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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
 被災地の方々のご苦難や悲しみを思いつつ、自分は今普通に日常生活を送ろうと思います……小さなひとつひとつのことに感謝しつつ。
 ということで、ためていた幕末ニュースからピックアップして送ります。

神奈川
黒船来航時の大津陣屋と川越藩テーマに企画展、幕末期の様子を解説/横須賀
 幕末期に江戸湾(東京湾)の警護を命じられ、横須賀の大津陣屋で暮らしていた川越藩士たちを紹介する企画展「黒船来航 大津陣屋と川越藩」が8日、京急大津駅前の大津コミュニティセンター3階集会室で始まった。大津観光協会が主催し、市民団体「大津探訪くらぶ」(杉本幸三代表)が企画を担当した。入場自由。13日まで。

 異国船が日本近海にたびたび出現するようになった幕末64 件期、川越藩は幕府から江戸湾口の警護を命じられた。1843(天保14)年には、現在の県立横須賀大津高周辺にあった大津陣屋を拡張・整備し、家族で暮らしていた。

 大津陣屋は広さ約3・2ヘクタールにおよび、最盛期には当時の村の人口に匹敵する1500人が生活していた。寺子屋を開く藩士もいて、村の子どもたちも学んだという。1868(明治元)年に取り壊された。

 会場では、200点を超える資料を基に黒船来航と大津との関係、絵で見る開国など幕末64 件期の様子を解説している。

 特に目を引くのが三浦半島に眠る川越藩士や家族の墓を紹介するコーナー。各寺の過去帳には故郷の土を踏むことなく亡くなった130人余の名が残されており、杉本代表らが現地調査した結果、信誠寺(大津町)の10基を筆頭に計22基が確認できた。この調査結果を地図や写真で細かく紹介している。

 展示資料の一部は今後、埼玉県川越市内でも展示される予定。杉本代表は「今回の企画展が川越市との交流のきっかけになれば」と期待している。


須賀の幕末海上防衛を紹介 「黒船来航 大津陣屋と川越藩」展
 幕末の横須賀で海上防衛を担った川越藩や黒船の訪れた歴史などを紹介する「黒船来航 大津陣屋と川越藩」展が8日から始まる。幕末に浦賀にやってきた米軍艦を描いた絵画や横須賀市大津町周辺の史跡を紹介するパネルなど約200点が並ぶ。同町の町おこしを進める市民団体「大津探訪くらぶ」が企画し、大津コミュニティセンター(大津町)で13日まで開催する。

 日本近海に、通商を求める外国の船が頻繁に姿を見せるようになった幕末。現在の埼玉県川越市を領地としていた川越藩は、天保14(1843)年に、江戸幕府から現在の東京湾の防衛を命じられた。

 同年、川越藩は東京湾を一望できる現在の横須賀市大津町に、藩士が暮らすための広大な屋敷「大津陣屋」を建設。敷地面積3万2000平方メートルの屋敷に、最大で1500人もの藩士が住み込んで外国船の警戒にあたった。川越藩が防衛を務めた10年間に、故郷に帰れないまま横須賀で亡くなった藩士も多かったという。

 同展では、そうした川越藩士の墓などの史跡や大津陣屋にまつわる歴史を、写真や見取り図などさまざまな形で紹介している。探訪くらぶの杉本幸三代表(66)は「江戸時代の海上防衛に、川越藩が果たした役割を、もっと多くの人に知ってほしい」と話している。

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 また、同展には川越藩に関する資料が豊富な川越市立博物館(埼玉)も絵画の貸し出しなどで協力している。13日午後1時半からは、同館の大野政己館長が「黒船来航と川越藩」をテーマに講演を行う。

 大野館長は「川越と横須賀が、江戸時代に密接な関係にあったことは、あまり知られていないが、これを機に両市の交流が進むとうれしい」と期待している。

 入場無料で、期間中は午前10時から午後4時まで開場している。問い合わせは大津観光協会((電)046・836・3531)まで。


静岡
県有形文化財:浄感寺壁画など指定--県教委 /静岡
 県教委は9日、浄感寺本堂(松崎町松崎)の天井画「雲龍図」と壁画「飛天図」=を県有形文化財に指定したと発表した。県文化財保護審議会(会長・金原宏行常葉学園大教授)の答申を受け決めた。これで県指定文化財は計560件になった。

 ともに幕末の1846年ごろ描かれ、今の松崎町で生まれた職人、入江長八の代表作。漆喰(しっくい)による建築装飾の技を磨いた長八が、菩提寺(ぼだいじ)だった浄感寺の再建にあたって腕を振るったとされる。

