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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
先週外出した時に転んで左手の平に大きな青あざをつくってしまいました。まだ握力が戻っておらず、右手首骨折から回復したばかりの右手よりも握力が落ちている状態。またペットボトルで飲み物を購入した時は店員さんに開けてもらう日々に戻りました、くすん。まぁ骨や腱に異常はなさそうなので、一週間もすれば軽くなると思います。

「戊辰」事業4月1日から本格化 式典やクイズラリー
 戊辰150年の記念事業は4月1日から会津若松市内で本格化する。市戊辰150周年記念事業実行委員会は同日、鶴ケ城天守閣前でオープニングセレモニーを催すほか、クイズラリーなどをスタートし、市を挙げて観光誘客に取り組む。
 セレモニーでは実行委員会長の室井照平市長らがテープカットし記念事業の幕開けを宣言する。クイズラリーは県立博物館、白虎隊記念館などの観光名所10カ所を巡ると、正解数に応じて抽選で温泉宿泊券などが当たる。
 さらに、スマートフォンなどで利用できるアプリケーション(アプリ)「AR幕末の会津若松」の機能を拡充する。現実の風景に架空の物体を重ねて映し出す拡張現実(AR)を活用し、幕末に京都守護職を務めた会津藩主松平容保公らを模したアニメキャラクターが音声と文章で観光地を紹介する。各キャラクターと記念撮影ができる場所を5カ所から18カ所に増やし、動画撮影にも対応する。
 鶴ケ城天守閣では幕末の息吹を伝える収蔵品展が始まる。会津若松観光ビューローの主催。「松平容保と京都守護職」と題し、京都での動乱を巡る資料を展示する。
 5月19日は会津大で奥羽越列藩同盟と会津をテーマにした歴史シンポジウムを催す。歴史コメンテーターや仙台、米沢、長岡、鶴岡の歴史関係者らを招く予定だ。7月28、29の両日には白虎隊士飯沼貞吉に焦点を当てた「オペラ白虎」を上演する。会津まつりが開幕する9月22日は記念式典を実施する。

(2018/03/30 12:19)

「AR幕末の会津若松」機能拡充 街並みや風景、アプリで再現
 拡張現実(AR)の技術を活用して、会津若松市が配信しているスマートフォン、タブレット向け無料アプリ「AR幕末の会津若松」の機能が拡充された。

 アプリは戊辰150年を記念して開発され、昨年4月に配信が始まった。会津若松市の鶴ケ城天守閣、鶴ケ城本丸、日新館跡、西郷頼母邸跡、飯盛山の5カ所のAR撮影スポットでQRコードを読み込むと、幕末当時の街並みや風景がCGで再現できる。

 また、幕末に活躍した会津藩主松平容保(かたもり)や家老西郷頼母、山本八重、会津にゆかりが深い新選組の土方歳三、斎藤一、白虎隊の篠田儀三郎がキャラクター化されており、機能拡充により、幕末キャラの音声で観光スポットを紹介するようになった。現在地から観光スポット周辺までのナビゲーションも可能。

 また、看板が設置されたAR撮影スポットでQRコードを読み込むと幕末キャラと一緒に撮影できたり、顔だけを自分の画像にして撮影できる。動画撮影も可能になった。
佐倉藩・二大噺~<義民>佐倉惣五郎と幕末の老中・堀田正睦~謎多き「直訴の農民」と開国にほんろうされた幕閣
高崎 哲郎
<義民>の実像
私は柏市に移り住んで以降、千葉県が生んだ古今の歴史上の人物に関心を持ち、その生き様を確認する旅を続けている。<義民>佐倉惣五郎はその中の一人であった。成田市、佐倉市などのゆかりの地を訪ね文献にもあたってきた。藩主堀田氏(佐倉藩)の圧政に抗議し将軍に直訴して妻子もろとも処刑にされ怨霊となった惣五郎。正義・人道のために一身をささげる<義民>の姿が歌舞伎・講談・浪曲の一大ヒットとなり民衆のヒーローとなった惣五郎。だが史実となると、確認できる文献は少なく、存在否定説も含めて諸説紛々としているのだ。将軍への直訴や処刑後怨霊になったとの説話は、実は惣五郎の死後ほぼ2世紀も経った江戸後期に創作されたものなのである。そこで『佐倉惣五郎』(児玉幸多)や「歌舞伎 東山桜荘子」(高橋敏氏ら鼎談)などを参考にして<義民>の実像と虚像に迫ってみたい。

