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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
 3週間ほどサボっていたので、たまっているニュースからセレクトしてお送りします^_^;。

北海道
サラキ岬に春 木古内
 木古内町のサラキ岬でチューリップが咲き始めた。特産のホタテなどを売るふるさと物産フェアも開かれ、観光客を楽しませている。
 サラキ岬沖には幕末の軍艦・咸臨丸が眠る。咸臨丸がオランダで建造されたことが縁で球根が贈られ、現在では80種5万本ものチューリップが咲く。
 咸臨丸に最後に乗ったのが仙台藩白石領の藩士たちだったことから、今年は宮城県白石市の名産品を販売し、売り上げを大震災の義援金として贈る。物産フェアは5日と15日までの土日に開かれる。


重文「旧函館区公会堂」「太刀川家」改修へ
 函館市は本年度、国の重要文化財(重文)に指定されている旧函館区公会堂(元町11)と、太刀川家住宅店舗(弁天町15)の大規模改修に乗り出す。いずれも築100年を超えて建物の傷みが目立つため、市は計約1000万円の予算を計上。東日本大震災に伴う被害もなく、西部地区の歴史的な建造物が装いを新たによみがえる。

 市教委によると、公会堂は函館大火で焼失した町会所に代わる施設として、1910(明治43)年に完成。木造2階建てで、灰色と黄色の塗装が特徴的な和洋折衷の建築様式だ。74年に重文に指定され、80~82年には3億5500万円をかけて部分解体を含む大規模改修が行われた。

 しかし、現在は外壁のはがれや柱の腐食、雨漏りが目立ち、市は本年度、500万円かけて約30年ぶりの大規模改修に向けた本格調査に着手する。6月ごろから専門業者が外装を中心に内部構造の傷み具合をチェックし、2012年以降、国が50%、道と市が25%ずつ負担し、修復作業を進める。

 一方、太刀川家は米穀商や漁業を営む初代太刀川善吉が1901(明治34)年に建築。土蔵造り2階建ての建物は両端に窓がなく、防火対策に優れていて、正面には3連のアーチを設けるなど洋風のデザインも取り入れている。71年に重文指定を受けた。

 現在は6代目の善一さんが所有し、2009年から1階をカフェとして活用しているが、壁の漆喰(しっくい)がはがれ、屋根瓦に一部破損している状態。大がかりな改修は台風被害を受けた04年以来7年ぶりで、本年度に着工する。総事業費約1900万円のうち、市は国の補助金や所有者の負担金を除いた約500万円を予算付けした。

 市教委文化財課は「震災の被害を受けずに当初の計画通り進められる。公会堂は西部地区のランドマーク的な存在で、太刀川家も一つの街並みを形成している。どちらもきれいにお色直しして長く後世に残していきたい」としている。


岩手
津波に耐えた「天神大杉」 陸前高田、千葉周作ゆかり
 東日本大震災の津波で壊滅的な被害を受けた岩手県陸前高田市の神社に、周囲の建物が流される中、折れることなく生き残った一本杉がある。すぐ近くには幕末の剣豪、千葉周作の生家跡があり、杉の木の下で幼少時に遊んだと伝えられている。

 地元住民が「天神の大杉」と呼んで親しむ樹齢700~800年の杉は、海岸から約1・5キロ離れた今泉天満宮(陸前高田市気仙町)に立つ。海に注ぐ気仙川沿いにあり、津波が直撃した神社は鳥居や拝殿、社務所が流されたが、杉だけが残った。

 宮司の荒木真幸さん(67)によると、今泉天満宮は、江戸城も築いた武将太田道灌が15世紀に建立。剣術の流派「北辰一刀流」を開いた千葉は、杉の脇にある参道下の家で生まれた。




東京
早乙女太一 築地本願寺で「沖田総司」朗読
 俳優早乙女太一(19)が東京・築地本願寺で朗読活劇レチタ・カルダ「6月は真紅の薔薇 沖田総司」(6月4、5日)に主演する。レチタ・カルダはイタリア語で「熱い朗読」の意味で、朗読、芝居、音楽が融合した新スタイルの公演。過去に大沢たかおが義経、要潤が土方歳三を芝・増上寺で演じたが、早乙女は新選組18 件の天才剣士沖田総司を主人公にした三好徹氏の同名小説に挑戦する。「沖田は明るく、優しい剣の使い手というイメージがあった。以前舞台で土方歳三を演じ、沖田を身近に感じていたのでやりたかった」。

 演じるのは早乙女1人で、琴などの演奏者が共演。築地本願寺本殿特設ステージで約2000人を前に行う。早乙女は「集中してやり抜くことで、いろいろなものが生まれるから楽しみです」。新選組18 件発祥の地の京都・金戒光明寺、名古屋・東別院でも上演される。

 [2011年4月27日11時35分 紙面から]


