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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
 大河ドラマ『天地人』本能寺の変、先行放送でちら見しました。期待はしてなかったんですが、まさか、『義経』最終回に匹敵するような脚本・演出を見ようとは(汗)……固唾を呑んで見守るべき場面で爆笑し、後は呆然としてテンションが下がるばかりでした^_^;。
『義経』の時のように、放送時間は他の局にチャンネルを変えようかと考えています。

北海道
開港5カ国の味詰め込む…未来大生が函館開港150年で弁当
 公立はこだて未来大の学生らが中心となり、函館開港150周年にちなんだオリジナル弁当を考案した。名付けて「開港150周年 はこだて開港サンド」。アメリカやフランスなど、開港時に修好通商を定めた5カ国のパン料理を道産食材で再現。函館市若松町12のJR函館駅構内にある「みかど」などで販売しており、学生らは「函館の歴史を食べて実感して」とPRしている。
 未来大は2005年からさまざまな種類の弁当をみかどと共同開発しており、第9弾目となる。JR北海道も加わり、ゴールデンウイーク期間中はSL函館大沼号の下り車内でも販売した。
 開港サンドは2月ごろから鈴木克也教授を通じて集まった学生5人が開港150周年を記念した弁当のコンセプトを話し合い始め、関係者と打ち合わせや試食を重ねて完成した。
 中身はイカハンバーグをイカ墨入りパンで挟んだ「黒船イカバーガー」やガゴメコンブの粉末を混ぜたパンを使ったサンドイッチ、野菜たっぷりのクロワッサン、コロッケ入りケバブ、和風焼きピロシキの5種類。それぞれ米、英、仏、オランダ、露の食文化を詰め込み、見た目も楽しい仕上がり。道産小麦を使用し、甘みがあるのも特徴だ。
 弁当開発チームのリーダーで、3年生の宮武志保さん(21)は「当時のおしゃれでハイカラな雰囲気を出した。函館の歴史や魅力を感じてほしい」と話している。
 1個880円。9月30日までの期間限定。月曜休み。1日数量限定だが、予約も可。問い合わせはみかどTEL0138・22・2690。

埼玉
あづさ弓の詩:樋口一葉の和歌の師・中島歌子の生涯、映像で紹介 /埼玉
あづさ弓の詩:樋口一葉の和歌の師・中島歌子の生涯、映像で紹介 /埼玉
◇坂戸郷土史研究会・川田さん制作、青春時代に焦点--16日に発表会
 明治の作家、樋口一葉の和歌の師である中島歌子(1844~1903)の生涯を紹介する映像作品「あづさ弓の詩(うた)」が制作され、出生地とされる子孫宅に近い坂戸市立大家(おおや)公民館で16日午後2時半から発表会が開かれる。市内に住む坂戸郷土史研究会会員、川田猛男(たけお)さん(72)が5年かけて完成させ、歌子の青春時代に焦点を当てている。鑑賞は無料で、11日から予約を受け付ける。
 歌子は幕末に水戸藩士と結婚。夫の死後、本格的に和歌を学び、東京で歌塾「萩の舎(や)」を開いた。多くの門人を抱え、その中に樋口一葉もいた。
 発表会は、昨年5月発足した「中島歌子を顕彰する会」(中島常吉会長)が主催する。
 川田さんは小学校教諭だった約30年前から、8ミリ映画やビデオでビデオレターや伝統芸能などを趣味で撮影し、全国レベルの映像コンテストで上位入賞している。歌子の和歌や歌日記を読み、繊細な心持ちや芯の強さにひかれ、映像化を企画。顕彰する会や坂戸郷土史研究会の協力で、萩の舎や子孫宅、都内の住居跡を巡りデジタルビデオで撮影した。ナレーターや編集も担当している。
 上映は15分。特に、江戸から夫の実家の水戸に向かう若き歌子の姿を重点的に追った。道中を詠んだ歌日記「秋の道しは」を引用し、江戸に残した母の心配や新生活への決意など心情や状況を説明。歌子が見た咲き誇る野の花をイメージした美しい風景も広がる。
 「DVDにして希望する中高校や団体に貸し出したい」と川田さん。予約は定員(50人)になり次第締め切る。大家公民館(電話049・285・2002)。【鈴木賢司】


