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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
幕末ニュースの続きです。

コラム
 会津に詳しい作家・中村彰彦さんのコラムです。
[八重と幕末会津](1)会津若松城籠城戦を戦い抜く
「戦う女」八重の獅子奮迅の働き

 新島八重 - 旧姓・山本八重は、幕末の弘化2年(1845)に会津藩の砲術(銃術)師範の家に生まれ、会津戦争では当時最新鋭の7連発式スペンサー銃を手に活躍。明治以後は京都に移ってキリスト者となり、同志社大学を設立する新島襄と結ばれ、共に理想の教育実現に努めます。さらに日清・日露戦争では従軍看護婦として働くなど、その一生を「公」のために尽くした人物でした。

 彼女を表現するのに、「幕末のジャンヌ・ダルク」「ハンサム・ウーマン」「日本のナイチンゲール」などという言葉が使われるのは、このような八重の生き方を反映してのものです(ちなみに、「ハンサム・ウーマン」とは、新島襄が八重を「生き方がハンサム」と評したことに由来します)。

 その八重が明治44年(1911)に、男装して腰に刀を差し、銃を持って掲影した写真があります。八重は会津若松城に籠城する際、鳥羽伏見の戦いで斃れた弟・三郎の形見の衣服をまとい、断髪して戦い抜いていますから、これは往時を偲んで撮った1枚にほかなりません。

 この写真で注目すべきは刀の差し方です。普通、刀は鍔が帯に当たるまで深く差し込み、鐺(刀の鞘の末端)が下に下がる差し方が多いでしょう。しかし八重は、刀の柄をかなり前に出しています。帯から鍔までにゆとりがなければ、すぐに鯉口を切る(刀を抜くために鍔を左手親指で押し出す)ことができないからです。しかも、刀身をほぼ水平に横たえています。これは刀を抜いて即座に斬る「抜即斬」の構えです。つまりこの写真は、女性がたまたま刀を差したものではなく、八重が実戦を知る「戦う女」だったことを如実に示す1枚なのです。

 膂力がなければ刀を存分に扱うことも、重たい銃を射撃することもできませんが、八重はすでに13歳の時、四斗俵(重さ60キロ)を肩まで4回も上げ下げできたほどの腕力の持ち主でした。後年の写真を見ても、腕は太く、胸に厚みがあり、どっしりした臼のような腰をしています。晩年に「今の世なら運動選手になったかもしれない」と述べるほど、運動神経も優れていました。

 日本には「女武者」の伝統があります。『平家物語』に登場する、木曾義仲に従った巴御前。強弓を引いて鎌倉幕府軍と戦った越後の板額御前。戦国時代、立花道雪の一人娘で女城主となった立花誾千代……。江戸時代の各藩にも、常日頃から腰に大小を差して奥殿に仕え、いざというときは戦う「別式女」「帯剣女」「刀腰婦」と呼ばれる女性たちがいました。この系譜を見れば、「鉄砲」を扱う女性が出てきても不思議ではありません。八重は、父も兄も砲術師範ですから習うより慣れろで銃術を習得していったのでしょう。

 八重は、会津若松城の籠城戦で大活躍します。ことに西軍(新政府軍)が城下に侵攻してきた慶応4年(1868)8月23日には、多くの藩士たちがまだ国境で戦っており、城内は老兵や婦人、子供ばかりでした。しかも会津藩の装備はゲベール銃など旧式銃中心でしたから、八重が7連発式のスペンサー銃を手に獅子奮迅の働きをしなければ、城の北出丸は突破され、たった一日で落城の憂き目にあったかもしれません。

 その日、攻め込んで来たのは土佐藩と薩摩藩の砲隊でしたが、土佐藩兵の死傷率はかなり高く、また、薩摩藩の砲隊を率いていた大山厳も足を撃たれています。土佐藩兵や大山を撃ったのも、銃の性能から考えると八重であった可能性が高いのです。

