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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
 明日からゴールデンウィーク本番という方が多いかと思いますが、メキシコから各地に飛び火している新型インフルエンザのニュースが気になっています。携帯に地元自治体の防災・気象・治安などのメールサービスを登録しているのですが、今日は感染症危機管理連絡会議を設置したというメールが届いています。

神奈川
地域の歴史ひもといて/厚木市の「市史近世資料編5」刊行
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地域の歴史ひもといて/厚木市の「市史近世資料編5」刊行
 上記リンク先はyahoo!ニュースサイトです。
 厚木市は江戸時代の市内の歴史をひもとく「厚木市史近世資料編(5)村落3・荻野山中藩」を刊行した。戊辰戦争の契機となった幕末の荻野山中陣屋焼き討ち事件について現在確認されている全資料を掲載。複雑な支配体制を強いられていた集落の資料など計五百七十一点が収録されている。
 一八六七年に浪士が同市下荻野にあった荻野山中藩陣屋を襲撃した焼き討ち事件の項目では、藩の報告書や被害者の口上書などの古文書を掲載。当時屋敷内に暮らしていた自由民権運動の活動家・天野政立の回想録には、鉄砲の音に目を覚ますと三方に火の手が上がっていた様子が克明に記されている。
 また、江戸時代の市域に形成された村落のうち、小鮎・荻野地区内の六村についての古文書や古地図も紹介。村落社会や当時の生活実態を読み解くことができる。
 A5判で九百六十四ページ。千五百部発行し、二千六百九十円。市内の公民館や図書館に置かれ、市役所の市政情報コーナーと郷土資料館(同市寿町)で販売されている。
 問い合わせは、同市文化財保護課電話046(225)2060。

 厚木でも「一八六七年に浪士が同市下荻野にあった荻野山中藩陣屋を襲撃した焼き討ち事件」があったのですねぇ。

山口
幕末維新のデータベース開設 山口県
 山口県は、県内の博物館など10施設が所蔵する幕末維新期の資料約3万4600点を検索できる「幕末維新関係資料等データベース」をホームページ上に開設した。1830~90年ごろの文書や美術品の名称や作成者、年代を掲載。吉田松陰や高杉晋作の肖像画や書状など約500点は画像も載せる。



長崎
長崎帆船まつり 10万人減の15万3000人 リピーター獲得に課題
 長崎港で開かれた「長崎帆船まつり」は27日最終日を迎え、集結した世界の帆船7隻中4隻が出港、5日間の日程を終えた。同市によると期間中の来場者は昨年より10万人も少ない15万3000人で過去最低を記録。天候に恵まれなかったとはいえ、リピーター獲得策が課題となりそうだ。
 今年は安政の開港(1859年)から150年の節目と、同まつり開催10周年が重なった。市は開港記念イベントの「長崎さるく幕末編」とのタイアップや花火大会を増やすなどの工夫をするとともに、ETC装着車の高速道路料金割引効果にも期待した。しかし、雨や強風に見舞われたこともあり、日間の最多人数が8万人(26日)にとどまるなど集客は伸びず昨年比約4割減の大幅ダウンとなった。
 市文化観光総務課は「天候のせいもあるが飽きもあるかもしれない。来年は海フェスタと合わせてより楽しんでもらえる企画にする」と話した。




コラム
誰も知らない西郷隆盛の顔
 先週、幕末のフルベッキ写真についてリポートした。今回も同時期の写真がテーマだ。あまりにも有名な人物だが、本当の顔は不明とされる歴史上の偉人・西郷隆盛。彼の真実の姿を写した写真は果たして実在するのだろうか?

