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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
 桜が満開になりましたので、花見散策に行ってきました。今日も雲が出て、せっかく咲きそろった桜の色がいまいち空に映えません……明日また天気が崩れるそうで、今年の桜は天候に恵まれていない気がします。

福島
霞ヶ城公園の桜は4500本
二本松市が上方修正毎年の植樹成果

 二本松市は、市内にある県立霞ヶ城公園のソメイヨシノなど桜の本数を従来の1700本から4500本に上方修正し、観光ガイドなどに表記した。桜の名所として知られる青森県・弘前公園の2600本を大きく抜き去ることになり、二本松市観光課は「城址(じょうし)公園の桜の本数では全国有数。数を強調して全国にPRしていきたい」と張り切っている。
 霞ヶ城公園内にある二本松城は室町時代に築城されたが、戊辰戦争で焼失した。城跡は2007年7月に国の史跡に指定され、日本城郭協会(東京都)が定める「日本100名城」の一つに数えられている。
 二本松市観光課によると、公園内の桜の数については30年以上前から1700本としてきた。しかし、1980年代に入って老人クラブなどが毎年、約200本の苗木を植えるようになり、大きく育った分の本数と面積から4500本と算出。桜のシーズン本番を前に、市の観光ガイドやホームページの数字を修正した。
 毎年20万人が訪れる「霞ヶ城公園桜まつり」は今年4月10日から5月5日にかけて開かれ、桜のライトアップや臨時バスの運行がある。二本松市観光課の紺野隆雄課長は「霞ヶ城公園の桜は、規模の点で全国の名所に負けていない。もっと桜を増やして日本一の桜の里を目指したい」と話している。



福井
郷土史家・上杉喜寿さん死去
 白山や九頭竜川など自然と歴史を題材にした著作を多く残した郷土史家の上杉喜寿さん(96)=永平寺町在住=が先月31日、死去した。故郷・福井県の山河の由来や伝承を克明に記した著作からは、野山を歩いて培った鋭い観察眼と郷土愛が伝わってくる。
 1914年3月、旧松岡町(永平寺町)生まれ。県立福井師範学校を卒業後、奥越や嶺南の小学校を中心に勤務した。73年に池田町の池田第一小学校校長で退職後、漢文や変体仮名などを独習し、古文書の解読に励んだ。
 「山々のルーツ」や「河川のルーツ」、「北前船の人々」といった著作の中で、最も力を入れていたのは「白山」だった。すべて違ったルートで100回以上も登頂。すそ野に点在する神社仏閣の有り様や登山道に咲く草花を丹念に記録した。
 「幼い頃に見た白山にあこがれを抱いていたようです。白山は福井の山だというのが口癖でした」と、長男の明さん(61)は振り返る。
 60~70代後半にかけて携わった池田町史や河野村史の執筆では、自宅から2~3時間の道のりを自転車で通った。道中の田畑や川、町並みを通じて着想を練った。山岳スキーの愛好家でもあり、勝山市で勤務時代の60年代には、雪崩など山岳遭難で何人もの命を救ったこともあった。
 晩年は、幕末に急進的な尊皇(そん・のう)攘夷(じょう・い)運動を展開した天狗(てん・ぐ)党に関心を持ち、「水戸天狗党 敦賀松原に散る」と題した遺稿(未出版)がある。
 著作を通じて上杉さんの業績に接した角鹿尚計(つの・が・なお・かづ)・福井市立郷土歴史博物館主任は「河川や地名などの由来を、文献だけでなく現地を実際に歩いて調べ上げる真摯(しん・し)な仕事ぶりに、感銘を受けていた。郷土・福井を心から愛しておられたと思う」と話している。


愛媛
明治期の日本考える 松山で講演会
 NHKドラマ「龍馬伝」や小説「坂の上の雲」で描かれる明治維新と明治期の日本像の問題点を考える講演会が3日、松山市内であり、精神科医で関西学院大教授の野田正彰氏(66)らの問題提起を通じ、市民ら約40人が歴史認識や日清・日露戦争について理解を深めた。
 平和や憲法問題に関心を持つ市民・団体が実行委を結成し開催した。
 高知市出身の野田氏は「若くしてテロに倒れた坂本龍馬は、青春像として理想を投影しやすい。しかしその後、どういう社会があったかをすべて忘れて龍馬だけ持ち上げていいのだろうか」と批判。高知での自由民権運動の弾圧や軍国主義への振幅などを紹介し、「わたしたちは個人としても社会としても統合された過去を持たなければならない」と歴史を部分的に切り取ることの問題を訴えた。

