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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
北海道
土方歳三コンテスト:札幌の駒ケ嶺さんが優勝--五稜郭公園 /北海道
 新撰組の土方歳三を演じる「土方歳三コンテスト」が21日、幕末の戊辰(ぼしん)戦争の舞台、函館市の五稜郭公園であった。22日まで開かれる「箱館五稜郭祭」のイベントで、市内のほか、道外からもファン20人が参加。衣装もそろえ、土方になりきった姿を観客らに披露した。

 優勝したのは札幌市手稲区の団体職員、駒ケ嶺智史さん(27)。10年前に初めて参加して以来、8回目の挑戦。「震災の影響を受けた函館を盛り上げられればと思い、今年こそは優勝したかった」と笑顔で話した。【佐藤心哉】

 下は殺陣の写真つき。腰が据わって、かっこいい。
五稜郭祭でコンテスト 土方歳三の勇姿を熱演
 戊辰戦争最後の舞台となった北海道函館市で21日、「箱館五稜郭祭」が始まり、戦死した新選組の土方歳三になりきって寸劇を披露する恒例のコンテストが開かれた。
 今年で24回目。土方に扮したのは20人で、道内のほか、岡山市や名古屋市からも熱心なファンが集まった。寸劇は新政府軍に包囲された仲間を助けるために出陣し、銃弾に倒れるまでの設定。洋装や羽織はかま姿で約2時間にわたり熱演した。
 躍動感あふれる立ち回りや、撃たれたのに、すぐに元気に立ち上がるユニークなアドリブに、会場は拍手と笑いに包まれた。

箱館五稜郭祭が開幕、土方コンテストで札幌の駒ケ嶺さん優勝
 戊辰戦争の最後の戦地となった五稜郭を題材にしたイベント「第42回箱館五稜郭祭」(同協賛会主催)が21日、2日間の日程で開幕した。初日は、市内に点在する箱館戦争ゆかりの地を巡る碑前祭や恒例となった「土方歳三コンテスト全国大会」が行われた。

 午後からは五稜郭タワーアトリウムで記念式典に続き、24回目を迎えた「土方歳三コンテスト全国大会」が行われた。今年は道内や名古屋市、岡山市などから女性3人を含む20人がエントリー。出演者は土方が最期を迎える場面を自身で演出を考え、土方の無念さや、自身の土方に対する思い入れを表現。容姿や演技、アピール度などで審査された。

 優勝は札幌市在住の会社員、駒ケ嶺智史さん(27)。最初に出演したのは10年前で、8回目の出演で悲願を達成。土方最後の日について行動や心境を研究し、迫真の殺陣を交えて熱演した。「土方の魅力はサクラのように華やかに咲き、散っていったところ。立ち回りで協力してくれた仲間のためにも、優勝できて良かった」と喜びを語った。

 22日には優勝した駒ケ嶺さんも参加する「維新行列」が午後1時から行われ、本町の行啓通では旧幕府軍と新政府軍の戦闘シーンが繰り広げられる。午後3時ごろから五稜郭公園の特設ステージで「開城セレモニー」が行われる。


群馬
小栗上野介:功績たたえ あす高崎で講演、墓前祭 /群馬
 江戸時代末期の日米修好通商条約批准にあたり、使節団メンバーとして渡米し、造船所建設など日本近代化の礎を築いた小栗上野介忠順(ただまさ)の功績をたたえる「小栗まつり」(小栗上野介顕彰会主催)が22日、高崎市倉渕町権田の倉渕小学校体育館と、小栗の菩提寺(ぼだいじ)・東善寺を会場に開かれる。

 倉渕小学校では午前10時から、群馬マンドリン楽団による演奏会が開かれ、渡米時に「ハンサムなファーストサムライ」として米国女性の人気者になった通訳見習いの少年、立石斧次郎(通称トミー)にまつわる曲として「ジャパニーズ・ギャロップ」「トゥルー・ブルー・ポルカ」の2曲が国内で初演奏される。2曲の楽譜は米国内で新たに見つかったという。同11時からは、同寺の村上泰賢住職が「小栗上野介の日本改造」と題して記念講演する。

