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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
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 風が出てきました。午後は吹き降りになるとの予報ですが、東京マラソンご参加の皆さん、沿道の皆さんに難儀なことにならないといいなぁと願いつつ、一部テレビ観戦させていただいています。
 今日は例の岩倉具視宛て書簡が一部公開されたというニュースが中心です。

愛媛
江戸時代に通信添削 宇和島藩士ら、京・大坂に指導仰ぐ江戸時代に通信添削 宇和島藩士ら、京・大坂に指導仰ぐ
 愛媛県宇和島市の伊達家の古文書から、宇和島藩主や家臣らが、京都と大坂の著名な歌人や俳人から通信教育で添削を受けた和歌、俳句などが見つかったことが21日、分かった。国文学研究資料館(東京)の調査員は「江戸期の通信添削の実態や、家臣も文芸をたしなんだことを示す貴重な史料」と評価している。
 宇和島藩は伊達政宗の長男、秀宗が初代藩主。8代藩主の宗城は高野長英を匿い、村田蔵六を世に送り出すなど「幕末の4賢候」と呼ばれた。伊達家の資料総数は約6万点、うち約1万8000点が同市立伊達博物館に保存されている。
 見つかったのは、藩の家老・桜田親翰(ちかもと)らが京都の冷泉家や里村家、さらに大坂の俳句結社として著名だった八千防や一炊庵の宗匠たちから添削指導を受けていたことを示す、懐紙などの諸史料100点余り。
 親翰の和歌には、手直しを受けた歌の部分が張り紙で示されていた。また俳句には朱で添削が書き込まれ、各句の評価を2点から10点まで5段階で評価したことを表す「点印」と呼ばれる印鑑も押されていた。
 同資料館の調査員として日本文学を研究する、湘北短大(神奈川県厚木市)の伊藤善隆准教授(39)は「藩主だけでなく家臣も通信添削を受けており、宇和島の文化が上方文化と密接につながっていたことがわかった。和歌、連歌、俳句、漢詩文の4分野の史料が保存されているのは貴重で、添削指導された生の史料がこれだけまとまって見つかったのはケースは極めて珍しい」と話している。
 また今後の調査で武士と庶民らが身分を越えて、共に俳句の通信添削を受けたことを検証できる可能性もあるといい、伊藤准教授は「伊達家には今回調査できなかった関係史料もたくさん残っている。全容が把握できれば、江戸期の俳諧の変遷をたどるうえでの重要な史料となるだろう」としている。


広島
岩倉あて書簡など一部公開 広島の美術館
 明治新政府の最高指導者岩倉具視(1825-83年)に西郷隆盛や伊藤博文らがあてた書簡など、未発見史料を含む約1700点の文書を所蔵していることが分かった広島県廿日市市の「海の見える杜美術館」が21日、一部を公開した。
 文書を調査している佐々木克奈良大教授(明治維新史)ら歴史学者3人が記者会見。佐々木教授は「歴史を書き換える新事実は見当たらないが、これまで不明だった点の裏付けになる貴重な史料だ」と説明した。美術館は今年8月から一部を一般公開する予定。
 この日公開した書簡や絵画約10点のうち、伊藤の書簡3通は初めて確認された史料。1868年の手紙は天皇の江戸行幸費用について、陸路は莫大で国家財政が破たんするため、大阪から軍艦を使うよう進言している。
 西郷が77年に起こした西南戦争開戦直後の手紙は、説得の勅使を西郷でなく島津久光父子へ派遣するよう主張している。
 文書は、岩倉が幕末から亡くなる83年までに受け取ったとみられる書簡や意見書、絵画など計1692点。明治末から大正初めに岩倉家が手放し、1986年に同美術館が購入。未公開のまま所蔵し、このうち約8割が新出史料という。


