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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
 数日前から、ウグイスが時折いい声を聞かせてくれています。春だなぁ……(^^)。

神奈川
球体スクリーン、地球ふわり 横浜開港150周年
 直径約20メートルの球体のスクリーンに、宇宙から見た地球の姿などを映し出すアースバルーン「HOME」の試験点灯が14日、横浜市中区であった。横浜開港150周年を記念し、28日に開幕する「開国博Y150」の催しの一つ。宇宙飛行士の向井千秋さんが監修した。
 音と映像を使い、地球環境を守ることの大切さを訴える。上映は28日から9月27日まで。午後7時25分から午後9時15分までの間に4回、約5分間の映像が流れる。


長野
桜舞う中軽快かっぽれ 高遠城址公園で東京の社中
 桜が「落花盛ん」になった伊那市高遠町の高遠城址公園で15日、江戸芸かっぽれの披露があった。旧高遠藩主の保科正之の大河ドラマ化を祈願して、桜の花びらがはらはらと舞い落ちる中、軽快な踊りを奉納した。
 出演したのは、伝統芸能を守る「光江流社中」(東京都)。会員の一人が高遠町出身だった縁で、全国からの花見客でにぎわう観桜期の公園で正之の存在を知ってもらうために―と、企画した。かっぽれをはじめ「伊勢音頭」「深川」「奴さん」も踊って見せた。
 踊りの合間には「大阪の住吉踊りが元」「安政や幕末の暗い時代に庶民を元気づけた」「あなたにほれる、から名が付いた」などかっぽれの歴史や名前の由来などを説明。ピンク色に染まった公園内で、江戸時代から伝わる縁起のいい踊りを披露した。


石川
金沢町人 生き生きと 幕末描いた『梅田日記』18日刊行
寺で動物見物、相合い傘…
『人間関係豊か 現代の手本』

 近所の寺に連れてこられたゾウやトラ、ラクダなどを見物したり、妻と相合い傘で帰ったり…。十八日に刊行される「梅田日記 ある庶民がみた幕末金沢」には、幕末に金沢に住んだ町人の生き生きとした暮らしが描かれている。江戸時代の庶民が私的に記した日記は金沢では唯一。全国でも多くはないという。(報道部・高橋雅人)
 日記は加賀藩の算用場に出入りした町人能登屋甚三郎(一八三三~九八年)が一八六四~六七年に記した。明治以降は梅田甚三久(じんさく)と改名したため「梅田日記」と呼ばれる。当時、甚三郎は数え年で三十二~三十五歳。浅野川沿いの並木町に住んでおり、結婚を機に記し始めたと考えられている。
 八歳下の妻との夫婦仲の良さを示す記述は六五年四月にある。同僚宅に招かれた帰りに小雨が降りだし、二人で一本の傘を借りて帰ったという。帰宅が遅くなった妻を迎えに出掛けたこともあった。当時の女性が決して家に閉じこもっていたわけではないこともうかがえる。
 寺への参詣や年中行事、出掛けた先で振る舞われた料理の献立の記事も多い。小松の那谷寺へ参詣した際には農家が営む茶店で食事をしたが、飯は黒くてまずく、自家製の団子も堅くて食べられなかったため、お茶と一緒にのみ込んだと書いている。
 幕末の激動を示す記載もある。六四年七月十九日に京都で起きた禁門の変については「大合戦になり、死人やけが人は数知れない」。加賀藩からも家老らが京都に向かうことになったため、荷物などを運ぶ労働者が不足したと伝える。

