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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
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 4月25日……4年前のJR福知山線塚口駅~尼崎駅間の脱線事故で亡くなられた方々を悼み、今なお心身の傷に苦しまれている方々やご家族の皆様にお見舞いを申し上げます。

 そして、4月25日といえば、もうひとつ。
コラム
【次代への名言】4月25日・近藤勇
■「内外の国難一時(いっとき)に差し迫る。僕一身の去就(きょしゅう)を計る場合にあらず」(近藤勇)

 約半年後に「明治」に改元されることになる1868年のきょう、新選(撰)組隊長、近藤勇が板橋で処刑された。享年は数え年で35。千葉・流山で盟友の副長、土方歳三と袂(たもと)を分かち、官軍に投降してから3週間後のことだった。
 新選組が歴史ロマンの対象になるのは後世の話だ。子母沢寛(しもざわ・かん)は名著『新選組始末記』のあとがきで語る。「新選組は京都守護職支配下の役人、警察隊の一グループである。まずそれをわかっていただければ、かれらのやった事の御理解が参りましょう」。結果として、新選組のために同志を失い、命を狙われた官軍の近藤に対する恨みは深かった。
 投降後、断罪論と助命論がたたかわされたが、前者が押し切った。「既(すで)に誅戮(ちゅうりく)を蒙(こうむ)りたる身なれば行(おこない)の是非は論ぜず。其勇(そのゆう)に至りては惜(おし)む可(べ)き壮士なりと言はざる者なし」と穏健佐幕派の『中外新聞』が報じ、官軍高官にも「おれたちがいたら殺させなかったものを」の声があった。せめてもの名誉であろう。
 冒頭は当時の心境をうかがわせる書簡の一文(年次不祥)。同時代の漢学者、依田学海(よだ・がくかい)は近藤の最期をこうつづる。
 「死に臨んで顔色変わらず、従容(しょうよう)として刃(やいば)を受ける」

 今日、近藤勇さんの言葉を取り上げてくれるのは、感慨深いです。
 合掌……。

岩手
【集う】南部家45代当主・靖国神社9代宮司、南部利昭氏の「お別れの会」
“異色の殿様”に思いをはせ

 北国・盛岡に桜の便りが届いた12日の日曜日。1月7日に73歳で急逝した南部家第45代当主、南部利昭氏の「お別れの会」が行われ、達増拓也岩手県知事、谷藤裕明盛岡市長をはじめ、約700人の市民らが参列した。
 南部氏は元広告マンで、平成16年から靖国神社宮司を務めた“異色の殿様”。昭和55年に当主となり、盛岡に居を移した。穏やかな人柄が愛され、旧南部藩士の子孫や盛岡ロータリークラブ会員らと深く交流した。
 「しぐさや立ち居振る舞いに気品があった。興に乗ると謡(うたい)や都々逸(どどいつ)も飛び出した」と懐かしむのは、南部家ゆかりの桜山神社の坂本広行宮司。「例大祭で扇を手に馬にまたがる姿は殿様そのもの。どんな暴れ馬もこなし、神社の象徴でした」
 もう一つ、出席者の話題になったのが、盛岡と靖国神社の関係だ。靖国神社の前身は、幕末期の戊辰(ぼしん)戦争で朝廷側に付いた薩摩、長州などの戦死者を慰霊する「東京招魂社」。南部藩は幕府側に付いて敗れただけに、南部氏の宮司就任に多くの盛岡市民が驚いたという。
 廃藩置県で得た土地を共同管理する「旧盛岡藩士桑田(そうでん)」の下山寛理事長も涙を浮かべ、このことに触れた。「殿様は“南部の領民”への気づかいから、就任するかどうか、長く悩まれていた」と。
 靖国神社は国に殉じたすべての人をまつる場所。南部氏もA級戦犯の分祀(ぶんし)を明確に否定していた。
 南部氏の宮司就任をきっかけに、長年のわだかまりも消えたようだ。「靖国神社を訪れる人が増え、殿様は温かく迎えてくれた」(盛岡ロータリークラブの長野隆行会長)。出席者は春遅い盛岡から、生前の南部氏と、すでに散った靖国の桜に思いをはせていた。(中川真)


