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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
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いくつか幕末関係のニュースを拾ったので、ご紹介します。

北海道
軍艦「開陽丸」進水150年、江差で特別展
 【江差】幕末期に江差沖で沈んだ旧幕府軍の軍艦、開陽丸が今年で進水から150年となるのを記念した特別展が21日、町内の開陽丸青少年センターの今季のオープンに合わせ、同センターロビーで始まった。同船の歴史を紹介している。

 同船は1865年(慶応元年)にオランダ・ドルトレヒト市で進水し、1868年(明治元年)に沈没した。1974年から海中発掘調査が行われ、発見された砲弾など多数の遺物は、同センター近くに原寸大で復元された「開陽丸記念館」に展示されている。

 特別展では、進水式の様子を撮影した写真の複製や同船の構造図など解説パネル60枚が中心の構成だが、分解された状態の米国製拳銃や軍靴など同記念館で常設公開していない実物資料も展示した。特別展は今季営業中開催。同センターは入場無料。記念館は大人500円、小中学・高校生250円。(山田一輝)

会津魂の結晶“緋の衣” 「マッサン」ゆかりの余市リンゴ
 28日に最終回を迎える連続テレビ小説「マッサン」の舞台の一つ北海道・余市は旧会津藩士が明治期に入植し、国内初のリンゴの民間栽培に成功した地。藩士が苦難の末に実らせた品種「緋(ひ)の衣(ころも)」は現在、会津のリンゴ生産農家が栽培し、ジュースに加工している。生産農家は「会津人の苦労を知って」と思いを込める。
 緋の衣は明治初期、産業振興のため米国から輸入され、開拓使が入植者に与えた品種。苦難にもあきらめずに栽培を続けた赤羽源八が初めて結実させた。品種名は藩主・松平容保が孝明天皇から賜った「緋の御衣」に由来。戊辰戦争で賊軍とされた藩士にとって”栄光の証し”といえる。ドラマでは亀山政春が興した会社が会津ゆかりの農家から買い取ってジュースにした。
 緋の衣は現在、会津地方の生産農家6戸でつくる「会津平成りんご研究会」が栽培する。北海道で唯一原木が残る会津ゆかりの農園から譲り受けた枝約30本を接ぎ木して2000(平成12)年に栽培を開始。試行錯誤の末に結実させ、年々収量を増やしている。研究会の白井康友会長(56)=会津若松市、しらい農園園主=は「ドラマで緋の衣が全国に知られた」と喜び、「学校給食に使われることが目標。食を通じて子どもたちに伝えられれば」と思いを語る。
(2015年3月28日 福島民友トピックス)


福島
鶴ケ城の郷土博物館改修終える 1日、全面オープン
 会津若松市・鶴ケ城の若松城天守閣郷土博物館の改修工事が終わり27日、内覧会が開かれた。新たに幕末の会津藩の動向や明治以降に活躍した会津の偉人など、今に伝わる会津武家文化を紹介する。大型観光企画「ふくしまデスティネーションキャンペーン(DC)」開幕に合わせ1日に全面オープンする。
 鶴ケ城天守閣再建50周年記念事業で、これまで入場を規制していた三層(3階)と四層(4階)の改装が終わり細部の調整を進めている。三層では「幕末の動乱と会津」をテーマに、京都守護職就任や鶴ケ城籠城戦など会津藩のたどった幕末の歴史を当時の写真や資料などで解説する。四層には、新島八重や山本覚馬などの偉人20人のパネルを展示した。

東京
近代の「謎」を秘めた山
魚住昭の誌上デモ「わき道をゆく」第117回
1月につづいてまた上野のお山に行った。取り立てて言うほどの目的があったわけではない。西荻のわが家の窓から白い富士の嶺を眺めるうち、上野公園をほっつき歩いてみたくなったのである。

