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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
 その3です。2~3日ためてしまうと結構な量になりますね^_^;。

広島
社告:上野彦馬賞受賞作品展 中区で13日から /広島
◇入場無料、86点展示
 幕末から明治に活躍し、日本の写真術の開祖と称される上野彦馬にちなんだ「第10回上野彦馬賞九州産業大学フォトコンテスト」の受賞作品展を開催します。グランプリの上野彦馬賞を受けたスペイン在住の写真家、森本徹さんの「コソボ--虐殺の記憶」(白黒5枚組=写真はその一枚)など一般部門の上位11点と高校生・中学生部門は入賞75点を展示します。広島での受賞作品展は初めて。入場無料です。

 <会期>13日(火)~18日(日)10~18時(最終日は17時まで)

 <会場>アステールプラザ(中区加古町)

 <問い合わせ>毎日新聞福岡本部事業部092・781・3636(土日不在)

 主催 九州産業大学、毎日新聞社

 後援 文化庁、日本写真芸術学会ほか


山口
市民フォーラム:「明治維新と下関」テーマ 東亜大学で、きょうスタート /山口
 東亜大学(下関市一の宮学園町)は「明治維新と下関」をテーマに13回、市民フォーラム下関学2010を開く。明治維新に大きくかかわった長州・下関。坂本龍馬が幾度も下関を訪ねたことはあまり知られていない。幕末や国内外の歴史、経済などに詳しい講師陣がさまざまな角度から論じる。受講無料で会場は同大13号館1階102教室。時間はすべて午後2時半~同4時。同大下関学事務局(083・256・1111)。【三嶋祐一郎】

 各回の演題、講師、期日は次の通り。

 (1)明治維新とは何か(変動する世界の中の日本)、猪飼隆明・大阪大名誉教授、10日▽(2)高杉晋作の戦略、田口由香・大島商船高等専門学校教諭、17日▽(3)高杉晋作と新東行記念館、溝口純一・下関市立東行記念館学芸員、24日▽(4)桜山神社と慰霊空間、磯永和貴・東亜大人間科学部准教授、5月15日▽(5)坂本龍馬と薩長同盟、古城春樹・市立長府博物館学芸員、同22日▽(6)香水と龍馬(お龍に贈ったほれ薬)、金刺一成・香水調香師(ヴィルセゾンうさぎオーナー)、同29日▽(7)医師たちの明治維新、亀田一邦・九州国際大講師、6月5日▽(8)絵師たちの明治維新(狩野芳崖と日本画革新)、岡本正康・市立美術館学芸員、同12日▽(9)国学と儒学(尊王攘夷論をめぐって)、上原雅文・東亜大人間科学部教授、同19日▽(10)秋田商会ビルと屋上庭園の謎に迫る、亀松靖弘・北九州市立大大学院国際環境工学研究科研究員、同26日▽(11)下関の対外経済関係、木村健二・下関市立大経済学部教授、7月3日▽(12)韓国併合100年と下関、崔吉城・東亜大人間科学部教授、同10日▽(13)歴史資源と下関観光(まとめにかえて)、伊藤寿真男・市民ミュージカル代表、萩原利生・下関商工会議所常議員観光部会部会長、同17日。
〔下関版〕


佐賀
佐野常民の「博愛」学ぶ…博愛少年団発足
 日本赤十字社の前身・博愛社の創立者で県出身の佐野常民(1822~1902年)などについて学ぶ「博愛少年団」が10日、佐賀市川副町の佐野常民記念館で発足し、入団式が行われた。
 佐野の功績などを紹介している同記念館が初めて企画し、佐賀市と福岡県大川市の小学4、5年生計20人が入団。活動は月1回で、幕末維新期に活躍した「佐賀の七賢人」などについて学び、記念館の案内ボランティアも目指す。
 入団式では江口善己館長が「博愛とはすべての人を平等に愛するということです。仲良く1年間頑張りましょう」とあいさつ。団員は「博愛精神を学び、明朗で社会に役立つ青少年になることを誓います」と宣誓した。
 式後は、団員がそれぞれ自己紹介し、早速1回目の学習会。記念館の案内や佐野をたたえる歌などについて学んだ。
 佐賀市の赤松小4年志佐悠(はるか)さん(9)は「色んなことを学びたい。すごく楽しみです」と目を輝かせていた。



