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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
 ゴールデンウィーク中は北海道で降雪とのことでしたが、今週は関東周辺は25度を超える日が多く、比較的に湿度の低い暑い日が続きました。
 
北海道
箱館五稜郭祭で寸劇競う 高3「土方」が優勝
 戊辰戦争最後の舞台となった北海道函館市で18日、「箱館五稜郭祭」が始まり、新選組副長の土方歳三になりきって寸劇を披露するコンテストが開かれた。26回目のことしは、北海道函館工業高校3年の河野憲嗣君(17)が初出場で優勝した。

 寸劇は、新政府軍に包囲され、敵に撃たれて倒れる設定。参加者は、独自のセリフや動きで土方らしさをアピール。実戦さながらの切り合いを演じる姿に、詰めかけた約400人の観客からはどよめきも起きた。一方で、倒れる直前に「死にたくない」とつぶやき、笑いを誘う出場者も。


誠を貫き熱く 函館の高3優勝 土方歳三コンテスト
 【函館】箱館戦争で旧幕府軍に参加して戦死した新選組副長、土方歳三の最期の場面を演じる「第26回土方歳三コンテスト全国大会」が18日、函館市の五稜郭タワーで行われた。東京や岡山、名古屋などから駆けつけた17人が挑戦。初出場の函館工業高校3年、河野憲嗣(かわのけんじ)さん(17)が優勝した。

 同日開幕した箱館五稜郭祭の名物行事。女性5人を含む17~52歳の出場者が約400人の観客を前に熱演した。優勝した河野さんは「大河ドラマで新選組を知り、誠を貫く土方の生き方に憧れた。髪形は土方をイメージしました」とうれしそうに話した。<北海道新聞5月19日朝刊掲載>

土方歳三になりきって 北海道・函館で五稜郭祭
 戊辰戦争最後の戦いとなった箱館戦争をしのぶ「五稜郭祭」が18、19日の2日間、函館市で開かれた。

 初日は、この戦いで戦死した新撰組副長・土方歳三のコンテストが五稜郭タワーアトリウムで開かれ、17歳から52歳までの男女17人が「土方らしさ」を競った。土方が鉄砲で撃たれて戦死する場面などを寸劇で演じ、容姿、演技力、土方への思い入れ度合いなどで採点。迫力のある殺陣を披露した函館工業高3年の河野憲嗣さん(17)が優勝した。

 数年前の新撰組の大河ドラマを見て、土方にあこがれたという河野さん。所属する函館野外劇の殺陣チームの仲間と、練習を重ねてきたという。「土方の『誠』を貫くところがかっこいい。新撰組に対する思いや、局長の近藤勇との友情が表現できるようせりふを考えた」と話した。

 19日には、旧幕府軍や官軍に扮した人たちが市中心部をパレードする「維新行列」が行われ、河野さんも参加した。行啓(ぎょうけい)通りでは、戦闘シーンのパフォーマンスも行われ、沿道の観客らが見守った。


箱館戦争の犠牲者安らかに 「総攻撃の日」慰霊祭
【函館】1869年(明治2年)の箱館戦争で新政府軍による箱館総攻撃があり、旧幕府軍として戦った土方歳三の命日でもある11日、戦没者を弔う二つの慰霊祭が函館市内で行われた。

 箱館戦争で亡くなった会津藩士をまつる「傷心惨目(しょうしんざんもく)碑」のある高龍寺では、函館福島県人会(熊坂成剛会長)が碑前祭を開催。同会の約20人が焼香し同郷の先人の霊に手を合わせた。熊坂会長は「箱館戦争の時も雨で、(会津藩士たちが)大変な思いをしたこともあっただろうなという思いがこみ上げてきた」などと語った。

