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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
 近場ながらちょっとした森林浴をしてきました。緑とせせらぎの音に、癒されました。
 NHK『スタジオパークからこんにちは』、今日のゲストは『陽炎の辻』シリーズで主人公坂崎磐音の剣の師匠・佐々木玲圓先生を演じている榎木孝明さんです……楽しみ楽しみ。

神奈川
横浜黒船研究会が「横浜開港の世界史的意義」問うシンポジウム
横浜黒船研究会が「横浜開港の世界史的意義」問うシンポジウム
 横浜黒船研究会は5月17日、横浜市開港記念会館講堂(横浜市中区本町1)で「開港記念150周年シンポジウム」を開催する。「横浜開港の世界史的意義 ―なぜ植民地化を免れたか?」がテーマ。
 日本が開国に至るまでに経験した諸外国との出会いや、その後の過程を新しい視点から掘り起こし、列強が押し寄せた時代に、「なぜ日本だけが植民地化を免れることが出来たのか」を独自に検証し、開港の果たした世界史的な意義をあらためて問い直すことをねらいとしている。
 シンポジウムは5部構成で、基調講演、パネリスト報告、パネルディスカッション、記念音楽会、懇親会となっている。基調講演は、横浜市立大学名誉教授・元学長の加藤祐三さんによる「横浜開港の世界史的意義」と明海大学の岩下哲典教授による「日本開国とオランダ」と題した講演。パネリストによる報告は、大間知倫さんの「日露交流-地震・造船・国境」、今津浩一さんの「ペリー提督の対日交渉」、有賀英樹さんの「上海租界と横浜居留地」の予定。続くパネルディスカッションでは、横浜開港の世界史的意義について意見交換する。
 また17時15分からの「記念音楽会」は、オペラでカウンターテナーとして活躍中の菊池大翼(だいすけ)さんによるスペシャルリサイタル。メゾソプラノからバリトンまでを駆使する菊池さんが、横浜にちなむ歌や アメリカ民謡のほか、数々のオペラの名曲を披露する。懇親会は北欧料理店「スカンディヤ」に移動して行う(参加費5,000円)。
 横浜黒船研究会は、「幕末のペリー来航から明治にかけての神奈川県一円を舞台とした対外交渉史、文化交流史、並びにそれらが地域社会に及ぼした影響・特色ある文化を形成した足跡について研究し、それらの現在、未来との関係のあり方を研究する」という趣旨のもと、月一回の定例研究会をおこなっている。
 開催時間は、13時~17時45分(開場は12時30分)。

横浜港で「黒船体験ツアー」-開国博入場券で、25,000人無料乗船(ヨコハマ経済新聞)
横浜黒船研究会


静岡
坦庵表現へ市民劇団始動 女優、藤田弓子さんが演出
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 今秋に開催される国民文化祭の一環として公演する、幕末の韮山代官江川太郎左衛門英龍(坦庵)をテーマにした創作劇「夜は明け 我は今翔ぶ」の顔合わせが13日夜、伊豆の国市の韮山時代劇場で行われた。公募で結成された市民劇団の団員がけいこ始めに臨み、演出を担当する同市在住の女優藤田弓子さんらスタッフも参加した。
 同市は国文祭メーンテーマに坦庵を掲げ、オペラや演劇を通して功績などを紹介する。創作劇は、晩年の坦庵と交流のあったジョン万次郎から見た坦庵の人物像を描く物語で、脚本は藤田さんの夫の河野洋さんが担当する。
 けいこ始めには、4月のオーディションを通過した小学生から60歳代後半までの団員15人とスタッフが初めて顔を合わせた。団員やスタッフが舞台に上がって1人ずつ自己紹介した後、ストレッチ体操をしたり体を動かしたりした。国文祭同市実行委員も務める藤田さんは「持っている力を出し惜しみせず、みんなで一緒に劇を作る楽しさを味わってほしい。閉幕時に感動の嵐となるようにしたい」と団員に呼び掛けた。
 公演は11月1日午後5時から、アクシスかつらぎで開く。団員らは本番まで毎週けいこを予定している。

