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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
 雨が降って気温が下がっているのですが、先ほどまで風が部屋に入ってこなかったので蒸し暑く感じてました。今やっと風が入ってきて、涼しいです。
 明日は30度ほどまで上がる蒸し暑さとか……調子を崩さないように気をつけないとなりませんね。

神奈川
平塚盲学校が100周年
関東大震災、戦災など苦難乗り越え 歴史刻む

 県立平塚盲学校(村瀬道雄校長)が創立100周年を迎え、今月13日に同校体育館で記念式典が行われた。式典には古尾谷光男神奈川県副知事や大蔵律子市長も出席し、祝辞を述べた。村瀬校長は「100年間、学校を維持してきた方たち、そしてこの地域は偉大。これからも“共に生きる”教育を目指していきたい」と話した。当日には100周年を記念して作られた創立者・秋山博のレリーフの除幕式も行われた。

※ ※ ※ ※ ※

 秋山博は幕末の文久3年、現在の市内岡崎に生まれた。幼い頃に失明するも、不断の努力によって名鍼灸師となる。秋山が視覚障がい者の自立支援として開いていた無料の講習会に賛同した、自由民権家の宮田寅治(3代目校長)らが中心となって、明治43年に中郡金目村に「私立中郡盲人学校」が開校した。その後、昭和8年より中郡聾話学校と共に県に移管され、「県立盲唖学校」と改称。昭和23年からは盲と聾を分離し、現在の校名となる。
 大正12年の関東大震災では校舎が倒壊、戦災時には現在の平塚江南高校の寄宿舎を間借りするなど苦難を経験するも、その歴史を絶やすことなく一世紀の歴史を迎えた同校。昭和23年、ヘレン・ケラーが2度目の来日をした際に同校に立ち寄り、生徒らに激励の言葉を贈った記録も残っている。
 現在、幼稚部・小学部・中学部・高等部本科普通科・保専部に88人の生徒が在籍し学んでいる。


長野
井月の足跡たどろう 「顕彰会」が伊那でセミナー企画
 幕末から明治期にかけて伊那谷を放浪し、数多くの俳句を残した俳人・井上井月(せいげつ)(1822~87年)のセミナーが20日と26日、伊那市の手良地区で開かれる。上伊那地方の俳句愛好家ら約130人でつくる「井上井月顕彰会」が主催。ゆかりの場所を訪ねて足跡をたどり、井月への理解を深めようと初めて取り組む。
 20日は顕彰会副会長の竹入弘元さん(78)が、手良地区と井月のかかわりについて手良公民館で講演。26日は、井月が俳句を地域住民に教えたとされる同地区の清水庵(きよみずあん)を訪れ、額装された直筆俳句を見学。井月がかつて訪れ、いまは句碑が立つ公園にも行く。
 同会は本年度、同じようなセミナーを同市と駒ケ根市の計4地区でも開く予定。竹入さんは「俳句に詠まれた風景などを知り、井月をさらに深く理解してほしい」と呼び掛けている。
 参加無料。問い合わせは同会事務局の戸谷さん(電話0265・98・0117)へ。


岐阜
明治維新の「郡上藩凌霜隊」子孫ら交流へ 140年記念
 戊辰戦争に幕府軍として戦った「郡上藩凌霜(りょうそう)隊」の謹慎が解かれてから140周年の記念事業実行委員会が16日夜、郡上市内の関係団体などによって設立された。同市八幡町の市総合文化センターで会合を開き、7月28日に同センターなどで隊士や藩主青山家の子孫らを招いた講演会や交流会の開催などを決めた。
 明治維新で郡上藩は新政府軍に従ったが、藩の江戸屋敷では朝比奈茂吉を隊長とする凌霜隊士45人が幕府軍として、会津若松城で白虎隊とともに戦って敗れ、郡上で謹慎させられた。1869(明治2)年に謹慎が解かれたが、反政府軍として冷遇され、隊士は郡上を離れた。
 同市では凌霜隊の歴史を見つめ直し、全国にいる隊士の子孫ら関係者との交流ネットワークづくりをと、初めて市を挙げての記念事業を企画した。
 実行委員会は地元の顕彰会や文化協会、観光協会、市などで設立。委員長に顕彰会副会長の山田忠平市議を選出した。記念事業では7月22日に、同市白鳥町の郷土史家白石博男さんによる講演会を開催。同28日には慰霊祭、凌霜隊の会津遠征時ゆかりの栃木県塩原温泉和泉屋旅館の経営者である田代芳寛さんによる講演、子孫ら関係者によるフォーラム、交流会などを行う。夜の郡上おどりには隊士、青山家の子孫らも参加する予定。


