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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
 本業で一山乗り越えました。今月はまだいくつか小山がありますが、週末は少し休息できてます。

北海道
道南の歴史学びませんか 函館
【函館】道南各地の博物館・郷土資料館の学芸員らが講演する「郷土学連続講座」が6日、函館市地域交流まちづくりセンターで開講する。(久田徳二)
 市立函館博物館など道南の17施設が加盟する道南ブロック博物館施設等連絡協議会(会長・田原良信同館館長)の主催。地元の歴史研究などに携わる専門家が、歴史、文化などについて独自の視点から持論を発信する。
 第1回のこの日は午後1時半開講。歴史編「道南の歴史を知る-幕末13 件から明治初期」として、5講を1日で行う。第2回は「自然」をテーマに夏に開催する計画だ。
 各講30分程度で部分参加も可能。受講は無料。問い合わせは同協議会事務局の知内町郷土資料館(電)01392・5・5066へ。


野外劇にJTB交流文化賞「選考委員特別賞」

1988年から毎年夏に五稜郭公園で開かれている「函館野外劇」を主催するNPO法人市民創作「函館野外劇」の会(フィリップ・グロード理事長)がこのほど、大手旅行代理店のJTB(東京)が主催する「第6回JTB交流文化賞」の交流文化賞・選考委員特別賞に選ばれた。同会理事の里見泰彦さん(67)は「野外劇を支え、応援してくれた市民の総合力のおかげ。全国からの集客につながる」と喜んでいる。

 同賞は、地域固有の魅力を創出し、地域活性化に長年取り組む組織や団体に贈られる。今回は全国から52の応募があり、安島博幸立教大観光学部教授ら6人が選考委員を務め、最優秀賞1、優秀賞2、選考委員特別賞1が決まった。道南での受賞は初。受賞理由についてJTB広報部は「函館市の地域活性化のため、市民による手作りの野外劇を98年から継続している。400人以上の市民出演者と100人以上のボランティアスタッフに支えられ、市民に根付いた交流事業となっている点を評価した」としている。

 同会事務局は、昨年10月に初めて応募し、12月末に受賞の知らせを聞いた。表彰式は20日に東京で、JTBグループの新春懇親会の席上開かれた。里見さんらは全国のJTB関係者などから「23年も続いているのはすごい」「野外劇観劇をポイントとして、全国から函館に観光客を送り込むような商品を考えたい」と意見があったという。

 野外劇が昨年行ったアンケートによると、観客の70%は函館市民で、東北、関東からはそれぞれ数%のみ。里見さんは「全国的な知名度は低かったが、今回の受賞は大きなPRになる」と期待を寄せる。「町民役から場内整理まで、地域おこしに奮闘してきた毎回数百人の力で、全国発信していけるよう頑張りたい」と気持ちを新たにしていた。


箱館奉行所で防火訓練
 「第57回文化財防火デー」の26日、函館市の特別史跡・五稜郭内に昨年復元オープンした箱館奉行所(五稜郭町44)で防火訓練が行われた。来館者の避難誘導など火災発生時の初動対応を確認するとともに、貴重な建造物に対する防火意識を高めた。

 文化財防火デーは1949(昭和24)年1月26日、奈良県で法隆寺金堂が炎上し、壁画が焼損したことをきっかけに文化財保護の意識が高まり、55年に制定された。市では毎年、博物館や重要文化財に指定されている建造物で訓練を実施しており、奉行所では初めて行われた。

 訓練は市教委や市消防本部、指定管理者の名美興業職員ら約45人が参加。建物奥の「武器置所」から出火したとの想定で、職員が初期消火や消防への通報、来館者誘導などを分担し、屋外に避難。現場に到着した消防隊が放水を行った。

 訓練終了後、市東消防署の山田芳弘主査が「避難誘導の声出しが良く、いい訓練だった」と講評。同奉行所の西沢勝郎副館長は「建物はすべて木造で、火を出さないことが大切。スタッフに対する消火器の取り扱い指導や、消火設備の点検を毎日欠かさず行っていきたい」と話し、気を引き締めていた。