長崎
長崎まちなか龍馬館:入館5万人を達成 /長崎
 長崎市などが中心市街地に1月2日にオープンさせたテーマ館「長崎まちなか龍馬館」(同市浜町)が9日、入館者5万人を達成した。
 5万人目は福岡県粕屋町の会社員、山本和明さん(30)。「中学生の時から龍馬が好き」といい、妻誠子さん(31)、長男寛人ちゃん(11カ月)との雲仙市への家族旅行の際に立ち寄ったという。
 田上富久市長からまち歩きマップなどの記念品を贈られた山本さん夫妻は「びっくりしました。ドラマもあるし、勉強して帰りたい」と笑顔だった。
 同館は、NHK大河ドラマ「龍馬伝」を受けてオープン。11年2月末までの開館期間中に30万人の入館者を見込む。入館料は一般300円▽高校生200円▽小中学生150円。【錦織祐一】
〔長崎版〕


古写真展:龍馬、彦馬、弥太郎…維新のまなざし きょうから歴史文化博物館 /長崎
◇貴重コレクションも
 幕末から明治初期の日本最大級の古写真展「龍馬と彦馬 維新のまなざし 幕末長崎古写真展」が長崎市立山の長崎歴史文化博物館で10日に開幕するのを前に、その開会式と内覧会が9日、同館で開かれ、関係者らが約400点に及ぶコレクションに見入った。【蒲原明佳】
 上野彦馬は1862年、長崎市新大工町に写真スタジオを開設。同年には、長崎養生所(長崎大医学部の前身)で医学を教えるため、オランダ人、A・F・ボードインが来日し、長崎の風景を撮りためていった。
 展示されるのは、長崎大付属図書館や江崎べっ甲店(長崎市魚の町)が所蔵する2人の作品や関連資料など。初公開される同図書館所蔵のアルバム「幕末明治期長崎来訪人物写真集」のオリジナルなど、貴重なコレクションを含む。
 また、2人が撮った長崎の街並みの写真と、現在の街並みの写真と比較できるコーナーや、明治初期の大浦居留地やそこで暮らす人々を写した写真3枚をほぼ等身大に引き延ばし、当時を再現したコーナーなどもある。
 同博物館の大堀哲館長は「写真撮影時期には、長崎に坂本龍馬や岩崎弥太郎が訪れていた。龍馬や弥太郎が見た当時の長崎の町や人々の暮らしを写した古写真を通し、長崎の過去から現在、未来を考えるきっかけになれば」と話していた。

〔長崎版〕


【動画】長崎歴文博「龍馬伝館」10万人突破 熊本の東濱さん一家に記念品
 幕末の志士、坂本龍馬の生涯を描くNHK大河ドラマにちなみ、長崎市立山1丁目の長崎歴史文化博物館内に設置されている「長崎奉行所・龍馬伝館」の入館者数が10日、10万人を突破した。
 10万人目は熊本市から家族6人で訪れた公務員、東濱顕始さん(38)一家。ロマン長崎の高崎順子さんから花束、大堀哲館長から記念品のミニ龍馬像を手渡され、東濱さんは「龍馬は幕末に欠かせない人物。大河ドラマを見て大ファンになった」、長男の健太君(9)は「本を読んで龍馬のことを勉強している。龍馬はかっこいい」と話した。
 「龍馬伝館」は1月9日オープン。開館から92日目で入館者数10万人を突破した。同博物館によると、1日の平均入館者数は約1100人で、約7割を県外客が占めるという。
 【編注】高崎順子さんの高は、口が目の上と下の横棒なし