富山
瑞泉寺の所蔵名画展 19日から南砺・福光美術館
 「井波別院瑞泉寺収蔵品受け継がれた京都画壇の美展」(富山・北國新聞社共催)は19日から、南砺市福光美術館で開かれる。会場では17日、京都で活躍した四条派や岸派の画家たちの作品など39点の展示準備が進められ、開幕を待つばかりとなった。
 瑞泉寺には、幕末から明治の京都画壇を支え育てた東本願寺第21世厳如(ごんにょ)上人の三女住子(たつこ)が瑞泉寺18代勝智にこし入れした関係で、四条派や岸派などの作品がまとまった形で伝わっている。
 厳如上人、住子のつながりから瑞泉寺に受け継がれたとされる岸駒、岡本豊彦、幸野楳嶺らの作品を中心に、住子の遺作や画稿も合わせて展示する。渡邊一美学芸員は「瑞泉寺の寺格にふさわしい名画の数々とともに、当時の美術文化の一端にもふれてほしい」と話している。
 観覧料は一般500円、高大生300円、中学生以下無料。開会式後の19日午前10時半からは瑞泉寺アーキビスト(調査員)の髙橋延定氏が「相続された法と宝 瑞泉寺の歴史と文化財」と題して講演する。会期は7月29日まで。


愛知
清水義範のナゴヤ“でらおもしろい”歴史館:高須家
<開府400年>

◇凡庸な兄助け、四代目の甥を導いた義行
 尾張の二代藩主光友公がどんな人であったのかは、この歴史館ですでに語った。なかなかの硬骨漢で、五代将軍と少しギクシャクしたと。
 ところが、あれからまた調べていて面白いことがわかったので、その話をちょっとしてみる。統一性のない話しぶりで申しわけないが、雑談風な気楽な歴史話ということでお許しください。

◇過ちで家断絶免れた
 尾張初代藩主義直の妻は浅野幸長の娘であったが、二人の間には子ができなかった。そして義直はその時代の人には珍しく一夫多妻制を認めたがらない人で、重臣がしきりに側室を置くようにすすめても頑として受けつけない。
 男児がなければその家は断絶する、という時代である。重臣が執拗(しつよう)に説得し、ようやく側室を一人置いてみたところ、生まれたのは女の子だった。尾張藩の大ピンチというところである。
 ところが、なんとまあ義直は、本人に言わせれば「過失」、を演じてしまうのだ。お湯殿の女中につい出来心で手をつけ、みごもらせてしまうのである。
 本人は不行跡を恥じてこのことを秘密にしようとしたが、家臣にしてみればこんなめでたいことはない。主君赤面、家臣大喜び、というわけである。この女中が産んだのが二代光友なのであった。
 もしかすると、光友は自分の出生について、複雑な気持ちを持っていたのかもしれない。少し過剰なほどの信仰心を持ち、寺社を造りすぎて経済を破綻(はたん)させてしまうのも、そんなところにつながることなのかもしれない。
 さて、光友の子が綱誠(つななり)だ。一六九三年、光友は隠居し、綱誠が三代藩主となる。
 綱誠は教養もあって将軍綱吉に可愛がられた。だが、それ以外には、多くの妻妾(さいしょう)に三十九人もの子供を産ませたことぐらいしかエピソードがない。実直な人で、先代の時代からの方針を引き継いだだけの凡庸な人柄だったのかもしれない。そして治世わずか七年で、父の光友より先に死んだ。
 その跡を継ぐのが綱誠の子の吉通(よしみち)なのだが、今回は吉通の話をする前に綱誠の弟の話をしよう。