会津藩の「教育」の凄み

 ところで会津藩には、八重のように銃で戦わずとも、中野竹子をはじめ薙刀などを手に敢然と戦った女性たちが数多くいました。会津戦争の大きな特徴は、男性藩士はもちろん、女性たちや子供たちも極めて勇敢に身を処したことにあります。なぜでしょうか。その大きな理由は教育にありました。

 会津藩の教育は、有名な「什の掟」から始まります。6歳から9歳までの藩士の子供(男子)が同じ町内で10人前後の集まり(什)を作り、次のような掟を唱えるのです。

一、年長者の言ふことに背いてはなりませぬ。
一、年長者には御辞儀をしなければなりませぬ。
一、虚言を言ふことはなりませぬ。
一、卑怯な振舞をしてはなりませぬ。
一、弱い者をいぢめてはなりませぬ。
一、戸外で物を食べてはなりませぬ。
一、戸外で夫人と言葉を交へてはなりませぬ。
 ならぬことはならぬものです」

 「什」に入らない女子も、同じ雰囲気の中で成長したことはいうまでもありません。

 さらに藩士の男子は10歳になると藩校・日新館に入学します。ここで最初に学ぶのが『日新館童子訓』という教科書です。5代藩主・松平容頌が編纂したもので、人として大切な倫理を、その具体例となる古今の逸話を通して学べる構成になっていました。

 たとえばその第34話では、戦国時代の筑前の武将・高橋紹運が島津の大軍に城を攻められ降伏を勧告された折に、「人生は朝露が日差しに消えるようにはかないもので、ただ長く世に残るのは義名だけと存ずるにより、降参つかまつらず」と答えて最期まで戦い抜き、城の士卒1800人も1人も逃げずに運命を共にした故事が書かれています。

 この他にも忠義については、南北朝時代に大塔宮の身代わりに切腹した村上義光や、節義を全うした楠木正成・正行父子などが紹介されています。もちろん書かれているのは「忠義」ばかりではありません。親孝行の具体例として、会津藩内の実話も数多く収録されています。「それぞれのシチュエーションで、武家としていかに行動すべきか」がしっかりと教育されていたのです。

 会津藩の凄みは、この教科書を木版刷りにして、藩士の全戸に配布していたことでしょう。そのため女性たちの多くも、この本を暗誦できるほどに読み込んでいました。八重も晩年に至るまで『童子訓』を暗誦し、籠城の苦労を乗り越えられたのは教育のおかげだと語っています。会津戦争で女性や子供が義を貫き通したのは、まさにこの教科書があればこそだったのです。

 ちなみに会津藩祖・保科正之が家訓に「婦人女子の言一切聞くべからず」と書いたことから、会津藩では女性を蔑視したように思われる向きもありますが、それは大きな誤解です。この家訓はあくまで、藩主や家老はじめ為政者が、女性の寝物語のおねだりにほだされて政治を左右することを戒めるものであり、いま述べたように会津藩の女性たちも、武家としていかに行動すべきかを学んで、積極的に生きていたのです。


[八重と幕末会津](2)京都で新たな人生を切り拓く
なぜキリスト教の道に入ったか

 八重は会津戦争を戦い抜いた後、京都に移り住んでキリスト教の洗礼を受け、新島襄と結婚します。どんな経緯で京都に移って襄と出会い、新たな人生を切り拓いたのかは別稿に譲るとして、ここでは、なぜ八重がキリスト教の道に入ったのかを考えてみましょう。

 実は明治以後、会津藩士やその子供の中でクリスチャンになった者はそう珍しくありませんでした。藩が敗亡し、それまで信じてきた価値観が壊されてゆく中で、「それを超える大きな価値観」に惹かれる部分があったのでしょう。

 会津藩では先述の教育を通して、藩主への忠義と親への孝を中心とする倫理的価値観が組み立てられていました。にもかかわらず敗戦と廃藩置県で主君を喪失し、親も戦死――そんな状況に置かれた会津人がキリスト教の絶対的な神に救いを求めたのは、よくわかる気がします。さらに「己の良心のみに従う」キリスト教の倫理観は、維新以後、「勝てば官軍」の論理で理不尽にも賊名を被った会津人の心を支えてくれるものだったでしょう。