富士山と上野公園に何の関係があるかって? そんなことを訊かれても私にもよくわからない。しいて共通点を挙げるなら、どちらも畏敬の念をこめて“お山”と呼ばれることぐらいだろう。

まだ風が寒い。でも午後の日差しは暖かかった。売店で買ったお握りで腹ごしらえをした後、広さ53haの上野公園を1時間、2時間、3時間と夢中で歩き回った。
30分も歩けばへとへとになるはずなのになぜか平気だ。いつもの足腰の重さをまったく感じない。私はお山の混沌とした魅力に取り憑かれてしまったらしい。

その魅力とは何だと訊かれると、これまた答えにくい。突きつめていくと、近代日本の勝者と敗者の明暗ということになるのだが、それではあまりに漠としている。もう少し具体的にご説明したい。

上野公園にはモニュメントが数多ある。有名なものだけ挙げても西郷隆盛像、彰義隊墓碑、正岡子規記念球場、野口英世像、上野公園の生みの親と言われるオランダ人医師ボードワンの胸像・・・・・・。
それだけではない。不忍池の中の弁天島には石碑がぎっしり並んでいる。ふぐ供養碑、スッポン感謝之塔、暦塚、庖丁塚、鳥塚、魚塚、幕末の剣豪碑、めがね之碑など数え上げると切りがない。


歌川広重の不忍の池の浮世絵---〔PHOTO〕gettyimages
たぶん上野公園は日本一モニュメントの多い場所だ。それだけ人々の思い入れが強いということだろう。その理由は公園の歴史を繙くとわかる。中世の上野の山は忍の岡や忍の森と呼ばれ、多くの歌に詠われた名勝の地だった。

それが1603年の徳川幕府の成立後、江戸の聖地になる。江戸城の東北の鬼門を守り、天下太平を祈願する寛永寺(天台宗)が建立されたからだ。起工から74年後に落成した根本中堂は瑠璃殿と呼ばれる壮麗な大伽藍で、上野の山全域が寛永寺の境内になった。

全山に桜の木が植えられたため花見の名所となり、酒宴を張る人々でごった返した。不忍池畔には今のラブホテルにあたる出合茶屋が軒を連ね、町人だけでなく身分を隠した武士も通った。こうして上野界隈は聖と俗が混在するサンクチュアリと化した。

そのほとんどが幕末の戊辰戦争の最中に1日で灰燼に帰する。1868年、旧幕臣らの彰義隊が上野の山に立て籠もった。長州の大村益次郎が率いる官軍は、不忍池越しに砲弾をぶち込んで彰義隊を撃破、大伽藍を焼失させた。

上野の山が日本初の公園の一つに指定されるのはそれから5年後のことだ。以来、内国勧業博覧会などの国家的行事がたびたび催される一方、関東大震災では住民の避難場所、東京大空襲では焼死体の仮埋葬所になり、戦後は戦災者のバラックで埋まった。上野公園は戦火や震災とともに有為転変を重ねてきたのである。

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午後4時を過ぎ、園内の人影も少なくなりだしたころ、公園西側の東照宮境内に入ったら、意外なものが目に入った。鳩の彫像の中でちろちろと火が燃えている。
被爆者の一人が広島の焼け跡から故郷に持ち帰った「広島の火」と長崎の「原爆瓦」から採火した火を合わせたものだった。壁面には「核兵器をなくし永遠に平和を誓う広島・長崎の火」とあった。

東照宮を出てしばらく歩くと、初代林家三平の妻・海老名香葉子さんらが建てた「時忘れじの塔」にぶつかった。時計の下で遠くの空を見る母子3人の像が立っていた。東京大空襲で亡くなった海老名さんの家族がモデルらしい。


東京大空襲の主力となった戦略爆撃機B29---〔PHOTO〕gettyimages
「関東大震災(大正十二年)東京大空襲(昭和二十年) 東京にも、現在からは想像もできない悲しい歴史があります。今、緑美しい上野の山を行き交う人々に、そのような出来事を思い起こしてもらうとともに、平和な時代へと時をつなげる心の目印として、この時計台を寄贈しました」と記されていた。