◇三代綱誠と弟たち
 光友の子として、跡継ぎの綱誠の下に、義行(よしゆき)、義昌(よしまさ)、友著(ともあき)という三人の弟がいた。
 そして尾張藩では、ちょうど二代将軍秀忠の弟三人が御三家を作ったように、義行、義昌、友著の三人に支藩を支配させるのだ。尾張本家に血筋が絶えた時にはそこから養子をもらったりするという、家系を守るための支藩だ。
 義行が美濃国高須(たかす)藩(現・岐阜県海津市付近、屋敷のあった場所から四谷家ともいわれる)、義昌が陸奥梁川(やながわ)藩(大久保家)、友著が川田久保家。
 その三人の中で、高須三万石の領主である松平義行に注目してみたい。
 義行は綱誠と同じ三代将軍家光の息女千代姫を母に持った。一六五六年の生まれだから、四代将軍家綱の時代から、五代綱吉の時代にかけて育った。世は天下泰平で時代の気風は軟弱に流れたが、義行は常に自分を律し、尾張藩の存続を己の責務と考えつづけた。

◇三万石の小藩だけど
 とにかく、人間の器が大きく、知恵があり度胸があり、野心や私欲をまったく持たない人だったらしい。この人が光友の長男で尾張藩を継いでくれたらどれだけよかったか、と多くの人が言ったそうだが、義行には兄綱誠にとって代わろうというような野心は微塵(みじん)もなかったという。兄を助け、その職務を大いに手伝った。
 一般には、綱誠がおこなったとされている藩祖義直の事績編纂(へんさん)事業も、実は義行がほとんどやったことだそうだ。そんなわけで、兄の綱誠も義行を頼りにし、全幅の信頼を寄せていた。
 いや、兄を助けるどころか、義行は父光友に苦言を呈することさえおそれなかった。光友の晩年に、神軍術なるイカサマ軍学をふきこみ、大いに取り入って政治をほしいままにしようとしたニセ学者が権力を持とうとしたことがあった。その時これを阻止し、そのイカサマぶりを論破して尾張藩の危機を救ったのが義行であった。
 この義行がいなかったら、凡庸な綱誠では尾張藩に内紛が生じたかもしれない、といわれている。綱誠が死の床に義行を招いて、吉通の後見を頼んだのは当然のことだろう。義行は甥(おい)の吉通を懸命に教え導いた。
 以前、尾張藩には勤王の思想があったことを述べたが、吉通が幼年のおり、たびたび義行が来て、人払いをしてお家の教えを伝えたと記録されている。そういう思想も義行は伝えたのであろう。
 というわけで、高須藩主であり、四谷家と呼ばれた松平義行は重要な人物なのだが、それとは別にこの高須藩という藩を記憶にとどめておいてもらいたい。たった三万石の小藩ではあるが、この藩は江戸時代の歴史にしばしば顔を出すのだ。
 特に幕末になって、この藩からは三人の重要人物が出て、他藩へ養子に入って歴史に名を残すことになる。
 それはまた後日詳しく語りますので、高須藩の名を覚えておいてください。


京都
大谷祖廟総門「幕末に新築」
御遠忌法要の年

 真宗大谷派(本山・東本願寺)は15日、宗祖・親鸞の墓所がある大谷祖廟(そびょう)(東山区)の総門の屋根裏から、幕末の1862(文久2)年に新築されたことを示す棟札が見つかったと発表した。親鸞の600回御遠忌(ごえんき)の法要が大谷祖廟で営まれた年にあたり、記念事業として新築された可能性が高いという。
 総門は檜皮葺(ひわだぶき)の四脚門で、高さ約8・7メートル、幅約5・2メートル、奥行き約4・3メートル。記録により、これまで総門は東本願寺の境内から1857(安政4)年以降に移築されたと考えられていた。
 総門は、来年の750回御遠忌を前に今年3月から修復中。同派は「御遠忌を前にこのようなことが明らかになり、何かの縁を感じる」としている。


京都「龍馬通り」店舗で火災…元海援隊本部近く
 17日午前7時45分頃、京都市中京区河原町通三条下る大黒町、たばこ店経営山本いつみさん(87)方から出火。
 木造2階建て店舗兼住宅130平方メートルのうち約90平方メートルを焼いた。五条署によると、山本さんは独り暮らし。1階にいたが、逃げ出して無事。
 現場は繁華街の「龍馬通り」と呼ばれる一角。約60メートル東には、幕末に坂本龍馬が身を寄せ、海援隊京都本部を置いたとされる材木商「酢屋」がある。


