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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
「AR幕末の会津若松」機能拡充 街並みや風景、アプリで再現
 拡張現実(AR)の技術を活用して、会津若松市が配信しているスマートフォン、タブレット向け無料アプリ「AR幕末の会津若松」の機能が拡充された。

 アプリは戊辰150年を記念して開発され、昨年4月に配信が始まった。会津若松市の鶴ケ城天守閣、鶴ケ城本丸、日新館跡、西郷頼母邸跡、飯盛山の5カ所のAR撮影スポットでQRコードを読み込むと、幕末当時の街並みや風景がCGで再現できる。

 また、幕末に活躍した会津藩主松平容保(かたもり)や家老西郷頼母、山本八重、会津にゆかりが深い新選組の土方歳三、斎藤一、白虎隊の篠田儀三郎がキャラクター化されており、機能拡充により、幕末キャラの音声で観光スポットを紹介するようになった。現在地から観光スポット周辺までのナビゲーションも可能。

 また、看板が設置されたAR撮影スポットでQRコードを読み込むと幕末キャラと一緒に撮影できたり、顔だけを自分の画像にして撮影できる。動画撮影も可能になった。
幕末の漢文聖書に感動 出版元の香港関係者が来日 京都・円光寺
 京都市左京区の真宗大谷派・円光寺で約160年前の漢文の聖書「代表訳本」が見つかったことを受け、香港から出版元の関係者が同寺を訪れた。歴史的にも貴重とされる聖書を感動した様子で確認していた。

 来日したのは、香港の中学校、香港英華書院の鄭鈞傑校長ら4人。同校では、1860年代まで、宣教師の養成やキリスト教の普及のため、学内の印刷所で漢文の聖書などの出版物を発行していた。

 聖書は昨年6月に円光寺で見つかった。幕末に12代住職で同派の学僧だった樋口龍温(1800~85年)が、キリスト教研究のために入手したとみられる。旧約、新約が合冊され、旧約部分は初版本にあたり、世界的にも貴重な一冊だという。表紙には、出版年の1855年を指す清時代の元号「感豊五年」や「香港英華書院印刷」の印字がある。

 報道で発見を知った香港英華書院が訪問を希望し実現。3月末に訪れた鄭校長らは、目の前で木箱から出された聖書が披露されると、真剣な表情でページをめくりながら内容を確認したり写真に収めたりしていた。

 同校の資料館に保管されている聖書十数点は重版のものばかり。鄭校長は「初版の代表訳本を目にしたのは初めて。非常に感動している。(当校が)西洋以外に日本とも文化交流を深めていたのだと知り、うれしい」と話した。
幕末製造の洋式銃など40丁見つかる 堺の鍛治屋敷から
 全長2メートル超の火縄銃や西洋の技術を模索して製造した洋式銃など計40丁が、堺市に現存する鉄砲鍛冶(かじ)屋敷から見つかった。うち7丁は江戸末期の製造と特定された。鉄砲専門家らは、外国船来航に備えて堺の鉄砲生産が幕末にも増えたとする資料を裏付けるとともに、激動の時代の息づかいを感じられる貴重な資料としている。

 この建物は鉄砲鍛冶・井上関右衛門の居宅兼作業場兼店舗で、市の指定文化財。井上家は江戸前期に堺に定着し、主屋も江戸時代初めに建てられた。明治末ごろまで鉄砲を生産していた。

 2014年に屋敷の蔵などから大量の古文書が見つかり、市と関西大が共同研究を開始。ペリー来航直後の1855年に海岸防備のため大筒を幕府側に上納した記録など、鉄砲づくりが江戸中期以降衰退したという通説を覆す記述も見つかった。さらにその過程で40丁の銃を確認。年代の特定を進め、府教委へ古式銃の登録をしてきた。

 26丁は火縄銃。「摂刕住(せっしゅうじゅう)井上関右衛門作」という銘文と花押(サイン)のある全長2メートル超のものや、乗馬で使う馬上筒(全長48センチ)も複数確認された。洋式銃は、弾を装塡(そうてん)する際レバーを引くボルトアクション式(141センチ)など14丁。

 40丁のうち製造年代が特定されたのは7丁で、いずれも幕末のもの。上下2連ピストル(29センチ)は、西洋の近代技術を基に幕末の1863年ごろ製造されたことがわかった。これらの銃は、屋敷から見つかった記録を裏付けるとともに、幕末に鉄砲鍛冶も敏感に時代に反応していたことをうかがわせるという。

 屋敷には16代目の井上修一さん(74)が暮らしていたが、3月に主屋と座敷棟、23丁の銃を堺市に寄贈した。市は銃を博物館で保管し、年代の特定など研究をさらに進める。井上さんは「鉄砲は関右衛門が気持ちをこめてつくったもの。屋敷とともに、個人で持ち続けるよりも市に保存継承してもらい、市民の財産として使ってほしい」と話している。(村上潤治)

