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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
慶喜も当主の「一橋徳川家の200年」たどる 茨城県立歴史館で特別展
 水戸徳川家出身の江戸幕府第15代将軍、徳川慶喜が当主となるなど水戸とゆかりが深い一橋徳川家の歴史や名品などを紹介する特別展「一橋徳川家の200年」(産経新聞社水戸支局など後援)が水戸市緑町の県立歴史館で開催されている。

 一橋徳川家は江戸時代に清水、田安の両家とともに江戸城内に屋敷を与えられた「御三卿(ごさんきょう)」の一つ。第8代将軍、徳川吉宗の四男、宗尹(むねただ)を初代当主に、第11代将軍の家斉や慶喜を輩出するなど将軍家と密接に関わってきた。

 「水戸、尾張、紀伊の『御三家』と間違えやすいが、それよりも将軍家に近い存在」(歴史館担当者)という御三卿。その一橋家は江戸時代中期から武家社会の中心に関わり、多くの大名や京都の公家との交流を通じて独自の文化を発展させてきた。

 水戸徳川家出身で、一橋徳川家12代当主の宗敬(むねよし)が継承品を県に寄贈したことをきっかけに、歴史館は昭和62年に一橋徳川家記念室を開設。特別展では所蔵する資料約6千点の中から、古文書や婚礼道具、美術品などえりすぐりの116点を展示。江戸時代中期から幕末を経て、戦後に至る200年間の足跡をゆかりの品を通じてたどることができる。

 主な展示品として、能装束「唐花打板雲文様段替厚板唐織(からはなうちいたくももんようだんがわりあついたからおり)」や、香合わせの用具「斑梨子地沢潟菱唐草葵紋散蒔絵十種香箱(むらなしじおもだかびしからくさあおいもんちらしまきえじゅっしゅこうばこ)」などのほか、参院議員を務めた宗敬が、全権団の一人として出席した昭和26年のサンフランシスコ講和条約の調印式で使用した万年筆など貴重な品が展示されている。

 担当者は「展示品を通じて、一橋家がどういう役割を果たしたのか、どういう生活を送っていたのか見てもらいたい」と呼びかけている。

 特別展は21日まで。12日は休館。開館時間は午前9時半から午後5時(入館は同4時半)まで。入館料は一般600円、大学生310円。

 18日午後1時半からは徳川林政史研究所の藤田英昭研究員による「明治維新期の一橋徳川家」と題した講演会も行われる。(鴨川一也)
佐賀の業績4テーマで体感 「幕末維新記念館」報道関係者に公開最新技術で臨場感を演出
 報道関係者向けに8日公開された肥前さが幕末維新博覧会のメインパビリオン「幕末維新記念館」。最新デジタル技術を駆使し、日本の近代化に大きく貢献した佐賀の業績を四つのテーマで紹介している。

 「幕末維新」を体感する第1場は、幅15メートル、高さ3・5メートルのスクリーンが広がり、幕末維新期の佐賀を舞台に偉人たちのドラマが映し出される。第2場は「技」がテーマのからくり劇場。映像とパフォーマー(役者)が一体となって佐賀藩の技術力を紹介。鍋島直正公が失敗を恐れず鉄製大砲を鋳造したことなどをデジタルとアナログの融合で臨場感を出しながら表現している。

 「人」をテーマにした第3場は、7枚のスクリーンに大隈重信や佐野常民、鍋島直正ら七賢人が登場し、語り合う。第4場では、来場者がクスノキの葉をイメージした紙にメッセージを書くことができるほか、県を代表する著名人のメッセージを読むこともできる。

 同記念館は佐賀市城内の市村記念体育館に整備。17日に開館し、来年1月14日まで(無休)。開館時間は午前9時半~午後6時。入場料は800円(前売り600円)、団体600円、3館共通券のチケット3は1200円(前売り1000円)、フリーパス券は3000円。高校生以下は無料。問い合わせはチケット管理センター、電話0952(29)3671。
幕末福井藩にいた忍者の任務に迫る福井県立図書館、本や絵図展示
 150年前の福井城下にいた忍者の任務や暮らしなどに迫る企画展「幕末福井藩の忍者」が福井市の福井県立図書館で開かれている。同館が保管する史料「松平文庫」から本や絵図12点を展示し、パネル8枚を交え忍者の実像を紹介している。4月25日まで。