大阪
龍馬の手紙 複製品見つかる
 幕末の志士、坂本龍馬が、大政奉還を実現させるよう土佐藩の重臣を激励した直筆の手紙の精巧な複製品が大阪市内で見つかりました。専門家は「原本が行方不明のなか、たいへん貴重な発見だ」と話しています。
 見つかったのは、今から140年余り前の慶応3年10月、江戸幕府が朝廷に政権を返上した大政奉還の2日前、幕府が京都で諸藩の重臣を集めて意見を聞いた日に坂本龍馬が土佐藩の参政、後藤象二郎にあてた手紙の複製品です。高知県出身で大阪市に住んでいた男性が、40年近く前に手に入れ、保管していたということです。
 手紙をめぐっては最近、龍馬直筆の草案が見つかっており、親族がNHKのニュースを見て、高知県立坂本龍馬記念館に連絡を寄せたということです。手紙そのものは、数十年前から行方がわからなくなっていて、古い写真しか残っていませんが、坂本龍馬記念館によりますと、今回見つかったものは、筆跡や文字の間隔などが同一であることから、原本を印刷した複製品だとみられるということです。
 坂本龍馬記念館の主任学芸員の三浦夏樹さんは「龍馬の筆の勢いなどがわかるたいへん貴重な史料です。今後も連鎖的に新たな史料が見つかることを期待しています」と話しています。


兵庫
巨大壁画:龍馬、山崎高1年生が合同制作 宍粟市役所、21日まで展示 /兵庫
 宍粟市山崎町加生の県立山崎高の1年生265人が、幕末の志士、坂本龍馬を描いたモザイク壁画を制作した。縦5メートル、横7・5メートルのジャンボサイズ。宍粟市役所1階市民ロビーで21日昼まで展示している。
 土佐の桂浜で、刀差し姿の龍馬が海のかなたに思いをはせている図柄。中央には「翔(と)ぶが如(ごと)く 龍馬と行く」と生徒の決意を記した。1年生全員の合同制作で、11日の同高文化発表会で披露した。
 1・5センチ四方の色紙をパズルのように張りつけて制作した。使った色紙は16万3000枚、完成には2週間を要した。全体のとりまとめ役となった中藤剛成教諭によると、7クラスごとに制作したパーツを合体させたため、ずれの補正で苦労したという。
 開庁時間は平日の午前8時半~午後6時15分。【渕脇直樹】


高知
大政奉還前、龍馬の直筆 後藤象二郎励ます書き損じ発見
 幕末の志士・坂本龍馬が、土佐藩重臣の後藤象二郎にあてて書いた手紙の書き損じが、高知県いの町の民家で見つかり、県立坂本龍馬記念館(高知市)が龍馬直筆と確認した。手紙は、15代将軍徳川慶喜に大政奉還を求めるため、京都・二条城に向かう後藤を激励する内容。手紙全文を撮影した写真が残っていて内容も知られているが、実物は行方不明になっている。
 同館の森健志郎館長(68)は「手紙と書き損じを比べることで、龍馬が重要な日を前に緊張し、あわてて書いたことが分かる。龍馬の人間的な側面がうかがえる貴重な資料だ」と話している。
 同館によると、手紙は大政奉還前日の慶応3(1867)年10月13日付。「海援隊一手を以て大樹参内の道路ニ待受ケ」と書かれ、大政奉還に失敗した場合、自らも海援隊を率いて援軍すると激励。さらに「先生一身失策の為ニ天下の大機会を失せハ其罪天地ニ容るべからず」と記し、失敗すれば先生(後藤)の罪は許されず、自分も薩長から責められる、としている。
 手紙は縦24センチ、横47センチで19行。書き損じは縦19.6センチ、横72.4センチで28行だが、内容はほぼ同じという。書き損じは7行目と22行目の「先生」が「生生」と誤記され、22行目は隣の余白に正しい「先」の字が書き足されている。22行目から急に乱雑になり、最後の署名は、手紙の「龍馬」に対し、書き損じは本名の「直柔(なおなり)」。
 所有者の南道(おさむ)さん(86)の話では、旧中山村(現・同県安田町)の村長だった祖父が譲り受けたという。書き損じは7月17日から始まる同館の企画展で公開される。



コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】(66)東大教授・山内昌之 村田新八
手風琴とシルクハット