土方歳三からの手紙 30年ぶり帰宅し公開
 多摩地域にゆかりの深い新選組の資料が豊富に展示されている「佐藤彦五郎新選組資料館」(日野市日野本町2丁目)では、副長の土方歳三が彦五郎に宛てた大政奉還に関する書簡を新たに公開している。
 佐藤彦五郎は、新選組局長の近藤勇の兄弟弟子として剣法を学んだ日野本郷三千石の名主で、新選組を支援していた。近藤や土方は彦五郎と親しく付き合い、頻繁に生活の様子などを報告していたという。資料館は子孫の佐藤福子館長が家にあった資料を多くの人に知ってもらおうと2006年4月に開館した。
 東日本大震災の惨状を見た佐藤さんは「被害の深刻な東北出身の新選組隊士もいる。そのご子孫のためにできることを」と4月中の入館料全額を日本赤十字を通して寄付しようと考えた。「そのためには新しい展示物をつくり、多くの人に足を運んでもらおう」。頭に浮かんだのは、約30年前、父親が亡くなったときに母親が菩提(ぼだい)寺に奉納した土方の書簡だった。
 歳三が新選組の第二次隊士募集を終え、江戸から京に戻る道中に彦五郎宛てに書いた11月1日付の書簡で、「大政奉還の情報が未確認ながら入った」などという内容。京都に行くまでの日付がきちんと書かれており、その時の歳三の足取りがよく分かる。
 寺に1カ月だけ借りたいと申し出ると、「今後は資料館で保管されたら」と快諾され、30年ぶりの帰宅となった。
 4月初めから展示し、1カ月分の入館料を予定通り寄付したが、展示自体は5月末まで続けるという。「書簡から歳三の行動が見えてくる。歳三を身近に感じてほしい」と佐藤さん。
 開館日は第1、3日曜日だが、今月は15日のほか7、8日も開館。7、8日は歳三の部下だった市村鉄之助が、遺品や遺髪とともに佐藤家へ持ち帰ったとされる土方の肖像写真も展示する。入館料500円。問い合わせは同資料館(042・581・0370)へ。(渡辺元史)


神奈川
咸臨丸フェスティバル:多彩なイベント、にぎやか--横須賀 /神奈川
 幕末の1860(安政7)年、勝海舟を艦長格とする咸臨丸が浦賀港を出港し、日本人初の太平洋横断を成し遂げた偉業をたたえる恒例の祭典「咸臨丸フェスティバル」が14日、横須賀市浦賀町の旧住友重機械工業浦賀艦船工場跡と浦賀港周辺で開かれた。

 咸臨丸は日米修好通商条約の批准書交換のため同年1月に出港、同5月に帰港。フェスティバルは今年で13回目。市民参加の「水恋乞いレース」や水風船競技大会、ジャズコンサート、フリーマーケットなど多彩なイベントでにぎわった。【田中義宏】


愛知
幕末の外交官岩瀬忠震展
 幕末に外交官として活躍した岩瀬忠震(1818~61年)の没後150周年を記念する企画展が、新城市設楽原歴史資料館で開かれている。

 忠震は現在の新城市内に領地を持っていた設楽氏の出身で、江戸後期に外国奉行として欧米各国との修好通商条約の締結に尽力した。

 会場には、新発見の忠震が漢詩をしたためた掛け軸のほか、愛用の印、短冊、橋本佐内宛ての書簡など計20点を展示している。

 中でも幕府が欧米諸国との間で結んだ「安政乃五箇国条約」の冊子は、開国後の外国との付き合い方を国民に周知しようと考えた忠震の働きかけで出版されたもので、開明派としての姿勢をうかがい知ることができる。

 期間は9月5日までだが、7月18日までを前期展として一区切り。同20日からは、幕府に蟄居(ちっきょ)を命じられて以降の資料に展示内容が変わる。

 前期展の最終日には国際日本文化研究センターの佐野真由子准教授が「岩瀬忠震と徳川の近代」をテーマに講演する。

 入館料は一般300円、小中学生100円。午前9時~午後5時。火曜休館。講演会の参加申し込みや問い合わせは同館=電話0536(22)0673=へ。(中嶋真吾)


兵庫
 な、なんと「けいすけじゃ」アニメ化!
地元偉人アニメ化 大鳥圭介没後100年
 幕末から明治にかけて日本の近代化に貢献した上郡町出身の大鳥圭介(1832~1911)の没後100年を記念して、同町は4日、町生涯学習支援センター大ホールで記念講演とアニメ完成披露会を開いた。町民約400人が集まって郷土が生んだ偉人の生涯に思いをはせた。
 大鳥は医師の長男として同町岩木に生まれた。大阪の適塾などで洋学を学び、幕臣旗本として榎本武揚らとともに函館・五稜郭で官軍と戦った。死罪をまぬがれて明治政府に仕え、殖産興業に尽力した。
 大鳥の生家が崩壊寸前になった3年前、地元住民でつくる「生誕地保存会」の活動によって町も注目。町は生家を解体修理して地域交流拠点にする一方、没後100年記念として波瀾(は・らん)万丈の一生をアニメ化する事業を起こした。
 アニメ化は、地元の半沢裕人(はん・ざわ・ひろ・ひと)さん(49)のミニコミ連載漫画を原作として、「銀河鉄道999」などに携わった同町出身の作画監督藪本陽輔(やぶ・もと・よう・すけ)さん(35)とプロデューサー西沢信孝さん(71)が担当。地元の子どもたちなども声優として参加した。
 アニメ「けいすけじゃ」全20話のうち、この日上映されたのは誕生から旗本になる13話までの第1部で1時間10分。年内には第2部も完成し、2時間を超える作品になりそうだ。
 同町のほか、姫路市、宍粟市、佐用町、太子町のケーブルテレビで順次放送される予定。原画展は15日まで、町郷土資料館で開かれている。月曜休館。
(5月5日(木)掲載)

 全国に配信お願いします〜m(__)m。

徳島
展示:江戸時代阿波人の見た世界地図・日本地図 県内旧家所蔵の35点 /徳島
◇徳島市の県立文書館で開催中
 徳島市八万町の県立文書館で、展示会「江戸時代阿波人の見た世界地図・日本地図」が開かれている。江戸時代後期から明治初期にかけて、県内の旧家に所蔵されていた地図や地理書など35点を展示する。

