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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
 ども、白牡丹です。去年までは花粉症じゃなかったのですが、今年の大量花粉飛来にくしゃみ、かゆみ目、鼻水を発症しております(涙)。昨日の落語会でもふたつみっつくしゃみを連発し、皆様にご迷惑をおかけしました……今日は外出を控えております。

北海道
【3/9】歴史講座「箱館戦争~開陽丸と五稜郭の調査から」
函館の歴史を語るときに、欠かせないテーマが箱館戦争。幕末から明治維新にかけての激動の時代、その歴史遺産である開陽丸と五稜郭についての歴史講座が、函館市中央図書館で開催されます。

発表者は、長年発掘調査や復元整備を担当してきた博物館学芸員。また、26人の学芸員が、インターネット上でリレー形式の日替わり投稿記事も展開中。歴史ファン必見の、幕末維新や箱館戦争に関する興味深い話を読むことができます。⇒こちらから

郷土学講座・歴史編「箱館戦争~開陽丸と五稜郭の調査から」
日時 2013年3月9日(土)14~16時
会場 函館市中央図書館視聴覚ホール(五稜郭町26-1)
内容 江差沖から引き揚げられた開陽丸
    五稜郭の調査からわかった箱館戦争
定員 150名(先着順)
受講料 無料。資料代200円
問い合わせ 道南ブロック博物館施設等連絡協議会事務局
(市立函館博物館内 0138-23-5480)

 文中にリンク貼りましたが、道南ブロック博物館施設等連絡協議会ブログの幕末維新・箱館戦争関係の記事が何気にマニアックで面白いです。「大脱出」「同心たちの箱館戦争」「旧幕府軍兵士と鷲ノ木の住人たち」「箱館戦争と写真」など史実ネタから、「箱館戦争と化け猫伝説」「土方はタンポポを見たか?」といった意外性のある記事まで、いろいろと楽しめます。

幕末の水田開発 詳細記す 江差
 
【江差、厚沢部】檜山南部有数の穀倉地帯である厚沢部川流域の水田地帯。幕末期に始まったその開発の詳細が分かる史料が、昨年8月に江差町教委に寄贈された。当時の松前藩家臣が記したもので、町教委の宮原浩学芸員は「江戸時代の水田開発に関する文献が少ない道内では貴重」という。町教委は、2日の江差学講座で解説する。

 史料は、松前藩の江差役所の役人、脇新左衛門(1816~没年不明)が記した藩の書類や日記帳など194点。札幌市在住の子孫が寄贈した。藩が1859年(安政6年)から始めた厚沢部川流域の水田開発は、これまで概要は知られていたが、詳細は不明だった。

 宮原学芸員によると藩の大規模水田開発はこの時が初めて。当時、蝦夷地(えぞち)の大部分を直轄化した幕府が現在の函館や北斗周辺で水田開発に着手。道南の一部を領地としていた藩も、交易税以外の収入源を確保するため、稲作事業を本格化させたらしい。

 史料では、開発区域は河口付近の江差町水堀から、内陸の厚沢部町館(たて)まで広範囲にわたる。開始後8年で水田面積は計126ヘクタールと、東京ドーム約27個分の広さに及んだ。

 稲作のノウハウがなかった藩は、越後(新潟県)の農民に移住を呼び掛けた。移住者の優遇措置を記した「開墾規定書」では、男1人につき金3両の手当や、年貢は5年間納めなくていい、など好条件が書かれている。移住者は数年間で数十戸。越前(福井県)の農民も加わり、今も子孫が居住している。

 江差学講座は2日午前10時から町文化会館で開催。藤島一巳学芸員解説の「江差の文化財保護のあゆみ」もある。申し込みは町教委社会教育課(電)0139・52・1047へ。(山田一輝)


福島
八重と覚馬がつないだ“縁” 京都、会津若松商議所が協定締結
 東日本大震災からまもなく2年。被災地の復興を産業面から支援しようと、京都商工会議所は会津若松商工会議所(福島県会津若松市)と1月、相互交流に関する協定を締結し、今年を「相互交流Year」として、産業や観光など多彩な分野で交流活動を展開する。両商議所の間で交流の機運が急速に高まったカゲには、両市を舞台にした今年のNHK大河ドラマ「八重の桜」のヒロイン・新島八重と、京都の発展に寄与した兄、山本覚馬の兄妹の存在があった。