 週末に鹿児島に出かけてきた。テレビ局の企画で、中学生との対話と授業を組み合わせた集いの教師を務めたのである。地元でも定評のある公立の中高一貫校の中学2年生は、聡明(そうめい)であるばかりでなく、明朗闊達(かったつ)な南国の若者たちであった。
 西郷隆盛と大久保利通を素材に日本の近代や政治家のリーダーシップを語り合った2日間は、私にとっても充実した時間であった。とにかく、全員が西郷の敬天愛人の意味を正しく理解し、何かの行事に参加した褒美として、現代語訳のついた『西郷南洲遺訓』を見せてくれた生徒もいるくらいだ。やはり歴史を動かした土地にふさわしいといえよう。
 2人の育った加治屋町にある市立維新ふるさと館を皆で一緒に訪ねた時も愉快であった。西郷や大久保らのロボットが登場し、わかりやすい工夫をこらした劇を通して、維新史や近代史を楽しく勉強したのも懐かしく思いだされてならない。西郷と大久保との対話に加え、薩摩第3のロボットがいきなり登場したのにも驚いた。
 しかし、考えてみれば人選は見事なくらい当然なのであった。それは村田新八だったからである。

 授業では「情の人」西郷、「理の人」大久保という組み合わせで、生徒と一緒に歴史を考えてみた。村田はさしずめこの2類型の中間に位置する人物なのかもしれない。幼少時から死ぬまで西郷を慕い続けながら、岩倉使節団に加わって欧米事情にも通じた村田は、幕末から西郷の懐刀として奔走した志士である。また、大久保がその人物見識を高く評価し、ゆくゆくは政府の中核に据えようとしたほどの人物であった。

 ◆戦火の中でも演奏忘れず

 美術や音楽を愛した村田は、滞在先のパリでオペラ座にしきりに通い、アメリカでは手風琴(てふうきん)(アコーディオン)に熟達したほどである。西南戦争でも時間があると演奏し、自決を覚悟した時にようやく楽器を壊したという逸話が残っている。
 西南戦争では薩軍二番大隊長になった村田は、シルクハットとフロックコートという妙な身なりで戦闘を指揮したのだから、手風琴との組み合わせといい、相当に異彩を放ったことだろう。
 桐野利秋(中村半次郎)が香水や金時計を愛したハイカラぶりなどを思い起こすと、薩人にはイメージと裏腹に相当に洒落(しゃれ)た面があったのかもしれない。
 それにしても、大久保にとって村田を失ったのは、切歯扼腕(やくわん)するほどの口惜しさだったに違いない。

 かつて西郷に「智仁勇の三徳を兼備したる士」として皆の模範とすべしと言わしめた村田なら、外交でも内務でもこなせただけでなく、陸海軍に進んでも将帥の器になっていたはずだ。西洋風の彼のことだから、逓信や文部の世界で先端技術を生かしたかもしれない。秘めた新知識の数々を十分にいかす暇もなく、西南戦争に散った村田の犠牲こそ、まさに国家的損失というべきなのだろう。

◆大久保に惜しまれた死

 幕末から西南戦争まで村田を頼りにした西郷と同じく、大久保ほど新国家の設計に村田を必要とした人物もいなかった。まさに勝海舟は、「大久保利通に亜(つ)ぐの傑物」と呼び、「非命に斃(たお)れた」残念をしきりに回顧しているほどだ。
 熊本民謡『田原(たばる)坂』に出てくる「馬上ゆたかな美少年」とは、村田新八と一緒に死んだ2人の息子のうち長男の岩熊がモデルという説も強い。旧薩摩の地を踏んで、目鼻立ちがはっきりし溌剌(はつらつ)とした生徒たちの笑顔を見ていると、西郷や大久保の若き面影や村田の幼い時分の顔立ちはこうではなかったかとつい想像してしまう。
 岩熊は数えの19歳だったともいうから、私が接した生徒たちのすぐ上の兄貴分ともいうべきであろう。歴史を学ぶつらさを実感する時でもある。(やまうち まさゆき)
                   ◇

 本連載をまとめた「幕末維新に学ぶ現在」(中央公論新社)が発売中。
                   ◇

【プロフィル】村田新八
 むらた・しんぱち 天保7(1836)年、薩摩生まれ。幼少より西郷隆盛に兄事し、西郷を助けて国事に奔走する。戊辰戦争では薩摩藩軍の軍監として東北地方を転戦。明治4年、宮内大丞(だいじょう)となり、岩倉遣外使節団に加わって欧米各国を巡回。征韓論政変後に帰国、鹿児島に帰り、桐野利秋らと私学校を作って砲隊学校を監督。西南戦争では薩軍二番大隊長として各地で奮戦し、明治10(1877)年、城山で戦死した。享年42。





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