 また、敷地内に箱館戦争供養塔がある五稜郭タワーでは、戦没者供養祭がアトリウム内で行われた。

 同タワー主催で、18、19の両日に開催する第44回箱館五稜郭祭の成功祈念も兼ねている。土方の像の近くに設けられ祭壇で、同タワーの中野豊社長が「戦没者の御霊安らかならんことを念じます」などと祭文を読み上げ、僧侶の読経が響く中、参列者約50人が焼香。新政府軍と旧幕府軍双方の戦没者の霊を慰めた。(大内聡顕)


7月開幕「函館野外劇」 安全と成功願い祝祷祭
 NPO法人「市民創作『函館野外劇』の会」は11日、函館市の五稜郭公園を舞台に7月5日から開催する「函館野外劇」の成功を祈り、同公園で祝祷(しゅくとう)祭を行った。

 降りしきる雨の中、スタッフや出演者、工事関係者ら約20人が参加。特別養護老人ホーム旭ケ岡の家の山内実神父が儀式を執り行った。今回は昨年12月に死去した野外劇の発案者フィリップ・グロード氏の追悼公演。祝祷祭では全員で黙祷(もくとう)をささげ、山内神父が野外劇の安全と成功を願い、会場に聖水をまいた。

 グロード氏から同法人理事長を引き継いだ中村由紀夫さんは「小中学生を中心に観劇者を増やし、次につながるような活動をしたい」と決意を新たにし「開演は午後7時40分だが、地元ゆかりの方が出演する同7時のプレステージから楽しんでほしい」と呼びかける。

 会場の工事は今月20日から始まり、公演は7月5日から8月10日までの11公演。入場料は大人2千円(前売り1800円)、高校、短大・大学生は千円(同900円)、小・中学生は500円(同400円)。前売り券は松柏堂プレイガイド市内各店やローソンチケットなどで扱っている。問い合わせは同会事務局(電)0138・56・8601へ。(野長瀬郁実)


宮城県
海辺の記憶 石巻湾周辺・門脇 コメの流通拠点に成長
<港の役割を重視>
 石巻湾を一望する場所に日和山はある。周辺の一帯には江戸期に門脇村が置かれ、石巻地方の中でも商業や漁業の盛んな土地の一つだった。
 旧北上川の対岸が「牡鹿湊」と呼ばれた鎌倉期、日和山には葛西氏の本城があった。その後、焼失したらしい。今の鹿島御児神社がある場所と考えられる。
 日和山には、伊達政宗が本拠を置こうとしたとする伝承も残る。岩出山(大崎市)時代の政宗が築城を幕府に願い出た地名には、青葉山、榴ケ岡(ともに仙台市)とともに日和山があったという。
 市教委生涯学習課の佐々木淳課長補佐は「築城の経緯は諸説あるが、政宗が石巻港の役割を重く見たのは確か。後に北上川大改修を命じ、江戸廻米の一大拠点となる契機をつくった」と説明する。
 大改修を任されたのが長州生まれの土木技師川村孫兵衛重吉だ。江合川や迫川を合流させ堤防を築き、はるか内陸の盛岡から石巻までの舟運を可能にした。流域では新田開発も進み、コメ集荷地として人や物が集結した。
 コメ輸送が盛んになるにつれて門脇も川岸に集落が形成され、石巻地方の運送・水産業拠点の地位を固めた。村所属の船は石巻村の3倍に及んだ。

<工業団地が集積>
 現在、釜・大街道地区と呼ばれる西部は明治になって旧士族が切り開いた。手付かずの荒れ地の開墾は困難を極め、多くの脱落者を出しながらも、大正期までに果樹栽培の盛んな農地に生まれ変わらせた。
 門脇の昭和史で最大の出来事は1940年、東北振興パルプ(今の日本製紙石巻工場)の操業だろう。
 実業家の渋沢栄一が会長を務めた東北振興会の働き掛けもあって誘致が進み、55年には石巻市の産業出荷額に占める紙製品の割合は56%に達した。
 61年には原材料の木材輸入のため石巻工業港が着工した。通称「大街道」の国道398号沿いに商業施設、南側には住宅や工業団地が集積し、先人の汗が染みこんだ農地の多くが消えた。
 釜地区は、川村孫兵衛が晩年に屋敷を構えた土地でもある。
 子孫で、先代まで名産の梨を栽培していた川村潤一さん(60)は東日本大震災の津波で家族5人を失い、自宅の一部は災害危険区域に入る。
 「先祖が好んだきれいな入り江の釜は、戦後の工業化と震災で大きく変わった。ここに住み続けようという気持ちに、今はなれない」と語る。