福島
二本松藩の私鋳銭?発見 飯野の民家から困窮財政物語る資料
 二本松藩が政府に無断で造った私鋳銭の可能性がある貨幣が30日までに見つかった。明治初期のものとみられ、福島市飯野町出身の高野紀夫さん(63)=東京都練馬区在住=の実家に残されていた。私鋳銭は当時、政府によって回収されたほか、製造者が重い罪に問われたことなどから現存数が少ない。戊辰戦争の敗戦などで困窮していた藩の財政事情などをひもとく資料になりそうだ。
 私鋳銭は明治二分金(にぶきん)と呼ばれる種類で、重さ3グラム、大きさは縦約2センチ、横約1センチ。本物の二分金は金を含んだ銀が使われているが、高野さんが発見した私鋳銭は金が含まれておらず、金メッキが施されていたという。複数の専門家により私鋳銭と判断された。
 「シリーズ藩物語 二本松藩」の著者、糠沢章雄さん(郡山市在住)によると、二本松藩は戊辰戦争の敗戦で二本松城が焼かれるなどして多額の借財があり、財政難は深刻だった。それを解消するため、藩の要職に就いていた羽瀬兵衛らが廃藩置県の2年前の明治2(1869)年に貨幣を造ったが、程なく政府に発覚し、羽瀬は死罪に処せられたとされる。
 高野さんによると、私鋳銭は実家の仏壇の引き出しに保管されていた。祖母からは「悪い人たちが造った“偽金”だ。偽物で使えなかったから残っている」と聞いていた。
 旧飯野町は二本松藩と隣接しているなど関係が深く、糠沢さんは「二本松藩から流れ込んだ私鋳銭の可能性は十分にある」とみている。
 古銭に詳しい鈴木正敏さん(会津若松市在住)によると、私鋳銭は県内では会津藩、二本松藩で造られたという記録がある。会津藩は二分金などを含めて約八百万両分もの私鋳銭が造られたといわれるが、二本松藩の二分金は約千両分で、製造枚数は約2000枚という。
 二本松市教委文化課の根本豊徳課長は「私鋳銭の現物は見たことがない。本物ならば藩の窮状を裏付ける貴重な資料になる」と話す。県立博物館の佐藤洋一専門学芸員も「二本松藩の私鋳銭はおそらく収蔵品にない」とする。
 高野さんは「“偽金”の不思議な光は、幕末から明治へと続く時代の混乱、迷走を映し出しているようだ」と語り、収蔵展示施設への寄託なども検討している。
※私鋳銭 政府が造った貨幣でなく民間などで私的に鋳造されたもの。明治初期にかけて二本松藩をはじめ多くの藩で発行された歴史がある。私鋳銭の製造は極めて重い罪に処せられた。二分金は一両の2分の1の価値がある。

【写真】高野さんの実家から見つかった二分金の私鋳銭(上が表、下が裏とみられる)

東京
北海道の名付け親、松浦武四郎 幕末の探検家 足跡たどる
 北海道の名付け親として知られる探検家・松浦武四郎(1818~88)の足跡を紹介する「幕末の探検家 松浦武四郎と一畳敷展」が、中央区京橋の「INAXギャラリー」で開かれている。戦後、松浦についての本格的な企画展は東京では初めてという。 (井上幸一)
 現在の三重県松阪市出身の松浦は、幕末から明治維新にかけて活躍。十七歳から諸国遍歴を始め全国各地に足跡を残し、二十代後半から国防の危機にさらされていた蝦夷地(現在の北海道)を六度にわたり調査、アイヌ民族と協力して、入り組んだ川の流れや地形の詳細を明らかにした。
 作家、画家、博物学者でもあり、明治新政府にあって先住民であるアイヌ民族の文化を尊重し、北海道の道名、国名(支庁名)、郡名の選定に尽力した。
 会場には、アイヌ語による道内の地名を記した地図「東西蝦夷(えぞ)山川(さんせん)地理取調図」の実物七点が飾られ、当時の北海道の人たちの暮らしを描いた「久摺(くすり)日誌」なども展示。晩年、全国各地の寺院などの古材を組み合わせて東京・神田の自宅に設けた一畳の書斎「一畳敷」も写真パネルで再現した。
 展示物を提供した松浦武四郎記念館(松阪市)の山本命学芸員は「北海道には五十カ所以上の碑がある武四郎だが、東京では知名度は低い。残した大きな業績や、一畳の書斎などから奇想天外な発想の持ち主だったことを知ってほしい」と期待している。
 企画展は二月十九日まで。入場無料。問い合わせは、同ギャラリー=電03(5250)6530=へ。


