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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
 風向きが変わって、かなり気温が下がりました。北海道の一部では季節外れの雪が降るとかいう予報でしたね(汗)。
 昨日の午後から今朝にかけて、読み応えのある記事が何本かありました。

北海道
函館開港150周年記念事業、式典開催まで50日切る
 函館開港150周年記念事業の記念式典が開催される7月1日まで残り50日を切った。同記念事業実行委員会(会長・西尾正範市長)を中心に準備を進めているが、市民から「PRが足りない」「盛り上がりに欠けている」などとささやかれ始めている。市役所庁舎や中心市街地中などには垂れ幕や旗などが飾られておらず、市民らは記念事業のムードを体感できないようだ。同実行委は「16日以降から本格的な周知、宣伝活動を展開したい」としている。
 記念行事は開港記念日の7月1日に市民会館で記念式典が行われるほか、8月8―16日までの9日間にわたり函館港緑の島を「DREAM BOX150」と称して、「食」「音楽」「スポーツ」をキーワードとした多彩なイベントが繰り広げられる。
 しかし、イベント概要などのちらしやパンフレットが街中で配布されていないため、市民は知る機会がない。市内桔梗の男性(37)は「いつ何をやるのか分からない。もう少し市民が分る形で情報を発信してほしい」と注文をつける。別の60代男性も「せっかくの記念の年なのに街に何もなく寂しい」と話す。
 市民の不満に対し、同実行委事務局長の会田雅樹港湾空港部参事は「大型連休前に垂れ幕や旗を飾る予定だったが、さまざまな事情で延期となった。五稜郭祭が始まる16日には垂れ幕を出す予定」と説明。さらにちらしを配布し、旗を飾っていく考えで、「6、7月の宣伝周知活動は遅れがなく実施し、本番までに盛り上げたい」と挽回を期す構え。
 「同じ開港150年の横浜は大いに盛り上がっている」という声も少なくない。横浜市の記念事業を運営する開港150年・創造都市事業本部の担当者は「直前まで決まらず、なかなか発表できなかったことが多かった」としながら、「昨年12月ごろから垂れ幕や旗を出してきた。デパートやコンビニエンスストアにキャラクターグッズを置いてもらい、開港の年を意識させるようにした」としている。
 西尾市長は「市民手作りの事業として運営しているのでなかなか動きが見えてこない部分はある」と話す。市民参加の事業としていかに機運を高めていくことが必要だ。

 横浜に比べて函館は今ひとつ盛り上がっていないようで、函館大好きな白牡丹には寂しい限りです。

東京
龍馬ミュージカル品川で
「大河」控え街おこし
 幕末の志士坂本龍馬が一時期を過ごした品川区で、商店街関係者らが「品川龍馬会」の設立準備を進めている。来年のNHK大河ドラマが「龍馬伝」に決まり、関係者は「龍馬で街おこしを」と意気盛んだ。6月には、区内で劇団による龍馬関連のミュージカル上演を予定。実行委員長で、区内で飲食店を経営する綱嶋信一さん(59)は「龍馬と品川との縁を知ってもらいたい」と話している。(佐々木大輔)
 現在の同区東大井には、土佐藩の下屋敷や黒船の来航に備えた浜川砲台があった。龍馬は20歳前後の時、下屋敷に住みながら剣術の修行に励み、東京湾沿岸で黒船に対する警備にあたったとされる。実行委メンバーで、区商店街連合会の永尾章二さん(58)は「龍馬の目が世界に向き、活躍の原点になった場所が品川だった」と話す。
 永尾さんらは約5年前から、龍馬と品川の縁を紹介してきた。龍馬が大河ドラマに取り上げられることが決まったことで龍馬会設立への機運が盛り上がり、1月に準備委員会が発足。今秋の設立を目指している。
 ミュージカルは「劇団わらび座」による「龍馬!」。わらび座は商店街の事業で縁のあった会社が運営する劇団である縁から、地元が実行委員会を組織して公演を誘致した。脚本と演出はジェームス三木さん。既成の価値観にとらわれずに生きた龍馬の生涯を表現している。会場では、高知県の特産品販売コーナーも設けられないか、県などと調整している。
 靴店を経営し、準備委員会代表を務める浦山嗣雄さん(76)は「先行きが見えない今の時代、龍馬に学ぶことは多い。全国の龍馬ファンが品川を訪れてくれるよう活性化に結びつけたい」と話す。
 「龍馬!」はイベントホール「きゅりあん」(東大井5)で、6月19日午後6時30分開演。料金はS席4000円、A席3000円。問い合わせは、平日午前9時30分から午後5時に区商店街連合会(電)5498・5931。土日・祝日は永尾さん(電)5763・9566。

