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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
 東京では今日、桜の開花が確認されたそうです。残念ながら明日は午後から雨(かなりの吹き降りであるようですので、東京マラソンの参加者の方々は雨対策が必要でしょうね)、週明けは冬に戻ったような気温が続くとのことで、見頃は来週末とか。

北海道
登別・知里むつみさんの「アイヌを知ろう!」本発刊
 登別市登別本町在住の知里(横山)むつみさん(61)が執筆した「日本の先住民族アイヌを知ろう!(1)アイヌ民族の歴史といま」(汐文社刊)が出来上がった。小、中学生向けに読みやすく構成、「この本でアイヌを知ってもらうきっかけづくりになれば」と期待を込めている。
 「アイヌ神謡集」を著した知里幸恵の残した業績に正当な評価と理解を―と取り組んでいる横山さんは知里森舎の理事長。知里幸恵が亡くなった9月を中心にフォーラムを開催する傍ら、幸恵の資料などを集めた「銀のしずく記念館」(仮称)の来年秋完成に向けて力を注いでいる。横山さんは活動に当たって適宜「知里姓」を名乗っており、今回の刊行に当たっては「知里むつみ」としている。
 ご主人の孝雄さんは漫画家で、先に汐文社から「イシカリ神うねる河」の第1巻が発行されているが、昨年、アイヌ民族が先住民族であるとする国会決議がなされたこともあり、同社の担当者から執筆の依頼を受けた。
 単独本は初めてという横山さんが手掛けるのは2巻で、今回の1巻目は「アイヌ民族の歴史といま」に焦点を当てた。「縄文文化からアイヌ文化へ」「中世のアイヌ民族和人とのたたかい」「近世のアイヌ民族和人とのたたかい2」「アイヌの人たちと明治維新」「先住民族の誇り現代」の5つのパートからなり、アイヌの立場から歴史が学べる内容となっている。教科書にもよく出てくるシャクシャインの戦いから北海道旧土人保護法、アイヌ民族の地位向上、アイヌ文化振興法制定後の動き、民族の復権、文化の継承など、ひと口メモなども交えながら易しく著している。小学高学年から中学生向けに、写真やイラスト、図などを使い読みやすくした。表紙絵は孝雄さん、中のイラスト、図は漫画家の成田英敏さんに協力してもらった。
 序文や後書きで「アイヌの自然観は現代を生きる私たちにとって、とても大切なことを教えてくれる。アイヌ民族としての誇りや自己意識を強くもって生きている。繰り返し読むことで新たな疑問や関心がわいてくると思う。長く手元に置いて、深めてほしい」などと記した横山さん。「アイヌの人たちは同化政策に屈せず、民族意識をはぐくみながら取り組んできたことを、北海道以外の人にも知ってほしい」と訴えている。
 ハードカバー、64ページで、定価は2500円(税別)。近くの書店か汐文社(電話03・3815・8421番)へ。第2巻は「アイヌ民族のことばと文化」で、近く発刊の運びとなっている。
(野崎己代治)


「函館の歴史を学ぼうかい」活動充実
 函館や周辺の歴史を学ぶ市民団体「函館の歴史を学ぼうかい」(飛田政泰会長)は2009年度、活動内容を充実させる。新たに函館在往の2人の講師を迎えて内容に幅を持たせるほか、史跡巡りを開催し、歴史の舞台を体感する。飛田会長は「皆が函館を知ろうという意欲にあふれている。これからも会員の希望を踏まえて実施したい」と話す。
 同団体は昨年10月、函館市教育委員会が主催する「まなびっと体験講座」の運営委員や受講生有志らが集まり、市民が自主的、継続的に学ぶ場を提供しようと設立。始めは23人だった会員は現在、60―70代を中心に55人に。主に市中央図書館で、身近な歴史について学ぶ場を開いている。
 1―2月に、今後の活動方針の参考にしようと会員にアンケートを実施。開催時間や場所、会費、史跡巡りの開催などについて聞いた。史跡巡りは回答した27人中21人が参加する意思を示した。今後の講座内容は、函館の開港当時の様子のほか、明治―大正期の政治、経済や暮らしのほか、道南全域の歴史などについての希望があった。
 これらを踏まえ、4―9月までの講座内容を決定した。4月10日には新年度最初の講座「国宝中空土偶の謎について」を予定。新しい講師の一人、日本考古学協会会員の千代肇さんが登場する。史跡巡りは6月に行い、四稜郭から神山稲荷神社(旧北海道東照宮)、大円寺に至る約2㌔の箱館戦争の地を訪ねる。
 もう一人は郷土史家の小沼健太郎さん。8月に「明治の商家について(仮)」を予定。これまで講師を務めてきた郷土史家の近江幸雄さんも継続して、函館の町名などの話題を提供する。飛田会長は「いろいろな興味に応えられるよう、随時意見を聞き活動に反映させたい」と話している。
 入会は随時受け付けしている。体験入学は1回のみ可能。問い合わせは飛田会長TEL0138・51・8721。