佐賀
美女と剣士、幕末風ゆるキャラ 佐賀・小城市が決定
 佐賀県小城市のキャラクターに2日、「ようかん右衛(え)門(もん)」と「こい姫」が決まった。市内のイラストレーター、山口あきさん(33)が地元の名物を題材に生み出した。
 かん右衛門は小城藩士で二刀流の剣術使い。手につまようじ、腰に有明海の珍魚ワラスボをかたどった「わらす棒」を携え、絶世の美女のこい姫を守るとの設定だ。
 6月に同市である名水サミットに着ぐるみで登場。「幕末」「ゆるキャラ」の二つのブームを意識した「二刀流」で全国区をめざす。


ブックレビュー
今週の本棚・新刊:『靖国神社の祭神たち』=奏郁彦・著
 (新潮選書・1365円)

 かつて兵士たちが死後の再会を誓った靖国は、時に首相が参拝して大騒ぎになることもあって、知名度という点では屈指の神社ではないか。そこには幕末の動乱で倒れた志士や、戊辰(ぼしん)戦争の官軍側戦没者、昭和の戦争の犠牲者らが祭られていることも、周知の事実だろう。
 だが246万余柱もの祭神が、どういう基準で選ばれているかは、さほど知られていないのではないか。例えば坂本龍馬と岡田以蔵はともに土佐藩出身で非業の死を遂げた。前者は合祀(ごうし)され後者はされていない。
 本書は謎に包まれた合祀基準の変遷を追う。保留されていた、東京裁判のA級戦犯が合祀される過程にも鋭く迫った。資料を渉猟し、冷静に事実関係を明らかにしてゆく、著者らしい力作だ。(栗)


コラム
【龍馬を慕(おも)う】(1)京都・河原町蛸薬師 奔馬が天に召された地
 NHKの大河ドラマ「龍馬伝」によって、戦後2度目の坂本龍馬ブームが起きている。最初のブームは司馬遼太郎が昭和37年から約4年間、産経新聞に連載した『竜馬がゆく』がキッカケであった。高度経済成長期の真っ盛りで、「坂の上の雲」も白く輝き、龍馬の向日性が多くの読者をとらえた。「坂の下」に、ふんぷんとしたドロ水がただよう閉塞(へいそく)状況の現在、なぜ龍馬なのか。維新期を奔馬のように駆け抜けた、この若者の軌跡をたどる。
  

コンビニの前に…

 「坂本龍馬・中岡慎太郎遭難之地」
 --の碑は、河原町蛸薬師のコンビニエンスストアのまえに立っていた。
 江戸末期、この地に「近江屋」という醤油(しょうゆ)商があった。慶応3(1867)年11月15日夜、2階の奥の間では、龍馬と慎太郎が寝ころびながら、新政府の官制などについて話しあっていた。武力倒幕一辺倒の慎太郎と激論をかわしていたという説もある。
 午後9時すぎ、幕府の京都見廻組(みまわりぐみ)組頭、佐々木唯三郎ら7人の武士が「十津川(とつがわ)郷士」をかたり、近江屋を訪ねてきた。うち3人が2階にかけあがり、襲いかかった。不意をつかれた龍馬は前額部を、慎太郎は後頭部を一撃された。
 龍馬は即死、慎太郎は2日後に死んだ。襲撃の模様が後世にまで生々しく残ったのは、意識があった慎太郎が証言したからだ。
 『竜馬がゆく』にも、このシーンは詳細に描かれている。だが引用したいのは、最後のくだりである。
 《天に意思がある。
 としか、この若者の場合、おもえない。
 天が、この国の歴史の混乱を収拾するためにこの若者を地上にくだし、その使命がおわったとき惜しげもなく天へ召しかえした。
 この夜、京の天は雨気が満ち、星がない。
 しかし、時代は旋回している。若者はその歴史の扉(とびら)をその手で押し、そして未来へ押しあけた》
 いかにも暗い夜だったように描かれている。だがこの時期、京の町はすさまじい喧噪(けんそう)につつまれていた。
 「ええじゃないか」という、三河ではじまったとされる民衆の騒乱が席巻していたのである。天からお札(神符)が降ったと騒ぎはじめ、「ええじゃないか、ええじゃないか」と騒ぎながら、深夜まで乱舞した。龍馬を召した天は、ときにはヘンなモノも降らす。
 なかには酒屋や商店などにも押しかけ、「これを飲んでも、ええじゃないか」「これをくれても、ええじゃないか」と酒を飲んだり、売り物を強奪したりした。店をメチャメチャに壊してしまう一団もいた。
 河原町通は、現在のように広くはなかった。おそらく道いっぱいになって「ええじゃないか」の集団が練り歩いていたはずである。暗殺団にとって、近江屋は襲撃し、逃亡もしやすいコンビニエンス(便利)な場所にあったのである。
 いまふうにいえば、世情不安による集団ヒステリーということになる。だが気になることがある。
 京ではじめて「ええじゃないか」の騒動がはじまったのは、10月22日で、徳川慶喜が大政奉還したのがその直前の14日。さらに大坂などではまだ騒動が続いていたのに、京での「ええじゃないか」は王政復古のクーデター前日の12月8日にピタリと終息している。
 もちろん、天からお札が舞い落ちてくることはない。だれかがまいた。では、だれか。分からない。分からないが、京の町に騒擾(そうじょう)を起こすと有利にはたらく勢力との推定は成り立つ。それ以上は、憶測となるからやめる。
  