 午前9時~午後1時には写真展を開催。小栗の功績を(1)小栗上野介とは(2)日本近代化の道をイメージした世界一周(3)日本近代化のレールをしいた幕末の8年間(4)上州土着の夢むなし(5)小栗公夫人会津への脱出・上州人の義〓心(6)小栗上野介の顕彰・埋もれ木を掘る(7)万延元年遣米使節「航米記」より--の7テーマに分けて紹介する。

 一方、東善寺では午前11時から随時、紙芝居で「小栗上野介の生涯」を紹介。午後1時からは墓前祭を開催する。いずれも無料。また、同寺境内では地元特産物、小栗関連の書籍などを販売する「昼市」も行われる。問い合わせは同寺(電話027・378・2230)へ。【増田勝彦】


千葉
写真展:木戸家4代の写真、歴博が展示 日本の近現代の歩みを象徴
 千葉県佐倉市の国立歴史民俗博物館(歴博)で写真展「侯爵家のアルバム--孝允(たかよし)から幸一にいたる木戸家写真資料」が開催中だ(29日まで)。歴博は、明治の元勲である孝允から、正二郎、孝正、昭和天皇の側近だった幸一まで、約100年にわたる木戸家4代の資料目録を刊行。それに連動した企画で、近現代史を生き生きと伝える写真を数多く紹介している。【栗原俊雄】

 ◇好んで被写体になっていた?孝允/華族の豊かな生活ぶり見せる孝正/重臣としての威厳消えた「A級戦犯」の幸一
 ◇10年がかりで整理、300点を選ぶ
 発端は、木戸家からの約1万5000件に上る資料の提供。2001年度から本格的な整理を始め、10年がかりで目録を完成させた。写真が約5200点と、3分の1以上を占める。今回は幕末から戦後すぐまでの約300点を選び、展示した。
 見どころの一つは孝允の写真だ。ガラス原板2点を含め、全21点。これだけの枚数が一挙に公開されるのは初めてという。
 長州藩士だった孝允(当時の名は桂小五郎)は、江戸幕府打倒の先頭に立ち、明治政府の重鎮となった。西郷隆盛、大久保利通と共に「維新の三傑」と呼ばれる。西郷のものと確定した写真はなく、大久保の写真も少ないのに対し、孝允は好んで被写体になっていたらしい。
 ちょんまげに帯刀姿だったり、高杉晋作の遺児東一と一緒だったり。1871~73年、「岩倉使節団」の一員として欧米を視察した際の写真もある。
 孝正の写真は、明治・大正期の華族の豊かな生活ぶりを伝えている。最も数が多いのは、4代目幸一の写真だ。1940年から内大臣として昭和天皇に仕え、東条英機を首相に推すなど、宮廷政治家として活躍した。だが、極東国際軍事裁判(東京裁判)の被告として「A級戦犯」と認定され、48年に終身禁固刑の判決を受けた。
 戦時中、正装して昭和天皇と共に写真に納まった姿には、重臣としての威厳がにじむ。対照的なのは巣鴨プリズンに収監中、撮影された写真だ。囚人用と思われる簡素なシャツ姿の幸一からは、往時の威厳をうかがうことが難しい。
 文書にも、貴重な資料が多く発見された。樋口雄彦・歴博准教授(日本近代史)は孝允が幕末、江川太郎左衛門英敏の私塾で受けた「学頭」の辞令を見て、驚いたという。幕臣による砲術指南の塾だ。彼らに戦闘技術を学んだ人間が倒幕の闘いを指揮したことは、歴史の皮肉を感じさせる。
 目録ができたことで、外部の研究者も資料を活用しやすくなった。歴博は「木戸家は一家族であると同時に、日本の近現代の歩みそのもの」といい、研究の深化を期待している。



神奈川
咸臨丸の功績しのぶ/横須賀でフェス
 幕末100+ 件に日本の軍艦として初めて太平洋横断に成功した「咸臨丸」を記念するフェスティバルがこのほど、神奈川県横須賀市で開かれ、浦賀港周辺の歴史ウオークや咸臨丸の足跡を紹介する資料展など多彩な催しを大勢の市民が楽しんだ。
 咸臨丸は1860年に浦賀港を出港。塩飽諸島から35人の水夫が乗り込み、冬の嵐の中、37日間かけてアメリカに到着。日米交流の礎を築いた。
 フェスティバルは横須賀市などで組織する実行委員会が主催し、今回で13回目。晴天の浦賀港をバックに歴史ウオークやコンサート、B級グルメの屋台などさまざまな催しが開かれた。
 また、横須賀市主催の記念式典には、塩飽の水夫の子孫らでつくる「咸臨丸子孫の会」のメンバーをはじめ、アメリカ大使館や咸臨丸が製造されたオランダの関係者も出席し、咸臨丸とその乗組員たちの功績をしのんだ。(東京支社)


