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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
 忙しくなり、幕末ニュースを更新するのが遅れてますが……楽しみにしてらっしゃる方々もいらっしゃるようなので、週一回ペース程度でも続けていきたいと思っております。
 史実に関連するニュースを中心にし、ゲームや芸能関係は自分の関心次第……という感じで選んで掲載してますので、その点ご了解ください。

北海道
箱館奉行所:幕末へタイムスリップ--29日にオープン /北海道
 函館市の国の特別史跡・五稜郭跡内に設置された「箱館奉行所」が29日にオープンする。1868(明治元)年に始まった戊辰戦争の際、土方歳三らが率いる旧幕府軍の拠点になった施設で、140年前の姿を精密に再現した。市は「幕末の動乱で散った建物にタイムスリップしてみては」とPRしている。
 奉行所を巡ってはさまざまな逸話が残る。奉行所には時報を告げる「太鼓櫓(やぐら)」が地上約17メートルの高さに設置されていたが、土方の死の翌日となる1869(明治2)年5月12日、新政府軍が函館湾に停泊中、銅板ぶきだった櫓に光が反射。これを元に新政府軍が正確に測量し、大砲で襲撃し、奉行所に命中したと言われる。奉行所は設置からわずか7年で明治政府によって解体された。
 今回復元された建物の広さは約1000平方メートル、総工費約27億円。細部までこだわって工期に4年を要した。館内は「歴史発見ゾーン」など五つのコーナーに分けられ、奉行所の歴史を詳しく知ることができる。
 29日は午前10時からオープンセレモニーが行われ、土方や榎本武揚の子孫も参加する。入館料は大人500円、学生250円。開館時間は午前9時~午後6時(11~3月は午後5時まで)。問い合わせは同課(0138・21・3456)へ。【佐藤心哉】


「箱館奉行所」29日から公開
 国の特別史跡「五稜郭跡」内に函館市が2006年から復元工事を進めてきた「箱館奉行所」が29日、オープンする。当時の古写真や絵図面を基に忠実に再現され、姿や形だけでなく往時の威厳も備える。同奉行所を守るために築かれた五稜郭が140年ぶりに“主”を迎え、本来の姿で函館の歴史・文化の新たな発信基地となる。

 復元工事は4年の工期を経て、6月30日に完了。総工費は約28億円。幕末当時、約2700平方メートルあった同奉行所の3分の1に当たる約1000平方メートルを復元。残りの部分は、建物が存在した部分の地面に線を引き、当時の規模を表した。

 建物は発掘調査結果などを基に、スギやヒバ、ヒノキなど使用した材質をはじめ、部屋の間取り、約3万8000枚の瓦の枚数まで検証。細部まで忠実に復元することにこだわり抜いた、道内最大級の木造建築物だ。

 内部の見学コースは、それぞれ見どころの違う5ゾーンに分類されている。風格のある玄関周辺の「ガイダンス」では建物案内映像を流す。続く「再現ゾーン」では、外国領事との会談や年中行事など限られた時に使用された72畳の大広間がある。

 中庭を挟んだ「歴史発見ゾーン」は同奉行所と五稜郭の歴史をパネルなどで紹介するほか、天井板を外して伝統的な小屋組みを見せる。「映像シアター」では歴史や復元工事の様子をハイビジョン映像で紹介し、「建築復元ゾーン」は発掘や古文書の調査結果、日本の伝統的建築様式で建設した同奉行所の構造など説明する。

 函館市教育委員会の多賀谷智教育長は「奉行所の建設は函館市民の悲願。建設に向け尽力したすべての人に感謝の気持ちでいっぱい」と振り返り、「次代を担う子どもたちが歴史や文化を学ぶ場になってほしいし、地域の活性化に結びついてくれれば」と期待を寄せている。


栃木
凌霜隊:赦免から140年 史実、語り継ぐ 岐阜・郡上市で記念フォーラム /栃木
◇那須塩原の和泉屋旅館経営・田代芳寛さん(62)、講師に招かれ講演へ
 岐阜県郡上市で28日、幕末に結成された「凌霜隊(りょうそうたい)」の史実を見つめ直そうと開かれる「郡上藩凌霜隊140年記念事業」のフォーラムで、那須塩原市塩原の和泉屋旅館経営、田代芳寛さん(62)が講師として招かれ、塩原で語り継がれる凌霜隊について講演する。【柴田光二】