 ジェームズ三木さんのミュージカル『龍馬!』については別途記事があります。愛媛発の記事を参照ください。

幕末にタイムトリップ 南武線初の特急列車「黒船号」登場
 昭和4年12月の全線開通以来、南武線で初めての特急列車「リゾート21・黒船電車」が16、17の両日、走る。静岡県下田市で開催される「第70回黒船祭」に合わせての臨時特急で、JR立川駅から伊豆急下田駅までを結ぶ。
 列車には、黒船にちなみ侍や町娘にふんしたスタッフも乗車。伊豆急行線内まで乗車する客には「記念乗車証明書」のプレゼントも。
 伊豆急行は「乗れば幕末にタイムスリップしたような気持ちになるでしょう」と自信満々だ。

 立川から南武線を経由して、東海道から伊豆半島を回って下田……多摩と横浜をつなぐ「絹の道」を連想させるルートといい、白牡丹贔屓の江川太郎左衛門英龍に関連しそうな地点をつなぐところといい、幕末ファン心をくすぐるような臨時急行ですなぁ。いいなぁ、乗ってみたいです。

石川
白川郷の塩硝に迫る 金沢・崎浦の検証委、あすから現地調査
白川郷の塩硝に迫る 金沢・崎浦の検証委、あすから現地調査
 金沢市崎浦地区の住民でつくる崎浦公民館塩硝(えんしょう)の道検証委員会は十五日 から、幕末に白川郷で作られた塩硝が加賀藩に流通していたとする史料をもとに、岐阜県 の白川郷の現地調査に乗り出す。塩硝の製造拠点となっていた南砺市五箇山に比べ、幕府 直轄地の白川郷から加賀藩への流通についてはあまり知られておらず、金沢市も「加賀藩 の火薬製造量が幕末の軍事強化策で急増したことの裏付けになる」(埋蔵文化財センター )と関心を寄せている。
 同委員会は一九九八(平成十)年、崎浦地区を通った五箇山と金沢を結ぶ運搬路「塩硝 の道」の研究を目的に発足した。塩硝の製造拠点となっていた五箇山と「塩硝の道」の研 究成果を冊子にまとめ、南砺市との交流も進めてきた。

 同委員会は二〇〇二年、白川村教委関係者から連絡を受け、白川郷の塩硝生産と加賀藩 への流通を伝える史料の存在を知ったが、以前から取り組んでいた五箇山の研究を先に進 めていた。

 白川郷の現地調査では、塩硝生産を総括する「上煮屋」だった白川村荻町の和田家(国 重要文化財)の協力を受け、所蔵史料や製造施設跡などを視察する。

 和田家には代々、かつて白川郷の塩硝が江戸幕府や大坂城(大阪城)などに納められて いたことなどを記した古文書が受け継がれている。このうち一八四三(天保十四)年以降 の当主によって記録された「上煮焔硝(えんしょう)製始末改おほえ書」には、一八六〇 (万延元)年から六年間分の加賀藩への上納焔硝高が記されていた。

 検証委員ら十五人は十五日、白川郷の和田家を訪れ、同家館長で飛騨教育史学研究会員 の和田正人さん(48)から話を聞き、史料を検証する。今秋には、崎浦地区住民を加え た視察旅行も計画しており、同検証委員会事務局担当の尾川義雄さん(78)は「白川郷 の研究を通じ、現地住民との交流も深めていきたい」と話した。