出版:デッカー氏の回顧録、地元市民団体が翻訳「黒船の再来」 /神奈川
◇戦後復興、民主主義普及の功績伝えたい--占領時の米海軍横須賀基地司令官
 終戦後、横須賀市の戦後復興や民主主義の普及に努めた米海軍横須賀基地司令官のベントン・W・デッカー夫妻の回顧録を地元市民団体「横須賀学の会」(大橋祥宏代表)が「黒船の再来」として翻訳・出版した。戦勝国軍人としておごることなく、幕末期から米国とゆかりが深い地で親しまれたデッカー氏。同会は「横須賀に日本の民主主義のモデルを作った恩人。功績を広く伝えたい」と話している。
 同会はデッカー氏の功績をテーマに講演などを開いてきた。3年半前、デッカー氏が1978年に米国で出版し、横須賀市の関係者に寄贈していた回顧録の存在を知り、翻訳に着手。メンバーのうち13人が携わり、今月ようやく完成した。
 同会や回顧録によると、デッカー氏は46年4月に司令官に就任。市内にあった旧日本海軍基地・海軍工廠(こうしょう)を爆破すべきだとした前任司令官の提言や指令に抗し、基地を活用・復興させた。退任までの4年間、行政官として市の復興、再建を図る数々の施策を打ち出し、キリスト教普及を基礎とした民主主義を広め、友好的な日米関係を築くことに腐心した。
 回顧録は、同氏が広めようとした民主主義を「黒船の再来」と位置づけ、記録や記憶による夫妻の回想の言葉、市民や友人からの手紙、軍、政府からの書簡などで構成。夫妻が訪れた各地の戦後風景、横須賀市の復興経過なども交え、占領政策の歴史をひもとく内容になっている。
 同氏は就任間もなく、占領下で罪を犯す海軍兵を軍法会議で次々に処分するなど風紀を立て直したり、女性解放を目指して横須賀婦人会の設立を促進、同会を通じて、飢えた市民に基地で余った食糧を配給した。
 政策は幅広く、国内初の女性警察官制度導入を警察に要請して実現したり、軍医に命じて病院を整備し、日本人医師を訓練。性病の撲滅にも努めた。
 カトリックやプロテスタントの組織に働きかけ、栄光学園、清泉女学院中学高等学校(現鎌倉市)、横須賀学院などの学校や衣笠病院、聖ヨゼフ病院の設立にも力を入れた。
 当時の市民は「デッカーさん」と親しみを込めて呼び、最初の任期終了後、市議会は留任を当時のダグラス・マッカーサー連合国軍最高司令官に陳情し、市民が胸像を建立した。
 大橋代表は「戦勝国のおごりを持たず、自由、平等、博愛にあふれた人間味を持った人物。本からは日本人のたくましさも読み取れる」と話した。616ページで3000円(税別)。各地の有隣堂書店か発売元「Kooインターナショナル出版部」(03・6913・1266=ファクス兼用)へ。【田中義宏】


長野
佐久間象山生誕200年松代で記念祭始まる
 松代藩士で、幕末の思想家・佐久間象山(1811~64年)の生誕200年を祝う記念祭が21日、長野市松代町松代の象山神社などで始まった。

 同神社の拝殿で祝詞や拝礼が行われた後、境内で地元の伝統芸能団体などが、象山が作詞した詩文の合吟や、象山にささげる雅楽や舞踊を披露した。記念祭を企画した安藤喜久雄実行委員長(79)は、「象山先生は、漢詩など文芸でも優れた功績を残した文武両道の人だった。生誕200年という区切りにその功績を知ってもらいたい」と話していた。22日には、講演会や植樹などが行われる。
(2011年5月22日 読売新聞)