愛知
あいち・日曜リポート:刈谷・依佐美送信所 送信機器が「産業遺産」に /愛知
刈谷・依佐美送信所 送信機器が「産業遺産」に /愛知
あいち・日曜リポート:刈谷・依佐美送信所 送信機器が「産業遺産」に /愛知
◇「郷土の誇り」感慨にふける住民 地元の保存活動高く評価
 かつて刈谷市高須町にあった世界最大級の無線送信施設・依佐美送信所の送信機器などが、昨秋から今春にかけて国内外の3団体から相次いで「産業遺産」に認定された。機械工学上の歴史的な価値や日本の近代化への貢献とともに、地元の保存活動も高く評価されたからだ。今年が送信所開設80周年にも当たり、住民らは「郷土の誇り。世界遺産にでもなったよう」と喜ぶ。【安間教雄】
 独立行政法人・国立科学博物館が昨年10月、送信装置一式(9件)を「未来技術遺産」に認定した。「ヨーロッパとの電波の懸け橋になった」として「科学技術の発達史上に重要な成果を示し、資料の保存と活用を図り、次世代に継承している」と評価した。
 さらに米国の電気電子学会(IEEE)が昨年11月「マイルストーン」(歴史的記念物)に認定。世界最大の出力で日本からヨーロッパへ初めて送信し、国際通信施設として重要な役割を果たしたほか、地域ぐるみの保存と広報の活動が評価された。
 この認定は電気や電子の分野で社会貢献が大きい発明や技術開発をたたえる制度で、25年以上にわたる世の中の評価が必要。日本では富士山頂レーダーや東海道新幹線、電子式卓上計算機、日本語ワープロなど10件が登録されている。跡地の依佐美送信所記念館で19日、認定証の銘板が学会代表から竹中良則・刈谷市長に贈られる。
 加えて経済産業省が今年2月、送信機10件を「近代化産業遺産」に認定した。幕末から戦前までの優れた価値を持つ産業遺産が対象で、日本初のヨーロッパ送信と国際通信施設として果たした重要な役割を評価している。
 このほか、07年8月に高周波発電機が社団法人・日本機械学会から「機械遺産」に認定されており、認定は全部で四つとなる。
 名古屋大大学院工学研究科の古橋武教授は「世界的に評価されたわけで、大変すばらしい。貴重な財産をいかに守り、いかに伝えていくかが今後の課題」。記念館を管理する刈谷市教委文化振興課は「保存と継承を中心に、観光資源としても活用し、多くの人に広めたい」と話す。
 07年4月の記念館開館とともに「ガイドボランティアの会」が発足し、会員約30人が活躍している。会長の加藤修さん(76)は「地域の人たちは毎日、送信所の鉄塔を仰いで育った。古里の山と同じ存在。一時は無用の長物とも言われたが、国際的に値打ちが認められた」と感慨深げだ。

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 ■ことば

◇依佐美送信所
 国策会社の日本無線電信株式会社が1929年に設けた。出力700キロワットの高周波発電機や周波数変更器、蓄電器など世界最大級の長波と短波の送信機器一式を備えた。隣接する約100ヘクタールの水田地帯に、高さ250メートルの送信鉄塔8基を建てた。ベルリンやパリ、ロンドンなどに送信し、日本の外交や通商を発展させた。太平洋戦争開戦の指令「ニイタカヤマノボレ」が送信されたという説もある。
 第二次大戦後の47年に閉鎖され、翌年から駐日米海軍が太平洋の原子力潜水艦などとの通信に活用。冷戦終結後の93年に役目を終え、翌年に日本へ返還された。07年4月に解体され記念館が造られ、送信機器50点ほどを展示している。



