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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
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 WBC、リアルタイムで視聴していました。サッカーでもそうですが、個別のプロ団体に特に思い入れがなくても、日本代表には気持ちが入りますね。
 個人的には、長いキャリアの中でも絶不調の時期にありながら、同点延長となった10回表のチャンスで得点したイチローの精神力に敬服しました。どれだけしんどかったでしょうに、そのプレッシャーを跳ね返し、ここぞというところに決める強さ、素晴らしかったです。
 そして、今日届いた『銀魂BEST』……最高です(^^)。いろいろな曲調がありますが、好きな曲が多いのです。

東京
黎明期の作品一堂に 東京都写真美術館が展覧会
 幕末、明治の写真黎明(れいめい)期の作品、資料についての調査と研究を続けている東京都目黒区の東京都写真美術館(福原義春館長)が、近畿地方などを対象にした調査の成果を発表する展覧会「夜明け前 知られざる日本写真開拓史II 中部・近畿・中国地方編」を開催している。
 中部、近畿、中国地方の美術館、博物館、資料館など約2000機関を対象とした調査に基づくもので、展示は一昨年の「関東編」に続く第2期。写真だけではなくカメラ、浮世絵などの資料も紹介している。
 主な作品は、初期の代表的写真家、内田九一による「大阪城から見たパノラマ」、浮世絵の落合芳幾による「魁(さきがけ)写真鏡俳優画」(ともに内田写真蔵)、鈴木真一による「松平春嶽肖像写真」(福井市立郷土歴史博物館蔵)など。「前回は、作品の力を信じたオーソドックスな並べ方だったが、関連する作品も交え、魅せる展示を心掛けた」と同館の三井圭司学芸員は話している。
 5月10日まで。月曜休み。TEL03・3280・0099。
(生田誠)


大阪
弓射るからくり武者人形を復元
大阪の史料研究家

 大阪府寝屋川市の史料研究家、東野進さん(59)が江戸時代の弓を射るからくり武者人形「甲冑弓射り人形」を復元し、24日、同市内で公開した。
 よろいかぶと姿の武者人形は高さ52センチで、金属のぜんまい仕掛け。足元に立てた矢を弓につがえ、顔を傾けて狙いを定め、2・8メートル先の俵に描いた直径約8センチの的を射抜いた。
 そばに腰掛けた武将の人形が「お見事」とばかりに扇でひざを打ち、武者が4本目の矢をつがえると背後の巻かれた垂れ幕が開く仕組み。
 東野さんによると、モデルは発明家、からくり儀右衛門(本名・田中久重)が幕末に製作したからくり人形。明治時代初期に京都の祇園祭で興行したとの記録があり、現在は行方不明という。
 東野さんは約1年半かけて復元。「大阪はからくり人形の本場。なめらかに動かすことに苦労したが、当時の技術の高さを知ってもらえれば」と話した。
 東野さんはからくりの修復や製作を手掛ける第一人者で、2007年に厚生労働省の「現代の名工」に選ばれた。(共同通信)


岡山
卒業式:倉敷芸術科学大で 誇り胸に435人巣立つ /岡山
 倉敷芸術科学大の卒業式が23日、倉敷市連島町西之浦の同大体育館であり、学部と留学生別科、大学院の総計435人の門出を祝った。
 添田喬学長は昨年亡くなった創立者の加計勉・加計学園名誉理事長の業績などに触れ、「幅広い知識と柔軟な思考、判断力を身につけてください」と激励。加計孝太郎理事長は「人の世に、道は一つということはない。道は百も千も万もある」という坂本竜馬の言葉を紹介し、「今は世界的な幕末ともいえる歴史の転換期。竜馬を思い出して自らの能力と可能性を信じて自己実現を」とはなむけの言葉を送った。
 卒業生代表の田村和也さん(産業科学技術学部)は「倉敷芸術科学大の学生であったことを誇りに、将来を見据えながら歩んで行きたい」と決意を述べた。
 この日は倉敷芸術科学大専門学校(伊藤敏夫校長)の卒業式もあり、47人が巣立った。【松倉展人】


