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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
 午前中だけで結構な数のニュースが検索できましたので、一旦ご紹介させていただきます。

神奈川
横浜開港当時を描く
そごう美術館で版画展
 横浜開港150周年を記念し、開港当時の街並みなどを描いた横浜出身の版画家川上澄生(1895~1972年)の作品展が、横浜市西区のそごう美術館で行われている=写真=。
 川上は、青山学院高等科(現青山学院大)を卒業後、中学の英語教師をしながら独学で版画制作に取り組んだ。題材に開港当時の横浜が多いのは、異国文化を色濃く残す横浜の街並みが、関東大震災(1923年)で荒れ地になったことに強いショックを受け、版画を通してよみがえらせたい――との思いがあったからだという。
 会場には、ガスランプや馬車、外国人などを赤や黄など色彩豊かに描いた横浜の街並み、アルミ箔(はく)に描いた幕末の日本女性、ペリーの人物画など500点を展示。来場者は「繊細に彫られていてきれい」などと興味深そうに見入っていた。
 無休で6月7日まで。大人900円、高校・大学生700円、中学生以下は無料。問い合わせは同館(045・465・5515)へ。


幕末から明治の横浜を浮世絵で/川崎
 横浜開港百五十周年にちなみ、開港したばかりの横浜の幕末から明治にかけての足跡をたどる「近代日本の幕開け~横浜浮世絵展」が、川崎市川崎区の川崎・砂子の里資料館で開かれている。
 斎藤文夫館長のコレクションで二十日から横浜高島屋ギャラリーで開催する「横浜浮世絵」展に合わせ、展示しきれなかった逸品約六十五点を同館で展示している。
 二代、三代の歌川広重や歌川芳虎など歌川派による作品が並んでおり、吉田橋や「象の鼻」など開港場となった関内の開港当初の姿を描いた絵や英仏米、ロシア、オランダなど各国の正装の紳士淑女を描いた人物画なども。当時珍しかった鉄道のほか、「金港美人」と題する美人画も展示され、来場者は往時をしのびながら楽しげに鑑賞していた。
 二十三日まで。入場無料で日曜・祝日休館。メーンとなる横浜開港百五十周年記念「横浜浮世絵~近代日本をひらく」展は二十日から六月二日まで(有料)開催される。問い合わせは同館電話044(222)0310。


岐阜
「和宮道中御菓子」限定100箱、50分で売り切れ
 和菓子どころ中津川市でも毎年春秋の2回しか登場しない「和宮道中御菓子」。今年も10日に、同市のJR中津川駅前にぎわい特産館で販売され、限定100箱が50分で売り切れた。
 幕末の1861(文久元)年に皇女和宮が14代将軍徳川家茂に嫁ぐ途中に中山道中津川宿で食したという和菓子を再現し、6個入りを1050円で販売した。記録が残る24品目の中から6品目を選び、6和菓子店が手分けして作った。
 午前8時に既に5人が並んでおり、予定を20分早めて開店。売り切れたのが9時。最後の1箱は東京を未明にたったという夫妻が買い、「遠来の人に渡ってよかった」と店員をほっとさせた。遠来者では沖縄の人も買い求めた。地元の和菓子を食べ慣れている市民の人気も高い。
 秋の販売日は10月29日。問い合わせは同館、電話0573(62)2277。


山口
観光列車で「晋作」紙芝居-山口
 山口県内の日本海沿いを走るJR西日本の観光列車「みすゞ潮彩(みすずしおさい)」で、車内イベントとして地元・長州出身の幕末の志士高杉晋作を題材にした紙芝居の上演が始まり、話題を呼んでいる。
 「みすゞ潮彩」は山陽線の新下関駅(下関市)-山陰線の仙崎駅(長門市)間で2007年7月から運行開始。アールデコ調の外観や、海側に向けることができる座席が特徴で、山陰の美しい海岸線の風景を車窓から堪能できる。
 自由席と指定席の2両編成のディーゼルカーが1日2往復し、紙芝居は土、日、祝日に指定席車両内で上演されている。
 新下関発の1号は、仙崎生まれで26歳の若さで世を去った大正末期の童謡詩人金子みすゞの話が演目。折り返しの2号では、4月から「風雲児 高杉晋作」が始まり、「観光客にも好評」(下関市観光振興課)という。
 JR西日本によると、3月時点での指定席の乗車率は、列車によっては60%超となっている。6月末にかけ、車両検査が予定されているため、利用の際は運転日に注意を。【もぎたて便】