<メモ>大街道開拓の功労者で旧士族の細谷十太夫は、石巻を戊辰戦争の戦禍から救った人物として知られる。1868年9月、湊村などに布陣した新撰組など旧幕府軍と矢本村(現在の東松島市)に陣をかまえた官軍がにらみ合い、町場から人が消えた。細谷らの働き掛けで旧幕府軍は撤退。これにより石巻は東北の主要都市の一つとして存続していく。


茨城
企画展:幕末〜明治初期、著名人の書紹介 筑波銀本部で /茨城
 人となりがにじみ出ると言われる筆跡を通し、幕末の志士たちの生涯や時代背景に思いを巡らせてもらおうと、幕末〜明治初期に活躍した著名人の書を紹介する企画展が、つくば市竹園1の筑波銀行本部ビル2階ギャラリーで開かれている。

 企画展「近代日本を築いた幕末の志士、名士たちの息吹展」では、熊本藩細川家に仕えた重臣の子孫で龍ケ崎市の建築会社経営、橋本秀孝さん(60)が所有する作品約70点を展示。

 坂本龍馬が姉の乙女宛てに書いた手紙をはじめ、西郷隆盛や勝海舟、福沢諭吉らの肉筆の掛け軸やびょうぶなどが並んでいる。

 つくば市北中島の主婦、馬場明子さん(67)は「それぞれの字から誰にもまねできない個性が感じられる」と話した。

 7月4日まで。開場は午前9時〜午後5時、入場無料。問い合わせは筑波銀行(029・859・8111)。【松本尚也】


香川
幕末の寄進帳や売掛帳見つかる 小豆島のしょうゆ蔵元 香川
■50冊超の古書や船箪笥も 歴史的流れ知る貴重な資料

 江戸時代後期、弘化元(1844)年創業の香川県土庄町のしょうゆ製造販売会社「ヤマトイチ」を営む大森家から、地元・大部(おおべ)地区の港に波止場を造営した際の寄進帳とみられる台帳や、得意先との取引内容を記した売掛帳(うりかけちょう)など幕末から明治期の古文書が見つかった。50冊を超える古書も確認され、町教委は「古文書は小豆島のしょうゆや村落の歴史的流れを知る上で貴重。地方の商家の蔵書も興味深く、詳しく調べる価値がある」としている。

 同社によると、寄進帳と売掛帳のほか、銃や大砲の扱いを図解付きで解説した江戸期の専門書「砲術訓蒙」や冠婚葬祭のあいさつ言葉などの文例集「商人書輪便覧」、明治期に発行された史書「校正 日本外史」などが、大森家の土蔵から見つかった。船箪笥(ふなだんす)や香時計(こうどけい)、硯(すずり)と筆を組み合わせた携帯用筆記具の矢立(やたて)といった生活用具もあった。

 寄進帳とみられる古文書「波戸奇進長(帖)」は幕末の慶応年間につづられたもので、波止場を造る際の住民からの寄付金や都合した作業員について記録。また、売掛帳は安政から慶応年間のもので、得意先に販売したしょうゆの量や米の値段などが記載されていた。

 同社は江戸期から商品を港から船で岡山県に運んで行商していたといい、見つかった古文書から当時のしょうゆの販路をたどることもできそうだ。大森勝輔社長は「将来的にはもろみ蔵をギャラリーに改装して得意先や郷土史愛好家が閲覧できるようにしたい」と話している。