鹿児島
“薩長同盟”交流ツアー 山口から観光モニター 鹿児島 新幹線全通にらみ企画
 来年3月の九州新幹線鹿児島ルートの全線開通をにらんで鹿児島県観光連盟が招いた山口県からの観光交流モニターツアー一行35人が10日、九州新幹線つばめで鹿児島入りした。2泊3日の日程で春の鹿児島を楽しむ。
 鹿児島市と山口市は全線開通で現在の約3時間10分から約2時間で結ばれる。このため両県の観光連盟は交流を深めようと幕末の“薩長同盟”にならって昨年10月、姉妹盟約を締結。交流事業として参加者にアンケートを行い観光振興につなげるモニターツアーを企画した。鹿児島から山口へのモニターツアーは3月下旬にあり、今回は鹿児島が受け入れた。
 一行が到着した鹿児島市のJR鹿児島中央駅では鹿児島県観光連盟の職員らが横断幕を掲げ歓迎した。10日は霧島、11日は指宿に宿泊し、桜島や知覧特攻平和会館など鹿児島の代表的観光地をめぐる。
 山口県下関市から夫婦で参加した岡本礼子さん(67)は「坂本竜馬の足跡をたどるのが楽しみ」と話していた。


コラム
【龍馬を慕(おも)う】(2)京都・烏丸今出川 維新回天見つめた「二本松」
 烏丸今出川の交差点の北東かどの広大な敷地に、赤レンガの建物群が建ちならんでいる。同志社大学今出川キャンパスである。今出川通をはさんだすぐ南側には、深いミドリにつつまれた京都御苑が広がる。

 いい場所にある。いい場所にあるが、いい思い出はなにもない。かつて、4年間ほど籍を置いた。以来、いちども足を踏み入れていない。

 この大学が坂本龍馬と因縁があるのは、かつてこの地に薩摩藩の京都藩邸があったからである。キャンパスの西門を出た右手に、

 「薩摩藩邸址(あと)」

 と刻まれた小さな石碑が立っていることは、当時から知っていた。

 歴史書には「薩摩二本松藩邸」とも書かれている。龍馬の手紙には、たんに「二本松」とだけ表記されている。なぜ二本松なのかは分からない。あたりに二本松という地名もない。

 ●薩長同盟の舞台

 維新回天の歴史のなかで、龍馬の最大の偉業は、慶応2(1866)年1月、薩長同盟を締結させたことであろう。締結されたのが、この二本松藩邸だとされる。「一条戻橋」ちかくにあった薩摩藩士、小松帯刀(たてわき)邸で結ばれた、という異説もある。

 いい思い出はなにもない、と書いたが、愛校心のカケラぐらいはのこっている。幕府を崩壊させるキッカケとなった薩長同盟は、わが母校で結ばれたと信じたい。

 長州側の代表である桂小五郎(木戸孝允(たかよし))が二本松藩邸に入ったのは、1月10日である。応接したのは西郷隆盛や大久保利通、帯刀らである。

 西郷らは連日のように桂に対し、酒食の接待をしたが、かんじんの同盟の話は一向に進まない。司馬遼太郎の『竜馬がゆく』では、会談の冒頭、桂は、

 「われわれは薩州をうらんでいる」

 と陰湿な声で発した、とされる。「蛤(はまぐり)御門の変」や、第一次長州戦争のさいの薩摩側の対応を非難しているのである。

 西郷はひたすら謝った。だが沽券(こけん)にかかわるのか、自分のほうから同盟を持ち出すことはできない。

 龍馬が下関から、二本松藩邸にかけつけたのは20日である。龍馬と会うと、桂はいきなり、

 「坂本君、私は帰る」

 と言ったという。もう薩摩との同盟はあきらめ、長州は独自に維新回天の戦略をすすめるというわけである。

ここから龍馬の獅子奮迅の活躍が始まる。桂を時には怒ったように説き伏せ、西郷を叫ぶように叱咤(しった)した。『竜馬がゆく』では、西郷に対する、

 「長州が可哀そうではないか」

 という一言で、同盟が設立したとされる。この時点で、維新回天の歴史は大きく「回転」しはじめ、倒幕運動につながっていった。

 ●同志社を歩く

 今出川通側の門から入ると、同志社の創立者、新島襄の大きな碑がある。

 「良心之全身ニ充満シタル丈夫ノ起リ来ラン事ヲ」

 と刻まれている。「丈夫」は「ますらお」と読ませるのであろう。4年間、通いながら、こんな碑があったことすら知らなかった。新島の期待に反し、筆者はたんなる「匹夫(ひっぷ)」のままである。