 そもそもの発端は震災の復興支援。関西広域連合の支援の取り組みで、京都府が福島県の担当だったことから、京商は1カ月間、福島商工会議所に職員を派遣するなどの支援活動を続け、現地との関係が深まった。

 そうこうしているうちに、今年の大河ドラマが両都市を舞台とした「八重の桜」であることもあって、昨年4月に会津若松会議所の首脳が京都を訪れた際、「ドラマ放映に合わせて交流活動を、という話が持ち上がった」(京商産業振興部)という。

 京商は京都ブランドの発信を目的に、毎年東京と地方都市で1回づつ「京都ブランドフォーラム」を開催しており、こうした縁で昨年11月に会津若松市で開催。交流の機運が急速に高まり、具体的な話が進んだ。

 ドラマのヒロイン・新島八重は会津若松の出身。戊辰戦争で会津藩が敗戦したのち、兄の山本覚馬を頼って京都に入り、同志社大学の創設者である新島襄と結ばれる。その生き様は「ハンサム・ウーマン」と称された。

 一方、兄の山本覚馬は幕府の要請で京都守護職に就いた会津藩主・松平容保とともに京都に入り、紆余曲折を経た後、京都府顧問として京都の近代化に大きな役割を果たし、初代の府会議長に就任した。

 新島襄の同志社大学創設の舞台裏には、山本の働きがあったとされる。また、山本は京都博覧会の開催など産業振興の面でも大きな足跡を残し、明治18年5月から11月まで、京商の第2代会長(当時)を務めている。こうした“深い縁”があっては、いやがうえにも交流の機運は高まろうというもの。関係者の“熱い思い”も十分想像できる。

 京都の近代化を進め、政治家、経済人としても活躍した山本覚馬。同志社設立を支えた新島八重。この兄妹は京都の近代化を支えた立役者だ。「被災地は依然、風評被害が大きい。京商として最大限の支援活動をしたい」(京商産業振興部)。京商としては“恩返し”の思いがあるようだ。

 1月に会津若松市内のホテルで開かれた調印式には、京商から立石義雄会頭ら35人、会津若松会議所から宮森泰弘会頭ら70人が出席。京都、会津若松の両市長も出席し、立石会頭は「交流を着実に実行し、絆を深めていきたい」とあいさつ。宮森会頭は「震災復興の原動力になる」と応じた。

 調印式には立会人として会津松平家第14代当主の松平保久氏が出席。「ご本人のたっての要請もあって、両市のつながりについて特別講演をしていただいた」(京商産業振興部)という。

 両商議所は視察団を結成し、お互いに派遣。経営者の交流を促進して被災地の産業・観光復興を後押しするほか、京都で会津若松市の物産展を開催し、現地商品の販売にも一役買いたいという。

 また、両市とも歴史が深いだけに「優れた伝統工芸品でも交流事業を考えたい」(同)。両者の間で具体的な交流事業の内容やスケジュールを詰め、順次実施していくことにしている。

 新島襄、八重夫妻や山本覚馬が駆け抜けたのは、幕末から明治、昭和へと、日本が近代化に向かった激動の時代だが、1世紀以上も昔の人々が今の両商議所を結びつけたことを思うと…。“縁”とは不思議なものだ。(佐久間史信)


新島八重の生き方学ぶ 国学院大創立130周年講演 郡山
 国学院大創立130周年記念講演は23日、福島県郡山市の開成山大神宮参集殿で開かれ、NHK大河ドラマ「八重の桜」のエグゼクティブ・プロデューサーの内藤慎介氏が講演した。 
 国学院大院友会県中通り支部と国学院大院友会の主催。福島県出身の新島八重の生き方を学び、東日本大震災で被災した県民が復興する一助になればと企画した。 
 会員を含め約120人が参加した。内藤氏は「八重の桜」をテーマに、戊辰戦争で敗れた会津藩側から光を当てていくことで、歴史には残らなかった事実が見えてくると強調した。制作の裏話を交えながら、「八重はもちろん、八重の兄・山本覚馬ら大勢の偉人がいたことを知ってほしい」と呼び掛けた。 


大河ドラマ「八重の桜」の会津若松市、ドラマ効果で観光は「雪解け間近」
NHKの大河ドラマ「八重の桜」が始まって1カ月あまり。主演の綾瀬はるかが演じるのは、同志社創立者である新島襄の妻・八重。物語は八重が生まれ育った福島県会津若松市を舞台としている。

その会津若松市だが、現在、観光需要の減少が問題となっている。平成21年の観光客数が約340万人だったのに対し、平成22年は約270万人、平成23年は約230万人と、2年連続で落ち込んでしまうという結果に。大きな要因は修学旅行生の激減によるものだそう。