書簡:岩倉具視あて、大量に 伊藤博文、節約説く 西郷隆盛、戊辰戦争を報告
◇広島の美術館公開
 明治維新で中心的な役割を果たした岩倉具視(1825~83)にあてた西郷隆盛、大久保利通や伊藤博文らの書簡、意見書など約1700点が21日、広島県廿日市市の「海の見える杜美術館」で初公開された。内容は解析中だが、約8割が新出史料という。奈良大文学部の佐々木克(すぐる)教授(明治維新史)は「史実がより明確に裏付けられる。歴史の再解釈につながる可能性もある」と話している。
 従来、明治政府初期の史料は1960年代までに出尽くしたと考えられており、大量発見は極めて珍しい。同美術館が86年に京都市の古書店から購入し、昨年から調査を始めた。
 書簡類は幕末の1860年代から83年までのものとみられ、明治政府の最高位にあった三条実美の429通や大久保の191通、伊藤の68通、岩倉の書簡草稿128通など。「五箇条(ごかじょう)の御誓文」の草稿とみられる文書もあった。
 伊藤は明治天皇が江戸へ行く際、陸路より経費がかからない海路を勧める手紙を送っていた。佐々木教授は「新政府の財政難を示す」と解説。また「西郷吉之助」(隆盛)と署名された書簡では、西郷が戊辰戦争の戦況を報告していた。
 文書類は岩倉家が手放した手紙や絵画などを、大正時代に大阪の質店主が約300巻の巻物として整理したものだという。同美術館は8月から一部を公開し、2011年の史料集出版を目指す。【井上梢、大沢瑞季】

 「西郷が戊辰戦争の戦況を報告していた」……内容を知りたいなぁ。

書簡:岩倉具視あて1700点初公開 広島の美術館
書簡:岩倉具視あて1700点初公開 広島の美術館
 明治維新で中心的な役割を果たした岩倉具視(1825~83)にあてた西郷隆盛、大久保利通や伊藤博文らの書簡、意見書など約1700点が21日、広島県廿日市市の「海の見える杜美術館」で初公開された。内容は解析中だが、約8割が新出史料という。奈良大文学部の佐々木克(すぐる)教授(明治維新史)は「史実がより明確に裏付けられる。歴史の再解釈につながる可能性もある」と話している。
 従来、明治政府初期の史料は1960年代までに出尽くしたと考えられており、大量発見は極めて珍しい。同美術館が86年に京都市の古書店から購入し、昨年から3年計画で調査を始めた。
 書簡類は幕末の1860年代から83年までのものとみられ、明治政府の最高位にあった三条実美の429通や大久保の191通、伊藤の68通、岩倉の書簡草稿128通など。「五箇条(ごかじょう)の御誓文」の草稿とみられる文書もあった。
 伊藤は明治天皇が江戸へ行く際、陸路より経費がかからない海路を勧める手紙を送っていた。佐々木教授は「新政府の財政難を示す」と解説。また「西郷吉之助」(隆盛)と署名された書簡では、西郷が戊辰戦争の戦況を報告していた。
 文書類は岩倉家が手放した手紙や絵画などを、大正時代に大阪の質店主が約300巻の巻物として整理したものだという。同美術館は8月から一部を公開し、2011年の史料集出版を目指す。【井上梢、大沢瑞季】


