忍者ブログ
新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
 大河ドラマ『天地人』からは完全に脱落モードです……画面を見ているだけで、ストーリーに入り込めない^_^;。ひとつの理由はどうやら、主人公(ヒーロー&ヒロイン)のために誰もが進んで泥をかぶり、主人公は汚れないという筋書きのせいかと思います(父親が泥をかぶってくれるってのを何も言わずに受け容れてしまうって、どうよ・汗)。
 もうひとつ挙げると、美男キャラに対峙するキャラ=悪役って距離感かなぁ……主人公の至らなさを批判する立場は悪役とか意地悪キャラになるって、朝ドラはともかく(いや、朝ドラでも最近は辟易・汗)、ダイナミックに時代を描いて欲しい大河ドラマでは書き割りみたいに時代背景が薄っぺらくなってしまうんですよね(^^ゞ。価値観は違うけどライバルとか、少年マンガの王道でもいいから、そういう距離感が欲しい。
 主人公直江兼続も、お館様・上杉謙信も、景勝様も、先週お亡くなりになった上杉景虎も、なぜか真田の忍びとふたりきりで登場する場面ばかりで薄っぺらい織田信長も、周りの登場人物に引き立てられるのが当然という役回り……それぞれの生き方や価値観が相対的に見えないので、立体感がないんですよね。その時その時に入れ込んだキャラが主人公化して主観になる、というのは、何となくですが、少女マンガの手法なんですよね……戦国時代を描くには、そぐわない気がします。
 同じ時代を描く作品でも、史実をもとにキャラクター造型しただけで史実からぶっ飛んでしまっているアニメ『戦国BASARA』の方がダントツで面白いと感じるのは、自分が子供の頃から少女マンガより少年マンガを好んでいたこともあるのでしょうが……やはり、主観中心のキャラの描き方と複数のキャラをぶつけ合う相対性による描き方の違いに対する好みの違いが大きいようです。
 あ、『侍戦隊シンケンジャー』もダントツで面白いです(滝汗)……新登場のキャラが、昔懐かし『怪傑ライオン丸』の虎錠之介・タイガージョーとか『人造人間キカイダー』のサブロー・ハカイダーを彷彿とさせるキャラで、好みです。演じている俳優さんの声がどこかオダジョに似てて、声の良い人に惚れがちな白牡丹、くらっと来ました(汗)。

山形
歴史に思いはせる
∞首眠る説の寺で近藤勇の142回忌
 ロマン語る会法要
 新選組局長の近藤勇の首を埋葬した、という説のある米沢市鍛冶町の高国寺で24日、142回忌法要があった=写真。「近藤勇のロマンを語る会」(大友久太郎会長)主催で、ことしが4回目。
 近藤は江戸・板橋で処刑され、首は京・三条河原でさらされた、というのが定説。ところが「語る会」の小林研風副会長によると、米沢の織物業者だった近藤のいとこの金太郎が商用で江戸にいて、偶然処刑を知り、首を盗み米沢に持ち帰ったという。「全国に近藤勇の墓は8カ所あるが、首はここに間違いない」。この説を知ってすぐに会を結成した。
 この日は近藤家ゆかりの人など二十数人が参列、29日の「米沢上杉まつり」の時代行列には、同寺で盛大に出発式を開き送り出す予定だ。