 日記は一九七〇年に一度刊行されたが、全文ではなかった上、絶版となっていた。二〇〇六年、町人文化を研究する北陸先端大や金沢大などのグループ「遍(あまね)プロジェクト」が日記に着目。地域振興に役立てようと内容をブログで発信してきた。
 プロジェクトはほかにも、甚三郎が歩いたコースをたどる散策ツアーなどを企画。昨年五月には、一八六五年五月二十一日の日記を基に甚三郎が食べた料理を再現。レンコンとフキの卵とじやそうめんなど五品を作り、味わった。
 企画参加者やブログを見た人から刊行を望む声が上がり、あらためて出版することにした。崩し字は金沢大出身の若手研究者が現在の漢字に直し、当時の言葉のまままとめた。
 監修した金沢大大学院の中野節子教授は「甚三郎は親族や同僚などとの交際を重視している。豊かな生き方が垣間見え、付き合いが希薄な現代を生きる上でアドバイスになる」と話す。
 A5判で二百十ページ。税別三千円。十八日午後二時から金沢市広坂の金沢21世紀美術館で、出版を記念したフォーラムを開く。問い合わせは、能登印刷出版部=電話076(222)4595=へ。

 「帰宅が遅くなった妻を迎えに出掛けたこともあった。当時の女性が決して家に閉じこもっていたわけではないこともうかがえる」あたりも興味深いところです。

福井
三国幽眠が初登場 「三国祭」今年の山車人形
 北陸3大祭りの1つに数えられる坂井市三国町の「三国祭」(5月19-21日)で、今年の山車(やま)番となる下西区自治会が、地元出身の幕末期の儒学者・三国幽眠(ゆうみん)(1810-96年)を山車人形として奉納する。同自治会によると、儒学者が三国祭の人形として登場するのは初めて。
 幽眠は三国湊の豪商・森家の生まれ。本能寺の変で織田信長と討ち死にした森蘭丸が祖とされる。20歳の時に彦根で井伊直弼と勉学に励み、29歳で京都の鷹司家の儒官となって活躍。安政の大獄で一時追放されたが、徳川慶喜が第15代将軍に就いた際、要職を務めた。
 来年、生誕200年を迎えることから、地元の偉人を山車人形にしようと、同町の人形師、岩堀耕治さん(53)に製作を依頼。同区山車格納庫では若きころの幽眠の姿が出来上がりつつある。
 人形はお上に参上する場面で、儒官でありながらかみしも姿で正装し、大小の刀を腰に差すほか、右手には扇子を持つ。高さは約3・8メートルで、屋台も含めると6・25メートルになる。岩堀さんは「明治期の写真を参考に若い時をイメージした」と説明した。
 玉本憲一郎自治会長(65)は「奉納することで、三国が生んだ幕末の偉人を知ってもらいたい」と話している。
 (川口信夫)


ブラジル
ブラジル薙刀の歴史=小林成十=第3回
(中略)
 余談だが、剣道界には戦前から移民と共に多くの実践者、有段者が来伯した。その中には、明治から昭和にかけて剣道界の双璧とも云われた中山博道師範と高野佐三郎師範の高弟もおり、同じく柔道界でも幾多の高段者が来伯し指導にあたり、多くの優秀な後継者を育てた。
 この中に明治維新の指導者として知られる西郷隆盛の、孫に当る西郷隆治も大正時代にブラジルに来て一時柔道を教えていたことを知っている者が幾人居るであろうか。
 ただし、残念ながら薙刀界では同等ならず、古本静先生のみ薙刀普及に孤軍奮闘されたが、不幸にして先生は後継者を育てる事無くして他界され、それとともにブラジルにおける薙刀神陰流の歴史は閉じた。 



コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】東大教授・山内昌之 真木和泉
 ■若者を超える老人

 「恐れ入谷(いりや)の鬼子母神」という言葉も最近、あまり聞かなくなった。「情けありまの水天宮」もほとんど聞かない。久留米藩21万石の有馬家上屋敷の隅にあった水天宮は、安産の霊験あらたかな社(やしろ)として江戸町人に人気があった。毎月5日に限って屋敷内を公開した有馬家の厚情と安産への感謝をかけた言葉なのだろう。
 今の都立三田高校近くにあった水天宮は、明治になって所を移し、日本橋蛎殻(かきがら)町に落ち着いた。この本宮、久留米水天宮の宮司が尊王攘夷(じょうい)派でも筋金入りの先駆者、真木和泉だったのは、それこそ恐れいりやなのだ。
 真木は、久坂玄瑞(げんずい)や入江九一(くいち)など長州藩の志士を禁門の変に駆り立てた“生粋の革命家”である。神職だから尊王攘夷を思想として語るのは少しも不自然でない。