 そして会津の人々は、会津戦争であまりに大きな悲劇に直面しました。家族や友が血しぶきの中で死んでゆく死屍累々たる光景を見て、死とは何か、生きるとは何かを考え抜かざるを得なかったはずです。キリスト教では、霊魂は不滅で、死ねば天国で愛する者たちと再会できると教えます。この教えは、数多くの悲痛な死に接した会津人たちにとって、大きな救いになったのかもしれません。

 八重は日清・日露戦争では従軍看護婦を務めています。実は明治以後、八重だけでなく多くの会津女性たちが、看護婦の道を選びました。その理由は、いま述べたことの裏返しでしょう。会津の女性たちは籠城中、自分の帯の芯までほぐして包帯代わりとし、負傷兵を手当てしますが、薬も医学的知識もない中で、彼らが死んでゆくのをただ見守るしかできませんでした。彼女たちは強烈な無力感に打ちのめされていたはずです。

 その無念を晴らしたい、という思いが会津の女性たちにはあったのではないでしょうか。禁門の変から戊辰戦争まで、3000名余の会津人が犠牲になった代わりに、明治以後の看護学の基礎ができあがったとも言えるのです。

胸に「誇り」を抱いていたからこそ

 もう1つ、八重にとって大きかったのは、敬愛する兄・山本覚馬の存在でした。

 若き日に江戸に留学して佐久間象山や勝海舟らに砲術などを学んだ覚馬は、その先端知識を生かして幕末の会津藩で活躍。戊辰戦争中に薩摩藩に捕まり軟禁されますが、挫けずに「管見」という先見性と具体性に富んだ提言書を提出し、それを見込まれて維新後は京都の近代化に尽くします。覚馬の力は大変なもので、明治政府が学制を発布する前から、京都では小学校が設立されていました。さらに彼は石鹸、ガラス、陶磁器、清涼飲料水など様々な工業製品の研究・製造を進めた京都舎密局や、養蚕場、伏見製鉄所などを開設。その後の京都産業界の礎を築きます。そして、新島襄が同志社大学を設立するのを大きくバックアップしたのも覚馬でした。

 八重と覚馬は、言いたいことをはっきりと言い、芯の通った生き方を貫き、しかも付き合うと決して嫌なタイプではないという点で、よく似た兄妹です。八重の強さ、先進性、積極性は、どこか「この兄にしてこの妹あり」と感じさせます。

 八重もいち早くキリスト教徒となり、新島襄と結婚した後は、派手な洋装で西洋的な「レディファースト」の姿勢を実践。守旧的な京都人から後ろ指を差されることさえありました。

 明治以降の彼らは、傍目にはまるで西洋かぶれであるかのように見えたかもしれません。しかし、そんな彼らを支えたのは、「武士として恥じることのない生き方」を貫いてきた会津人としての誇りだったのではないか、と私は思います。八重が後年、会津戦争当時の格好をした写真を撮らせていることからしても、「自分は苛酷な会津籠城戦を戦い抜いた女だ」という誇りをずっと胸に抱いていただろうことがわかります。そして、その「誇り」があったからこそ、力強く新たな道を踏み出すことができたのではないでしょうか。

 八重の生き方は、私たちに「とてつもない挫折から立ち上がる強さとは何か」「自分らしさを貫く力とは何か」「気持ちよく、堂々と生き抜く清々しさとは何か」を強く訴えかけます。そしてそのために、いかに「自分自身への誇り」が重要かも教えてくれるのです。

 いかに生きるか、そして、そのために自分が誇りとすべきものは何か。彼女の人生に触れつつ、そのことを考えてみてはいかがでしょうか。


会津戦争がもたらした 八重の家族・それぞれの道/歴史街道編集部
 鳥羽伏見の戦いで、兄・覚馬は行方不明(処刑されたと伝えられた)、弟・三郎は戦死 ―― その悲報で幕を開けた「八重の戊辰戦争」だったが、会津戦争によって、さらなる悲劇に見舞われることになる。