佐賀
唐津くんちの曳山…個性的な祭りの華(佐賀県唐津市)
 九州、山口には良きデザインがあふれている。建築や土木構造物など、私たちの日常生活と深く関(かか)わる造形物もあるが、中には祭りや行事の時にだけ見ることができる、地域色豊かなデザインもある。
 唐津くんちは豊穣(ほうじょう)を祝って唐津神社で催される秋の例大祭。11月3日の御旅所への御神幸を中心に、前夜の宵曳山(よいやま)や4日の町廻(まわ)りなど、あらゆる場面で曳山が曳(ひ)かれ、祭りを盛り上げる。かつてはくんちの期間にだけ見ることのできた曳山であるが、現在は祭りが終わると曳山展示場に納められ、一般に公開されている。くんちを彩る伝統の曳山をじっくりと眺めたい。
 曳山は本来、3日の御神幸に際して唐津大明神の御輿(みこし)に従うもの。1819年(文政2年)に作られた赤獅子(刀町)が最初の奉納とされ、それから1876年(明治9年)までに15台が製作、奉納された。明治期に損壊した黒獅子を除いた14台が健在で、今も唐津くんちの華として活躍する。
 愛嬌(あいきょう)のある姿で有名な魚屋町の鯛(たい)、壮麗で巨大な大石町の鳳凰(ほうおう)丸、誰もが知るおとぎ話をモチーフにした材木町の亀と浦島太郎など、どの曳山にも個性と魅力が感じられる。木組みと粘土を使った型の上に和紙や麻布を張り重ね、漆を幾重にも塗り込んで仕上げる一閑張りの製法で作られたという。いわゆる張り子の技術であるが、かけられた手間はその仕上がりを見ればわかる。戦国武将の兜(かぶと)や獅子などのモチーフを大胆に造作し、繊細な漆工の技と配色で仕上げている。展示場に並んだ14台は壮観であるだけでなく、幕末から明治に生きた唐津の人びとがいかに粋で文化的であったかを私たちに語りかけているようだ。
 旅をすれば見えてくる地域の個性や豊かな感性。普段は気にも留めない風景の中に、創造した人びとの情熱や思いが息づいているのである。
(2009年3月24日 読売新聞)




コラム
幕末の風雅 (山口県下関市)
「世を面白く」 晋作の生き様

 「面白きこともなき世を面白く」。数年前、テレビの歴史番組が〈もう一度聞きたい あの人の言葉〉と題して視聴者に向けて行ったアンケートで、1位に輝いたのが右である。幕末志士高杉晋作の辞世の句で、労咳(ろうがい)の死の床でそう詠んだ上の句に、傍らにいた望東尼(もとに)が下の句を付けた。「住みなすものは心なりけり」。望東尼は勤皇の歌人で、同志でもあった。晋作は下の句を聞いて「面白いのう」とつぶやいたという。
 高杉晋作は、1839年(天保10年)8月20日、長門国萩(現在の山口県萩市)に萩藩の二百石取り藩士高杉小忠太、みちの長男として生まれた。藩校の明倫館を経て、松下村塾の門を叩(たた)き、久坂玄瑞、伊藤博文等と共に吉田松陰に学ぶ。さらに江戸や東北への遊学、幕府使節随行員としての上海への渡航により見聞を拡(ひろ)げ多くの偉人と交わった後、尊皇攘夷(じょうい)運動を展開。身分を問わない志願兵による奇兵隊を下関で創設し、長州藩を導いて倒幕に奔走した。剣術にも優れ、小柄な晋作が身の丈の半分もある長刀を佩(は)いていたのも有名な話である。「動けば雷電」(伊藤博文讃)のごとく、短い生涯を鮮烈に駆け抜けたことは今更書くまでもない。しかし一方で、詩歌に秀でていたことはあまり世に知られていない。

 春夢醒如水(春夢醒(さ)めて水の如(ごと)し)
 前秋已回(前(ゆうぜん)秋已(すで)に回(めぐ)る)
 蕭蕭揺落雨(蕭々(しょうしょう)たる揺落の雨)
 曾是促花来(曾(か)つて是花を促して来る)

 雨と題されたこの詩は、秋雨に春の花を思う風雅の心を表している。晋作は27年の短い一生の間に400編を越える詩歌を詠んでいる。幾たびかの戦の折にも道中三味線を携え、時には陣中で詩歌を詠み、三味線を爪弾いたという。晋作に限らず当時の志士たちは皆詩歌や茶を日常的に嗜(たしな)み、風雅に通じていたのだ。晋作を物心両面で支えた下関の廻船(かいせん)問屋白石正一郎にしても然(しか)り。彼らは決して荒くれ者ではなく、竹林の清談を交わすことが出来る同志だった。幕末の潮流の底には、風雅の心が流れていたのだった。