「日本のダヴィンチ」横山松三郎とは?
江戸東京博物館は、明治初期の写真家・横山松三郎の展覧会「140年前の江戸城を撮った男―横山松三郎展」を2011年1月18日から11年3月6日まで開催している。
横山松三郎は、幕末から明治という日本の転換期にあって、写真や石版、油彩画など、西洋から伝来した当時最先端の様々な知識や技術を独自に研究、習得し、多様な芸術表現を試みた人物。同展では初公開となる「旧江戸城写真ガラス原板」や、横山が独自に編み出した写真と油絵を融合させた技法、「写真油絵」によって制作されたコラージュ作品も出品。横山を「日本のダヴィンチ」とたとえ、当時の先端的マルチ・メディア・アーティストであった横山の多彩な活動を、数多くの資料でたどる。
観覧料は、一般600円。<モノウォッチ>



神奈川
横浜・中区民ミュージカル:公募の75人が熱演 /神奈川
 横浜市中区の関内ホールで30日、中区民ミュージカル「横浜浮世絵物語 空飛ぶ絵師の贈り物」が上演され、4~80歳の75人の熱演に午前・午後の2公演で計約2000人の観客が詰めかけた。

 物語は幕末に活躍した浮世絵師、五雲亭貞秀が主人公。絵師としての技量は高いが、容姿にコンプレックスを抱く貞秀が自らを受け入れられるようになっていく姿を描いている。貞秀は多くの作品を残したが、人となりは謎で、赤い靴記念文化事業団団長で実行委員会副会長の松永春さん(82)が資料を基に原案を作った。脚本、演出、振り付けは舞台芸術家の福島桂子さんが手がけた。

 区民公募のミュージカルは6回目を数え、昨年8月から全員で練習を重ねてきた。松永さんは「何回も参加してくれる人がいるのもうれしい」と話していた。来年公演の公募は7月の予定。中区在住・在勤・在学者のほか、中区の歴史に興味がある人は誰でも応募できる。【杉埜水脈】


静岡
「黒船電車」初の直通運転
河津桜まつりに合わせ 11~13日千葉-伊豆

 JR東日本千葉支社は伊豆急行(静岡県)と共同で11~13日、静岡県河津町で開かれる「河津桜まつり」に合わせ臨時特急列車「河津桜号」(全車指定席)を千葉-伊豆急下田駅間で直通運転する。黒船に見立てた塗装が印象的な「リゾート21・黒船電車」(8両編成)が車両に使用される。

 黒船電車は海向きのパノラマシートを備えるほか、黒船の来航などの幕末の歴史や当時の下田の状況などの資料・図版を車内で展示しているのが特徴。同車両が千葉方面から伊豆急行線へ直通で運転されるのは初めてで、乗り換えなしで伊豆へと出掛けられる。

 行きは午前7時6分に千葉駅発。津田沼、船橋駅などに途中停車し、同10時40分に伊豆急下田駅着。帰りは午後4時17分に伊豆急下田駅発、同8時9分に千葉駅着。片道の運賃(特急料金など含む)は千葉駅発着の場合、伊豆急下田駅まで7200円(グリーン車は9340円)。指定席特急券は各駅のみどりの窓口などで販売する。




三重
日本の昔話、外国語で紹介 明治の「ちりめん本」展示
 和紙を縮ませて加工した「ちりめん本」の英文絵本などを展示する巡回展「日本残像」(放送大学付属図書館主催)が6日まで、津市の県立図書館で開かれている。独特の肌触りのちりめん本や幕末~明治の古い写真など約170点が並ぶ。入場無料。