佐倉惣五郎(生年不明 ― 承応2年8月3日・西暦1653年9月24日没)は、佐倉城下の下総国印旛郡公津(こうづ)村(現成田市台方)の名主だったようである。姓は木内氏、俗称は宗吾や惣吾とされる。堀田氏時代の公津村名寄帳(なよせちょう、土地台帳)によって「惣五郎」という富裕な農民が実在していたことは確認されている。

惣五郎の処刑後半世紀ほど経った正徳5年(1715)に編まれた「総葉概録」(堀田氏の後を受けた佐倉藩主稲葉正往の命により藩儒磯辺昌言が編纂)には、(1)堀田藩主時代に公津村の「総五」が何らかの罪によって処刑されたこと(2)「総五」が冤罪であると主張して城主を罵りながら死んだこと(3)藩主堀田氏の改易(1660年)が「総五」の祟(たた)りとみなされたこと(4)祟りをおさめるため「惣五宮」という祠(ほこら)が藩によって建てられたことが記されている。が、惣五郎が農民の窮状を憂えて将軍に直訴したことを裏付ける史料は確認されていない。

惣五郎の直訴・処刑の背景についても、藩による過酷な年貢、隠し田摘発のための検地、利根川付け替え工事などの説が挙げられている。承応2年(1653)に行われた公津村の分村(台方村など5カ村に分割された)と翌年の検地による年貢負担増加が確認されており、惣五郎が抗議に立ち上がったとの推論もある。名主惣五郎を中心とした反藩主闘争があったことは否定しえないようである。

歌舞伎の大当たり、<義民>像の定着
惣五郎の義民伝承は、江戸時代後期以後成立した「地蔵堂通夜物語」や「堀田騒動記」などの実録本、講談「佐倉義民伝」にうかがえる。これらの作品は虚構であるため矛盾が目立ち、時代や事実に反する記述も少なくない。共通する点は(1)藩主・堀田正信が新たに重税を取り立てたことから、領民の暮らしは極度に困窮した(2)領内の名主らは郡奉行や国家老に重税の廃止を求めたが拒絶され、江戸に出て江戸藩邸に訴えても(門訴)取り上げられず、惣代6人が老中に駕籠訴を行ったがこれも退けられた(3)やむなく、惣五郎がひとりで将軍に駕籠訴を行った。「地蔵堂通夜物語」では承応2年(1653)とされ、上野寛永寺に参詣する四代将軍徳川家綱に直訴したとしている。「堀田騒動記」では正保元年(1644)とされており、将軍は三代徳川家光にあたる。(4)直訴の結果、訴えは聞き届けられ佐倉藩の領民は救われた。だが惣五郎夫妻は磔(はりつけ)となり、男の子ども4人も死罪となった。成田市の東勝寺(宗吾霊堂)によれば、同寺の澄祐和尚が公津ケ原の刑場に遺骸を埋葬したといい、それが寺地内にある「宗吾様御廟」であるという。

延享3年(1746)、新たな佐倉藩主として堀田正亮(まさすけ)が入封した(惣五郎が訴え出た正信の弟である正盛の子孫)。宝暦2年(1752)、正亮は惣五郎親子の百回忌の年であるとして、将門山(現千葉県佐倉市大佐倉)に惣五郎を祀る「口の明神」を造営し、「涼風道閑居士」の法号を与えて以後春秋に盛大な祭典を行うようになった。寛政3年(1791)には藩主堀田正順が惣五郎に徳満院の院号を送り石塔一基を寄進した。藩主堀田家が惣五郎を公認したことで、江戸後期以降<義民>惣五郎の姿が明確化される。東勝寺は明治期に惣五郎の霊(本尊)を祀る宗吾霊堂を建てた。