大分
23、24日に川開き観光祭
 日田市に初夏の訪れを告げる第62回日田川開き観光祭が、23、24の両日、開かれる。「水郷(すいきょう)ひた」を広くアピールする同市最大のイベントは、アユ漁の解禁と同時期に開催される。日田市の中心を流れる三隈川の河川敷などが会場。川の恵みを生かしたアユ漁や日本3大鵜(う)飼いの一つといわれる三隈川の鵜飼い、川に浮かぶ遊船(屋形船)、観光祭のメーンイベントの大花火大会。川や祭りを支える人たちを紹介する。

「遊船で焼きたて、いかが」 アユ料理 

 「水郷ひた」の観光資源として、アユは不可欠な存在だ。観光祭を控えた二十日には、三隈川などでアユ漁(網漁を除く)が解禁を迎えるとともに、市内の旅館にはアユ料理が並ぶ。
 アユ漁解禁に向けて、日田漁協(梶原一夫組合長)はことし、宮崎県産や大山町の中間育苗センターで育てた稚アユ百四十万匹を、三隈川などに放流した。同漁協の江藤英二専務は「三隈川の下流にはダムがあり、アユの遡上(そじょう)はほとんどない。このため、放流事業は重要」と話す。
 アユは八月ごろには、全長三十センチを超えることも珍しくなく、「餌となるコケが、良質で豊富な証拠。毎年全国から多くの釣りファンが訪れている」と話す。
 夏の風物詩である遊船(屋形船)にも欠かせない。市内隈(くま)の「亀山亭ホテル」では八年前から、アユ漁解禁に合わせ、船頭と板前だけが乗るアユ焼き専用船「鮎焼舟」を出している。諌山美智子社長は「歴史ある遊船で、たくさんの人に焼きたてのアユを味わってほしい」とPRしている。

400年も続く漁法 10月までシーズン 鵜匠・西尾さん

 三隈川は長良川(岐阜県)、肱川(愛媛県)とともに日本三大鵜飼と称される。現在、三隈川で鵜飼いをしている鵜匠は三人。鵜飼組合代表の西尾昭吾さん(48)=竹田新町=は、鵜と一緒に三隈川で川魚を捕り、四百年以上続く漁法を守り続けている。
 鵜飼いは、観光祭から十月までの約半年がシーズン。西尾さんは、三隈川に浮かぶ遊船(屋形船)を楽しむ客に、その姿を披露するのが仕事。「鵜飼いに興味を持っているお客さんに出会うとうれしい」と言う。西尾さんは、遊船の出発に合わせて、八羽の鵜を連れて漁に出る。木造の船に乗り川で泳ぐハエやウグイ、アユといった川魚を捕まえる。
 父の跡を継ぎ、二十歳からこの仕事に就いた。不景気の影響もあり、福岡市の現場で建設業の仕事を終えた後に、漁に出る毎日だ。
 鵜は気性が荒いが、一シーズンを過ごすと、次第に慣れ、お互いの気持ちが分かるという。「豊臣秀吉の時代に岐阜から鵜匠が日田に来たという。江戸時代、日田の代官が保護した漁法。歴史の重みを次の時代にもつなげたい」。鵜の首を優しくもみながら、漁に備える。

招魂祭が起源 戦後に復活
 アユ漁の解禁に合わせて開催され、「水郷ひた」に夏の訪れを告げる。
 一九三六年に、日田保勝会(現在の観光協会)、日田商工会、日田町観光課などが観光祭を立ち上げた。もともとは、幕末の安政の大獄以来の国事に殉じた志士の霊を慰めるために営まれた招魂祭が始まりとされる。
 日田の招魂祭は、儀式が次第に娯楽化し、衣装を凝らして鳴り物入りで街を練り歩く祭礼に変わった。「川開き観光祭」として戦後の四八年に復活。四九年に花火大会が始まり、現在は、期間中に二十万人以上が訪れる。