上野は、戦争や震災で無念の死を遂げた人々の鎮魂の山だった。
東照宮からここに来る途中のパゴダ(仏塔)の丘にはかつて上野大仏が鎮座していたそうだ。関東大震災でその首が転げ落ち、胴体は戦中の金属類回収令で供出させられた。顔だけは寛永寺の僧侶が境内の檜にくくりつけて隠したので鋳つぶされずにすみ、今もパゴダの脇に安置されている。

このエピソードが語るのは官の統制においそれとは従わない寛永寺の性格だろう。上野の山には国家にまつろわぬ民や旧武士、僧侶らの精神が根付いている。それは、政府が消そうとしても消せなかった歴史の刻印にちがいない。

あまり知られていない話だが、後に靖国神社と呼ばれる東京招魂社は当初、上野の山に創建される案が有力だった。長州閥の木戸孝允が寛永寺の焼け跡を通りかかった際、この「土地を清浄して招魂場と為さんと欲す」(『木戸孝允日記』)との意向を示したからだ。
だが、大村益次郎が自ら指揮した彰義隊との戦の記憶が生々しい上野を「亡魂の地」と敬遠した。結局、幕府の歩兵調練場跡地だった九段坂上が選ばれ、1869(明治2)年6月、仮本殿が落成し、戊辰戦争の官軍戦没者約3600人が合祀された。
それから5年後、上野公園には彰義隊の墓碑が建てられた。以降、旧幕臣の「亡魂の地」であると同時に国家的行事の場でもあるという複雑な性格を帯びながら都市公園として整備されていく。

この日の散策の締めくくりは西郷サンである。彰義隊慰霊碑の前方に立つ高村光雲作の銅像は、身長3・7m、胸囲2・6m。実物(推定身長178㎝)の2倍も大きい。毛ずねの見える単衣に脇差し、愛犬ツンを従え、大きな目玉で虚空をにらんでいる。

西郷ほど民衆の信望を集めた政治家はいない。彼が西南戦争に敗れて自死した後も、人々は夜空に輝く火星を「西郷星」と呼び、彼が中国やインドやシベリアで生きているという噂を信じた。

伝説の英雄をいつまでも野に放っておくのは得策ではないと政府は判断したのだろう。1889(明治22)年の憲法発布にともなう明治天皇の特旨で西郷の賊名が解かれ、正三位が追贈された。
それを契機に薩摩閥を中心に銅像建設に向けた動きが始まり、9年後に完成した。当初案は軍服姿だったが、「逆徒」の経歴ゆえに撤回され、設置場所も皇居前から上野公園に変更された。上野公園は「逆徒」を無害化して「官」の側に取り込む格好の装置としても機能してきたのである。

それにしても、と私は思う。維新最大の功労者・西郷は自ら樹立した政府になぜ反旗を翻したのか。どんな日本を作りたかったのか。夕空に屹立する巨大な銅像が、近代史の謎の塊のように見えた。

*参考:『靖国神社と幕末維新の祭神たち』(吉原康和著・吉川弘文館刊)、『上野公園』(小林安茂著・郷学舎刊)、『西南戦争』(小川原正道著・中公新書)、『地図と愉しむ東京歴史散歩』(竹内正浩著・中公新書)

まつろわぬ者たちの上野
魚住昭の誌上デモ「わき道をゆく」第118回
お花見などで上野のお山に行かれることがあったら、是非、彰義隊の墓を御覧になるといい。西郷サンの銅像の裏手に建っているからすぐに見つかるはずだ。
そこはもともと1868(慶応4)年5月の上野戦争で死んだ彰義隊員(計266人)の遺体を荼毘に付したところだ。16年後に彰義隊生き残りの小川興郷(将軍慶喜の元家臣)らの手で今の墓が建立され、以来120年余、小川一族の手で守られてきた。