奈良
帯解寺:新御堂の落慶法要 護摩祈とう150年ぶり再開 /奈良
帯解寺:新御堂の落慶法要 護摩祈とう150年ぶり再開 /奈良
 安産祈願などで知られる奈良市今市町の帯解寺(倉本尭慧(ぎょうけい)住職)で9日、昨年10月に完成した新御堂の落慶法要が営まれ、奉賛会員ら約150人が完成を祝った。2階建てで、1階が納骨堂、2階が護摩堂になっている。
 江戸時代の記録では、本堂で護摩祈とうが行われていたと記されているが、幕末の安政年間の大地震でこの本堂が倒壊。安政5(1858)年に再建された現在の本堂には護摩壇がなく、護摩祈とうが約150年間途絶えており、再開は住職らの悲願だった。
 2月24日に新御堂で護摩祈とうが行われ、今後も毎月24日(4・7・8月を除く)に行われる予定。倉本住職は「皆様のおかげ、感無量です」と話した。【泉谷由梨子】


京都
手話 京都から始まった
慈愛の精神 聾者導く
 4本と2本の指先を合わせ、右手をくるっと半回転させながら下げていく。「季節」を表す手話だ。古都で誕生し、幾つもの季節を経て洗練された「視覚言語」の歴史は、ある教育者の存在なくして語れない。
 新緑がまぶしい。古都の世界遺産の一つ、仁和寺の二王門をくぐり、参拝客らでにぎわう境内を抜けた。御室の山々が迫り、そのふもとに学舎が見える。
 京都府立聾(ろう)学校。京都市右京区に位置し、聴覚障害の子どもたち82人が通う。校庭で出会ったのは高校2年の生徒ら。手指を素早く動かし、顔の表情も使って、何やら談笑していた。手話だ。
 「陸上部の練習について話しているようです」と、教務部長の丸山二郎さん(43)。ここでは幼稚部から高等部まであって、手話は小学部から学ぶという。
 聾者にとって欠かせない、そのコミュニケーションの手段が形成されたのはいつか。歴史をたどると、この学校の前身「盲唖(もうあ)院」に行き着く。明治前期、日本で初めて誕生した聾学校だ。

 手話を語るとき、まず、記さねばならない名前がある。古河太四郎。幕末の1845年、京の西陣辺りで生まれ、「近代障害児教育の先覚者」とされている。
 700人近い生徒を抱える寺子屋が生家とあって、幼少から文武に親しみ、明治維新後、自らも読み書きを指導した。折しも、東京遷都で停滞感が漂う街を人材育成で活性化するため、69年(明治2年)、64の小学校が設けられ、古河も、その教師に就いた。
 事件が起きたのは、その翌年のこと。水不足に悩む農民らのため池開発を支援して国の許可書を偽造し、投獄された。ある日、獄舎の窓から、耳の不自由な2人の子が殴られ、からかわれているのを見た。障害者への過酷な差別があった時代。聾者は孤立し、意思伝達の手段も持ち得なかった。
 獄中で、こうつづった。〈盲唖も亦(また)人なり……人に軽蔑(けいべつ)且凌辱(りょうじょく)せらるるの理(ことわり)なし〉
 教育の機会を与えないのは、過ち――。そう考え、2年後に自由の身となって復職してから、生家に近い小学校で、あの2人を含む3人の障害児を教え始めた。地元の有力者の助力を得て、校内に専用の教室もつくったという。
 耳の聞こえない生徒とどう意思疎通を図ったのだろう。〈互談する所に注目し其(その)意を酌み〉と、古河は書いている。身ぶり手ぶりで「互談」する生徒らを観察し、手指や顔の動作一つひとつが何を示すか、探っていったらしい。
 「魚の泳ぐ姿をまねた手のしぐさが『魚』を表すとか、湯飲みの形にして口にもっていくのが『飲む』だとか、意味が通じる動作が徐々に増え、それを使って文字を教えていった」と、日本手話研究所の高田英一所長(72)は言う。