 「史跡巡りは6月に行い、四稜郭から神山稲荷神社(旧北海道東照宮)、大円寺に至る約2㌔の箱館戦争の地を訪ねる」……いいなぁ、私も参加したいです(; ;)。


京都
【もう一つの京都】西洋文化と古都景観との融合~批判に耐えた名建築・京都国立博物館
西洋文化と古都景観との融合 批判に耐えた名建築・京都国立博物館
 正面玄関上部の破風(はふ)には、建築と美術工芸の神「毘首羯磨(びしゅかつま)」と「伎芸天(ぎげいてん)」が刻まれ、ドーリス式の柱や赤れんがの壁面は、典雅さや威容を誇っている。アーチ型の3つの玄関は、ギリシャ神殿を思わせるような造りだ。
 京都市東山区にある京都国立博物館の特別展示館(旧陳列館)。調和と均衡を重視したフレンチ・ルネサンス様式で設計された平屋建ての壮大な建物だ。近くには三十三間堂や妙法院、智積院などの寺院が立ち並び、東山連峰のなだらかな稜線も見える。外観は一見、周囲の和の風景とは相いれないようだが、不思議と違和感を覚えさせずにとけ込んでいる。
 幕末の慶応4(1868)年に出された神仏分離令。「廃仏棄釈」の嵐は京都にもおよび、多くの寺院で堂塔や経文、仏具が破壊された。鴨川にかかる五条大橋の擬宝珠(ぎぼし)も破棄され、西欧風の欄干に取り換えられたという。
 明治22年、方針を転換した政府が、急速な西洋化による古社寺の文化財の破壊と散逸を防ぎ、収集・保存を行うために決めたのが、東京、京都、奈良での国立博物館開設だった。
                 ◇
 京都国立博物館を設計したのは、工部大学校(現東大工学部)を卒業し、欧米視察経験もあった宮内省内匠寮技師の片山東熊(とうくま)。鹿鳴館を設計したジョサイア・コンドルの教えを受け、後に東宮御所(現迎賓館)などの設計を行ったフランス風建築の第一人者だ。
 用地に選ばれたのは、恭明宮跡地。かつては方広寺の境内だったが、明治3年に政府に接収された後、御所にあった仏像や仏具、歴代天皇の位牌を祭っていた場所だ。博物館は25年に着工し、3年後に完成した。
 当時、京都にはすでに多くの西洋建築物が建てられていたが、完成した博物館に強く批判の声を上げる者がいた。建築家の真水英夫。「建築雑誌」134号で、西洋風の様式を採用したことについて「天恵の地を得て、純粋の西洋建築を造らるるとは何とやらん物足りない」と記した。
 “舌鋒(ぜっぽう)”はさらに鋭くなる。同誌156号では、京都の西洋風建築物について「何れも此地の歴史を無視するのみならず、山水と同化といふ点に注意せず」「何等の美観も無之候」と指摘した。
 いずれも、西洋風の博物館が周囲の景観にそぐわないと決めつけた批判だった。しかし、片山の設計には、景観との融合に配慮した工夫が、いくつも取り入れられていた。
 例えば丸い屋根。片山が書いた屋根の図案が何パターンも残っている。当初は角張った屋根を想定したが、実際に設計図を手に建設地に立ってみると、丸みをおびた山々の稜線と屋根のラインがいかにもそぐわない。最終的に片山が採用したのは、最初の屋根よりも深さがあり、しかも外に張り出した、みこしの上部のようなフォルムだった。
 象徴的な壁面の赤れんがは、陽光の角度でさまざまな表情を見せ、雨が降れば水を吸って曇天に合う暗い色合いとなる。博物館南側の三十三間堂や、背後の妙法院の庫裏(くり)の屋根瓦に合わせた配慮だった。
                  ◇
 片山は建材にもこだわり、日本の季候に適した建物造りに努めた。柱や壁面上部には沢田石を採用。光を乱反射するので、天気がいいと青みがかって見え、青空によく映える。
 壁面下部には、水分を外に逃がしやすい花崗岩を使用。雨水が石材に染みこむのを防ぐため、石の端は直角に切らず鋭角にするなど、日本の伝統的技法も取り入れた。れんが造りの建物に必要な平坦な基盤の施工は、伝統技法の職人「遣方(やりかた)」に依頼した。
 完成した博物館は、まさに西洋の建築技術と日本の伝統技法の融合物だった。伝統を無視して西洋化を進めた開国直後の反省を踏まえ、国際時流を見つめつつ、古来の文化に基づく国づくりを目指した当時の国家方針に沿った建築といえよう。
 京都では、伝統や景観の保全を忘れることなく近代化が進められた。西洋の土木技術を結集して明治23年に完成した琵琶湖疎水は、地形に従った素直な線形を持ち、しかし寺社が多い地域ではトンネルや水路閣を建造。景観に溶け込みながら、市民の生活用水を運んでいる。
「富国強兵」「欧米列強への仲間入り」が声高に叫ばれた明治時代。そうした中でも、日本古来の宝物を守るために造られた博物館の建築様式には、歴史や伝統への畏敬(いけい)を忘れることなく、近代化を進めた先人の知恵が凝縮されていた。(石坂太一)