高知
慎太郎「頌徳碑」100年
北川で遺徳しのぶ記念祭
 北川村出身の幕末の志士、中岡慎太郎(1838~67)をたたえる「頌徳(しょうとく)碑」が、建立から今年で100周年を迎え、村民らでつくる慎太郎の顕彰会が21日、碑のある同村小島の北川村温泉前で記念祭を開く。慎太郎が飢饉(ききん)から村人を救ったことに感謝するため建てられた碑で、村民らは「後世に語り継ぎたい」と、神事や講演会など様々なイベントを行い、遺徳をしのぶ。(森本健裕)
 慎太郎は19歳で大庄屋見習いとなり、飢饉で山あいの小島、和田、平鍋の3地区民が餓死寸前まで追い込まれた時に、土佐藩の貯蔵庫を開けて米を出すよう、高知城下の家老・桐間蔵人(くらんど)に命がけで直訴。村民を救ったとされる。また、現在、村の特産となっているユズ栽培も勧めた。
 山林面積が95%の同村にとって、慎太郎は生活基盤を築いた偉人としても敬愛されており1911年(明治44年)、村中部青年会が頌徳碑(高さ1・5メートル、幅1メートル)を建立。当初は北川尋常小学校分教場(後の村立小島小・中学校=76年に廃校)にあったが、北川村温泉が出来た75年頃に移された。
 同小・中の卒業生で平鍋地区会長のユズ農家、林田富寿(とみとし)さん(64)は「地区のシンボルで、頌徳碑の前で卒業写真を撮った。先祖が飢え死にしていれば私は生まれておらず、ユズは今も貴重な収入源。功績を後世に語り継ぎたい」と話していた。
 記念祭は21日午後1時10分、頌徳碑前で始まり、3地区の代表と顕彰会が神事を行う。午後2時からは近くの小島集会所で、元村立北川小教頭で顕彰会アドバイザーの尾崎雅洋さん(61)が慎太郎の功績などについて講演。6月8日にCD「中岡慎太郎伝 維新の若虎」を発売する演歌歌手の大林幸二さん(京都市)のライブもある。
 講演とライブは無料で、定員200人。尾崎さんは「東日本大震災で、今まさに民が安心できる生活に目を向ける時。民のために命を尽くした慎太郎先生に思いをはせてほしい」と参加を呼びかけている。
 申し込み、問い合わせは顕彰会事務局(0887・38・2413)へ。


福岡
小倉小笠原藩 激動の幕末史 21日に歴史文化塾開講 受講生を募集
 街づくり団体「長崎街道小倉城下町の会」は、幕末の激動期に長州藩と対峙(たいじ)した小倉小笠原藩の動向を学ぶ「小倉のおもしろ歴史文化塾」を、市立生涯学習総合センター(北九州市小倉北区大門1丁目)で開講する。21日から9月17日まで全6回の講座で、受講生を募集している。

 講座テーマは「幕末の小倉と香春の歴史」。地元の郷土史家や研究家などが講師を務め、高杉晋作らが率いる長州藩と激戦を繰り広げた長州征伐の解説などがある。10月1日には史跡を巡るバスツアーも企画している。

 同会は「男たちが命をかけた幕末の戦いをぜひ学んでほしい」と呼び掛けている。受講料(全6回)3千円。バスツアーは別料金。問い合わせは小倉北区役所総務企画課=093(582)3335。

=2011/05/18付 西日本新聞朝刊=

佐賀
佐賀藩・鉄製大砲鋳造の歴史をDVDに
 佐賀南ロータリークラブ(鐘ケ江輝昭会長)と佐賀伝承遺産研究会(土師俊資会長)は19日、日本初の洋式反射炉を完成させ、国内で初めて鉄製大砲の鋳造に成功した佐賀藩の先進的な取り組みや活躍を紹介した手作りのDVDを、佐賀市内の全小中学校に贈った。
 2010年に創立25周年を迎えた同クラブが記念事業として制作費を負担、同研究会が企画・制作を担当した。
 DVDは、勉強嫌いな「まこと君」が主人公の約25分のアニメーション。発明好きのおじいちゃんと一緒にタイムマシンで江戸時代にタイムスリップし、幕末期の世界情勢と佐賀藩の位置づけ、反射炉の仕組みや鉄製大砲を据えた長崎の四郎ケ島砲台建設の背景を学ぶ。映像製作は「シアター・シエマ」が担当した。
 贈呈式では土師会長が、授業での活用がスムーズにいくよう、実際に使う教師たちの意見を聞いたことや、反射炉を顕彰する日新校区の住民の意見も反映したことなど、制作の経緯を説明。東島正明教育長は「動画資料はこれまでなく、子どもたちに興味を持ってもらえる。早速役立てていきたい」とお礼を述べた。