 史料によると、「凌霜隊」は、幕末の戊辰戦争(1868~1869)で、会津藩救援の幕府軍として結成された。隊士45人。会津若松城に向かう途中、塩原温泉旅館の和泉屋と隣の丸屋旅館を宿に3カ月にわたって駐屯した。

 隊員たちは、白虎隊とともに戦ったが敗れ、生き残った隊士35人は国元に護送された。ところが、藩は新政府の処罰を恐れ、隊士たちを脱藩の罪で投獄。1年半後の明治3(1870)年に赦免された。隊士たちは反政府軍扱いされ、郡上から姿を消したとされる。

 記念事業は、赦免から140年を機に凌霜隊の史実を見つめ直し、関係者のネットワークを広げることを目的に計画された。講師に要請された背景には、田代さんの父で、詩人の泉漾太郎(ようたろう)氏(1908~1996)の存在もあった。

 74年8月、テレビの特集番組で、郡上おどり(国重要無形民俗文化財)、日光和楽おどりが紹介された際、漾太郎氏が解説者として登場したのがきっかけで郡上に招かれた。そこで、凌霜隊と和泉屋とのつながりが判明した。

 田代さんの演題は、「伝え聞く郡上藩凌霜隊」。凌霜隊は、塩原を去る際、塩原を焼き払う命を受けたが、後で組み立てられるように解体したり、寺は畳を燃やして煙を上げ、焼き払ったように取り繕ったとされる。こうした隊士の心温まる対応や地元民との人的交流などを紹介する。田代さんは、講演をきっかけに郡上市と交流を深めようと、塩原温泉観光協会長の親書を持参するという。


埼玉
山岡鉄舟:足跡を紹介、特別見学会 27・30日、小川の割烹旅館で /埼玉
◇八代目主人に贈った書「二葉楼」など紹介
 1748年創業の割烹(かっぽう)旅館「二葉」(小川町大塚)で、江戸城の無血開城に尽力した幕臣山岡鉄舟(1836~1888)の足跡を紹介する特別見学会が開かれる。鉄舟は実家の知行地だった小川町をしばしば訪れ、二葉にも足を運んだ。

 見学会は27日と30日午前11時から。鉄舟が二葉の八代目主人、忠七に贈った書「二葉楼」などを紹介し、十四代目にあたる八木忠太郎社長が鉄舟の生涯を解説する。鉄舟の助言を受けて忠七が考案し、鉄舟が命名した名物「忠七めし」も提供する。

 鉄舟は1868年、駿府(静岡)で新政府軍の参謀、西郷隆盛と面会。十五代将軍徳川慶喜の助命を取り付け、江戸で西郷が勝海舟と会談し無血開城に合意する素地を作った。維新後は西郷の推薦で明治天皇の侍従を務め、現代では書の名人としても注目される。

 坂本龍馬と幕末に関心が高まる中、八木社長は「鉄舟は後世に名を残すことに無頓着だったが、功績をしっかり伝えていきたい」と語る。

 昼食、資料付きで1人5000円。問い合わせは、二葉(電話0493・72・0038)。【大谷津統一】


東京
「深川江戸資料館」をリニューアル
 東京都江東区は、昨年から改修工事を進めていた「深川江戸資料館」を7月24日にリニューアルオープンする。これを記念して、同日から8月15日まで特別展「江東幕末発見伝!」を開催する。幕末維新期、江東区域では越中島に幕府の軍事調練場が置かれ、岩崎弥太郎や渋沢栄一といった著名人が活躍の場とした。特別展では、幕府の江戸沿岸防備の様子や、幕末から明治初期にかけて江東区で活躍した人物100人などを紹介する。
 資料館は、江戸時代の深川佐賀町の町並みを実物大で再現した展示室のほか、小劇場、レクホールを備えた文化施設として1986年11月に開館。展示室では、当時の長屋、舟宿、火の見櫓等を見ることができ、見学者は実際に建物内部に入り込んで、当時の生活で使用されていた様々な道具類に触れることができる。開館以来310万人が訪れた資料館が、1年ぶりに地域の歴史施設、深川の観光資源として復活する。
 「江東幕末発見伝!」の他にも、8月6日に元国立歴史民俗博物館館長の宮地正人氏による文化財企画講演会「幕末明治期深川の社会と自然」が開催されるなど、講演会やイベントを多数用意している。
 資料館の開館時間は9時30分から17時で、入場料は大人(高校生以上)300円、こども(小中学生)50円。問い合わせは深川江戸資料館(電話03-3630-8625)まで。