 墨絵の「雲龍図」は、縦3・5メートル、横5・5メートルの大きさ。竜の険しい顔の周りに、渦を巻く黒い雲を配し、力強く、躍動感ある構図が特徴となっている。

 漆喰で描いた「飛天図」は縦80センチ、横2・7メートル。漆喰をこてでレリーフ状に盛って造形している。雲龍図と対照的に、朱や緑、青などの色を豊かに使って、笛を吹く天女のあでやかな姿を表現している。【平林由梨】


静岡
鉄舟の書など文化財40点 浜松・方広寺で展示
 「山岡鉄舟と奥山方広寺展」(県、県文化財団主催、静岡新聞社・静岡放送後援)が6日、浜松市北区引佐町の方広寺で始まった。21日まで。
 幕末に日本の近代化に貢献した鉄舟や方広寺にまつわる約40点の文化財を展示している。会場には、同寺が所蔵する鉄舟の書「六曲一双屏風(びょうぶ)」、鉄舟が使用していたすずりや印章などが並ぶ。幕末から明治初期の同寺や鉄舟に関するパネル展示も行われている。鉄舟は、1881年の大火災で本堂などほとんどの建物が焼失した同寺の再建に大きく寄与した。
 初日は、鉄舟が建立した全生庵(東京都)の平井正修住職が「山岡鉄舟の人と生涯」と題して特別講演した。12日午後2時半からは、本県出身の講談師宝井馬琴さんと田辺一邑さんの講談が行われる。参加費は2千円(事前申し込みが必要)。問い合わせは方広寺〈電053(543)0003〉へ。


福井
幕末の醤油「ソイソース」復活! 室次醸造場(福井)が発売

 江戸末期に福井藩の輸出品の一つだった醤油(しょうゆ)の醸造元、室次醸造場(福井県福井市田原2丁目、白崎裕嗣社長)はこのほど、当時の方法で醤油「幕末21 件のソイソース」を醸造し、販売を始めた。丸大豆などの原料はすべて県産品。人工甘味料や保存料も無添加という昔ながらの“安全安心”が売りだ。

 同社は元禄2(1689)年創業の老舗。1800年代半ばには3千石(約54万リットル)を醸造する県内最大級の醸造場だった。醤油は、福井藩士由利公正らの殖産振興で長崎の蔵屋敷からオランダ商館を通して輸出され、ヨーロッパでは「ソイソース」として好評だったという。

 しかし、同社は戦後の区画整理などで敷地が半分以下となったことから、主力を石油販売業に移し、醤油づくりは得意先だけに限っていた。

 ところが近年、安全な醤油を求める消費者が増え、同社にも「老舗の醤油屋なら昔ながらの安全な醤油があるだろうと、ここ数年、全国からの問い合わせが増えた」(白崎社長)という。そこでこうした要望に応えようと、醤油業にも本格復帰することにした。

 現代の醤油は発酵時間短縮のため熱を加えたり、防腐剤や人工甘味料などが含まれているものも多い。これに対し同社は防腐剤など使わず、水や丸大豆、小麦、米、こうじなど、すべて県内産の材料。1年をかけて自然熟成、完成させた。

 商品は120ミリリットル(450円)と300ミリリットル(700円)の2種類。「幕末21 件のソイソース」の名で、同社ホームページのほか、リカーワールド華全店、かゞみや福井駅前店で販売。そのほか、県内の観光地や名所旧跡などでの販売も増やしていく予定。

 問い合わせは同社フリーダイヤル(0120)000850。


春嶽の功績、資料で迫る 県文書館で書状や著書展示
 幕末21 件から明治時代にかけての松平春嶽(慶永(よしなが))の功績などに関する資料を紹介する展示「春嶽の生きた時代」が4月10日まで、福井市の福井県文書館で開かれている。福井藩で春嶽が進めた改革や、幕府や明治政府で重要な役割を担っていたことなどを記した資料が並んでいる。

 同館は、福井藩主各代に功績や出来事などを記録した「家譜」のうち春嶽代の53巻を活字化し、資料集「越前松平家家譜 慶永」としてまとめている。3月中旬で全5冊すべてが刊行されることを機に企画、資料10点とパネルを展示している。

 「一橋慶喜感状」は、後の15代将軍一橋慶喜が福井藩に下した書状。禁門の変で皇居の護衛にあたり長州藩と戦った武勲をたたえている。慶喜が春嶽に長州征討の副総督就任を求めたことに関係する書簡などもあり、春嶽が中央政局にも深い関わりを持っていたことがうかがえる。