実録本「地蔵堂通夜物語」や「佐倉義民伝」を素材とした最初の脚本化は、幕末の天保4年(1851)三世瀬川如皐による歌舞伎狂言「東山桜荘子(ひがしやまさくらそうし)」(中村座初演)である。作品では舞台を室町時代に設定し、主人公の名を「浅倉当吾」としている。この作は歌舞伎史上はじめて農民一揆を扱った戯曲で、大当たりをとり以後<義民物>と呼ばれる出し物の嚆矢(こうし)となった。明治後期以後は役名を実名どおりにして上演され、演題も「佐倉義民伝」で定着することになった。 芝居や講談などに取り上げられたことで、惣五郎は一躍<義民>として全国に知られるようになった。人気演目となったのである。明治以降、社会運動家や思想家は社会改革運動の先駆者として惣五郎を称揚した。思想家福澤諭吉もその一人で「古来唯一の忠臣義士」として賞賛している。自由民権運動家たちも惣五郎に民権運動の先覚者の姿を見たのであった。
改革を進める開明的藩主
「海闊(ひろ)く天高し其(そ)れ器宇」
幕末の老中・佐倉藩主堀田正睦の書である。世界の大勢に通じ西洋文明の導入を説いた正睦の気迫がうかがえる。江戸幕府親藩・佐倉藩の領主であった堀田家は最初の領主になった正信系を「前の堀田」と呼び、江戸中期以降の正俊系を「後の堀田」と呼んだ。正睦は「後の堀田」系である。正睦は文化7年(1810)に生まれた。父は、正俊から数えて7代目の藩主正時である。正睦は16歳で藩主になった。藩内には、佐倉藩親戚筋の下野国(現栃木県)佐野藩主正敦の子を推す意見もあった。正睦の賢明さを知る上級藩士らは若い藩主を歓迎し藩内にしこりは残らなかった。

江戸時代も後期に入ると、各藩とも財政に苦しむようになった。佐倉藩も例外ではなかった。窮乏にあえぐ藩士の中には武芸を怠り、風紀の乱れた生活を送る者も出てきた。一方、藩の財政を握る上級藩士の中にはぜいたくな暮らしをする者もいて、藩内の秩序は乱れていた。正睦は藩政立て直しに立ち上がり、佐倉藩独自の天保改革を実施した。この改革は倹約一辺倒ではなく、学問・武術を高めることも目的としていた。庶民の生活の苦しさをしのぐため藩から一時金の貸し出しを行った。その一方で、学問・武芸を修めなかった者が家を継ぐ時には家禄を割り引くという厳しい措置をとった。その結果、武士たちは文武に励むようになった。

正睦は改革の一環として高等教育充実させた。佐倉藩藩校は寛政4年(1792)の「佐倉学問所」に始まる。その後「温故堂」と改称された。儒教中心の小規模なものにすぎなかった。正睦は兵学・医学・洋学(蘭学・英学)をはじめ様々な武芸を学べる先進的学校として「成徳書院」を天保6年(1835)開校した。成徳書院の充実により佐倉は「南関東の学都」と呼ばれるようになった。江戸の著名な蘭学医・佐藤泰然は正睦の招きで佐倉に移り、医学教授とともに病院を開いた。佐倉順天堂の始まりである。特筆すべき医学上の成果として、天然痘で亡くなる患者を救う種痘の実施がある。近代的な予防医学の先駆けである。

貧しい農家で生まれた子を間引して人手を減らさせてはならないと、正睦自らが書いて農村に示した「子育教諭直書(こそだてきょうゆじきしょ)」には、貧困にあえいでも嬰児を殺すことは神や仏が深く憎むことであり、天罰を受けることは必定であると諭した。人口を増やす政策の一環として「陰徳講」という制度を作り、藩や裕福層の者が子育てのための補助金を出すようにさせた。正睦は、学問を愛し、西洋文化を積極的に取り入れる藩主であった。鎖国の幕末にあっては数少ない開明的名君である。
反対派を抑え、開国を目指した老中
正睦が最初に幕府の役職に就いたのが、文政12年(1829)で20歳の時であった。この時の奏者番(大名らを将軍に取り次ぐ役)からその後寺社奉行に昇進し、大坂城代から西の丸老中へと着実に幕府内で出世していった。天保12年(1841)、6人の老中の1人となる。幕政の中心にあった老中水野忠邦が正睦の佐倉藩での改革の成功やそれまでの幕府内での仕事ぶりを評価して登用した。水野の後を受けた老中は阿部正弘(福山藩主)であった。嘉永6年(1853)、提督ペリーが率いる東インド艦隊が浦賀(現神奈川県横須賀市)沖に現われ幕府に開国を迫った。アメリカ側の要求を断れば、戦争を仕掛けられる心配があり、戦争となれば敗北することも見えていた。

長く鎖国を続けてきた日本では開国反対が多数派であった。だが正睦は、日本が欧米列強に比べて軍事力で劣っていることを指摘し、開国した上で外国との貿易も行った方がよいとの意見を出した。幕府は最終決断をまとめきれず、朝廷にも事の次第を報告した。幕府の無力を示す結果となった。結局翌年、幕府は下田(現静岡県下田)、箱館(現北海道函館)の港を開く日米和親条約を締結することになった。