◆塩硝 銃などに使われる黒色火薬の原料の硝酸カリウム。白川郷では焔硝と表記される 。加賀藩は1658(万治元)年に塩硝を使った火薬を製造する工場「土清水塩硝蔵」を 設置した。白川郷で生産を始めた時期は明確でないが、1689(元禄2)年と記された 塩硝桶が和田家に存在していたことが同家の「おほえ書」の記録に残っている。


京都
吸江斎・碌々斎 ゆかりの茶道具140点
表千家北山会館で展示 14日から

吸江斎・碌々斎 ゆかりの茶道具140点 表千家北山会館で展示 14日から
 茶道表千家の十代家元吸江斎(きゅうこうさい)、十一代家元碌々斎(ろくろくさい)の生涯と茶の湯を振り返る特別展「吸江斎・碌々斎ゆかりの茶道具」展が14日から、京都市北区の表千家北山会館で始まる。江戸後期から明治への変革期の茶の湯を、2人の好みやゆかりの道具を通してたどる。
 吸江斎(1818-60)は幼くして家元を継承、次の碌々斎(1837-1910)は、明治維新で一時衰えた茶の湯の復興に尽力し、いずれも苦難の時代を乗り越えた。今年は吸江斎150年遠忌、碌々斎100年遠忌にあたることから、ゆかりの茶道具約140点を公開する。
 2人の肖像画が静かに見守る中、吸江斎が10歳で初めて紀州徳川家に出仕した際に拝領した樂旦入作の「吸江斎好小嶋台茶碗」(一双)のほか、琵琶や現在も家元が用いる瀬戸染付大瓶水指など拝領品の数々、碌々斎が中国地方から九州へと旅した折に、その地方の材を使った「碌々斎作茶杓6本入」などが並び、波乱の生涯をしのばせる。
 6月21日まで。午前9時半-午後4時半。入館料は1000円(呈茶あり)。毎週月曜と6月6日休館、5月25日は開館。


愛媛
愛媛発ミュージカル「龍馬!」 全国公演開始
愛媛発ミュージカル「龍馬!」 全国公演開始
 愛媛県東温市の「坊っちゃん劇場」のオリジナル作品として昨年4月から約1年間公演されたミュージカル「龍馬!」の全国公演がスタートした。
 「龍馬!」は、脚本家のジェームス三木さんが手がけた劇団「わらび座」のミュージカル。京都を舞台に、幕末の志士、坂本龍馬が暗殺されるまでの2年間を描いている。民謡とタップダンス、着物で踊るフラメンコなど、日本の伝統芸能を基盤にしながらミュージカルに発展させた演出が特徴。
 今月10日、京都市の京都会館で全国公演の初日を迎え、700人余りの観客を動員した。京都市の主婦、坂元敦子さんは「京都の観客は舞台作品に厳しく、反応も薄いといわれますが、これほど感動をあらわにすることは珍しい。龍馬役の上野哲也さんの力に圧倒されました」と絶賛した。
 「龍馬!」は、坊っちゃん劇場で261回、高知市で20回公演され、約8万1000人を動員、全国から公演の依頼が寄せられた。京都を皮切りに東京、大阪、福岡など全国25カ所で8月16日まで公演される。
 問い合わせは同劇団((電)0187・44・3316)へ。



佐賀
佐賀藩の三重津海軍所跡、幕末の建物遺構を発見
 佐賀市教委は、幕末佐賀藩の三重津海軍所跡(佐賀市川副町~諸富町)で行っていた発掘調査を終え、12日、結果を公開した。初めて当時のものと断定できる建物跡が見つかったほか、確認できる跡地の範囲をこれまでの約540メートル区間から約600メートル区間に拡大、面積を約5万平方メートルと推定した。市教委は、世界遺産の国内候補地リストに入っている「九州・山口の近代化産業遺産群」への同遺跡の登録を目指しており、「大きな前進」と評価した。
 市教委によると、三重津海軍所は1858年に「御船手稽古(けいこ)所」として設立され、北東から南西方向に伸びた川沿いで航海や造船の教育を行ったほか、蒸気船を建造。明治初期に閉鎖されたとみられる。
 調査は4月16日から、県教委と合同で、これまで調査していなかった北端付近とみられる民有地170平方メートルで行った。その結果、約2メートルの等間隔で埋まった直径20~25センチの柱6本を発見。その下に、沈下防止のために置かれたらしい板も見つかった。
 少なくとも縦2・5メートル以上、横8メートル以上の建物の跡と推定され、1・5メートルほど盛り土をしたことも分かった。地盤強化などのために土に交ぜたとみられる瓦やかめの破片は19世紀製で、染め付けの文様などから1820~60年代製と特定できる磁器もあった。こうしたことから、当時の建物跡と断定できるという。
 前田達男・市教委文化振興課文化財係長は「見つかった柱は周囲を土で固める掘立(ほったて)柱で、三重津海軍所跡では初めての発見。安定性がある構造なので、壁がないガレージのような建物だった可能性がある」と説明した。