山形
酒田の山車、祝いの出陣 横浜開港150年パレード
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 日本の近代化に尽くした庄内藩士が生みの親とされる横浜港が今年、開港150年を迎えるのに合わせ、山形県酒田市のNPO法人「酒田みなとまちづくり市民会議」(理事長・高橋英彦東北公益文科大教授)は、5月に横浜市内で行われる記念パレードに参加することを決めた。北前船を模した山車を登場させ、庄内地方との歴史的な縁を今年の酒田まつり創始400年のPRにつなげる。
 この庄内藩士は、現在の佐町出身の佐藤政養。勝海舟に師事して砲術、航海術などを学び、頭角を現した。明治維新後の日本の近代化に向け、勝に横浜開港を進言。品川と横浜を結ぶ日本初の鉄道開通の立役者にもなった。
 酒田と横浜はこうした縁があるのに加え、両港の記念の年が重なることで、市民レベルの交流が続いてきた。
 市民会議の会合が先日、酒田市内であり、パレード参加による交流促進を確認。海草のアマモ植栽による港の魅力づくりを進めるNPO法人「海辺づくり研究会」(横浜市)の木村尚事務局長や伊勢佐木町商店街の関係者も招き、活発にアイデアを出し合った。
 計画によると、5月3日、横浜市内で開かれる国際仮装行列で、毎年酒田まつりで使用している全長7メートル、幅2.5メートル、高さ3メートルの山車「日吉丸」を引き回す。
 酒田港繁栄の時代をほうふつとさせるため船上には庄内米を満載し、パレード後は小分けにして見物客らに配るという。両市の有志ら約60人の参加を予定している。
 パレードでは、酒田まつり創始400年や米アカデミー賞の外国語映画賞に輝いた「おくりびと」に沸く市内のロケ地もアピール。佐藤の足跡を振り返りながら、両市の歴史的なつながりも強調する。
 市民会議の加賀谷総一副理事長は「食や文化を通じて、首都圏と地方のきずなが強まればいい」と期待。木村事務局長は「ともにNPOレベルでの活動が盛んなので、今後も日常的にかかわっていきたい」と話した。

 佐藤政義のプロフィールを検索したら、荘内日報社のサイトにコラムがありました。
郷土の先人・先覚56
佐藤政義 文政4年~明治10年

わが国で最初の鉄道敷設に尽力
横浜港開港も提起
 佐藤與之助、後政養と称し、李山と号した。文政4(1821)年12月、遊佐郷升川村(現・遊佐町)の與兵ヱ家に生まれた。農業のかたわら大井組大組頭・真嶋佐藤治に師事し、学問、彫刻を学んだ。博覧強記、頓才にすぐれていた。「佐藤李山先生逸話」という冊子に「一日與之助が笑いながら大井の寺に来て、只今村の若い者が集まって、薄いぞ薄いぞという題で、団々句をつけていたが、よい句が出ないので困っていた。私に一句やれといわれた。私は直ぐ承知してこんなもの造作もないと言ったけれども困ってあったが、直ぐ『薄いぞ薄いぞ褌とならぬ早木綿』とつけてやったと大笑いしてあった。」当意即妙の思いつきである。すべてこのような頓才に富んでいた。
 嘉永6(1853)年、師の長子雄之助出府の後を追って33歳の與之助、同年8月江戸に登り、伊藤鳳山に漢学、彫刻を後藤恒俊に学んだ。しかし、当時の国情は安閑として漢学、彫刻を学ぶことを許さず、勝海舟の門に入り砲術を学んだ。
 安政2(1855)年庄内藩砲術方を命じられた。そして同4年9月、長崎海軍伝習生となり、海舟に従い長崎に赴き、フルベッキ(オランダ)から測量、軍艦操縦の術を学び、同6年1月に江戸に戻った。
 最新の西洋の知識と技術を身につけた彼を藩では「御組外徒士格五石、二人扶持料二石、手当金三両」を以って迎え、幕府でも「五人扶持、手当金月三分」を給して軍艦操練所蘭書翻訳方を命じた。元治元(1864)年5月、14代将軍家茂の乗船に乗り組み、大阪城で引見を賜り、将軍ナポレオン三世より贈られた望遠鏡を自ら與之助に下賜された。また與之助は、横浜の開港を師・海舟に献言し、遂に横浜開港を実現させた。横浜開港の父といわれる所以である。
 当時、明治政府による日本の近代化はその急務で、鉄道建設はその重要な1つであった。
 明治3年3月、東京より神奈川までの線路測量が令達され、汐留に測量の第一歩が踏み出された。政養は時に鉄道助(のすけ=次官)直接の工事責任者として日本最初の大事業に寝食を忘れて努力した。同年5月、品川~横浜(桜木町駅)間がようやく完成し、次いで同年9月2日(新暦10月14日)に新橋(汐留駅)~横浜間が全通、明治天皇のご臨席を仰ぎ、開業式が行われた。
 政養、天皇のお車に同乗し、天皇よりお言葉を賜り手に持たれた日の丸の軍扇を賜った。これまた鉄道の開祖といわれる所以である。10月14日は鉄道記念日で「汽笛一声新橋を、はや我が汽車は離れたり…」の鉄道唱歌の生まれた日でもある。政養は政治、経済にもすぐれた見識をもち、著書に新刊輿地(よち)全図、三角或間上下2冊など数多い。彫刻としては郷里・菅野谷地の今井家、皇太神社の彫刻をはじめ、三面大黒、端俵の上に犬の子の煙草の根付など逸品を残している。明治10年8月2日、勝海舟邸で没し、青山墓地に葬られている。昭和3年、生前の功により従四位を贈られた。吹浦駅前に銅像がある。