 合掌……。

神奈川
都市発展記念館で「横浜建築家列伝」展-都市形成の歴史を紹介
都市発展記念館で「横浜建築家列伝」展-都市形成の歴史を紹介
 横浜都市発展記念館(横浜市中区日本大通12、TEL045-663-2424)で4月25日、幕末から戦後モダニズム期にかけて活躍した建築家とその作品を紹介する企画展「横浜建築家列伝」が始まった。
 同展では、設計図面や建設時の写真や建築家が書いたスケッチを豊富に用いながら、横浜の都市形成の変遷を「横浜開港と居留地建築家たち」「モダンデザインの萌芽」「震災復興のデザイン」「建築家J.H.モーガンの世界」「成熟する建築様式」「戦災復興と戦後のモダニズム」の6つの時代に分けて紹介している。
 山手の西洋館「ベーリックホール」を設計したJ.H.モーガンによる「ニューグランドホテル屋上の増築設計」では、検討された複数のデザイン案の図面を紹介。また村野藤吾による「横浜市市庁舎」では、他の設計事務所による複数のコンペ案の模型写真を展示している。
 横浜は安政6年(1859年)の開港後、外国人居留地を中心に、洋風建築が建ちならぶ都市が形成された。多くの外国人建築家たちが活躍し、明治半ばには日本人建築家たちがそれに続いた。街並みは、関東大震災で失われるが、その後の復興を経て、昭和の戦前期には多彩な様式の建築群が登場。その後、第二次大戦による戦災の後、新しい世代の建築家たちによるモダニズム建築が普及していったという。
 同館主任調査研究員の青木祐介さんは「企画段階で、ドラフトマン(製図工)だった方の親族から連絡をいただいたことで、ドイツ人建築家デラランデの集合写真が新たに発見されました。外国人建築家の設計事務所の雰囲気を伝えるとても貴重な一枚」と話している。
 関連企画として、展示物の解説会や、大倉山記念館での講演会や音楽会、6月2日にオープンする「象の鼻パーク」を訪れる「夏休みこどもウォーク」、山手234番館でのパネル展示もおこなわれる。
 開催時間は9時30分~17時。8月30日まで。


愛知
福島正則の若き日の姿見つかる 清洲城主務めた戦国武将
福島正則の若き日の姿見つかる 清洲城主務めた戦国武将
 戦国武将・福島正則(1561-1624)の肖像画が、古里の美和町内の旧家から見つかった。福島家が江戸初期にお家断絶となった影響から、現存する肖像画は少なく、これまで全国で3点しか見つかっていない。5月1日から町歴史民俗資料館で始まる「郷土の戦国武将展」で初公開される。
 正則は、幼少から豊臣秀吉に仕え、清洲城主や広島城主を務めたが、1619(元和5)年に城の石垣を幕府の許可なく直した罪で信州川中島に減封。その後、お家断絶となった。
 見つかった肖像画は甲冑(かっちゅう)姿。胴には、福島家の家紋である桐(きり)が描かれ、シカの角を付けたかぶとをかぶっており、関ケ原の合戦で東軍先鋒(せんぽう)を務めた荒々しさが表現されている。
 調査した鎌倉崇志学芸員によると、画材などから幕末から明治期に描かれたとみられ、若々しい表情が特徴。床几(しょうぎ)に腰掛けた姿などから、菩提(ぼだい)寺である同町二ツ寺の菊泉院に残る肖像画を模写した可能性があるという。
 鎌倉学芸員は「戦国武将の肖像画が今になって見つかるのは珍しい」と話す。郷土の戦国武将展は6月末まで。5月3-7日は休館。入場無料。 
 (市川真)

 戦国武将の話題ですが、見つかった画は「幕末から明治期に描かれたとみられ」ということだそうで。



新潟
チベット人声楽家が米百俵賞受賞 新潟
チベット人声楽家が米百俵賞受賞 新潟
 第13回米百俵賞に大阪府吹田市在住のチベット人声楽家、バイマーヤンジンさん(41)が選ばれ、6月15日の「米百俵デー市民の集い」(新潟県長岡市の長岡リリックホール)で表彰楯のほか副賞100万円が贈られることになった。
 米百俵賞は幕末の米百俵の故事にならって財団法人長岡市米百俵財団が人材育成に著しい功績があった個人や団体を表彰している。バイマーヤンジンさんはチベットの初等教育普及のため、チベット学校建設推進協会を設立、年200回ものコンサートや講演で捻出(ねんしゅつ)した資金で小学校9校、中学校1校を開学させたことが選考委員会(半藤一利委員長)で高く評価された。