三重津海軍所跡:発掘調査 柱、礎石跡を発見--佐賀 /佐賀
三重津海軍所跡:発掘調査 柱、礎石跡を発見--佐賀 /佐賀
 佐賀市教育委員会は12日、同市諸富町の三重津海軍所跡の発掘調査で、礎石跡や柱跡の建物跡が見つかったと発表した。1800年代のものと推測され、海軍所関連の遺構の可能性が高いという。この結果、同市川副町にまたがる遺跡の範囲は北東に約60メートル広がる。
 同海軍所は佐賀藩が1858年、海軍学校の「御船手稽古(けいこ)所」を設置して以降、幕末に整備された。
 今回調査したのは、同稽古所があったとされ、1920年代の海軍所の絵図で「兵学校」と記された場所。遺跡の範囲を確認するため、4月16日から発掘していた。
 見つかったのは礎石跡4基と掘っ立て柱跡8基。遺構の配置から、礎石を使った建物と土中に固定する掘っ立て柱の建物の二つがあったとみられる。掘っ立て柱跡には、直径20~25センチの柱の根元や柱の下に敷いた板もあった。
 礎石を地固めするための陶器片も出土した。出土品の年代と盛り土による大規模な造成跡から、稽古所か兵学校に関連した遺跡の可能性が高いという。
 海軍所跡は同市が世界遺産登録を目指している幕末遺産の一つ。【姜弘修】


長崎
島じま:勝ち組 /長崎
 今年のゴールデンウイークの観光業界は悲喜こもごもだった。ETC(自動料金収受システム)割引の影響で高速道路が好調の一方、JRやフェリーは苦戦。イベントも、長崎帆船まつりは悪天候がたたり人出は激減した。
 そんな中「長崎さるく幕末編」は「勝ち組」に。ガイドツアー「通さるく」「学さるく」は一日平均参加者が前年比4割増。坂本龍馬関連コースに人気が集中した。
 少人数でも前日にネット予約できる手軽さ。地元住民と触れ合える気軽さ。不況の中、高速道路の交通量は増えても財布のひもは緩まない昨今……。そんな「安・近・短」のニーズを「さるく」はつかんだ。
 問題は今後も「勝ち組」でいられるか。リピーター獲得の鍵は、新たな魅力発掘やこまめな情報発信と、経済対策の有無に関係ない地道な努力に尽きる。【錦織祐一】


長崎歴文博に「龍馬館」来年1月開設 1年間で入館40万人見込む
 長崎歴史文化博物館(長崎市立山一丁目)は十三日、幕末の志士坂本龍馬の生涯を描く来年のNHK大河ドラマ「龍馬伝」にちなんだ「長崎奉行所・龍馬館」を館内に開設すると明らかにした。
 設置期間は来年一月九日から二〇一一年一月十日までの予定。入館者数は四十万人を見込んでいる。昨年のNHK大河ドラマにちなんだ鹿児島市の「篤姫館」は、当初予想の三倍となる六十七万人を集め地域活性化に大きく貢献しただけに、長崎の「龍馬館」も同様の効果が期待できそうだ。
 長崎歴文博によると、長崎奉行所の建物を復元した二階「長崎奉行所ゾーン」の大半を使用。約四百平方メートルのスペースに撮影セットを再現するほか、撮影に使用した衣装や小道具などを展示。パネルや映像で龍馬の業績や人物像を紹介する。
 展示品には、長崎奉行所の犯科帳や亀山焼など関連の館蔵資料も活用。ドラマの進行に合わせ、オリジナル映像などの展示内容を変更していく計画だ。観覧料は五百円の予定。
 長崎歴文博は長崎奉行所立山役所の跡地に建設されている。同奉行所は、長崎・丸山で英国水兵二人が斬殺されたイカルス号事件(一八六七年)で、海援隊の関与を疑われた龍馬が取り調べを受けたゆかりの史跡でもある。
 長崎歴文博の野間誠二統括マネジャーは「長崎奉行所は龍馬が実際に足を運んだ場所であり、それを復元した建物が会場となる。従来の大河ドラマ館とはひと味違う本格的な雰囲気が楽しめる内容にしたい」と話している。