 動物、草木、衣服、色……。様々な事物や事象を示す動作はやがて100を数え、古河は「手勢(しゅせい)」と名づけて文法化に取り組んだ。国内での手話の原型だ。
 まだ初歩の段階ながら、その手法は評判を呼んだ。明治天皇が77年(明治10年)6月に視察したのを機にして、親たちが障害児教育を求める運動を展開していく。古河も呼応して教育施設の拡充を訴え、ついに京都府が動いた。
 東西両本願寺や有力者らから現在価値で5000万円以上の寄付も集まり、いまの中京区で盲唖院が開校されたのは翌年5月。聴覚障害の31人と視覚障害の17人が入学し、式典で初代院長の古河と生徒が手勢を披露した。獄舎の前でいじめられていたあの2人だ。
 当時の新聞から、熱気が伝わってくる。〈院中の人々驚き感服したり〉〈此(こ)の開業は実に我国の美事と云ふべし〉
 古河は、動作を一つひとつ図示した「形象手勢」に加え、指で日本語の五十音を表す「指文字」も考案して「五十音手勢図」を作成し、教育に生かした。
 院長を11年務めて退職し、1907年(明治40年)、62歳で生涯を閉じたが、教え子らの交流が聾者の全国組織結成へつながり、手勢は手話として発達していく。
 孫の清明さん(74)が語る。「祖父は晩年、大阪でも盲唖院の開校にかかわりました。まさに障害児教育に捧(ささ)げた人生でした」
 盲唖院は開校翌年、京都府庁の南に移り、やがて聾学校となって戦後、御室に学舎を構えた。
 手話は改良を重ね、古河が編み出した単語の多くは既に使われていない。指文字も、よりわかりやすい形式に取って代わられた。
 高田さんらが編む手話辞典に収録された語の数は、最新版で8300余り。当初とは比べものにならないが、「ここまで洗練されたのも先生の功績があればこそ。我々の恩人です」と言う。
 自らも8歳のとき、病気で失聴し、府立聾学校で学び、そして手話研究の一線に立っている。視覚言語とも呼ばれるいま、なお残る古河の「言葉」が懐かしい。
 手探りのふれあいの中から生まれた魚も、草も、山も。


高知
模型:高知の森尾さん、幕末の郷士屋敷を復元 坂本龍馬記念館で公開 /高知
模型:高知の森尾さん、幕末の郷士屋敷を復元 坂本龍馬記念館で公開 /高知
◇1年かけ、龍馬の生活をイメージ
 県立坂本龍馬記念館(高知市浦戸)で、幕末の郷士屋敷を復元した模型の公開が始まった。龍馬の生家の調査結果をもとに、鉄道のジオラマなどを趣味で作る森尾朋弘さん(81)=高知市=が、1年がかりで完成させた大作。同館は「模型で、龍馬のイメージを膨らませてほしい」と話している。【服部陽】
 同館によると、龍馬の生家は1945年の高知空襲で消失し、設計図も残っていない。このため「土佐史談会」のメンバーが01年、当時の土地台帳や登記簿、証言を集めるなどの調査をもとに平面図を作った。図では約700平方メートルの敷地に約100平方メートルの建物があり、母屋と離れなどで構成。離れには龍馬が住んだと伝えられる6畳の部屋もある。
 こうした調査結果には異論もあり、龍馬の生家と断定はできないが、同館では「幕末の郷士の家をイメージしてほしい」として、図を基に模型を作ることに。製作は趣味で約30年間、鉄道模型のジオラマなどを作ってきた森尾さんが引き受けることになった。
 森尾さんが完成させた郷士屋敷の模型は、横2・3メートル、縦1・3メートル。木材の組み合わせが難しかったといい、粘土で再現した瓦、かまどや包丁などの生活用品もすべて手作りし、リアルな模型に仕上がっている。
 製作費用はすべて自費で、完成した時は「ほっとしたよ」と笑う森尾さん。「作ることが楽しくて。こうして展示され、目に留めてもらえればうれしいです」と話している。






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