 61歳の父・権八は、50歳以上の藩士で構成された玄武隊に所属して連戦していた。しかし、南方の兵端を断つベく攻めてきた西軍(新政府軍)と激突した一ノ堰で、遂に戦死する。降伏間近の9月17日のことであった。

 降伏開城すると、藩士は猪苗代、そして東京で謹慎を命じられ、女性や老人、子供は塩川(喜多方市塩川)から喜多方周辺の農家に当面住むように命じられる。八重と母佐久、兄嫁うら、姪みねの4人もしばらくはそこに滞在していたようだが、その後、米沢に移った。会津に留学して川崎尚之助に砲術を師事していた米沢藩士・内藤新一郎が、山本家の窮状を見かねて援助の手を差し伸へてくれたのである。

 やがて覚馬が京都で生存していることがわかり、一家は明治4年(1871)、京都へ向かうことになる。しかしそこに覚馬の嫁うらの姿はなかった。その時すでに京都では、身体が不自由になった覚馬を時栄という女性が献身的に支えていた。京都で覚馬が開いた洋学所に学んだ丹波郷士・小田勝太郎が、目の不自由な覚馬のために、自分の妹・時栄に身の回りの世話をさせたのがきっかけだというが、八重たちが京都に向かった年には、久栄という娘も誕生している。恐らくうらは、自ら身を引く決断を下したのであろう。

 また、八重の最初の夫、川崎尚之助もいなかった。尚之助は会津戦争の頃には会津藩士になっていたらしく、他の藩士と共に謹慎した後、会津藩が再興を許された地・斗南(青森・下北半島)に向かったのである。なぜ八重たちを連れず、単身で斗南に向かったのか。藩士に取り立ててくれた会津藩への恩義を感じつつ、しかし蘭学者らしい合理的精神で斗南での苦労を予見し、当座、かつての弟子で米沢藩士の内藤に家族を預けたほうが安心と考えたのだろうか。

 とはいえ酷寒の地、斗南の苦境は尚之助の想像さえはるかに超えた。藩士の餓死の危機を脱するために、尚之助はデンマーク領事で商人でもあったデュースから広東米を調達しようとする。しかし、仲介した日本人貿易商が契約を履行せず、尚之助はデュースから損害賠償の訴訟を起こされてしまった。藩を巻き込むことを恐れた尚之助は、すべての罪を一身にかぶり、東京での司法裁判に臨むのである。八重とはこの時に離緑したのだろうか(一説に会津戦争前後に離緑ともいう)。

 八重と共に京都に向かった母佐久と姪のみねのその後にも触れておこう。

 佐久は因循なところが全くなく、八重の受洗に続いて明治9年(1876)末にキリスト教の洗礼を受ける。そして同志社女学校の舎監を務め、女子生徒たちに実の祖母のようにやさしく接し、「山本のおばあさま」と慕われた。

 みねも佐久と共に洗礼を受けた。後に同志社女学校を卒業。同志社兵学校第一回卒業生で横井小楠の長男である横井時雄と、明治14年(1881)に結ばれる。だが、明治20年(1887)、長男の平馬を出産後、病死する。

 時代の激動に翻弄された山本家。明治以降の八重たちの歩みの陰には、一人ひとりのドラマがあったのである。

《『歴史街道』2013年2月号より》


八重の初婚相手「川崎尚之助」、相次ぎ書籍化 米沢との関わりなど紹介
 NHK大河ドラマ「八重の桜」のヒロイン新島八重の初婚相手・川崎尚之助。謎も多かったその生涯が、新史料の発見で明らかになり書籍化などが相次いでいる。川崎は米沢藩士にとって砲術の師匠で、米沢との関わりや市立米沢図書館の史料の存在も含めて紹介されている。

 川崎の生涯を描いているのは、戊辰(ぼしん)戦争後の消息や先祖などに関する新史料を見つけた歴史研究家あさくらゆうさんの著作と、八重の再婚相手・新島襄が創立した同志社大の元職員竹内力雄さん(京都市)の論文。