墓守の一族の苦労は並大抵のものではなかったらしい。何しろ彰義隊は靖国神社に合祀もされない賊軍だ。西郷隆盛のように没後の名誉回復もなされなかった。「朝敵」の汚名を背負ったまま生きなければならなかったからだ。

彼らが政府から受けた冷遇は墓碑銘が如実に示している。高さ6・7mの大墓石には旧幕臣・山岡鉄舟の筆で「戦死之墓」と刻まれているだけで肝心の彰義隊の3文字がない。つまり上野戦争から16年たっても彰義隊の名を書くことがはばかられたのである。

小川一族にとって救いがあるとすれば、それは彰義隊とともに壊滅的な打撃を被った寛永寺の僧侶たちの配慮だったろう。「戦死之墓」の前に置かれた高さ60cmの小さな墓石を見てほしい。上野戦争の翌年、寛永寺の子院の住職2人が密かに付近の地中に埋納したもので、後に掘り起こされ、今の位置に据えられた。

「慶応戊辰五月十五日 彰義隊戦死之墓」などと記された墓石の裏にはこんな漢詩が刻まれている。

昔時布金地 昔時金地を布く
今日草茫々 今日草茫々たり
誰笑千年後 誰か笑う千年後
却憐古戦場 劫て憐む古戦場

昔は絢爛たる伽藍だったところが、今は草ぼうぼうだ。この変わりようを誰か1000年後に笑うだろうか。いや、かえって古戦場として憐れんでくれるにちがいない―。

漢詩の読みも意訳も私の勝手な解釈だから誤っているかもしれないが、切々とした心情がこめられていることだけは間違いない。

吉村昭さんの『彰義隊』(新潮文庫)によると、上野戦争後、上野の山は彰義隊反乱の地として僧はもとより寺男も出入りを禁じられた。わずかに焼け残った寺が大名家に返還され、住職が帰山届を出し、明治2年2月に許されたが、彰義隊の墓に遺族が参ることは禁じられ、それが許されたのは明治6年末だったという。
いくら何でも酷すぎる仕打ちである。が、裏を返せば、それだけ政府が上野の山を恐れたということだろう。それは一体なぜか。

その訳を探るため上野戦争の歴史を繙いてみよう。始まりは鳥羽伏見の戦いに敗れた将軍慶喜が慶応4年2月、朝廷に恭順の意を示すため寛永寺に入って謹慎したことだ。寛永寺を選んだのは、貫首の輪王寺宮が明治天皇の叔父にあたり、朝廷に一定の影響力を持つと考えられたからだ。

慶喜の期待通り、輪王寺宮は慶喜の助命嘆願に奔走した。が、朝廷軍は強硬姿勢を崩さない。それに憤激した旧幕臣らが結成したのが彰義隊である。彼らは慶喜のいる寛永寺に集結し、その数は1000人余りに上った。

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この彰義隊の存在に困り果てたのが旧幕府の重臣・勝海舟らだ。彰義隊を解散させ、官軍を穏やかに江戸に迎え入れるのが最も望ましい。かといって解散を命じたら、彼らは暴発し、徳川家に恩義を抱く市民も合流して江戸は大混乱に陥る恐れがあった。
そこで彼らを江戸の治安を守るため利用すべきだという意見が出され、重臣一同が賛成した。彰義隊もこの要請に応え、江戸で横行する略奪や辻斬りなどから市民を守るため巡回することになった。

彼らは夜になると、数名ずつ組んで、円に彰の字を描いた提灯を掲げて上野の山を降り、江戸の町々に散っていった。その成果はめざましいものだったらしい。

〈犯罪は激減し、安らいだ夜を持つことを得た市民は感謝し、主立った者が、連れ立って上野の山の屯所に来て金品を差し出すことも多くなった。(中略)町民たちは円提灯をかかげてやってくる隊員たちに茶菓を出し、酒をすすめる者もいる。隊員と町民たちの結びつきは、日増しに強くなっていた〉と吉村さんは書いている。