 坦庵公主人公の創作劇、見たいです(^^)。

ペリー生誕地訪問団を歓迎 きょうから黒船祭 下田
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 日本開国の地・下田から始まった日米間の友好関係を記念する「第70回黒船祭」(同祭執行会主催)の開催を翌日に控え、姉妹都市提携を結ぶ米ロードアイランド州ニューポート市の訪問団が14日、下田市に到着した。
 ニューポート市は幕末に黒船艦隊を率いて下田港に入港したペリー提督の生誕地。下田市とは姉妹都市提携を結んだ1958年以降、行政や市民レベルでの交流が続けられている。今回は計17人が訪れる予定で、市役所で一行を出迎えた石井直樹市長は「皆さんと再会できて大変うれしい。市民を代表して歓迎いたします」とあいさつした。
 訪問団は17日まで行われる黒船祭の公式行事などに参加し、市民との交流を深める。



新潟
5/16近美で「明治期の洋画-高橋由一、小山正太郎を中心に」
 長岡市・新潟県立近代美術館では、16日午後2時から同美術館で美術鑑賞講座『近代日本美術史入門 名品をたずねて1「明治期の洋画-高橋由一、小山正太郎を中心に」』を開く。
 同美術館の桐原浩業務課長を講師に、幕末から明治にかけての代表作を、重要文化財の『鮭』(東京藝術大学蔵)の迫真の描写で有名な高橋由一、画塾不同舎をおこして後進を育てた地元長岡出身の小山正太郎を中心に話す。聴講無料。


京都
<ぶらり京都>土下座前、歴史思う…高山彦九郎の像(東山区)

 「土下座前で」と京都の若者たちが言えば、京阪・三条駅(京都市東山区)前のこの像の前で待ち合わせよう、という意味になる。
 江戸時代の思想家、高山彦九郎(1747~93)が京都御所に向かってひざまずき、拝礼する姿をかたどった「皇居望拝之像」。高さ約3メートル。特異な姿と大きさでいやが上にも目につき、待ち合わせの定番スポットとして知る人ぞ知る存在だ。
 若くして勤王思想に目覚めた高山は、日本中を旅しながら朝廷による文治政治実現を説き、後の尊皇攘夷運動にも影響を与えた。京も頻繁に訪れたが、東海道を経て到着し、そして立ち去る際には、その起・終点の三条大橋のたもとで必ず、御所に向けて居住まいを正したという。
 鴨川の対岸には、尊王攘夷派の志士と新撰組が死闘を演じた三条木屋町界隈も広がる。「土下座前」での待ち合わせのひととき、高山以後の歴史の転変に思いを巡らせるのも、一興だ。
(写真・文 菊政哲也)

 京都を訪ねた時に何度かこの像の前を通りかかってますが、京都の若者が「土下座前で」とか約束しているとは知りませんでした^_^;。東京以外の人が「ハチ公前で」「モアイ前で」と聞く時に比べると、固有名詞としての知名度と元の言葉のインパクト度(何しろ「土下座・前で」です^_^;)に大きな違いがあるような^_^;。

奈良
自費出版:大阪の草村さん、天誅組の研究冊子に /奈良
 江戸末期に幕府五條代官所を襲い、明治維新の先駆けとなった天誅(てんちゅう)組の研究家、草村克彦さん(52)=大阪府藤井寺市=がこれまでの調査をまとめ、冊子「天忠組の跫(あし)音」を自費出版した。土佐出身の志士、楠目清馬(くすめせいま)の最期の様子は、草村さんが桜井市内の現地を訪ね、かくまった人の子孫から聞いた。
 草村さんは会社員。読書好きで幕末の歴史に興味があり、86年ごろ天誅組に関心を抱き始めた。辞令1枚で勤務地が変わるサラリーマンの立場と、蜂起の翌日に起きた京都の政変で官軍から賊軍に変わった天誅組が重なったという。
 清馬は、隊が東吉野村鷲家口で幕府方と戦い壊滅した後、山道を進み、桜井市多武峰のあたりへ脱出。追討軍に包囲され、自刃したと伝えられる。22歳だった。草村さんは昨年、清馬の遺品とされる鎖網頭巾(ずきん)が談山神社に寄贈されると聞き、最後の足跡を調査。頭巾の所有者から「けがをしていたのでかくまい、頭巾は忘れ物だった」という話を聞いた。草村さんは「これまでの資料にはなかった話」と言う。県内研究者も寄稿。
 冊子は78ページ。1部送料込み1000円。申し込みは草村さんへ。〒583-0033 藤井寺市小山5の5の16へ郵送するか、ファクス(072・955・3309)で。【栗栖健】