福井
福井県職員が営業マンに転身? 魅力発信で新組織
 福井県は全庁を挙げて地元の特産品や観光、文化の売り込みを強化しようと4月から、部局横断でアイデアを持ち寄る「営業戦略会議」と、活動の先導役を担う「観光営業部」を立ち上げた。都道府県の部や局の名前に「営業」を付ける例は珍しい。職員を腕利きの「営業マン」に転身させ、福井の魅力を積極的に発信するのが狙いだ。
 「現場主義、顧客主義の徹底」。県は戦略会議で、民間企業さながらの方針を策定。売り込みの目玉として、幕末の福井藩士橋本左内を取り上げた歴史小説や、全国学力テストで上位になった県教育に関する書籍の企画を大手出版社に持ち込む構想が上がっている。
 また、県立恐竜博物館(勝山市)を中心とした恐竜ブランドや、越前ガニなどの特産品の売り込み、映画やテレビドラマのロケ地の誘致などに向け、職員を積極的に県外に派遣する予定だ。
 営業活動の経験が乏しい職員に民間のノウハウを学ばせるため、企業の営業経験者を講師に招いて研修会を開いたり、県内企業と一緒に売り込み先を訪問したりする計画もある。

 「幕末の福井藩士橋本左内を取り上げた歴史小説」って、今までないんでしょうか(汗)。


愛媛
歴史教科書の秀吉画像 宇和島の伊達博物館で特別展示 愛媛
歴史教科書の秀吉画像 宇和島の伊達博物館で特別展示 愛媛
 ゴールデンウイークを前に、歴史の教科書などでおなじみの国指定の重要文化財「豊臣秀吉画像」(宇和島伊達文化保存会所蔵)の特別展示が、愛媛県宇和島市の市立伊達博物館(本田耕一館長)で開かれている。5月10日まで。
 秀吉画像(縦130センチ、横104センチ)は、秀吉の側近だった伊勢安濃津(現三重県津市)5万石の城主、富田知信が、秀吉の死後、秀吉をしのんで狩野派の絵師に描かせたもの。
 絵の特徴として、顔や手の部分を特に小さく表現している。知信の子、信高は、関ケ原の戦功により宇和郡10万石を拝領した際、父の菩提(ぼだい)寺として金剛山正眼院を建立し、寺に画像を寄進。寺は幕末に、宇和島8代藩主伊達宗城に献上した。
 本田館長(63)は「全国で何点か残されている画像のなかでは、伊達家所蔵のものが一番大きくて威厳があると思っています。この機会にぜひ足を運んでください」と話していた。


香川
引田の古いまち並みで「端午の節句まつり」開幕
 香川県東かがわ市引田の古いまち並みで25日、「端午の節句まつり」が始まった。ノスタルジックな雰囲気が漂う建物内に貴重な甲冑(かっちゅう)や子ども大将飾り、かぶと飾りなど男児の健やかな成長を願う5月人形が飾り付けられ、訪れた家族連れらが見入っていた。5月6日まで。
 同まつりは、讃州井筒屋敷と周辺のかめびし屋、手袋ギャラリー、讃州笠屋邸で開催。幕末から昭和初期にかけての郷土の節句飾りなど約20点を展示。讃州井筒屋敷では期間中、多彩なイベントも行われる。
 この日はあいにくの雨だったが、県外観光客の姿もあった。讃州井筒屋敷では、江戸末期から伝わる鎧兜(よろいかぶと)のほか、勇ましい表情の子ども大将飾りや武者人形などが展示され、旧家の家庭がよみがえったよう。竹とんぼやこま回しなど昔遊びも体験でき、親子らが楽しんでいた。
 名古屋市の主婦林恵さん(36)は「家では節句飾りができないので、子どもが勇ましく健康であるようにとお願いしました」と話した。




佐賀
世界遺産:築地反射炉跡など、遺産化へ視察--推進協専門委 /佐賀
 「九州・山口の近代化産業遺産群」の世界遺産登録を目指す推進協議会(事務局・鹿児島県)の専門家委員会が24日、幕末の築地反射炉跡や三重津海軍所跡など、佐賀市内の史跡を現地調査した。
 世界遺産暫定リスト入りが決まった同遺産群には、佐賀藩の築地反射炉跡、多布施反射炉跡、精煉方跡、三重津海軍所跡の4史跡が含まれず、市や市民らが追加のリスト入りを目指している。
 専門委は世界遺産登録に詳しい海外の研究者らで構成され、今回の視察には委員6人が参加。同市の川副町と諸富町にまたがる三重津海軍所跡では、佐野常民記念館で説明を受けた後、発掘現場などを視察した。
 委員のニール・コソン氏は、公園として保存されている海軍所跡について「一番説得力があった」と高く評価。その上で、他の史跡を含め「全体像を理解するには、考古学調査がさらに必要」との見解を示した。
 専門委は9月、推進協議会に提言書を提出する予定。【姜弘修】