さらに詳しい内容を、会津若松観光物産協会の統括本部長、渋谷民男さんに聞いてみた。
「東日本大震災の前は、多くの学校(県外841校、県内240校)に修学旅行として足を運んでいただけたのですが、平成23年度に訪れた県外の学校は100校にまで落ち込みました。我々も専門の推進委員を3人用意いたしまして各地の学校を回り、今年中に何とか400校には戻したいと考えています」

しかし修学旅行生に比べると、一般の観光客は戻りつつあるのだそう。会津若松の観光地や温泉(東山温泉、芦ノ牧温泉など)への、観光客の回復状況を教えてもらった。
「震災前と比べまして、一番の観光地である鶴ヶ城は9割くらい。その他のところは6割程で、全体としては7割程度にまで回復しています。温泉は規模の大きいところは宣伝に力を入れることができるので、戻りが早かったようです」

さて、これまでも大河ドラマの舞台となると、観光地として一気に注目を集めたケースは多いが、会津若松市はいかがだろう?
「まだ雪が残っていますので、これから車での訪問がもっと増えると考えています。雪が解けてからが本番というところでしょうか。今後も大阪の大丸梅田店をはじめとして、お客様に会津若松関連の素敵なものをプレゼントしたり、各地で物産展などを開催して、広くアピールしていきます」

会津若松では、大河ドラマにちなんで戊辰戦争前後のイベントが続々と企画・開催されていれる。
鶴ヶ城天守閣では、「幕末武器類紹介」(1月18日~4月8日)が開催中。そのあとには「~幕末特集~会津人 戊辰戦争のまえとあと」(4月12日~9月30日)が開催予定。また会津新撰組記念館では「山本(新島)八重と鉄砲展」が今年の12月まで開催されており、會津藩校日新館では「山本覚馬と妹・八重」が4月から開催予定となっている。

「八重の桜」にゆかりのあるイベントを満喫したあとは、東山温泉でゆったりと湯に浸かる。そんな楽しみ方ができる会津若松市は、今年の観光名所として注目を集めるに違いない。

■会津若松観光ナビ
http://www.aizukanko.com/


栃木
展示:大田原藩と戊辰戦争展、那須与一伝承館で /栃木
145年前の大田原市の歴史に光を当てる「大田原藩と戊辰戦争」展が、同市南金丸の与一伝承館で開かれている。3月24日まで。

 大田原藩は1万1400石の外様大名で、1600~1871年、藩主14代にわたって歴史を刻んだ。戊辰戦争では新政府軍側についたため1868年、大田原城は旧幕府軍の会津藩の攻撃を受けた。
 会場では、攻撃が迫って城を脱出したという14代目藩主の〓丸(としまる)(後の勝清、当時7歳)の写真や戦況を報告する「太政官日誌」や、大田原藩士が付けた3種類の袖印、古地図、書簡など約40点が展示されている。
 3月3、17日には展示解説がある。入館料は高校生以上は300円(10人以上の団体は250円)。中学生以下は無料。問い合わせは同館(電話0287・20・0220)。【柴田光二】


千葉
ひな飾り:14代将軍徳川家茂の正室・和宮が所有 佐倉・国立歴史民俗博物館で展示 /千葉
 3日のひな祭りにちなみ、佐倉市の国立歴史民俗博物館で、第14代将軍徳川家茂(いえもち)の正室となった皇女和宮(かずのみや)が所有していたというひな飾りが展示されている。御所のある京都で作られた内裏びな人形2体と江戸で作られたひな道具をセットに飾っていたとされ、幕末動乱期に「公武合体」のため天皇家から将軍家に嫁いだ和宮の生涯を垣間見ることができる。31日まで。