 また、表舞台から退いた春嶽の著書「逸事史補(いつじしほ)」は、攘夷(じょうい)の象徴とされていた水戸藩の徳川斉昭が、実は開国和親もやむを得ないと春嶽に伝えていたことなどが書き記された興味深い内容となっている。

 このほか、家譜の中から、戊辰戦争や天狗(てんぐ)党の乱などを取り上げたパネルも展示している。13日の午前11時と午後2時から、同館職員による解説(無料)が行われる。月曜休館。



滋賀
井伊直弼の藩政に焦点 彦根城博物館で11日から企画展
 彦根城博物館は11日から、テーマ展「直弼発見! 井伊直弼の藩政」を開催する。幕末の大老としての人物像ばかり注目が集まる井伊直弼について、彦根藩主としての側面にも光を当て、その全体像を探ろうという企画。直弼の藩政への姿勢を示す書状や通達など計23件、36点を展示する。4月12日まで。

 同博物館では、2008年度と09年度に開かれた「井伊直弼と開国150年祭」に合わせ、計10回の「直弼発見!」シリーズを開催したが、10年度以降も毎年、新たな視点から直弼を紹介することにしている。

 今回の展示では、直弼の政治構想や家臣団の綱紀粛正など四つのテーマに分けて構成。清凉寺所蔵の井伊直弼画像のほか、養父の直亮が亡くなった直後に、信頼していた藩士三浦安庸らに宛てた人事構想や藩政運営の姿勢を示した書状、藩校の校風を復古させるよう指示した命令書に加え、直弼の領内巡見の記録などが展示される。主要な文書には現代語訳を添える。

 会期中無休で、観覧料は一般500円、小中学生250円。3月12日午後2時から、藤尾隆志学芸員のギャラリートークがある。


大阪
幕末の風情描く 大阪歴史博物館で森一鳳展を開催
 大阪市中央区大手前の大阪歴史博物館は、幕末の大坂の風情を描いた絵師、森一鳳を紹介する特集展示「幕末大坂の絵師森一鳳」を開催している。

 森一鳳(1798~1871年)は円山応挙の高弟、森徹山を養父とし、江戸時代末期に活躍した絵師。写生を重視した円山派の画風を受け継ぎ、幕末に発行された絵師の番付で上位に位置するなど人気があった。名所風景を題材にした「浪華勝概帖天保山」や養祖父、森狙山が得意とした鳥獣を題材にした「鹿に若松図」など28点が出品されている。

 一鳳は川舟で藻を刈り取る様子を描いた「藻刈舟図」を多く描いているが、これは「藻を刈る一鳳」で「もうかる一方」と見立てられ、商人にもてはやされたという。

 4月4日まで。火曜休館。開館時間は午前9時半~午後5時。入館料は大人600円、大学・高校生400円。中学生以下無料。


奈良
功績たたえ桜植樹 - 奈良公園の基礎作った川路聖謨
 数千株のサクラやカエデを植えて奈良公園の基礎をつくった幕末の奈良奉行、川路聖謨(かわじ・としあきら)の功績を顕彰する「川路聖謨を讃える会」(孝田友禅会長、98人)は6日、川路の功績をたたえようと奈良市登大路町の興福寺「52段」西側に桜の記念植樹を行った。

 同会は平成17年に発足。県内を中心に全国に会員がいる。植樹式には関係者約30人が出席し、孝田会長と治多和夫副会長、小西凉治奈良公園管理事務所長の3人が3メートルの若木を植えた。

 孝田会長は「観光の都で幸せを与える花になってほしい」とあいさつ。北海道に住んでいる同会員でもある川路の子孫から届いたお礼の言葉を伝えた。

 川路聖謨は弘化3(1846)年から5年半、奈良奉行に在職し、生活困窮者の救済に努めたほか、東大寺、興福寺境内にサクラとカエデを数千株植樹し、奉行所付属の官林に50万本の苗木を植えたといわれている。52段の西隣に記念碑「植桜楓之碑」を自ら建立しており、今回はさらにその西側に植樹した。


「川路聖謨を讃える会」結成7年祝い、桜を植樹 興福寺
 幕末に奈良奉行だった川路聖謨(かわじ・としあきら)(1801~68)の業績を現代に伝えようと活動している「川路聖謨を讃(たた)える会」が6日、結成7年を祝って奈良市の興福寺五十二段の横に桜の木を植えた。

 川路は1846年から奈良奉行として5年半在職。東大寺や興福寺境内に数千株の桜やカエデの木を植え、奈良の町づくりに尽力した。

 植樹したのは、樹齢5年、高さ約4メートルのソメイヨシノ。孝田有禅(こうだ・ゆうぜん)会長(85)は「いつまでもこの桜が、奈良の幸せを見守ってくれることでしょう」とあいさつ。孝田会長やメンバーらは根元に丁寧に土をかぶせた。