 わが国に、カメラが伝来したのは1841年である。当時、鎖国中の日本が唯一交易していたオランダからもたらされたのである。渡来した当初は「写真に撮影されると魂が吸われる」「3人で撮影すると真ん中の人が死ぬ」との風聞が流布し、なかなか普及しななかった。だが、先端技術に理解を示した坂本龍馬や長州藩士など幕末の志士たちが次々と写真を撮影したことから世間一般に普及していくこととなり、多くの幕末関連の写真が残されることになった。そのため、現代でも当時の日本の風俗や有名人の人相を確認できる。
 これら一連の古写真は、貴重な歴史的資料であり、現在でも歴史学者や幕末ファンに謎とロマンを与え続けている。幕末写真における最大の謎と言えば、薩摩藩の英傑・西郷隆盛の顔写真であろう。実は、西郷隆盛の正確な顔写真はいまだに見つかってないのだ。これには理由がある。薩摩藩の中核人物であった西郷は、他藩や幕府からマークされており、常に暗殺の危機があったからである。テレビや新聞のない当時、暗殺のターゲット確認には、写真か人相書を使うしか方法がなったのだ。
 西郷隆盛の写真や肖像画は数多く残されているが、どれも確実なものはないのだ。西郷隆盛の顔と言えば上野公園に屹立している西郷隆盛像が連想されるが、この像の人相は本物の顔ではない。よくこの顔を西郷の顔だと思い込んでいる人がいるのだが、まったく、別人の顔をしているのだ。
 実はこの銅像の人相は、西郷隆盛の実弟である西郷従道と従兄弟の大山巌の顔をモンタージュし、画家のエドアルド・キョッソーネが作り出した絵画なのだ。また、銅像の披露式典に出席した西郷の未亡人がこの銅像を見て、一言「あん人は、こんな顔じゃなか」とつぶやいたというのだ。ほかにも「これこそ本物の西郷隆盛の顔をとらえた写真ではないか!」とうわさされた写真は、いくつかある。

 秋田県仙北市角館にある旧家青柳家で発見された名前が削りとられたカルタ写真が、一時大きな話題となった。名前を削り取られた理由は、西南戦争で反逆者とされた西郷隆盛の写真であるからではないかと推測されたのだ。だが、結果発見された謎の写真の人物は、西郷隆盛ではなかった。一番の相違は写真の人物の着ている服が文官の服であり、軍人であった西郷隆盛の服とは言えなかった点である。また、奈良県で発見されたという西郷隆盛の上半身の写真は、キョッソーネの描いた人相画に似たポーズで写っており、銅像と人相も似ていた。だが、警察の鑑定によると、西郷の人相画(キョッソーネの絵を元にしたもの)を、何回も複写したため、写真のように見えているという真相であった。
 今回、NMR調査チームは1枚の西郷隆盛の肖像写真を入手した。この写真は明治時代に配られたものであり、画像の下部に「西郷隆盛」と記されている。この「西郷隆盛なる人物」は、見事な口ひげをはやし、フロックコートを軽快に着こなし、腕を台に置いているしゃれた男である。
 「西郷隆盛とは、こんなにおしゃれな男だったのか!」。NMR調査チームも色めき立ったが、残念ながらこの写真は本物ではなかった。実は、この男・永山弥一郎という西郷の腹心の武人であった。永山は人相が西郷隆盛に酷似しており、幕末の動乱期にたびたび影武者を務めていたのだ。この永山は西南戦争でも影武者を務めており、西郷軍の下級兵士の中には、永山のことを西郷隆盛だと思い込んでいる者も多かった。そのため、西郷の死後、永山の写真が西郷隆盛の写真だと喧伝されたのだ。では、西郷隆盛の顔写真はどこにあるのであろうか。ひょっとすると、さらに逆転して「彼は影武者だよ! 永山という男だよ」とされた人物こそ、本物の西郷隆盛ではなかったのか。

◎西郷隆盛
 薩摩藩の下級武士であったが、藩主の島津斉彬の目にとまり抜擢され、当代一の開明派大名であった斉彬の身近にあって、強い影響を受けた。元治元年(1864年)の禁門の変以降に活躍し、薩長同盟の成立や王政復古に成功し、戊辰戦争を巧みに主導した。
 明治4年(1871年)に参議として新政府に復職。さらにその後には陸軍大将・近衛都督を兼務し、大久保、木戸ら岩倉使節団の外遊中には留守政府を主導した。明治6年(1873年)の政変で江藤新平、板垣退助らとともに下野、再び鹿児島に戻り、私学校で教育に専念する。明治10年(1877年)に私学校生徒の暴動から起こった西南戦争の指導者となるが、敗れて城山で自刃した。(ウィキペディアより抜粋)


 文頭「 先週、幕末のフルベッキ写真についてリポートした」とありますが、拙ブログでは記事を紹介してませんでした……フルベッキ写真の話だし、見出しが胡散臭かったし(汗)、ソースが内外タイムスだから(爆)と飛ばし読みしてたもんで(^^ゞ。
 改めて、下記。