     ◇

 古式銃研究家の沢田平・堺鉄砲研究会長の話 太平洋戦争で軍刀にするため火縄銃などの古式銃はスクラップにされて日本刀と比べ残っている数は極端に少ない。鉄砲鍛冶の歴史が終わり、100年以上経つ中で40丁の古式銃が1カ所で見つかるのは極めて珍しい。日本の火縄銃は世界で最も完成度が高い。技術の結晶として残った古式銃を堺市は早く展示してほしい。

     ◇

 〈堺と鉄砲〉 鉄砲は1543年に種子島に伝来したとされ、金属加工の伝統があった堺は生産現場として発展。ピーク時には約140人の職人がいた。堺の銃は1575年の長篠の戦いで使われ、大坂の陣で徳川方に供給された功績から江戸幕府が一定数を堺に注文した。国友(滋賀県長浜市)や根来(和歌山県岩出市)も生産地として知られる。
幕末明治の写真をデジタル再生 文書資料補う鮮明さ ガラスネガから270点
 昔も今も、歴史学で重視されるのは文書資料だ。しかし近世末期以降は、写真も重要な資料になり得る。そのことを改めて感じさせる大著が刊行された。『高精細画像で甦る 150年前の幕末・明治初期日本 ブルガー&モーザーのガラス原板写真コレクション』(洋泉社)だ。

 東京大史料編纂所の「古写真研究プロジェクト」(代表・保谷徹同所所長)による成果だ。1869(明治2)年に来日した2人のオーストリア人写真家が、維新期の日本で撮影、収集した写真とガラス原板ネガコレクションを調査した。2010年から7回、オーストリアで撮影した。江戸・東京や横浜と京都など。本書はその一部、270点を紹介している。

 「当時の世界最高レベル」(保谷所長)という8000万画素デジタルカメラ技術で撮影、拡大した。江戸は日本橋や江戸城、神田や深川、浅草、王子など。鮮明な写りならではの発見が多々ありそうだ。たとえば1871年末から翌年初めごろ、愛宕山で撮影した写真。眼下には元大名屋敷が整然と並んでいる。しかしよく見ると、屋根瓦があちこちではがれている。

 また文書資料では詳細が分からないことも伝えている。たとえば1872年、新橋-横浜間の鉄道が開業した年の横浜駅だ。その一枚は、駅構内や真新しげな蒸気機関車と客車、周囲の街並みなどを鮮やかに収めている。駅や列車の構造を知る手がかりになる。

 ひときわ驚かされる一枚は「英国士官・殺人犯の獄門首」だ。1864(元治元)年、英国陸軍の少佐と中尉が鎌倉・鶴岡八幡宮の参道入り口付近で、浪人2人に襲われ殺された(鎌倉事件)。浪人は後に捕まり、斬首される。写真はその一人。英国側の強い主張により、横浜・吉田橋のたもとに首がさらされた。顔には少年の面影が残る。正視しにくいが、歴史的事件を記録した貴重なものでもある。

 さらに1872年ごろの外国人居留地の写真には、外国語の看板が多数確認でき、興味深い。ちょんまげ姿の人々やその生業の様子も分かる。またこのころ、新政府は神仏分離を進めていた。神社と一緒にあった仏像や仏塔が壊されたり、他の場所に移されたりした。しかし写真は分離が完全に進む前、神仏習合の状況も記録しており、興味深い。同じ国際港でありながら同時代の横浜に比べて情報が少ないという、長崎を撮影した写真群も貴重だ。

 風俗史や建築史など、読み手の関心と知識によって多くの情報を読み取ることができる。またさまざまな研究に貢献するだろう。【栗原俊雄】
外国人少年写真家が撮影…甦った「150年前の日本」読売新聞メディア局編集部 伊藤譲治
150年前の幕末・維新期に来日し、「激動の時代の目撃者」となった外国人少年写真家がいた。東京大学史料編纂所の古写真研究プロジェクトチームが少年の祖国・オーストリアで、少年が撮影・収集した多数のガラス原板を確認。8000万画素のデジタルカメラで原板を撮影し、拡大したところ、驚くほど鮮明な当時の日本が写り込んでいた。少年の足跡をたどるとともに、成果を写真史料集『高精細画像で 甦 よみがえ る 150年前の幕末・明治初期日本』(洋泉社)にまとめたプロジェクトチーム代表の保谷徹所長(幕末維新史)に現地調査の経緯などについて聞いた。
16歳で来日したオーストリア人少年
日本滞在中の和服姿のミヒャエル・モーザー(1872年)(アルフレッド・モーザー氏所蔵)
日本滞在中の和服姿のミヒャエル・モーザー(1872年)(アルフレッド・モーザー氏所蔵)

 江戸から明治に変わって間もない1869年(明治2年)10月2日、横浜港に到着したオーストリア・ハンガリー帝国の軍艦フリードリヒ大公号に一人の少年が乗船していた。日本と修好通商条約を結ぶため派遣された使節団(東アジア遠征隊)に随行していた写真家ヴィルヘルム・ブルガーの助手で、ミヒャエル・モーザーという16歳のオーストリア人少年だった。