同年3月14日、江戸に入った西郷と勝海舟の会談で江戸城の無血開城が決まり、慶喜は水戸に隠退謹慎することになった。西郷は江戸の治安維持を勝らに委ねた。
それから江戸に入った朝廷軍と彰義隊の衝突があちこちで起きるようになる。市民らは、乱暴狼藉を働く朝廷軍に敵意を抱き、治安維持の任にあたる彰義隊に喝采を送った。朝廷軍側の首脳は、やがて2000人以上に膨らんだ彰義隊を危険な集団と判断し、治安維持を託した勝に解散を命じた。

だが、彰義隊を支持する寛永寺がこれを拒んだ。寛永寺は単なる寺ではない。上野の山全域を境内とし、その他に寺領1万2000石を持つ大名並みの勢力だ。さらに彰義隊の背後には江戸市民の絶大な支持がある。彼らは彰義隊の屯所に食糧や金品を続々と届けた。
朝廷軍は江戸城を掌中におさめ、江戸に入る諸街道を封鎖していたものの、広大な町は町民のもので権勢は及ばず、完全占拠にほど遠かった。町の治安は彰義隊の力で維持され、その彰義隊を寛永寺と民心が守っていた。端的に言うと、江戸は朝廷軍と彰義隊+寛永寺の二重権力状態だったのである。

こうなると、朝廷軍にとっての最終的な解決策は武力制圧しかない。放置しておけば、同じような事態が全国に広がりかねない。

同年5月3日、奥羽25藩の家老らが集まり、奥羽列藩同盟を結成。その後、越後の6藩も加盟して徹底抗戦を決議した。これをきっかけに朝廷軍は上野への総攻撃を決める。5月15日の上野戦争の結果を改めて書く必要はないだろう。彰義隊+寛永寺勢力は近代兵器を装備した朝廷軍の猛攻を受け、たった1日の戦闘で瓦解した。

上野一帯に散乱した彰義隊員の遺体は見せしめのため野ざらしにされた。長雨で出水した水の中に沈んだり、浮かんだりした。〈やがて梅雨が明け、それらの死体は耕地や道に露出した。すべてが腐乱していて、蝿におおわれ烏や野犬がむらがり、悲惨な様相を呈していた〉(『彰義隊』)という。

国にまつろわぬ民の心を体現した彰義隊は、政府にとって憎むべき存在だった。江戸に潜在する反逆の気運は、彰義隊の記憶とともに上野の山に徹底的に封じ込めなければならない。だから5年半も出入りが規制されたのである。
「戦死之墓」の小墓石にはこんな和歌が刻まれ、当時の上野の山の寂寥とした風景を伝えている。

あはれとて尋ぬる人もなきたまのあとをし忍ぶ岡の辺の塚
(哀れだと思って訪ねて来る人もない魂の跡をこそ偲ばれる、忍の岡=上野の山の墓)

兵庫
姫路城400年、人の力と幸運と 廃城の危機や戦災越えて
 「平成の大修理」を終えた世界文化遺産・国宝姫路城(兵庫県姫路市)の大天守内部が27日から、5年ぶりに一般公開される。築城からおよそ400年。廃城の危機、火災、空襲…。白鷺(しらさぎ)に例えられる美しい姿は、多くの人の尽力と幸運によって守られてきた。今、平成の職人たちの手でよみがえった白亜の城が、未来へと受け継がれる。

 現存する大天守は関ケ原の合戦後の1601年、“西国将軍”と呼ばれた池田輝政が築造に着手した。その8年後、日本城郭建築の最高峰と称される城が姿を現す。

 「継続的な修理で伝統技術が伝えられ、城は維持された」。26日の完成記念式典。文化庁の青柳正規長官がそう強調したように、城の歴史はまさに「修理の歴史」だった。

 当初の姫路城は、優れた防御の工夫で「難攻不落」とされたが、大天守は構造的な弱点を抱えた。基礎の地盤沈下に加え、骨格ともいえる心柱の根元が腐食。完成から約50年後には大規模な修理が行われた。天守の傾きがうわさとなって城下に広まったほどで、歴代城主は修理に腐心した。