広島
福山の小中給食に「龍馬献立」 食通じ歴史に関心を
福山の小中給食に「龍馬献立」 食通じ歴史に関心を
福山の小中給食に「龍馬献立」(広島)
食通じ歴史に関心を、広島・福山の小中給食に「龍馬献立」
 郷土料理を小中学校の給食に取り入れている福山市教委は、同市鞆町が幕末の志士・坂本龍馬のゆかりの地であることを児童、生徒に知ってもらおうと、龍馬の古里・高知県にちなんだ新献立の検討を始めた。龍馬を描いたNHK大河ドラマ「龍馬伝」が来年放映されるより一足早く、10月にも新献立が給食にお目見えする見通しで、学校関係者らは「子どもたちが歴史上の人物に関心を深め、福山らしさについて考えるきっかけになれば」と期待している。(向井友理)

 市教委は、料理を通じて地元に愛着を持ってもらおうと、2008年5月に鞆の浦の「観光鯛(たい)網」にちなんで、タイのほぐし身を入れた地元の「鯛めし」を市立小全78校と市立中8校で初めて提供。好評で、子どもや保護者から「家でも作ってみた」「家族で鞆に鯛めしを食べに行った」などの声が寄せられたという。

 鞆の浦は、1867年に龍馬率いる海援隊の船と紀州藩の軍艦が衝突した「いろは丸事件」の舞台とされ、市などは、「龍馬伝」の放映に向けて観光地としての盛り上がりに期待している。市教委も、龍馬への関心が高まっている時期に、給食に高知の料理を取り入れることで、歴史をより身近に感じてもらおうと考えた。

 新献立は、高知特産のカツオを使った料理を検討しているといい、栄養士の資格を持つ市教委職員を中心に、龍馬が生まれ育った高知市や、「食育」に熱心な同県南国市からレシピを取り寄せるなどして研究する。鯛めしの材料費は350円と、給食費の平均(245円)より高めだが、<龍馬献立>は未定。仮に高めの金額になっても、別の日の献立を安くすることで給食費の値上げはしない方針という。

 鯛めしは、今年も市立小中学校で提供が始まった。14日には、福山市鞆町、市立鞆小(松岡誠治校長・152人)で出され、児童らが「おいしい」と言いながら古里の味を楽しんだ。<龍馬献立>について聞いた、6年沖浦雛(ひな)さん(11)は「高知県の味も食べてみたい」と声を弾ませ、松岡校長は「食を通じて地元の歴史や高知県とのかかわりに興味を持つ児童が出てくるかもしれない」と期待していた。


山口
<イヌマキ>晋作ら維新の志士も見上げた? 樹齢300年の大木、お引っ越し 萩
◇“歴史の生き証人”道路整備で16日移植

 山口県萩市平安古町の新堀川そばにある推定樹齢300年といわれるイヌマキ(マキ科)の大木が、道路整備のため約30メートル北側の緑地に引っ越しする。造園業者も「ここまで大きな樹木の引っ越しはあまり例がないのではないか」というほどの“大事業”となりそう。
 樹高12メートル、胸高周囲2・8メートルある雄株。江戸時代の萩古地図(安政年間)に「清末用屋敷」と明示されており、下関地域の毛利藩屋敷内の庭木と考えられている。
 現在、外堀の周辺整備に合わせて県道今魚店金谷線の建設が進められており、イヌマキが道路中央になるため移植が決まった。
 引っ越しは16日午前で、50トンクレーンでつり上げて30メートル移動する。引っ越し先の緑地帯は、「イヌマキのある散歩道」として整備する予定。市都市計画課の樹木医、草野隆司さんは「歴史の生き証人で、記録文化財として保存することにした」と話している。【川上敏文】