佐賀
三重津海軍所跡 幕末の建物跡発見 「世界遺産候補へ前進」
 佐賀市教委は、幕末佐賀藩の三重津海軍所跡(佐賀市川副町~諸富町)で行っていた発掘調査を終え、12日、結果を公開した。初めて当時のものと断定できる建物跡が見つかったほか、確認できる跡地の範囲をこれまでの約540メートル区間から約600メートル区間に拡大、面積を約5万平方メートルと推定した。市教委は、世界遺産の国内候補地リストに入っている「九州・山口の近代化産業遺産群」への同遺跡の登録を目指しており、「大きな前進」と評価した。(本部洋介)
 市教委によると、三重津海軍所は1858年に「御船手稽古(けいこ)所」として設立され、北東から南西方向に伸びた川沿いで航海や造船の教育を行ったほか、蒸気船を建造。明治初期に閉鎖されたとみられる。
 調査は4月16日から、県教委と合同で、これまで調査していなかった北端付近とみられる民有地170平方メートルで行った。その結果、約2メートルの等間隔で埋まった直径20~25センチの柱6本を発見。その下に、沈下防止のために置かれたらしい板も見つかった。
 少なくとも縦2・5メートル以上、横8メートル以上の建物の跡と推定され、1・5メートルほど盛り土をしたことも分かった。地盤強化などのために土に交ぜたとみられる瓦やかめの破片は19世紀製で、染め付けの文様などから1820~60年代製と特定できる磁器もあった。こうしたことから、当時の建物跡と断定できるという。
 前田達男・市教委文化振興課文化財係長は「見つかった柱は周囲を土で固める掘立(ほったて)柱で、三重津海軍所跡では初めての発見。安定性がある構造なので、壁がないガレージのような建物だった可能性がある」と説明した。


「兵学校の可能性」 三重津海軍所跡 2棟の建物跡確認 佐賀市諸富町
 佐賀市は12日、幕末佐賀藩の近代化史跡の世界遺産登録を目指し、県と合同で発掘調査した「三重津海軍所」跡(佐賀市川副町、諸富町)で、海軍所の遺構とみられる2棟の建物跡を確認したと発表した。藩士が造船技術などを学んだ「兵学校」跡の可能性が高いという。
 発掘は、未調査だった旧諸富町側の計170平方メートルで実施され、計12カ所で柱跡を発見。1棟は地面に直接、柱を埋める掘っ立て小屋で、地盤沈下防止のため、木の板を敷いた上に柱を立てていた。別の1棟には礎石跡があり、瓦屋根の建物があったと考えられるが、詳細は不明という。
 同市によると、今回発見された2棟の建物の築年代は海軍所が立地していた時期と一致し、海軍所絵図の配置からも兵学校跡との見方が強い。
 同市教委文化振興課は「今回の調査で、海軍所の規模がほぼ判明した。今後は建物がどのような使われ方をしていたかを調査したい」としている。


三重津海軍所の建物跡確認 世界遺産へ前進
 佐賀市教委は12日、三重津海軍所跡(佐賀市川副・諸富町)で、海軍所の建物遺構を確認したと発表した。柱の跡や広範囲な造成形跡があり、出土した陶器片が江戸末期のもので時期も合致した。建物遺構の確認で、世界遺産登録を目指す「九州・山口近代化産業遺産群」(6県22件)への追加登録に一歩前進した。
 確認された柱の跡は、直径20-25センチの掘っ立て柱跡8本と礎石痕跡4個。柱跡のうち6本は南北2メートル、東西2・2メートル間隔で並び、海軍所の建物の一部分と確認された。
 うち2本の柱には、沈下を防ぐ板が下に敷かれており、柱を建てて盛り土をして固定した可能性が高いという。一帯は約1・5メートル盛り土して造成したと推測される。周辺から1820-60年代の磁器の染付皿などがあったことで時期を特定した。
 発掘調査は、海軍兵学校や役所、倉庫があったとされる諸富町側の1500平方メートルのうち3カ所、計170平方メートルを対象に行った。
 市文化振興課の前田達男係長は「19世紀に大規模造成を要する工事は海軍所建設しか考えられない。出土遺物や絵図などを勘案すれば遺構は海軍所の建物」と話す。
 産業遺産群の世界遺産登録を目指す推進協議会の専門家委員会は「建物があったことが証明されれば追加登録の可能性は高い」としていた。市教委は今後、文献調査などに取り組む。
【写真】三重津海軍所跡の建物とみられる遺構が確認された調査現場。柱跡が等間隔に並んでいる=佐賀市諸富町為重