 県などが展開する「幕末明治福井150年博」の関連事業。

 「忍者」という名前ができたのは昭和30年ごろと最近のこと。「組々之由来(くみぐみのゆらい)」によると福井藩にいた忍者は「忍之者(しのびのもの)」や「忍組(しのびぐみ)」と呼ばれ、武器を収めた倉庫の管理や参勤交代のお供などの役割を担っていた。「忍び御用」として他の藩で情報収集活動を行うこともあった。

 19世紀中ごろ(江戸末期)に福井藩にいた忍者は12人。藩の石高が32万石だったことを踏まえると平均的な人数だった。階級としては「足軽」に属し、待遇は決してよくはなかったという。

 「禄高帳」には元忍者全員の名前が記されている。「御家中屋敷地(ごかちゅうやしきち)絵図」は福井城下に忍者用の短い弓「半弓」の稽古場を伴った忍者の集住エリアがあったことを示している。

 学芸員の長野栄俊さんは「今まで知られていなかった福井藩の忍者の謎が徐々に解き明かされてきた。ぜひ楽しんで見てほしい」と来場を呼び掛けている。
福島県二本松市 戊辰戦争と朝河重ねる とうほく地方創生 気になる現場
 明治150年の記念イベントが全国で盛んだ。戊辰戦争を旧幕府側として戦った二本松藩ゆかりの福島県二本松市には、各地と異なる空気が漂う。今年は、米エール大で教壇に立ち、日米開戦の回避を主張した地元出身の歴史学者、朝河貫一の没後70年と重なる。二本松は何を発信するのか。

霞ケ城公園にある二本松少年隊の像の横には、出陣の服を用意する母親の像が並ぶ

 3月初旬のJR二本松駅前。150年をPRする旗やポスターはまだ、ない。市観光課に聞くと、「特別なことはしない方がいいとの議論もあって出遅れましたが、やはり積極的にPRしようと動き出したところです」とのことだった。

 二本松の戊辰戦争史には、市民の誇りと悔いが入りまじる。数え年で12~17歳の62人が出陣し、14人が戦死した。にほんまつ観光協会の丹野光太郎事務局長(62)は「子どもまで巻き込んだのは恥ずべきことで、多くを語るなと教えられたこともあった」と明かす。「二本松少年隊」と名づけられ、存在が知られるようになったのは半世紀を経てからだったという。

 教育現場では郷土史を学ぶ一環として、戊辰戦争を取り上げている。藩校「敬学館」の流れをくむ市立二本松北小では、毎年6年生が少年隊を題材にした作文や演劇に取り組む。紺野宗作校長(58)は「家族や命、生き方について考えるきっかけになっている」と語る。そして「観光となじみにくかったのは、当時の世代にとって、悲劇を通り越すほどのつらい記憶だったせいではないか」とみる。

 「朝河博士が戊辰の経験を聞いていたことが、思想にも影響したと考えられる」。市歴史資料館の佐藤真由美学芸員(47)が、旧藩士の家に育った朝河の歴史観について解説してくれた。同館には朝河が1908年に執筆した「日本の禍機」の現代語訳やゆかりの地を紹介したパンフもある。

 朝河は「禍機」で、日露戦争後の日本外交を批判し「近代の文明国は国民自らが反省し、深く考えるのでなければ、一瞬で間違いに陥る」と、過去に学ぶ必要性を繰り返し説いた。

 新政府軍の会津攻めを止めようと調停に努めながらも、開戦、落城を余儀なくされた二本松藩と、対米戦を避けるべく奔走しながら祖国の敗戦をみることになった朝河の姿は重なる。

 地元で江戸期から続く大七酒造の太田英晴社長(57)は「課題となっている二本松のブランディングには、戊辰戦争と朝河を結びつける視点が有効」と話す。敗者となった二本松から世界に飛躍した人物の思いは「ふるさとの精神的なシンボルになる」。今年は同社も参加する二本松物産協会のイベントを拡大し、戊辰戦争に関する資料の発掘などに力を入れる。