 当時の地図や地誌書から、先人たちの地理的知識や世界観を探る。資料は、かつて県内の学者や庄屋などが所蔵していたもの。

 「地球万国山海輿地(さんかいよち)全図説」(近世中期)は、江戸時代の地理学者・長久保赤水の作。イタリア人宣教師の地図を基にして刊行された世界地図で、幕末まで広く普及したという。江戸中期を代表する華厳宗の学僧が作製したとされる「南瞻(なんせん)部洲万国掌菓之図」(1710年)は、仏教の世界観を示した地図。仏教の聖地とされるインド中心に描かれているのが特徴だという。

 このほか、1829年に牟岐町の港にイギリス船が漂流した時の様子を書いた徳島藩士の見聞記など多彩な資料が展示されている。

 7月31日まで。入場無料。【山本健太】


愛媛
高野長英の隠れ家復元 宇和島市、史跡活用へ 愛媛
 江戸時代の蘭学者、高野長英が幕府から逃れて暮らしていた“隠れ家”が、愛媛県宇和島市新町に復元された。長英の居住跡は市の指定記念物(史跡)で、新たな観光スポットになりそうだ。

 今回復元された建物は幕末期、長英の宿舎にあてられた家老、桜田佐渡の別邸。辰野川に面した建物は木造瓦ぶき平屋建て32平方メートル。欄間、雨戸、建具などは旧居を解体して復元した。軒瓦は伊達家の九曜紋を残している。

 長英は、「蛮社の獄」で投獄されたがのちに脱獄。逃亡先で宇和島藩主、伊達宗城に請われ、嘉永元(1848)年4月、宇和島に入った。鎖国のなか、藩は長英を蘭学の教授や翻訳、砲台の築造設計に当たらせた。長英の滞在によって多くの人材が養成され、明治維新へ向かう道が切り開かれた。

 同市では史跡を観光振興に活用。うわじま道先案内人の会でボランティアガイド歴3年の三好尚文さん(65)は「幕末に活躍した歴史の証をPRしていきたい」と復元を喜んでいた。

 施設見学は事前申し込みが必要。問い合わせは同市観光協会((電)0895・22・3934)。


広島
龍馬の隠し部屋にわくわく…広島・福山に新観光スポット
 幕末の志士・坂本龍馬が滞在したとされる広島県福山市鞆町の商家、桝屋
ますや
清右衛門
せいえもん
宅の改修が終わり、毎週金~月曜日と祝日に一般公開されている。

 4日も家族連れらでにぎわい、新たな観光スポットとなっている。

 商家は、江戸後期に建てられた木造2階建て。海援隊が乗り組んだ蒸気船「いろは丸」の沈没後、龍馬らが数日間滞在したとされ、天井裏には龍馬が潜んだと伝わる隠し部屋もある。

 数年前から空き家となって建具なども傷んでいたため、市などが昨年8月から、隠し部屋に階段を取り付けて畳を張り替えるなどして改修。11月の龍馬の命日と、今年2~3月の「鞆・町並ひな祭」に合わせて特別公開したところ、多くの来場者があり、運営するスタッフの態勢も整ったため、観光スポットとして4月下旬から、恒常的に公開することにした。

 隠し部屋の柱や梁
はり
の一部は、龍馬が滞在した当時のまま。福岡市南区、教員高田薫さん(59)は「屋敷の落ち着いた雰囲気が心地良い」と話し、長女のあかねさん(28)は「実際に龍馬が寝泊まりした部屋かと思うと、わくわくした」と声を弾ませていた。

 公開は午前9時~午後4時30分。料金は大人200円、小学生~高校生100円。
問い合わせは、桝屋清右衛門宅(090・5379・2667)か、市観光課(084・928・1043)。

(2011年5月6日 読売新聞)


高知
「人間以蔵」掘り起こす
松岡さん 連載スタート
 幕末、土佐勤王党に尽くしながら、悲運の刑死を遂げた岡田以蔵(1838~65)。「人斬り」の異名で語られ、「野蛮な暗殺者」とされ、志士ではないとの評価さえ受けてきた。本格的な伝記はなく、資料も少ないが、土佐勤王党結成から150年の今年、歴史家の松岡司(まもる)さん(68)(高知市一宮東町)が、以蔵の生涯をたどる伝記の執筆に挑戦する。「以蔵もほかの同志と同じように、時には弱く、悩んだ志士だった。今こそ『人間以蔵』を掘り起こしたい」。松岡さんは意気込みを語る。(畑矢今日子)

 本名は岡田宜振(よしふる)。郷士の家に生まれ、土佐勤王党首領の武市半平太に剣術を学び、剣士として名を上げた。党に敵対する人物を暗殺し、恐れられた。勤王党が弾圧され、拷問を受けると、暗殺にかかわった同志について自白したため、暗いイメージを加速させる。ただ、NHK大河ドラマ「龍馬伝」に登場したこともあって、整備された高知市薊野北町の墓所には昨夏以降、1000人以上が訪れ、人物像に心動かされる人も少なくない。

 「以蔵には暗いイメージが強く、研究した人は少ないが、ようやく見直されつつある。実像を探るのは今だ」。土佐の歴史を様々な人物を通して読み解いてきた松岡さんは、以蔵に着目した。