築地反射炉:西北部説を補強 神埼市の郷土史家・樋口さんが史料を確認 /佐賀
◇幕府視察の様子や見取り図記す
 国内最古の実用的反射炉「築地(ついじ)反射炉」が佐賀市長瀬町の市立日新小校内の西北部にあったとの説を補強する史料を確認したと、神埼市在住の郷土史家、樋口浩康さん(67)が発表した。1854(嘉永7)年に幕府の視察団が築地反射炉を視察した様子を記した文献で、見取り図も付いている。樋口さんは「今後の発掘調査に役立つ具体的な史料となるのでは」と話している。【田中韻】
 築地反射炉は同校内で関連施設の遺構が見つかっているが、反射炉の位置は西北部のほかに東部説などもあり、特定できていない。
 西北部説は、1940年に県が史跡などを調査した報告書の絵図などに基づくもの。現在は校舎が建っているため、発掘などの調査は行われていない。
 樋口さんが今回確認したのは、鍋島報效会が所蔵する「公役人御鋳立方并築地御立寄録」。反射炉の位置や周辺施設を記した絵図が付いており、反射炉の位置は県の報告書とほぼ一致するという。
 佐賀市は築地反射炉跡や三重津海軍所跡などを「九州・山口の近代化産業遺産群」の一角に加え、世界遺産登録を目指している。樋口さんは「登録に向けて、遺跡調査の進展につながってほしい」と願っている。
 築地反射炉は、幕末期に佐賀藩が国内で初めて大型鉄製大砲の製造に成功した。


ブックレビュー
福沢諭吉、米女性とツーショット撮影 帰国船ハワイ出航まで内証のワケ
山川出版社は2011年4月15日、新刊本『レンズが撮らえた幕末の日本』(著・岩下哲典、著・塚越俊志)を発売した。およそ200ページに渡って掲載されている写真は、幕末をそれぞれの思いを抱きながら生きた人々、当時の暮らしぶりがわかる街中の風景、そして港や船など、貴重なものばかりだ。
いくつか主なものを紹介しておこう。巻頭カラー特集には遣欧使節団がエジプトを訪れた際(1864年)、スフィンクス前で撮影した写真がある。当時の着物姿とスフィンクスの取り合わせはなかなか興味深い。見開き左ページには井上俊三氏が撮った坂本龍馬の復元着色写真だ。
本文では、藩ごとに紹介されているところで、龍馬とともに暗殺される直前に撮られたという中岡慎太郎の厳しい表情の一枚。後藤象二郎の立ち姿もある。薩摩藩からは小松帯刀、若き日の大久保利通。そして、初めて日本人が写真撮影に成功したといわれる島津斉彬の半身(1857年)。長州藩では、やはり血気盛んなころの井上馨に伊藤博文が。
さらには、板橋宿で斬首されるほんの数年前の新撰組7 件・近藤勇の写真。1860年(安政7年)、総勢77人による遣米使節団がサンフランシスコで宿泊したインターナショナルホテル(当時)。その使節団のなかで最年少で参加し、アメリカ女性たちからの人気が一番高かったという立石斧次郎。サンフランシスコの写真館令嬢とツーショットの福沢諭吉。一枚の写真に並んで収まる26歳・高杉晋作、24歳・伊藤博文など、挙げたらきりがない。
ちなみに、諭吉はくだんのツーショット写真を「他の日本人にマネされたくない」と、帰国船が米本土から立ち寄り先のハワイを出港するまで仲間に秘密にしていたという。
巻末には箱根宿の写真を掲載したコラム「幕末の残像・街道と宿場」があり、また、下関港に到着した連合艦隊、1865年ごろの長崎港、本丸御殿の一部も写った貴重な名古屋城、愛宕山から見た江戸のパノラマ(1863年)といった写真も載せている。
永久保存版の一冊。
単行本、207ページ。定価1680円。<モノウォッチ>