川路聖謨たたえ植樹
 幕末に奈良奉行を務めた川路(かわじ)聖謨(としあきら)(1801~68)の功績をたたえようと、市民団体「川路聖謨を讃(たた)える会」が6日、奈良市登大路町の興福寺近くで桜を植樹した。

 川路は1846年から奈良奉行を約5年半務め、産業開発や奈良町の環境整備に尽力し、興福寺境内などに数千本の桜やカエデを植えたという。

 同会は2005年に結成、会員98人。この日は、孝田有禅会長(85)ら会員約35人が、桜やカエデの植樹を記念して川路が建立した「植桜楓之碑(しょくおうふうのひ)」横に、スコップなどを使ってソメイヨシノ1本(高さ約3メートル、樹齢約5年)を植えた。孝田会長は「住民の幸せのために心を砕いた川路の思いを語り継ぎたい」と話した。

(2011年3月7日 読売新聞)


兵庫
県重要文化財:堀家住宅など3点指定--県教委 /兵庫
 県教委は7日、「堀家住宅」(たつの市龍野町)=写真・左=の主屋(しゅおく)や内蔵など34棟▽「市之郷(いちのごう)遺跡」(姫路市市之郷)=写真・下ともに県教委提供=出土の土器など44点▽「大乗寺」(香美町香住区)の客殿など2棟--の3点を県の重要文化財に指定すると発表した。県の指定する文化財は今回を含めると828点になる。

 堀家住宅は約6484平方メートルの敷地に、18世紀後半から幕末を中心に築かれた建物21棟と門7棟などが並ぶ。建物群の質と量は、県内の江戸時代の民家としては他に例がなく、播磨地域の豪農の生活を伝えている。

 市之郷遺跡の出土品は、播磨地域で5世紀の渡来文化がどのように受け入れられたかを考える資料として評価されている。

 大乗寺は奈良時代の僧・行基の開山と伝えられる。国の重要文化財に指定された障壁画で飾られた客殿などは、近世後期の上質な建物として知られる。【石川貴教】

〔播磨・姫路版〕


島根
松江歴史館が竣工、新観光拠点に19日開館
 松江藩政下の松江の文化や生活を紹介し、新たな観光拠点に期待される松江歴史館(松江市殿町)の竣工(しゅんこう)式が12日、同館で行われた。19日の開館を前に、経済人や住民ら関係者約270人が、江戸時代から伝わる貴重な歴史資料や、松江城の天守を望める日本庭園などを見学した。

 同館は2009年1月に着工し、市が総事業費39億円をかけて整備。外観は武家屋敷風で、鉄筋コンクリート一部2階建て。延べ床面積は約4200平方メートル。常設展を行う基本展示室や企画展示室、日本庭園越しに松江城の天守を望める約30畳の大広間などがある。

 竣工式で松浦正敬市長は「松江の歴史や文化、観光情報の総合的なガイダンス機能を持つ施設として、市内外にPRしたい」とあいさつした。

 その後、出席者は真新しい館内を見学。幕末の城下町を再現した600分の1の縮尺模型や、松江の茶の湯文化を象徴する茶器、松平家の家老伝来のかっちゅうなどを、じっくりと鑑賞。大広間では抹茶を味わった。

 19日からは、07年に始まった松江開府400年祭のフィナーレとして、同歴史館などをメーン会場とした松江開府400年記念博覧会もスタート。12月4日まで市内を中心に多彩なイベントが開かれる。


山口
九州新幹線全通で薩長駅弁
 九州新幹線の全線開業に合わせ、小郡駅弁当(山口市小郡下郷)は12日、新作駅弁「長州さくら弁当」の販売を始める。山口県と鹿児島県の味を詰め込み、薩長同盟をイメージした包み紙で両県のつながりの強さをアピールした。
 山口の味は、ゆず酢で味付けしたシロサバフグの天ぷら、山口市阿知須の漬物「寒漬け」、岩国レンコンの煮物、萩の夏ミカンのシロップ漬けなど。鹿児島の味は、甘辛く煮込んだ黒豚などが楽しめる。
 JR新山口駅(山口市)では通年、新下関駅(下関市)では土日祝日に1個950円で販売する。縦、横18センチの箱にはサクラのピンクの花びらをデザインし、包み紙には、幕末から明治維新にかけ活躍した高杉晋作と西郷隆盛の顔写真を印刷している。
 同社によると、開通初日の12日は団体予約を含め約600個を製造する。「自慢の味を楽しんでもらいたい」と今井日出夫社長。予約や駅売店での取り置きもできる。同社=電話083(973)0126。