 松岡さんは20歳代前半、自由民権運動を追究しようと思い立ち、運動のルーツをたどるうち、土佐勤王党に行き着いた。以来、関心は幕末の志士へ向き、武市半平太ら志士の偉業を掘り起こしてきた。

 しかし、以蔵はほかの志士と違い、残された資料は限られ、生涯を知る研究者は決して多くない。松岡さんは、墓を訪ねて刻まれた字をじっくりと読み、高知市相生町にあったとされる岡田家の跡や、香美市の本家周辺も訪ねた。「情報がない分、足で稼いでいる。今回は、普段以上に資料を大切に読んでいきたい」

          ◇

 新たな寄稿連載「以蔵新伝」では、50回余りにわたり、以蔵の誕生から処刑までの生涯や、岡田家の家族らを紹介する。主に土曜に掲載予定。

 松岡司さん 県立郷土文化会館(現・県立文学館)職員、佐川町立青山文庫学芸員などを経て、1995~2008年には青山文庫館長。武市半平太、中岡慎太郎、坂本龍馬ら多くの幕末の志士を研究し、江戸時代前期の土佐藩重臣・野中兼山の伝記も含め、8冊の著書を手がけた。県立の歴史民俗資料館と坂本龍馬記念館、北川村の中岡慎太郎館の基本展示に携わった。現在は県内3か所で古文書教室を開講する。

(2011年5月15日 読売新聞)


後藤象二郎の新写真見つかる 名刺大に維新の息遣い
 幕末に坂本竜馬とともに活躍し、明治政府の高官も務めた土佐藩出身の後藤象二郎の写真が高知市で見つかった。竜馬と実現に奔走した大政奉還への思いをつづったとみられる漢詩が裏に書かれていた。専門家は「名刺大の小さな史料だが、時代の息遣いが伝わる」と評価している。

 写真は2枚。和装姿の1枚は政変で明治政府の高官を辞職、下野した36歳ごろに撮影されたとみられる。別の1枚は実業家として活動していた30代後半~40代前半とみられる洋装姿で、横浜で著名な写真家が撮影したことを示す印がある。

 36歳ごろの写真の裏面には七言絶句が記され「国を治める権利は王室に帰し、幕府は一瞬で力を失った。現政府を始動できたのは一体誰の力によるのか。一書生の一筆によるのだ」との内容。


山口
講演会:古川薫さん、県の歴史語る 幕末~明治、英外交官の功績強調 /山口
 下関市在住の直木賞作家、古川薫さん(85)が県の歴史について語る講演会が14日、山口市秋穂二島の県セミナーパークで始まった。初回は、幕末から明治にかけて活躍した英外交官アーネスト・サトウ(1843~1929)と長州の歴史について解説した。

 県ゆかりの歴史人物を学ぼうと県ひとづくり財団が企画。市民ら約150人が聴講した。

 今ではフランシスコ・ザビエルが県内でキリスト教を布教したことは有名だが、ザビエルに布教を許した大内氏が滅亡した後、毛利氏の時代になると大内氏の実績について語ることが避けられたと古川さんは指摘。「ザビエルが県内で活動したことは幕末の日本では忘れられており、日本での宗教の研究をしていたサトウが明らかにして再び広まった」と功績を強調した。

 またサトウは伊藤博文や井上馨と交流があり、江戸幕府十五代将軍徳川慶喜の殺害や江戸城への攻撃が避けられたのはサトウの説得があったという。古川さんは「革命的な変化が日英貿易に与える影響を懸念した外交官としての側面もあるが、日本を愛していたサトウが日本人の将来を思った行動でもあった」と話した。【吉川雄策】
〔山口版〕


つなごう希望:東日本大震災 岩国藩鉄砲隊保存会、「恩返し」と福島へ義援金 /山口
◇福島・龍台寺、戊辰戦争で岩国藩士供養
 岩国市の岩国藩鉄砲隊保存会(32人)の村河多丸会長(67)と西村栄時前会長(70)が13日、岩国市役所を訪れ、東日本大震災の義援金5万円を福田良彦市長に託した。福島第1原発から20キロ圏内の福島県富岡町には、戊辰戦争(1868~69年)で戦死した岩国藩士を、地元の人々が手厚く葬り、供養を続けてきた龍台寺がある。村河会長は「敵だった藩士を丁重に供養し続けた地元の人々への恩返しになれば」と話している。今後、寺に対しても10万円を贈る予定。【大山典男】

 同寺には、奥羽越列藩同盟の相馬中村藩などと戦った岩国藩「精義隊」の藩士7人の墓がある。99年に墓の存在が新聞で紹介され、会員ら約30人が現地を訪れ、地元の人とともに供養祭を開いた。

 訪問時の会長だった西村さんは「亡くなったのは18~27歳の若い藩士。銃を捨てての白兵戦だった。地元の人々が墓所を清掃し、法要を欠かさなかったと聞き、感謝の念に満たされた」と振り返る。西村さんによると、震災後に寺に電話をしたが連絡が取れず、被害状況は不明という。このため、4月29日に開いた総会で会員から義援金5万円を集めたほか、寺の復興費として10万円を用立てた。保存会は「原発震災が落ち着いたら、手渡したい」と話している。福田市長は「市としても、連絡が取れるように努力をしたい」と応えた。

ブックレビュー
『日本人の叡智』磯田道史著  

 「書庫のなかでみた日本人の叡智(えいち)の蓄積は想像を絶するものであった。津々浦々に、けっして教科書には書かれない埋もれた人物が、山のごとくいた」。それら先人の思索のエッセンスを抽出し、煮詰めた贅沢(ぜいたく)な本。