 新島は明治8(1875)年、元会津藩士で、京都府政に大きな功績をのこした山本覚馬から、山本所有の元薩摩藩邸の敷地を譲り受け、同志社を創設した。

 「至誠館」や「弘風館」や「明徳館」など、キリスト教系の大学にしては、維新の志士がこのむような武張った名前の学舎がつづく。記憶が正しければ、神学館のまえでは岡林信康がフォークをうたっていた。あまり関係はないが、明徳館の地階には学生食堂があり、素うどんが15円、朝の定食が25円であった。

 薩摩藩邸には、9棟の屋敷と多くの土蔵があった。龍馬はこのキャンパスのどこかで、「全身ニ充満シタル丈夫」ぶりを発揮し、同盟を締結させたのであろう。

 西門まえに来たとき、はっとなった。キャンパスをふさぐように高さ40~50メートルの松、さらに右手の同志社中学まえにも同じような高さの松の老樹が、それぞれ亭々とのびていたのである。

 「二本松」の理由がようやく分かった。当時、どろどろした観念ばかりをふくらませ、若者特有の視野狭窄(きょうさく)におちいっていたため、ずっと気がつかなかったのであろう。

 薩長同盟は、龍馬だけの功績ではない。龍馬とともに暗殺された中岡慎太郎の働きも大きい。

 その足跡をたどるためには、今出川通をずっと東に行った、もうひとつの大学を訪ねなければならない。(文 福嶋敏雄)

                   ◇

 ≪メモ≫

 薩長同盟締結の舞台となった薩摩藩邸跡(同志社大学)へは、JR京都駅から地下鉄烏丸線で「今出川」駅下車すぐ。キャンパス周辺は若い学生が行き交い、当時の面影はない。元治(げんじ)元(1864)年、薩摩・会津連合軍の前に長州が敗れた「蛤(はまぐり)御門の変」(禁門の変)が起きた蛤御門へは、今出川駅から南へ徒歩約5分。京都御所では11日まで、予約なしで参観できる「春季一般公開」を実施中。

                   ◇

 ≪きょうの「龍馬伝」≫

 ■NHK総合 午後8時~ ほか

 龍馬(福山雅治)は大坂から京へと向かっていた。京には、三条家に仕える加尾(広末涼子)がいる。半平太(大森南朋)も藩主・山内豊範(染谷将太)と共に、京に入っていた。半平太は公家の尊王攘夷(じょうい)派・三条実美(池内万作)に面会し、徳川幕府に攘夷を実行させるために、みかどの勅命を持って江戸に乗り込むことを提案する。半平太と共に京に入った平井収二郎(宮迫博之)は妹の加尾と久しぶりの対面をしていた。収二郎は龍馬が半平太を裏切り、土佐藩を脱藩したことを加尾に教える。岡田以蔵(佐藤健)は土佐勤王党のために、天誅(てんちゅう)と称し、開国派の人々を暗殺していた。龍馬が加尾を訪ねて来ると、加尾は兄の忠告を破り、龍馬と一夜を過ごす。


コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】(57)東大教授・山内昌之 来島又兵衛
■高齢政治家の情熱と使命

 人は見かけによらぬもの、という言葉がある。与謝野馨元財務相が自民党を離党して新党をつくるという報に接したとき、多くの人びとは政策通の理知的政治家らしからぬ印象をもったことだろう。

 しかし、内剛外柔と目された与謝野氏は見かけも剛直なところを見せるようになっている。先ごろの衆院予算委員会で鳩山由紀夫首相を「平成の脱税王」と追及した迫力は見事だった。氏の内面に潜む熱さを与謝野鉄幹・晶子の血に求める人もいるが、それは政治家与謝野氏を低く見すぎているだろう。今回の新党結成にも見せた思い切りの良さは、氏がいつもドブ板選挙を経験し、落選の修羅場をくぐった点と無縁ではない。

 激戦区で3回も落選し、浪人の試練を味わい、比例での復活も経験した自民党総裁・首相候補者は他に例を見ない。新党結成については、与謝野氏が71歳の高齢であり、展望が見えないと批判する声も大きい。