 霞ケ城落城と同じ7月29日、少年隊の供養塔がある大隣寺では毎年、小中学生の代表が作文を読む。戦争回避へ自問自答した先人の思いを、若い世代はどう受け止めているのか。

 17年度は姉妹が作文を披露。妹は霞ケ城跡に立つ像にふれ「少年隊は敵軍と、お母さんたちは悲しみと戦っているように見えました」と書いた。姉は「歴史から学べることを、私たちは何に変えてゆけるだろうか」と自問し、こう結んだ。「それは、これから未来に生きる、私たち次第だ」

(郡山支局長 天野豊文)
備中松山藩主と家老の自訴状発見 戊辰戦争終結後、藩存続へ連携か
江戸末期に幕府要職を務め、明治新政府から「朝敵」とされた備中松山藩の藩主板倉勝静(かつきよ)(1823~89年)と、家老大石隼雄(29~99年)が戊辰(ぼしん)戦争終結後、新政府側に出した自訴状が高松市の大石の子孫宅で見つかり、8日までに高梁市歴史美術館(同市原田北町)に寄託された。自筆とみられ、同市教委は「藩存続の瀬戸際にあった当時の緊迫感が伝わる貴重な史料」と評価している。

 2人の自訴状を並べて軸装にした状態で発見された。いずれも写しが岡山藩政資料・池田家文庫(岡山大付属図書館蔵)に伝わるが、自筆文書は確認されていなかった。文面は写しとほぼ一致し、正式な自訴状の下書きか控えとして保存していたとみられる。

 勝静は幕府老中として幕閣の中枢におり、戊辰戦争では函館まで転戦した。自訴状は旧幕府勢力が降伏した8日後の69年5月26日付。戦争の混乱の中で軍と行動せざるを得なかったとし、「天威(天子の威光)」に抵抗する考えのないことを強調、家臣や領民の安全の確保を嘆願している。

 一方、大石は国元で備中松山城の無血開城などに尽力し、勝静投降後は主家存続に奔走。同年6月1日に新政府側の岡山藩に宛てた自訴状では、勝静に代わって厳罰を受けることを「本懐至極」とした上で、寛大な処置となるよう取りなしを依頼している。

 備中松山藩は5万石から2万石に減封されながら存続し、勝静は72年に赦免された。調査した田村啓介高梁市教委参与は「セットで伝来したことを考えると、勝静と大石ら家臣が連携し危機を乗り越えられたのでは」とみている。

 自訴状は17日に始まる同館の常設展「山田方谷と生涯」で公開する。5月11日まで。火曜休館。
(2018年03月08日 23時35分 更新)

いまだ会津に渦巻く「薩長憎し」の思い 一方で雪解けの兆しも?
 明治維新から150年を記念する声が全国で聞かれる一方で、福島では「戊辰150年」ののぼりが立つ。会津には、薩長への恨みをいまだに強く持つ人も少なくない。

その原因とのひとつとされるのが、戊辰戦争で新政府軍が出したとされる「埋葬禁止」。これにより会津藩士の遺体は半年間も野ざらしにされたとして、薩長への恨みにつながっているのだ。しかし近年、新史料の発見でこれが誤りであることが明らかになった。

「戊辰戦争は150年前に起きましたが、埋葬禁止説が浮上したのはこの50年のことですから、払拭(ふっしょく)されたのも『50年ぶり』ということになります」(新史料を発見した会津若松市史研究会の野口信一副会長)

 それでも会津の人たちの受け止めは複雑だ。松平容保の京都守護職時代からの積年の恨みがあり、埋葬禁止を打ち消す今回の発見だけでは長州への遺恨は収まらない、と言う人も少なくないという。

 山口県(長州)出身で都内で働く40代の男性も、それぞれその土地の歴史を背負っているから長州、会津の和解は難しいとしながら、こう話す。

「明治150年に対して、戊辰150年と違った立場からの歴史を理解しようという動きは評価しています。明治100年の時と違って、日本人に余裕がでてきたということでしょうか」

 先の野口氏は、真の和解には感情論ではなく歴史を学ぶことが重要だと強調する。

「会津の歴史だけでなく、長州や薩摩の歴史、その他の地方の歴史も同時に学んでいかないと歴史の真実は見えません。一方の話だけを信じていると、埋葬禁止のような事実誤認につながってしまいます」