長崎
幕末の志士 力強く 長崎市の商業施設 竜馬と海舟の像展示
 長崎ゆかりの幕末の志士、坂本竜馬の像と、師匠の勝海舟の像が25日、長崎市茂里町の商業施設「みらい長崎ココウォーク」に展示された。同市伊良林3丁目の風頭公園に建つ「坂本龍馬之像」の試作原型も公開され、ファンの関心を集めている。5月10日まで。
 オープニングセレモニーで田上富久市長は、NHKの大河ドラマ「龍馬伝」が来年放送されることに触れ「竜馬役の福山雅治さんは髪を伸ばして『地毛で演じる』と張り切っていた。長崎でも盛り上げていきたい」と語った。
 竜馬像は高さ1メートルで、「龍馬之像」と同様に腕を組み左足を力強く一歩踏み出したポーズ。その横に勝海舟の座像が並ぶ。
 「龍馬之像」や今回の像を制作した同市の彫刻家山崎和国さん(74)は「像を制作しながら、何事も信念を持ってやり遂げる竜馬の精神を学んだ。彫刻家として生きる決心もついた」と語った。


帆船まつり会場に龍馬?登場 長崎青年会議所メンバーら扮装
 長崎市で開催中の長崎帆船まつりの会場に、幕末の志士、坂本龍馬に扮(ふん)した人物が登場。黒いはかまにブーツを履いた姿が来場者の注目を集めている。
 龍馬に扮するのは長崎青年会議所のメンバー四人。同会議所は帆船まつりの一環として、日本の発展に貢献した長崎ゆかりの人をたたえる「先賢顕彰祭り」を開催。集客のため龍馬になりきっている。
 会場をメンバーらが歩くと、子どもたちは「龍馬だ」と駆け寄り大喜び。帆船を下りた外国人乗組員も物珍しそうに記念撮影。龍馬ブームが海を越えて世界に広がるかも。


龍馬像の試作原型など展示 長崎ココウォークで「原展」始まる
 長崎市伊良林三丁目の風頭公園に立つ幕末の志士、坂本龍馬像の試作原型を展示する「龍馬像の原展」が二十五日、同市茂里町のみらい長崎ココウォーク五階、「長崎ぶらぶら街道」で始まった。五月十日まで。長崎龍馬会、長崎新聞社特別協力。
 同展は、みらい長崎ココウォークが主催する「ココウォーク・リョウマ・デイズ」の関連イベント。来月で建立二十周年を迎える龍馬像の制作者で、同市在住の彫刻家、山崎和國さん(74)の協力で実現した。試作原型はポリエステル樹脂製。高さは約一メートルで、坂本龍馬像の三分の一ほどの大きさ。このほかに展示されている試作原型は、勝海舟座像と並ぶ龍馬像、岩崎弥太郎像などがある。
 開場式で、上田惠三長崎自動車社長をはじめ、田上長崎市長、馬渡善裕長崎龍馬会会長、本村忠廣長崎新聞社社長、山崎さんの五人がテープカット。大勢の龍馬ファンが詰め掛け、熱心に鑑賞していた。
 山崎さんは「龍馬が私利私欲を捨て、いちずにやり遂げようとする内面性を作品に込めた。私自身は龍馬像制作を通して、彫刻家として前進できたと思う」と話していた。