 久々に行きたいなぁ……ついでに高橋「伊せ喜」で夏のどぜうか、森下で蕎麦を食べたい(笑)。

深川江戸資料館 24日再オープン
大規模改修工事終え
深川江戸資料館内に再現されている江戸時代の町並み(同館提供)
 江戸時代の長屋や船宿などを再現したセットが人気を集めてきた江東区の「区深川江戸資料館」(白河1)が24日、1年間の改修工事を終えて再オープンする。

 同館のメーンは、1127平方メートルのフロアに、江戸時代の町並みを切り取って再現した大型セット。1840年代(天保年間)の「深川」の想定で、職人や船頭、三味線の師匠が暮らす長屋、船宿、八百屋、火の見櫓(やぐら)などが並んでいる。

 館内は約20分間で1日が経過する設定で、ニワトリの鳴き声とともに朝が始まり、夕刻になるにつれ、照明が落ち、あかね色の夕日なども演出される。

 江戸情緒を満喫しながら散策できる同館は、年間約10万人が訪れる人気施設だったが、1986年の開館から20年以上が経過して老朽化したため、昨年7月から大規模な改修工事が行われていた。

 同館では、再オープンを記念して、幕末・明治維新の頃の江東区の様子を浮世絵や資料などで振り返る特別展「江東幕末発見伝!」も開催される。同館は「増えている外国人観光客など新規の来場者を増やす工夫をして行きたい」としている。問い合わせは、同館(電)3630・8625へ。


江戸のオバケ絵鑑賞して怪談も… 足立区立郷土博物館
 夏といえばオバケの季節。ちょっと怖い思いをして涼もう!
 東京都足立区大谷田の区立郷土博物館は24日午後5時半から、「江戸のオバケを楽しもう」とのイベントを開催する。
 博物館が所蔵する浮世絵コレクションの中から、「幕末の奇想の絵師」といわれた歌川国芳が生霊や妖怪、化け物を描いた作品3点を展示。うち『竹沢藤次 独楽(こま)の化物』は、平成17年にパリで開かれたオバケの浮世絵展に出品された。
 イベントでは、これらの作品を鑑賞した後、学芸員から「怪談ばなし」を聞くことができる。対象は小学生以上で保護者同伴。定員40組。無料。申し込みは(電)03・3620・9393。


山梨
竜馬ゆかりの礎石“婚約者”佐那の元へ
甲府・清運寺でお披露目

坂本竜馬の婚約者といわれる千葉佐那の墓がある甲府市・清運寺(田中宏昌住職)は
 17日、清正公(せいしょこ)祭りを開いた。竜馬の像が立つ立会川(東京都品川区)で見つかった、竜馬にゆかりがある砲台の礎石をお披露目した。
 立会川は幕末に旧土佐藩下屋敷があった地域。1853年のペリー来航に伴って、土佐藩は防衛のため、砲台を築き、当時19歳の竜馬は砲台で湾岸警護に当たった。2004年2月、屋敷跡地から砲台の礎石が出土した。
 同寺の田中祐光副住職らが今年5月、竜馬の像を訪れた際、地元自治会から砲台の礎石(約16キロ)の寄贈を受けた。
 本堂に礎石をはじめ、佐那の生い立ちなどを解説したパネルを展示。佐那が竜馬と結納を交わしていたことを明かした山梨日日新聞の記事(1893年8月22日付)も紹介している。パネル展は8月いっぱいまで続ける予定。
 同寺は戦国武将・加藤清正を祭る。法要も営まれ、訪れた檀家(だんか)や地域住民の健康と所願成就を祈願した。