【写真説明】九州新幹線の全線開業を記念した新作「長州さくら弁当」


萩城跡外堀の修理完了
土塀付き土橋や船着場復元

保存修理が完成した萩城跡外堀
 萩市の国指定史跡「萩城跡」の外堀の保存修理事業が15年を経て完成した。江戸後期の形態に整え、北の総門や土塀付きの土橋に加え、船着場や土塁も復元。往時の姿をよみがえらせた。

 築城時、外堀は萩城三の丸と城下町を隔てるために東側と南側に逆L字状に巡らされた。堀幅は完成当初の1622年(元和8年)は約40メートルだったが、1739年(元文4年)までに約28メートル、幕末までに約16メートルに狭められた。

 市は今回、外堀総延長約1400メートルのうち、三の丸東側の南北732メートルを幕末期の幅で復元。水をたたえた景観を再現するために上水道の不用水を流し込んだ。発掘調査で出土した石垣遺構は展示用に残した。外堀に並行する都市計画街路も整備された。

 3か所の総門のうちの「北の総門」は脇戸付き切り妻造りの高麗門。柱間5・9メートル、高さ7メートルと国内最大規模で、樹齢250年のケヤキ材などを用い、2004年に完成した。

 全国的にも珍しい「土塀付きの土橋」(幅5・3メートル)は、北の総門に通じる橋。萩城下町絵図や文献をもとに、両側に高さ2・1メートル、厚さ90センチのしっくい塗りの土塀を37メートルにわたって築いた。

 総事業費は約6億4200万円。29日に完工式が行われる。(横木稔郎)




長崎
近藤長次郎の顕彰碑26日除幕 長崎・中島川公園
 坂本龍馬の片腕といわれた幕末の志士、近藤長次郎の顕彰碑を建立する会(川邉篤次郎会長)は26日、長崎市の中島川公園で顕彰碑の除幕式を行う。

 亀山社中の中心人物として活躍し、薩長同盟の実現に貢献しながら長崎で割腹自殺した長次郎の功績を後世に伝えようと、同会は昨年9月から顕彰碑の建設費用を募り、1月末までに約200万円が全国から寄せられた。

 顕彰碑は眼鏡橋近くの花壇内に設置。高さ1・3メートル、幅1・75メートルの自然石に、諫早市の彫刻家、馬場正邦さん(日展会員)が制作した長次郎のレリーフを埋め込む。

 1日は碑の建設予定地で地鎮祭があり、同会会員と工事関係者8人が出席し、工事の無事を祈った。

 除幕式は午後2時から。長次郎のひ孫・川邉会長=北九州市在住=のほか、長次郎の妹の子孫・千頭(ちかみ)輝雄さん=高知市在住=が出席する予定。


コラム
 鳩山氏を徳川慶喜に比しているのが秀逸。先人と比べると、人物的には小物感が否めませんが。
(104)東大教授・山内昌之 鳩山氏の前原氏批判に見る政敵の不意打ちと進退
政敵の不意打ちと進退

 政治家はいつどこで政敵の不意打ちを受けるか分からない。地位が上になればなるほど、嫉妬や緊張の連続で心が休まらないだろう。

 前原誠司前外相は、政治資金規正法の禁じる外国人からの政治献金受領を国会で取り上げられ、辞職を余儀なくされた。外交の責任者が在日外国人から献金を受けると、対外政策の決定に影響が出るという批判には根拠がある。他方、献金額が5年間で25万円にすぎず、格別の政治的野心もない篤志家の善意ではないかという指摘もあった。しかし、億や数千万円でないといっても、金額の多寡で規正法違反の事実が消えるわけでもなく、前原氏は現職外相として潔く責任をとったのだろう。

 不思議なのは、鳩山由紀夫前首相が規正法の厳しい趣旨に言及しながら、「金額の問題ではない」といちはやく前原氏に進退を迫るかのような発言をしたことだ(『産経新聞』3月6日)。与党政府一体となって国会の予算案通過を乗り切ろうというときに、この言辞に驚きを感じた民主党員も多いのではないか。

 前原氏と比較できないほど多額の金を母親から不法に受けていながら、政治責任を回避した裕福な政治家の発言としては、訝(いぶか)しさを感じる人もいるはずだ。それにしても、鳩山氏の発言を聞くたびに、幕末の一橋(徳川)慶喜(よしのぶ)の言動を時折思い出すのは私だけであろうか。