「往時茫々」の想い

 池田屋など遭難の碑を求め、四条から三条にかけて、よろぼうように歩きまわった。すっかり、変わっていた。「築地」や「六曜社」など、記憶のなかの喫茶店がわずかに残っている程度で、どこの繁華街にもあるようなショッピング店やファッション店、大型居酒屋ばかりである。
 梶井基次郎が名作『檸檬(れもん)』のなかで、レモンを爆弾に仕立てた「丸善」も、すぐれた美術書を置いていた京都書院もなくなっていた。
 1980年代後半のバブルのさい、関西ではじめて大規模な地上げ攻勢を受けたのが、河原町通界隈(かいわい)とされる。小さな店舗など、ひとたまりもなかったのであろう。
 ふと去来したのは「往時茫々(ぼうぼう)」という、感傷じみた想(おも)いであった。かつて、この町の大学で、4年間ほど学んだ。学んだといっても、講義などにはほとんど出なかった。
 その大学に足を向けることにした。龍馬という若者が「その歴史の扉をその手で押し」た舞台となった場所にあるからだ。(文 福嶋敏雄)

                   ◇

≪メモ≫

 河原町通蛸薬師(たこやくし)の「近江屋」跡の石碑までは、阪急河原町駅から北に徒歩2分。京阪祇園四条駅から徒歩5分。JR京都駅からだと、市営地下鉄烏丸線四条駅から東に徒歩15分。河原町通を隔てて東側に、京都の土佐藩邸があった。脱藩の過去がある龍馬は安全な土佐藩邸に入らず、近江屋に宿泊していて難に遭った。ここを訪ねたあとは、ぜひとも鴨川の河原を歩いてほしい。龍馬や新選組が行き交った光景が広がっている。

                   ◇

≪きょうの「竜馬伝」≫

 ■NHK総合 午後8時~ ほか

 龍馬(福山雅治)は土佐を脱藩し、姿を消していた。そのころ土佐藩では、東洋(田中泯)を暗殺した半平太(大森南朋)が、藩の保守派と手を組み、藩主・山内豊範(染谷将太)の上洛(じょうらく)を実現しようとしていた。一方、象二郎(青木崇高)は姿を消した龍馬が、東洋暗殺の実行犯とにらみ、弥太郎(香川照之)と井上佐市郎(金山一彦)に龍馬の捕縛を命じる。弥太郎は佐市郎と共に大坂へ向かう。豊範の上洛のため、半平太も勤王党の平井収二郎(宮迫博之)、岡田以蔵(佐藤健)らと共に大坂に入る。同じころ、大坂の飯屋で惣之丞(要潤)が溝渕広之丞(ピエール滝)と、脱藩した後の龍馬の足取りについて語り合っていた。




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