 ちりめん本の生みの親は商人・長谷川武次郎。1885(明治18)年に英文による「昔噺(ばなし)集」を出版し、翻訳は小泉八雲らが手伝った。桃太郎や猿蟹合戦など、昔話のキャラクターや図柄が色鮮やかで愛らしい。

 明治~昭和初期につくられた本は、海外への土産物として人気で英語のほか仏語、独語版もある。同大学の山本淳一・図書情報課長補佐は「ちりめん布のような肌触りと、浮世絵のような版画技術は、現代の美術としてみても新鮮です」と話す。


松浦武四郎記念館:「たけちゃん」のグッズ、新作2種 /三重
 現在の松阪市の出身で、北海道の名付け親として知られる幕末の探検家、松浦武四郎をモデルにしたキャラクター「たけちゃん」の携帯ストラップとタオルハンカチを松浦武四郎記念館(松阪市小野江町)が作製した。

 2月27日に同記念館で開かれる「武四郎まつり」の会場で発売する。ストラップ(200円)はたけちゃんが両手を上げたデザインで、ハンカチ(300円)は八つのポーズのたけちゃんを描いている。同館が各2000個を作った。

 たけちゃんは99年、武四郎まつりのキャラクターとして誕生した。関連商品はこれまでにキーホルダーや缶バッジなど5点を販売している。【橋本明】


滋賀
特別展:「大通寺の雛人形」 直弼7女の調度品など--長浜城歴史博物館 /滋賀
 長浜城歴史博物館(長浜市公園町)は、彦根藩主で幕末の大老、井伊直弼の7女・砂千代ゆかりの雛(ひな)飾りなどを集めた特別展示「大通寺の雛人形-井伊家の婚礼道具」を開催している。3月9日まで。

 真宗大谷派長浜別院・大通寺(同市元浜町)には、同寺住職に嫁いだ砂千代の調度品が数多く残され、今回は色糸で豪華な刺繍(ししゅう)が施された男雛、女雛の「古今雛(こきんびな)」(江戸時代、同寺蔵)や能楽童子5人の「五人ばやし」(江戸時代)などを展示。また、古代人が祭祀(さいし)道具として使用した人型などの出土品「人形代(ひとかたしろ)」5点も並べ、雛人形の歴史を紹介している。

 同館(0749・63・4611)は会期中無休。午前9時~午後5時(入館は午後4時半まで)。大人400円、小中学生200円。【桑田潔】


兵庫
江戸時代の南海地震津波跡? 神戸・旧居留地遺跡
 神戸市教委は27日、神戸市中央区江戸町の旧神戸外国人居留地遺跡で、江戸時代の南海地震の津波の痕跡を示すとみられる砂の堆積(たいせき)層が見つかったと発表した。地質学の専門家は、海岸線から約500メートル離れた地点に約2.5メートルの高さの津波が押し寄せたとみている。

 市教委文化財課によると、津波の痕跡とみられる砂の堆積層は、厚さ約30センチ、南北約15メートル、東西約2メートル。現在の地表面から約1.5メートル下で見つかった。

 同志社大理工学部環境システム学科の増田富士雄教授(地質学)によると、泥の含有率が少ない砂であることや、砂の大きさが0.5~1ミリと粒ぞろいであること、砂の配列が一定方向と反対方向に折り重なっていることなどから、当時、近くを流れていた生田川のはんらんによる堆積層ではなく、津波の痕跡である可能性が高いという。

 津波の痕跡とみられる地層からさらに約1メートル下には1600年ごろの地層があることから、津波は1600年ごろ以降、外国人居留地が設置された明治初期までに発生したものと推定され、大阪湾周辺で大規模な被害をもたらした宝永の南海地震(1707年)か、安政の南海地震(1854年)のいずれかである可能性が高いという。

 現場は幕末~明治初期の古地図で海岸線から約500メートル北に位置している。現在の標高で1.7~2メートルの地点に分布していることから、波の高さは2~2.5メートル程度だったと推定した。