江戸時代の「鯰絵」を解説
東京の研究家が冊子周南の書店で販売

 東京都渋谷区の歴史研究家大山格さん(51)が、江戸時代末期に流行した風刺画「鯰(なまず)絵」を解説した冊子「鯰絵に見る世直し願望」を自費出版、周南市銀座のマツノ書店が販売している。鯰絵は、江戸を襲った安政の大地震(1855年)の後、庶民の間にはやった。ナマズを描いた滑稽な絵柄から、当時の人が震災を乗り越えて前向きに生きようとした姿が読み取れ、大山さんは「庶民のたくましさに触れてほしい」と話している。(松本晋太郎)
 大山さんは明治から大正にかけて活躍した軍人、大山巌元帥の曽孫。東日本大震災後、被災者に「江戸の庶民のような強い気持ちを持ってほしい」と自費出版を企画した。
 安政の大地震の発生は神無月。鹿島神宮(茨城県)の鹿島大明神が出雲に出かけて留守の間に、封じられていた大ナマズが暴れ地震が起きたと信じられており、ナマズを描いた風刺画が流行したという。
 冊子では、鯰絵13枚を掲載して解説。地震で金持ちほど多くの財を失ったことから、捕らえたナマズを武士や商人たちがたたきのめしている絵がある一方、庶民がナマズを世直しの神としてあがめている絵も。貧富の差が激しい社会に対する痛烈な皮肉が表現されている。
 大山さんは「江戸の庶民は、震災が抜本的に社会を変革するきっかけになると考えた。苦境の中に希望を見いだし、続く幕末の動乱をしたたかに生き抜いて、明治維新を迎えた」などと結んでいる。
 マツノ書店は大山巌の伝記の復刻を進めており、大山格さんと交流がある。店主の松村久さん(78)は「当時の江戸の世相がわかる。絵を見るだけでおもしろい」と推薦している。
 A5判16ページで、1500部を出版。1部100円。郵送の場合は300円の切手と引き換える。問い合わせは同書店(0834・21・2195)へ。

(2011年5月20日 読売新聞)


コラム
吉田松陰 貫いた「共に学び共に育つ」
 吉田松陰(1830~59年)の名を不滅としたものの一つは、松下村塾での教育であった。松陰が関わった僅か3年足らずの小さな私塾から、幕末維新の変革を担う人材がまさに綺羅星(きらぼし)のごとく輩出したことは「奇跡」という他はない。

 「わずかに十八でふ(畳)の古い家の塾であつた。しかし、このせまい塾に集まつた青少年の中から、久坂玄瑞(くさか・げんずい)、高杉晋作を始めとして、明治維新のをり、身を以(もっ)て国事につくした大人物がたくさん出た。(中略)松陰の塾を松下村塾と呼んだ。ここでは、武士の子も、農家の子も、へだてはなかつた。また松陰は、決して先生だといふ高慢(こうまん)な態度をとらなかつた。先生と塾生の膝(ひざ)と膝とが、くつついてゐる。礼儀は正しいが、へだてはなかつた」。修身教科書は、松下村塾の教育の特徴を的確に描写している。

 教育者としての使命感に溢(あふ)れ、日夜、塾生の教導に尽力した-というのは、松陰の心情からすれば誤りである。孟子の「人の患(うれい)は、好んで人の師になるに在り」を評して、「学を為すの要は己が為にするにあり」「己が為にするの学は、人の師となるを好むに非ずして自(おのず)から人の師となるべし」と松陰はいう。「共に学び共に育つ」者として絶えず努力を続けていく。その生き方が松陰を教育者とした。

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 徹底した平等主義と一人一人を生かす教育-。松下村塾の教育には、すべての人間の本性が善であると信じて疑わず、どのような人間にも可能性があることを信じ続ける松陰の生き様が貫かれていた。

 1858(安政5)年6月の日米修好通商条約を機に松陰の言動は過激さを増していく。自重を促す久坂、高杉に松陰は「僕は忠義をする積もり、諸友は功業をなす積もり」といって取り合わず、翌年、江戸伝馬町の獄舎で露と消えた。