長崎
雑記帳:ドラマ「龍馬伝」放送でモニュメント設置…長崎市
雑記帳:ドラマ「龍馬伝」放送でモニュメント設置…長崎市
雑記帳:ドラマ「龍馬伝」放送でモニュメント設置…長崎市
 NHK大河ドラマ「龍馬伝」が来年放送されるのを前に、長崎市は坂本龍馬や幕末に関する史跡6カ所にモニュメントを設置する。デザインを31日まで公募している。
 龍馬が設立した商社「亀山社中(しゃちゅう)」跡前の「龍馬のぶーつ像」は、実際に履いて楽しめるため「他の史跡にもこんなモニュメントを作り、PRしよう」と企画した。
 6史跡は、岩崎弥太郎の商社「土佐商会」跡▽上野彦馬の「上野撮影局」跡▽薩摩藩蔵屋敷跡--など。市は「(朝廷に政権を返す)大政奉還に負けない型破りなアイデアを」と期待。【錦織祐一】


ブックレビュー
 数日前にクリップしたまま紹介し忘れていた記事もまとめて^_^;、ご紹介します。

今週の本棚:藤森照信・評 『近代日本の国際リゾート』=砂本文彦・著 (青弓社・8400円)
◇片田舎に続々と国際ホテルが建ったわけ
 上高地ホテルとか雲仙観光ホテルとか川奈ホテルとか、ちょっと渋いところでは志賀高原ホテルなどなど。昭和初期、どうしてそんな当時としては人影薄いところに、ちゃんとしたホテルが開設されたのか、不思議でならなかった。
 なぜなら、戦後の高度成長まで、ホテルは欧米外国人がもっぱら利用し、それゆえ、東京、横浜、神戸などの欧米人密度の高い都市か、そうした欧米人が観光や避暑に出かける日光、軽井沢、京都、奈良にかぎられていたからだ。
 軽井沢のクラシックホテルの宿帳を見たことがある。日本人を含めすべてアルファベットでサインがなされていた。ミチコ・ショーダとか。
 先に加えて赤倉、阿蘇、蒲郡、唐津、松島、河口湖、中禅寺湖にもちゃんとしたホテルが創設されているが、はたして欧米人が出かけて来たんだろうか。
 昭和10年開業の雲仙観光ホテルで聞くと、香港、上海の在留欧米人が夏の酷暑を避けて来ていたという。二年後の昭和12年開業の志賀高原観光ホテルは、当初、志賀高原・温泉ホテルの名で開業したが、名のせいか欧米客はまるでなく、代りに戦後になって占領軍がやって来た。
 昭和の初めといえば世界恐慌の直後になるが、そんな貧しい時代に、全国各地で本格的なホテルが続々と開業していたのだ。理由はその貧しさだった。恐慌で減じた外貨を獲得すべく、政府が政策として欧米観光客の誘致を計り、その政策に乗って、自治体、既存ホテル、鉄道、観光業が手を組んで、本格ホテル建設へと突き進む。
 こうした“昭和初期の国策ホテル”について初めてまとめた本書によると、国策ホテルを企画したのは鉄道省の国際観光局だった。予定地は、昔も今も同じように秘密裡(ひみつり)に選考が進められ、全国13ケ所が決り、その回遊ルートも設定される。
 それらは山岳リゾート、臨海リゾート、その他の三つに分かれていたが、私には山岳リゾートが面白かった。山や高原で自然に触れ、登山やスキーを楽しんでもらおうというのである。上高地、雲仙、志賀高原、赤倉、阿蘇がこれ。代表格の上高地といえど、当時、宿泊施設はわずか三軒。電気が引かれているのは清水屋旅館一軒。山越えの登山道しかない。
 松本盆地から入る道をどうするかを巡って、東京の帝国ホテルの大倉喜七郎と京都の都ホテルの藤村義朗の間でもめる。大倉は当然のように、大正池までの開設を言い、一方、藤村は、「自動車でもってホテルまで横着けにしなければ気が済まぬと云(い)ふやうな御客さんは、上高地へ来て貰はなくてもよい」、「それこそ山霊が何と云ふことか」。
 今日の目で見ると藤村の方が正しいが(現在、乗用車での入山は禁止)、昭和6年当時は大倉が優勢で、大正池までの道を自分で開き、車を横着けできる上高地帝国ホテルを、昭和8年、オープンさせている。
 内容は日本離れしていた。ホテルの中心となる食堂について、大倉は当然のように一室で考えていた。ところが、スイスのホテル事情に詳しい松方三郎が、山から帰って汗くさいまますぐ入るのとオーソドックスの二つが必要と主張し、二つになってしまった。
 山岳リゾートも臨海リゾートも、片田舎に本格ホテルが唐突にオープンする。行政、地方政治家、実業家、ホテル経営者、さらに建築家も加わって、幕末・明治初期につづく第二のニッポンホテル元年のドタバタが繰り広げられた。本書には、その過程が克明に描かれている。
 結局、ほとんどのホテルに欧米客はやって来なかったが。