 市教委文化財課の千種浩・埋蔵文化財調査係長は「どちらの地震であっても、神戸が津波に見舞われたという文献の存在はこれまで知られていない。津波の被害を裏付ける証拠が地下に眠っていたことがわかり、大変貴重な発見だ」と話している。

 旧神戸外国人居留地遺跡は約250平方メートル。市危機管理センターの建設に先立ち、2009年12月から約2カ月間、発掘調査をした。現在は建設工事のために掘削し、実物標本のみが残っている。(日比野容子)


岡山
適塾の蘭方医 緒方郁蔵知って 笠岡の郷土史家が冊子作成
 笠岡市笠岡の郷土史家廣澤澄郎さん(83)が、井原市出身で幕末100+ 件に活躍した蘭方医・緒方郁蔵(1814〜71年)の生涯や業績をまとめた冊子「緒方郁蔵の研究」を作成した。

 緒方郁蔵はもとは大戸郁蔵といい、井原市芳井町簗瀬出身。岡山市北区足守地区出身の蘭学者・緒方洪庵が大坂に開いた蘭学塾・適適斎塾(適塾)に入門した。洪庵とともにドイツの医師フーフェランドの臨床経験を翻訳。約19年かけて計30巻に上る大著「扶氏経験遺訓(ふしけいけんいくん)」としてまとめ、出版した。洪庵から才能を認められ、義兄弟となって緒方姓を名乗り、天然痘予防の除痘館に協力するなど右腕として活躍した。

 冊子はA4判、56ページ。郁蔵が蘭学を学んだ大阪などゆかりの地に出向いて地道に資料を集め、約30年かけて研究結果をまとめた。郁蔵の生い立ちから業績、ゆかりの人物まで多くの写真や家系図などを用いて紹介している。

 歴史が好きだったという廣澤さんは定年退職後、仲間数人と郷土史グループ「笠岡史談会」を立ち上げ、会誌を発行するなどして活動。笠岡の古い街並みや歌人の業績などを調べ、30冊以上のノートにまとめた。研究をはじめたのは、娘の陽子さんが大戸家に嫁いだことがきっかけ。

 冊子は100部作製。郁蔵に縁の深い井原市の教育委員会や図書館、郁蔵の研究者などに寄贈した。廣澤さんは「郁蔵は洪庵の右腕に徹し、歴史の表舞台に出ることはなかった。郷土の埋もれた偉人の業績を多くの人に知ってもらえれば」と話している。


広島
金子邸、呉市に寄贈 有形文化財へ
 呉市豊町御手洗(み・た・らい)の「金子邸」が、市に寄贈された。1日、市教委が明らかにした。幕末の1867年11月、長州(山口)と芸州(広島)両軍が倒幕の軍事条約である「御手洗条約」を交わしたとされる建物だ。市は今年度中に、傷んだ屋根や外壁を直して市有形文化財に指定。さらに2年ほどかけて保存修理し、一般に公開する方針という。
 国の重要伝統的建造物群保存地区にある建物約70平方メートルと土地約230平方メートル。御手洗の庄屋役を務めた金子家が江戸時代後期に建てた。数寄屋座敷や茶室は、参勤交代の大名ら要人の接待や会合に使われたらしい。
 庭には露地門やとび石、井戸なども残る。茶室には一般的な狭い「にじり口」のほか、「貴人口(き・にん・ぐち)」や別の小さな出入り口が設けられ、開放的で明るい空間が特徴だ。市教委文化振興課は、移築せずにある茶室としては、呉市内で最古と説明している。1867年4月には御手洗の港で坂本龍馬が旧友と出会った記録があり、茶室には龍馬来訪の伝説も残る。
 2年前に調査した広島国際大工学部の藤田盟児(めい・じ)教授(建築史)によると、江戸後期の文化年間(1804~18)の仏具や「殿様御成」と墨書きされた箱が残され、「茶室は文化元年に上方で木作りした」との家伝がある。藤田教授は「茶室は飲食する座敷など迎賓空間と一体で使われるが、茶室以外は取り壊されて残らない場合が多い。金子邸は迎賓空間がそのまま残り、歴史的にも文化財的にも価値は高い」と話している。
 20年ほど前まで金子家の関係者が住んでいたが、その後、空き家状態に。旧豊町時代から保存活用の話はあり、最近、横浜市在住の所有者から無償で寄付された。
 建物は雨漏りや外壁の崩壊が進んでおり、市は約600万円かけて今春までに応急補修。新年度から、建物や庭の現状調査にとりかかる予定だ。(中川正美)