 和宮は仁孝(にんこう)天皇の第8皇女として京都に生まれた。対立する朝廷と幕府の関係を修復するため、将軍家に降嫁。幕末から明治維新にかけて波乱の生涯を送ったことで知られている。
 和宮のひな飾りは徳川将軍家とその子孫に受け継がれ、文化庁に寄贈された。内裏びなは高さ約16センチと小ぶりだが、「一番御位よろしきの故 小さくとも上位にならべること」とされ、徳川宗家に伝わった数多くある人形のなかでも特に大切に扱われた。同館の澤田和人准教授は「(政権を朝廷に返した大政奉還後も)徳川家存続に力を尽くした和宮の伝来ということで、大切にされてきたのだろう」と分析する。
 内裏びなは朝廷や公家が行う儀式で着る装束を着用。特に女びなの上着は、和宮が京都で織らせた自身の着物と同じ模様をしており、人形自体が和宮の分身として京都で作られたと推測されている。
 一方、約80点あるひな道具は、江戸上野池之端(現東京都台東区)にあった有名なひな人形店「七澤(ななさわ)屋」が制作したとされている。一枚一枚に文字と絵が描かれた幅約1センチの小倉百人一首や、面が1ミリ四方にも満たないさいころ、幕末に流行したガラス製の器など精巧なミニチュアが並ぶ。
 ひな祭りは江戸時代に入って広まり、装飾はその時々の流行を取り入れながら豪華になっていったという。特に七澤屋の品は「家が建つほど高価なぜいたく品」と言われ、大名家などが求めたが、現在はほとんど残っておらず、展示のひな道具は江戸時代の工芸技術の高さを知る貴重な資料だ。澤田准教授は「肉眼ではなかなか見えない所にまでこだわっており、じっくりと見てほしい」と話している。【味澤由妃】
3月3日朝刊


山梨
黒駒勝蔵の実像に迫る 笛吹で企画展 山梨
■「時代を動かしたアウトロー」

 江戸時代末期、駿河の清水次郎長の好敵手として、東海一円に名を知られた甲州の博徒、黒駒勝蔵(くろこまのかつぞう)の潜伏先を記した古文書が見つかった。勝蔵がなぜ博徒として大きな存在になったかを示す貴重な史料の一つとして、勝蔵の実像を解き明かす県立博物館(笛吹市御坂町成田)の企画展「時代を動かしたアウトローたち」(産経新聞甲府支局など後援)で展示され、話題を呼んでいる。

 ●潜伏先を記した古文書見つかる

 無宿 勝蔵

 同 綱五郎

 右両人其外(そのほかの)もの共者(どもは)当時駿州吉原在(ざい)

 宮島村重吉事(こと)年蔵与申(ともうす)もの之方江(のかたへ)

 八月下旬罷越候由(まかりこしそうろうよし)…(以下略)

 新発見の古文書「無宿勝蔵・綱五郎動静ニ付書置(つきかきおき)」は人づてで届いた勝蔵の所在を示す手控え(メモ書き)。先祖が村役人だった笛吹市内の民家で見つかり、勝蔵と子分の綱五郎の所在について「吉原(静岡県富士市)の宮島年蔵方を8月下旬に訪れた」という内容が書かれている。

 駿河との間で物や人の往来が盛んだったことから、富士川舟運や鎌倉往還などをめぐり、勝蔵と次郎長の対立は激しかったとされる。甲州を拠点としていた勝蔵だが、度重なる抗争で代官所の取り締まりが厳しくなり、活動の主軸を甲斐国外に移すようになっていった。アウトローだった勝蔵の居所は“極秘”で、所在を示す史料は珍しいという。

 古文書は勝蔵の潜伏先を次郎長の本拠、清水(静岡市清水区)からも近い吉原と明かしているが、年号の記述はない。年蔵は次郎長と対立する博徒で、次郎長の伝記にも名が登場するという。

 無宿は一族に迷惑をかけないため戸籍を抜けたという意味。勝蔵は天保3(1832)年、現在の笛吹市の生まれ。25歳で無宿人となり、官軍に属して戊辰戦争にも参戦。明治4(1871)年に博徒時代の罪で斬首された。

 明治初期の山梨県史綱抄録(こうしょうろく)(国立公文書館蔵)に勝蔵が逮捕された際の口述書があり、子分の綱五郎の名も出てくる。同博物館の高橋修学芸員は「粗末な紙に記された手控えだが、勝蔵の実像を知る重要な史料」とした上で、勝蔵が博徒として名をはせた背景に、動静を伝え合う「使い」(メッセンジャー)や庇護者の存在を指摘する。約4年前、民家から持ち込まれた古文書約3000枚を高橋学芸員らが読み込む中で見つかった。

 アウトロー(無法者)を企画展で扱うことについて、高橋学芸員は「タブーへのチャレンジだが、博徒は当時の物流を陰で支え、文化的素養のある人も少なくなかった。歴史の本質を探る上で避けて通れない存在」とし、「当時の甲州の“大親分”の多くは明治維新前後に処刑されたり抗争で死んだりして血脈が途絶えたため、歴史として客観的に見つめ直せる」と話す。このほか、勝蔵と次郎長の肖像画、次郎長自筆の書簡など約80点を展示。3月18日まで。詳細は同博物館(電)055・261・2631。