長崎
幕末舞台の映画から世相考える 評論家・寺脇さん講演 16日、長崎歴史文化博物館
 元文部科学省大臣官房審議官で映画評論家の寺脇研さんが16日午後2時半から、同市立山一丁目の長崎歴史文化博物館で「映画に描かれた幕末そして『龍馬』」と題した講演会を開く。
 寺脇さんは福岡県出身。映画のロケを誘致・支援する特定非営利活動法人(NPO法人)「ジャパン・フィルムコミッション」の理事長を務めている。来年のNHK大河ドラマ「龍馬伝」や長崎市が長崎港開港150周年を記念して開催中の「幕末さるく」にちなみ、幕末を舞台とした映画を通して、当時から現代に至る日本の世相を考えようと、市内の映画愛好家で作る市民団体「NAGASAKIキラメキ☆シネマ塾」が主催する。
 入場料は一般1000円、大学生500円、高校生以下無料。




ブックレビュー
大量失業者を出した廃藩置県
セーフティーネットなしの「えらいことでした」

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 金融危機に次ぐ不況の影響は、雇用者を容赦なく襲っている。“派遣切り”、内定取り消し、ワークシェアリング、そして解雇――。労働者が置かれる立場は厳しく、不透明だ。日本にはかつて、失業者を大量に生み出した時代があった。140年前のことである。

『幕末史』半藤一利著 新潮社 1800円(税別)

『幕末史』半藤一利著
 『昭和史』全2巻で評判を取った著者の幕末版。
 幕末史はまさに星の数ほど刊行されてきた。いずれの幕末史も、薩長官軍の側から綴ったもので、薩長以外はすべて賊軍という偏見甚だしいものが多い。薩長以外の視点で明治維新を眺めるとどのように見えるのか。例によって読みやすい講談調というか、寺子屋調で複雑怪奇な幕末の人間模様を講釈する。
 まともに読んだら頭が痛くなること必定の漢語交じりの重要文献が多用引用されるが、講談調の訳がついているので、500ページ近い大部の書もあっという間に読み進むことができた。
 そもそも、維新という言葉がおかしい。大政奉還、五箇条の誓文、版籍奉還、廃藩置県といった、革命的な大事件に際しても、誰一人「維新」という言葉を使っていない。

250年続いた会社がある日突然消滅し、全員が失業した

 「維新」でなければ何なのだ。それはちょっとした暴力を伴った革命なのだ。旧来の幕藩体制をぶち壊す御一新とは、革命以外の何物でもない。幕府の将軍や、京都の天皇、老中、お公家さんたち、地方の雄藩らが、それぞれの思惑を露骨に示して暗躍し、テロリズムも横行した。

 革命的な施策の中でとりわけ強烈なのが廃藩置県である。各藩は一定の自治を与えられて、藩士たちを養ってきた。ご家人もいれば足軽まで、全部が雇い人である。各藩は大藩、小藩に関わらず、“社長”は一通の勅令によって、馘首された。

 この時日本全国には261の藩があった。新政府の平等の精神によって、いかなる例外もなく藩主の首が飛んだ。藩士たちは家族もろとも、無禄のまま放り出される。およそ250年続いてきた会社が、ある日突然消滅し、全員が失業したのと同じことだ。
 明治新政府は、セーフティーネットなしに、勝利者も敗北者も一緒くたにして、御一新という荒波にさらしてしまう。失業士族たちは、安寧の生活から一直線に喰うに困る貧窮の境遇に真っ逆様に落とされた。
 司馬遼太郎は明治4年の廃藩置県を、革命だとして、
 「えらいことでした」
 と述べている。著者もそこで尻馬に乗って、
 「まったくえらいこっちゃなことでした」
 この「えらいこっちゃ」の最中、新政府は莫大な国費を投じて、政府の中枢を担う岩倉具視を団長に「遣米欧使節団」を派遣した。新政府の優駿総出の海外出張だ。