ブックレビュー
【話の肖像画】「歴史探偵」が語る新・幕末史(下)作家・半藤一利
■尊皇と攘夷結び付けた「孝明天皇」
 --時代を戻します。江戸時代、天皇は歴史の表面から姿を消します。それがどうして幕末になって急浮上したのでしょう
 半藤 江戸時代の260年間は、幕府は権威は持たせるが、権力は持たせないというやり方で朝廷を上手に利用していました。つまり朝廷には10万石を与え、その代わりに征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任命してもらって、朝廷から政治を委託されているという形をとっていた。外様大名を抑えるにも朝廷の権威は威力があった。
 それでうまくいっていたのですが、幕末近くになると各地で飢饉(ききん)が起こり、各藩の財政も逼迫(ひっぱく)、幕府も混乱をきたします。よりによって時の将軍は虚弱体質の家定(いえさだ)でしたし…。そこに外圧がやってきた。幕府にとっては悪いことが重なってしまった。それで外圧に負けて幕府が開国を決めるや、米価は高騰、経済はがたがたになり、民衆の暮らしも立ち行かなくなります。こうしてまず攘夷運動が広まってゆきます。
 --イデオロギーというより暮らしを出発点とする運動ですね
 半藤 そうです。ここで浮上するのが、幕府は朝廷から国内政治は委託されているが、外交は委託されていないという考えなんですね。
 --それは水戸学の影響ですか
 半藤 最初は「幕府は何をやっているんだ。国内政治もうまくできないで、ましてや、できもしない外交に手を出しやがって」という怒りがわき起こり、そこに、「この国は本来天皇が治めるのがすじだ」という水戸学の思想が流れ込んだと考えたほうが真実に近いのではないでしょうか。
 --なるほど。そして、そこにいたのが尊皇と攘夷を結び付けるキーマン、孝明天皇だったわけですね。
 半藤 そこが歴史の面白いところです。宮中の史料がないので理由ははっきりしませんが、孝明天皇は生理的に外国人が嫌いでした。孝明天皇が「攘夷の権化」ということがどんどん広まります。幕府の政策に反対する人々にとって、朝廷は反幕府運動の先頭に立っているように意識されたのです。
 --もし孝明天皇が開明的な人だったら、歴史は変わっていた
 半藤 ええ。間違いなく状況は大きく変わっていたでしょうね。(桑原聡)

 半藤氏インタビュー、これで終わりですかっ(汗)。もっと読みたかったのになぁ……(涙)。

「逃げた海軍総裁」に新たな光 新田次郎賞『群青』の植松さん
 いぶし銀の歴史小説に与えられることが多い新田次郎文学賞に決まった『群青 日本海軍の礎を築いた男』(文芸春秋)は、徳川幕府の最後の海軍総裁矢田堀鴻(こう)(1829~87)の生涯を描いている。作家植松三十里(みどり)さん(54)が10年近くかけて調べてきた題材で、幕末の政変に揺さぶられながらも日本の海軍発展という志を曲げなかった矢田堀の姿が浮かんでくる。(加藤修)

 植松さんの筆名は、松を三十里植えれば何かものになるという思いからきている。

 矢田堀についても、03年に「桑港(サンフランシスコ)にて」で歴史文学賞を受けて作家デビューする前から、こつこつと調べ続けてきた。「まとまった史料がなく、あっちで少し、こっちで少しと調べたり、教わったりしてきました。そうやって探しているときに、たまたま入った沼津市の史料館で矢田堀の日記に出会うなど“史料に呼ばれる”という体験もしました」