 同社は昭和51年の台風17号による豪雨で発生した土砂災害でもろみ蔵を含む工場全体が損壊するまでは自社でしょうゆを醸造していた。現在も委託醸造のしょうゆ商品を先祖に習って岡山県南部を主な販路に行商している。


山口
長州の幕末ひもとく展示一新
 山口市春日町の市歴史民俗資料館で、江戸末期から明治初期までの資料を紹介する常設展が2年ぶりにリニューアルされた。

 ここ2年間のテーマだった「維新再発見」から展示名を「幕末を紐解(ひもと)く」に変更。2年間の展示品と収蔵品を全て入れ替え、長州藩ゆかりの人物の直筆文書や恩賜品など29点を紹介している。

 大村益次郎が四境戦争(第2次長州戦争)で西洋の軍隊形式を採用して作った夜襲作戦の図や、薩長同盟締結の前年に第13代藩主毛利敬親の側近河北一が敬親から与えられた薩摩切り子のグラス、伊藤博文が大村益次郎に送った手紙などがある。

【写真説明】大村益次郎直筆の作戦図を紹介する原崎洋祐学芸員


佐賀
幕末のダビンチ・鍋島茂義 軍備、科学探究の足跡、九博で展示会
幕末の佐賀藩で蘭学(らんがく)に取り付かれた「お殿様」がいた。武雄鍋島家第28代領主で、佐賀藩の請役(うけやく)(家老)も務めた鍋島茂義(1800~62)だ。長崎で大量の蘭書や科学機器、武器などを買い付け、領内の軍備を増強して学問や文化も発展させた。科学から芸術に至るまで、多彩な才能を発揮し、イタリア・ルネサンス期に芸術や科学分野で万能な先覚者だったレオナルド・ダビンチをほうふつさせる。その一端が垣間見える展示会が、福岡県太宰府市の九州国立博物館で7月7日まで開催中だ。「幕末のレオナルド・ダビンチ」ともいえるユニークな茂義の人物像を探ってみた。

 茂義は、名君として知られる佐賀藩第10代藩主、鍋島直正(1814~71)の義兄に当たる。直正の藩政改革にも大きな影響を与えた。23歳で請役に抜てきされるほどの俊才で、好奇心や探求心も人一倍強かったという。

 その心に火を付けたのは、長崎・出島への赴任だ。佐賀藩は1642年から幕末まで、外国船が来航する長崎港を福岡藩と1年交代で警備した。いわゆる「長崎警備」である。そこで見たオランダ船の軍備に驚き、最新式の銃を輸入したのを皮切りに武雄領の軍備近代化を進めた。


九州国立博物館に展示されているモルチール砲
 西洋砲術の第一人者だった長崎の高島秋帆(しゅうはん)に家臣を入門させ、自らも教えを請う。高島が造った日本初の青銅製モルチール砲を導入して訓練を行い、製造にも挑戦した。

 茂義が幼少時代の1808年、英国軍艦が長崎港で食料などを強奪した「フェートン号事件」が発生。当時警備を行った佐賀藩は幕府から厳罰処分を受けた。この苦い思い出が茂義にもあったのか、請役になると防衛強化のため蘭学や西洋の科学、文化への関心を深めたともいわれている。

 茂義の興味は、軍事面だけにとどまらない。

 蘭書をはじめ顕微鏡や天球儀、時計、エレキテル(静電気発生装置)などさまざまな物を長崎で購入する。蘭書を基に、科学実験場で洋式の実験用国産ガラス製品なども製作している。医学にも力を入れ、茂義のお抱え医師だった中村凉庵(りょうあん)に命じ、英国人が発見した牛痘種痘(ぎゅうとうしゅとう)法で疱瘡(ほうそう)(天然痘)の予防接種を日本で初めて行ったとされる。

 茂義は「皆春齋(かいしゅんさい)」の雅号で画家としても活躍。江戸やオランダ、中国から絵の具を買って自ら絵筆を取った。中には、1700年代初めに開発されたプルシアンブルーといった合成顔料もあり、今も保存されている。植物図絵も収集した。