 一橋慶喜は、慶応元(1865)年に兵庫の開港と大坂の市場開放を決断した外国掛老中の阿部正外と松前崇広(たかひろ)の決意に反対することで、幕府の権威を内側から損ねた。将軍家茂(いえもち)2度目の上洛(じょうらく)は、英仏蘭3国が要請しながら朝廷が反対していた開港開市の問題解決のためでもあった。

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 阿部は松前とともに英仏蘭の公使と交渉したが、いずれも兵庫開港の諾否を明確にしなければ幕府ともはや交渉できない、京都に出かけて天皇や朝廷と交渉すると威嚇したのである。阿部らは幕威の保持と外交権の確保のために、勅許(ちょっきょ)を得ずに開港を決断した。

 すると京から大坂城に着いた慶喜は、勅許を得ずに条約を調印する不可を断固主張して、廟議(びょうぎ)は緊張の極に達した。阿部と松前は、外国が朝廷と直接に交渉するなら幕府は崩壊への道を歩むと条約調印の正当性を譲らなかった。老中の伝統的な政策決定権を京にいる一橋慶喜が奪う権力闘争の性格を察知したからだ。

 いずれにせよ、一橋家に加えて京都守護職の会津藩や京都所司代の桑名藩のいわゆる「一会桑(いちかいそう)」が江戸の幕府老中と政策決定権をめぐって鎬(しのぎ)を削り、ますます徳川幕府の力を内部から弱めたのである。

 幕府にとって最大の問題は、朝廷が阿部らの違勅(いちょく)を咎(とが)めて官位を剥奪し、老中職からの罷免を家茂に命令したことだ。およそ、将軍に補任権のある幕府の老中職罷免を朝廷がじかに強制するという破格があってよいはずがない。これは、政権を委任された徳川将軍家への不信任に等しく、幕府の行政機構がもつはずもない。ここから幕府官僚たちの慶喜に対する不信感がますます強まり、家茂将軍の大権の返上、慶喜中心の政権成立を求める声が沸き起こった。朝廷贔屓(びいき)の慶喜に懸案を任せればよいという意地悪でもある。

 実父の水戸斉昭(なりあき)といい、子の慶喜といい、わざわざ幕府の力を内部から削(そ)ぐことをしていたのだ。島崎藤村が『夜明け前』第11章で阿部らの罷免を家茂が受け入れた点につき、「実に、徳川氏の運命は驚かれるほどの勢いをもってこの時に急転した」というのは、文学者の直観的表現としても優れている。

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 阿部正外は3千石の旗本から出て本家10万石を継いだ人である。しかも旗本のときに、京の禁裏付(きんり)づき)として公武合体と和宮(かずのみや)降嫁に尽力し、外国奉行としても生麦事件の解決に尽力した。江戸町奉行を務めて内政にもかかわり、朝廷工作・外交交渉・国内行政で経験を積んでおり、決して無能の政治家でない。相役の老中松前崇広も部屋住みから本家を継いだ苦労人である。要するに、罷免された阿部は松前とともに大名の実子や嫡男として生まれたのでなく、それなりに苦労を重ねてきたのだ。水戸学の観念や弁論の理屈には冴(さ)えていても、難局からは必ず逃げ出す慶喜と違う育ち方をしてきたのだ。

 大名老中を十把一絡(から)げに扱うのは、さながら金や就職の苦労を知らずに育った鳩山氏と、母子家庭から刻苦勉励しながら党代表や大臣まで自力で上りつめた前原氏を一緒にするようなものだ。

 将来の首相候補者のミスあるいは思い違いを、与党の前首相があえて話題にしたのは品のよいものでなく、民主党のイメージを好んで悪くしている。自分で出処進退を判断しようとしている人間に追い打ちをかけず惻隠(そくいん)の情を催すことも、政治家のリーダーシップに必要な隠れた資質ではなかろうか。

 自民党の石破茂政調会長は6日夜、前原氏が辞意を固めると「責任と立場を自覚した潔い判断だ」と評価した。これこそリーダーにふさわしい惻隠の情というものなのだ。(やまうち まさゆき)

                   ◇

【プロフィル】阿部正外

 あべ・まさと 文政11(1828)年、3千石の旗本の家に生まれる。神奈川奉行、外国奉行、江戸町奉行などを歴任。元治元(1864)年、阿部宗家を継いで白河10万石の藩主となり、老中に就任。幕府強硬派として朝廷と交渉するが、慶応元(1865)年の兵庫無勅許開港の判断を朝廷にとがめられ、老中を解任された。戊辰戦争では奥羽越列藩同盟に参加。明治20(1887)年、死去。