高知
気分は幕末志士、龍馬の衣装で写真撮影 とさてらす改装
 JR高知駅すぐ南にある高知観光情報発信館「とさてらす」が改装され、5日にリニューアルオープンした。3月5日に開幕する「志国高知 龍馬ふるさと博」の新パビリオンはこの横に建てられ、7月9日にオープンする。

 とさてらすは、昨年1月開幕の「土佐・龍馬であい博」に合わせてオープン。映像や資料で県内の観光名所を紹介し、土産や名産品を販売した。同博は今年1月に閉幕したが、改装して使うことが決まっていた。

 リニューアルされ、であい博の有料会場内で人気だった「龍馬の衣装を着て記念撮影ができるコーナー」を設けた。坂本龍馬になりきった写真を無料で撮れる。着物姿で観光客に対応する「おもてなしスタッフ」の高橋さくらさん(26)は「去年は県内がにぎわい、うれしかったです。ブームで終わらせず、県の魅力を丁寧に伝えていきたい」と話していた。


龍馬ふるさと博:着工延期 中心施設、「入札不正」匿名情報で /高知
 3月5日に開幕する観光イベント「志国高知 龍馬ふるさと博」の核となる施設で、高知市のJR高知駅南口広場に建設される「『龍馬伝』幕末志士社中」(7月9日オープン予定)の着工が予定していた2日から延期された。建設工事の入札に関する匿名情報が寄せられたため、県観光コンベンション協会が1日夜、延期を決めた。今月内に着工したい考え。

 同協会によると、先月21日に実施した社中の入札には、県内の20業者が参加。落札業者の入札額は、最低制限価格(事後公表)の1億8625万5000円と同額だった。

 先月28日、同協会に情報の不正漏えいを指摘する匿名情報が郵送で届いた。今回の落札業者は「土佐・龍馬であい博」(先月閉幕)のメーン会場の建設工事の入札でも、最低制限価格(事後公表)より1万円高い1億9540万円で落札しているが、その点についても指摘してあったという。

 同協会は「疑義があるなら確認する必要がある」として契約締結を延期し、関係者から事情を聴くなどしている。同協会は「情報の不正漏えいがないと確認でき次第、工事を始めたい」と説明している。【千脇康平】



山口
シンポジウム:山口の近代捕鯨史検証 下関市立大で専門家ら /山口
 第3回鯨資料室シンポジウム「日本とくじら」が5日、下関市大学町の市立大学であった。近世、近代の捕鯨文化について専門家らが話し合った。

 福岡市博物館の鳥巣京一学芸員が、近世の捕鯨の方法について「西海捕鯨と下関」のテーマで講演。江戸時代に福岡、佐賀、長崎などの「西海」では、沿岸の鯨を集団で捕獲する古式捕鯨が行われたと説明。下関は鯨の取引の拠点だったことを当時栄えた鯨問屋などを基に解説した。

 シンポジウムでは、幕末に欧米の捕鯨船団が日本海に進出し、日本の捕鯨が近代化を迫られた状況を、日本鯨類研究所顧問の大隅清治さんらを交えて討論。明治時代、遠洋でモリを発射して鯨を捕獲する「ノルウェー式捕鯨」が山口で始まり「近代捕鯨基地」として下関が栄えたことなどを検証した。

 山口で近代捕鯨が盛んになった理由について議論は白熱。鳥巣学芸員は「古式捕鯨の技術で遅れを取っていた事実が、山口の近代捕鯨を推し進めたのでは」と話していた。【尾垣和幸】