(筆者・菅原伝作 氏/1988年7月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

佐藤 政養 (さとう・まさよし)
鉄道功労者。幼少のころ親孝行で郡内に評判、たびたび藩庁から表彰を受け、また家業に従事する一方、彫刻、俳諧を勉強。弘化元年藩の推薦で江戸に出、砲術、蘭学を学び、安政4年勝海舟に従い、海軍伝習生となって長崎へ。ここで測量と軍艦操縦術を習得した。大坂台場詰鉄砲奉行などつとめ、横浜港開港を提起。明治維新後は鉄道助に任命され、東京~横浜間に我が国最初の鉄道敷設に尽力した。57歳で死去。地元では「せいよう」と呼ばれていた。

 長崎海軍伝習所の卒業生のひとりだったんですね。

神奈川
歴史の流れ見守る大樹 小田原城址公園(神奈川県小田原市)
 訪れたのは桜が満開となった四月初旬。お堀端の花のトンネルを抜け、「銅(あかがね)門」から本丸に向かった。
 巨石の石垣、桜の花の中にそびえる天守閣。その展望台に足を運ぶと、海の香を運ぶ風の中、小田原市街の後景に相模湾、真鶴・伊豆半島や三浦半島、目を転じれば丹沢山塊が広がる。
 小田原城が初めて築かれたのは十五世紀中ごろ。一五〇〇年ごろには、戦国大名の小田原北条氏が関東地方を支配する拠点として整備を始めた。秀吉の城攻めなどを経て、江戸時代には天下の険・箱根を控えた江戸防御の要衝となったが、一七〇三年の大地震でほとんどの建物が倒壊。三年後には天守閣が再建されたが、明治三(一八七〇)年には廃城となり、残されたのは石垣だけ。その石垣も関東大震災で瓦解した。
 NPO法人・小田原ガイド協会の立木(ついき)繁会長(78)は「石垣も壊れたため、埋め立てて学校などを建設することになったが、昭和初め、当時の小田原町民が反対運動を起こし、保存を訴えた」と話す。だが、敷地内には図書館や市役所、女学校なども建設され、本格的な復元運動が盛り上がるのは戦後になってからだ。
 天守閣が復元されたのは一九六〇年、その後、相次いで常盤木門、銅門などが復元され、二〇〇六年には「日本の歴史公園100選」にも選ばれた。
 「子どものころは遊び場、戦争中は燃料にする杉の葉や枯れ木を集めに行った。戦後、本丸、二の丸を幕末の姿に復元する努力が続いているが、うれしいですね」。地元で生まれ育った立木さんは目を細める。
 ガイド歴八年の下沢幸子さん(72)は「ショウブやアジサイも美しいし、これからが良い季節。近くには、秀吉が築いた石垣山・一夜城の公園もあり、お勧めです」と来園を歓迎する。
 動物園では、長寿日本一のインドゾウ「ウメ子」が見学者を迎える。一九五〇年に来日、推定年齢は六十二歳。二十年余り飼育を担当してきた二見典克さん(43)は「健康状態は良好。今も好物のジャガイモなどの野菜、果物を毎日約六十キロは食べる」と話す。食材は一つ一つ確認して与えている。「市民にとってお城とゾウはセット。健康で長生きしてもらわなければ」
 本丸には、推定樹齢四百年、樹高約三十メートルの巨大なクロマツがドッシリと根を張る。歴史の流れの中で翻弄(ほんろう)され続けた城と、それにまつわる人々の姿を見守ってきたかのようだ。 (田口透)