 矢田堀のことは修業時代に短編小説やノンフィクションとしてまとめたことがある。当時の修業仲間からも「題材にしにくい人物ではないか」と指摘されたように、勝海舟や榎本武揚に比べ知名度は低い。「歴史に埋もれてしまっていたり、不当に悪役になったりしている人を代弁したい、と思っています。矢田堀は『逃げた海軍総裁』という汚名を着せられていますが、“逃げた”のではなく、列強を前に国内の混乱を最小限にする選択をしたのです」

 『群青』執筆のきっかけは、歴史小説の書き下ろしを増やしたい出版社からの提案だった。「筆の力が固まってきたときに声をかけてもらった。今ならもう一度矢田堀に挑めるという気持ちがありました。せっかくの舞台なのでフィクションを最小限にしてかちっと仕上げたことが、これまでの作品とは違います」

 東大の海洋研究所の教授である夫の転勤や子育てが一段落ついた後、早乙女貢さんの小説教室に通い本格的に書き始めた。「ほめ上手の早乙女先生にのせられました。夫が船で調査に出るときは岸壁で見送ったこともあり、海や船を描くのに抵抗がないのかもしれません」

 新田賞は候補になっていることも知らなかった。「どきどきせずにすみました。勝者の歴史ではなく、矢田堀のような人物を描いた作品を評価していただけるのは、日本が上向きの時代ではなく、行き先に迷っているような時代だからではないでしょうか」

 「徳川幕府の最後の海軍総裁矢田堀鴻」が主人公とは、面白そう……「歴史に埋もれてしまっていたり、不当に悪役になったりしている人を代弁したい、と思っています」という歴史小説家としての志も素晴らしいと思います。

コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】東大教授・山内昌之 小栗忠順

幕府初の首相になれた男
 2003年のNHK正月時代劇『またも辞めたか亭主殿~幕末の名奉行・小栗上野介(こうずけのすけ)~』を見た人も多いだろう。小栗を演じた岸谷五朗氏は江戸人の飄逸(ひょういつ)な雰囲気と鋭利な幕府官僚の味をうまく出し、妻・道子役の稲森いずみさんは武家奥方らしい聡明(そうめい)な清潔感とウイットにあふれていた。
直言で頻繁な役替え
 それにしても絶妙のタイトルをつけたものだ。その直言癖で上司に疎まれ、頻繁に役替えとなり、勘定奉行や陸軍奉行などの罷免と復職を繰り返したからである。姉川や三方が原の戦い以来、歴代の当主が「又一」を名乗った小栗家の血気が上野介忠順(ただまさ)にもあった。いつも先陣を務め、またも一番槍(やり)と謳(うた)われたので、又一となったのだ。
 小栗が天城山(群馬)に幕府の金を埋蔵した伝説は疑わしい。むしろ金とのかかわりで有名なのは、修好通商条約の批准書交換のために渡米した際、フィラデルフィアで1両小判と1ドル金貨の交換比率の基礎を定めた点であろう。
 開国当初、金と銀との交換率はおよそ日本で1対5、海外では1対15であったため、外国人は大量の銀を日本に持ち込み、金と両替した結果、50万両以上の小判(金貨)が海外に流出してしまった。小栗らは金の含有量を確かめるため、持参した精密な目盛りのついた竿秤(さおばかり)で正確に測定し、アメリカ人が苦労する計算を驚くほど早く算盤(そろばん)で処理してしまった。
 アメリカ人は、5つずつの木製ボタンが15列並ぶ「アバカス」(計算盤)のボタンをあちこち滑らせながら、恐るべきスピードで計算した小栗の技量を褒めたたえた。金銀交換比を国際水準に戻そうとした小栗の知性と情熱は、アメリカ人にも尊敬された。