〔下関版〕


会津隠密の墓 長府で清掃
◆「白虎隊の会」昨秋発足の支部
  幕末に敵味方として戦った会津と長州の交流に取り組む「白虎隊の会」下関支部のメンバーらが29日、下関市長府松小田南町にある会津藩士の墓地を清掃した。
  墓には会津藩の隠密として長州に潜入した神戸(かんべ)岩蔵が葬られている。倒幕の動きが活発だった下関に物乞いに変装して入り込み、長州藩の動向を探った。だが、1865(慶応元)年に捕らえられ、長府の山中で処刑された。1919年ごろに下関の有志が墓を建てて弔い、88年に慰霊祭が営まれた。
  この日はメンバーら24人がノコギリや鎌を使って、墓地の周辺に生い茂った竹を切り、傾いた墓石を整えた。清掃が終わると祭壇をしつらえて、赤間神宮の神職青田隆子さんが慰霊の神事を営み、参加者が玉串をささげた。
  吉井克也支部長(64)は「それぞれのしがらみを超えて、幕末に命をかけて尽くした人たちの生き様を学び、地道に活動を重ね、交流を深めていきたい」と話した。
  白虎隊の会下関支部は昨年10月に発足。メンバーは会社員ら約20人で、会津で交流会の開催も検討している。問い合わせは下関支部事務局(083・283・1111)へ。


清掃活動・慰霊祭:会津藩士に思いはせ 県内有志が墓前を--下関 /山口
◇長州藩に幕末潜入し刑死
 下関市長府松小田南町の山中に立つ会津藩士、神戸(かんべ)岩蔵の墓で29日、県内の有志が清掃活動と慰霊祭をした。幕末、長州藩に間諜(スパイ)として潜入するも、見つかって処刑された若き藩士に思いをはせながら、竹を伐採し、墓前で手を合わせた。

 会津藩は幕府擁護派の筆頭で、神戸は倒幕の急先鋒だった長州藩に潜入。京都守護職の任にあった会津藩主・松平容保に情報を送っていたが、1865年5月に捕まり、20歳の若さで長府の山中で処刑された。

 昨年10月、白虎隊の会下関支部を発足させた吉井克也さん(64)が、周囲を竹やぶに覆われている墓の存在を知り、清掃と慰霊祭を計画。この日は会員ら24人が集結し、山道の入り口には看板も立てた。

 吉井さんが、墓前で一心に手を合わせるのには理由がある。美祢市東厚保の吉井さんの先祖宅には、かつて会津藩の白虎隊士が住んでいた。若者で組織された白虎隊は多くが官軍との戦いに敗れ自刃したが、その隊士は一命を取り留め、長州藩士が引き取り美祢で養育していたという。

 「その後、隊士は政府の技官になった。今でも両藩には禍根が残るとも言われるが、こんな温かい話もあったのだと伝えていきたい」。今後も定期的に清掃する予定だ。【尾垣和幸】


会津藩の隠密の墓を清掃 「白虎隊の会」下関支部
 幕末に敵味方として戦った会津と長州の交流に取り組む「白虎隊の会」下関支部のメンバーらが29日、下関市長府松小田南町にある会津藩士の墓地を清掃した。

 墓には会津藩の隠密として長州に潜入した神戸(かんべ)岩蔵が葬られている。倒幕の動きが活発だった下関に物乞いに変装して入り込み、長州藩の動向を探った。だが、1865(慶応元)年に捕らえられ、長府の山中で処刑された。1919年ごろに下関の有志が墓を建てて弔い、88年に慰霊祭が営まれた。

 この日はメンバーら24人がノコギリや鎌を使って、墓地の周辺に生い茂った竹を切り、傾いた墓石を整えた。清掃が終わると祭壇をしつらえて、赤間神宮の神職青田隆子さんが慰霊の神事を営み、参加者が玉串をささげた。

 吉井克也支部長(64)は「会津と長州の友好は思い描いた通りにはいかない。しかし、それぞれのしがらみを超えて、幕末に命をかけて尽くした人たちの生き様を学び、地道に活動を重ね、交流を深めていきたい」と話した。