 「そもそも、維新という言葉がおかしい。大政奉還、五箇条の誓文、版籍奉還、廃藩置県といった、革命的な大事件に際しても、誰一人『維新』という言葉を使っていない」「『維新』でなければ何なのだ。それはちょっとした暴力を伴った革命なのだ。旧来の幕藩体制をぶち壊す御一新とは、革命以外の何物でもない。幕府の将軍や、京都の天皇、老中、お公家さんたち、地方の雄藩らが、それぞれの思惑を露骨に示して暗躍し、テロリズムも横行した」というところに、まったく同感。

『岩倉使節団という冒険』泉三郎著 文春新書 700円(税別)

 「遣米欧使節団」は、大将の岩倉具視にちなみ、一般に岩倉使節団という。明治新政府は、世界について何も知らないままに設立された。今後、日本が発展するために、政府の枢要な人物は世界のことを知らねばならない、として、膨大な国費を投じて、派遣したものだ。
 使節と言うからには、するべきことがあった。開国期に諸外国と無理やり結ばされた条約が残った。この条約は、世間知らずの坊ちゃん幕府が締結したものだから、不平等極まりない。
 そこで、今すぐというわけにはいかないだろうが、条約改正のために下見でも、という了見で派遣された使節団だった。
 明治初年、太平洋には定期航路が開かれていた。サンフランシスコとハワイ、横浜、上海を結ぶ航路だ。米国のパシフィック・メイル・ラインという会社が運航していたアメリカ号に一同は乗り組んだ。当時、貴重な労働力として中国の労働者を船底にびっしりと積み込み、まるで奴隷船を兼ねた航路だった。
 使節団は日本国の代表である。もちろんキャビン付きの船室を占領した。
「西洋かぶれが書いた心得なんか守っていられるか」

 船旅では一等船客は、船長と一緒にディナーを食べることになっている。ところが、日本のサムライたちはテーブルマナーなんてものを知らない。テーブルの上に出ている肉片を手で持って(フォーク、ナイフなんか見たこともない)囓りつく、スープは皿ごと音を立ててすするという体たらく。
 さっそく「食事作法心得」という書類が、洋行経験者の手で作られ、全員に配られた。
 しかし、西洋かぶれが書いた心得なんか守っていられるか、とわざわざ、心得に反するようなことをして、皆を困らせた。岩倉使節団の前途多難だった。
 太平洋を渡るとサンフランシスコだった。ゴールドラッシュで生まれた真新しい町だ。
 サンフランシスコでは、一行は大歓迎を受けた。毎日、豪華な夜会と会食が催され、胃の腑の休まる暇もなかった。ホテルには見たこともないエレベーターもあり、一同は文明の力にただ驚くばかりであった。
 サンフランシスコからは、大陸横断鉄道で約5000キロを移動し、ワシントンに向かった。途中に立ち寄った町でも大歓迎が続いた。
 一行は米国という国は大平原の開拓ででき、先住民の土地の収奪によって成り立っていることも見て取った。一行は歓迎に酔いしれて、今回の使命に対して楽観的な気持ちを持ち始めていた。
 ワシントンに着いた途端、この楽観は吹き飛んだ。条約改正の話を持ち出すと、条約とは国と国とで交わされるもの。明治天皇の親書、あるいは委任状がなければ交渉には応じられない、と突っぱねられた。
 ではさっそく、といっても当時のこと、今来た道をもう一度引き返して、東京に戻り、天皇の親書を持ってくる他はない。そして、明治天皇の正式な委任状をもらってくることになった。