愛知
名古屋城のふすま絵と確認=二の丸御殿解体時に難逃れる-尾張徳川家ゆかりの寺所蔵
 明治時代に陸軍施設建設のため解体された名古屋城二の丸御殿にあったふすま絵が、難を逃れ名古屋市の八事山興正寺に所蔵されていたことが24日までに、徳川美術館(同市)の調査で分かった。同御殿は歴代の尾張藩主が執務や日常生活で使っていた場所で、本丸御殿と比べ記録が少なく、「幻の御殿」とも言われている。
 興正寺の伝承では、幕末に御殿が解体される際、所蔵品の散逸を憂えた尾張藩士が私費で購入。藩士の子孫から同寺が譲り受けたという。
 ふすま絵は中国の人物などを描いた「唐人物図屏風」と梨の木に鳥がとまっている様子が描かれた「梨木禽鳥図屏風」の2点。作者は分かっていないが、いずれも狩野派の17世紀の作品とされ、今年4月には市の有形文化財に指定された。
 徳川美術館は今月31日から「大名古屋城展」を開催する予定で、尾張徳川家ゆかりの興正寺の所蔵品などを調査していた。絵の特徴が名古屋城について記した古文書「金城温古録」の記録と一致することなどから、二の丸御殿のものと確認された。藩主が家臣と接見する「御対面所」にあったとみられる。二の丸御殿のものと伝えられるふすま絵は多数あるが、文献などで確認できたのは初めてという。(2010/07/24-15:21)


京都
幕末 すごおす…芸舞妓ら伏見の名所巡り
 五花街の芸舞妓らを対象とした「京都歴史文化研修バスツアー」が21日、京都市内で行われ、幕末の歴史を彩った伏見の名所を巡った。

 京都伝統伎芸振興財団(東山区)が主催。京都観光の顔として活躍している芸舞妓に、地方の出身者が増えており、京都の歴史や文化について知識を深めてもらおうと2007年から毎年、実施している。

 この日は、芸舞妓や、舞妓の見習いの仕込み、お茶屋の女将【おかみ】ら約70人が、浴衣や私服姿で参加。バス2台に分乗し、月桂冠大倉記念館や、坂本龍馬が襲撃されたことなどで知られる旅館「寺田屋」を訪ね、熱心に見学した。

 祇園東の舞妓、叶果【かのか】さん(18)は「大河ドラマの影響で、幕末の京都についてお座敷で話題になることも多いので、学んだことを役立てられたらうれしおす」と話していた。


容保桜「ふるさと」植樹へ 会津若松市長、京都府庁訪問
 京都市上京区の京都府庁で見つかったヤマザクラの変種が幕末の会津藩主にちなんで「容保(かたもり)桜」と名付けられたことを受け、福島県会津若松市の菅家一郎市長が23日、府庁を訪問して容保桜と対面した。名付け親で桜守の佐野藤右衛門さんとも会い、容保桜の苗木を同市に植樹するよう協力を求めた。
 容保桜は佐野さんが見つけ、会津藩主で京都守護職だった松平容保が府庁の建つ場所に上屋敷を構えた史実にちなんで命名。府が今年3月に案内板を立てた。ヤマザクラでありながら花が大ぶりで、表皮はオオシマザクラの特徴があるという。
 菅家市長は、応対した太田昇副知事に「容保公は激動の時代を生きた殿様。市民も容保桜の命名を喜んでいる」と感謝した。佐野さんが容保桜の種子から苗木を育てていることを聞くと、「ぜひ来春にでも地元の鶴ケ城(会津若松城)に植えたい」と依頼し、佐野さんから快諾を得た。


奈良
郡山藩の歴史展:「江戸中期~幕末資料40点--大和郡山・柳沢文庫 /奈良
 江戸中期から幕末までの資料を紹介する夏季常設展「郡山藩の歴史」が大和郡山市城内町の柳沢文庫で開かれている。9月19日まで。

 15万石の郡山藩は、近畿地方で井伊家の彦根藩30万石に次ぐ規模の有力藩。同展では、柳沢氏が藩主となった1724(享保9)年から幕末までの資料を中心に、約40点を展示している。

 柳沢・郡山藩二代藩主の伊信(これのぶ)が1765年に描いた鮮やかな花鳥図、最後の藩主の保申が郡山城の修復を願い出るために作った絵図(1865年)、明治維新の廃藩置県後に藩知事になった保申の書状などが目を引く。