龍馬に小五郎、明治天皇が一緒に フルベッキ写真の謎
 幕末の著名人たちが一緒に写っている謎の写真がある。一般にフルベッキ写真といわれるものだが、当時、敵対関係にあった者たちが同じ写真に収まっているのはおかしいと、その真偽については謎だ。今回はフルベッキ写真についてリポートする。

 日本人とカメラの関係は深い。欧米人が日本人に抱くイメージは、眼鏡をかけており、小柄でいつも首にカメラを下げているというビジュアルが多い。われわれ日本人は、見るものすべてを映像として残しておきたいという欲求に駆られる民族なのであろうか。
 日本における写真の歴史は江戸末期までさかのぼる。1841年、鎖国中の日本と交易をしていたオランダから長崎へと技術が伝来した。島津藩の御用商人である上野俊之丞がカメラを購入し、当時島津藩主であった島津斉彬へと献上された。さらに1862年には上野俊之丞の四子・上野彦馬が長崎で日本初の写真館を開設した。だが、当時の庶民が写真に抱くイメージは、「写真を撮ると魂を吸い取られる」という疑心に満ちたものであった。そのため、当初は客足が少なかった。

 しかし、坂本龍馬を初めとした西郷隆盛、中岡慎太郎など幕末の志士たちが次々と写真撮影をしていることがうわさで流れ、人々は写真撮影を好んで行うようになっていった。幕末時に撮影された写真は、現在でも残されており、当時を知る貴重な資料になっている。
 その中でも最も貴重な写真として世間で喧伝されているワンショットがある。それがフルベッキ写真である。フルベッキ写真とは、法学者であり宣教師でもあったオランダ人のフルベッキを中心に、坂本龍馬や勝海舟、中岡慎太郎、西郷隆盛、桂小五郎、高杉晋作、さらには明治天皇まで写っているという非常に不可思議な写真である。この写真は現在でも実際に存在する。フルベッキ写真には確かに幕末の志士と思われる人物たちが写っている。しかし、不思議であるのは長崎という土地に藩や組織を超えて一同に会し、集合写真を撮っているという点である。
 そのため、フルベッキ写真は偽造された写真ではないかとの見解が強い。しかし、フルベッキ写真が本物であった説を推している研究家たちも存在する。彼らの説では、フルベッキ写真は1865年に撮影されたと推定されている。だが、実際にこの年に撮影されたとなると、大きな矛盾が生じる。当時犬猿の仲であった薩摩藩と長州藩が共に写真を撮影するだろうか。坂本龍馬が薩摩・長州の間を取り持つのは、この後のことである。
 現在のところ、フルベッキ写真に写っているのはフルベッキとその弟子たちであったとの説が強い。当時、フルベッキは長崎において法学や神学を教えていた。その弟子たちが、著名な幕末の志士たちに酷似していたというのだ。
 謎のフタを開けてみればなんとも単純なこの写真。しかし、フルベッキ写真が本物であったとすれば、非常に貴重な当時の資料となる。筆者としては、この写真が本物であることを願ってやまない。今後の研究に期待したい。

<プロフィール>
グイド・フルベッキ
 グイド・ヘルマン・フリドリン・フェルベックは、オランダの法学者・神学者、宣教師。オランダ・ザイスト市出身。日本では発音しやすいようフルベッキと名乗り、現在もこのように表記されている。
 米国オランダ改革派教会から布教のため上海から長崎に派遣。しかし明治維新前の日本では宣教師として活動することができず、しばらく私塾で英語などを教え生計を立てていた。やがて幕府が長崎につくった英語伝習所(フルベッキが在籍した当時は洋学所、済美館、広運館などと呼ばれた)の英語講師に採用。大隈重信、副島種臣と親交があったという。
 オランダで工科学校を卒業した経歴から、工学関係にも詳しく本木昌造の活字印刷術にも貢献。(ウィキペディアより抜粋)

 撮影したフルベッキさんには何の問題もないと思います……「フルベッキを中心に、坂本龍馬や勝海舟、中岡慎太郎、西郷隆盛、桂小五郎、高杉晋作、さらには明治天皇まで写っている」という説になっているということが問題なだけで(爆)。



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