 著者は今もっとも注目されている古文書学者。幕末の加賀藩士が残した膨大な文書を読み解いた『武士の家計簿』は映画化もされた。本書は朝日新聞土曜版に2年間連載された「この人、その言葉」の単行本で、戦国から昭和まで、有名無名98人の言葉が収録されている。

 古来、この列島は幾多の苦難に見舞われてきた。それを乗り越えていま、珠玉の名言が残る。その歴史に連なる現代日本人の言葉もきっと、後世に残るだろう。(新潮新書・756円)


『幕末維新に学ぶ現在2』山内昌之著
政治家の立ち位置とは

 死んではじめて役に立つ政治家というのがいるものだ。著者はさすがに誰それと名ざしこそしないが、(井伊大老のことは書いてなかったっけ?)読者にはごく自然になっとくできる仕組みになっている(『姉小路公知(あねがこうじきんとも)』)。

 政治家たちは意識的にも、無意識的にも過去の歴史を模倣する。明治維新の志士の場合は、鎌倉幕府を打倒して王政復古を実現した『太平記(たいへいき)』の世界だったし、現代日本の政治家の間では幕末の志士を気取るのが流行している。

 菅首相は高杉晋作が好きらしいし(『大楽源太郎(だいらくげんたろう)』)、小沢一郎氏はわが身を西郷隆盛になぞらえたと報じられている(『椋梨藤太(むくなしとうた)』『西郷隆盛』)。もと産経新聞に連載されたこのコラムはいきおい時評的な性格を帯び、話題が政権を取ったばかりの民主党に集中しているのも一興である。それが2011年3月17日掲載の『藤田東湖(ふじたとうこ)』から東日本大震災の影響が劇的に現れてくるのが見物(みもの)だ。

 山内昌之氏のこの近著は、歴史上の人物列伝の形を取りながら、幕末維新という激動に満ちた時代の歴史から、政治家が何を学ぶか、あるいは、何を学ばずにいるかをおのずと浮かび上がらせる。

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 「三月十一日に起こった東日本大震災とその被害規模は、この国の歴史を書き換える惨事であった。為政者は、こうした未曽有のカタストロフに遭遇して、まず自分が大きく歴史を転換させるモメントに立ち会っているという緊張感と使命感をもたなくてはならない」と著者は本書の「あとがき」に記している。

 ここで引き合いに出されているトゥキディデスの『ペロポネソス戦史』がいうように、現在歴史家に不可欠なのは、いま身のまわりに起きている出来事が当時としての《世界大戦》に発展するほどの大事件であると見ぬき、身を引き締めさせる洞察力である。歴史の現在時点を一瞬で知覚する能力である。

 この自覚は返す刀で同時代の政治家を叱咤(しった)するだろう。「今の日本の宰相はこうした歴史認識を十二分にもち自らの立ち位置を理解していると言えるのだろうか」(中央公論新社・1890円)

 評・野口武彦(文芸評論家)


JIN:ドラマ好調でコミックス4倍以上 完結3カ月で異例の「名作」入り
 幕末にタイムスリップした医師の活躍を描いた村上もとかさんのマンガ「JIN-仁-」のコミックスが、テレビドラマのヒットを受け、爆発的に売り上げを伸ばしている。累計発行部数は現在、680万部と第1期ドラマ化発表前のなんと4倍以上。5月には全20巻の重版が行われる予定で、初回平均視聴率が23.7%と今年の大河ドラマ(21.7%)を上回る好発進を見せた続編ドラマともども、今後どこまで売り上げを伸ばすか注目される。

 同マンガは00年4月に雑誌連載を開始し、コミックスはドラマ化発表前は、約150万部(14巻)だった。それがドラマ第1期終了までに310万部(16巻)を超えた。マンガ連載は10年11月に完結し、12月時点ではシリーズ累計530万部以上に達し、11年2月に発売された最終20巻でコミックスも完結し、現在680万部まで発行部数を伸ばしている。もともと巻数が少なかったり、部数がそれほど出ていない作品の場合は、映像化により部数が倍になることはあるが、巻数が10巻以上あり、平均して各巻10万部を売り上げている作品で、ここまで部数を伸ばした事例はあまりないという。

 マンガは、大学病院の脳外科医だった南方仁が、幕末にタイムスリップしてしまうSF医療ドラマ。満足な医療器具や薬もない状態で人々の命を救う中、坂本龍馬や勝海舟ら幕末の英雄と知り合い、激動する歴史に巻き込まれる……というストーリー。原作者の村上さんは、剣道に打ち込む若者の姿を描いた「六三四の剣」や、ドラマにもなった歴史大河「龍-RON-」でも人気を集めている。

 コミックスは3月以降、45万部以上の増刷を行い、5月には全巻重版が行われる予定で、6日には関連マンガも発売される。また、名作マンガを再編集しコンビニなどで発売する廉価版コミックス「集英社ジャンプリミックス」に5月以降登場することが決まっており、コミックス完結後3カ月で名作マンガ入りするのも異例となっている。(毎日新聞デジタル)


第15回手塚治虫文化賞、大賞は「JIN-仁-」「竹光侍」
第15回手塚治虫文化賞の受賞作が発表された。マンガ大賞に選ばれたのは村上もとか「JIN-仁-」と、永福一成原作による松本大洋「竹光侍」の2作品。