 白虎隊の会下関支部は昨年10月に発足。メンバーは会社員ら約20人で、会津で交流会の開催も検討している。問い合わせは下関支部事務局(083・283・1111)へ。(崔采寿)


会津藩士の墓を清掃 白虎隊の会下関支部
 幕末に争った長州と会津の交流に取り組んでいる、白虎隊の会下関支部=吉井克也支部長(64)=が29日、下関市長府松小田南町にある会津藩士・神戸(かんべ)岩蔵の墓を清掃し、慰霊祭を行った。

 岩蔵は、竹が生い茂る山中の墓に眠る。1863年に郷土を出発して倒幕を目指していた長州に入り、動向を会津藩に伝えていたが、65年に長府藩に捕らえられて処刑され、20歳の生涯を閉じた。

 支部は、会津藩の白虎隊士で生き残った飯沼貞吉と長州藩士楢崎頼三の交流を語り継いでいこうと、昨年10月に発足。29日はメンバーら24人が約1時間半かけて、墓地周辺の倒れかかった竹を伐採したり、傾いた墓を修復したりした。その後、慰霊祭を行い、岩蔵の冥福を祈った。

 吉井支部長は「会津、長州のしがらみを超えて、幕末の藩士たちの生き様に思いをはせ、交流していきたい。岩蔵さんの命日の8月2日に、支部として再び訪れたい」と話していた。


平成の開国ならぬ里帰り 高杉晋作の雛人形、萩博物館に
 幕末の志士、高杉晋作ゆかりの高杉家に代々伝わる雛(ひな)人形が、出身地の山口県萩市にある萩博物館で特別公開されている。4月3日まで。

 「次郎左衛門雛」と呼ばれる江戸時代初期の形式。高杉家の厚意で萩博物館が借り受け、明治10(1877)年に東京へ移って以来初めての“里帰り”が実現した。

 藩主・毛利氏からの拝領品とみられ、調査した学芸員は「晋作には妹が3人いた。高杉家もこの雛飾りでにぎやかに桃の節句を祝ったんでしょうね」。


佐賀
堅固な「枠工法」確認 三重津海軍所跡・艦船ドック遺構
 幕末佐賀藩の近代海軍基地「三重津(みえつ)海軍所」跡(佐賀市川副・諸富町)の艦船ドック遺構から出土した30メートルの直線護岸の一部から、木材を方形に組んだ堅固な在来土木技術「枠(わく)工法」を駆使した区画が確認されたことが3日、分かった。発掘調査を進める佐賀市教委は既に、この区画に接して炉跡など金属加工関連遺構の密集を確認。「一帯が連動しながら、蒸気船のボイラー製造といった作業場エリアの中枢を担った」としている。

 市教委世界遺産調査室によると、枠工法は、階段状に構築された木組(きぐみ)護岸の各段で採用されていた。新たに出土した木組の最上段と合わせ、方形の一辺は平均1・8メートル。有明海沿岸地域特有の粘土質の軟弱地盤に対応するため、護岸崩壊を防ぐ重厚な構造だった。

 他の護岸はこの区画より簡易な造りであることから、同調査室は、金属加工施設で製造された重量物を蒸気船に取り付けるなどの作業を、この区画で行った可能性が高いとみている。ボイラーなどをつり上げるため、当時のクレーンともいえる何らかの工作物が設置されていたことも、想定されるという。

 枠工法は江戸期、城堀や大名屋敷のため池護岸など、特別な大規模土木工事で採用された工法。これまで、江戸幕府が豊臣家を滅ぼした「大坂の陣」(1614-15年)に際して豊臣方が整備した堀の護岸遺構や、江戸幕府が諸大名に命じる土木工事「天下普請」で築造した高槻城(大阪府高槻市)堀の護岸遺構などで確認例があるという。

 同調査室は「ドックと作業場は密接に連動し、機能した。海軍所の全容解明に一歩近づいたとともに、高い在来土木技術を駆使した佐賀藩の近代化の取り組みを知る上でも重要な発見だ」としている。

=2011/02/04付 西日本新聞朝刊=


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