 月曜と祝日、8月13~18日は休館。一般200円。問い合わせは柳沢文庫(0743・58・2171)。【熊谷仁志】


徳島
企画展:徳島藩医・関寛斎を紹介 直筆短冊など60点展示--県立文学書道館 /徳島
◇北海道の開拓
 徳島藩の藩医を務め、司馬遼太郎の小説「胡蝶(こちょう)の夢」などに描かれた医師、関寛斎(1830~1912)を紹介する企画展が、徳島市中前川町2の県立文学書道館で開かれている。生涯を追う年譜や使っていたかばん、直筆の短冊など約60点が並ぶ。10月7日まで。

 関寛斎は千葉に生まれ、長崎で蘭学、最先端の西洋医学を学んだ。その後、徳島藩医となり、約40年務めて北海道に開拓民として移住。戊辰戦争では日本最初の野戦病院の病院長にもなり、身分や貧富の区別なく患者を治療し「町医者」を貫いた。

 企画展では、こうした関の生涯や人となりを振り返る。

 同館は「関は三つの故郷があると言われるが、千葉、北海道では知らない人がいないほど有名。徳島でももっと多くの人に知ってもらえたら」と話している。【大原一城】


広島
秀策母子のレリーフ寄贈
 尾道市文化協会の因島地区因島文化協会(岡野巧三会長)は創設40周年の記念事業として24日、因島外浦町にある本因坊秀策囲碁記念館に秀策母子をかたどったレリーフ「母之教(ははのおしえ)」を寄贈した。

 レリーフは縦90センチ、横120センチのブロンズ製。因島外浦町出身で幕末の御城碁で無敗の19連勝をした秀策が、5歳のころ母カメから碁を教わっている姿が再現されている。背景に外浦町から見える向島。海には秀策が帰郷した際に乗ったとされる船が浮かんでいる。

 制作は比治山大短期大学部名誉教授で2年前に広島市から因島田熊町にUターンした吉田正浪さん(73)。

 レリーフは囲碁記念館の秀策の復元生家の土間の壁に掲げられ、関係者によって除幕された。岡野会長は「子の天分を引き出す母の態度と心情が伝われば」と話している。


誠之館開設功労者の遺品寄託
 幕末に福山藩の攘夷(じょうい)派を主導し、藩校誠之館の開設に尽力した安藤織馬(1805~85年)の遺品約千点が福山市に住む安藤家の子孫から広島県立歴史博物館(同市西町)に寄託された。重臣として藩主5人に仕え、長州藩の福山攻めを交渉で退けた人物。同館は「動乱期の福山をうかがい知る貴重な資料」とし、一部の公開を始めた。

 同館によると、安藤織馬は1853年、黒船来航に危機感を覚えた7代藩主阿部正弘の命で会津藩に派遣。当時主流だった兵法「長沼流軍学」を学び、福山藩に持ち帰った。

 正弘が藩校誠之館を開設した54年には文武総纏(現在の教育長)に就任。64年の「蛤御門の変」では攘夷派の長州藩と共に行動した。その縁で、長州兵が福山藩に攻め入った68年には藩を代表して交渉に臨み、戦火の回避に貢献したという。

 開催中の企画展「福山藩阿部家家老格・安藤家の資料」(29日まで)では、安藤織馬が自筆した長沼流証状の写しや、藩校誠之館の閉校時に譲り受けた8代藩主阿部正教の書など10点を紹介。「幕末の動乱と瀬戸内海」をテーマに今秋開く企画展では、安藤家の家紋が入った武具などの展示を予定している。

【写真説明】安藤織馬ゆかりの品の魅力を紹介する西村直城主任学芸員


山口
松陰を育てた家族愛 生誕180年企画展、至誠館で開幕
 この家族愛が松陰を育てた――。萩市出身の幕末の思想家、吉田松陰(1830~59)の生誕180年を記念した企画展「吉田松陰が生まれた杉家とその家族」の一般公開が17日、同市椿東の松陰神社宝物殿「至誠館」で始まった。来年1月16日まで。