安政2年(1855)、正睦は阿部正弘から推されて再度老中となった。正睦は先進的な考え方の持ち主であり、性格は「善良無我」と評される温和な人柄であった。「内憂外患」の時世を乗り切れるのは正睦しかいないと期待されての再任であった。正睦は46歳で、当時では隠居してもおかしくない年齢であった。政治の表舞台に登場した。事態は、日米修好通商条約を要求するアメリカの初代駐日総領事ハリスの強硬な姿勢でますます困難になって行った。正睦は開国した上で富国強兵を推進する考えであったが、国内では世界情勢を知らずに鎖国・攘夷を叫ぶ声が強かった。

条約問題とともに、国内では病弱な13代将軍家定の跡継ぎを巡って意見が二つに分かれた。一人は紀州(現和歌山県)藩主徳川慶福(よしとみ、後の家茂)、もう一人は水戸(現茨城県)藩主・徳川斉昭の子で一橋家を継いだ一橋慶喜であった。血筋から言えば慶福が将軍に近かったが、10歳代前半なので政権を担うのは無理とされた。正睦は成人に達し聡明と評判の高い慶喜を推した。

外交・将軍の跡継ぎという2つの難題を抱え、正睦はまず条約を結ぶことに全力を注いだ。国内の強い反対を抑えるために朝廷の許しを得ようとして京都まで足を運んだ。朝廷の理解を得られず江戸に帰らざるを得なかった。その後、朝廷の許可なく条約を調印した責任を取る形で正睦は老中を辞めさせられた。

その直前に、大老となった井伊直弼は将軍の跡継ぎを慶福(14代家茂)に決めた。実権を握った井伊直弼は反対派の弾圧に乗り出し、50人以上の志士らを処刑した。安政の大獄である。正睦は将軍の跡継ぎ問題で対立したことから佐倉での隠居を命じられた。直弼は2年後に桜田門外で水戸藩浪士らに暗殺された。正睦は病気がちとなり元治元年(1864)、55歳で他界した。墓は佐倉市最上町の甚大寺にある。

参考文献:「佐倉惣五郎」(児玉幸多)、「歌舞伎 東山桜荘子」(高橋敏氏ら鼎談)、「堀田正睦と幕末の政局」(佐倉城研究会)、筑波大学附属図書館資料

(つづく)
<戊辰戦争150年>慰霊祭開催など事業計画を決定 仙台藩志会総会
 仙台藩士の子孫らでつくる仙台藩志会は8日、仙台市青葉区のホテルで本年度の総会を開いた。約100人が出席し、10月に戊辰戦争150年を記念して戦没者慰霊祭を開催するなど事業計画を決めた。
 戊辰戦争関連として、会津若松市で9月に開かれる会津まつりのメイン行事「藩公行列」に、奥羽越列藩同盟の参加藩である仙台を代表して藩志会が初めて加わることを報告した。
 4代藩主伊達綱村の300回忌に合わせた講演会を6月に開く方針も示した。
 伊達宗行会長は「戊辰150年、綱村公300回忌という二つの節目の年にどう行動するか、よく議論しよう」とあいさつ。伊達家18代当主の伊達泰宗さんは「仙台の発展のために心血を注いだ先人に感謝する1年としたい」と述べた。
<戊辰戦争150年>会津出身・陸軍大将が極貧しのいだ食を再現
 戊辰戦争に敗れ会津から青森県の下北半島に移住させられ、後に陸軍大将になった柴(しば)五郎(1860~1945年)の下北での極貧時代の食卓を再現するイベントが8日、むつ市であった。
 約25人が参加。料理研究家の坂本謙二さんが「ある明治人の記録」(中公新書)に書かれた「オシメ」というおかゆのような食べ物を再現した。
 ワラビとゼンマイを数センチほどに切り、コンブのような海藻のツルアラメを砕いてどろどろになるまで火を通し、交ぜ合わせて作った。参加者らは「思ったよりはいける」「毎日は食べられない」などと感想を述べ、当時の暮らしに思いをはせた。
 参加した大平小5年の井本結月さん(10)は「微妙な味だった。よく食べられたものだと感心した」と話した。
 イベントは、戊辰戦争から150年の節目に合わせ、市の任意団体「ディスカバリーむつプロジェクト」が主催した。
武家装束で和歌 戊辰戦争敵味方の子孫初の顔合わせ 鹿児島
 曲がりくねった水流沿いに並び、和歌を詠む「曲水の宴」が8日、鹿児島市の仙巌(せんがん)園であった。明治維新150年に当たる今年は、戊辰戦争で敵味方に分かれた薩摩藩島津家と徳川本家、会津藩松平家、庄内藩酒井家(山形県)の子孫が初めて一堂に会し、武家装束で和歌をしたためた。
 島津家32代嫡男の島津忠裕さん(45)、徳川家18代嫡男の徳川家広さん(53)、会津松平家14代当主の松平保久(もりひさ)さん(64)、庄内酒井家18代嫡男の酒井忠順さん(43)ら8人が参加した。和歌のテーマは「語(かたる、ご)」。島津さんは「新しき御世を開きし御祖らの 語るを聞きて未来を築かむ」、松平さんは「150年義の勲しを語り来て 明き未来を祈るこの春」と詠んだ。
 大勢の観光客や市民らが訪れ、雅楽が鳴り響く優雅な雰囲気に魅了されていた。(南日本新聞社提供)
戊辰戦争『錦の御旗』初公開! 北畠顕家生誕700年記念企画展
 南北朝時代の武将、北畠顕家(きたばたけあきいえ)の生誕700年を記念した企画展「北畠顕家と霊山」が7日、伊達市の保原歴史文化資料館で始まった。同市の霊山神社に保管され、戊辰戦争で新政府軍が使用したとされる「錦(にしき)の御旗(みはた)」も初めて公開された。7月1日まで。