 それによると、川崎は今の兵庫県豊岡市に当たる出石藩出身で、米沢出身・大木忠益の江戸の塾で八重の兄・山本覚馬と知り合い、会津藩蘭(らん)学所の教授となった。戊辰戦争では妻八重と共に鶴ケ城に籠城して戦ったが、敗戦後に離別。八重は京都で、兄の知人の新島襄と再婚した。

 戊辰戦争後の川崎の消息は不明で、「会津を捨てて逃げた」とも言われていたが、あさくらさんが札幌市の北海道立文書館で見つけた記録で、藩士として会津藩再興先の斗南藩(青森県)に移住、藩のため米を調達しようとしてトラブルとなり裁判中、責任をかぶったまま東京で死亡した事が分かった。会津のために尽くした末の最期だった。

 米沢藩士では、八重が母らと1年間世話になった内藤新一郎、後に海軍文官となった小森沢長政らも川崎の弟子だった。小森沢の実家は内藤家に近く、あさくらさんは「小森沢の実兄の宮島誠一郎(官僚・政治家)が、京都に出向いた際に覚馬に母や妹八重の居場所を教えた可能性は高い」とする。

 あさくらさんは1年がかりで川崎の古里豊岡市など全国を回り、米沢図書館では内藤ら米沢藩士が会津での開戦直前、八重の実家に寄宿していた事を示す史料も発見した。川崎の子孫も突き止め、「川崎尚之助と八重―一途に生きた男の生涯」(知道出版、1575円)にまとめた。

 竹内さんも、独自の調査とあさくらさんの発見を基にした論文を「会津人群像第22号」(歴史春秋社、1260円)に掲載した。米沢図書館に残る内藤の日記原文も紹介した内容で、小冊子「八重の夫・川崎尚之助の真実」(500円)にもまとめて同志社生協ブック&ショップ=075(251)4427=で販売している。


坂本龍馬暗殺 真犯人は? 幕末史上最大の謎…幕府、新選組、薩摩、長州の名も
【関西歴史事件簿】

 慶応3(1867)年11月15日午後9時ごろ、シーンと静まりかえった河原町の醤油(しょうゆ)屋、近江屋からバタバタという音とともに「こなくそ!!」という叫び声が響き渡った。騒ぎは一瞬で収まったが、2階の8畳間にはひとりの土佐脱藩浪士が血を流して倒れていた。坂本龍馬だ。

 龍馬は頭など34カ所に傷を受けてすでに死亡していた。ペリー来航以降、鎖国体制が崩れて諸外国の圧力が強まる中、弱体化した幕府に代わる新体制づくりに奔走した龍馬は、33歳という短い一生を終えた。

 事件はこんな形で進んでいった。

 襲われた近江屋2階は屋根裏で、天井は低い。夕刻から盟友・中岡慎太郎の訪問を受けた龍馬は風邪気味のため軍鶏(しゃも)鍋を食べようと近くの本屋の峰吉に肉を買いに走らせた。

 その直後、十津川郷士を名乗る2人の男が「龍馬に会いたい」と、元力士の使用人、山田藤吉に申し出てきた。龍馬に取り次いだ後に2人を先導して階段を登っていた矢先、藤吉が後ろから斬られる。

 藤吉の崩れる大きな物音に、龍馬は「ほたえな(ふざけるな)」と声をあげると、いきなり部屋の襖が開き、2人男に斬りつけられたのだ。

 額を斬られた龍馬。今度は刀のある床へ向いて背中を斬られる。傷は浅く何とか刀までたどり着くが、刀を握る龍馬の頭上から刀が振りかかってきた。
鞘(さや)で払おうとするも不幸に鞘が天井に当たり、除けきれずに頭に深傷を負う。これが致命傷になる。中岡も隣の屋根に逃げたが28カ所に傷を負い、2日後に亡くなる。

 軍鶏肉を手に近江屋に戻ってきた峰吉の知らせで、龍馬の仲間が大勢駆けつけたが、犯人の姿はすでになかった。

 誰が龍馬を“やった”のか。これだけ有名な事件にもかかわらず犯人は分かっておらず、諸説が飛び交い、幕末史上最大のミステリーといわれる。

 最も有力視されているのは幕府の京都見廻組与領(くみがしら)の佐々木只三郎(旗本)とその部下。このほか新選組の原田左之助、薩摩藩の中村半次郎らの名前があがり、少数派ながら長州藩、土佐藩説もある。