 ニューヨーク・タイムズ紙は小栗を、「小柄ながら生き生きとした表情が豊かな紳士であり、威厳、知性、信念、情愛の深さが不思議に混ざり合った人物だ」と評価した。幕府の官僚といえば無能の代名詞と誤解されがちだが、決してそうではない。偏見は薩長中心の明治維新史観の産物にすぎない。
 小栗の功績は、会社や商工会議所の原型をつくり、フランス語の学校や横須賀製鉄所の学校、大砲・火薬製造所や反射炉を設けただけでなく、中央銀行や江戸・横浜間鉄道や郵便電信やガス灯の事業などを構想した点にある。これらはすべて明治政府の手で実現された。幕藩体制に代わって郡県制度や大統領制も考え、歩兵・騎兵・砲兵の3兵科に分けた陸軍の構想も余人の及ばぬところだった。
 小栗は新幕府ができていたなら、初代の首相という役どころであった。なかでも国の安全をはかるために自前の軍艦を建造する横須賀製鉄所(造船所)をつくったのは最大の功績である。勝海舟でさえ船は外国から買えばよいと考えていた時代なのだ。
命奪った革命の残酷さ
 今の横須賀の地に4カ年総額240万ドルの予算で造船所をつくった英断は、もはや官僚の発想ではない。国家戦略をもった政治家でなければ思いつかないグランド・デザインにほかならない。
 慶応元(1865)年に着工されたアジア最大の近代工場は、薩長の新政権によって造船廠(しょう)や海軍工廠に発展させられた。「横須賀製鉄所が出来上がれば、徳川は幕府に熨斗(のし)をつけて他人に贈っても、土蔵付きの売り家というのは愉快ではないか」。幕府の改革が少し早かったなら、宰相にもなれた小栗らしい啖呵(たんか)であろう。

 これほどの人物が上州の領地近くで官軍に斬(き)られたのは無残というほかない。「政治に怨恨(えんこん)をもちこむな」と語ったのはレーニンである。復讐(ふくしゅう)心や先入観で人を殺してしまう革命の残酷さは、幕府はおろか現代でも総理大臣が務まる器量の命を40歳そこそこの若さで奪ってしまった。
 良い政策や人材は素直に受け継ぎ、いたずらに政局や個人の思惑絡みで国の大局を誤ってはならない。これは小栗の死という国家的損失が教えてくれる教訓である。
 大隈重信は、明治政府の近代化事業を小栗の模倣にすぎずと断じ、東郷平八郎は日本海海戦の勝利を横須賀製鉄所の恩人・小栗のおかげと感謝した。小栗はもって瞑すべしであろう。(やまうち まさゆき)

【プロフィル】小栗忠順
 おぐり・ただまさ 文政10(1827)年、江戸に生まれる。通称、又一。後に豊後守・上野介と改めた。父は新潟奉行を勤めた忠高。7、8歳のころから漢学、柔術、砲術を学ぶ。安政2(1855)年、家督を継ぎ、同6年に目付に進む。その開国思想が大老、井伊直弼の目にとまり、日米修好通商条約の批准書を米国に渡すための使節団に選ばれ、万延元(1860)年に渡米。その後、外国奉行に昇進したが、文久元(1861)年、対馬に上陸したロシア海軍を追い返せず罷免。翌年に勘定奉行となるが、また罷免され、「小栗様のお役替え」と皮肉られた。慶応4(1868)年、鳥羽伏見の戦いに敗れ、江戸に逃げ帰った徳川慶喜に抗戦論を主張したため、明治元年、勘定奉行をまた罷免。同年4月、謀反を疑われ、政府軍に烏川のほとりで斬首された。享年42。

 山内氏の連載コラムで小栗様が紹介されたのはとても嬉しいです。
 「小栗の功績は、会社や商工会議所の原型をつくり、フランス語の学校や横須賀製鉄所の学校、大砲・火薬製造所や反射炉を設けただけでなく、中央銀行や江戸・横浜間鉄道や郵便電信やガス灯の事業などを構想した点にある。これらはすべて明治政府の手で実現された。幕藩体制に代わって郡県制度や大統領制も考え、歩兵・騎兵・砲兵の3兵科に分けた陸軍の構想も余人の及ばぬところだった」という評価も、大いに得心しました。
 そして「これほどの人物が上州の領地近くで官軍に斬(き)られたのは無残というほかない」という一文、まったく同感です。幕末維新史の中でもっと功績を評価すべき人物だと思っています。






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