 ミヒャエル・モーザーの名は、横浜で創刊された日本初の写真入り英字紙『ファー・イースト』で写真家として活動していた人物であることは知られていた。が、つい最近まで生没年すらわからない「謎の人物」だった。写真技術の高さから、大人の写真家だと思われていたが、実際には10代の少年だったことが判明し、研究者を驚かせた。ミヒャエル少年は、使節団が条約締結を終えて帰国した後も、ただ一人、日本に残った。16歳から23歳まで、7年余りを明治初期の日本に滞在したミヒャエル・モーザーとは、いったい、どんな人生をたどった人物だったのだろうか。
偶然だった師・ブルガーとの出会い
【日本橋】 東海道など五街道の起点となった橋。「反り橋」としては、これが最後の日本橋になる。1872年(明治5年)4月16日付の英字紙『ファー・イースト』に同じ構図の写真が載っているため、これ以前に撮影されたものとみられる(※カンマーホフ博物館所蔵、東京大学史料編纂所提供)
【日本橋】 東海道など五街道の起点となった橋。「反り橋」としては、これが最後の日本橋になる。1872年(明治5年)4月16日付の英字紙『ファー・イースト』に同じ構図の写真が載っているため、これ以前に撮影されたものとみられる(※カンマーホフ博物館所蔵、東京大学史料編纂所提供)
橋の左側部分を拡大。中央にある瓦屋根の建造物は法度(法令)などを掲げる高札場。橋から突き出た梁は欄干の補強材か
橋の左側部分を拡大。中央にある瓦屋根の建造物は法度(法令)などを掲げる高札場。橋から突き出た梁は欄干の補強材か
 ミヒャエル・モーザーは1853年、現在のオーストリア中部・シュタイアーマルク州アルトアウスゼーで生まれた。師となるヴィルヘルム・ブルガーとの出会いはまったくの偶然からだった。モーザーとブルガーの二つのガラス原板コレクションを集成した写真史料集に掲載された「解説」(ペーター・パンツァー、宮田奈奈の両氏執筆)によれば、次のような経緯だった。

 大都市・ウィーンから遠く離れた避暑地・アルトアウスゼーをブルガーが撮影で訪れた際、カメラの暗箱を修理する必要に迫られた。そのとき修理したのがミヒャエルの父、ヨアヒムだった。修理が完璧だったため、お礼としてブルガーは彼の子どもたちの写真を撮影することにした。大きなレンズのついたカメラが置かれると、子どもたちはおびえて逃げてしまったが、一人だけその場に残った子どもがいた。それがミヒャエルだった。カメラに興味を持ったミヒャエルに「お前も写真家になりたいか?」と尋ねると、小さなミヒャエルが「なりたい!」と答え、ブルガーのもとで助手を務めることになった、という。
英字紙『ファー・イースト』の写真家に
【東京鎮台営】 右側が、赤坂門内の旧出雲・松江藩邸。重厚な門構えが見える。1871年(明治4年)7月の廃藩置県後、屋敷は東京鎮台の歩兵屯所として用いられた。左端に茶屋があり、手前に坂を登る人の荷車を押して駄賃をもらう「立ちん棒」か、人力車の車夫とみられる人たちが写っている。現在の衆参両院議長公邸(千代田区永田町2丁目)付近(※カンマーホフ博物館所蔵、東京大学史料編纂所提供)
【東京鎮台営】 右側が、赤坂門内の旧出雲・松江藩邸。重厚な門構えが見える。1871年(明治4年)7月の廃藩置県後、屋敷は東京鎮台の歩兵屯所として用いられた。左端に茶屋があり、手前に坂を登る人の荷車を押して駄賃をもらう「立ちん棒」か、人力車の車夫とみられる人たちが写っている。現在の衆参両院議長公邸(千代田区永田町2丁目)付近(※カンマーホフ博物館所蔵、東京大学史料編纂所提供)
写真の右側中央部を拡大。門前の兵隊2人は1871年頃の鎮台歩兵の軍装。左端の木造建造物は、上水道を木樋で屋敷内に引き込むための枡とみられ、上部には南京錠が掛けられている
写真の右側中央部を拡大。門前の兵隊2人は1871年頃の鎮台歩兵の軍装。左端の木造建造物は、上水道を木樋で屋敷内に引き込むための枡とみられ、上部には南京錠が掛けられている
 ミヒャエルがウィーンのブルガーのもとで働き始めてから1年たった頃、外国へ行くチャンスがめぐってきた。オーストリア・ハンガリー帝国は日本と清(現在の中国)、シャム(同タイ)のアジア三国と修好通商条約を締結することを決定し、使節団を派遣した。この時、随行する写真家として選ばれたのがブルガーだった。