 顕家は南北朝時代、霊山に現在の東北地方を治める拠点を置いた。同神社は1881(明治14)年に創建され、顕家ら北畠家の4氏をまつっている。

 錦の御旗は天皇を主君とする「官軍」であることを示す旗。同神社が保管している2枚は、明治政府の中枢を担った岩倉具視(ともみ)が、戊辰戦争時に息子2人が使ったものを奉納したものと伝えられている。企画展では2枚のうち1枚を展示。岩倉の名前で、奉納の経緯を記した奉納文も展示している。

 企画展は来年1月まで3期にわたって開かれる。第1期は「戊辰戦争と伊達地方」がテーマで、錦の御旗のほか、戊辰戦争時に棚倉藩士が現在の伊達市保原町に避難してきたことを示す文書などを並べた。同館の担当者は「伊達市でも戊辰戦争があったということを伝えたい」と話している。

 入館料は大人210円、小・中学生と高校生100円。開館時間は午前9時~午後5時(最終入館は同4時30分)。火曜日休館。
福島)戊辰150年 長岡と会津若松の図書館が連携企画
戊辰(ぼしん)戦争で越後・長岡藩は、侵攻する新政府軍(西軍)に対し、軍事総督河井継之助(つぎのすけ)を中心に奮闘。長岡城落城後、藩士や家族は会津藩領に逃れ、一部は鶴ケ城の攻防戦に加わった。それから150年。両藩の城下町、新潟県長岡市と福島県会津若松市の市立図書館で、「河井継之助がつなぐ長岡と会津若松」と題した共同企画展が始まった。相互に関連図書を紹介し、観光情報をPRしようという取り組みだ。

 4月1日から始まった長岡市立中央図書館の展示では、企画名が大きく書かれたパネルの下で、星亮一著「会津藩斗南へ」、野口信一著「会津えりすぐりの歴史」など約90冊が紹介され、貸し出しに供されている。書棚の脇に会津若松市の観光案内や「戊辰150周年記念事業」のパンフレットが置かれていた。

 会津図書館の展示は3月31日に始まった。河井継之助記念館(長岡市)の稲川明雄館長の数々の著作のほか、救援米を学校建設に充てた「米百俵」で知られる長岡藩士小林虎三郎や、長岡出身の山本五十六・連合艦隊司令長官関連の書籍など100冊余りが並ぶ。

 書籍に加えて、会津で亡くなった長岡藩士を悼む本光寺の「殉節の碑」や、長岡で重傷を負い、福島県只見町で没した河井継之助の遺骨が一時埋葬された建福寺など、会津若松市内の関連スポットを示す写真や地図も掲げられた。