長崎で居留地研究会が発足 人々の生活や交流掘り起こし
 「冒険商人」のグラバー、リンガーらが活躍した幕末-明治期の長崎居留地の実態とは-県内の大学教授や歴史研究者らが集い二十三日、長崎市内で「長崎居留地研究会」が発足した。居留地に暮らした人々の生活や日本人との交流など、あまり知られていない歴史に光を当てていく。郷土史に新風を吹き込む役割も期待できそうだ。
 同会は長崎市東山手町の洋館「東山手十三番館」を本拠とし、毎月一回のペースで会合を開く。外国領事館文書、古写真、国際墓地の墓碑などの分野で研究を進め、成果を会報で発表する。
 長崎居留地には貿易商、技術者、教育者らが住み、日本人と交流しながら西洋の優れた科学技術と思想をもたらした。だが、居留地は日本独立の体面を傷つける屈辱的な存在というイメージもあり、詳細な研究は進んでいなかった。
 居留地研究は神戸、横浜で盛ん。函館にも三年前に研究会が発足した。本県では故菱谷武平・長崎大教授が居留地の整備工事や自治制度を中心に調べたが、そこに暮らした人々などの研究は手薄だった。
 横浜と神戸の外国領事館文書は戦時中の空襲で多くが失われたが、長崎は比較的無事だ。長崎英国領事館の幕末-戦前の数万枚に上る文書はマイクロフィルム化され、長崎歴史文化博物館(長崎市立山一丁目)が所蔵している。
 研究会副会長のブライアン・バークガフニ長崎総合科学大教授は「長崎英国領事館文書の翻訳と分析が進めば、かなりの新事実が掘り起こされるだろう。研究会でも扱ってみたい」と話す。
 研究会会長の姫野順一・長崎大教授は、居留地を撮影した古写真を活用したアプローチを考えている。「古写真を基に、居留地の町並みをコンピューターグラフィックスで再現してみたい」と言う。
 研究会が重視するのは「歴史物語」の掘り起こしだ。これまでの居留地研究は、洋館群の分析など建築学的観点が中心。そこにどんな人が住み、どのような交流が生まれ、長崎に何をもたらしたのか、という「血の通った歴史」は未解明の部分が多かった。
 バークガフニ教授は「人々の興味を引く歴史物語を発掘し、グラバー園など観光施設の展示充実や、長崎居留地まつりの活性化に生かしたい」と話す。日本の近代化に大きく貢献した居留地の歴史が注目を浴びそうだ。
 年会費は千円。問い合わせはグラバー園管理事務所内の研究会事務局(電095・822・8223)。



米国
元祖ホームステイ?ジョン万次郎の恩人宅を修復
 【ニューヨーク=田中光】少年の時に漂流民として米国生活を経験し、帰国後は幕末の日米関係構築に貢献した「ジョン万次郎」こと中浜万次郎が米マサチューセッツ州に到着した日にあたる5月7日、万次郎が身を寄せた米国の恩人旧宅が修復を受けて記念館としてオープンする。
 記念館になるのは、捕鯨船で日本近海を航海中、漂流していた万次郎を救って米国に連れ帰り、面倒をみたホイットフィールド船長の自宅。
 マサチューセッツ州フェアヘーブンに今も残る邸宅は当時の趣を残すが、築200年を超え、老朽化が進行していた。このことを知った聖路加国際病院理事長の日野原重明さん(97)らが、日米友好促進の立場から修復に向けた募金を呼びかけたところ、今年3月までに約1億1千万円が集まり、開館にこぎつけた。
 開館の日には、日野原さんや、万次郎から5代目にあたる中浜京さんをはじめ、元駐米大使ら100人以上が駆けつけ、草の根の日米交流の重要性を再確認する予定だ。
 自分も父親も米国留学の経験がある日野原さんは「民間レベルの文化交流こそが平和を探る道だ。日米関係の礎をつくった万次郎の功績を再確認したい」と訴える。
 現地で準備を進めてきたジェラルド・ルーニーさんも「草の根交流の象徴として、大切に保存していきたい」と話している。