新潟
三条市が体感ツアーバスを計画 八十里越の秘境楽しんで 新潟
 三条市は、開通前の国道289号八十里越を利用し、福島県只見町側に向かう「秘境八十里越体感ツアーバス」を初めて計画している。八十里越は作家、司馬遼太郎の小説「峠」の舞台になり、戊辰戦争に敗れた長岡藩の河井継之助が敗走したルート。負傷して担架に乗せられた河井が「八十里こし抜け武士の越す峠」と自嘲の句を詠んだことで知られる。同市は「バスツアーを通し、289号の早期開通に向けて機運を高めたい」としている。

 新潟・福島県境の289号八十里越は事業区間約20キロ。国土交通省と新潟・福島両県の施工で平成元年に着工したが、トンネルが計14本あり、冬の半年間は工事ができず、厳しい地形条件もあって難工事が続き、供用開始の目標年度などは定められていない。県境の9号トンネル(3173メートル)は22年11月に貫通し、昨年は工事用道路などを利用して只見町の商工関係者が新潟側を訪問、早期開通をアピールした。

 ツアーバスは6月中旬から11月上旬にかけ、毎週2回、計約40回の定期運行を目指す。三条市の道の駅「漢学の里しただ」を出発し、新潟側の渓谷美などを楽しみ、9号トンネルを抜けて只見側の雄大なブナ林などを見学した後、Uターンする半日コース。雪解けや工事の状況、天候などによりコースの変更などもあるという。

 また、同期間中に数回、江戸時代に八十里越の交通を取り締まったという只見町の叶津口留番所(かのうづくちどめばんしょ)跡、同町の河井継之助記念館まで足を延ばした後、国道252号を魚沼市側に抜けて三条まで戻る特別コースも企画する予定。

 三条市営業戦略室は「八十里越は優れた見どころがいっぱいある。なかなか訪れることができない秘境を堪能してもらい、八十里越ファンを増やしていきたい」と話している。




京都
気のゆるみが悲劇招く? 殺生禁じた洛中でなく、洛外に潜んだ龍馬  
 京都では幕末の当時、天皇が君臨する洛中では捕物や殺生はやらないというのが、暗黙の了解にあった。このため、奉行所の役人たちは洛中で犯人の後をずっとつけて、洛外に出たところで逮捕、あるいは切り倒していたというのだ。

 幕末の兵法学者、佐久間象山が殺害された高瀬川周辺や新選組を一躍有名にした池田屋はまさに洛外だった。当時、東の京極が寺町通だったため、寺町通の東側に建っていた近江屋は洛外にあたる。

 龍馬も殺害される前年の慶応2(1866)年、伏見・寺田屋で奉行所の役人に襲撃されて重傷を負った苦い経験から、襲撃に対する心構えは十分できていたはず。

 龍馬が身を潜める近江屋は土佐藩御用達の商人で、河原町通をはさんだ向かいには土佐藩邸があった。さらには母屋の隣の土蔵で寝起きをし、いざというときには、隣の誓願寺に逃げ込むはしごを用意していたというほどの警戒ぶりだった。

 現在、河原町蛸薬師の交差点を東に入ったビルの一角に建つ岬神社は土佐藩邸内にあったことから、「土佐稲荷」の名前で知られている。ここから殺害現場の石碑までは数分とかからない。

 だが、龍馬はこの日、風邪気味のためか、母屋2階の8畳間で火鉢にあたりながら中岡慎太郎と話し込んでいた。とはいえこの8畳間も2階西端にあたり、刺客が階段を上がったとしても別の部屋もあり、簡単に攻撃を受けない位置にはあった。

 龍馬が無血による政権交代を願って奔走した「大政奉還(幕府が朝廷に政権を返上)」が実現した直後ということもあり、何らかの気のゆるみがあったのかもしれない。

 犯人については、関係者の証言から京都見廻組与頭(くみがしら)の佐々木只三郎(たださぶろう)▽犯人が叫んだ「こなくそ」の方言から薩摩藩士▽現場に残った刀の鞘から新選組・原田佐之助▽武力による倒幕を訴えた長州藩-など。

 黒幕には、無血による政権交代を好まない英・スコットランドの武器商、トーマス・グラバーらの名前があがるなど諸説あるが、いずれも確証なく、謎に包まれたままだ。(園田和洋)