 ■京都国立博物館 明治28年、帝国京都博物館として開館。当時の収蔵数は約3700件だったが、平成20年12月末現在、館蔵品6406件(国宝27件、重要文化財177件)、寺社などからの寄託品は6147件(国宝81件、重文602件)にのぼる。大正時代に一時京都市に移管されたが、戦後の昭和27年、再び国に移管して現在の名称に。平成13年からは独立行政法人国立博物館、19年からは独立行政法人国立文化財機構が運営している。片山東熊設計の特別展示館と正門は、いずれも重文。


徳島
「享保雛」など40体展示 徳島城博物館で「ひな人形の世界」
 美術工芸品として価値の高い雛(ひな)人形を集めた春の企画展「ひな人形の世界」が、徳島市内の徳島城博物館で開かれている。四月十九日まで。
 江戸後期から幕末にかけて制作されたひな人形約四十体を展示。華麗な衣装が特徴の「享保(きょうほう)雛」や、公家の装束を再現した「有職(ゆうそく)雛」、小型ながら精巧に作られた「芥子(けし)雛」などに来館者は興味深そうに見入っている。
 昭和三十年代ごろまで県内で主流だったといわれる、木製の御殿に人形を配置した「御殿飾り」なども展示している。
 関連行事として、二十二日午前十時から午後三時まで、裏千家淡交会徳島支部による「観桜茶会」を開催。このほか▽「藤井悦子書展 一文字の肖像」(二十四-二十九日)▽和太鼓ライブ花見太鼓(二十九日)▽花の茶会(四月十九日)などもある。
 五日午後一時半から二時半まで同博物館学芸員による展示解説がある。入館料は大人三百円、高校・大学生二百円、中学生以下は無料。月曜休館。問い合わせは同博物館<電088(656)2525>。


福岡
日本のめん 世界が支持 フォーラム「麺と博多」 製粉技術の波及紹介
日本のめん 世界が支持 フォーラム「麺と博多」 製粉技術の波及紹介
 日本で最初に製粉技術が伝わったとされる福岡市・博多とめん文化について考える「フォーラム『麺(めん)と博多』」が20日、同市早良区百道浜の市博物館講堂であり、200人余りが参加した。市内のそば打ち愛好家などでつくる実行委員会主催。
 同博物館学芸員の鳥巣京一さんが基調講演し、「1241年に僧の聖一国師が中国からひき臼をを博多に持ち込み、製粉技術が広まった」との説を紹介。幕末期には、麦粉などの問屋や菓子店が旧市街の博多部に集中しており、「博多は製粉が集積し、(製粉でできる商品を)消費する地域だった」と語った。
 パネルディスカッションにはそば店「多め勢」の田口俊英店主ら6人が参加。田口さんは関東と関西で、そばやうどんのだしが異なることを例に「めん料理には、地域独特の食文化が現れやすい」と強調した。
 季刊誌「麺の世界」の奥山忠政編集長は、海外に出店したラーメン店などが支持を得ている現状を紹介。「日本のめん料理独特の歯応えやのどごしが理解されつつある。日本の食文化普及において、めん料理の果たす役割は大きい」と話した。





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