 助手としてブルガーに同行した15歳のミヒャエルは、1868年10月、アドリア海に面した港町トリエステからフリードリヒ大公号で出航。南アフリカの喜望峰を回り、約1年かけて日本に到着した。この航海の途中、ミヒャエルは50日間も船酔いに苦しんだという。日本にとどまったのは、日本が気に入ったことに加え、船酔いが大の苦手だったことも理由の一つだったという。

 ミヒャエルは横浜の飲み屋で給仕として働いたりした後、知り合ったフランス人と一緒に写真スタジオを開いた。しかし、台風のため、写真スタジオが全壊。来日した翌年の70年、英国人ジョン・レディ・ブラックと出会い、創刊したばかりの英字紙『ファー・イースト』で写真家として働くようになった。ブラックがミヒャエルを雇わなければ、激動期の日本を記録した数々の貴重な写真は残されていなかったかもしれない。ちなみに、ブラックの長男ヘンリーは、明治時代に活躍した異色の落語家、快楽亭ブラックである。

 ミヒャエルは、73年に故国・オーストリアで開かれたウィーン万博で日本事務局の通訳を務めるため『ファー・イースト』を辞めた。ウィーンから戻った後は、内務省勧業寮の工業試験場で写真技術を教える教師となった。『ファー・イースト』で写真家として活動したのは、17歳から19歳までの間だった。76年、22歳のとき、フィラデルフィア万博の通訳として日本を離れた後、米国で病気になり、3か月間入院。健康を回復するため、そのままオーストリアに帰国し、再び日本に戻ることはなかった。
子ども部屋に放置されていたガラス原板
【芝切通】 中央に人力車、右側に茶屋が写っている。プリント写真には「江戸の風景」とだけキャプションが付いていたが、細部を拡大すると町名が読み取れ、現在の港区虎ノ門3丁目であることがわかった。1872年(明治5年)11月1日付の『ファー・イースト』に同じ構図の写真が載っているため、これ以前に撮影されたものとみられる(※カンマーホフ博物館所蔵、東京大学史料編纂所提供)
【芝切通】 中央に人力車、右側に茶屋が写っている。プリント写真には「江戸の風景」とだけキャプションが付いていたが、細部を拡大すると町名が読み取れ、現在の港区虎ノ門3丁目であることがわかった。1872年(明治5年)11月1日付の『ファー・イースト』に同じ構図の写真が載っているため、これ以前に撮影されたものとみられる(※カンマーホフ博物館所蔵、東京大学史料編纂所提供)
写真の中央左側部分を拡大。右側の建物の入り口に「町名札」が立ててあり、「西久保広町」と書かれていたため、撮影地が特定された
写真の中央左側部分を拡大。右側の建物の入り口に「町名札」が立ててあり、「西久保広町」と書かれていたため、撮影地が特定された
 ミヒャエル・モーザーのガラス原板コレクションが見つかったのは、2008年。師・ブルガーのガラス原板コレクションを1973年に発見していた日本研究者のペーター・パンツァー・ボン大学名誉教授が、探し求めていた弟子・ミヒャエル・モーザーのガラス原板も見つけた。

 東大への留学経験もあるパンツァー氏から連絡を受けた東大史料編纂所のプロジェクトチームは、2010年から17年まで計7回にわたって現地調査を実施。12年の第4回調査から、8000万画素の高精細なデジタルカメラを使用し、ガラス原板(ネガ)の撮影を行った。通常、報道用に使用するカメラが2400万~3000万画素程度であり、8000万画素はその約2.5~3倍に相当する。当時、世界一の高解像度を誇るカメラだった。

 保谷所長らが現地調査を始めたとき、ミヒャエル・モーザーのガラス原板は木箱などに収められたまま、アルトアウスゼーの生家にあった子ども部屋に放置されていたという。「日本関係の原板は全部で136点出てきました。子ども部屋に放って置かれていたにもかかわらず、比較的状態も良かった。150年の間、奇跡的に残っていました」と振り返る。コレクションには自身が撮影した東京や横浜などの風景写真の原板のほか、日本人写真家の内田九く一いちや下岡蓮れん杖じょうらが撮った肖像写真のガラス原板も含まれていた。

 写真フィルムがなかった当時、ガラス板に感光剤を塗り、それが乾く前に像をガラスに写しとる「コロジオン湿板写真」という技法が使われていた。プロジェクトチームは原板(縦約16センチ×横約21センチ)を1枚1枚、デジタルカメラで撮影し、反転加工したうえ、コンピューター画面で自由に拡大できるようにした。原板には高精細な画像情報が封じ込められており、デジタル画像を拡大することによって、細部まで観察できるようになった。