【大きな画像をもっと見る】

「JIN-仁-」は2000年より2010年までスーパージャンプ(集英社)にて連載。現代から幕末の日本にタイムスリップした脳外科医が江戸の人々を救う医療マンガで、TVドラマがTBS系列にて放送されている。一方「竹光侍」は謎の浪人を主人公とした時代劇で、週刊ビッグコミックスピリッツ(小学館)にて2006年から2010年まで連載されていた。単行本は全8巻が発売中だ。

また清新な才能や斬新な表現に贈られる新生賞は「鋼の錬金術師」の荒川弘、短編賞は「パパはなんだかわからない」などで知られる山科けいすけが受賞。選考経過などは後日朝日新聞の特集面で紹介され、贈呈式は5月27日に朝日新聞東京本社で行われる。

手塚治虫文化賞はマンガ文化の健全な発展を目的に、朝日新聞社が1997年に創設。第14回は山田芳裕「へうげもの」がマンガ大賞を、「虫と歌」で注目を集めた市川春子が新生賞を、ヤマザキマリ「テルマエ・ロマエ」が短編賞を受賞した。


コラム
幕末から学ぶ現在
東大教授・山内昌之(113)岩松満次郎(上)

新田官軍の前奏曲

 上州新田郡下田嶋村の岩松満次郎と聞けば、群馬県人には失礼ながら幕末の土地柄といい、人物の名乗りといい、まるで大前田英五郎や山王民五郎もどきの侠客(きょうかく)を連想する読者が多いかもしれない。

 しかし、武士の家系でいえば岩松満次郎は貴種も貴種、清和源氏の流れをくむ足利と新田の2つの血の入った名家なのである。国定忠次や板割の浅太郎もどきの渡世人(とせいにん)とは格が違うのだ。ともかく、56人ほどの少数であっても新田官軍という勤王の旗を揚げ、幕末の風雲に乗じて一山当てようというのだから、いささか訳ありなのである。歴史好きの人間にはゾクゾクするほど好奇心をそそるといってよい。

 ◆ペーソスの漂う歴史劇

 それにしても、新田官軍というのは、聞きようによっては相当にうさんくさい旗印を掲げたというほかない。なにしろ、鎌倉幕府を倒した遠祖新田義貞の古例にならって「祖先勤王の遺志を変えず」に倒幕のために立ち上がったというのだ。皇室を中興し、義貞の志を貫きたいというのだから殊勝といえば殊勝なのである。

 とはいえ、勤王のために決起しながら、60人しか動員できないのは、ややペーソスの漂う歴史劇というほかない。

 新田官軍の基礎にあったのは、尊皇攘夷や倒幕といった明解なイデオロギーではない。むしろ、幕末に御家安泰と本領安堵(あんど)を願う点では、あれこれ右顧左眄(うこさべん)しながら明治新政府に従った多くの弱小藩と変わらない平凡さである。

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 変わっていた点は、岩松家が交代寄合(こうたいよりあい)であり、それもわずか120石を受けたにすぎない可笑(おか)しさくらいであろう。通常ならば3千石以上の高級旗本であり、参勤交代を義務づけられた交代寄合が120石というのは奇妙である。

 岩松家のような小禄(しょうろく)の家でありながら、毎年12月に参府し正月3日に将軍に年始の礼をおこなった家も珍しい。それは、岩松家が徳川将軍家と同じく新田氏の血脈を受け継いでおり、その家系が江戸幕府の正統性につながっていたからである。言い換えれば、岩松の殿様は代々満次郎を称して、江戸時代をともかく無事にやり過ごしてきたのだ。

 ◆猫絵を生活の手段に

 幕末ともなれば、上州の養蚕業の敵であった鼠(ねずみ)退治のために岩松こと新田の殿様が猫の絵を描いて生活のたつきを得ていた。これは、落合延孝氏の好著『猫絵の殿様-領主のフォークロア』(吉川弘文館)に詳しい。その際に、幕府に対しては、はばかって岩松満次郎を名乗っていた殿様が商売ともなれば霊験あらたかにと念じたせいか、新田姓をずうずうしく使っている。

 そこで新田官軍の旗を揚げた当主の満次郎は、新田俊純という実名(じつみょう)や「新田義貞嫡宗(ちゃくそう)源俊純」などと大層な名を付した絵を後世にたくさん残すことになった。この新田猫がなかなかの貫禄と風格なのである。幕末に日本にやってきた外国人たちも新田の猫絵を重宝して買い求めたという理由もうなずけるほどなのだ。

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 しかし、ここでは新田俊純ではなく岩松満次郎というはるかに土着的な存在感のある名前のほうが好ましい。何といっても、微禄とはいえ徳川家康のおかげで家名を残せた家にとって、江戸幕府を倒そうという物騒な尊皇攘夷運動は乗りようもないほど狂気の沙汰なのであった。このあたりが野口武彦氏の連作「幕末バトル・ロワイヤル」の最新著『慶喜の捨て身』(新潮新書)に書かれているのも実に嬉(うれ)しい。

 それでも、後醍醐天皇による建武の中興をもたらした忠臣の末裔(まつえい)とあれば、幕末に何もしないわけにはいかない。昨日まで佐幕を信奉していた岩松の殿様も、中山道のかなたからピーヒャラピーヒャラと「宮さん宮さん」を奏でる笛が聴こえてくるともういけない。まるで、昨日までマニフェストは国民との約束と言って、子ども手当の実行を墨守していた民主党が大震災復旧の財源難を理由とするかのように、政権公約をあっというまに反故(ほご)にしそうな勢いにも似た思い切った動きをすることになる。(やまうち まさゆき)