 「身はたとひ武蔵の野辺に朽ぬとも留置まし大和魂」の辞世で書き出された遺書「留魂録(りゅうこんろく)」に接した塾生たちは、師の遺志を継いで敢然と動き出す。志ある者として、自己の可能性を信じ求めるという松陰が身を以て示した教えを塾生たちは忠実に受け止めたのである。そんな彼らの強い絆と結束は、しばしば「松下村塾党」と称された。

 なお、修身教科書は、松陰の父母の人となりについても伝えている。この親にしてこの子あり。偉人の陰には、優れた父母の教えがあったのである。(武蔵野大学教授 貝塚茂樹)


(114)東大教授・山内昌之 岩松満次郎(下) 新田官軍の民衆抑圧
 テレビ・ドラマの人気作『木枯し紋次郎』といえば、何といっても主演の中村敦夫氏のニヒルな演技が忘れられない。天保年間、紋次郎は上州新田郡(ごおり)三日月村の貧農の子に生まれたという芥川隆行のナレーションも懐かしい。

 原作者の笹沢左保が渡世人(とせいにん)紋次郎を、同じ新田郡でも実在する下田嶋村生まれにしていたなら、岩松の殿様の何代目かとの因縁話に触れていたに違いない。虚構の紋次郎と実在の満次郎に共に魅(ひ)かれる人間としては残念至極である。私は紋次郎シリーズをほとんど読んでいるが、どうしても岩松の殿様との出会いや接触を思い出せないのである。

 さて、岩松満次郎も文久3(1863)年に入ると、師と仰ぐ桃井可堂(もものいかどう)(儀八)からとんでもない相談をもちかけられた。沼田城を襲って攘夷(じょうい)の先駆けとなり、横浜に押し出して焼き払い洋夷(外国人)を討つという物騒なはかりごとであった。せいぜい、縁切寺の満徳寺と同じく女の駆け込みを受け入れ、無事離縁の暁に女方から「土産金」なる謝金を受けていた満次郎のことだ。自分の描いた猫絵よりも恐ろしげな可堂の思いつめた形相に仰天し、幕府に自訴するほかなかったのは、根が臆病だからだろう。

総督府に「御軍役御免願」

 しかし幕末も煮詰まると、時勢にシラを切って済ませるわけにもいかない。仮にも新田義貞の嫡流とか裔(えい)とか嫡宗(ちゃくそう)と、猫絵やまじない札に署名してきた家柄である。今度ばかりはいよいよ新田官軍の旗揚げを決意せざるをえない。それでも、参勤交代の行列を十数人で務めてきた貧しさである。何とか56人をかき集めて遠祖義貞の故事にならって生品(いくしな)神社に参拝し東山道総督府に合流しようとした。一度は板橋まで押し出しながら、総督府に「御軍役御免願」を出して戦線から離脱してしまった。

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 何とも間が悪いことだ。さらに新田官軍の隊長が「容易ならざる儀」によって切腹させられた他にも、江戸にいる家臣の素行の悪さを理由に新田勢は謹慎を命じられ、やがて下田嶋村に帰った。

 その後総督府に復帰を願う口上書を出した結果、江戸築地の鉄砲洲、次いで木挽町の市中取締を命じられ、この任務は明治2(1869)年1月まで続いた。新田官軍の行動はこれだけである。幕府軍と切り結ぶといった派手な舞台もなく、家臣が身持ちの悪さで処分されるなどしまりのないことおびただしい。

階級的な利害を代弁

 むしろ新田官軍のおかしさは、落合延孝氏の『猫絵の殿様』が触れているように、江戸出立(しゅったつ)の前に、故郷の東上州で世直し騒動を鎮圧していた点にある。板橋に出かけながら「御軍役御免願」を出したのは、領地で苛政に苦しむ農民たちが蜂起して、質物の返還、借金証文の破棄、施金施米や米の安売りなどを要求したからだ。満次郎も領主としては決して善政を敷く殿様だったとも言い切れないのである。

 してみれば、満次郎が新田義貞の古例に従って「一族旧臣共」つまり在地の豪農や富家に挙兵を呼びかけても反応がはかばかしくなかった理由もよく分かるというものだ。当てにした面々は世直し騒動への対応に精一杯(いっぱい)であり、とても義兵義挙どころでなかったのだ。56人もよく集まったというべきではないか。