ブックレビュー
今週の本棚:五味文彦・評 『幕末史』=半藤一利・著
◇勝と西郷を軸に描く明快な新史観
 幕末維新期は近代日本の出発点にあたるため、その歴史には多くの関心が寄せられ、これまでにも様々な形で取り上げられてきた。本書はこの歴史を「幕末史」として描くもので、快著『昭和史』(平凡社)の著者の待望の書である。
 書名がまず興味深い。徳川幕府の幕末のペリー来航から明治十一年までの二十五年間を扱っているのにもかかわらず、幕末維新史とはいわずして幕末史という。
 それは著者が明治維新という言い方が嫌いなこともあるが、幕末史の流れが明治十年まで続いていたという認識によるもので、維新の新たな動きは明治十年以降になってやっと見えてくると考えている。著者は次のように指摘する。
 明治になってどういう国家をつくったらいいかについて、皆がばらばらでした。スタートにおいては、天皇中心の神国日本の哲学に基づいて国をつくっていこうなどと考えた人はほとんどいませんでした。
 こう語る著者が「維新」の語を嫌うのには明快な理由がある。東京に生まれ、父の故郷が越後の長岡藩にあった著者にとり、薩長史観によって記され、学ばされてきた近代日本の成立史、すなわち維新史などはとても我慢ならないからである。
 そもそも当初は維新などとはいわれておらず、明治二年の頃(ころ)から中国の『詩経』にある維新から称されるようになったのであり、内実は全くそんなものではなく、薩長による暴力革命であって、江戸幕府を転覆させただけのことである。したがってその史観から解き放たれなければならないと説く。
 アジテーターがいて、それに乗っかる多くの不満分子がいて、それらが京都の朝廷(貧乏公家)とうまく結びつき、一見、新しい世界が開けるような幻想のもと権力奪取の運動が広まっていった、それがこの時代の特色じゃないかと思います。
 だがこんな形で自分の史観をはっきりさせ、好き嫌いを表に出してしまうと、通常ならば平板な叙述になる。坂本龍馬などの維新の英雄の評価も著しく低くなってしまい、そのままでは現代の政界の動きを見るように、味気なくなってしまう。
 しかし薩長史観を拒否しても、幕府の体たらくを擁護するものでは決してなく、著者独自の感性と講談調の叙述によって、幕末史の動きや人物を縦横に切りまくって整理しているので、読者を飽きさせることがない。負け犬の遠吠(とおぼ)えにならないような十分な注意も払われている。
 ペリー来航の嘉永六年(一八五三)の「幕末のいちばん長い日」から、十三章の明治十年(一八七七)の「西郷どん、城山に死す」までを描いて、むすびの章では参謀本部創設による統帥権独立の問題を語ってゆく。本書は歴史講座での講義が元になっており、読者はその話を江戸っ子の啖呵(たんか)で聞くうちに、あっという間に読了してしまうことであろう。
 全体の構図としては、幕府の勝海舟と薩摩の西郷隆盛の二人が高く評価され、その二人がいかに登場して活躍するようになり、そしてやがて歴史の舞台から退場してゆくのかを描いているように見受けられる。
 歴史とは人がつくるものとつくづく思います。人と人との信頼が何と大事なことか。勝と西郷、勝とパークス。それが戦乱と化しそうな歴史の流れを見事に押しとどめました。
 つまり江戸を戦乱から救った二人を軸にして幕末史が語られており、ほかに評価されているのは、薩摩の藩主島津斉彬であろうか。その死について「歴史というのは大事な時に大事な人が死んでしまうというか、不思議というしかないのですが」と評していて、時にこうした歴史の偶然に言及した人物評を行なっているのも面白い。
 多くの興味深いエピソードを織り込みながら、人物像の輪郭がメリハリのきいた形で、明快に描きわけられており、しかもこれまでの評価とは違った人物の一面も明らかにされていて、刺激的である。
 ともすれば、幕末史においては、尊皇や攘夷(じょうい)・開国などの政治的主張と志士らの行動を追ってゆくと、そのうちにごちゃごちゃして何がなんだかわからなくなってしまうものだが、それらをあまり深追いせずにすっきり整理しているので、初めて幕末の歴史を知ろうとする読者や、これまでに興味を抱いていた読者にも頭の整理になる。
 また多くの評価がわかれる事件についても整理して語っているが、あまり深入りはせず、自らの見解を記しても、ごたごたと自説を主張しない。どちらでもいいのだが、私はこう思うという形で述べてあっさり切り上げる。この辺りが歴史家のセンス抜群なところである。

 「徳川幕府の幕末のペリー来航から明治十一年までの二十五年間を扱っているのにもかかわらず、幕末維新史とはいわずして幕末史」とか「明治維新という言い方が嫌いなこともあるが、幕末史の流れが明治十年まで続いていたという認識によるもので、維新の新たな動きは明治十年以降になってやっと見えてくると考えている」とか、視点は面白そうで読んでみたいなぁと思います。
 ただ「幕府の勝海舟と薩摩の西郷隆盛の二人が高く評価され」という点は余り従来の史観と変わっていないような。勝海舟の代わりに大久保一翁がクローズアップされていたら、「おおっ」という気になるのですが(苦笑)。その辺りが、すぐにでも買って読み始めようというところまでそそられていない理由かも知れません。