 たとえば、「芝切きり通とおし」の写真。原板を焼き付けたプリント写真にはドイツ語で「江戸の風景」とだけキャプションが付けられていたが、デジタル処理で拡大すると、写真中央左側にある建物入り口の「町名札」に「西久保広町」(現在の港区虎ノ門3丁目)と書かれていることがわかり、撮影地が「芝切通」であることが判明した。また、「横浜元町・居留地」の本村通りをズームアップすると、パブや居酒屋、パン屋、仕立屋などの看板がひしめく様子が見え、西洋近代の文物が流れ込む開港場の活況が確認できた。「ガラス原板には、リアルな幕末・維新期の日本の姿が写り込んでいます。高精細な写真画像は、歴史的な変化を具体的なイメージとして再認識させてくれる。当時の写真画像はきわめて説得力があり、迫力ある史料になっている」と、保谷所長はその意義を強調する。
写真台紙の裏に富士山と鳥居の絵
【横浜元町・居留地】 1872年(明治5年)頃の横浜。山手から山下居留地を望んだ写真で、手前は元町。大森貝塚の発見で知られるエドワード・モースが1877年に、『日本奥地紀行』を書いたイザベラ・バードが翌78年に来日したが、彼らが横浜に上陸したとき、同じような光景を目にしたかもしれない(※カンマーホフ博物館所蔵、東京大学史料編纂所提供)
【横浜元町・居留地】 1872年(明治5年)頃の横浜。山手から山下居留地を望んだ写真で、手前は元町。大森貝塚の発見で知られるエドワード・モースが1877年に、『日本奥地紀行』を書いたイザベラ・バードが翌78年に来日したが、彼らが横浜に上陸したとき、同じような光景を目にしたかもしれない(※カンマーホフ博物館所蔵、東京大学史料編纂所提供)
写真の中央部を拡大。前田橋から続く本村通りには、パブや居酒屋、パン屋、仕立屋、両替屋などの看板が確認でき、西洋の最新の文物が流れ込んだ開港場の活況が垣間見える
写真の中央部を拡大。前田橋から続く本村通りには、パブや居酒屋、パン屋、仕立屋、両替屋などの看板が確認でき、西洋の最新の文物が流れ込んだ開港場の活況が垣間見える
 原板撮影には苦労もあった。カメラそのものがとてもデリケートで、性能が高いだけに、ほんのちょっとのところでピントがずれてしまったりした、という。撮影を担当した東大史料編纂所技術専門職員の高山さやかさんは「カメラが気まぐれで、なだめすかさないと動いてくれないときもあった」と振り返る。

 幕末・維新期に来日した外国人写真家として最も有名なのは、愛宕山から見た江戸のパノラマ写真などを撮った英国人フェリーチェ・ベアトだが、ミヒャエル・モーザーの残した写真の意義はどこにあるのか。「写真は『ファー・イースト』に在籍していた1871年(明治4年)と72年(同5年)のものが中心です。風景写真などには高解像度の画像があるので、遠景を拡大すると、遠く離れた場所の細部までがよく見える。江戸から明治へ、大きく時代が変わっていく様子を克明にとらえた写真として、きわめて貴重な史料になっている」と指摘する。また、収集したガラス原板の中には、1863年以前の江戸を写した現存最古とみられるネガも含まれている。

 原板は撮影が終了した後、日本から持参した中性紙の専用ボックスに納め、保存措置をとった。コレクションは現在、バートアウスゼー市のカンマーホフ博物館に永久寄託されている。

 ミヒャエル・モーザーの後半生は、波乱に満ちた前半生とは対照的に、きわめて穏やかだったようだ。ミヒャエルの孫、アルフレッド・モーザー氏が書いた『明治初期日本の原風景と謎の少年写真家』(宮田奈奈訳、洋泉社)によれば、米国からオーストリアに戻った後、アルトアウスゼーの両親の家に写真スタジオを構え、その後、27歳で、隣町のバートアウスゼーに写真館を設立。35歳で結婚した後、絵を背景に撮影する「アトリエ写真」で有名な写真家として活躍し、1912年11月24日、卒中発作のため59歳で亡くなった。

 再び日本を訪れることはなかったが、多感な少年期を過ごした日本での日々を終生、忘れることはなかっただろう。写真館で使っていた写真台紙が、今も残されている。その台紙の裏には富士山と鳥居の絵が描かれ、「MICHAEL MOSER, Photographer, TOKIO,JAPAN」と記されている。

幕末藩主も乗った?木製の三輪車、2年かけ完成
 幕末から明治期に活躍した福井藩主の松平春嶽が初めて乗ったとされる木製の三輪車「ビラスビイデ独行車」が復元された。

 福井県が、藩士の日記や1850年代の車輪を参考にして2年がかりで完成させた。県庁1階ホールで13日まで公開している。

 3月24日にあった福井城山里口御門の完成式典でお披露目された。全長1・7メートルで、前輪直径40センチ、後輪は同1メートル。ケヤキなどを使い、ペダルや車輪の外周は鉄製。ペダルを前後に踏み込んで回す仕組みで、ブレーキはない。

 復元の基になったのは春嶽に仕えていた藩士が書き留めた「御用日記」。1862年に江戸の藩邸で、家臣の佐々木長淳が組み立て、春嶽が乗ったという記述があった。「ビラスビイデ」は速い乗り物を意味する。