眺め抜群の展望台
 天守閣には古文書や刀剣、武具などの資料が展示され、標高約60メートルの展望台からの眺めは抜群。一般400円。園内には戦国時代のカラクリ紙芝居などが楽しめる歴史見聞館、遊園地、小田原城ミューゼ(美術館)がある。5月3日には総勢約1800人の武者隊などが練り歩く小田原北條五代祭りも。問い合わせは市観光協会=(電)0465(22)5002。ガイド協会の申し込み、問い合わせ=(電)0465(22)8800。ガイド料は無料。小田原駅から徒歩10分。


静岡
荻生録造を顕彰 近代眼科の礎築く 沼津で企画展
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 沼津で学び、近代眼科学の礎を築いた荻生録造(1859―1914年)を顕彰する企画展(静岡新聞社・静岡放送後援)が5月8日まで沼津市大手町の沼津信用金庫本店ストリートギャラリーで開かれている。歴史を切り口に町おこしに取り組む商店主らが、録造ゆかりの手術道具や眼球模型、模写、胸像など貴重な資料を集めた。今月29日には記念講演会を開く。
 録造は幕臣の子息として江戸麻布で生まれ、明治維新後の1869年(明治2年)に10歳で沼津兵学校付属小第1期生として入学した。2年間学んだ後、東大医学部などを卒業。43歳で千葉医学専門学校(現千葉大医学部)校長兼病院長に就いた。日本眼科学会の創立発起人の1人。
 34年にわたり眼科学のほか法医学教授も兼任。1600人以上の医師を育てた。トラホームの研究などでも知られる。
 展示資料は、沼津兵学校付属小にかかわる偉人をテーマに、市活性化に取り組む上本通り商店街のメンバーらが収集した。親族や沼津市明治史料館をはじめ千葉大の眼科学研究室、千葉眼科記念館(茂原市)などの協力を得た。
 当時の医学生が眼科学を学んだ眼球模型などのほか、非常に明快だったと伝えられる録造の講義を筆録したノートなども展示している。
 記念講演会は29日午後1時から沼津信金本店で。国立歴史民族博物館総合研究大学院大学の樋口雄彦准教授が「荻生録造と沼津兵学校周辺の医師たち」を演題に講演する。入場無料。 


福井
石田縞の“技”次世代へ 鯖江市に体験施設オープン
 幕末から昭和時代にかけて鯖江市立待地区を中心に発展し、市の無形文化財にも指定された木綿織物「石田縞(じま)」の技術と歴史を次世代に伝える体験施設「石田縞手織りセンター」が24日、同市糺町の市繊維会館内にオープンした。
 同市繊維協会(兜信夫理事長)が開設した。センターには織り機のバッタン機1台と高機(たかばた)2台、縦糸を整えるための整経機などの準備機を設置し、石田縞の歴史をパネルなどで紹介。
 技術を受け継いでいる吉川道江さん(74)=西番町=や山本かよ子さん(74)=石田上町=ら担い手7人がアドバイザーとして、手織り体験の指導に当たる。
 石田縞は安さと丈夫さで人気があり、県内の女学校や小学校の制服に指定されたことで広く流通。大正期には年間生産量が27万反(1921年)に及んだ。しかし、昭和期に入ると洋服の普及や化学繊維への構造転換が進んで衰退。いったんは担い手も絶え「幻の織物」とも呼ばれたが、吉川さんと山本さんが技術を復元させた。
 同会館での式典では、兜理事長や牧野百男市長、野村一栄鯖江商工会議所会頭ら約20人が出席してオープンを祝い、吉川さんらが織り機で実演した。
 山本さんは「伝統的な織物を後世に残すためにかかわることができ、幸せです」。吉川さんは「石田縞はしま柄模様の力強い色合いが好き。技術を受け継ぎたい人に来てもらいたい」と話していた。
 センターで5月12日に体験講座を開く。問い合わせは市繊維協会=電0778(52)1880=へ。
 (田中宏幸)