今週の本棚:山内昌之・評 『島津久光=幕末政治の焦点』=町田明広・著
◇「皇政回復」による維新実現の立役者
 島津久光は明治維新の立役者でありながら、兄の斉彬と比べて凡庸な人物と理解されがちであった。しかし、町田氏はこうした通説を斥(しりぞ)け、久光を「不世出の政治家」であり、「類稀(たぐいまれ)なる文化人・文学者」として評価し、斉彬も一目を置くほどの器量の持ち主だったと考える。
 その片鱗(へんりん)は、著者が「久光四天王」と名付ける小松帯刀(たてわき)や大久保一蔵(利通)ら近臣を活用した中央政局への関与にまず現れる。なかでも大久保や西郷吉之助(隆盛)以上に小松こそ、久光の名代として明治維新を実現させたキー・パーソンだったことが重ねて強調されるが、これはすこぶる説得力に富んでいる。
 久光は「皇国復古」という標語のもとに、天皇権威の向上と天皇中心の政治体制への変革をテコに幕末の危機を乗り越えようとした。著者は、学問的に文久期前半の久光らの政策を「皇政回復」として概念化し、慶応期の「王政復古」と区別している。久光は、文久二年から都合四回も時には大規模な兵を率いて入京した。その度に中央政局は大きく転換し、久光はその存在感を次第に強めていった。兵力を率いた入洛(じゅらく)は、幕府との交渉で武威を誇るものでなく、久光らの統制に従わぬ尊王志士の「義挙」つまり武装蜂起を妨げるためだったという。有名な寺田屋事件も薩摩藩内部の抗争の逸話などでなく、幕末政治史の本質にかかわる悲劇だった点が強調される。
 町田氏によれば、寺田屋事件こと「伏見義挙」の挫折は、長州の藩是を破約攘夷(じょうい)に転換し中央政局進出の発火点になり、薩長両藩不和の原因となったのである。久光の粛清は当然長州藩士に及ばなかったために、長州はその後の皇政回復運動の中心に成長したのだ。著者は、これこそ事件の隠れた政治的衝撃だったと言いたいのだろう。久光は一部家臣を排除することで過激志士を嫌いな孝明天皇の信頼を得たが、薩摩の一体性を損なったことは否めない。その間隙(かんげき)をついたのが長州であり、同士討ちをした誠忠組など薩摩の尊王派内部に久光への不満をもたらし、その後かれらの吸引極になったのが西郷でないかと私はにらんでいる。
 明治維新に向けた最終段階の権謀術数に辣腕(らつわん)を振るったのは久光と徳川慶喜であった。しかし、王政復古から鳥羽伏見の戦いに至る革命のクライマックスに久光は居合わせなかった。これで久光の中央政局での役割は終った。氏は久光帰国の理由として、足の疾患、藩内の率兵入洛反対派の説諭のためだったと語る。その名代格の小松帯刀も足痛のために薩摩に帰国していた。重要人物二人が中央政局を留守にしていた時に、回天の大事業が成ったというのは皮肉でもあり、謎めいている。このあたりに西郷や大久保や岩倉具視の詭計(きけい)がなかったのか否かにも興味を引かれる。
 久光が天皇の下で公家や諸侯らの公議政体を構想し新政府の主要指導者になると確信していたと氏は指摘する。幕府や摂関制が廃止されて久光が依拠できる権威の源泉が消えたという説明にも納得できる点が多い。確かに王政復古の政変は久光の練った筋書きかもしれない。
 しかし、久光ほど政治感覚に鋭敏な人間であれば、倒幕の決定と実行の現場に近い所にいなければ、大変革の功労者として手腕を振るえないくらいの政治メカニズムを知っていたはずだ。万一の保険なのかどうか、切所(せっしょ)に際会して権力変動の渦から離れた久光の真意はいぶかしい。読者に多くの想像や疑問をたくましくさせ、文章にも意気込みが感じられる好著である。

 こちらは、名君であった島津斉彬の実質的な後継者でありながら評価が高くなかった島津久光に焦点を当てる、という点で興味深いです。書店で見かけたら手にとって内容を検討したいと思います。






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