 松陰は萩藩士、杉百合之助の次男(兄弟は3男4女)として生まれた。杉家の家禄(かろく)はわずか26石で、半士半農の貧しい生活だったが、勤労好学の父と仁愛勤倹の母による誠実一筋の家族だった。松陰は父や叔父の玉木文之進から、儒学や兵学の基礎を学ぶ一方、貴重な人間形成期の18年間を杉家の家族愛に支えられて暮らした。特によき理解者で支援者でもあった兄の民治(みんじ)(梅太郎)の存在は大きかったという。

 企画展では、松陰を育んだ家族などを紹介。母の滝を描いた唯一の肖像画(初公開)や、松陰に最も似ていたとされる弟の敏三郎の写真、松陰が着用していた裃(かみしも)、松陰が江戸送りになる際、妹らに「心得にもなることを授けて」と頼まれて書いた和歌、「こころあれや 人の母たる ひとたちよ かからん事は 武士の習(ならい)ぞ」などが展示されている。

 入館料は一般500円、中学・高校生250円、小学生100円。問い合わせは至誠館(0838・24・1027)。


高知
高知 田中光顕の肉声を公開
 幕末に土佐勤王党に参加し、維新政府の重鎮となった田中光顕の肉声が、出身地の高知県佐川町で公開されています。親交があった高杉晋作について語った部分などもあり、人気を集めそうです。
 田中光顕は、1843年に高知県佐川町で生まれ、武市半平太が率いた土佐勤王党に参加し、明治維新後は政府の要職を務めました。佐川町立青山文庫には、90歳のころのものとみられる田中の肉声を録音したテープが残され、23日からデジタル化したうえで公開が始まりました。田中はこの中で、親交があった長州藩の高杉晋作から「決して困ったということを言うものではない。また、困ることがないように考えなくちゃならぬ」と教えられたというエピソードを語っています。また、「どんなことでも、困ったということを言わんことにしておりまする」と話し、激動の幕末をともに過ごした晋作の教えを大切に守ったことを明らかにしています。青山文庫では「維新の志士の最後の生き残りと言われた田中の肉声をぜひ聞いてほしい」と話しています。


「お釣りは龍馬」 きょうにも完売
 幕末の志士・坂本龍馬をデザインした地方自治法施行60周年の500円記念硬貨(高知県版)が23日、県内の観光、文化施設7か所で釣り銭として使われ始めた。計1万枚余り用意したが、3か所ではまもなく〈完売〉。24日にはほとんどでなくなりそう。財務省によると、発行直後の記念硬貨を釣り銭として使用するのは初めてという。

 21日に全国で196万枚発行されたが、龍馬ブームで人気を集め、金融機関ではすでに在庫切れ。財務省には「どの金融機関に行っても残っていない」と問い合わせが殺到しているという。

 県立坂本龍馬記念館(高知市)では、開館前から約20人が列を作り、次々に千円札を出して入館券と硬貨を受け取った。夫婦で旅行中の広島県尾道市の主婦大前紀代美さん(43)は「昨日、高知市内の銀行を探し回ったけど残っていなかった。やっと龍馬さんに会えた」と大喜び。

 高知市の土佐・龍馬であい博メーン会場、県立美術館では昼頃にはなくなり、夕方になくなった県立文学館では「久しぶりに行列ができた」という。

 31日からは県立歴史民俗資料館(南国市)で1600枚、8月21日開所予定の東京・銀座の県アンテナショップでは1万枚を用意する。



コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】(71)東大教授・山内昌之 津田出
権力から離れる勇気