 県はこの史実を伝え、県民の自転車利用の機運を高めようと2016年度から復元に着手。坂井市のみくに龍翔館所蔵の1850年代の車輪などを参考に、専門家の協力を得て、設計を行って仕上げた。事業費は約240万円。

 県庁ホールでの公開後は、県の博物館などで巡回展示する予定。

 県交通まちづくり課は「福井と自転車の歴史的な関係をアピールする中で、より多くの人に自転車に興味を持ってもらいたい」と話している。

いざ出陣『戊辰観光』開戦 鶴ケ城で幕末特集「会津の義感じて」
 日本の歴史の転換点となった「戊辰戦争」から150年の節目を迎える中、激戦地の本県では記念事業が本格化している。戊辰戦争とゆかりの深い会津若松市や白河市は1日、「戊辰」の観光客を呼び込む新たな動きを始めた。150年前の4月は会津に向けて進攻する新政府軍が本県へと迫る時期。春の観光シーズンの到来に合わせ、観光を舞台にした"開戦ムード"が一層高まってきた。

 会津若松市の鶴ケ城天守閣前で行われた本年度事業のオープニングセレモニーでは、記念事業実行委員会長の室井照平市長が「官民連携して記念事業を盛り上げる。多くの方に会津の義を感じてほしい」とあいさつした。

 鶴ケ城を管理する会津若松観光ビューローは本年度、天守閣の展示を「幕末特集」として全館で展開する。

 各期でテーマを変え、戊辰戦争の伏線となった藩主松平容保(かたもり)の京都守護職時代を含め、会津ならではの一級資料を展示する。1日からは第1弾の「松平容保と京都守護職」(5月7日まで)が始まり、セレモニー後に内覧が行われた。

 京都御所の蛤(はまぐり)御門付近で繰り広げられた「禁門の変」を描いた「蛤御門合戦図屏風(びょうぶ)」や、新選組副長土方歳三も愛刀とした「和泉守兼定」などの日本刀、会津藩家老の書など、貴重な資料が展示されている。

 「八・一八の政変」での容保の働きに感激した孝明天皇が容保に贈った御宸翰(ごしんかん)や一緒に贈られた自作の和歌は同展のみの展示で、来場者の注目を集めている。

 若松市内10施設巡る「クイズラリー」始まる

 会津若松市では市内10施設を巡り、クイズに答えて応募すると温泉宿泊券などが抽選で当たる「戊辰ミステリークイズラリー」が1日から始まった。

 各施設や観光案内所で台紙を入手し、各施設を巡りクイズに挑戦する。7月31日までが前期、後期は8月1日~11月9日。全問正解で温泉宿泊券(各期5人)、6問正解で会津産品セット(同15人)、3問正解で会津WAONカード1000円分(同150人)が当たる。

 初日の1日も鶴ケ城では来場者が戊辰戦争にちなんだクイズに答えていた。出題施設次の通り。

 鶴ケ城天守閣、まなべこ、県立博物館、御薬園、会津武家屋敷、白虎隊記念館、白虎隊伝承史学館、旧滝沢本陣、會津藩校日新館、会津新選組記念館

剣豪・森要蔵しのび80年ぶり法要へ 戊辰・戸の内の戦いで散る
 戊辰戦争の白河口の戦いの一つ、戸の内の戦い(西郷村下羽太地区)で散った剣豪・森要蔵が眠る西郷村の大龍寺で6月30日、80年ぶりとなる法要が行われる。森は千葉周作を開祖とする北辰一刀流の使い手で、千葉道場四天王の一人と称され、熊本藩生まれながら幕府側で最期を迎えた。森の生きざまなどを後世に伝えようと、戊辰150年に合わせて、同村商工会と地元有志が法要を行い、老朽化した墓も修繕する。

 「森は最後の出撃を前に(世話になった礼として)寝泊まりしていた民家に(武士の魂の)小刀を託した」「西軍が押し入った民家に赤子がいて、西軍が殺そうとしたが、会津藩が助けた」。戸の内の戦いに関する資料はあまり村に残っておらず、商工会の大高紀元会長(70)は戦禍を生き延びた住民から伝え聞いた話を披露した。

 「森要蔵は最後の武士。その存在は村にとって財産であり、法要を地域の歴史を再確認する機会にしたい」。大高会長は、森の墓を戊辰戦争の象徴の一つと位置付けており、寄付を募るなどして法要までに再整備する考えだ。70周忌法要には大高会長の祖父も参加したといい、80年ぶりの法要を通して、大高会長は歴史の保存と、いまだ解明されていない戊辰戦争の調査の進展に期待を寄せる。

 森は講談社の創設者野間清治の祖父としても知られている。70周忌法要では清冶が感謝の言葉をつづった手紙4通を同寺に送っており、手紙は今でも寺に保管されている。

 大高会長と内藤信光住職(68)は「講談社の関係者も呼ぶ予定だ。150周年の節目に東西両軍関係なく、国を思い散った先人に村一体となって手を合わせたい」と話した。

戊辰戦争『錦の御旗』初公開! 北畠顕家生誕700年記念企画展
 南北朝時代の武将、北畠顕家(きたばたけあきいえ)の生誕700年を記念した企画展「北畠顕家と霊山」が7日、伊達市の保原歴史文化資料館で始まった。同市の霊山神社に保管され、戊辰戦争で新政府軍が使用したとされる「錦(にしき)の御旗(みはた)」も初めて公開された。7月1日まで。