 ◆ためらわずに御所砲撃

 しかし真木の凄味(すごみ)はいつも生命の危険と背中合わせの冒険から逃げないことだ。藩政改革に挫折して、11年も幽閉されながら、釈放後も寺田屋事件や天誅(てんちゅう)組といった倒幕蜂起(ほうき)には必ず関係している。スターには違いないが、清河八郎のように表舞台で大見えを切らず、粘り強く自らの姿形で人びとを心服させるタイプだったのだ。
 とにかく政治姿勢や主義主張がぶれない点では幕末でも屈指の男だったのではないか。その本領は禁門の変でも遺憾なく発揮された。天皇の御座所(ござしょ)の近くをためらわずに砲撃したのは、久坂や入江といった26、27歳の血気盛んな若者でなく、むしろ最年長52歳の真木や48歳の来島(きじま)又兵衛あたりであった。吉田松陰の教えを受けた久坂たちは、いざ戦(いくさ)になると、禁裏に自分たちの放った銃丸が落ち、御所周辺が火に包まれるのを見て、愕然(がくぜん)としたかもしれない。
 この修羅場を見ても真木の凄いのは、全然たじろがないことだ。尊攘や倒幕という大革命にこのくらいの犠牲は何だと割り切っているのだ。そこで彼が発した有名な言葉が「形は足利尊氏でも、心が楠正成ならばよい」というのである。いまの私の年齢(61歳)より若いといっても、当時では老境に入っており、引退しても不思議ないくらいだ。年寄りは分別くさく日和見を決めこむか、逃げに回ったときの言い訳を考えるというのは真木や来島のような使命感に燃えた初老たちには通じない。
 そして真木の偉い点はきちんと政治責任をとったことだ。敗戦と決まっても長州に逃げようとせず、端然と自刃(じじん)して、彼を信じた若者たちとともに死出の旅に出たのである。

 ◆政治は年齢ではなく志

 現代政治でも、選挙で審判が下る議員の引退を年齢で決めることには賛否両論がある。政治は誰が、何について、いかなる志で取り組むのかという芸術にほかならない。引退を最終的に判断するのは選挙民という側面もある。
 最近の新聞に民主党の藤井裕久氏や渡部恒三氏らが昭和7年生まれの満76歳だという記事が載っていた。もともと大蔵省出身の藤井氏は政権交代の暁には大臣でなく、事務の官房副長官をしたいと述べたという。驚いた人も多いはずだ。とても並の大蔵大臣経験者の語れるセリフではない。
 これこそ政治家の志であり、本懐の表れというべきなのか。寿命が延びた現代では、抱負を持つ優秀な人にとって、“骸骨(がいこつ)を乞(こ)う”とか“致仕(ちし)を願う”という言葉は死語になったといってもよい。
 自民党にしても首相の資格を世代交代や若さの観点だけで語るべきではない。一見すると慎重すぎる政治家であっても、いざ鎌倉となると、真木や来島のように燃え滾(たぎ)った情熱が外にほとばしるかもしれないのだ。隠れた才能を見いだすのも有権者の務めであろう。(やまうち まさゆき)                   ◇

【プロフィル】真木和泉

 まき・いずみ 文化10(1813)年、筑後国(福岡県)久留米瀬下町に水天宮の神職、真木左門旋臣(としおみ)の長男として生まれる。文政6(1823)年、父の死去で家督を相続し、水天宮の神職に。弘化元(1844)年、尊王攘夷を唱える水戸学に傾倒し、木村三郎、村上守太郎らと久留米天保学連を結成する。元治元(1864)年の「禁門の変」で久坂玄瑞らと浪士隊清側義軍の総管として長州軍に参加。同年、同志16人と天王山で自刃した。享年52。

 「恐れ入谷の鬼子母神」は知ってましたが「情けありまの水天宮」は筒耳でした。また、水天宮が幕末当時は三田にあったことも初めて知りました。





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