 面白そうな内容ですね……高い本なので、ちょっと手が出ませんが^_^;。図書館に入っていたら借りて読んでみたいかな。

今週の本棚・新刊:『坂本龍馬のビジネススキル』=河合敦・著(小学館・1260円)
 薩長同盟を実現し、大政奉還に尽力した坂本龍馬。激動の幕末史を駆け抜けた人の行動体系は、どんな特徴を持っていたのか。
 史料を駆使しながら、現代にたとえて紹介する一冊。著者は高校の先生をしながら、講演や執筆で活躍し、「世界一受けたい授業!!」の講師としてテレビ出演もする歴史研究家。豊富な知識がよく整理されて、柔らかな語り口でつづられている。
 アポなし面会、相手に自分を印象づける方法、タイミングの見定め、困難にめげない粘り強さ、プレゼントの仕方、最先端技術への積極性。実はオシャレだったとか、慎重に行動したとか、意外な側面も明らかにされる。龍馬のスキル(技術)のいくつかは、陸奥宗光や岩崎弥太郎に受け継がれることになる。(重)


【話の肖像画】「歴史探偵」が語る新・幕末史(上)作家・半藤一利
■明治維新は薩長史観
 昨年末に刊行された『幕末史』(新潮社)が11万部を突破した。歴史小説ならいざ知らず、ノンフィクションの歴史ものがこれほど売れるというのは異例といっていい。半藤さんいわく、「いまも薩長史観によって、1868年の暴力革命を誰もが立派そうに『明治維新』といっています」「私が皆さんに語ることになる幕末から明治11(1878)年までの歴史は、『反薩長史観』となることは請合いであります」。現代日本の出発点を「歴史探偵」はどう見ているのだろう。
 --本書は「慶応丸の内シティキャンパス」で社会人を相手におしゃべりした内容をまとめたものですが、講談調のキビキビしたテンポなど、おしゃべりの効用が随所に感じられますね
 半藤 物書きってのは、自分の調べたことを全部書きたくなるんですよ。その欲望を抑えるのはなかなか難しい。書き出すとどんどん書きたくなる。ところがね、おしゃべりは口が疲れてくる。だから、えいやっと、省略して話を進めてしまう。それぐらいが聞き手や読み手にはちょうどいいのかもしれませんね。
 --冒頭で「反薩長史観」をうたい文句にしていますが、読後感を述べれば、きわめて公正な叙述という気がします。
 半藤 ははは。「反薩長」とタンカは切ったけれど、現実には史料の制約があって、存分にはできませんでした。もし史料が半々だったら、もう少し違ったものになったかもしれません。
 --どういうことですか
 半藤 史料はあるのですが、佐幕側のものはあまり活字になっていません。活字になっているのは薩長にとって都合のいいものが多くてね。これも薩長がつくった明治国家の政策ですから。ならば原史料にあたればいいといわれるかもしれませんが、残念ながらおいそれとは読めません。佐幕側の活字史料が少ないから、どうしても薩長の視点に偏ってしまうのです。ただ、いまの時点で本音を言えば、それほど「薩長憎し」とは思っていません。幕府は驚くほど無能でしたから。贔屓(ひいき)にしてかかっても「何だこいつら」と思うことがしばしばでした。
 --例えば
 半藤 桜田門外の変(1860年)で大老の井伊直弼(なおすけ)があっけなく首を取られ、坂下門外の変(1862年)では老中の安藤信正が簡単に襲撃される。また、薩摩藩の国父でありますが、何の権限もない島津久光が江戸に乗り込み、武力を背景にして幕府の人事にまで口を出す。久光は殿様である忠義の父親にすぎないのですが、幕府はこれに屈してしまう。この時点で幕府は、国を運営する自信はなかった。
 --薩長にはそれがあった
 半藤 いや、薩長には新しい統一国家をつくる以外に日本の生き残る道はないという認識はあったでしょうが、明確な国家像などありませんでした。統一国家というものは、国民の意思統合が前提となります。そのためには「機軸」が必要です。しかし、公方さまに代わって外様大名にすぎない薩長が「機軸」になれるはずがない。明治10(1877)年までは何を「機軸」にするかをめぐってさまざまな政争が起こりました。西郷隆盛は強兵を、大久保利通は富国を、木戸孝允は議会政治を「機軸」に国を統合していこうと考えていたのではないでしょうか。黒船の来航(1853年)から明治11年まで扱った本書を「幕末史」としたのはそうした理由からです。
 --明治10年までは幕末の延長だったということですね。これまでの歴史教科書では、天皇家を「機軸」にした国家像を持った薩長が維新を起こしたことになっていますが、それは後付けだった
 半藤 そうです。明治10年に木戸が亡くなり、西郷が自刃し、11年に大久保が殺されたあと、新国家は長州の山県有朋と伊藤博文に委ねられます。このふたりが考えに考え抜き、やっと万世一系の天皇家を超越的なシンボルとして「機軸」にすることを思いついたのです。はじめから天皇家中心の国家がつくられたというのはうそです。
 --なるほど
 半藤 山県や伊藤は頭が良かったと思います。天皇を「機軸」にするために、宮中で行われていた四方拝、神嘗(かんなめ)祭、新嘗(にいなめ)祭といったお祭りを国民とともに祝うようにしたんです。国家をまとめるにはお祭りが一番です。そしてこの時期に国旗や国歌も制定され、「天皇陛下万歳」も定着してゆくのです。(桑原聡)
                   ◇
【プロフィル】半藤一利
 はんどう・かずとし 昭和5(1930)年、東京・向島の生まれだが、父祖の地は越後長岡。78歳。作家。旧制浦和高を経て東京大文学部卒。文芸春秋に入社し、「週刊文春」「文芸春秋」の編集長から専務取締役に。『漱石先生ぞな、もし』で新田次郎文学賞、『ノモンハンの夏』で山本七平賞、『昭和史 1926-1945』と『昭和史 戦後篇』で毎日出版文化賞特別賞を受賞。自他ともに認める「歴史探偵」として、昭和の歴史の謎に挑み、その成果を巧みな語り口(文体)で発表している。