【プロフィル】岩松満次

 いわまつ・まんじろう 本名・俊純(としずみ)。文政12(1829)年、上野国(群馬県)に120石の交代寄合の長男として生まれる。安政元(1854)年に家督相続。慶応4(1868)年、新田官軍を組織して倒幕運動に参加。維新後は新田に改姓し、明治17(1884)年、男爵となる。27年に死去。




幕末から学ぶ現在
(112)国司信濃、眉目秀麗の勇者 東大教授・山内昌之

“名利に恬淡(てんたん)な人”や“無欲恬淡”という言葉がある。しかし、わざわざ“名利に恬淡としない人”や“無欲恬淡でない人”とは言わないだろう。しかし、菅直人首相の驚くべき粘り腰を見ていると、思わず“無欲恬淡でない人”と言いたくなる読者もいるのではないか。

 山口県出身の菅氏を見て、目元涼しく“無欲恬淡”だった国司信濃をつい思い出したのはなぜだろうか。いまも残る写真や肖像画を眺めると、眉目秀麗で挙措典雅な青年武将の姿が浮かび上がる。写真の残る幕末人の中でも、美丈夫ぶりでは会津藩主の松平容保(かたもり)と双璧であろう。

文武に兼通し和歌も能くす

 苗字(みょうじ)は「くにし」であり、「こくし」とは読まない。もともと室町幕府の高師直(こうのもろなお)につながる家系で、安芸国に本貫地があった。長州藩で一門八家の次に位置する寄組(よりぐみ)の家系であり、高杉晋作や桂小五郎らの大組よりも高い家柄の生まれである。

 やがて禁門の変で三家老として一緒に自刃する福原越後や益田右衛門介(うえもんのすけ)は永代家老の身分であったが、国司の家は5600石の高禄ではあっても、信濃が家老になったのは当人の才覚によるものだ。『大人名事典』(平凡社、1・2巻)の表現が信濃のプロフィルをいちばん無駄なく伝えている感がある。「人となり姿儀(しぎ)端正にして胆略あり、文武に兼通し最も和歌を能(よ)くした」と。

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 実際、辞世となった2首はいずれも読む者の感動を誘う和歌である。

 「よしやよし 世を去るとても 我が心 御国のために なほ尽(つく)さばや」

 「君がため 尽せや尽せ をのが此(こ)の いのち一つを なきものにして」

 君のために尽くしても尽くしきれない私のこの命であり、ひとりの命であるが投げ出そうではないか。このほとばしりは、文久3(1863)年4月に赤間関(あかまがせき)(下関)奉行になって、関門海峡を通る外国船を久坂玄瑞らと一緒に攻撃したことにも表れている。

名門重臣が攘夷派の先鋒

 長州藩の面白いのは、国司・益田・福原といった名門重臣が攘夷(じょうい)派の先鋒(せんぽう)でもあったことである。国司信濃は、「八月十八日の政変」で長州藩が京都から追放されると、益田右衛門介や福原越後とともに久坂玄瑞や来島又兵衛らの兵を率いて上洛した。

 幕末には俗にいう絵になる光景も多いが、元治元(1864)年7月に嵯峨天龍寺から禁裏の中立売御門(なかだちうりごもん)に向けて馬上爽やかに隊列を指揮した国司信濃の総勢800の部隊は士気も横溢(おういつ)していたことだろう。しかし、会津藩と桑名藩に加えて薩摩藩の精兵が防御する御所の守りは堅く、蛤(はまぐり)御門での来島の戦死、堺町御門で斃(たお)れた久坂の自刃などで信濃の兵も退却を余儀なくされた。

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 御所に銃弾を撃ち込んだ長州藩の度胸は凄(すご)い。しかし、これが譴責(けんせき)されずに済むはずがない。やがて朝廷が幕府に長州征討の勅命を下すと、三家老は恭順を示す俗論派によって幽閉された。国司信濃はじめ三家老の責任の取り方は見事であった。なかでも信濃の切腹は壮絶を極め、割腹後もすぐに介錯(かいしゃく)を受けず、気管部に刀を刺して喉(のど)をかき斬る覚悟の死であった。

心情を語らず責任を取る

 その凄愴(せいそう)ぶりは、藩主の黒印状で出兵しながら藩の政策転換で死を賜(たま)わる無念さと憤りに由来するのだろうか。しかし、信濃は心情を語ろうともしない。このあたりは、口数だけ多い割にさっぱり責任をとらない当節の政治家にはまねのできない点である。

 萩にある三家老の墓は歴史好きの観光客の人気スポットらしいが、私はまだ出かけたことがない。なかでも国司信濃の墓前では、手を合わせる若い人の香華が絶えることはないらしい。やはり23歳で早世した美男子はいつの時代でも人気が絶えないのだ。(やまうち まさゆき)



【プロフィル】国司信濃

 くにし・しなの 天保13(1842)年、長州(山口県)生まれ。文久元(1861)年、大組頭役、3年に家老となる。同年の「八月十八日の政変」で京都から追放された藩の失地回復を図り、元治元(1864)年、兵を率いて京都入りするが、会津と薩摩などの兵に敗れる(禁門の変)。帰藩後は幕府恭順派により幽閉。同年、謝罪のため藩命により切腹した。享年22。