 晋作の下関での日々に寄り添った女性がいる。晋作の思い人おうのである。稲荷町遊郭に近い裏町の堺屋という芸者屋に、此の糸という源氏名で出ていたおうのと晋作が出会ったのは、1863年(文久3年)6月、下関で奇兵隊を結成した頃と考えられている。晋作24歳、おうのは20歳。晋作は翌年、堺屋からおうのを身請けし、上町に住まわせた。それから晋作が亡くなるまでの4年間、おうのは晋作に寄り添い続けた。その間には、外国との戦を5度、幕府との戦を2度交え、さらに藩内での闘争に明け暮れた。晋作が長州藩の俗論派に命を狙われ、大阪から讃岐へ50日間の逃亡の日々を強いられた折も、傍らにはおうのがいた。おうのは三味線や踊りが上手(うま)く、二人はよく三味線を弾き、唄(うた)をうたったという。おうのと晋作もまた風雅でつながっていたのである。
 しかし、晋作に死期が近づくと、おうのの影は晋作から離れる。萩から妻の雅子が看病にやってきたからだ。臨終や葬儀の折におうのがどこでどうしていたかは記録になく、詳(つまび)らかになってはいない。しかし、晋作の死後間もなく、「梅処尼(ばいしょに)」となって再びおうのは晋作に寄り添い始める。「わしが死んだら墓守りになれ」と晋作が言い遺(のこ)していたのだ。晋作の墓は遺言通り吉田の地に建てられ、墓のすぐ傍(そば)に晋作の号を冠した「東行庵(とうぎょうあん)」が結ばれた。梅処尼は初代庵主(あんじゅ)となり、以来自らが没するまでの四十余年を、晋作の墓を守って生きた。梅処という名は、生前晋作から与えられた雅号で、晋作がおうのに贈った手作りの茶杓(しゃく)の銘である。また、庵は山縣有朋から譲られたもので、晋作亡き後も、同志であった伊藤博文、井上馨、山縣有朋、乃木希典などが援助を惜しまなかった。
 かつて吉田は松林の中にあり、狸(たぬき)や狐(きつね)が出る寂しい地だったという。梅処尼は里の子供に三味線や踊りを教えたりしながら、松籟(しょうらい)の中で沈黙を守り、晋作の菩提(ぼだい)を弔い続けた。おうのに関しては「おとなしく従順なだけが取り得(え)の女だった」など、とかくの風評があるが、私はそれを信じない。一国の維新に命を賭けた男がそのような女性を好きになるはずがないと思うからだ。梅処尼は生前、「他人に迷惑がかかるから」という理由で、晋作のことを決して語らなかったという。それが前出のような風評を生んだ一因かもしれない。

 下関に東行庵を訪ねた。梅処尼がくらしていた頃とは違い、松林はなく、代わりに庵の敷地に植えられた200本の梅が盛りを迎えていた。晋作は殊の外梅を好み、一人息子にも梅之進と名付けている。
 雅子とおうの、2人の女性が晋作と過ごした時間は短い。おうのは4年、雅子にいたっては実質わずか数か月である。無私の覚悟で国事に奔走する男を愛した女性の宿命であろう。しかし真に2人が望んだのは、晋作との時間の共有ではなく、志の共有だったに違いない。
 晋作の死から半年後に、大政奉還となった。晋作が見ることのなかった明治維新を、2人の女性はどのような思いで見届けただろうか。2人の墓もまた晋作の墓を挟んで東行庵の敷地にある。
 面白きこともなき世を面白く…幕末の風雲児高杉晋作は、27歳8か月でその生涯を閉じた。日々刃(やいば)の上を歩くような緊迫した幕末という時代を、疾風のように駆け抜けた。私は、晋作の緻密(ちみつ)にして大胆な発想と、繊細にして激烈な行動は、風雅に因(よ)るところが大きいと思う。そしてその爽(さわ)やかな生き様は、梅の花のように馥郁(ふくいく)たる香を今の世にも放っている。

梅香る風の切つ先触れてより まどか

取材協力(敬称略) 野村忠司、安冨静夫、東行庵

物産  下関を代表する味覚のフグは地元で「ふく」と呼ばれ、市内に50軒以上の料理店がある。シーズンは冬だが、養殖ものは年間を通じて味わえる。下関港は調査捕鯨船の母港で、鯨料理が楽しめる店も20軒を超える。
 伝統工芸品では、赤間関硯(あかまがせきすずり)が有名。赤色岩で作られ、和硯の最高級品とされる。フグの身を取り出し、天日干しして作る「ふく提灯(ちょうちん)」は、愛嬌(あいきょう)のある表情の土産物。
観光  JR下関駅に近い市中心部の唐戸地区では毎年5月、姉妹都市ひろばを主会場に「しものせき海峡まつり」が開かれ、40万人近い観光客らでにぎわう。壇ノ浦の戦いに敗れて入水した安徳天皇をまつる赤間神宮では、生き延びた女官が天皇の命日に参拝したことにちなむ「先帝祭」があり、地元の舞踊協会のメンバーが花魁(おいらん)姿で市内を練り歩く「上臈(じょうろう)道中」も行われる。
アクセス  山陽新幹線・新下関駅で下車し、JR山陽線に乗り換えて下関駅へ。「ひかり」を利用した場合は、新大阪駅から約3時間。高速バス(夜行)なら、大阪・梅田から下関駅まで約10時間。
(2009年03月24日 読売新聞)






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