 実際、150年を機に、戊辰戦争の恩讐を超えた交流も深まりつつある。

 戊辰戦争で約100日間の激戦が繰り広げられた「白河口の戦い」。この舞台となった福島県白河市には、領民が戦没者を敵味方なく弔い、盆踊りで死者の霊を慰めたのがルーツとされる「白河踊り」が伝わる。実はこの白河踊りと出だしの音程などが共通する踊りが、山口県内各地で今も舞われているのだ。戊辰戦争に参戦した長州の隊士が白河で踊りの輪に加わり、古里に持ち帰ったのが由来とも伝えられる。

 こうした白河踊りがつなぐ縁を強め、交流を深めようと、昨年12月に白河市の鈴木和夫市長が長州藩のあった山口県萩市を訪ね、藤道健二市長を表敬。今年7月に白河市で開く両軍戦死者の合同慰霊祭に萩市の関係者を招待することなどで合意した。

 白河市の白河戊辰150周年記念事業実行委員会の教育部会長を務める佐川理沙さん(33)は期待を込める。

「イベントを通じて他地域との交流をさらに広げられれば」

 藩校の学びを伝える博物館「会津藩校日新館」の館長で、いまだに薩長への恨みはあると語っていた宗像精(むなかたただし)さん(85)は、昨年11月下旬、吉田松陰をまつる萩市の松陰神社で「戊辰150年の会津人の思い」と題して、初めて講演した。

 宗像さんの萩講演を実現させたのは、萩市の市民団体「長州と会津の友好を考える会」。代表で医師の山本貞寿(さだひさ)さん(78)によれば、長州藩士も幕末、池田屋事件(1864年)や蛤御門の変(同年)などで会津藩と配下の新選組によって多くが命を落とした。だが、長州人は「会津憎し」とは言わない。会津と長州のこの心情の落差は何か──。山本さんは宗像さんに「生の声を聞かせてほしい」と半年がかりで呼びかけた。

 宗像さんは、満員の萩市民ら約150人を前に身ぶり手ぶりを交え、思いを語った。

「会津だけが長く賊軍の汚名を着せられた。そういう歴史の事実を消すことはできません。歴史をなかったことにして握手する仲直りはできない。しかし、同じ日本人ですから『敵』だとは考えていません。日本が世界のために何に貢献すべきか、日本人として何をなすべきか、ともに考えて進みましょう」

 本当の“雪解け”は10 年先かもしれないし、明日かもしれない。(編集部・野村昌二、渡辺豪)

“半年間、遺体を野ざらし”はなかった? 薩長の「埋葬禁止令」を覆す新史料
 今も会津に渦巻く、150年前の怨念。最大の要因は、官軍の「埋葬禁止」にあった。しかし、最近、「定説」を覆す新史料の発見があった。

*  *  *
 旧会津藩の城下町、福島県会津若松市。藩校の学びを伝える博物館「会津藩校日新館」の館長、宗像精(むなかたただし)さん(85)は、こう切り出した。

「薩長憎しの理由は、西軍が家財道具を分捕ったり、若い娘を略奪したり、そういう悪行の数々があるからです」

 元中学校教師で市教育長も務めた宗像さんによれば、戦前の小学6年の国定教科書には会津藩は薩長に「てむかった」と書かれていた。それはとりも直さず、会津藩は「朝敵」「賊軍」だと言っているようなもの。それを子どもたちが暗記させられたかと思うと、屈辱的な思いは消えない。宗像さんはいまだ「官軍」とは言わず「西軍」と言う。

「官軍といっちまうと、こっちは賊軍になっちまいます」

 賊軍とは、政府軍の「官軍」に対する呼び方だ。

 会津地方で「戦後」といえば太平洋戦争でなく、戊辰戦争(1868~69年)後のことを指す。賊軍の汚名を着せられ、戊辰戦争での敗戦によって会津藩士は苦難の道を歩むことになるからだ。政府は今年、「明治150年」を唱え、祝賀ムードを全国に演出しようとしている。しかし、会津若松市内には「維新」ではなく、「戊辰150周年」ののぼり旗が立つ。