 落合氏は専門の歴史学者として「新田官軍は、世直し騒動を鎮圧した村役人・豪農層の階級的な利害を代弁したといえる」とクールに満次郎らの挙を性格づけた。何よりも、義挙を謳(うた)った挙兵の直前でも軍資金がわずか34両しか集まらなかったというから物悲しい。

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メッキ剥げても意地見せ

 家祖新田義貞の「勤王」の志にならい倒幕運動に参加した新田官軍が、世直し騒動の鎮圧に目標を転じるのは、総督府にしても聞こえがいかにも悪すぎる。どこか総督府の態度に邪険さが感じられるのは偶然ではない。それにしても、米価の引き下げや質物の返還を求める民衆と、満次郎周辺の由緒や権威を求める役人とはそもそも利害が対立していたというほかない。新田官軍といっても義貞の古き良き時代はとうに過ぎ去っていたのだ。

 現実の厳しさで新田官軍のメッキが剥げてしまえば、もはやロマンの香りはどこにも残らない。政権交代に期待する有権者の心を一度はとらえた民主党政権も、ロマンだけでなく現実の統御能力さえ失えば自民党とどこが違うのかということになる。

 徳川家康に系図を貸さなかったばかりに微禄(びろく)に甘んじた岩松満次郎家は、それでも江戸時代を通して十数名だけでも参勤交代する意地を見せた。民主党の選良たちには、いかに少数になろうとも日本の危機を乗り切る決意と意地だけは見せてほしいものだ。(やまうち まさゆき)


茶わん酒5杯、刀を手に親王に強談判…若き慶喜
 江戸幕府15代将軍・徳川慶喜(1837~1913)が、将軍になる前の1864年、攘夷じょういに対して曖昧な態度を示す朝廷側の実力者を恫喝どうかつ
した様子を記した手紙の写しが、高知県内で見つかった。


 慶喜は当時26歳。酒をあおって実力者の屋敷に乗り込み、刺し違えも辞さない覚悟で真意をただした場面を描写。研究者は「混迷の幕末で、辣腕
らつわん
を振るう若き慶喜の姿が見てとれる」と評価する。

 京都にいた慶喜と国事をあずかっていた中川宮朝彦親王(1824~91)の面談に関する内容で、土佐藩士・樋口真吉が、雑記帳に書き写していた。

 記述から、原本は樋口と親しい土佐の志士・中岡慎太郎が長州の浪士に送った手紙。手紙は残っていないが、雑記帳は樋口の子孫宅で見つかった。

 記述では、慶喜が1864年2月15日、幕政に協力する薩摩藩の島津久光ら諸侯3人と、中川宮邸を訪問。横浜から外国船を追い出す「断然たる鎖港攘夷」をただすと、宮は同意した。

 しかし翌日、慶喜は、同意は「宮の言葉の行き違いだったようだ」と聞かされて激怒。「酒ヲ(中略)茶椀
ちゃわん
ニテ五杯ホド引カケ直ニ早馬ニテ尹ノ宮
いんのみや
ヱ乗切リ行キ」(酒を5杯ほど引っかけ、馬で乗りつけ)、刀を手に持ったまま宮邸の居間に上がり、同意がうそなら、「一命ヲ頂戴
ちょうだい

つかまつり
私モ身ノ覚悟」(命を頂戴する。私も覚悟の上)と迫った。宮は汗をかいて慌てた。

 宮が側近にお茶を出すように伝えると、慶喜は「私ハ十万石頂戴仕テ居マスカラ茶ハドウカコウカ買テ呑候」(私は十万石を頂いているので茶ぐらいは自分で買って飲む)と、冷たく言い放ったと記している。

 この時の様子は、慶喜側近の書状にも残るが、写しはより詳細。

 幕府は、朝廷の命を受けて諸侯と国政を進めようとしたが、慶喜は開国派の薩摩藩を警戒し、あえて攘夷で政局を握ろうとしたとされる。慶喜はこの一件を機に朝廷と距離を置き、諸侯との協力も解消。幕府の勢力を盛り返した。

 調査した高知県佐川町立青山
せいざん
文庫の松岡司
まもる
・前館長は「幕末史の一場面がよりリアルになった。現状をひっくり返すために大暴れした慶喜の強引さが、劇画のように描かれて面白い」と評価している。

(2011年5月17日14時48分 読売新聞)



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