 しかし、自民党が頑迷固陋(ころう)で、変わる見込みもないというのは一つの判断である。ここが保守政治家として勝負時と大きな賭けに出たのだろう。

 ≪猛将と能吏の二面≫

 幕末でいちばん情熱と使命感をあらわにした老境の武士といえば、まず来島又兵衛が屈指であろう。禁門の変で散った来島については、「豪胆にして武技に長じ、慨世(がいせい)憂国の念、最も熾烈(しれつ)」(『大人名事典』第2巻、平凡社)という評価が一般である。剣術は新陰流の免許皆伝、馬術も驚くほど巧みで、戦国武士を思わせる剛毅(ごうき)な男であった。

来島は藩の役職でも順調に昇進しながら、尊攘(そんじょう)運動が長州藩をおおう文久年間には40代半ばでも血気盛んな男であり、高杉晋作らから「来翁」と親しまれていた。当時の40代後半とは、すでに老境と目された年格好なのである。

 来島の不思議さは、萩、京都、江戸の勤務を大過なく重ね、金銭の出納を手際よく管理した能吏の側面があることだ。来島といえば老将や猛将のイメージも強いが、算勘(さんかん)の道にもたけていたのだ。江戸では出費をまめにメモしながら、収支を国許(くにもと)の妻に知らせていたというから、ほほえましい。吉田松陰は、来島の特性を早くから見抜き、彼の胆力が人よりも優れていると同時に、計算に際して正確に数え、思慮深く考えると評価したこともあった。

 ≪目標実現へ命賭ける≫

 しかし、能吏たる来島の運命は、文久3(1863)年5月、馬関の外国艦砲撃戦で総督国司信濃(くにししなの)の参謀となって奮戦して以来、大きく変わる。長州藩兵が御門警固を解かれた8月18日の政変、ついで池田屋事件で失墜した藩の名誉を回復し、尊攘運動に再び火をつけたのは来島であった。

 京への進発に反対した高杉晋作を面罵(めんば)し、慎重だった久坂玄瑞をひきずるように武装上洛した先頭にはいつも来島の姿があった。京都でも御所を攻撃する不敬に恐れを抱いた久坂に、「臆病(おくびょう)者は東寺の塔か天王山で見物しておれ」と怒鳴ったというから迫力は凄(すご)い。

 49歳の来島や53歳の真木和泉が20代の若者を叱咤(しった)して政治目標実現のために命を賭ける執念は、その精神において現代の政治家も見習うべきではないだろうか。

 天龍寺に結集した来島の遊撃隊は、会津藩兵が守る蛤御門で激戦を交わした。禁門の変は一名蛤御門の変と呼ばれるほどだ。来島らは朝方早く蛤御門に突入、あわや御所を占拠する勢いであった。

≪勝利目前で撃たれ自刃≫

 もし、乾門から薩摩兵が加勢して横やりを入れなければ、来島らの勝利は目前であった。そのとき、葦毛(あしげ)の馬にまたがり颯爽(さっそう)と指揮していた来島は、薩摩の川路利良に胸部を狙撃され、落馬した。川路は後の警視庁大警視(警視総監)である。

 いまも蛤御門から御所に少し向かった所に樹齢300年ほどの「清水谷家の椋(むく)」という木が残る。来島が被弾し、自刃したのは、この椋の木のあたりであった。

 来島で驚嘆するのは、年を経ても政治への情熱が少しも衰えず、しかも先頭で若者をぐんぐん引っ張ったことだ。さて、普通なら安定と自足を望むはずの高齢者が情熱を注ぐ新党の使命感とは何か。

 高齢者問題は選挙の争点であり、有権者の相当な部分を高齢者が占める。さながら来島のように、算勘だけでなく、情熱もほとばしる与謝野氏が語る政治理念や抱負にまずは耳を傾けたいものである。(やまうち まさゆき)

                   ◇ 

【プロフィル】来島又兵衛

 きじま・またべえ 文化14(1817)年、長州(山口県)生まれ。江戸で剣術を学んだ後、大検使役などを歴任。文久3年、藩命で猟師を集めた狙撃隊を率いて尊攘運動のために上京。高杉晋作が奇兵隊を組織すると、遊撃隊を編成して総督となり、高杉と連携。元治元(1864)年、禁門の変に出陣し、蛤御門で戦死した。享年49。





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