 近江屋は四条河原町から北へ徒歩数分。龍馬のいた母屋は現在の河原町通の上に建っていたことから、当時の道路は現在の通りの東側歩道と同位置、同幅(約4メートル)。この結果、河原町蛸薬師交差点近くに建つ事件の石碑周辺がまさに殺害現場にあたる。

 石碑と現場がここまでピタリとくるケースは、結構珍しい。(園田和洋)

エンターテインメント
別花に菅野文の新選組シリーズ、「紅茶王子」新作予告も
本日2月26日に発売された別冊花とゆめ4月号(白泉社)にて、「オトメン(乙男)」で知られる菅野文の集中連載「誠のくに」がスタートした。

「誠のくに」は菅野が新選組を描くシリーズの、8年ぶりとなる最新作。幕末の会津藩の歴史を題材とした検定試験「会津幕末歴史検定」が3月17日に開催されることを記念して、連載がスタートした。また今号の付録は、菅野のイラストを使用した大判ポストカードセット。「誠のくに」のほか「北走新選組」「凍鉄の花」といった、新選組シリーズ過去作のイラストも使用されている。

なお山田南平「紅茶王子」の新シリーズが、4月26日発売の別冊花とゆめ6月号にて集中連載としてスタートすることが発表された。ファンは続報を楽しみに待とう。

 「誠のくに」コミックス化を心待ちにしております。

三谷幸喜、『渡辺晋賞』受賞「ずっと好きなことをやり続けてきた」
 脚本家の三谷幸喜氏が2日、都内で行われた『第8回渡辺晋賞 授賞式』(渡辺音楽文化フォーラム主催)に出席した。大衆文化の発展に貢献したエンターテイメント業界のプロデューサーを選考対象とし、年1回、顕彰。三谷氏は「ずっと好きなことをやり続けてきて、今ここに立てているのがうれしい」と受賞を喜んだ。

映画『清須会議』の出演者が大集合

 三谷氏は舞台・映画・テレビと多くのメディアの脚本を手掛け、映画監督、舞台演出、そして出演とマルチな役割をこなしながら、「三谷ブランド」と称される軽妙洒脱なエンターテインメント作品を創出し続け、多くの人の心をとらえてきた。そのプロデュース力が評価された。

 三谷氏はスピーチで「『刑事コロンボ』が大好きで、『古畑任三郎』に繋がって、新選組と大河ドラマが大好きで大河ドラマ『新撰組』に繋がりました。子供のころから柴田勝家や丹羽長秀といった武将が好きだったのですが、そこから、柴田勝家が主役の『清州会議』(11月公開)という映画に繋がりました」と最新作もしっかりアピール。

 授賞式には三谷氏の翻案・演出の舞台『桜の園』に出演したタレントの青木さやかが祝福に駆け付け、花束を手渡した。

■過去の受賞者(敬称略)
第1回:亀山千広(フジテレビプロデューサー、代表作『踊る大捜査線』)
第2回:鈴木敏夫(スタジオジブリプロデューサー)
第3回:本多一夫(本多劇場グループ代表)
第4回:松浦勝人(エイベックス・グループ・ホールディングス代表取締役社長)
第5回:秋元康(AKB48プロデューサー)
第6回:三枝成彰(作曲家・音楽プロデューサー)
第7回:大里洋吉(芸能事務所・アミューズ会長)

 三谷さん、おめでとうございます。なお大河は『新選組!』です……よくある間違いですが。

ややこしい? “幕末大河”同じ俳優が別役で出演
NHK大河ドラマは放送中の「八重の桜」を含めてこの6年間で3本も幕末ものだ。2008年が「篤姫」で、10年は「龍馬伝」。