 顕家は南北朝時代、霊山に現在の東北地方を治める拠点を置いた。同神社は1881(明治14)年に創建され、顕家ら北畠家の4氏をまつっている。

 錦の御旗は天皇を主君とする「官軍」であることを示す旗。同神社が保管している2枚は、明治政府の中枢を担った岩倉具視(ともみ)が、戊辰戦争時に息子2人が使ったものを奉納したものと伝えられている。企画展では2枚のうち1枚を展示。岩倉の名前で、奉納の経緯を記した奉納文も展示している。

 企画展は来年1月まで3期にわたって開かれる。第1期は「戊辰戦争と伊達地方」がテーマで、錦の御旗のほか、戊辰戦争時に棚倉藩士が現在の伊達市保原町に避難してきたことを示す文書などを並べた。同館の担当者は「伊達市でも戊辰戦争があったということを伝えたい」と話している。

 入館料は大人210円、小・中学生と高校生100円。開館時間は午前9時~午後5時(最終入館は同4時30分)。火曜日休館。

<戊辰戦争150年>論考・維新と東北(9)強い大藩意識 同盟を主導
◎仙台藩は何を考えていたのか/宮城県公文書館専門調査員・栗原伸一郎さん

 <奥羽越列藩同盟は仙台藩が主導し、動かなければ誕生しなかった。幕末の仙台藩は何を考え、どう行動したのか。宮城県公文書館専門調査員の栗原伸一郎さん(43)は「大藩としての強い自意識があった」と語る>

◎密約口伝の覚書
 仙台藩は国持ち大名の大藩だった。幕末の時点で直臣約1万人、陪臣約2万4000人を抱え、石高は62万石と全国で3番目。官位も高く、加賀、薩摩藩と並ぶ「外様御三家」としての自己認識があった。
 奥羽の主導者という意識も持っていた。幕末の資料に「伊達家は鎮守府将軍」という話が出てくる。鎮守府将軍は古代に蝦夷に対処するため陸奥国に置かれた軍政府長官で、実際は江戸時代になった人はいない。奥羽で問題が起きれば、解決するのが自分たちの役割と考えた。
 さらに朝廷や幕府を助ける存在だと自覚していた。真偽は不明だが、ある重臣の家には、非常時に仙台藩が江戸を守り、水戸藩が京都を守るという密約が両藩間で結ばれていたという口伝の覚書が残る。
 仙台藩が何か行動を起こす場合、奥羽の大藩としてふさわしい振る舞いかという問題が常につきまとった。藩内ではよく意見が衝突したが、どの藩士も「大藩としてどうするか」を考えた点は同じだった。
 <仙台藩は京都の政局に関与しようとする姿勢が乏しかったと指摘される>

◎国政関与を議論
 理由の一つに奥羽地域を重視する意識があったと考えられる。地域を守る「鎮守府将軍」として警護や治安維持に当たることに意義を見いだし、政局から距離を保つことを正当化した。
 ただ、京都の仙台藩士は積極的に動いた。大政奉還後は対応を協議するため奥羽各藩に呼び掛けて会議を開いた。奥羽以外の藩とも接触し、熊本藩と連携する動きにつながった。後に熊本藩内では奥羽越列藩同盟との連携を念頭に挙兵する計画も浮上した。
 政治秩序が激変すると、仙台藩内では「今こそ動いて薩長と対峙(たいじ)するべきだ」「奥羽諸藩を率いて京都に行くべきだ」などと、自藩領に待機せず、国政に積極的に関与しようという議論が展開された。
 戊辰戦争勃発後、藩内では、武力を用いずに会津藩を開城させて時局を収拾することによって発言力を得ようとする意見が出た。こうした奥羽を主導しようという大藩意識が奥羽越列藩同盟の結成につながった。
 仙台藩は薩摩、長州藩を「公論を無視し、私心で戦争や改革を進めている」と対決姿勢を鮮明にし、中央政局を転換しようとした。しかし、同盟は軍事行動を展開したため崩壊した。
 <幕末の仙台藩ではどんな人物が活躍したのか>
 あまり知られていないが、波瀾(はらん)万丈の人生を送った藩士が多い。藩全般のかじ取りをしたのは奉行の但木土佐(ただきとさ)。玉虫左太夫は全国で情報収集し、藩主に直接意見を言った。玉虫のような100石以下の、家格が高くない藩士が登用され、藩を動かした。
 但木、玉虫らは資料が少なく、不明な点が多い。幕末仙台藩の歴史は研究が少なく、まだまだ基本的なことが分かっていない。藤原相之助の「仙台戊辰史」が基本文献になり、それ以外のことがあまり調べられていない。調査は難しいが、少しでも明らかにする努力が必要だ。