「逆賊の汚名を着せられた薩長への恨みはいまだにあります」

 市内で働く女性(40)は言う。同じ怨念を抱いている人たちが、本州「さいはての地」にもいる。

「薩長への恨みはいまだに消えません」

 青森県大間町。この町の小さな商店街にある「斗南(となみ)藩資料館」の館長、木村重忠(しげただ)さん(78)は、静かな口調でこう話す。

 館名が示す通り、斗南藩士の末裔だ。斗南藩は1869(明治2)年、戊辰戦争に敗れた会津藩士らが家名再興を許され、立ち上げた藩だ。最後の会津藩主・松平容保(かたもり)の長男で生後5カ月の容大(かたはる)を藩主に担いで起こした。71年までに、会津藩士とその家族1万7300人余が、下北半島に移住した。

 木村さんは斗南藩で「史生(しじょう)」(記録係)だった木村重孝(しげたか)の曽孫(ひまご)に当たる。会津藩では会計係を務めていた重孝は70年、妻と4人の子どもたちと一緒に、新潟港から蒸気船「ヤンシー号」に乗ってこの地に来た。

「みんな裸同然でここに来て、どうやって飯を食っていくか大変だったようです」(木村さん)

 下北半島は昔から寒冷の地で、農業の生産性は低い。当時、土地は枯れて米はほとんど取れず、死んだ犬肉の塩煮を食べた人もいた。寒さと栄養不足で、多くの移住者が亡くなった……。

 悲惨な苦痛の歴史を後世に残すべく2005年、木村さんは150万円近くをかけ、自宅2階を改装し私設の「斗南藩資料館」を開設した。館内には、容保直筆の「向陽處(こうようじょ)」の掛け軸や、ヤンシー号の絵、廃藩置県後に斗南藩士が手放した品など貴重な資料が展示されている。館を訪れた人に、斗南藩の歴史を丁寧に説明する木村さんの薩長への遺恨は深い。

「いまNHKでやっている『西郷(せご)どん』ですか? 薩摩が舞台のドラマなんて全然見る気しませんよ」

 この「薩長憎し」の風土を育んだ最たる要因の一つとされてきたのが、戊辰戦争時の「埋葬禁止説」とされる。新政府軍が遺体の埋葬を禁じたため、戊辰戦争で戦死した会津藩士の遺体が半年間、野ざらしにされた、というもの。しかし、この「定説」を覆す新史料が16年12月に見つかっている。詳細をつづった『会津戊辰戦死者埋葬の虚と実』(歴史春秋社)の著者で、新史料を発見した会津若松市史研究会の野口信一副会長(68)は言う。

「地元の反応は『初めて知った』『驚いた』という声が大部分でした。長州とのわだかまりの最大の障壁が取り除かれたのは大きな意義がある、と自負しています」

 新政府軍の汚名をそそぐ「確たる証拠」が残されていたのは、戦死者の埋葬や金銭支払いを記録した「戦死屍取仕末(せんしかばねとりしまつ)金銭入用帳」。地元在住の会津藩士の子孫が1981年、若松城天守閣郷土博物館(会津若松市)に寄贈した史料の一部だ。市の委託を受けた同研究会が、目録の編纂(へんさん)中に発見した。
 この史料によると、明治新政府は会津藩降伏の10日後の旧暦10月2日に埋葬を命令。翌3~17日、会津藩士4人が指揮する形で567人の戦死者の遺体を計64カ所に埋葬した。埋葬にかかった経費は74両(現在の相場で約450万円)。のべ384人が動員され、1人当たり1日2朱(同7500円)を支給した。家紋などが入った遺体発見時の服装も詳述され、山本八重の父・山本権八の遺体や、白虎隊士と思われる遺体も記録されていた。山本八重は、13年のNHK大河ドラマ「八重の桜」で綾瀬はるかさんが主演した女傑だ。