 しかも、1週間に放送されるテレビドラマはいま、民放とNHKを合わせると、相当の数にのぼっている。

 したがって、お気づきと思うが、“幕末大河”に同じ俳優が別の役で出演しているケースが目立つ。使い回しとは言わないが、いかがなものか…なんてことは全然思わなくて、オヤジ、そのことを逆に楽しんで「八重の桜」を見ている。WBCの壮行試合と重なろうが「八重」優先だ。

 筆頭が生瀬勝久。「龍馬伝」で吉田松陰、「八重の桜」では勝海舟。どっちも幕末の偉人の代表格だが、「八重の桜」で松陰(小栗旬)の処刑の報を聞いて海舟(生瀬)が悲嘆する場面はややこしかった(笑)。

 八重の兄・山本覚馬(西島秀俊)との2ショット場面にもニヤリ。生瀬と西島はフジの連ドラで映画化されたばかりの「ストロベリーナイト」でも共演している。竹内結子ひきいる警視庁捜査一課殺人犯捜査十係“姫川班”の活躍を描く警察ドラマで、西島は姫川班のメンバー。姫川主任を密かに思う二枚目だ。かたや生瀬はヘンな大阪弁をつかって姫川班にちょっかい出す捜査仲間。2人がチョンマゲ結って真面目に“ニッポンの夜明け”を語るのだ(笑)。

 「八重の桜」で八重(綾瀬はるか)の幼なじみの貫地谷しほりは、一緒に長刀の稽古に励むが、「龍馬伝」では北辰一刀流千葉道場の娘で、腕に憶えのある龍馬(福山雅治)をこてんぱんに打ち負かしていた。だから、貫地谷が長刀を握ると、免許皆伝の腕前に見えてしまう(笑)。

 その綾瀬ときたら「JIN-仁-」の印象が強すぎ、会津の山本家に吉田松陰が泊まったときも2人が初対面のようには見えなかった(笑)。(新橋のネクタイ巻き)

 私なんぞ生瀬さんは『新選組!』の殿内さんです。

恋愛SLG「新撰組恋遊戯~幕末幻想異聞~」がGREEとかれぺっとで配信に
愛か誠か、生か死か。
動乱の京都に芽吹く、甘く切ない恋の花――
「新撰組恋遊戯 ~幕末幻想異聞~」
女性向け恋愛シミュレーションゲーム
「GREE」「かれぺっと」にて配信開始!
ジグノシステムジャパン株式会社(本社:東京都千代田区、代表取締役社長:沼尻 一彦)は2013年2月27日(水)に、ソーシャルネットワーキングサービス「GREE」「かれぺっと」にて、女性向け恋愛シミュレーションゲーム『新撰組恋遊戯 ~幕末幻想異聞~』をフィーチャーフォン版・スマートフォン版同時に配信開始いたしました。

『新撰組恋遊戯 ~幕末幻想異聞~』とは、あなたが主人公となって、誠の志のもとに生きる新選組隊士たちとの恋愛を楽しむ、女性向け恋愛シミュレーションゲームです。

<ストーリー>
元治元年、京都。
病弱な弟を救うため、長州藩の間者となったあなたは、命令により新撰組に近づくことに。
しかし、彼らに隠されたある「真実」を知った時、あなたの運命は、否応無く因果の渦中へと巻き込まれていく。

誠を貫く男達と共に駆け抜けたその先で、淡い恋の花を咲かせるか、それとも徒花となって儚く散りゆくのか。

決めるのは、あなた次第――

<ゲームの特徴>
ゲーム中の選択肢に正解したりアバターを獲得することで、彼との「好感度」が上がります。好感度によって物語が分岐し、それぞれのエンディングを迎えます。物語の途中には「蜜月ルート」が発生することも。「蜜月ルート」は、いつもより甘く胸の高鳴るシチュエーションが楽しめる、スペシャルストーリーです!また、好感度がアップするアバターには、可愛いアイテムがいっぱい! ガチャで手に入る美麗アバターで、トータルコーディネートも楽しめます。

 キャラデザインが『薄桜鬼』に似過ぎ……大丈夫かと思うぐらい(汗)。
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