 幕末。姫路藩は朝敵となり、西の備前藩の砲撃を受ける。廃城は免れたが、建物の傷みは目を覆うばかりだったという。

 明治期には、地元市民らが「白鷺城保存期成同盟会」を結成。1910~11年、城を管轄する陸軍が緊急修理を行った。34年には本格的な「昭和の大修理」が始まる。

 ところが、日本は戦争に突入し、修理は中断。45年、姫路城下は空襲にさらされ、焼け野原となった。その中で、奇跡的に被害を免れた城を「不死鳥のように見えた」と語ったのは、姫路の詩人大塚徹。その感動を「あゝ白鷺城」などの詩に託した。

 「昭和の大修理」は再開され、大天守を全解体し復元した。今回の「平成の大修理」では、風雨で傷んだ瓦をふき直し、壁の漆喰(しっくい)などを塗り直した。

 「修理を繰り返し、当初の姿を守ったことで世界文化遺産にも選ばれた。世界に、日本の『木の文化』を理解してもらう大きな役割を果たした」。姫路城の歴史に詳しい兵庫県立大特任教授の中元孝迪さん(74)は、そうたたえる。「まさに、永遠の城だ」(仲井雅史)


山口
松陰の自筆史料68点発見 山口・萩
幕末の思想家、吉田松陰の手紙やメモなど、未発表のものを含む自筆の史料68点が山口県萩市で見つかり、松陰の活動や人柄を知る貴重な史料として注目されます。
萩博物館によりますと、萩市に住む女性からおととし以降、市に託されたおよそ1500点の史料の中に、吉田松陰が書いたとみられる手紙などが見つかったということです。
このため明治維新史が専門で広島大学大学院の三宅紹宣教授に詳しい調査を依頼したところ、筆跡などから手紙やメモなど68点が松陰の自筆のものだと分かったということです。
このうち、「写本録」は松陰みずからが松下村塾で写本をして資金を集めていたことが分かる貴重な資料です。
また、松陰らが萩藩主を通じて朝廷を動かし、尊皇攘夷を実行させる計画を書いた草稿は、紙の余白にまで文字が書き込まれていて、紙を大切にする松陰の人柄や、尊皇攘夷に向けて具体策を練っていた様子がうかがえます。
萩博物館によりますと、女性の先祖が松陰の兄の杉民治と交流があり、杉家が保管していた松陰の史料が今回、見つかったとみられるということです。
萩博物館の樋口尚樹学芸専門監は「68点もの大量の吉田松陰の史料が出てきたことに大変驚いている。多くは『吉田松陰全集』にも載ってなく、非常に貴重なものだと思う」と話しています。

沖縄
幕末展、週末にぎわう 浦添市美術館
 浦添市美術館で開かれている「琉球・幕末・明治維新 沖縄特別展」(主催・沖縄産業計画、琉球新報社、共催・浦添市教育委員会)は日曜日の15日、大勢の家族連れや友人同士でにぎわった。
 琉球王国が1850年代にアメリカ、フランス、オランダのそれぞれと締結した琉米・琉仏・琉蘭の3修好条約原本が注目を集めていた。条約原本の展示に熱心に見入っていた照喜名直子さん(67)=那覇市=は「新聞で見ていたが実物を目にして感激した。昔の物が残っていたことがすごい」と語った。
 同展は29日まで。開館は午前9時半~午後5時(月曜休館、金曜は午後7時まで)。入場料は大人千円、高校・大学生700円、小・中学生500円。問い合わせは琉球新報社事業局、電話098(865)5200。
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