京丹波の隕石も注目を 幕末に落下、今は東京の博物館に
 ロシアの隕石(いんせき)が話題を呼ぶなか、京丹波町曽根で幕末に落下した隕石が再び注目を浴びている。石質隕石としては日本で3番目の重さで、府内では唯一確認されている落下隕石だ。現地には複製や記念碑も残る。地元住民は「これを機に、丹波でも隕石が落ちたという歴史を広く知ってほしい」と話している。

 「宇宙から丹波町への贈物」。現在の京丹波町曽根地区にある隕石記念碑には、そう刻まれている。1993年、周辺のほ場整備完成に合わせて、府が設置した。そばには強化プラスチックで作られた隕石の複製が置かれている。

 地元の古文書によると、1866(慶応2)年6月7日、曽根地域の麦畑に落下したと伝わる。「天に大砲を発するがごとき二音あり」と記されている。隕石は地元の代官家で代々保管されていた。現在は府が所有し、寄託を受けた国立科学博物館(東京都台東区)で常設展示されている。幅29センチ、高さ18センチ、重さ17・1キロで、かんらん石、輝石、鉄とニッケルの合金などからできている。

 隕石を一時預かっていた庄屋の子孫の岩崎孝雄さん(72)は、区長だった5年前、曽根区公民館近くに「曽根隕石の地」と記した看板を設置した。岩崎さんは「ロシアの映像を見て、ここの隕石もあんな感じだったのだろうかと想像している」と語る。

 1992年11月に府立丹波自然運動公園で特別展示されたほかは、地元で実物を見る機会はほとんどない。記念碑の近くで農地を耕す奥山義雄さん(75)は、「最近は地元でも隕石を知らない人が多いだろう」と残念がり、「学校で子どもたちにも教えてほしい」と願っている。


広島
文化審答申:岩倉具視資料、重文指定へ 幕末〜明治の書簡など /広島
 廿日市市にある「海の見える杜美術館」所蔵の岩倉具視関係資料約1700点が27日、国の文化審議会から重要文化財に指定するよう答申された。幕末から明治の激動の時代を伝える1級の資料群で、専門家が調査・分析を進めている。

 資料は同館の前身が86年に京都市の古書店から購入。西郷隆盛や大久保利通、伊藤博文らが岩倉に宛てた書簡や意見書など。これまで知られていなかった資料も多く、政治史研究上の価値が高い。

 資料の研究を進める佐々木克・京都大名誉教授が今回確認した資料では、新政府の会議(閣議)出席者の押印がある議案や決議書面があった。

 新政府は、王政復古の大号令で「至当の公議をつくし」、五箇条の御誓文で「万機公論に決すべし」と、「公議公論」をうたった。しかし政策決定過程を巡る資料はなく、「薩長討幕派の専制政府」とも言われた。

 見つかった資料は、議論を経て政策決定をしていたことをうかがわせる。例えば、「自ラ良策アルベシ」などとする公務人の心得についての議案書では、木戸孝允、松平慶永、福岡孝弟ら5人の押印があった。さらに忠死者の祭祀(さいし)についての議案書には、大久保利通ら13人の押印があった。

 佐々木名誉教授は「公議公論が単なるスローガンではなく、実践されていたことがよく分かる」と話している。【寺岡俊】


山口
「歴女」が維新の里、萩市で幕末談議
 山口県萩市で23、24日、歴史好きな女性「歴女」が交流する「幕末・維新girl’sサミット」が開かれた。参加者は幕末の雰囲気が残る城下町を着物姿で散策し、歴史談議に花を咲かせた。

 市が助成する町づくり事業の一環で、昨年12月から参加者を募集。全国から13~69歳の44人が集まった。サミット関係者は「SNSやブログなど、歴女同士の情報交換は盛ん。サミットで輪が広がれば、さらに市をPRできる」と期待する。

 サミットでは、普段は観光客が入れない、坂本竜馬ゆかりの道場や吉田松陰が教えた松下村塾にも特別に入った。幕末史や松陰の思想について講義を受け、ワークショップでは人物や藩ごとに意見交換。維新の志士の中で特に人気の高い、萩出身の高杉晋作の話題では「大胆さと繊細さのギャップがたまらない」などと、人間性について白熱した議論が交わされた。

 神奈川県から来た山崎菜々子さん(28)は、「(萩出身の)伊藤博文が一番好き。新しい友達もできて、すごく楽しい2日間だった。また萩に来たい」と笑顔で話した。(共同)


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