失策続きの使節団

 伊藤博文と大久保利通の2人がその役を引き受けることになった。残された使節団の一行は、その間にニューヨーク、ボストンなどを回遊して時間つぶしをしていた。
 ところが、天皇の委任状が届くのに手間取ったことから、もう条約の話はこれまで、とワシントンから通告されてしまった。日本のとんだ失策である。しかも、渡英の時期が大幅に遅れたことで、肝心のビクトリア女王が恒例の避暑休暇に入ってしまい、書状を渡すことができなくなった。またもや使節団の大失点である。条約改正の話題は持ち出せないままだった。
 しかし、このあたりで使節団は腹をくくったようだ。条約がダメなら、当時最盛期を迎えていた英国繁栄の底力を探ってやろうと、意気軒高、使節団は好奇心丸出しで英国の鉱工業、製造業、鉄道、通信などの社会インフラなどの見学に努めた。
 使命としては失敗だった遣米欧使節団は、詳細な報告書で、立派な役割を果たした。明治政府の基本方針を脱亜入欧と定め、一気に文明開化の道を突き進む端緒となった。
 その詳細な記録には使節団員、久米邦武の編纂した『特命全権大使米欧回覧実記』全5巻(岩波文庫)で触れることができる。明治人の国を良くする気持ちが溢れんばかりに満ちた書物である。
 ところで、日本悲願の条約改正には時間がかかった。結局、日本が日露戦争に勝利して一流国と認められた明治44(1911)年まで待たなければならなかった。この時の条約では関税自主権が確立した。

 この岩倉使節団に同行した米国留学生たちの中に、津田梅子や山川捨松(会津藩士山川大蔵・健次郎兄弟の妹、後に陸軍卿・伯爵である大山巌の夫人)、江川太郎左衛門(第38代英武、元幕府代官で初代韮山県令)などもいるんですよね。
『幕臣たちの明治維新』安藤優一郎著 講談社現代新書 700円(税別)

 江戸無血開城で徳川幕府が滅び維新政府が成立した。この時、維新政府は徳川家の扱いに苦慮していた。その結果打ち出された方針は、徳川家に70万石を与え駿府に移封するということだった。
 この時、江戸幕府に勤めていた幕臣たちは、駿府(静岡藩)で君主に仕えるか、新政府のやり方に反発して無禄の浪人を選ぶか、あるいは新政府の役人になるか選択を迫られた。無禄を選んだ幕臣の多くは、さっそく生活のことを考えなくてはならなかった。しかし、武士たちが世間並みの生活をするのは大変だった。

骨董品を二束三文で売った旧藩士

 厳格な身分社会に慣れていた武家たちが農業や商売に携わるのは容易ではなかったはずだ。食うや食わずの武家出身者が巷に溢れ出た。今日的に言えば失業者である。店を開く旧藩士は、先祖の蔵を開けて骨董品を二束三文で売るしかなかった。
 この状況に拍車をかけたのが新政府の矢継ぎ早の改革政策で、そのうち最もショックが甚大だったのが廃藩置県だった。旧藩をすべて廃し、全国が3府72県に分割されてしまう。各藩で、藩主と藩士は一挙に失業する。大名だけは華族に取り立てたものの、藩士たちは明治政府の官吏となるか、在野で生き抜く道しか残されていない。
 著者は静岡藩について特に綿密に著述する。静岡藩こそが徳川幕府の成れの果てだからだ。政府の官吏は5215人、そのうち静岡・東京出身者は1755人に及んだ。静岡出身者とはすなわち徳川家の旧幕臣のことだ。明治政府は維新の功労藩薩長土肥と旧幕藩士で、ほとんどが占められていた。
 静岡藩士で職に就けなかった者は扶持米を売って食べていくしかない。扶持米も廃藩置県ではゼロとなる。家族全員7人が枕を並べて餓死したといった惨状が報告されている。
 しかし、この時代、逆境をバネにして羽ばたいた男もいた。渋沢栄一だ。
 日本で最初の株式会社を興し、大富豪になった。
 著者は近頃の江戸ブームについて、幕末の藩士たちの回顧録などにも目配りが大切だと説く。失業藩士たちの本音が聞こえるからだ。