岐阜
館蔵品展:江戸初期の検地帳など150点 来月6日まで海津市歴史民俗資料館 /岐阜
館蔵品展:江戸初期の検地帳など150点 来月6日まで海津市歴史民俗資料館 /岐阜
 海津市海津町の市歴史民俗資料館で、江戸時代初期の検地帳をはじめ、石高を記した高反別(たかたんべつ)帳など、貴重な歴史資料を集めた企画展「館蔵品展」が開かれている。5月6日まで。
 海津、南濃、平田の旧3町が合併して海津市が誕生した05年3月以降に収集した資料のうち約150点。うち130点は「美濃国海西郡野寺村文書」。野寺村(現・平田町野寺)に住んでいた笠松代官所の堤方(つつみかた)を務めた棚橋家に伝わる文書で、1610(慶長15)年の検地帳、高反別帳、年貢の免状、宗門改など明治維新までの村経営が分かる貴重な資料だ。
 江戸時代、今尾(平田町今尾)を本拠とした尾張藩家老・竹腰氏の家臣417人の氏名や職階を記した1822(文政5)年の「竹腰氏分限(ぶげん)帳」もあり、当時の職制や家臣団構成を知ることができる。
 同館は「野寺村文書は、既刊の平田町史にも記載がなく、当地の歴史を知る有効で貴重な文書。ぜひ来館を」と呼び掛けている。
 入館料は高校生以上310円、小中学生150円。月曜休館(5月4日は開館)。問い合わせは同館(0584・53・3232)へ。【子林光和】



三重
「北海道」の名付け親・松浦武四郎の雅号
松阪市の松浦武四郎記念館が発見

 幕末の蝦夷地(えぞち)探検家で、北海道の名付け親として知られる松阪市出身の松浦武四郎(1818~88)を顕彰する「松浦武四郎記念館」(松阪市小野江町)は24日、武四郎が北海道の命名以前から「北海道人」の雅号を使っていたことを証明する資料が見つかったと発表した。同記念館の山本命学芸員(33)は「命名後の雅号だったという説が強かっただけに、武四郎を研究する上で貴重な資料」と話している。
 この資料は、武四郎直筆の絵画「蝦夷人舞踊之図(えぞびとぶとうのず)」(縦25センチ、横35センチ)=写真=で、アイヌの人々が神に祈りを捧げる儀式「鶴の舞」の様子が細かく描かれている。市立歴史民俗資料館が開く企画展の準備中に見つかった。絵画の左下に筆書きで「北海道人」の雅号と「安政六年」(1859年)の年号が記されていた。命名は1869年(明治2年)で、少なくともその10年前には「北海道人」と名乗っていたことになる。
 山本学芸員によると、「北海道人」は「北の海の世捨て人」と「北海道の人」という2通りの意味があるといい、「6回にも及ぶ蝦夷地調査に自分の人生をささげた強い意志と誇りの表れではないか」と話している。
 「蝦夷人舞踊之図」は、同民俗資料館で24日から始まった企画展「みくも路の夢」で一般公開されている。



大阪
吉田松陰:「下田密航」米艦日誌に記載 事件の時間経過詳細に--関大教授発見
◇「回顧録と矛盾なし」
◇きょう155年
 幕末の思想家、吉田松陰が1854年、静岡・下田沖に停泊していたペリー提督の黒船に乗り外国へ密航しようとした事件の詳しい時間経過が、陶徳民・関西大教授(東西文化交流史)が米国立公文書館で発見した資料から分かった。松陰が事件の7カ月後に著した回顧録「三月廿七(にじゅうしち)夜記(やのき)」の記述と矛盾がなく、その現代的な時間感覚が浮かぶ。この「下田密航」から25日で155年。【岸俊光】