 自民党から分かれた新党の党首たちは錚々(そうそう)たる顔ぶれである。「たちあがれ日本」「新党改革」「みんなの党」の代表たちは、いずれも自民党の総裁になってもおかしくない人材であった。しかし、「みんなの党」を除いて参院選の結果は芳しくなく、小泉純一郎元内閣の郵政解散で自民党から離れた「国民新党」の亀井静香氏の存在感もやや弱くなった。
 新党をつくっても政治は一人でやるものではない。幕末維新でも藩のリーダーが1人だけ優れていても、それを輔翼(ほよく)する人材がいないと天下をとることはできなかった。そうした一例は、紀州藩と津田出との関係に見いだすことができる。
 ◆新政府のモデル構築
 蘭学を修めた津田出は、幕末と明治初期に2度ほど藩政改革にあたり、家禄の大削減や無役藩士の農工商への従事を許した。津田の業績は、明治2(1869)年に和歌山藩大参事として、他藩が驚く「交代兵取立之制」なる志願兵に似た制度を採用した点から始まる。
 また、その直後に、プロイセン王国から下士官カール・ケッペンを招聘(しょうへい)し、ドイツ式軍制改革を遂行した大胆さにも驚く。さらに翌年には、交代兵要領を廃して、「兵制改革兵賦」の編成を目指し「兵賦略則」を布告したが、これは四民平等の国民皆兵による徴兵制にほかならない。
この藩政改革こそ近代国家をめざす明治新政府のモデルとなり、明治4(1871)年に実施された廃藩置県の先例となり、明治6(1873)年の新政府の徴兵令の先駆ともいうべきものだった。
 津田は、藩独自の徴兵検査を実行し、矢継ぎ早に徴兵制や郡県制度を整備したことになる。
 ◆出身藩の人材難で孤立
 参議の西郷隆盛に評価された津田は、廃藩置県後に中央政府の大蔵少輔に抜擢(ばってき)された。しかし、これほどの才幹だったにもかかわらず、津田の不幸は藩徴兵軍の都督職を譲った陸奥宗光(むつむねみつ)以外にこれといった偉才を欠いた紀州藩の人材難にあった。
 新政府が津田を中央に呼んだのも、彼ほどの麒麟(きりん)が地方にくすぶることを惜しむと同時に、奔馬(ほんば)になって威令(威光と命令)が行われないことを恐れたからだ。しかも、陸奥が西南戦争や土佐立志社の陰謀事件に連座して失脚したせいもあり、津田は頼るべき同輩や朋友をもたずに薩長政権の内部で孤立してしまった。
 大蔵省や会計監督局といった財政官庁から天才ぶりを発揮できる陸軍に移り、少将となった。しかし、陸軍省第一局長や第五局長などのデスクワークを務めただけで、鎮台や師団の司令官に任じられることはなかった。明治軍事史で本格的な兵制改革や徴兵制度を実現し近代陸軍の基礎をつくった人物にしては、失意のキャリアを重ねたのである。
◆偉才に似合わぬ閑職
 元老院議官などは、偉才津田には似合わぬ閑職にすぎなかった。鎮台兵や近衛兵の近代的な装備や編制を整えるために紀州藩兵を提供し、西郷隆盛や山県有朋に匹敵する業績を挙げたのに、才能を開花させる重要官職に恵まれなかったのは不幸であった。
 予備役に入る前から、千葉や茨城にまたがる地帯でアメリカ式大農法を試み、国内で最初の乳牛ホルスタイン種を導入したのも、政界や官界では志を得られないことを知ったからだ。偉材を腐らせる罪というものもある。藩閥外の有能な人間を国政に引き立てた西郷はやはり偉いのだ。
 さて、参院選で新党のリーダーの面々は、政治を動かす十分な数を得られなかったいま、同じ紀州藩でも陸奥宗光の道と、津田出の道のいずれを選ぶのであろうか。臥薪嘗胆(がしんしょうたん)、藩閥政権の内懐に入って権力への道を歩むのか、政治経綸(けいりん)への自信と自己への矜持(きょうじ)にかけて孤高の道に留まるのか。むずかしい選択を迫られている。(やまうち まさゆき)

 
 本連載をまとめた「幕末維新に学ぶ現在」(中央公論新社)が発売中。

【プロフィル】津田出
 つだ・いずる 天保3(1832)年、紀州(和歌山県)生まれ。江戸で蘭学を学ぶ。藩の御用掛取次・国政改革制度取調総裁に任命され、藩政改革に着手するが、保守派の抵抗にあい蟄居(ちっきょ)を命じられる。維新後再登用され、和歌山藩大参事となる。俸禄を削減し、徴兵制を施行。プロシア式軍事教練を導入し、近代的な軍隊を整備した。新政府に採用され、陸軍少将、元老院議官などを歴任し、貴族院議員に勅選。晩年は千葉県などで開墾事業に従事した。明治38(1905)年、74歳で死去。





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