 ではなぜ、埋葬禁止が「定説化」したのか。野口氏はこう説明する。

「会津戦争から半年後の1869年2月に、城下の阿弥陀寺に藩士たちの遺体を改葬したことが、『半年間も放置した』と誤認される要因につながったと思われます」

 埋葬禁止が流布したのは1960年代以降だと、野口氏は指摘する。

「この頃から敗者である会津側から見た歴史が注目されるようになり、阿弥陀寺への改葬に尽力した会津藩士の町野主水の奮闘を伝える小説やエッセーなどで盛んに『埋葬禁止説』が現出するようになりました。しかしこれらは、歴史的資料に裏付けられたものではありません」

 埋葬禁止の浸透と相まって、実直な会津人気質を長州への歴史的怨念と結び付けて「会津の頑固」と称し、これが会津観光のPRにも使われるようになった。こうした会津のイメージが他地域にも広まり、会津人自身の思考や振る舞いを縛っていった面もあると野口氏は解説する。

(編集部・野村昌二、渡辺豪)

明治維新が落とす影 “藩校つぶし”の影響で今も残る医療格差
 明治維新から150年。政府は唱える、「明治の精神に学べ」と。しかし、いまだ賊軍の汚名と怨念を忘れられない人たちもいる。明治礼賛だけではすくえない。私たちは歴史とどう向き合えばいいのか。

*  *  *
 平成の時代に「勝てば官軍、負ければ賊軍」という言葉が、いまも生きている。東京・九段にある靖国神社だ。

 靖国神社は戊辰戦争が終わった翌月の1869年6月、明治天皇が戊辰戦争で亡くなった官軍側の死者を弔うために建てた「東京招魂社(しょうこんしゃ)」を前身とする。そのため、戊辰戦争で敗れた旧幕府軍や会津藩士、西南戦争で賊軍として死亡した西郷隆盛も合祀(ごうし)されていない。極東国際軍事法廷でA級戦犯とされ、絞首刑となった東條英機元首相ら14人は、靖国に祭られている。

 政治学者で東京大学名誉教授の姜尚中さん(67)はこう話す。

「靖国神社というのは、近代国家の一つの顕彰装置。国家に奉じた人間は、たとえそれが国際的に戦争犯罪とみなされても、それはあくまでも国家のために殉じたという考え方です」

 明治期の薩摩、長州といった藩閥政治が、国内の医療格差に影響していると見る医師がいる。医療政策を研究するNPO法人「医療ガバナンス研究所」(東京都)理事長で、医師の上昌広(かみまさひろ)さん(49)だ。

「江戸時代、各地の藩校では西洋医学や工学を採り入れながら人材育成システムを構築していました。しかし、戊辰戦争で勝った薩長の新政府は、賊軍を武装解除させ、藩校も人材教育システムもろともつぶしてしまったのです」

 厚生労働省の「2016年医師・歯科医師・薬剤師調査」によれば、人口10万人当たりの医師数が最も多いのは京都府で334.9人。次いで徳島県(333.3人)、東京都(324人)、鳥取県(316.7人)の順だ。

 一方で、ワーストは埼玉県の167人。次いで茨城県(189.8人)、千葉県(189.8人)と続く。人口で見ると、圧倒的な「西高東低」となっている。

 その一例が会津藩だ。会津はかつて教育の先進地だった。日新館という藩校があり、そこには医者を養成する医学寮もあった。しかし、戊辰戦争で校舎は焼失し、その後、再建されることはなかった。

 いま、人口約190万人の福島県に医学部は福島県立医大しかない。人口10万人当たりの医師数は204.5人と全国44位だ。

「医師不足は、救急搬送の受け入れ拒否による患者の死亡や、病院や診療科の閉鎖など、深刻な問題をすでに引き起こしています」(上さん)

 医療格差は、教育や人材の格差にもつながる。ノーベル賞受賞者が西日本に圧倒的に多いのは、その証左だと上さんは言う。

「格差をなくすには、規制緩和が必要。そして高度教育機関を誘致し、人材を育てることです。歴史を乗り越えるには、明治政府が生み出した、医療格差と教育格差をデータに基づき直視することが肝要です」

 姜さんが言う。

「近代日本の持つ光と影。とりわけ近代史の中で辺境や周辺に追いやられた影の部分にしっかりと目を向け、それが我々にどういう歴史的な課題を突き付けているのかを考えてほしい。明治150年の今求められているのは、そうした影を見る視点ではないでしょうか」

(編集部・野村昌二)



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