 このような茂義の蘭学導入の克明な記録は、貴重な資料にも残されている。「長崎方控(かたひかえ)」と題され、2冊目から5冊目までの4冊が現存する。

 佐賀県武雄市図書館・歴史資料館の川副義敦学芸員は「茂義は知識を詰め込むだけでなく、実験を通して実践的に西洋の科学や文化を身に付けてきた。偉大な蘭学者であり、研究者でもある」と言う。日本の科学の先覚者といっても過言ではない人物でもあった。

 「人間は一生の中に多くの仕事を成し遂げた者が長生きしたのである。たとえ事実において長命なるも、その成し遂げた仕事が少なければ、早死にしたのも同様である」

 生前、茂義が家臣に語ったとされる言葉だ。あらゆる事象に関心を抱いて、実証主義に基づく研究で科学や文化を探求してきた研究者としての茂義を表すエピソードである。その生きざまは「ものづくり日本」の原点とも重なる。

=2013/05/22付 西日本新聞夕刊=




ブックレビュー
大河ドラマで容保ファンになった人には必読の書
王城の護衛者
2013年05月17日 読了
ジャンル :歴史・時代小説キーワード : 松平容保

著者:司馬遼太郎  出版社:講談社 価格:¥ 730
Amazon.co.jp楽天ブックス紀伊國屋書店BookWebTSUTAYA online
 歴史書などで見かける、会津藩第9代藩主松平容保の容姿は、いまだ少年の俤を残した初々しい青年である。
 会津のジャンヌ・ダルクと称され、のちに同志社大学創設者新島襄の妻となった山本八重の生涯をドラマ化したNHK大河ドラマ「八重の桜」でも当然重要な役どころとなっている。
 演じるのは、新鋭の綾野剛。写真で見る容保に、雰囲気はそっくりだ。
 容保役に綾野剛を配役したのはNHKの手柄といっていい。

 この物語は、松平容保の人間像を描いた司馬遼太郎の歴史小説である。
 雑誌「オール讀物」3月号に大矢博子の「この新撰組小説がすごい!」という記事があった。その中で、新撰組全体がわかる背景として推奨されていたのが、この物語だ。
 司馬の作品ではあくまでも容保の生涯を追っているが、大矢いわく、「どのような状況で新撰組が会津藩お預かりとなったのか、それが何を生んだのかがよくわかる」としている。
 但し、これはいささか過剰な評価だろう。
 この物語は純粋に、松平容保がいかに幕末という時代に翻弄されたかを描いたものとみていい。

 「オール讀物」のこの記事では、司馬がこの小説を書いて松平家ののちの当主からお礼の電話をもらったというエピソードが紹介されている。
 賊軍として会津藩の崩壊とともに降伏した容保だが、先の孝明天皇からどれほど慕われていたかが、司馬の感情を抑えた文章でもよくわかる。
 維新後、生き残った容保が孝明天皇からの書面を肌身離さず持っていたというエピソードを最後に持ってきたのは、司馬のロマン嗜好の現れだろう。
 徳川慶喜に対する恨みだけでなく、それほどに自分に信頼を寄せてくれた孝明天皇の期待に応えられなかった自身の不甲斐なさ。けれど、それにあまりある天皇の書面の温かさは、晩年の容保の拠り所だったにちがいない。

 司馬作品としては短編小説に属するこの物語は、容保の初々しさだけでなく、慶喜の性格の厭らしさをよく描いている。
 ちなみに、司馬は代表作の一つである『街道をゆく』の「白川・会津のみち」の中でも「容保記」という章を設けている。