コラム
【探索座頭市伝説】(上)追いはぎに襲われ湖転落 座頭転ばし七曲り
 「天保の頃、下総飯岡の石渡助五郎のところに座頭市という盲目の子分がいた」。こんな一節で、『座頭市物語』は始まる。子母沢寛の歴史随筆集『ふところ手帖』(昭和36年出版)に収められた、文庫本でも10ページしかない小編の主人公は、映画で勝新太郎が演じ、一躍ヒーローに躍り出た。座頭市は実在したのか。伝説が残る福島県内以外にも足を伸ばし、調べてみた。(土樋靖人)
 子母沢寛は、文芸春秋の昭和41年9月号に掲載した『真説・“座頭市”物語』の中で、座頭市の話を仕入れた経緯を記している。千葉県佐原市の知人の誘いで銚子市の南にある飯岡(現旭市飯岡)を訪ねた際、宿屋の主人から座頭市のことを聞いた。
 「はじめはどうも目が見えたらしい。タンポポの花が咲いているといえば、『ああ、タンポポの花は黄色くてきれいだなあ』といったそうだ」「飯岡にいついた市は、はじめ助五郎の子分みたいなことをしていた。そのうちにバラックのような網小屋を見つけて、そこに寝泊りするようになった。(中略)やがて網小屋の持ち主の十五、六の若い娘が市のめんどうをみるようになった」「人を斬ったという話はない。枡を放り上げて落ちてくるところを下から切ったとか、徳利を切ったとかという話があるだけ」…。
 飯岡の助五郎や助五郎と争った笹川の繁蔵は、浪曲や講談で有名な『天保水滸伝』に出てくる侠客(きょうかく)で、江戸時代後期に実在した。旭市やその北隣にある東庄(とうのしょう)町には碑や墓が立っている。また、天保15(1844)年に助五郎が繁蔵を襲撃したとき死んだ繁蔵の用心棒、平手造酒(みき)(『座頭市物語』では平田深喜)の碑もある。
 助五郎らが実在の人物なら、「座頭市も」との期待を抱かせる。だが、座頭市が飯岡の地にいたことを示すものは何もない。旭市市史・文化財審議委員長の松井安俊さんも「信憑(しんぴょう)性に乏しい」と否定的だ。座頭市の碑を建てるような動きもない。
 物語の中で、座頭市は貧乏漁師の滝蔵の納屋に、滝蔵の娘のおたねと住んでいた。漁師の納屋なら、海っ端にあっただろう。飯岡の浜に行ってみた。九十九里の長い砂浜が春の陽光の下で輝いていた。座頭市が本当にいたら、この辺りにねぐらを構えていたのかなと、想像をめぐらせた。
   ■   ■
 一方、『座頭市物語』の末尾。「その後の消息は確(しか)と知る由もないが、一説に足利在に住み百姓として静かな天寿を完うしたとも言うし、何んでも遠く岩代の安積山麓猪苗代湖の近くの小高い丘の辺りに住んだともいう。おたねは、湖に映る明月の夜を、座頭の妻として悲しんだかどうか」と結ばれている。
 猪苗代湖の南岸にある福島県郡山市湖南町の言い伝えによると、座頭市が会津街道を会津に向かっているとき、福良の宿で賭け事をやり大勝ちした。湖の反対側の戸ノ口まで舟で渡るため、翌朝暗いうちに宿を出て、舟津港に向かっていたら、途中で襲われて湖に落とされた。この場所を、地域の人たちは「座頭転ばし七曲り」と呼ぶ。
 現在、そのがけ下には県道が通っているが、これは明治時代に作られたもの。猪苗代湖南民俗研究所主宰の橋本勝雄さんは「一般には山を越して歩いていた。福良からここまで来る前に新田坂という峠があり、そこが昔から追いはぎが出る所だった。そこを無事越して安心したら、その先のここで待ち伏せを受けたという物語になっているわけ」と話す。
   ■   ■
 湖に落ちた座頭市は近くの農婦に助けられ、九死に一生を得た。足の治療に2年ぐらいかかったが結局、遠歩きできるようにはならなかった。そのうちに女房のおたねが風の便りに、座頭市が福良にいると聞いて、訪ねてきた。そして、2人で農家の手伝いをしながら暮らした。座頭市は近在の人たちに按摩(あんま)や、大津絵流しという会津で有名な民謡を教えたりもしていたという。明治時代まで生きていたとの説もある。
 座頭転ばし七曲りは、高さ10メートルはあろうか。いまはコンクリートが打ち付けられ、崩れないようになっている。そばに、「ケアハウスグリーンライフ小磯」という福祉施設が建っているが、その辺りに座頭市が住んでいたらしい。ケアハウスの裏山を登り、座頭転ばしのがけ上に立った。舟津港を見下ろせた。盲目の座頭市がここから落とされたら、確かに命が危うかっただろうなと思われた。
     ◇
 ■子母沢寛 本名・梅谷松太郎。明治25(1892)年、北海道厚田村(現石狩市)に生まれ、祖父母に育てられる。明治大卒業後、木材会社社員などをへて、新聞記者をしていた昭和3(1928)年、『新選組始末記』を処女出版。以後、股旅ものや維新ものを中心に、数多くの作品を発表した。代表作に『国定忠治』『勝海舟』『父子鷹』『逃げ水』など。43年没。