幕末から学ぶ現在
(111)東大教授・山内昌之 伊達千広

■危機の時代区分とは

 かつてキリスト教徒がイエスの生誕を西暦紀元の端緒とし、イスラム教徒が預言者ムハンマドのメッカからメジナへの移住すなわち「聖遷(せいせん)」をヒジュラ暦元年としたように、歴史には時代を新たに開くほどの「画期」が存在する。英語でいうエポック・メーキングにほかならない。大震災は、かつての「戦前」「戦後」と同じく、「震災前」「震災後」あるいは「災前」「災後」という時代を大きく画する大事件となった。

史書『大勢三転考』著す

 幕末の日本には、日本で時代区分をほぼ初めて試みた史書が現れている。紀州藩重役の伊達千広が嘉永元(1848)年頃に書いた『大勢三転考(たいせいさんてんこう)』である。これは『日本思想大系48・近世史論集』(岩波書店)や『日本の思想6・歴史思想集』(筑摩書房)で読むことができる。

 伊達は後に外務大臣となる陸奥宗光の実父であった。日清戦争前後の複雑な情勢を『蹇蹇録(けんけんろく)』にまとめた陸奥は、歴史への関心を父から受け継いだのかもしれない。

 伊達千広は、上古から徳川幕藩体制の成立に至る歴史が、「加婆禰」つまり「骨(かばね)」の時代、「都加佐」すなわち「職(つかさ)」の時代、「名(な)」という大名や小名の時代といった具合に、大きく「三転(みうつり)」、つまり3回変わったとする。

 「骨の代」とは、同じ祖先から出た血族、つまり「骨」が世襲的に土地を領有した時代を指す。国造(くにのみやっこ)・県主(あがたのぬし)などの「かばね」を主軸に政治が行われた時代である。しかし、やがて「領(し)めたる土地」から取れた生産物を「己が物」と勝手に私有し、朝廷への貢租(こうそ)を怠り天皇の権威はないがしろにされた。そこで、冠位十二階の制度や十七条の憲法から大化の改新にかけて、世は「職の代」へ移ったというのだ。

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 「つかさ」の時代は、7世紀末の天武・持統朝から8世紀の大宝律令で完成し、「部曲(かきべ)の民」(私有民)や「田荘(たどころ)」(私有地)は廃され土地はすべて公田と定められたのである。「骨の代」には特定の官職を世襲した氏族の統率者が、同時に官職を通しても国政に参与していた陋習(ろうしゅう)が「職の代」に改められ、政治を定める律令や世襲化されない官職の保有者が権力を担った。

 これを変えた源頼朝の武家政治は、大名・小名が土地を領有する「な」の時代つまり「名の代」を始めたと解釈される。これは、権力の基礎が官職から「兵権」すなわち軍事力に変わる時代を指した。

「時勢」が社会変動起こす

 「骨」から「職」の時代への変化は、「上の御心(みこころ)」(上からの改革)で実現したのに対して、「職」から「名」の時代への変動は「下より起りて」(下からの革命で)進行したのだった。伊達千広は、2つの大変動を社会の深部で用意した素因として、人智(じんち)ではたやすく測りがたい「時勢」という力をあげている。

 いやしくも為政者であるなら、「時の勢をさとらず、ひたぶる旧習に執着する」ことは赦(ゆる)されない態度であり、「膠柱(こうちゅう)の論」と呼ぶべきなのだ。「膠柱の論」とは、琴柱(ことじ)に膠(にかわ)して瑟(しつ)をひくように、応用や融通のきかない空論のことであろう。

 時勢の移り変わりを洞察しながら、臨機応変に事態に対処し、しかるべき良策を立てる仕事こそ、為政者のつとめなのである。この議論は、古代ギリシャのトゥキディデスや漢の司馬遷の時代から現代まで、どの国の政治でも立派に通用する歴史の言説といえよう。

 『大勢三転考』は、鎌倉幕府に始まった「名の代」が、信長の「はかなき夢」の挫折や、秀吉の「馬を花山に放ち賜ふ心」(戦いをやめる気持ち)の欠如などで天下の騒乱を経験しつつも、徳川政権の全国統一によって確固たる施政になったと述べ、「国家」史の論を堂々と締めくくるのだ。「大小の国々、心一つに和順(まつら)ひ、大平無事の御代(みよ)となりて、名の代の大制度、こゝにして盛大なり」と。

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現代に預言者的響き

 しかし伊達千広の謳歌(おうか)した「名の代」も、やがて欧米の外圧を受けて明治維新とともに瓦解(がかい)する運命にあった。それを彼に自覚させたのは、名の代の安定が崩れる徳川末期の「国家」をめぐる危機意識だったのだろう。

 伊達千広は、日本史で歴史の名著を書いた慈円や北畠親房(ちかふさ)のように、「国家」史の急激な変動に際会した結果、危機に鋭く反応した人物ともいえよう。この意味では、そもそも「国家」とは何かを真摯(しんし)に思惟(しい)したことのない首相たちが現れている現在、新しい「名の代」とは何かを鋭く問おうとした『大勢三転考』のメッセージは、危機の現代に預言者的な響きをもって甦(よみがえ)るのである。(やまうち まさゆき)

                   ◇

【プロフィル】伊達千広

 だて・ちひろ 享和2(1802)年、紀州藩士の家に生まれ、国学者の本居大平(もとおりおおひら)の下で学ぶ。文化13(1816)年に藩主徳川治宝(はるとみ)に小姓として登用され、信任を得て重職を歴任するが、治宝の死により失脚。約10年間蟄居(ちっきょ)を命じられる。文久2(1862)年、脱藩し尊皇攘夷(じょうい)運動に参加。維新後は実子の陸奥宗光のもとに身を寄せ、明治10(1877)年、東京で死去した。








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