらいが分かるのです」(加藤修)






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