 この3冊、読みたいです。元幕臣たちが興した沼津兵学校についても読みたいなぁ。

コラム
とっておきの話 
日本の女子教育と洋装化
教育・総合科学学術院 教授 矢口 徹也

 中学、高校の制服のデザインが学校選択の大きな要素になっているという。
 そもそも、日本人と洋装の出会いは、16世紀のスペイン系の衣服で、今の合羽、襦袢にその残影がある。鎖国時代を経て、幕末の各藩に欧米の軍服が応用され、明治初期には政府高官、軍隊、学校で男子の洋装が定着していった。その反面、女子の洋装化には紆余曲折があった。文明開化の時代から、現在の女子学習院、お茶ノ水大付属学校で洋装化が試みられたが、女子の洋装には強硬な反対があって、しばらくは着物時代が続いたのである。
 変化の契機は、1899(明治32)年、ドイツ人医師ベルツが女子の体育について講演し、日本人の体位向上のために女子の運動の必要性と衣服改良を指摘したことにあった。事実、良妻賢母教育の高等女学校が成立すると、将来、母親になる女学生たちにブルーマーでの体育が必修となり、男子の礼装だった袴の着用が認められるようになった。袴姿とリボンで纏めた髪は女学校の象徴となり、当時の憧憬は今日の大学の卒業式にも続いている。
 大正期になると、子どもの洋装化がすすみ、女学校にはセーラー服が登場した。さらに、関東大震災の経験は服装の機能性重視をもたらし、女性の洋装化を加速させた。しかし、学校教育全体で女子の洋装制服が定着するのは昭和初期であり、それは男子と比べて半世紀近く後のことだった。この洋装化に関する男女間の時期の格差は、男子中心に準備された日本の教育制度の歴史と女性への差別に対応していた、とも捉えられる。
 さて、制服(Uniform)には、実用性と同時に、文字通り統制と帰属意識に関わる側面が存在しているはずである。今の日本人は世界中の服飾文化を受容し、その多様性を享受しているように見える。一方で、学校での制服が依然支持され、そのデザインが進路選択にも大きな影響を与えていることの意味を、少し考えてみたいと思っている。


☆★☆★

追記。

榎木孝明さんご出演の『スタジオパークからこんにちは』、とても楽しく視聴しました。『陽炎の辻3』第6回のアクションシーンのさわりを見られただけでなく、榎木さんの古武道を応用した実演(力を使わなくても人の半身を軽く動かしてしまったりできるんですねぇ……)とか、アジア放浪の旅のお話とか、とても話題豊富でした。

「殺陣が下手な人と共演すると殺陣の上手い役者でも下手に見えてしまう」と殺陣に関して辛口な榎木さんですが、山本さんについてはとても褒めてくださいました。山本さん演じる磐音さまもかなわない剣の達人・佐々木玲圓先生の風格は中の人(こらこら^_^;)からにじみ出てくるものも相まっていると感じます。

先行放送で見る限り、第6回は西の丸さまも登場され、ロケ場面が多用されていることもあり、アクション場面は面白かったです(ストーリーの構成としては前回の方が見事だったかも知れません)……原作読んでないので原作とどう違うのかはわかりませんが、脚本・構成について云えば、こんなに簡単に将軍ご嫡子が刺客に取り囲まれる展開でいいものか(爆)、と^_^;。深く考えずにアクション場面だけ見たら、今回は特に凄いかと(CG処理に、『組!』源さん死すの回のマトリックスを連想させるところが……遙かにナチュラルなので「あの回も、このぐらいにしておけばよかったのに」と、余計な一言を考えてしまいました^_^;)。明日の本放送待ちの方は、ぜひ期待してください。

そして今日、ワンセグ放送された『プチかげ』も……おこんちゃんのキャラ、本編より『プチかげ』今回版の方が白牡丹的には自然に感じられました(苦笑)。お有ちゃん、おこんちゃん、お佐紀ちゃん、女3人の井戸端会議が自然体っぽくて、いい感じでした。




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