(103)東大教授・山内昌之 有馬新七

統制に背き信念選ぶ

 菅直人首相の退陣を要求して民主党会派離脱を表明した衆院議員16人は、1日未明の衆院本会議を欠席した。政権のいちばん重要な肝(きも)である予算案に事実上反対したのだから、与党議員としてこれほど思い切った反乱もない。

 このドラマには2つの大きな特徴がある。それは、菅首相の統率力と威信がもはや皆無に近いことを内外に印象づけたことだ。もうひとつは、衆院選マニフェストの実施にこだわる造反議員たちが小沢一郎民主党元代表の立場に近く、今後の新党構想の動きに絡んでいるのではないかという憶測を抱かせる点である。

 いずれにせよ、民主党は公党としての一体性を問われる事態に陥ったといえよう。

西郷に匹敵する人材

 幕末で指導者の統制に服さず藩の一体性を危機に陥れた事件といえば、文久2(1862)年4月の寺田屋騒動を思い出す。薩摩藩の島津久光の率兵入京を機に京都の制圧を狙った有馬新七が土佐や久留米など他藩士や浪士の尊攘(そんじょう)過激派を糾合した際、伏見の船宿寺田屋で藩の鎮撫(ちんぶ)使たちと凄惨(せいさん)な切り合いを演じて8人が殺された事件である。

 文武両道という言葉は有馬のためにあるようなものだ。直心影流(じきしんかげりゅう)と崎門(きもん)学派を学び、詩にもすぐれていた。江戸で学び藩邸学問所教授をつとめながら、尊攘派志士たちとも交流して水戸や長州にも名を知られた人物である。安政の大獄を機に井伊直弼(なおすけ)の暗殺も謀(はか)り、桜田門外の変につながる陰謀も画策したのだから政治性も早くから身につけていた。

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 人望や経綸(けいりん)の才では、薩摩藩でも西郷に匹敵する人物だったのではないか。その主張は過激であっても、寺田屋で鎮撫使を応接した態度は冷静だったあたりに、有馬の真骨頂がある。久光の命を受けた奈良原喜八郎は有馬に藩邸へ戻るように伝え、大殿(久光)の方針が京都で次第に受け入れられているのだから、ここは同志を引率して帰藩してほしいと諭した。有馬は青蓮院宮(しょうれんいんのみや)の御召(おめし)を受けているので、それを済ませてから伺うと、京での蜂起をにわかに中止できないと匂わせた。

 君命を守れぬのか、守れぬなら腹を切れと奈良原がなじると、有馬はたとえ君命とあっても宮の御用を果たすことがまず先だと応じる。

 このあたりから双方のやりとりに厳しさが増す。ついに奈良原は君命を守れぬなら上意討ちをするまでだが、それでもよいのかと有馬に迫る。すると有馬も、やむを得ぬと応じた。奈良原には堂々たる大器の有馬に遠慮があったのだろう。さすがに有馬をすぐ切れなかった。

 しかし、横合いにいた道島五郎兵衛が、どうあっても聴かぬかと叫ぶと、脇にいた田中謙助が今となっては何と申されようと聴かぬと切り返す。

 ここで道島は上意と叫んで田中を切ると、遅れて到着した別の鎮撫使のうち1人が坐ったまま無抵抗の柴山愛次郎の肩を後から切り下げた。首がVの字のように胸から離れた惨事はこの時に起きた。ここから先は玄関の狭い場所での身内同士の切り合いだから凄惨そのものである。

 有馬が刀を抜いて道島に立ち向い、数合(すうごう)切り結ぶうちに刀は折れた。そこで有馬は道島の手元に飛び込んで素手で壁に押し付けて叫んだ言葉が悲痛きわまりない。「オイごと刺せ、オイごと刺せ」。気も動転した若い同志は言われるがままに2人の体を串刺しにした。有馬はすぐ絶息し、悲鳴さえ上がらない。同じ志をもつ誠忠組の知り合いも多く、切られた橋口壮介が鎮撫使の奈良原に自分らが死んでも君らがいる、今後天下の事は君らに頼むと言い終わってから絶息したというから、ますます事件の悲劇性は涙を誘うのだ。

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厳しい代償も覚悟の決行

 有馬新七の死は、幕末薩摩にとって長州の長井雅楽(うた)や周布(すふ)政之助の死に匹敵する人材の損失であった。死んだ人間8人以外に、寺田屋に薩摩藩の者は22名もいた。生き延びたなかには、大山巌(いわお)、西郷従道(つぐみち)、三島通庸(みちつね)、篠原国幹(くにもと)もいたのだから、事件の衝撃ははかりしれない。