[但木土佐]1817~69年。幕末仙台藩の奉行。新政府軍の標的となった会津藩の救済を目指し、奥羽越列藩同盟を主導した。

[藤原相之助]1867~1947年。ジャーナリスト。歴史家。東北新聞などを経て河北新報主筆。著書に「仙台戊辰史」「平泉情史 藤原秀衡」など。

激戦の舞台たどる 新年度、戊辰150周年事業
 会津美里町は2018(平成30)年度、戊辰戦争150周年を記念した各種事業を行う。講演会やパネル展、史跡を巡るツアーなどを繰り広げる。28日までに概要が固まった。
 会津美里町には、下郷町の大内宿から町内の関山宿(現関山地区)などを通って会津盆地に入る下野街道が通り、参勤交代などにも使われていた。関山宿付近は戦火で民家がほぼ全焼するなど、旧幕府軍と新政府軍の激戦の舞台となった歴史がある。さらに高田地区などでも戦いが行われたことを示す史料もある。
 5月13日にオープニング事業として歴史講演会を開く。町文化財保護審議会の笹川寿夫会長を講師に、若松城下へ迫ろうとする新政府軍と、防ごうとする旧幕府軍の攻防などについて、史料や町内各所に残る石碑などについて紹介する。
 5月27日に本郷地区で開かれる向羽黒山城跡ふれあい茶会では、城跡の麓にある向羽黒山ギャラリーで戦時品やパネルの展示を行う。
 7月下旬か8月に、町内の関山地区、下野街道など戊辰戦争に関わる場所、史跡を巡るツアーを行う。9月には京都を訪れ、京都守護職を務めた会津藩ゆかりの場所を巡る予定。

【会津美里町の戊辰戦争150周年事業の主な内容】
(かっこ内は開催場所)
・5月13日 歴史講演会(本郷体育館)
・5月27日 向羽黒山城跡ふれあい茶会で、戦時品やパネルを展示(向羽黒山ギャラリー)
・7月下旬か8月 関山地区、下野街道などを巡るツアー(町内)
・9月 京都守護職を務めた会津藩ゆかりの場所を巡るツアー(京都など)

<奥州の義 戊辰150年>(1)プロローグ 画期的瞬間、東北が一つに
白河以北一山百文。東北を軽視するこの言葉が、いつから使われだしたか定かではない。しかし世の人の心に深く刻まれた契機は、はっきりしている。
 今から150年前、幕末から明治へと時代が転換する中で起きた戊辰戦争で、東北の諸藩が明治新政府にひざを屈したことだ。

 西国の薩長土肥を中心に成立した明治新政府は、幕末の動乱期に対立した会津、庄内両藩を討ち滅ぼそうと「朝敵」と位置付けた。東北自らの手で両藩を攻めろと命令した。
 朝廷、幕府双方に忠誠が厚く、京都、江戸の治安維持に尽力してきた会津、庄内を討つ必要がどこにあるのか。納得できない仙台、米沢など東北諸藩は擁護へと立ち上がる。
 新政府と両藩の和平を取り持つため大同団結しようと、東北と北越の31藩が奥羽越列藩同盟を結成。それは東北全域が一つになった画期的な瞬間でもあった。
 しかし平和解決を求める嘆願は新政府に一蹴され、「会津、庄内に味方する者は全て敵」と、東北の地は戦火に巻き込まれていく。そして敗れて「賊軍」のいわれなき汚名を背負い、その後も負け組の意識が付いて回ることとなる。

 今年、日本各地で維新を記念する行事が開催されている。「近代化の幕開けとなった大業」「明治の精神に学ぼう」。そんな称賛の言葉が飛び交う。
 待ってほしい。勝った者が正しく、敗れた者に正義はなかったのか。そんなことはない。東北の各藩はそれぞれの信念に従い戦った。安易に長いものに巻かれず、公正を重んじた。
 維新が近代化の第一歩となったことは疑いない。ただその船出は戊辰戦争の犠牲と表裏一体だ。実相を問い直すべく、今も史跡に刻まれる記憶をたどりたい。戦雲を追って。
(文・酒井原雄平 写真・岩野一英)

[戊辰戦争]1868(慶応4)年1月から翌年5月にかけて、明治新政府と旧幕府側の諸藩との間で起きた内戦。鳥羽・伏見の戦いから上野彰義隊の戦い、奥羽・北越戦争、箱館(函館)五稜郭の戦いまでを指す。開戦年のえとが戊辰に当たるため、この呼称が付いた。薩摩、長州藩などが中心の新政府は、前年に大政奉還した前将軍の徳川慶喜や会津、庄内両藩を朝敵として追討軍を進め、両藩を擁護する東北・北越諸藩が抗戦した。戦後、敗れた東北諸藩には減封や未開拓地への移住など厳しい処分が課せられた。




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