 座頭市が『新選組三部作』を書いた子母沢寛さんの作品であったことも、天保を舞台にしていたことも知りませんでした……勝新太郎が演じる座頭市のパロディを見たことはあっても、元ネタとなっている映像作品を見てないからなぁ^_^;。
 「笹川の繁蔵」とか「平手造酒(みき」は南春夫の『大利根無常』を聞いていたので知っているんですが(爆)。「止めて下さるな妙心殿 落ちぶれ果てても平手は武士じゃ 男の散り際だけは知っており申す 行かねばならぬ そこをどいて下され いかねばならぬのじゃ~」……自分が生まれる前にできた作品ですが^_^;。

置き薬
富山から始まった

「救療」の志 行李に詰め

 薬を入れた柳行李(ごうり)を担ぎ、家々を回る「売薬さん」の姿を見て育った。学校でついたあだ名は「漢方」。これも宿命だったのか、奥田康夫さん(60)が薬業に身を置いて30年余りが過ぎた。
 生家は、富山市の薬問屋「奥田庄太郎商店」。薬売りで知られる街とあって薬問屋が多く、「反魂丹(はんごんたん)」や「六神丸」という和漢薬の製造元「広貫堂」も近い。
 古めかしく、薬のにおいが漂う家が嫌で、新潟大に進んだ。卒業後、入社したのが東映。ヤクザ映画の制作にかかわったが、27歳の頃、仕事に行き詰まって現場を去った。職を探すうち、なぜか浮かんだのが「売薬さん」だった。
 東京・練馬に事務所を借り、小箱に薬を詰め、背広姿で一軒一軒歩いた。玄関先で「薬を置かせてもらえませんか」と頼んでも、断られ続ける日々。ある日、年配の主婦に言われた。「あなたが富山の薬屋さんだったらねえ」
 翌日、試しに訪問先でネクタイを外し、「富山の薬屋です」と切り出してみた。ドアが開き、薬箱を受け取ってもらえた。それから順調に顧客が増えていく。
 なぜ、そんなに信用があるのだろう。不思議に思って後年、故郷の歴史をたどり、300年以上語り継がれる戒めを知った。「商人となるより、薬業人となれ」

 明治時代、旧富山藩士、岡本昭が編んだ『富山反魂丹旧記』から売薬の由来がうかがえる。この地では江戸前期の1690年(元禄3年)に端を発するらしい。
 ――江戸城内。突然、腹痛に見舞われた三春藩(現・福島県)の藩主に、居合わせた富山藩2代目藩主、前田正甫(まさとし)(1649~1706)が、持っていた万能薬「反魂丹」を与えた。痛みはすぐ治まり、薬効が知れ渡って、諸侯が自領での販売を求めた。正甫は反魂丹の製造に力を入れ、薬売りを各藩へ派遣したと伝わる。
 薬草の研究も奨励した正甫はこう説いたとされる。「医療の仁恵に浴せざる寒村僻地(へきち)にまで広く救療の志を貫通せよ」
 薬業人たれという戒めも、この訓示から生まれたのだろう。薬売りたちは「救療」の使命感をもって山を越え、川を渡って北へ南へ旅を続け、やがて「先用後利」という商法を編み出した。得意先に薬を預け、次に訪れた時、使われた分だけの代金を回収するシステム。置き薬の始まりだ。
 10万石の小藩だった富山藩は薬業に活路を見いだし、「反魂丹役所」を設けて育成に努めた。薬を買いそろえておくのが難しい庶民の間で置き薬は根づき、藩は莫大(ばくだい)な富を蓄えていく。役所自体は明治維新に伴って廃止されたが、薬売りたちは、1876年(明治9年)に共同出資で広貫堂を設立して製薬と置き薬を守った。
 「志」も継がれた。関東大震災の時も、戦時中も、富山から被災地に赴いて薬や米、野菜を配った記録がある。「病を治すことこそが先。利益は後でいいという精神が貫かれているのです」。奥田さんがそう言った。