 寺田屋事件は、最高指導者の決定に従わず統率に反抗する行為が厳しい代償を伴うことを示した。それでも有馬新七は政治的信念のために、武士にとって「命」よりも大事な君命を斥(しりぞ)ける気骨を発揮したのだ。

 維新と現代では状況も価値観も違うが、今でも政治が命がけの行為であることを現代の議員たちは知っているのだろうか。16人の議員にも、ひとたび抱いた志に忠実であるなら、政治家としての意地だけは最後まで貫いてほしいものだ。(やまうち まさゆき)

                   ◇

【プロフィル】有馬新七

 ありま・しんしち 文政8(1825)年、薩摩(鹿児島)の郷士の家に生まれる。天保14(1843)年、江戸に出て儒者の山口菅山に学び、尊皇攘夷運動に参加。文久2(1862)年、京都所司代の襲撃を計画中、京都・伏見の寺田屋で、藩の実権者である島津久光が派遣した藩士らに討たれた。


エンターテインメント
 表意文字ってすごいですね。外国語なのに意味がわかってしまう。
戀愛加上歷史滄桑 《薄櫻鬼》成功擄獲女性的心
〔本報訊〕根據日本近日發佈的一項調查顯示,戀愛遊戲已然成為日本2009年遊戲產業中營業收入最高的環節,且相對於前1年度的增長幅度竟高達83%,而源自2008年一款深受日本女性喜愛的戀愛遊戲《薄櫻鬼》,不僅搭上此一戀愛遊戲風潮,從遊戲改編動畫,又因為深刻的劇情描寫,以及美麗的畫風成功吸引女性目光,成為近來最受歡迎的動漫作品。

 從2008年發售第1款遊戲以來,《薄櫻鬼》迄今已在各大遊戲平台發售近十部系列作,而在眾女性的追捧下,《薄櫻鬼》更從2010年開始動畫化,截至目前《薄櫻鬼》已推出2期動畫,不但請來以「亂馬1/2」及「逮補令」廣為人知的中嶋敦子擔任作畫監督,動畫OP更有曾為「羅德斯島戰記」作畫的結城信輝坐鎮,還將陸續推出角色OVA,相關精品更於今年國際書展掀起一陣旋風。

 《薄櫻鬼》以日本幕末著名的歷史組織「新選組」為題,描寫組織中的各個人物在歷史潮流中的悲壯起落,其之所以受歡迎,最主要的原因不外乎它忠實呈現了「新選組」悲壯的起落,以往一般人對於女性向戀愛遊戲的刻板印象,總是認為過於傾向浪漫情結而忽略了與歷史的結合性,但《薄櫻鬼》就因為打破了這樣的認知因而受到矚目。

 動畫成功塑造出角色們令人心酸的歷史滄桑感,故事以日本「幕末時代」為背景,幕末在日本史上堪稱是一個變動最為劇烈的時代,當時的日本因為西方勢力的強勢入侵面臨了開國或是閉關自守的命運路口,而因為各方勢力的角力衝擊也就誕生了許多可歌可泣的精彩故事,劇中角色包含雪村千鶴、土方歲三、沖田總司、齋藤一、原田左之助、藤堂平助等人。


 こちらは番長ものと新選組リミックス(笑)。
【「歴史大戦ゲッテンカ」第7弾『襲撃!闇夜の新撰組』カード概要】
●導入時期:
2011年3月11日(金)

●種類:
63種(キャラ16種、キャラ小判16種、武器11種、アイテム11種、レジェンド復興小判8種、プロモ1種)

●特徴:
(ストーリー)
時は幕末!ペリーが開国をせまるさなか、ある異変が起きていた…なんと、幕府(国)の言うことを聞かずに活動する龍馬たちがテキとみなされたのだ!
龍馬たちをとりしまる集団、その名は『新撰組』!

新撰組をとりしきるのは番長コンドウ!
腕っぷしの強さはだれにも負けない男の中の男だ!
さらにTOSHIやおきたんが番長を支えるぞ!
剣の達人集団が京の夜を完全支配!

日本を守り、新しい日本を作りたい龍馬たち!
思い通りに国をコントロールしたい幕府(国)!
同じ国の中で意見がくいちがって大丈夫!?
正義は龍馬か新撰組か?

はたまたペリー?どうなる日本!?

<新登場キャラクター>
番長コンドウ(近藤勇)、土方歳三(TOSHI)おきたん(沖田総司)、一刀流ハジメ(斎藤一)、やんちゃ平助(藤堂平助)

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