 記録が見つかったのはペリー提督が率いる艦隊の旗艦、ポウハタン号の航海日誌で、記載責任者はマクルーニー艦長。1854年4月25日の欄に「(午前)2時45分、2人の日本人が小さいボートで乗艦してきて、約45分間滞留した。乗艦した際、彼らのボートが漂失したため、提督の指示で本艦の小艇で岸辺へ送還された」と書かれていた。「2人の日本人」は、吉田と従者の金子重之助を指す。
 事件はぺリーが再来航し、日米和親条約の締結後に起きた。2人はポウハタン号より前にミシシッピ号へ乗艦を試みた。公式記録「ペリー艦隊日本遠征記」は、それを「午前2時ごろ」と記す。
 今回の資料を合わせて陶教授は、松陰らは25日午前2時ごろミシシッピ号にたどり着き、2時45分ごろポウハタン号に乗艦、約45分滞留し、3時半ごろ送還へ--と結論づけた。2人はその後自首し獄につながれた。
 陶教授は「事件の貴重なデータであり、松陰の厳格な時間観念と驚異的記憶力も裏づけられる」と話している。

◇梅渓昇・大阪大名誉教授(日本近現代史)の話
 松陰が時間を大事にすることで時代を正しく認識していたのは重要だ。のちの岩倉使節団などにつながる日本近代化の先駆けとなった松陰の向学心を知ってもらいたい。


下田密航事件:米艦日誌に記載 事件の時間経過詳細に
<下田密航事件>米艦日誌に記載 事件の時間経過詳細に
 幕末の思想家、吉田松陰が1854年、静岡・下田沖に停泊していたペリー提督の黒船に乗り外国へ密航しようとした事件の詳しい時間経過が、陶徳民・関西大教授(東西文化交流史)が米国立公文書館で発見した資料から分かった。松陰が事件の7カ月後に著した回顧録「三月廿七夜記(にじゅうしちやのき)」の記述と矛盾がなく、その現代的な時間感覚が浮かぶ。この「下田密航」から25日で155年。
 記録が見つかったのはペリー提督が率いる艦隊の旗艦、ポウハタン号の航海日誌で、記載責任者はマクルーニー艦長。1854年4月25日の欄に「(午前)2時45分、2人の日本人が小さいボートで乗艦してきて、約45分間滞留した。乗艦した際、彼らのボートが漂失したため、提督の指示で本艦の小艇で岸辺へ送還された」と書かれていた。「2人の日本人」は、吉田と従者の金子重之助を指す。
 事件はぺリーが再来航し、日米和親条約の締結後に起きた。2人はポウハタン号より前にミシシッピ号へ乗艦を試みた。公式記録「ペリー艦隊日本遠征記」は、それを「午前2時ごろ」と記す。
 今回の資料を合わせて陶教授は、松陰らは25日午前2時ごろミシシッピ号にたどり着き、2時45分ごろポウハタン号に乗艦、約45分滞留し、3時半ごろ送還へ--と結論づけた。2人はその後自首し獄につながれた。
 陶教授は「事件の貴重なデータであり、松陰の厳格な時間観念と驚異的記憶力も裏づけられる」と話している。【岸俊光】

 梅渓昇・大阪大名誉教授(日本近現代史)の話 松陰が時間を大事にすることで時代を正しく認識していたのは重要だ。のちの岩倉使節団などにつながる日本近代化の先駆けとなった松陰の向学心を知ってもらいたい。



佐賀
「近代化産業遺産群」に登録へ佐賀藩史跡を視察 世界遺産登録推進協6委員
 「九州・山口の近代化産業遺産群」の世界遺産登録を目指している推進協議会(事務局・鹿児島県)の専門家委員6人が24日、佐賀市を訪れ、同遺産群に盛り込まれていない幕末佐賀藩の近代史跡を視察した。一行は、日本初の西洋式反射炉跡「築地反射炉跡」や日本初の本格的海軍所跡「三重津海軍所跡」などで市教委の担当者らから説明を聞き、写真を撮るなどして、近代化産業遺産群にふさわしいか判断する材料を集めた。
 一行はいずれも外国人の建築家や大学教授らで、視察の結果をリポートにまとめ、同協議会に報告する。
 「九州・山口の近代化産業遺産群」には、県内から唐津市の旧高取邸しか登録されておらず、幕末佐賀藩の史跡も登録すべきとの声が識者から上がっている。
 地元では、佐賀伝承遺産研究会(土師(はじ)俊資会長)がシンポジウムを開くなどして啓発。佐賀市や県は、築地反射炉跡、三重津海軍所跡のほか、多布施反射炉跡、佐賀藩の科学工場跡「精煉方跡」の近代化産業遺産群登録を目指し、将来的には同遺産群が世界遺産になることを目標にしている。
 築地反射炉跡がある日新小では昨年12月、佐賀市教委や佐賀大などが初めて調査を実施。レーダーを使って地中探査をした。今月20日からは、三重津海軍所跡の約1500平方メートルの空き地で、市教委が海軍所の正確な場所の特定などを目指して発掘調査を行っている。
 視察後、専門家委員のニール・コソンさん(70)(英国)は「今回視察した中では、考古学調査がきちんと行われて発掘資料がそろっている点で、三重津海軍所跡が最もよかった」と感想を語った。
 視察に立ち会った佐賀伝承遺産研究会の土師会長は「ハードルはまだまだ高い。佐賀大などの研究機関が調査を重ね、残っている資料の信頼性を高めなければならない」と話していた。(尾畑実輝雄)