【話の肖像画】「歴史探偵」が語る新・幕末史(中)作家・半藤一利
■薩長が太平洋戦争始めた
 --長州によって皇国史観が持ち込まれ、やっと日本はまとまり歩み始める
 半藤 そうです。私は決して皇国史観が悪いとは思っていません。てんでんばらばらだったこの国をきちんとまとめるにはきわめて有効だった。明治の日本が前に向かって歩き出せたのは山県や伊藤の知恵があったればこそ。公方さまの代わりになるのは万世一系の天皇家、そして宮中の祭りを民間におろして国民が一緒に祝う。もしそうでなかったら、日露戦争にも勝てなかったと思います。皇国史観が問題となるのは、昭和12年に文部省が「機軸」としての天皇を拡大解釈し、大日本帝国は神国であり、天皇は現人神(あらひとがみ)であるとする「国体の本義」を出してからです。その後、薩長は愚かな太平洋戦争を始める。
 --薩長は大日本帝国をつくりながら、自らこれを崩壊させた
 半藤 薩長が日本を戦争に引きずり込み、戦争をやめるのに命を張ったのは賊軍出身者でした。たとえば鈴木貫太郎は関宿藩、米内(よない)光政は盛岡藩です。鈴木を例に挙げましょう。賊軍出身の彼は官に出仕できないため海軍に進むものの、そこでも薩閥が横暴をふるい、彼は後輩にどんどん追い抜かれてゆきます。彼は2度海軍を辞めようとしましたが、父親に「お前は国を守るために海軍に入ったのだろう。偉くなるために入ったわけではないだろう」と諭されて思いとどまった。松山藩出身の秋山真之(さねゆき)もそう。鈴木と同じように苦労して自分を磨いていった。
 --薩長出身者と賊軍出身者のメンタリティーには明らかに違いがありますね
 半藤 賊軍出身者には郷土愛と結びついた愛国心があるように思います。一方、薩長出身者の多くは中央を向き、郷土愛は賊軍出身者に比べて薄いように感じます。この差は大きいですよ。(桑原聡)

 半藤幕末史、まだ読んでませんがインタビューを読むとやはり面白そう……明治政府における山県・伊藤を(いわゆる維新の元勲の後輩世代として)あまり評価してなかったんですが「皇国史観」を発明したと指摘されると、皇国史観そのものの是非はあるものの、なるほどそうかと思いましたし。
 インタビュー(下)は明日か明後日掲載されるのではないかと思います。





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