 今回の企画は、会津図書館が長岡市立中央図書館に呼びかけて実現した。

 会津図書館では一昨年、戊辰戦争後に元藩士らが移住した北海道余市町と、同様の共同企画を初めて実施。昨年は初代藩主保科正之が若き日々を過ごした長野県伊那市と行った。

 「戊辰150周年の記念の年は、ゆかりのある長岡市と一緒にやりたいと考えた」と司書の成田陽子さん。会津若松市の室井照平市長は昨年11月、長岡市を訪問し、磯田達伸市長との会談で交流の促進を確認していた。

 長岡市立中央図書館にとって、このような共同企画は初めてだったが、「先人たちの歩みに思いを巡らす良い機会」(山田あゆみ館長)と快諾。それぞれの所蔵図書から展示する本を選び、観光パンフレットなど配布資料を相互に送って準備を進めた。

 展示期間は長岡市立中央図書館が5月30日まで、会津図書館が5月29日まで。会津図書館の成田さんは「この展示をきっかけに、多くの人に長岡市に行っていただければ、と思っている」と話していた。(戸松康雄)
戊辰150年 激動期の相馬題材に歴史講演会 4月28日相馬
 相馬地方の幕末と戊辰戦争をテーマにした歴史講演会は4月28日午後1時から相馬市民会館で開かれる。
 福島民報社の出前講座の一つで、相馬郷土研究会が共催し、市教委が後援する。戊辰戦争や明治改元から150年の節目に合わせ、地元の研究者が当時の資料を読み解きながら、激動期の様子を説明する。
 講師は相馬郷土研究会代表で南相馬市文化財保護審議会委員の藤原一良氏と、相馬美術倶楽部会長の斎藤重信氏が務める。
 藤原氏は「中村藩の幕末と戊辰戦争をふりかえる」、斎藤氏は「明治戊辰軍功賞について」の演題を予定している。
 福島民報社は明治時代の紙面、幕末や戊辰戦争に関連する資料を展示、解説する。
 聴講は無料。希望者は、はがきかファクス、メールで申し込む。郵便番号、住所、氏名、電話番号(複数の聴講者の申し込みは代表者の連絡先と全員の住所、氏名)を明記し、〒960-8602 福島市太田町13の17 福島民報社地域交流局 出前講座係へ。ファクスは024(531)4117、メールはchiiki@fukushima-minpo.co.jpまで。定員は100人程度で、申し込みの先着順。
 問い合わせは電話024(531)4145で、平日午前10時から午後5時まで受け付ける(電話での聴講申し込みは不可)。
(2018/04/06 11:01)
<仙台市博物館>戊辰戦争の資料展示 設備改修終え3ヵ月ぶり再開
 老朽設備改修のため休館していた仙台市博物館(青葉区)が、3カ月ぶりに再開した。館蔵品約1000点による「旬の常設展2018春」で、幕末の仙台藩の動向を伝える「戊辰戦争150年」コーナーが設けられている。
 戊辰戦争関連資料は14点。1853年のペリー来航を報じる瓦版をはじめ、外国への対応策を尋ねる幕府に対し「武備が整うまで2、3年は穏便な措置」を具申する仙台藩主伊達慶邦の意見書控えなどが並ぶ。
 諸藩に先駆けて建造した洋式軍艦「開成丸」の威容を伝える版画や模型、西洋銃術の導入を図る慶邦の申渡書もある。
 同館は10月から特別展「戊辰戦争150年」を開催する。担当者は「今回の常設展は開国を巡って藩内の対立が激化する以前の資料を集めた。季節ごとに展示を入れ替えるので、ぜひ順にたどって見学してほしい」と呼び掛ける。
 旬の常設展は6月10日まで。入場料は一般460円、高校生230円、小中学生110円。連絡先は同館022(225)3074。
戊辰150年ラッピングバス、白河で運行開始、機運盛り上げ
 白河市は3日までに、戊辰150年の機運を盛り上げようと導入したラッピングバスの運行を開始した。

 市がジェイアールバス関東などに運営を委託する市循環バスの中型車両など計6台にラッピングを施し、「甦る『仁』のこころ 白河戊辰戦争」のキャッチフレーズのほか、陣羽織と西軍が恐れたとされ、遊撃を得意とする「十六ささげ隊」のロゴマークを入れた。

 記念式典が同市のJR白河駅前で行われた。鈴木和夫市長や白河戊辰戦争150周年記念事業実行委員会の人見光太郎会長らがテープカットに臨んだ。  鈴木市長は「白河には戊辰戦争の足跡が残っている。歴史的意義を多くの人に知ってほしい」と述べた。



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