長崎
春の港彩る花火とライトアップ 長崎帆船まつり
 長崎市の水辺の森公園一帯で開催中の「2009長崎帆船まつり」(同実行委主催)で、二十四日夜、約一千発の花火が打ち上げられた。あいにくの雨となったが、イルミネーションが施された帆船との競演に、詰め掛けた来場者から大きな歓声が上がった。
 長崎港に赤やオレンジ、緑など色とりどりの花火が上がると、来場者は「きれい」「すごい」と華やかさに見とれていた。妻と訪れた同市西町の介護職員、有塚健一さん(37)は「迫力があった。帆船のライトアップも加わり、余計にきれいに見えた」と話した。
 打ち上げ花火は、二十五、二十六の両日も午後八時五十分から実施予定。


咸臨丸子孫の会に情報提供を 帆船まつり会場で名簿や写真展示
 「咸臨丸(かんりんまる)乗組員の子孫はいませんか」-長崎港一帯で開催中の「2009長崎帆船まつり」会場で、咸臨丸子孫の会(小林賢吾会長)が展示ブースを設けて呼び掛けている。
 幕末の一八六〇(万延元)年、日本人初の太平洋横断に成功した軍艦咸臨丸は、五七年から五九年まで長崎海軍伝習所の練習艦だった。乗組員の中には長崎出身の船員が計三十人いたが、その子孫の所在は不明だ。
 咸臨丸子孫の会は一九九四年に発足、現在二百七人が加入している。今回は小林会長(71)=東京都=と、軍艦奉行木村摂津守の子孫・宗像信子さん(60)=さいたま市=が来崎。本県唯一の会員、吉田幸男さん(61)=諫早市原口町=と合流し、水辺の森公園に展示ブースを設けた。
 ブース内には長崎の乗組員三十人の名前と出身地を記した名簿や、船員の写真、咸臨丸内部を精密に描いた絵図などを展示。資料に見入る人々に三人が情報提供を呼び掛けた。
 小林会長は「最近四国で約十人の子孫が見つかった。長崎出身の船員のおかげで無事に航海できた。長崎で子孫の方が見つかったらぜひお礼を言い、先祖の素晴らしい功績をたたえたい」と話した。


カバの赤ちゃん「龍馬」と命名 長崎バイオパーク
 西海市西彼町中山郷の長崎バイオパークで今月、カバの「モモ」と「ムー」の間に生まれた雄の赤ちゃんの名前が「龍馬(りょうま)」に決まった。来年始まるNHK大河ドラマ「龍馬伝」の主人公で、長崎との縁が深い幕末の志士、坂本龍馬の名前にちなんだ。
 名前の公募には来園者から二千百六十四件の応募があり、このうち「龍馬」は七件あった。同パークによるとカバは漢字で「河馬」と書くことから「馬」つながり。赤ちゃんは二〇一〇年春に鹿児島市の動物園に行くことが決まっており、「龍馬とゆかりのある鹿児島市民に温かく迎えてもらう話題性ある名前ということが決め手になった」としている。
 「龍馬」は四月一日にモモとムーの第三子として生まれ現在、推定で体長約九〇センチ、体重約五〇キロ。生まれた時よりひとまわり大きくなった。陸に上がり、母親のモモの腕枕でのんびりと昼寝する姿も見られるなど、すくすくと成長している。
 「龍馬」の名付け親になった七人には感謝状と、カバの縫いぐるみ、カピバラ抱き枕のセットを贈る。

 「カバの縫いぐるみ」はわかるが、なぜ「カピバラ抱き枕」も抱き合わせに(爆)。





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