コラム
西郷隆盛はぽっちゃり好き!? 幕末志士たちの性癖、あだ名、趣味…
 歴史上の人物は、教科書で見ると○○年に○○をした人。とか、○○の息子で○○と結婚した。というように、その人が関わったり、活躍した出来事と家族関係ぐらいしか紹介されていない。だから、具体的にどんな人かイメージできず、ただ暗記しなければならないのでなかなか覚えられないし、あまり興味が持てないのだ。しかし、歴史が苦手だったり興味を持てなかった人でも楽しく歴史上の人物について学べちゃう本が登場した。それが、5月11日に発売された『幕末志士の履歴書 時代劇ではわからない意外なプロフィール』(クリエイティブ・スイート/宝島社)。この本では、タイトル通り幕末志士について履歴書形式で紹介されているのだが、教科書には載っていないエピソードが満載なのだ。

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 たとえば、彼らのあだ名。「安政の大獄」を行なった大老の井伊直弼には「チャカポン」というあだ名があった。これは、彼が禅や茶道、和歌や鼓、国学、居合術などを極めていたため、「チャカポン(茶・歌・鼓)」と呼ばれていたのだ。さらに、あの有名な板垣退助は、実は「退助」があだ名。本名は「乾正形」なのだが、戊辰戦争の時に「板垣正形」、明治に入ってからは「板垣退助」に統一したらしい。また、「美顔のうえ、気品あふれる男」と言われた三条実美のあだ名は「白豆」だし、医者として活躍した大村益次郎は「火吹きダルマ」、土佐藩士の武市半平太は「アゴ」、高杉晋作も「あずき餅」や「鼻輪のない暴れ牛」と呼ばれていたそう。身も蓋もないものからどうしてそんなあだ名が付いたのかわからないものまでさまざまだが、こんなふうにあだ名を覚えるとどんな人かわかって少しは覚えやすくなるかも。

 また、彼らの死因もとても興味深い。近藤勇のように斬首されたものや西南戦争で自刃した西郷隆盛は有名だが、病死や老衰以外の死因だった人もたくさんいる。新撰組の隊士で、剣の腕もかなりのものだった永倉新八は「酒に酔うとふんどし一丁になって傷を一つひとつ見せながら自慢する癖」があった。だが、そんな彼の死因が虫歯の悪化で敗血症をこじらせ、病死したからなんて驚き。他にも、風呂上がりにブランデーを一気飲みして脳溢血を起こした勝海舟や、糖尿病にかかっても酒を飲み続け、尿毒症になって死んだ明治天皇など、酒や自分の体調管理ができなくて病死した人も多かったようだ。

 さらに、意外なエピソードを知れるのもこの本の醍醐味。あの坂本龍馬を育てた姉が、坂本乙女なんて名前に似合わず、身長174cm、体重112kgの巨体だったなんて全然知らなかった。おまけに、深夜に銃を発砲してその音を楽しんでいたというから、「坂本のお仁王さま」と呼ばれていたのもうなずける。でも、こんな姉に育てられたからこそ、武芸や勉強ができるだけでなく、行動力溢れる坂本龍馬が生まれたのだろう。そして、犬にトラウマがあった勝海舟。実は9歳のときに睾丸を噛まれ、高熱を出したからなんだとか。これではトラウマになってしまうのも仕方がない。他にも、福沢諭吉が幼少の頃からお酒を飲んでいたとか、西郷隆盛はデブ専で料理屋で一目惚れした仲居には「豚姫」というニックネームをつけた。近藤勇は尊敬する加藤清正を真似して「げんこつを口のなかに出し入れする芸」を持っていたこと。現在放送されている大河ドラマ『八重の桜』の主人公である新島八重(旧姓:山本八重)にも、「14歳のときには4斗俵(およそ60キロ)を肩の高さまで上げ下げした」という怪力エピソードが残っている。

 こんなふうに、あだ名や趣味、トラウマまでわかれば一気に親近感がわいてくる。歴史が苦手なあなたも、これを読めば少しは歴史が楽しくなるかもしれない。

文=小里樹
(ダ・ヴィンチ電子ナビより)

 今日読んだ歴史読本では、永倉新八ッつぁんの死因は虫歯ではなかったと思う……たぶん虫歯から感染した何かの炎症だった。



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