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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
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 お彼岸の中日を過ぎた今日は、ちょっと暖かくなった関西です。

北海道
キリン100年振り返る 千歳工場で記念パネル展
 キリンビール(東京)が今年で創立百周年を迎えたことを記念して、同社の歴史や日本のビール文化を解説するパネルが、キリンビール千歳工場(千歳市上長都)に展示されている。
(中略)
 日本のビール文化では、幕末の開国とともに西洋人らにより外国からビールが持ち込まれたころの話、五五年ごろからの冷蔵庫の普及で増加したビールの消費量などを説明している。


栃木
活性化の“本丸”になれる?
『宇都宮城』25日開城

 「宇都宮にシンボルを」と四年前から“築城”が始まった宇都宮城を含む宇都宮城址(じょうし)公園(宇都宮市)が二十五日、正式にオープンする。総工費三十六億円をかけた同市の一大プロジェクトだが、観光収入、宇都宮のイメージアップ、中心市街地活性化といったもくろみ通りの費用対効果が上がるのか。
(中略)
 宇都宮城はかつての「関東七名城」の一つ。江戸初期の城主・本多正純が、日光から江戸へ帰る将軍の暗殺を謀ったという「つり天井事件」が有名だが、これは創作とされる。
 その後、明治維新期の戊辰(ぼしん)戦争などで城は徹底的に破壊され、櫓(やぐら)や土塁、保塁もほとんど失われていた。

 うーん、総工費36億円ですか……元が取れるかどうかは、姫路城の例と比較したコメントを読んでも、疑問に感じます。自分は、土方さんゆかりの地なんで、一度は足を運ぶ予定ですが(苦笑)、どれだけ地元にお金を落とせるかしらん。

千葉
やわたむかし写真館オープン
50年前の八幡海岸“再現”

 京葉工業地帯の一角を占める市原市の八幡海岸。埋め立て地の上に造船所や電機、化学などの大型プラントが林立するこの一帯には、かつて遠浅の砂浜が広がっていた。地元漁協が漁業権を放棄したのが、ちょうど50年前の1957(昭和32)年3月20日。失われつつある記憶を後世に残そうと、地元の八幡公民館で郷土史研究に取り組むグループが、当時の海岸の姿や人々の暮らしぶりを紹介する常設の写真展を企画、同公民館内に「やわたむかし写真館」としてオープンさせた。
(中略)
 近世の八幡は上総国市原郡の中心地。飯香岡八幡宮の門前町、宿場町として発展し、房総半島の内陸部や外房から江戸に運ばれる年貢米の中継基地としても栄えた。明治維新後も交通の要衝であり続け、昭和に入ってからは東京からの日帰り観光地として人気を集めた。八幡宮前の砂浜は干潮時には四キロにも延びたといい、夏には海水浴場や潮干狩り場としてにぎわいを見せた。



滋賀
【湖東】手作り登り窯に火入れ
彦根・湖東焼を育てる会

 幕末に彦根藩の御用窯として栄えた湖東焼を研究するNPO法人「湖東焼を育てる会」(夏川亨介理事長)が、彦根市中薮町の芹川下流に手づくりした登り窯「晒屋(さらしや)窯」で20日、火入れ式が行われた。


愛好家らの短冊や色紙紹介 彦根で「かな書展」
 滋賀県彦根市内の書の愛好家たちでつくる「かなを書く会」(小田輝子会長)主催の「第10回かな書展」が22日、彦根市尾末町の市民会館ギャラリーで始まった。
 国宝・彦根城築城400年祭にあわせ2年ぶりに開いた。
 展示したのは、幕末の大老井伊直弼が詠んだ和歌など彦根にゆかりある作品が多く、会員23人が色とりどりの短冊や色紙にしたため、計174点を発表した。


京都
向日神社 間近に学ぶ
市文化資料館 企画展に合わせ学習会

 向日市文化資料館は20日、京都府向日市向日町の向日神社で、歴史愛好家らを対象にした現地学習会を開いた。市民約60人が参加し、六人部是継宮司から同神社の建物や縁起などについて説明を受けた。
(中略)
 この日、特別に本殿の間近まで立ち入りを許された参加者は、幕末に描かれ、普段は見学する機会の少ない板絵などに熱心に見入っていた。


福岡
シンポジウム:長崎街道の魅力は? 脚本家・市川さん招き--北九州 /福岡
 長崎街道の歴史・文化の魅力を語るシンポジウムが21日、八幡西区東曲里町のホテルクラウンパレス北九州であり、約400人が参加した。
 長崎街道(小倉―長崎、25宿場約224キロメートル)は江戸時代に開かれた九州唯一の脇街道。
(中略)
 九州の道を考え、守る活動に取り組む「道守九州会議」の森将彦事務局長は長崎街道を「維新前はアジアや西洋に開かれた道筋。維新後も石炭産業に利用され、日本の近代化を支えた」と評価。NPO法人門司赤煉瓦倶楽部の竹中康二事務局長も、長崎街道を通って八代将軍・徳川吉宗に献上された白象を取り上げ「関門海峡を渡った時、象は古里を思ったのではないか。北九州にとってこの街道は大きな資源だ」と述べた。


コラム
【ひとすじの蛍火-吉田松陰 人とことば】秋編(25)政(まつりごと)
■「君仁君義なれば、仁義ならざるなし」
 安政5(1858)年に入り、松下村塾の評判は日に日に高まっていった。しかし、偏見がないわけではなかった。
 吉田松陰なる人物が実家・杉家で塾を主宰しているという。だが彼は、幽囚中の罪人ではないのか-。こう考え、松下村塾にかかわることを避ける家庭や、入門するにしても「読書のけいこならよいけれども、ご政事(政治)を議論するのはまかりならぬ」と言い含められる子弟も多かったという。
 これは前年に入門した高杉晋作にしても同じことだった。
 晋作は武勇にすぐれたばかりか、藩校・明倫館でも将来を期待される選良(エリート)だった。加えて高杉家は代々、藩政の中枢に人材を輩出してきた名家である。「豪放で不羈(ふき)な晋作とは正反対の性格」と評された父・小忠太が松陰に入門することを許すはずはない。だから、晋作は夜陰にまぎれて、松下村塾まで往復1時間半ほどの距離を通わなければならなかった。
 「外圧」が高まるなか、国の行く末を案じ、現状を憂える松陰は、一種の政治犯とみられていた。「過激派」とみなしていた人さえいたに違いない。では、その松陰は「政治(政(まつりごと))」そのものついてどう考えていたのだろう。

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