 「富山の薬売り」はいま、多くが会社に所属し、一人で各地を歩く昔ながらの「売薬さん」は1600人足らず。ピークの1961年に比べて9割減り、平均年齢は60歳代半ばと高齢化が進む。
 1800軒余りの得意先をもつ吉田昌雄さん(68)も、そんな一人だ。「信頼の証しだから」と、18歳から使い続ける行李を車に積んで、北海道と栃木、富山、石川の各県を回る。富山県滑川市の自宅で過ごせるのは、年に3か月程度だが、「真心を込めて、誠を尽くすのが仕事」と胸を張る。
 このところ、気がかりなこともある。置き薬は、広がるドラッグストアやインターネット販売に押されて苦境に立つ。加えて薬事法改正で、大衆薬の販売に資格制度が導入された。後継者不足が深刻化するのではないかと憂える。
 都道府県から販売許可を受けている現在の薬売りに限り、資格がなくても続けられるが、吉田さんは昨年、あえて資格を取った。仲間にも勧めている。「お客さんに安心してもらうため。富山の薬売りを絶やしたくないから」

 薬業人たり得ているか。奥田さんは時々自問する。東京で置き薬の会社を営む一方、3代目として富山で家業も継いだ。経営は楽ではないが、時に仕事を離れて各地で講演し、「志」を語り継ぐ。
 95年の阪神大震災、2004年の新潟県中越地震と、大規模災害のたび、富山の業者は薬や義援金を届けて被災者を支援する。
 海外でも命を守る。草原の民が多いモンゴルで1万世帯以上が置き薬を利用し、世界保健機関(WHO)が07年、「日本方式」として世界に紹介した――。
 救療の商い、そして信頼を育んだ故郷がいま、誇らしい。


半世紀前は1万人
 置き薬を扱う「富山の薬売り」は明治時代、蓄えた「売薬資本」を元に製薬会社「広貫堂」のほか、銀行や電力会社を設け、富山大薬学部の前身、共立薬学校も創設して富山県の近代化に貢献した。
 現在も県の薬業は盛んで、置き薬用医薬品生産額(2004年)は231億円と全国トップだが、薬売り(個人)の数は1961年の1万1685人をピークに減少が続く。一方で、全国の薬売りは、06年時点で会社所属も含めて2万6210人を数えるという。
 富山市には、置き薬の歴史をたどれる施設が多い。売薬資料館では、薬売りが得意先への土産にした版画や紙風船を展示し、広貫堂も併設の資料館で薬袋約150種を展示販売している。薬メーカーの池田屋安兵衛商店では、丸薬作りも体験できる。JR富山駅から車で5分。

文・杉目真吾、写真・追野浩一郎

 越中富山の薬売りの話ですが、実家の薬を行商したと伝えられる、多摩は石田村の歳さんを思いつつ、ご紹介します。



PR
この記事にコメントする
           
お名前
タイトル
メールアドレス
URL
文字色
絵文字 Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
コメント
パスワード   コメント編集用パスワード
 管理人のみ閲覧
この記事へのトラックバック
トラックバックURL:
カレンダー
03 2024/04 05
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30
最新コメント
[12/14 白牡丹(管理人)]
[12/14 ゆーじあむ]
[11/08 白牡丹(管理人)]
[11/07 れい]
[01/21 ゆーじあむ]
[11/15 白牡丹@管理人]
[11/15 ゆーじあむ]
[05/25 長谷川誠二郎]
[07/23 白牡丹@管理人]
[07/23 伊藤哲也]
最新TB
ブログ内検索
アーカイブ
カウンター
プロフィール
HN:
白牡丹
性別:
非公開
自己紹介:
幕末、特に新選組や旧幕府関係者の歴史を追っかけています。連絡先はmariachi*dream.com(*印を@に置き換えてください)にて。
バーコード
Livedoor BlogRoll
本棚
Copyright ©  -- 白牡丹のつぶやき --  All Rights Reserved
Designed by CriCri / Material by White Board

忍者ブログ  /  [PR]